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Elämäプロジェクト

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こんにちは!いけかよです。

先日、いけかよは44歳になりました。

めちゃめちゃ若くもないけど、でもまだまだこれから、な年齢と言えるでしょうか。

「四十にして惑わず」なはずの歳から4年も経ちましたが、いまだに惑いまくりな年齢ともいえます。

そんな折、同い年の友達から「人って44歳と60歳でいっきに老けるらしいで」という情報が。

またまたそんな、適当な噂信じたらあかんでぇ、と思っていたら、お世話になっているパーソナルトレーナーさんからも同じ話を聞き、調べてみるとなんとスタンフォード大学などでの研究で明らかになったことらしいのです。

てか研究対象108人て。なんで煩悩の数やねん。

とツッコミつつ、そんな研究を「そうかも」と思わずにいられないいけかよの昨今の出来事を振り返りたいと思います。

元気キャラが売りだったのに

実は、9月の下旬、44歳の誕生日を迎えたその次の日に(!)、いきなり体中が痛みだして寒気が止まらないという症状が発生し、そこから5日ほど発熱して寝込むという事態になってしまったのでした。

スタンフォードの研究恐るべし。

っていうか、研究に実直すぎる?あたしの体恐るべし。

大人になってから数日間にわたり、しかもまあまあな高熱を出して寝込むのは初めてでした。2024年始まってからずっと走り続けてきていたので、その疲れがいっきにきた、という感覚でした。

ほんとうにしんどかった。毎日晩酌をしているいけかよですが、さすがにこのときは普通に断酒状態で(当たり前か(笑))、食べることすら辛かった。何を食べても美味しくないのです。

「ああ、人ってこうやって死んでいくんやなぁ」と、判断能力の落ちた頭でぼんやり考えていました。食べるというのは、エネルギーを取り入れるという、生きていく上でもっとも基本的な行為です。食べるという行為じたいにもエネルギーが必要。「食べたい」はイコール「生きたい」です。それが「いらない」となるということは、「死にたい」と同じとも言える。

やっぱり病気や体調不良でそれまで当たり前にできていたことができなくなると、いろんなことを考えますね。いけかのように発熱レベルの些細なものでも、やはり「自分ってなんなんだろう」とか「なんでこんなことになったんだろう」とか「これにはどんな意味があるんだろう」とか、考えました。まあ、ポジティブなことはあまり考えられませんでしたけども。

もしくはよくわからない妄想とか。寝すぎて眠気はないものの、つらいのでただ横になってることしかできないから、やたらと脳ミソが暴走する感じです。

それから熱は下がったものの、体へのダメージはそこそこにあったようで、10日ほどは微熱が続き、さらに1ヶ月ほども微妙なしんどさや不調がずっとつきまといました。

ゆえに、お仕事もちょっと在宅を増やしたり、出かける用事はなるべく減らしたりと、省エネモードの日々が続きました。

そうすると、結局は熱を出して寝込んでいるときの延長。つまり、ずっと自分の身体に向き合うということをし続けることになったのです。

今日はあたし食べれるかな? 今日は元気かな?と。

「老い」を受け入れる

奇しくも、発熱する少し前から、身体には小さな不調が出ていました。自分にとってはよくある「いつものやつ」です。

なので、かかりつけの漢方医さんに薬を処方してもらったり、自分なりに休んだり食べたり。

でも、もともと若干健康オタク気味なわたしは、ネットでいろんな心身の健康についての情報を拾ったり本を読んだり講座を受けたりしていました。

実は、その動きが加速していたのは夏頃からでした。

「44歳の壁」を身体は察していたのでしょうか。

そこでピンとくるものに出会い、学び始めたのがアーユルヴェーダでした。

学ぶことは、ざっくりいえば心身の健康に関する知識と、毎日できるセルフケアです。

学びはじめた直後に発熱して倒れたので、わりといろいろな役立つ知識を実践できて、そういう意味でもなんちゅうタイミング、というかんじ。

学びはじめて理解したのは、当たり前ですが20代、30代のときと身体は違うということ。だから、食べ方も眠り方も不調の治し方も、20代30代の頃とは変えなきゃいけないんですよね。

自分には自分の歴史=データしかないから、ついつい「いつもこれでいける」のパターンを信じちゃうんですが、でも自分の身体は(きっと心も)「いつも」じゃない。どんどん変わっていく。

だから「いつものやつ」が効かなくなってくるんですよね。

それを「老い」だと受け入れるのは、少し勇気がいりました。なんか、やっぱり負けたような、いろんなものを諦めなきゃいけないような、侘しい気持ちになるからです。

でも、自分の身体を変えていけるということも、同時に学んでいます。

30代までは、自分が元気で健康なのは当たり前でした。

でも、それが少しずつそうじゃなくなる。でも、自分で治していくことができる。

44歳だからこそ味わえる、元気であることの喜びは、尊いものだとも思います。

自分を治すために自分を知る

そもそも、いろんな身体の不調は自分で治すべきものなんですよね。お医者さんが治してくれるものではない。

もちろん、お医者さんやセラピストさんなどの専門家も頼るし、手術やお薬や整体やサプリメントなどの助けも借りますが、自分の身体を治すのは自分。

いけかよは腰痛持ちでもともとめっちゃ太っていたのですが、いまでは腰痛は気にならないものになり、体重もそれなりに痩せられてからは「まいっか」と思えるレベルになりました。

それらは、スペシャリストたちの力を借りつつも、結局は自分の意思で自分の身体は変えるのだということを何度も体感しました。だからこそ、自分と自分の身体にしっかり向き合って、いま自分の身体がどういう状態なのかをわかるっていうのはすごく大事って、わかるんです。

でも、これが難しい!

日々、忙しく過ごしている多くの人が、自分の身体の状態には無自覚だと思います。いけかよはそうでした。漢方医に脈診をされるたびいつも「がんばりすぎ」と言われます。でも、それがデフォルトなんです。「“すぎ”じゃない頑張りってなに?」って感じです。

そういうときに、通常運転がままならないような不調に襲われると、やっと自分の身体と向き合うことになります。そして学ぶのです、「ああ、ここまでくるとだめだったのか」と。

これは気持ちの部分でも同じです。

自分のちょっとした気持ちの浮き沈みにもっと敏感になったほうがいいんですよね。

そんなことにいちいち気を留めていたら日々は立ち行かないと思われるかもしれません。

でも、「自分はこういう状況だと元気になる」「こういう状況だと凹む」「これが好き」「これは嫌い」という自分なりのものさしには、やっぱり敏感でいたほうがよさそうです。

それが、食べ物とはまたちがう日々のエネルギーを左右するからです。

生きるうえで必要なエネルギーは、カロリーだけじゃないですよね。楽しい気持ちややる気やモチベーション、悔しさや苛立ちだってエネルギーです。

それは「生きる希望」とも言い換えられます。

身体の不調を、筋トレや食事で治せるように、心の不調も自分で治すことができるはずです。自分のことをきちんと知っていれば。

そして、これらの「気持ちの処方箋」も、年齢を経れば変わっていく気がする。

若い頃にあんなに情熱を燃やしたことに、いまはもうときめかなくなっている、ってこと、きっとみなさんあるはずです。それって切なくもあるけれど、人間という生き物として当然のこととも言えます。若い頃はコーラとポテチで日々乗り切れていたけど、40過ぎたらご飯とお味噌汁じゃないと身体はいろいろおかしくなる、というような。

そういうことを、わかりやすく突きつけてくるのが、もしかしたら「44歳と60歳の壁」なのかも?と思ったりしたのです。

それは自分のために生きろというサイン

いけかよは、基本的には人間という存在は全員が全員、毎瞬をめちゃめちゃがんばって精一杯生きていると思っています。

「そんなことない、自分はグダグダしている。ぜんぜんがんばってない」と思っている人も、いまある心身のエネルギーを精一杯つかって在ることができる在り方が「グダグダ」というだけで、基本的には人間は「精一杯」がデフォルトのような気がするんです。

パワー全開で張り切るときはもちろん、休むときも、グダるときも、悲しむときも、怒るときも、人の心身のエネルギーは、ONかOFFしかなくって、エネルギータンクにどれだけガソリンがあるか、っていうだけのような気がするのです。コンロの火を調整するレバーのような機能は、ない気がします。

老いというのは、心身ふくめて、このエネルギータンクが小さくなっていくことのような気がします。でも、それは身体からも心からも両面からのアプローチが可能で、かつ、自分でケアすることで大きく保つ、なんなら歳をとっても大きくすることができる、ということですね。

そのためには、前述のように「自分の身体に向き合うこと」「自分の心に向き合うこと」が必要です。適切なケアを自分にしてあげるために、です。

それを、「いきなり老いる」みたいなショッキングな出来事で知らせてくるのが「44歳と60歳の壁」で、それはつまり「自分のために生きろ」というサインなんじゃないかと、いけかよは思うのです。

若い頃って、体力があるし失敗も許されるから、いろんなことに無駄にエネルギーを使うことができます。それはすなわち人間的成長のために必要な学びを得ているときとも言えるけど、一方で自分に自信がないがゆえに、自分をすり減らすような生き方をすることもままある気がします。

やたらと自己犠牲的に仕事をがんばったり、学校や職場で「いい人」になってしまったり、パートナーに尽くしすぎたり。

そうすることでしか他者に貢献するやりかたを知らない、とも言えるかもしれません。

でも、いよいよエネルギータンクが収縮してくる=歳をとってくると、エネルギーの余裕があまりありません。だからこそ、エネルギーを過剰にすり減らさないように、わたしたちは「自分のために生きる」をする必要があります。

気持ちや体力に余裕がなくなってくると、否応にも自分のことにかかりきりになりますね。これって、言い換えれば「自分のために生きる」です。

「44歳と60歳の壁」は、いきなり「自分のために生きる」への強制スイッチを押させるようなものなんじゃないかと思うんです。

そして、その壁を感じたら、最初は焦ってもだんだんとニュートラルに老いを受け入れ、適切なケアをし、回復できるのだということを知る。

自分処方箋も更新していくことを知る。

そして、日々すこやかに過ごせることを愛おしむ余裕もでてくるかもしれません。

ひいては結果的にそれが他者への愛や貢献にもなる、ということを知るのです。

そう考えれば、「44歳と60歳の壁」は悪いものじゃないかもしれませんね。

生きる目的とかも見えてくる

奇しくも、この記事がアップされる2024年11月20日は、冥王星が水瓶座に移動します。

占星術に興味がない人にはごめんなさい、なんのこっちゃでしょうか。いけかよは、占星術が好きなので、つい「あっ!」と思ってしまったのですが、ざっくりいうと、社会の流れを司る星である冥王星は、約20年ごとしか動かないんですが、それが動くタイミングがきたよ、つまり、時代が新たなフェーズに入るよ、ということです。

少し前から「風の時代」と言われてますが、それが本格的になるガチの後押し、っていうかんじです。

(興味がある人は「冥王星 水瓶座」とかで検索してみてください)

そんな、星の世界からのメッセージともリンクしているかもしれないな、と思うのが「自分のために生きる」ということ。

もう年齢的にオバサンやから、とかじゃなく、ほんらい、人間は自分のために生きるのがデフォルトであると思うんですが、だれかのために生きることに喜びや拠り所を見ている人もいると思うし、それって悪いことじゃありません。

でも、結局は自分のために生きる、が、たぶん、きっと正解なのです。

ひとりひとりが果たすべきなにかを持って生まれてきているはずだし、そのためにこの身体と心はつかわれるべきなんです。

そう考えると、「自分がなんのために生まれてきたのかわからない」「やりたいことがわからない」という人は、まず「自分のために生きる」をしてみたらいいんじゃないかと思うんです。まずは、心と身体を元気にすることに集中する。

そしたらなんか、自分の生きる目的とかって、おのずと見えてくる気がしませんか?

そしてなにより「自分のために生きる」は、命を大切にするということにほかなりませんよね。

命輝く人は、老若男女問わず人を魅了します。

まさに「Elämä(エラマ)=命、人生」だから。

そんな命輝く人をめざして、44歳の壁に直面したいけかよはいま「自分のために生きる」をやってみています。

そしたら、50歳くらいにはめちゃめちゃええ感じになってるかもしれへんよね。

そんな期待を胸に、新たな時代が始まる今日から、あなたも「自分のために生きる」をしてみませんか?

では、また!

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)

こんにちは!いけかよです。

毎月開催されているエラマプロジェクトの名物企画「哲学バー」。毎回、1つのテーマを掲げ、参加しているみなさんで自由に好き勝手におしゃべりしあうイベントです。

先日のテーマは「『品』とはなにか」でした。
「品」は、「上品」「下品」「品がある」「品がない」などに使われる「品」です。
この「品」というもの、哲学してみると実に歯ごたえのあるものでした…!
ということで、この哲学バー2号店にて、延長戦ということでひとり哲学バーしてみたいと思いますっ!

生きるために「品」は必要か?

この日は当然ながら「品」という文字が使われる言葉がたくさん列挙されました。
・品がある/ない
・上品/下品
・品格
・品質
・品性
・品行方正 などなど。

でも、どれもこれも、なんだかよく考えると微妙に違うニュアンスな気がするんですよね。
「品がある」と「上品」は、まったくおなじ意味ではない気がしませんか?

そもそも「品がある」ってどういうこと?という点については、もちろん哲学バーでは議論されました。
「品がある」は、言い換えれば「清潔」「ていねい」「姿勢がいい」「言葉遣いがきれい」などなど。なんしか、めっちゃクリーンなイメージですね。ここはみなさんなんとなく同意いただけるのではないかと思います。

そして、その逆の「品がない」も、そのまま同じくひっくり返して「不潔」「雑」「言葉が汚い」とかが連想されますね。

ここで考えたいのは、生きるために「品」は必要か?ということ。

参加者の方からは「品性や品があるのはすばらしいこと。でも、人間のほんとうの生きる力や欲望は、その対極にある『品のない』ところからくるのではないか?」という言葉がとびだしました。

たしかに、生きる力にあふれたエネルギッシュさと、清廉潔白な上品さは共存しないようにも思えます。生きる力=むき出しの欲望や渇望と考えたときに、たとえば戦争とか、生きるか死ぬかのような極端な状況において、上品さを保っていては生き抜くことはできないかもしれませんよね。

「品」とは「品定め」の「品」

また、この「品」ですが、自ら持とうと思って持てるものではない類のように思います。

「今日から品よく生きるぞ」と決めたとて、それってどんな生き方?と思いますよね。
そもそも「品良くなりたい」と思っていることじたい、あんまり品が良いとはいえない感じがするという、恐ろしき矛盾をはらんでいたりします。

そして、自ら「私は強い」という人にさほどの違和感はなかったとしても「私は品が良い」という人に対しては若干の驚きを持ちつつ「…ふ、ふーん…」と引いてしまう感じになりませんか?
そもそも、本当に品のいい人は「私は品が良い」なんて言わないよねという矛盾がここにも発生します。

そう、つまり「品」とは、自分では決められないことなんじゃないかと思うのです。
「今日から私は強くなる」と決めることと「今日から私は品よくなる」と決めることはなにがどう違うのか?この違和感はどこからくるのかというと、そのひとつに「品」とは「自分で決めることができない」という特性があるんじゃないかと思ったのです。

つまりその人に品があるかないかというのはあくまで他人が決めることだということです。
自分がどんなに品位を保っていると思っていても、他人がそう思っていなければその人に品位はないも同然なのです。
(ただ、その人が「自分は品位があるのだ」と思うのはもちろん自由です。そしてそう思うことによって、ほんとうにそうなる可能性だって十分にあるでしょう)

なぜそう思うのか?

この「品」というものは、人が人をコントロールするために人間が勝手に作ったルールに過ぎないのではないか?と思うからです。

そして「品」とは「常識」とか「道徳」とか「マナー」とか「世間」とか、そういった類と同じものだと思うのです。
これらはつまり「枠」です。この「枠」に納まっていれば、非常に扱いが楽な人ができあがるような気がしませんか?
常識的でモラリストで他人に迷惑をかけない人のことを「品行方正」というのです。

少し極端かもしれませんが、いけかよの思う「品」は「品定め」の「品」です。

この人に品があるかないか。きちんと枠に収まっているかどうか。違和感がないかどうか。
そうやってジャッジする=品定めをして、人はだれかを「品がある」「品がない」と判断するんじゃないでしょうか。

でもそこに、ジャッジされた人のキャラクターや価値観や人生観はなにも加味されません。
「品がある/ない」ことと、その人に魅力があるかどうかは関係ない。
「品がある/ない」ことと、その人に才能があるかどうかは関係ない。
「品がある/ない」ことと、その人が人生を楽しんでいるかどうかは関係ない。

そう。つまり「品がある/ない」ことは、実は生きることにはめちゃめちゃどうでもいいことだったのでした。

あの大女優がいちご大福を5個一気食いしたら

しかし、そのような「人間的魅力」と「上品さ」を兼ね備えた人も存在はするだろうと思うのです。それはきっと、それらを併せ持つことが「義務」のような人たち、皇室や貴族や王族とかでしょうか。

じゃあ、そういう人たちに果たしてあなたはなりたいと思うでしょうか?
「なりたい」と思う人はきっとそんなにいないでしょう。なぜか?そういった血筋であるがゆえの責任の重さもさることながら、さぞ息苦しかろうというのは想像に難くないからですよね。絶対にまちがってはいけないプレッシャーのなかで生きるというか。

いや、そんな極端な人たちを例に挙げるなとお思いでしょうか。

じゃあ、哲学バーにも話題にあがった「品のある人」代表例は、女優の吉永小百合さんでした。彼女こそ、「上品」「気品」を絵に描いたような感じがします。ある意味「完全無欠」な存在とも言えるでしょうか。

でも、それってやっぱり「女優」、多くの人からの「吉永小百合はこういう人であってほしい」というある意味の「偶像」の枠にきっちり収まっているからですよね。

そしてそれは事務所の戦略によって、ご本人の意思や個性は抑え込まれているということももしかするとあるのかもしれませんが、女優ってそういう仕事であるということを考えると、皇室や王族に通じるものもありそうです。

でも、ですよ。
たとえば吉永小百合がめちゃくちゃお腹すいてて、控室に差し入れで置かれていたいちご大福を5個くらい一気食いして、口の周りを片栗粉で白くしながら「あんまりおいしかったんで、つい…」なんてはずかしそうにつぶやいていたら、と考えてみてください。

上品か下品かでいうと、下品ですよね?

でも「めちゃめちゃカワイイ〜〜〜〜〜!!!! 好き!!!!」
ってなりませんか?

いや、吉永小百合はそんなことしない!というのはこの際ナシでお願いします。想像してください。
そのうえで、「そんな小百合は嫌だ!」という方もおられましょう。
でも、いけかよは「めちゃめちゃカワイイ〜〜〜〜〜!!!! 好き!!!!」ってなりました。

嫌だ!と思われた方は、きっとその姿に「食欲」という人間としての本能を、しかもむき出しのそれを見たからですよね。そう、「品」と「本能」はきっと相容れないのです。
神格化した偶像的存在である「吉永小百合」が、実は自分たちとおなじ欲を持った人間だったと思い知ることは、ファンからすると裏切られたような気持ちにもなるのでしょう(頭ではわかりつつもね)。

しかし、そうでなくニュートラルに吉永小百合を見てるいけかよとしては、「いちご大福5個一気食い」という人間の本能=生きる力を感じたとき、その人にパワーや魅力を感じることもあると思うのです。

ていうか、いけかよはそういう人が好きです。

わたしたちは人間であり、人間である以上は「下品」とされることを避けて生きることはできません。
人間には食欲、性欲、睡眠欲以外にも承認欲、支配欲などさまざまな欲があり、それらの「欲」に忠実になること。「欲」を満たすこと。「欲」をあらわにすること、これらはきっと「下品」になるはずです。

でも、行き過ぎた欲は身を滅ぼしますが、そうでない場合、欲は日々のガソリンです。
そう考えると、「品」なんて、死んだ人にしか与えられないものなんじゃないかとも思うのです。

なにを自分のものさしにするか

いけかよは、上品に生きるよりも欲望むき出しで人生を楽しみたいと思いました。

どんな生き方か?
貪欲さとか、情熱とか、魂の叫びとか、そういうもの。
ギラギラしてドロドロした、熱い感じのものをしっかり自分のなかでたぎらせて生きることです。

一方で、人間はとてもとても尊い部分も併せ持っています。
たとえば寄付をしたり、電車で席をゆずったり、大切な存在を抱きしめたり、助けてくれた人に恩返しをしたり、深い傷を負った人に寄り添ったり、無償の施しをしたり…。

わかりやすく表現するならば、前者が「悪魔」で後者は「天使」でしょうか。

人間という生き物は、悪魔的な部分だけでも、天使的な部分だけでも生きていくことはできないように思います。どちらも必要だし、すべての人がどちらも併せ持っている。
バランスは人それぞれだしバランスが崩れることもあると思うのだけど、でも、やはり両方が必要なのです。

そしてそこに「品」が挟まれる余地って、ない気がするのです。
「天使」の部分にすら、「品がある」云々って、しっくりこないと思いませんか?

人間が「充実した人生」「良い人生」を送ることと、「品がある」ことはまったく別次元で、いけかよからすると、前述のとおり「どうでもいいこと」。
ただあくまで、いけかよはその物差しを採用しないというだけで、「品がある人として生きたい」という人を否定するものではありませんよ、念の為。

でも、たとえば歴史に名を残した偉人たちを考えてみてください。

マザーテレサとか、ガンジーとか、オードリーヘップバーンとか、アインシュタインとか、松下幸之助とか、ジョン・レノンとか…。

あなたが「スゴイ」と思う人ならだれでも。
その人たちに「品」なんて言葉、チープすぎて似合わないんじゃないでしょうか。
もちろん、人によっては残された逸話が下品すぎっていうこともあるでしょうが(笑)、「品がある」「上品」「品格」などなど、どれもしっくりこないはず。そんなものさしなど、超越したからこそ偉大なものを残し、いまもなお多くの人の心を捉えているのだと思うのです。

そう、「品」とは、人を枠にはめるために考えられた概念だといけかよが思うのはそういうことです。
事実、時代と国が変われば「上品/下品」の概念も変わります。
そばをズーズー言わせて食べることが欧米人には下品に映るけど、日本人にとってはそれが当たり前ですもんね。

いけかよは、時代と国が変わればひっくり返る価値観は、採用しないことにしているんです。
それよりも、自分の人生のルールは自分で決めたい。
「品」とか「常識」とか「モラル」とかじゃなく、自分にとって正しいかどうか、しっくりくるかどうか、納得できるかどうかで、選択をしたいのです。
そして、そんないけかよをだれがどのようにジャッジするかも、どうぞ自由に決めてください、と思っています。
ネガでもポジでも、どうぞご自由に、です。

「品? 知らんがな!」

そんなかんじで、今日も欲望の赴くままに、飲んで喋って笑って、楽しむことに命を使いたいと思っているのです。

では、また!

【告知】哲学バーは毎月開催しているオンラインの対話イベントです

今回は「品とはなにか」というテーマでしたが、こんなふうにいろんなテーマでお酒や好きなドリンク、おつまみなど片手にゆる〜く哲学対話をするイベントを、エラマプロジェクトでは毎月開催しています。

哲学バーのルールは2つ、「①答えを出さない」「②まとめない」。参加した方々それぞれに、いろんな考えや気付きやモヤモヤをもちかえっていただけたらいいな〜と思っています。

次回の開催は9/9(月)20:00から。テーマは「『味のある人』ってどんな人?」です。

詳細・お申し込みは以下HPをご確認ください。

初めての方も大歓迎です。ぜひチェックしてみてくださいね!
https://elama.be/workshop-event/elamabar202409/

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)

こんにちは!いけかよです。

エラマプロジェクトでは、かねてより和文化とフィンランド文化の共通点をお伝えしています。
代表の石原侑美さんからのリアルなフィンランド情報と、和文化講師の橘茉里さんからの日本の知られざる魅力を融合させたコンテンツもたくさん。
「和でよみとくえらま」や「「わたし」らしく伝える和文化ガイド養成コース」などなど、さまざまな情報を発信しています。
これらを、わたしたちは「和フィン折衷」と表現したりしてるんです。

でも、これってフィンランドや日本のスペシャリストだからわかるっていうものではないんです。日本にいてもそこここに、そしてフィンランドにいてもあちらこちらに、それぞれの国の雰囲気を感じるものというのは、あるんです。

というわけで、今回はよむエラマライターズが見つけた「和フィン折衷なもの」をご紹介したいと思います!

いけかよの見つけた和フィン折衷:漫画の「背景」

いけかよは、2019年と2023年にエラマプロジェクトのフィンランドツアーに参加しました。
初めて訪れた2019年はもちろんすべてが新鮮だったのですが、なかでもとても印象的だったのは、フィンランドにはフィンランド語の「ドラゴンボール」があったということ…!

見つけたのはフィンランド中央図書館「Oodi」にて。
いけかよは、「尊敬する人は孫悟空」と常々思っているほどのドラゴンボール好き。この作品が世界中で愛されていることは当然知っていたものの、フィンランド語にまで翻訳されていたのは驚きでした…!

このように、日本のパワーコンテンツ「漫画」ですが、同じようにいけかよが大好きなのがフィンランドの「ムーミン」。
こちらも、世界中で愛されていますよね。
この、原作者であり、画家のトーベ・ヤンソンの描く世界に、いけかよは和フィン折衷を感じました。
それは「背景」なんです。

ムーミン公式サイトより(https://www.moomin.co.jp/news/blogs/63777

トーベ・ヤンソンの描く世界は、キャラクターたちの可愛らしさとは対象的に、とても緻密で幻想的で、少し怖いと感じることも。それは、細部までしっかり描き込まれたこの景色の絵=背景に絶対的な迫力があるから。

それは、日本の漫画にも相通ずるものがあるのです。

いまでこそデジタルで、写真を加工して背景も楽に作画できるようになったものの、背景専門の作画家さんもいるほど、日本の漫画の背景の描き込みってすさまじい!
ヤンソンもそうですが「これって本当に人間が手で描いてるの…?!」と思うようなものが、すっごく多いんです!

先に登場した鳥山明はじゃっかん白いほうだと思いますが、「AKIRA」の大友克洋、「ゲゲゲの鬼太郎」の水木しげるなどは、CGなどまだメジャーでなかった時代からその描き込まれまくったまっくろな原稿は、緻密な背景の最高峰じゃないでしょうか…!

「AKIRA」第1巻、アメリカ版総天然色バージョンから。背景もすごいけどマシンの描き込みもすごい…!

この画力こそが、フィンランドと日本それぞれが持つ、繊細かつ力強い感性が反映されたものの象徴だと思うのです。

マヤッカの見つけた和フィン折衷:「陶磁」と「おふくろの味」

こんにちは!majjaka(マヤッカ)です。
わたしが感じる「和フィン折衷」は「陶磁」です。
昔からフィンランドの食器には憧れを持っていて、いつか欲しいと思っていました。
約10年前に初めてフィンランドを訪れた際に、アラビア社で色々な種類の中から
「Teema」のパステルグリーンのマグとボウル、そしてムーミンのマグを買い、今でもこれらを使う度にフィンランドに思い馳せています(ムーミンのマグは数年前に落として割ってしまい、とても悲しかったです)。

アラビア社では歴史をたどる展示会もあって、興味深かったです。
でも、当時のわたしはただかわいくて素敵!としか思っていなかったので、展示されていた器などを眺めるだけでした。今ならもっとじっくり歴史を感じられたのに悔しいです…。

今まで日本人として生きてきましたが、日本の伝統についてあまり興味を持つことがありませんでした。
しかし、昨年フィンランドを再び訪れ、前回よりも深くフィンランドについて知ることができました。
フィンランドの人々の優しさ、あたたかさ、真面目さ、少しシャイなところを感じたときに、「あら?日本人と少し似ている?」と思うと同時に、セカンドハンドショップ(中古品のお店)で私が以前から興味のあったアラビアのお皿を購入したことを思い出したときに、日本にも伝統的な陶磁があったなぁ、日本も素晴らしい!と誇らしい気持ちになりました。
それは有田焼!

フィンランドの「ittala Arabia」1873年アラビア村
日本の「有田焼」1616年有田町
どちらもその土地で誕生しています。

どちらもその陶磁を大切に引き継ぎながらも、作家の方たちが新しい想いを吹き込んで進化させているそうです。

フィンランドやヨーロッパのアンティークに魅せられているわたしですが、日本の伝統的な骨董にも目を向けていきたいと思います。

もう一つわたしが感じた「和フィン折衷」は「おふくろの味」です!
昨年旅したフィンランドではサイマー湖のほとりにあるコテージに滞在しました。
そこのママが作ってくれるご飯がどれも美味しくて、1日動き回った後の夜ご飯にとてもほっこりさせていただきました。デザートも美味しくてついつい食べすぎてしまうくらい!
同じように、実家のご飯は美味しくて、日頃の疲れを癒してくれますよね。
この「おふくろの味」も、わたしにとってお母さんを思い出させてくれる「和フィン折衷」です。

Kangasの感じる和フィン折衷:「シャイで物静か」そして「人との距離感」

こんにちは!Kangasこと、ライフコーチの和田直子です。
いけかよさんやマヤッカさんと同じく、私も昨年のエラマプロジェクトのフィンランドツアーに参加した一人です。
それまでに受講していたエラマの講座で、「実はフィンランド人と日本人の気質が似ている」ということを聞いていました。
例えば、真面目で勤勉、シャイで物静か、謙虚、礼儀正しい、時間を守るなど…。
そんな知識を得ても、「シャイで物静かに関しては、日本人ほどではないでしょ~!」と何となく思っていましたが、「いや!フィンランド人もシャイで物静かだった!」と感じたエピソードをご紹介します。

写真はE君と出会ったタンペレの街。
フィンランドツアーから約7ヶ月後の今年の春。実はツアー中にタンペレの街で出会った高校生のE君が、彼のお母さんのMさんと旅行で来日し、名古屋のわが家にも遊びに来てくれることになりました。

名古屋駅の新幹線口まで迎えに行き、E君とはハグで再会を喜び合い、そのままのテンションで私は初対面のMさんに“Nice to meet you!”と満面の笑みでご挨拶。

だけど彼女は微笑みながら挨拶を返してくれるものの、どこか一歩引いている感じ。あ、そっか…。「シャイで物静か」なのかな。ハグの勢いを落ち着かせ片手を差し出してみると、Mさんも握手をしてくれました。普段私は初対面の人にハイテンションな挨拶をしないくせにと、自分の振る舞いに少し恥ずかしくなりました。

そのままお昼ご飯を食べに行った後、わが家へご招待。E君は私の息子と歳が近く、二人はすぐに意気投合。私はMさんとコーヒーを飲みながら過ごすことに。
英語がそんなに得意ではない者どうし、それなりに会話は続くのですが、どこかお互い話題を探り、様子を見合って、時間をかけて打ち解けていくという感じ。沈黙になると、一生懸命会話の糸口を探す。初対面では自然なことかもしれませんが、この感覚が日本人同士の様子にとても似ている気がして、会話を続けるのに必死だけれども、妙に親近感をMさんに抱きました。

夕食は夫が得意料理の広島風お好み焼きを振る舞い、その後名古屋駅の新幹線口まで見送りに。E君とハグでしっかり別れを惜しんだあと、お母さんのMさんを見ました。その日の朝の出迎え時を思い出し、挨拶の仕方に気をつけなくちゃと思いながら。すると、彼女の方から「ハグをしてもいい?」と聞いてくれたのです。「もちろん!」と言って母親同士もハグでお別れができたわけです。

彼らが改札を通り抜けて姿が見えなくなるまで見送りながら、私はその日のMさんとの時間に想いを馳せていました。シャイかどうかは分かりませんでしたが、物静かなMさん、そしてお互いに気を使いながら会話を探り心の距離を縮めていった私達。なんだか落ち着くなあ、似ているからかなあ。そんなことを感じながら。
もちろん、初対面から心がフルオープンのフィンランド人やハイテンションの日本人もいるでしょう。でもやっぱり、フィンランド人と日本人の気質は根っこの部分が似ているんだなあ、だから私はフィンランドの人に惹かれるのかなあと思った経験でした。

この初秋も、私はフィンランドツアーに参加します。今度はどんな出会いがあるのかな?もしかして、E君やMさんと再会できるかしら?そしたら次はどんな距離感になっているだろう。フィンランドの国や人を知るたびに日本人である自分自身にも目が向くことが、旅の醍醐味なのかもしれません。またそのご報告ができたらと思います!

あなたなりの「和フィン折衷」を表現してみませんか?

いかがでしたか?
日本とフィンランドの絶妙なつながりや共通点をみつけていただけたら、海の向こうはるか遠くの「幸福度ナンバーワン」の国も、なんだか身近に、そして日本を素敵に感じられたりしませんでしょうか?
こんなふうに、フィンランドに限らず自国と他国の違いや共通点を見つけていくのって、わくわくしますよね。

エラマプロジェクトでは、フィンランドの文化や価値観をベースにした情報発信をしていますが、フィンランドを礼賛したいわけではありません。同時に、日本スゴイ!とみなさんにアピールしたいわけではありません。
どんな国も文化もすばらしい。そのうえで、地球上のあらゆる人とのコミュニケーションを楽しくするツールとして、我が国日本の良さを理解し、それを自分の言葉で表現するための講座を展開しています。

「わたし」らしく伝える和文化ガイド養成講座コース
https://elama.be/workshop-event/waguidecourse202409/

日本の素晴らしさはもちろん、あなたご自身の表現に向き合ってみたい方にはおすすめです。
きっとそれが、世界中の人々とつながる鍵になるかもしれません。

Edit by いけかよ

こんにちは、いけかよです。

去る2024年3月20日、3泊4日のスペシャルなツアーが、岐阜県飛騨高山で開催されました。

これまで、フィンランドで2回ツアーを実施してきたエラマプロジェクト。今回は、飛騨高山に生活拠点をおく代表の石原侑美が、自ら暮らし、さまざまなものを見て聴いて感じているその地域を舞台にしたスペシャルなプログラムを作り上げました。

その名も「地域(ローカル)でウェルビーイングに暮らす体験ツアー in 岐阜・飛騨高山」

さまざまな体験を通じて「学び」をお届けしているエラマプロジェクトですが、今回のツアーはエラマプロジェクト7年の歴史のなかでもひとつのマイルストーンともいうべき特別なものとなりました。

もちろん、すべての経験がスペシャルで唯一無二ですが、どうやら代表の侑美さん的には今回の経験をしっかりじっくり記録として残しておきたいという強い衝動があったようなのです。

ということで、本メディア「よむエラマ」の編集長のわたし、いけかよと侑美さんとの対話を、臨場感そのままにお届けしたいと思います。

人生の分岐点に立つ人が集まった

いけかよ

今回のツアーのきっかけは?

ゆみ

高山市の地域課題解決プランのコンテストがあるからそれに応募してみませんかっていわれて、提案したのがこのツアーでした。内容は言ってしまえば「移住体験ツアー」なんですが、地方創生は移住だけじゃなくて、いかに関係人口を増やすかが大事だから、それを組み込んだツアーということで、高山市から奨励賞をいただいたので実施に至ったという感じ。

でも、もっと個人的なところで言うと、私がフィンランドに行って自然の素晴らしさを知った、そして高山にも移住して4年経った。そこで体験してきたことを、ごく一部ではあるけど4日間にぎゅっと凝縮して体感してもらうことで、私の地元愛を呼び起こすことにもなるだろうし、参加者さんが「自分もこういうことをやりたい!」って思ってもらえるようなツアーにできたらという思いもあったんです。

いけかよ

なるほど。実際やってみての手応えはどんな感じでした?

ゆみ

やっぱりやる直前まで「これでいいんだろうか」とか「人集まるかな」とか「ツアーが目新しすぎてみんなイメージ湧かないかな?」とかいろんな不安がありました。でも「ウェルビーイング」という言葉はいま注目されてるからいけるんじゃないかという一縷の望みも持ちながら、できる限りのことをやって。

そして、参加者は女性6名。20代から50代まで幅広くて、東京、三重、大阪、富山、愛媛、あとは岐阜からと、いろんな地域から来てくれたんです。

結果、やってみて、フィンランドまで行かなくても国内で、飛騨高山でこれだけの素晴らしいものができるんだっていう確信を得られました。それは直前まで不安だったから自分なりにベストを尽くしたからこそ。

そして参加者さんから返ってきた反応がほんとうにみんな喜びに満ち溢れていて…!ツアーの最後にはやっぱり半分以上の人が自分のために浄化の涙を流すんですよね。

それは自分の人生に向き合えているということと、やっぱり人との出会いがあったから。飛騨高山で活躍するいろんなキーパーソンに出会ってもらったんですが、その人たちも性別も年代もバックグラウンドもさまざまで、その出会いのなかで参加者さんたちはどんどん自分の内側に目を向けていったんです。

こういう「内省」ができるプログラムを、国内でもできるんだっていう強い確信を得られました。

いけかよ

そうなんですね…!じゃあ、今回のツアーの目的としては「飛騨高山に移住します!」って言ってもらうこと?

ゆみ

を、やめたんです。そういうプレッシャーのもとでやるのは違うなと思った。だから目的は「地方で豊かに暮らすことを考える」とか、「地方都市においてウェルビーングな社会作りを考える」とか、移住までとはいかないけど地方を拠点に活動したいと思ってもらえるようなものにしたんです。

いけかよ

じゃあ本当に関係人口っていうのがキーになるんですね。

ゆみ

そう。高山市さんも「関係人口を増やしたい」ってすごく言っていたし。

いけかよ

参加者さんたちはどんな思いで参加してくれてたんでしょう?

ゆみ

それがいろいろでめっちゃ面白くて!

ひとりはもちろん「ウェルビーイング」って言葉に反応されて、フィンランドの専門家からそれを学びたいっていう人。

もうひとりはフォルケホイスコーレ(19世紀にデンマークの農村を中心に発達した民衆の民衆による民衆のための成人教育機関。「人生のための学校」などと表現されることもあり、その価値やあり方が近年注目を集めている)的なプログラムを日本のいろんなところで参加している人。このプログラムはフォルケホイスコーレ的なものだと認識して来たそう。

他にも「以前飛騨高山に来た時にとてもいい場所だと思って、インスタを見てたらこのツアーを見つけたから、内容はよくわかりませんけれども申し込みました」っていう方もいたり(笑)。

いけかよ

いいですね。フットワーク軽い!

ゆみ

そうそう(笑)。そういういろんな観点のいろんな層の人が来たっていう感じでした。

でも共通項があるとしたら、やっぱり今が人生の分岐点だとご自身の中で思われてる方が来たような感じではあったかなと思います。

いけかよ

そこ、フィンランドツアーの参加者さんと似てますね。

ゆみ

そう!そこがすごく面白いなと思った。

スペシャルな「地産地消」

いけかよ

それで今回のハイライトは?

ゆみ

それ選ぶの難しいですよね…。

まず、初日に雪がすっごい降って、私たちが泊まった太陽の家なんて50cm積もったんです。飛騨の人からしても3月にこれだけ降るのは珍しいと。「大丈夫かな、予定変更しなきゃいけないかな」って思ったんだけどもうみんな喜んで!他県の人は雪なんか見ることないからみんな舞い上がっちゃって、喜びに満ちてたのは雪があったからっていうのはあると思うんです。

だからもういきなりハイライト(笑)。

雪が降るだけで荘厳な空気に。同じ日本とは思えない異国感

いけかよ

そうなんですね!もういきなり(笑)

ゆみ

そう!太陽の家は、やっぱりみんな最初入った瞬間「うわー!」ってなりましたもんね。

いけかよ

あそこは場の持つ力がすごいですよね。

ここが「飛騨にゅうかわ太陽の家」。なんともいえない不思議な空気に包まれている、エラマプロジェクト御用達の施設。

ゆみ

そう!だから今回プログラムを多くを太陽の家でやれたことも大きかった。自然や木の匂いにずっと触れ続けながらやれたから。とにかく外でみんな雪で遊びまくって、めっちゃ楽しそうっていうのも良かったんですよね。

あとは、ごはんにこだわったこと。

もう一つのこのツアーのテーマが「地産地消」だったから、地産地消のものを食べようと。

この、食がめっちゃみなさん喜んでいただいたところで。

いけかよ

食はすごく大事!!普通の旅でも食ってすごい重要度高いですもんね。その土地でしか食べられへんもんって絶対食べたいし。

ゆみ

ですよね。

プログラムの中で、ワークショップが大事なことはわかってるけど、でもやっぱり喜びを味わいたいわけですよ。ワークショップがあるから食の喜びがあるし、食の喜びがあるからワークショップの喜びもわかってくるっていうことで、こだわったんですよね。

地元ならではのジビエ料理がもてなされました。これは高山で捕れた鹿肉。愛媛からの参加者は「こんなおいしい鹿肉食べたことない!」と感動していたそう!

いけかよ

うんうん。しかも作り手からじっくり話が聞けるっていうのもいいですよね。

ゆみ

そう。それぞれでクリエイティブに飛騨の地産地消をやっている人たちにお願いしました。その人たちに、自分の人生の話をしてもらって、そのひとりがEarth to Tableの河野美紗ちゃん。

フリーランスシェフの河野美紗さん。オランダのアムステルダムで地元レストランと都市農園&食廃棄プロジェクトに5年ほど携わったのち、現在は飛騨地域で、「五感に響く食体験」と「地域コミュニティ」をテーマに、店舗をもたずに料理と食企画を行っている

ゆみ

なんで飛騨でEarth to Tableをやってるか、オランダで何を見てきたのか。それを踏まえて食と農のコミュニティを飛騨でどうやって実現してるかという話をしてくれた後に、その美紗ちゃんが作った料理を食べるという。

しかもそれがおいしいっていう単純な味覚だけじゃなくて、聴覚や視覚でも、そして美紗ちゃんが体験した飛騨のこともオランダでのことも疑似体験した上で食べてるような感じ。だからおいしいもの以上の咀嚼があって、お腹いっぱいになったっていう感じでしたね。

こちらが美紗さんによるスペシャルディナー!

ゆみ

そして、我が家、石原家にも来てもらって、お義父さんお義母さんもいっしょに宴会して。カブを採ってきてそれをオーブンで焼いてただ食べるとか。

いけかよ

めっちゃいい!!もうお腹すくー!

ゆみ

ははは!でしょ?お腹空くでしょ?そうなんですよ(笑)

石原家にて。素朴だけどすべてに心がこもっている、どんなミシュランよりも尊い食卓

こんなカブが石原家の畑では採れるんです

もちろん食以外のプログラムも。飛騨高山在住の花のプロ、alp_gardenさんによるお花のワークショップ

地元の野生の草花を使ってのフラワーオブジェづくり!これもひとつの地産地消

エラマプロジェクトオリジナルククサを使ってそれぞれ思い思いに作りました!きれい!

これが本当にやりたかったこと

ゆみ

参加者の1人は石原家の宴会のときにお義父さんと「私はずっと長女としてきょうだいとかお父さんお母さんの面倒を見て…」っていろいろ話されてて。そのときにお義父さんが「もうあなたの道に行ったらいいんだよ」って言うんです。それがね、彼女にとっては、他人からなんでもない温かい言葉を言われたからこそ、すごく心にぐっときたらしくて。

でも、温かいからこそ、全てのプログラムが、食べ物も建物も会う人も含めて全てが素晴らしいすごく非現実な空間にいるからこそ、自分のネガティブなところが出てくる瞬間が本当に辛かったと…。

これは他にも言ってる人いたんですよね。

いけかよ

そうなんですね…。

ゆみ

前に飛騨高山でリトリートをやった時もそういうこと言われた人がいて。

リトリートでも今回のプログラムでも自分の人生を振り返ってもらうワークはやるんですが、やっぱりそれをしてるとトラウマが出てくる人ももちろんいたりするんです。それに、トラウマを克服してしてるつもりだったけど、あまりにも美しい、いいものを食べるから、ショック療法のリバウンドじゃないけどそういう感覚に近いものが出てくるような…。

いけかよ

たとえば普段、ジャンクフードばっかり食べてて、こんな美しい食べ物があるのに自分はなにやってんねやろみたいな気持ちになる感じでしょうか?

ゆみ

近いかもしれない。ジャンクフードばっかり食べてて体にいい野菜を食べると、逆に体にぶつぶつができるみたいな、そういう感じ。

いけかよ

好転反応的な?

ゆみ

ああそうそう!まさに好転反応。しっくりくる言葉だと思います。

いけかよ

気持ちの好転反応がいっぱいあったわけですね。

ゆみ

ありましたね。みなさんそれぞれのレベルでそれぞれにあったみたいで。

いけかよ

なんかちょっとわかるような気がする。聞いてて胸が痛むなあ。

ゆみ

そう。わかる人はすごくグッとくると思う。

それが一番わかったのが、ツアー最終日に太陽の家で最後の振り返りをした時に、やっぱりみんなそれ(好転反応)が「あったんだー!」っていう涙があふれて。逆に「やりたいこと見つかったんだー!」っていう喜びの涙の人もいたし。それぞれのその振り返りがそれぞれで作用し合ってましたね。

ツアーが終わって高山駅で解散した後、まだ名残り惜しい、話し足りない、もっと語りたいっていうので、その後1人以外はみんなそこで一緒におそば食べて(笑)。

他にもツアー終わってから改めて飛騨にもう一回来てくれた人もいてね。

でも、これまでも飛騨でリトリートを何度かやってきたけど、今回違うのは本当に関係人口になりそうな人たちがいるっていうこと。これからどんどん具体的なつながりが増えていきそうなんです。今回つながりができて、そこからまたどんどん別の関係人口が生まれそうな要素がある。

だから、今回のプログラムで自分の人生を共有するからこそ、思いっきり自分の「やりたい」っていう気持ちを信頼して出してもらえてるんだなっていうのをすごく感じます。関係性が深く強くなるからこそ、長く関係性が続くような感覚になるというか。

それぞれ自分に向き合う参加者たち

いけかよ

ゆみさんの作ってるプログラムって、「ツアー」だけどでもなんかちょっとレイヤーが違いますよね。

ゆみ

そうですね、旅なんだけど学びの要素がしっかりある。それは深い対話を自分の中でやるようなプログラムですね。

いけかよ

そうだと思います。適切な言葉を見つけるのがすごく難しいけど、トリートメントな感じがするんですよね。そういう要素がすごく強い。

ゆみ

だからこそ、参加する人は怖い部分もあるのかもしれないですね。自分がどうなっちゃうのかな?って。

美しいものに触れて、雪だったのもあってよけい非現実感が増してて。それもあって今回は余計にみなさん内省モードになれたのも確か。雪があることですごく深い対話が生まれたのは間違いないかなって思います。

なにより今回は、本当に来たいと思って来てくださった人しか来てない。「どんな感じやろ?」じゃなくて「行くんだ!」っていう決意を持って来てくださった方ばっかりだった。エラマプロジェクトで、こんな満足度の高いプログラムができるんだっていう自信になったツアーでしたよ。

いけかよ

そうなんですね。フィンランドよりも国内ツアーの方が参加者はやっぱり勇気がいるのかもしれないですね。

ゆみ

そうですね。海外行く方が皆さんイメージできるし、いっぱいお金貯めていくぞって気になるんだけど、国内って行きやすいって思うからこそ、ハードルは高いんですよね。

いけかよ

海外だったら、なんかとりあえず飛行機乗って行くだけで、もう達成感あるでしょ?

でも国内って、やっぱり自分がある程度のお金とか時間とか、ペイしたものがあるんだったらなんらかのリターンはほしいって思うから、なんにも面白くなかったなんて絶対いやですもんね。否が応でも何かを得て帰ろうと思ったら、国内の方が自分の感性をもっと研ぎ澄ませないといけないし、特にゆみさんが作るこういうプログラムではすごく自分と向き合わされると思うし、心の柔らかい部分もすごい刺激されるし。それは結構タフな経験だと思うわけですよ。

ゆみ

そうですね、いい意味でも悪い意味でも。悪い意味っていうのはちょっとネガティブな感情に陥ることもあるかも、っていうところだけですけどね。

いけかよ

そう。でもそれは多分人生においては避けて通れないとこですよね。そういう意味でも、ゆみさんのつくるプログラムはトリートメントっぽいんですよね。

ゆみ

トリートメント。リトリートではなくてトリートメントね(笑)。

いけかよ

言葉遊びみたいだけど!(笑)

でも、トリートメントもデトックスするでしょ?コリをとったり汗を出したりとか。ケアをして悪いものが出るからすっきりするわけだし。ってなると、悪いものがどこにあるのかわからないと出せないし。悪いもの出さないと気持ちよくなれないし。ってなったらやっぱりトリートメントの要素が強い。それが自分の中にあると思うからトリートメントしたいわけでしょ?

ゆみ

ああ、そうだと思う!それはあるのかもしれないですね。

ああ、だから、これが本当にエラマプロジェクトでやりたかったこと。まさにこのツアー!

人生も見つめてるけど自分の次のアクションも、ちょっと「やりたいな」って気が起こってるような状態。これを日本でやれた!

いけかよ

うんうんうん。だから、2Dの人が3Dになる瞬間に立ち合うみたいな。

ゆみ

あーー!そう!そういうことです!

いけかよ

それがいわゆる分岐点なわけですよね、人生の。

ゆみ

で、思ってるだけじゃなくて行動するっていうのが大事ですよね。2Dから3Dの行動。

これを継続的にやっていきたい。私の拠点が高山にあるから高山でやってるけど、拠点になる方がいらっしゃればどこでも。軽やに、いろんなとこでやれるっていうふうになれるといいなって思います。

いけかよ

そうですよね。それぞれの土着の人がそれぞれの土地に愛情を持って。

ゆみ

あ、そう!愛情を持って、が大事!地域に対する愛情があればできる。

いけかよ

素晴らしくない土地なんかどこにもなくて、全ての土地が素晴らしいわけですもんね。

あたしも初めてフィンランドに行った時に、日本のことすごい考えてた。

今回のツアーの参加者の人が「自分の地元のことを知りたくなった」って仰ってたって言ってたけど、それと同じだなって。それぞれの土地を比較する意識もあったりはするけど、高山もフィンランドもすでに地域ブランドがありますよね。何もかもが美しすぎて圧倒されるけど、なんか、それだけで終わりたくない自分もいるんです。フィンランドが素晴らしくて日本が駄目っていうのは違うはず!みたいな。

だから、やっぱり幸せと不幸せみたいなこともそうなんですが、やっぱり人間って比較で相対的にしか物事をジャッジできないでしょ?そのものだけでも十分美しいんだけど、これがいかに美しいかっていうのをわかろうと思ったら、比較する対象がないとわからなかったりする。多分こういうふうに場所を変えることで、自分の土地と高山の比較で地元の素晴らしさをわかっていくんだろうなって。

ゆみ

ああ、そうですね。それはそういう指標になるような場所を訪れることによって、ああ、ここがいいなって、じわじわと来る感覚になるんでしょうね。

いけかよ

だと思います。あと自分自身の心の中の部分でも、来る前と来てからの心の変化が比較になりますよね。

ゆみ

そうですね。

いけかよ

それでいろんなものがあふれてきた人もいたんだろうなと思います。だから、自分の中の汚い部分が辛かったみたいなとこも、多分そこだと思うんですよね。

ゆみ

うんうんうん。それはあると思います。そう、だから、これがエラマでやりたかったこと!1つの完成って感覚ですね、これは。

焚き火を焚く仲間をつくりたい

いけかよ

ゆみさん的には、このプログラムで参加者さんたちにどんなものを持ち帰ってもらいたかったんでしょう?

ゆみ

そうですね…「持ち帰ってもらいたい」があるとすれば、仲間得た!みたいな感覚かな。

今回は、自分が普段いるところでモヤモヤしてる人たちが来たと思うんです。

例えば、飛騨とはまた別の田舎で暮らしてるけど、やっぱり地元では自分のやりたいことは絶対に広がらないっていうモヤモヤ感とか。

自分はこれを頑張ってやってきてるけど、本当にいいのかなとか。

そんなモヤモヤ感を持ってきた時に「あ、この場にいる人たちだとなんかこのモヤモヤが共有できる」って思えるような…。本当にずっと日本社会とか政治の話とかしてましたもんね(笑)。

でも、それは文句じゃなくて「モヤモヤを置く」っていう感じでした。私もモヤモヤしてるけどあの人もモヤモヤしてるんだなってただ出し合うだけ。

でも、集まればちょっとは光もあるかもしれないっていう希望というか、そういうものが私が持ち帰ってもらいたかったことかなって思います。

で、私がやりたかったことは、そういう仲間がほしかったんですよね、多分。飛騨高山でやる人ももちろんそうだけど、日本中で、それこそ「地域で暮らすウェルビーイングな暮らし体験ツアー」みたいなものを、それぞれの地域でやってもらえるような仲間がほしかったんだろうなって思う。

いけかよ

なるほど。「フィンランド教育を全部学ぶコース」やった時も仲間がほしかったって気づいたって言ってましたもんね。

ゆみ

そうですね。なんかやっぱり仲間ほしいんやな、私。

ゆみ&いけかよ

あはははは!(笑)

ゆみ

でもそれが社員とか主従関係とは違う。本当に横の繋がりで仲間がほしいというか…。多分それがすごく強い想いだとは思います。

いけかよ

なるほど。仲間を集めて侑美さんが作りたい理想の世界っていうのはどういう世界なんでしょうね?

ゆみ

そうですね…。それこそ、絵的に言うと日本列島の真ん中の飛騨高山に焚き火が上がってて、富山、大阪、和歌山、名古屋、北海道とかでも焚き火してて。オンラインでもいいし、リアルでもいい。みんな焚き火囲んでゆるっと、お酒とかコーヒーとか飲みながら語れてる世界でありたい。それを実現したいなっていう、本当にそれだけ。

それが別に24時間じゃなくても、そういうふうな瞬間があったら、いつもいがみ合ってるかもしれないけど焚き火の前だったら仲良くなれるみたいな。

いけかよ

休戦する感じですね。

ゆみ

あ、そうそう!休戦もできる。そういう焚き火を囲むみたいな世界になるといいなって。一瞬でもいいから。定期的にそういうことできる世界があるといいなっていう感じ

いけかよ

なるほど、焚き火。焚き火をすること自体はすごくシンプルなことですよね。でも「いい焚き火」をしようと思ったら下準備とかすごい大変ですよね。

ゆみ

そうそう。前提を共有するとか共通言語を持つとかね。

いけかよ

価値観も違っていいけどぶつからないように受け入れる体制がいるし。

そしてまず平和を愛している人たちじゃないとダメだろうし

ゆみ

ほんとそうですね。

いけかよ

そういう文化作りをしてるんですよね、エラマプロジェクトは。

ゆみ

Exactly.そういうことでございます。

(対談ここまで)

いかがでしたか?

今回のツアーは、侑美さんご本人にとっても、エラマプロジェクトにとっても、特別なものだったのだなということが少しでもおわかりいただけたのではないでしょうか。

同時に、つねに試行錯誤と模索を繰り返して進歩しているエラマプロジェクトの真に迫る様子も感じていただけるととても嬉しいです。

もし、わたしたちに共感していただける方がいらしたら、いつでも遊びに来てください。そしてあなたといつか焚き火を囲める日がくれば、こんなにうれしいことはありません。

これからのエラマプロジェクトにも乞うご期待、なのです。

では、また!

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)

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こんにちは!いけかよです。

みなさん、日々ご機嫌に過ごしていますか?

かくいういけかよは、最近けっこうイラッとしています。やってらんねー、と思うことが増えています。

というのも、少し前に新しく受注したお仕事が(いけかよはフリーランスです)、思っていた以上に手がかかり、時間もかかり、結果的に相手とのコミュニケーションに違和感を抱き、やたらとエネルギーが奪われ、こんなフィーじゃやってらんねー(ゲボという状態に陥っているから。

いきなり暴言でごめんなさい!

今回の記事でグチり倒したいわけでは、もちろんありません。

この(ゲボ状態、いけかよは陥ってよかったと思っているんです。

今回は、そんな「お仕事における幸せ」をきっかけに、自分にとっての幸せの輪郭をまたひとつ発見した、というお話。

「嫌や」の気持ち、ありがとう

フリーランスにとって、いきなりお仕事がなくなることはよくあることです。でも、それがあるからこそ新しいことにチャレンジすることができるとも言えます。

しかし、働かなければ生活ができませんから、お仕事が減ったときには新たなお仕事をいろいろ掴みにいくわけですが、会社員のときも含め、20年も社会人をやっていますと「こういうのが自分の強み」「こういう仕事がやりたい」「こういうことはやりたくない」というある程度のものさしはできてくるわけです。

これまでなんどもなんども心身を病みながら仕事をしてきた賜物です。

よって、フリーランスになって「無理ですごめんなさい」と簡単には言いにくくなったことと、仕事内容も働き方も多様になったことで、より真剣に、細かく「自分が本当にやりたくて、かつ、無理しないで続けられる仕事ってどんなことだろう?」と、さまざまな条件からお仕事を吟味するようになりました。

そのへんの考察は、こちらの記事にまとめましたのでよろしければご一読ください。

水が合えば稼げる。働くためにわたしたちが投資する「資本」のマネジメント

そして、その結果ゲットしたこの新しい仕事、少し前に経済的にも心理的にも余裕がなくなってきた頃にやっと掴んだ案件でした。

もちろんほっとしましたし、最初はとても評価していただき、とてもありがたかったのですが、始めて2ヶ月も経った頃にはすでに冒頭のように「うざい、やめたい」となっていました(笑)。

なぜか?

「こういうのは嫌や」と思えたからです。

は?とお思いでしょうか。

もっと詳しく言うならば「『こういうのは嫌や』と思っている自分をはっきりと認めることができた」ということです。

自分のなかの「嫌だ」という感情をしっかりと感じ、認め、自覚したのです。

何言ってるかわからないとお思いでしょうか。

でも、いけかよにとってこれはけっこう大きな変化だなと感じています。

なぜなら、いけかよは元来わりと生真面目で我慢しがちで自己犠牲的な性格であったため、嫌だな、と感じることがあってもそれをねじ伏せて無理してがんばってしまう癖があったからなのです。

その仕事がしんどいとか、相手が苦手だなと思うこと、ネガティブ感情を認めてしまうことがいけかよはすごく怖かったんです。その「嫌だ」「うぜー」という気持ちがどんどん増幅していきそうで。

「『嫌だ』なんて思っちゃいけない」

「『こいつウゼー』なんて思っちゃいけない」

「『しんどい』なんて今だけ、気のせい」

こんな気持ちで心身に鞭打っていれば、そりゃ病むよね、というかんじでしょう?

なので、前述のように、なんどもなんども心身を病みながら仕事をすることになったわけです。

でも、わりとこんなふうに自分のなかのいわゆるネガティブ感情に蓋をする癖がついている人は多いんじゃないでしょうか。

こと、仕事やパートナーシップなど、自分の生活の根幹を成すものならなおさらです。

でも、実際は逆なんですね。

ちゃんとその感情をしっかり感じきってあげること、それこそが楽になることへの第一歩なのです。

ミケランジェロもロダンも言ってる

いけかよは、幸せって彫刻みたいなものかも知れない、と思うのです。

彫刻って、いきなり完成形がそこにあるのではなくて、1つの木片や石を削っていって、なんどもなんども削って、いろんな面から整形していく。そしてある時「やった!完成!」って思ってもそれは全体像の一部に過ぎず、また別の角度からみればまだまだ彫る余地はあって、そっちを彫ったら違う美しいラインが現れて…、という作業の繰り返しが、彫刻という芸術なのではと、想像します。

絵画と違うのは、彫刻はいらない部分を「削っていく」ものであること。絵画のように、絵の具を「塗り重ねる」ものではないのです。

これを人間に置き換えるなら、自分にとって不要なものを削っていくということですね。

そう、「嫌だな」という部分です。

人生において「嫌だな」と思うことを削っていくこと、これが幸せの第一歩なのだといけかよは思うのです。

そのためには、「嫌だな」という気持ちと事象をきっちり受け止めなければならない。彫刻家も、コンマ一秒の世界で不要だと判断した部分がわかったからこそ削っているはずなのですから。

かつてのいけかよは、これができなかったので、なかなか楽になれなかったんですね。

でも、いまは「嫌だ」を昔よりクリアにしっかり受け止めることができます。感じてはいけない感情なんてないのだと知ったからです。

そして、それをしっかり受け止めることで、「じゃあこいつを手放そう」と思うことができるようになったのです。

彫刻の巨匠たちは、異口同音に以下のような言葉を残しています。

どんな石の塊も内部に彫像を秘めている。それを発見するのが彫刻家の仕事だ。ミケランジェロ

芸術作品はすでに大理石の塊の中にある。
わたしはただ必要のないものを切り落とすだけなのです。
ロダン

これ、「石の塊」を「人間」に、「彫像」「芸術作品」を「幸せ」に言い換えてみるとどうでしょう?

そしてそれを完成させるのはほかでもない彫刻家=自分なんですよね。

生まれてきてからウン十年の間に、いろんなよけいなものを背負い込んでしまったわたしたちは、本来の美しい姿を石の塊のなかに埋め込まれてしまったとも言えるかもしれません。それは、欲とか不安とか世間体とか嫉妬とかの、「エゴ」と言われるもの。もし今、生きづらいとか幸せってなんなのかがわからなくなっている人はきっと、取り急ぎ「削る」作業が必要なのです。

そのためには、しっかりネガティブな気持ちを受けとめ、何が嫌なのかを見極めなければいけません。

削るべき箇所がわからなければ、どんな天才彫刻家も削ることができないからです。

「ウェルビーイング」は彫刻的幸せから考えるとしっくりくる

わたしたちは、いまの自分になにかをプラスすること=絵画的な、塗り重ねることでの幸せを求めがちだけど、それよりも先に必要なのって彫刻的な幸せ=いらないものを削ぎ落としたニュートラルな自分になること、だと思うのです。

絵画的な幸せは、資本主義と親和性が高いかもしれませんね。「もっとこれがあれば幸せになれるのに!」という欲望を刺激される渇望は、潤された瞬間に虚しいものになることが割とあるというのは、このコラムを読んでくださっているあなたであればすんなり腑に落ちてくださるはずです。

(絵画という芸術をディスって彫刻という芸術を賛美しているわけではないですよ、念のため!ここではあくまで比喩表現。いけかよはどっちも大好きです)

いっぽう、昨今叫ばれている「ウェルビーイング」は、彫刻的な幸せに近いと言えます。自分にとって大切なものはなにか?そしてそれのバランスは取れているか?ということがその理論の根幹だからです。

仕事、お金、パートナーシップ、健康、時間…。人間に必要なものはさまざまあれど、どれかが過剰に多くても少なくても人間は病みます。いみじくも、彫刻がきちんとバランスをとってつくられていなければ倒れてしまうことと同じですね。

でも、いまこの「ウェルビーイング」がなんだかよくわからないと思っている人が多い理由は、絵画的な幸せを求める価値観に染まりすぎているからなのかも、といけかよは思うのです。

それは、さまざまな人がいらっしゃることは大前提ですが、これだけ物質的に恵まれていて、今日明日に殺される恐怖もなく、かつ思い切り資本主義の日本では、「なにがあれば幸せになれるのか」という思考になるのも無理はありませんよね。

でも、そうじゃなくて、いまよけいなものを背負いすぎているわたしたちは、視点を変えて彫刻的な幸せを考えてもいいと思うのです。つまり「なにを捨てれば幸せになれるのか」です。

それは、イラッとする会社の上司との関係性かも知れないし、ファンデーションかもしれないし、まったくペイできてないサブスクかもしれないし、楽しくないのに断る言い訳が見つからなくて仕方なく参加する飲み会かもしれないし、義務感にかられてイヤイヤやっている家事かもしれない。

これらの「嫌だ」と思うことを削ることで、自分のより本質的な幸せを発見することができると思うのです。上塗りする絵画的な幸せはその後からでいい。

しかも、素敵なのはこの彫刻的な幸せも変わっていくこと。「見つけた!これが最高のフォルム!」と思っても、いつしかあれ?と違和感が芽生えて、またそこを削り直していくかも知れないのです。

人生において幸せというものが1つの側面だけではないのと同じで、彫刻もいろんな部位があってバランスを保たれて最高傑作になっていく。その途中は、腕はできた、でも足がまだ…、足できた!と思ったら、その足は頭とのバランスが違う気がする…、など、試行錯誤の繰り返し。

人間の幸せで例えたら、「完成!」っていうときはもしかしたらもうこの世にいないかもしれないのですが、どれだけバランスが悪かろうとも、完成から程遠くても、懸命に美しい形をつくろうと試行錯誤すること、それこそが「生きる」ということなんじゃないかと、いけかよは思うのです。

2024年は宿題をがんばる

というわけで、冒頭の話にもどると、いけかよは「うわー。嫌や」と思えたことで、削りたい部分がわかったんですよね。それがすなわち「自分の幸せの輪郭が少し見えた」ということなんです。

まだそのお仕事を完全に手放したわけではないのですが、「嫌や」という感情、そして何が嫌なのかを、しっかり自分と向き合って特定&言語化中です。

そういう意味でいうと、ネガティブな気持ちを与えてくれたこの案件には感謝です。それがわからなければ、自分にとっての幸せには近づけないのだから。

そして同時に、「嫌やな」と思う部分をどうすれば避けながらタスクをこなせるか、ということも考えていける。

つまり、日々、疲れはてていたりモヤモヤしたりイライラすることは実は幸せに近づくためのチャンスなのです。

しかしいかんせん、わたしたちはそういった感情を扱うことが苦手です。つい「臭いものに蓋」戦法や「あいつが悪い」戦法を使いがち。ときには「自分が悪い」戦法も…。

問題はさまざまなので、何が原因なのかはケースバイケース。でも、明らかなのはそのネガティブ感情があなたのなかから湧き出ているということ。

それに向き合うために、このメディアの運営母体であるエラマプロジェクトは日々お仕事をがんばっているあなたに、ご自身の感情と向き合うためのプログラムをご用意しています。

【2024年2月開講】フィンランド式ウェルビーイングコース〜働き方&休み方を描く〜

今年こそはもっと幸せに働きたい!と思われる方は、ぜひご参加くださいね。

お仕事だけでなく、家事や育児、その他のなんらかの「義務」を背負っている人にはヒントになるポイントがたくさんあるはずです。

2024年は、冒頭からおおきな宿題をわたしたち日本人は突きつけられたなぁと感じることがあります。

でも、これも彫刻的幸せ理論で考えることにしました。

「不幸は、自分ではどうしようもないことをどうにかしようとすることから始まる」という主旨のことを、なにかの本で読んだんですよね。ほんとうにその通りだと思うんです。

いろんな出来事に苦しくなったり怒ったり落ち込んだりしていませんか?

災害だけでなく、プライベートなことでも重みは同様です。

まずは、その感情をしっかり味わって受け止めましょう。

そしてその次に考えるべきは、その問題は、あなたがどうにかできることでしょうか?あなたがどうにかすべきでしょうか?

ここで「自分にはどうにもできない」と認めることは逃げではありません。

「自分にはどうにもできない」とわかったら、それは手放しましょう。

そのうえでしっかりと、何がつらいのか?何に怒っているのか?を見つめてください。そして、できればそれを自分から削ぎ落としていきましょう。

この「削ぎ落とす」ことは、わたしたちが自分自身でどうにかできることですよね。

それができてはじめて、あなたがほんとうにすべきこと=「自分の幸せ」を見つけることのスタート地点に立てるんです。

でも、できないなら無理にする必要もないと思うのです。完璧な美しさの彫刻を築き上げることではなく、それを目指すプロセスこそが美しいといけかよは思うから。

そして、ひとりひとりが余計なものを削ぎ落としながら自分の幸せを見つけていくこと、それこそが、わたしたちに課された「宿題」だと思うのです。

では、また!

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)

こんにちは!いけかよです。

あなたは断捨離をしたことがありますか?

「断捨離」という言葉も概念もすっかり浸透しましたよね。それに紐づいて片付けの重要性とかミニマリズムとか、ひいては断捨離が運気を左右するなんていうこともよく聞かれるようになりました。

いけかよも「なんか最近、流れが悪いな」とか「思うようにことが進まないな」と感じるとき、その状況を打破する1手として断捨離をすることがあります。

断捨離するのは服とか靴とかカバンとかが多いですが、他にも本とか過去の仕事の書類とか、そういったものを処分することも多いです。

やっぱりモノが減るとそのぶん気持ちいいですよね。必要なものだけに囲まれてすっきりした部屋に暮らすのは心地よいものです。

そして「古いものを手放せば新しいものが入ってくる」というのもよく言われる話。古いワードローブを処分すれば、そのぶんクローゼットには新しいものが入りますから。

しかし、いけかよは、自分や自分の人生をもっと良くしていきたい!と感じるとき、服やカバンのように簡単には捨てられないけれども、捨てると強烈に日々が変わるなと感じるものを2つ発見しました。今回は、そのお話。

「お金」と「自信」

1つめは「お金」。

もちろん、進んでお金を捨てるようなことなんてしませんから、お金を「なくす」というのが正しい表現です。

いけかよは、過去に自分自身が大きくジャンプアップしたなと感じた時は、だいたいいつも「お金ない!どうしよう!」となっていることが多いと気づいたのです。

ほんとうに情けない話ですけど、頑張って稼いだお金を、いろんなことにぱーっと使っちゃって、お金がたくさん減った後に予期せぬことが起きて生活がグラつく、ということがよくあるのです。これは会社員のときももちろんそうでしたし、フリーランスになって会社員のときよりも多少ゆとりのある生活ができるようになった今でも、同じです。

わかりやすいのは、仕事を辞めざるを得ない状況になったり、急に契約終了することになったり、クライアント都合でフィーを減らされたりといったようなこと。もちろん焦りますし真剣に悩みます。生活もかかっていますから、否が応でも必死のパッチです。

そうすると、次になくなってくるのが「自信」です。これが2つめの要素です。

会社を辞めたり、契約していたお仕事が終了したりといったことはありふれたことです。特にフリーランスなんていう不安定な働き方であれば当然です。なので、次また新しい仕事を探せばいいや、と気楽に考えていますし、それこそ古い仕事を手放すことで新たな、もっと素敵な仕事に巡り合うというのは会社員時代から繰り返してきたことだったので、いけかよはわりと仕事を手放すことについては慣れていると思っていました。

しかし、なかなか新しいお仕事が見つからないときもありますし、商談をしても契約に至らないといったことも起こります。

すると、やはり自信がなくなってくるのです。

「いままでわたしがやってきたことってなんやったんやろう」

「いままでわたしがやってきたことには大した意味なんかなかったんやろうか」

「いままで●年間この仕事してきて、わたしは果たして成長できてるんやろうか」

こんなふうに、どんどん自分自身がブレて、心が折れそうになります。

こうして、お金と自信とは、連動しやすい要素だともいえます。

そして、執着しやすいものだとも。

これまでの自分を取り壊す

いずれも、断捨離するにはかなり抵抗があるものですし、みずから投げ捨てるようなものでもありません。

なので、いけかよも過去に好き好んでお金や自信をなくしたわけではありません。でも、振り返って考えると「そうならざるを得ない」ような経験がたくさんあるのです。そして、お金も自信もないという、いわば満身創痍な状態でお尻に火がついてもがいた後に、いつもまるでギフトかのように新たなステージが用意される、というパターンを何度も経験しているのです。

それはなぜか?考えてみたのですが、お金と自信というのはいわば「過去の自分」が作ってきたものの象徴ですよね。

お金も自信も、お仕事やその他のさまざまな経験を通じて得ていくもの。そうやって得られたお金と自信は、言い換えればそのまんま「これまでの自分」だと言えると思うのです。

そして、なにか流れが悪いなぁとか、人生変えたいなぁと思っているモヤモヤ期って、きっと「新しい自分」になりたいと思っているとも言えると思うんです。

新しい「これからの自分」が、これから稼ぐお金や培う自信は「これまでの自分」が得てきたそれらをなくさなければ積み重ねられないのかもしれないと思ったのです。

いわば、古い建物はいったんすべてとりこわして更地にしなければ新たなビルは建てられないようなイメージです。

良い子は真似をしないでください

今回お話したことは、いけかよだけの話かもしれませんので、くれぐれもみずから積極的にお金や自信を投げ捨てるようなことはしないでくださいね。

お金も自信も、自分を安心させてくれるものです。ですから、わたしたちはそれらに執着します。

でも、わたしに限って言えば、中途半端にお金や自信があるときって必死さがないので、やっぱりそれなりの努力しかしないし守りに入ってしまう。すると結果的に得られるものもインパクトが小さい気がしています。

なので、やはりわたしが人生を変えたいときって、お金と自信の断捨離が必要なのかもしれないと思ったのです。

もっと余裕をもって、安心して、安定した日々を過ごしたいと思う反面、そもそもフリーランスという不安定な働き方を選び、同じことの繰り返しが苦手で飽きっぽいわたしには「安定」こそが「不安定」なのかもしれないのです。

もちろん、渦中にいるときはしんどいですし必死です。「なんでこんなことになっちゃったんやろう」と落ち込むこともありますし、情けなくて不安で泣くこともあります。

でも、お金も自信もなくすということはすなわち「これまでの私」に別れを告げ、「これからの私」を招き入れることにほかならないと、いけかよは自分の人生での経験をもって腹落ちしているのです。

めちゃめちゃきついですけど、いまのいけかよにはこれが「人生を変える特効薬」なのかもしれません。荒療治ですけど…。

いつか穏やかにゴールデンレトリバーと戯れながら、LAの海沿いの家で優雅に昼ビールを飲みつつ「次はなにしよっかな〜」と遊びのプランでも立てるかのようにビジネスアイデアを妄想していたい…と、妄想しているのですが、そのためにはあと何回この荒療治が必要なのでしょう…(遠い目)。

そんなこれからのわたしに期待しつつ、いけかよのもがきはまだまだ続くのです。

では、また!

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)

こんにちは!いけかよです。
わたしはお金をもらって文章を書くようになってから10年弱くらいになります。
とはいえ、1本あたりの単価はそんなに高くないので、執筆以外のお仕事もたくさんしています。それに執筆スピードもわたしは遅いので、過去に書いてきた記事数は執筆をメインのお仕事にしているライターさんに比べればとても少ないと思います。

しかしそんなわたしですが、文章を書くための講座をこのエラマプロジェクトで実施しています。10年弱の間で培ってきたスキルと経験とわたしの哲学をぜんぶぶち込んだ力作です。
それに加えて侑美さんからブランディングも同時に学べるという、盆と正月がいっしょに来たようなワークショップになってます。

ということで今回は、もう最初に告知しちゃいます。
2023年、11月25日&26日に名古屋で実施します。
ご興味のある方はぜひ以下のサイトをチェックしてみてください!

エラマライター養成講座(2日間プログラム)
〜Chat GPTに負けないライターになるために〜

https://elama.be/workshop/tobewriter/

で、ここからが本題です。
決して執筆量は多くない方だとは思いますが、この10年、わたしはライターや編集のお仕事は緩急あれど途切れずずっとご依頼をいただいてきました。ありがたいことです。

「ライター」と一言で言ってもさまざまな種類と専門領域があります。
コラムニスト、エッセイスト、ブロガー、記者、ルポライター、コピーライター、インタビューライター、PRライター、SEOライター、ブックライターなど。作詞家や作家や詩人や脚本家なども、広い意味ではライターと言えるでしょう。
そもそも、紙媒体とWeb媒体でもお作法や求められるものは違いますので、さらに専門性は細分化されます。

こういった人たちは、それぞれの専門分野で才能を発揮し、それを武器にお仕事をしていらっしゃいます。
彼ら、彼女らにあるのは当然ながら「書く力」です。

ライターをしていると言うと、まあ、みなさん「すごいですね」とおっしゃいます。何でもそうだと思うのですが、デザイナーだとかミュージシャンだとかイラストレーターだとかのクリエイティブかつ専門分野の仕事は、ちょっと普通とは違う才能の持ち主だと思われがちです。
もちろん、わたしもライター以外のプロの領域にはなんの口もだせないのですけども、ここで言われる「すごい」は、社交辞令もあるでしょうけども紐解けば「書く力があってすごい」ということでしょう。

でも「書く力」ってそもそもなんなのでしょう?
今回は、わたしがなぜ今のように文章を書く仕事をするようになったのかの経緯をお話しつつ、「書く力」の中身を深掘っていきたいと思いますっ!

気づく力

ここで、わたしがお金をもらって文章を書き始めたときのことを少しお話させてください。

まだ会社員だった頃です。
その当時、わたしがおもしろいなーと思ってメルマガを購読していたとある若い起業家さんがいました。ある日のメルマガに「女性向けのWebメディアを素人ライターを集めてやりたいので、記事書きたい人募集します」とあったのです。
それに応募してみたのがきっかけでした。

それまでの私は、ブログすらまともに書いたことはありませんでした。子どものころから読書と作文が得意ではありましたが、わたしが大学で専攻したのはデザインで、仕事として進んだのは広告やWebの世界でした。

でも、そのメルマガにはぴんときて、特に出せる作品もポートフォリオもありませんでしたが、自分のSNSを見せて意欲を伝えたところ、なぜか採用になりました。これがわたしのライターとしてのスタート。「コンテンツマーケティング」が全盛の頃です。

そのメディアは女性向けということでしたので、わたしは我流で自分の経験と持論を展開することになります。テーマは仕事や恋愛や生き方など、自分の等身大の価値観でした。

それまではブログですら情報発信なんてしようと思っていなかったのに、いざ「お仕事」という「打席」に立つと、自分のなかからさまざまな言葉や考えが出てきました。
もちろん悩むこともネタにこまることも考えがまとまらず意味不明なままリリースしたこともあるのですが、わたしが思ったのは「機会をもらえればできるんだなぁ」ということでした。

そして、打席に立って初めて発動したのが、自分のなかにある「違和感」でした。

その違和感というのは、生きていれば誰にでも生まれるであろう他愛無いもの。ざっくりいえば「常識」に対する違和感です。
仕事に関する常識、恋愛や結婚に関する常識、「女」という存在に関する世間の常識、生き方に関する常識…。
みなさんも、そういったもろもろの「常識」的なものを押し付けられたときにモヤモヤしたりイラッとしたり納得いかなかったりしたことって、ありますよね?
でも、そのイラ&モヤは、あまりにも他愛なさすぎるし、考えたって仕方ないことだし、自分なんかがいろいろ言ったって世の中なにも変わらないしということで、普通はスルーしてしまうようなもの。

しかし、いざなにかを自分のなかから絞り出さねばならないとなったとき、このイラ&モヤ=「違和感」は、強力な材料になったのです。
そのための力は、些細なことに「気づく力」。自分のなかに芽生えた小さな小さな火種を消さないようなイメージです。

お仕事という打席に立ったことで、日常茶飯事のイラ&モヤをしっかり見つめる選球眼を得たという感じ。これは、ある意味のそのプレッシャーがなければ見いだせないものでした。

問う、そして対話する力

そして、なにかに気づいたらその次に必要な作業は「絞り出すこと」です。
お仕事ですから、なんとかどうにか言葉を絞り出して書いて形にせねばなりません。
自分のなかに芽生えた小さな火種を、いかに大きな松明にするか。キャンプファイヤーにするか。絞り出すのは、さまざまな思考と言葉です。

この「絞り出す」を支える力というのが、「問う力」「対話する力」なのです。

それは自分と対話する力でもあるし、インタビューするときには相手と対話する力でもあります。

「それはなぜ?」
「なんのために?」
「本当にそれでいいの?」
「わたしは/あなたはどうありたい?」

などなどを問い、その答えを対話しながら導き出していく。

この「問う力」こそが、人間にしかできないことなんじゃないかとわたしは思っています。

Chat GPTが一般化されたことで、AIはぐんと身近なものになりました。プロンプトをいじるだけでほしいテーマにそったブログが1分で100本とか作れるようになった今、とあるクライアントに「ライターさん大変でしょう?」と同情をにじませた表情で微笑まれたことがあります。

そのときには「泣きそうですぅ」と答えましたが、正直書き手としてAIというのは味方にこそなれど脅威になるとは思っていません。
もちろん、ライターといっても資格があったりするわけではありませんから業界は玉石混交。AIによって仕事を奪われるライターもいると思います。

そうなるかならないかの大きな違いは、この「問う力」があるかないか。
AIは答えはくれるけれども問うてはくれません。
AIを使いこなすためにも、適切に問うことは基本中の基本です。

今必要なことはなにか?
この出来事の本質はなにか?
今わたしたちが求めていることはなんなのか?
今わたしたちがやるべきことはなんなのか?
わたしは/相手はどんな答えをどんな形でほしいのか?

この問いに対して、自分のなかのもう一人の自分から、もしくは他者から、AIから、答えを導き出すことで、思考と言葉が積み重ねられ、「書く」という作業に繋がっていくのです。

そして、適切な「問い」を繰り返していくことこそが「対話」。
「問い」と「対話」は地続きの関係だとわたしは思います。

でも、まずは問うことからはじまる。
問うことができないライターは、SNSポエムすらも書くことはできないと思うのです。

書く力は、モテる力

なんて、小難しくつらつら書いてきましたが、いけかよが思う現時点の「書く力」の構成要素は「気づく力」「問う力」「対話する力」この3つです。

そう思うと、これらの力が武器になるか?という問いに対しては「そらなるやろ!」という答えになると思います。

なぜなら、「気づく力」「問う力」「対話する力」この3つがある人って、いうなれば「打てば響く」人。つまり「めっちゃおもろい人」ということになると思うのです。

例えば「これってどう思う?」と聞いてみた時に「いや…なんとも…」と引き気味に返されると、この人つまらんなって思ってしまいませんか?(そもそもの「どう思う?」の問いがつまらないからなのではというツッコミは今はご容赦ください)
もしくは悲しくなってしまいませんか?
ぜんぜん打っても響かない。

じゃあこれが「打てば響く」な場合だとどうなるか。
「これってどう思う?」という投げかけに対して、相手が何を求めているかに「気づき」、「自分はこう思うけど、どう?」と「問い」、そして「対話」が始まる。

これって、相手も気分良くなる可能性が高そうですよね。

わたしは、前述のように女性向けメディアで持論展開コラムを書き始めた時、自然と「読後感」を意識するようになりました。
なぜなら、とても失礼を承知で言いますが、他のライターさんたちの記事を読んだ時、読み終わってからイラっとしたりモヤっとしたりすることがあったからです。言ってることは間違ってはいなかったとしても、です。
いまとなっては、そのコラムやライターさんはわたしにとってすばらしい学びをもたらしてくれたと言えます。

「このモヤモヤはなんでやろう?とにかく自分はこういう書き方はしたくないな。でも、普通のことも書きたくないな。じゃあどうすれば?」という問いを促してくれたからです。

そこでわたしに芽生えたのは「良い読後感をつくる」という意識でした。
「読んでよかった」という気持ちをもたらすことです。
言いたいことは言うけど、最後は希望を持って終わらせる、ということを決めたのでした。
(とはいえもちろん今でも書いて失敗することはあります)

これを、人と人との会話に照らし合わせてみると「なんかあの人としゃべると元気になる」とか、「あの人めっちゃおもろい」とかになると思うのです。

これは「コミュ力」とも言うかもしれませんし「言葉の力」とも言えるでしょう。
そしてそれは「書く力」とも同義語だと思うのです。「作文力」ではありません。つまりはAIには持ち得ない力です。AIが得意なのは、現時点では「作文」であって「対話」ではないからです。

言葉の力で、元気になったり楽しくなったりする人を増やしたい。
これは、わたしがたまたまご縁があって人に文章の書き方をアドバイスするようになってから意識しはじめたことです。

2010年頃から流行り始めたコンテンツマーケティングにより、あらゆるWebメディアが生まれては閉じていきました。モノを売らんがためにつくられたメディアも当然多かったですが、「このメディアで世界を救いたい」と思っていた人もいました。
しかし、現時点でWebメディアが世界を救ったとはいえません。しかし、たった1本の記事が1人の人間を救うことはあるかもしれない、と思うようになりました。

そんな思いで、そんな記事を書ける人を少しでも増やすことができたとしたら、それって世界を救えるんじゃないか。

ちょっとマジでそう思っているのです。

そしてなにより「なんかあの人としゃべると元気になる」とか、「あの人めっちゃおもろい」って思ってもらえる人って、ぜったいモテますよね。

そう、いけかよは、もっとモテる人をふやしたくって、ライター講座をやっていると言っても過言ではありません。
モテる人がいっぱいいる世界って、どう考えても素敵じゃないですか。

というわけで。
書く力をつけたいあなた。
仕事できる人になりたいあなた。
AIにビビっているあなた。
モテたいあなた。
ぜひ、いけかよといっしょに「書く」ことを探求しましょう!

名古屋にてお待ちしています。

2023年11月25日&26日 @名古屋(対面のみ。オンライン開催はありません)
エラマライター養成講座(2日間プログラム)
〜Chat GPTに負けないライターになるために〜

https://elama.be/workshop/tobewriter/

過去の開催レポートはこちら

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)

こんにちは!いけかよです。

10月になりました。いけかよの住む関西でも、やっと少しだけ秋めいてきたような…?

とはいえ、秋は行楽の季節。食べ物もおいしいし過ごしやすいし、秋こそ旅に出たいな〜と思う方もたくさんおられるはず。

ではぜひ、その旅先候補のひとつに岐阜県の飛騨高山を加えてみてはいかがでしょうか?

ということで、本記事ではわれらがエラマプロジェクトの日本のホームとも言える飛騨高山の魅力を全力で推したいと思いますっ!!

蕎麦好きにはたまらん季節 byいけかよ

飛騨高山にはいろんな美味しいものがありまして、有名な飛騨牛や日本酒をはじめ、朴葉味噌や漬物ステーキなどなど、地元グルメもおいしい!

そんななかでも、秋に開催される新蕎麦まつりが、いけかよは最高だと思うのです…!

新蕎麦まつりは10月下旬から11月にかけて、飛騨の各地で行われているようで、たまたま飛騨高山に行った時に遭遇したのがきっかけ。

蕎麦は最後の晩餐にしてもいいと思うくらいいけかよは好きなのですが、それこそ飲むようにいろんな蕎麦を食べられるこの新蕎麦まつりはいけかよにとってはたまらんイベント!

まさに、この秋のタイミングで訪れるべき催し。ぜひ、開催場所と日時をチェックして行ってみてください!

飛騨市のHPからチェックできそうです。

山の上でおいしいひとときを cafe 櫟-Ichii- by momo

こんにちは、momoです。

わたしがこのお店を知ったのはエラマプロジェクト代表ゆみさんへのインタビューがきっかけでした。

普段はカフェ巡りなどしない、コーヒーはめったに飲まなくなった、そんなわたしですが、過去にものすごくおいしいコーヒーに出会って感動したことがあるので、ゆみさんのお話をうかがい、高山を訪れたときにはこちらのお店にもぜひ足を運びたいと気になって仕方がなかった場所です。

いざそのチャンスがやってきてアクセスを調べると、JR高山駅から徒歩25分などの情報が。徒歩40分までなら許容範囲なので全然いけるなと高山の探検も兼ねて歩いて向かうことにしました。

お店のロケーションは時間や物事に追われる感覚から離れたいという人にはぴったりだと思います。

いただいたのはこちら。

コーヒーは期待を超えるくらいおいしくて、人生2度目のおいしいコーヒーとの出会いに、来れてよかった〜と静かにうれしさを味わっていました。

ケーキは、飛騨高山のフルーツも体験したいと思い、いつもなら食べないタイプの商品を注文。

スポンジが今まで食べたものの中で1番、最高においしかったです。

ここのなら、普段は選ばないショートケーキも食べてみたいと思ってしまうくらいに。

丁寧さが感じられるもので体を満たす幸せをかみしめる時間になりました。
cafe 櫟-Ichii-があるから高山に行きたくなると言っても過言ではないお店です。

ぜひ、高山でおいしいものを味わう幸せと自分の時間を大切にする幸せにひたってみてください!

思いっきり呼吸したくなる景色 by RUNA

こんにちは、どさんこ大学生RUNAです。

去年、開催された「エラマ文化祭」で初めて飛騨高山に行きました。

まだ一度しか訪れたことがないそんな私の飛騨推しポイントは、森林の景色です。

滞在した場所が山間部だったので、周りは豊かな秋の色に染まっている木々でした。

周りの全ての景色が自然だと、身体を伸ばしたくなったり、寝転がりたくなったり、思いっきり呼吸したくなったり…私は、無意識に身体が動いていました。

朝、6時前に目が覚め、気づくと約2時間、外で景色を眺めていました。

その景色がこちらです。

人が多くて、高層ビルばかりの所に行くと、空気のにおいに少し違和感を感じます。

それは私が北海道出身だからかもしれません。地元では、いつものように、もうすぐ冬だななど季節のにおいを感じていました。

飛騨高山でも季節の変わり目を感じました。なぜなら、そこに自然の景色が当たり前に広がっていたからだと思います。

自然豊かな飛騨高山には、紅葉の名所が沢山あるそうです。

思いっきり伸びをしながら、呼吸したくなる飛騨高山で、自然の景色を堪能してみませんか?

グルメと人に会える優しい場所 by ひらふく

こんにちは!ひらふくです。

飛騨高山には5~6回ほど訪れています。毎回私が楽しみにしているのは、おいしいグルメと飛騨の方とお話しすること。今回はエラマ図書館のまわりにある飛騨のお店を2件ご紹介します。

エラマ図書館があるウッドフォーラム飛騨は敷地内にいろいろなお店があります。高山ラーメン、みだらしだんごのお店、そして地元の人が早朝からやってくる産直市場とCafé &Rest Room335という喫茶店など。

産直市場の野菜ははじめて見るものもあってワクワク。作った方の名前が書いてあり丁寧に作られたことを感じます。飛騨の牛乳を使った無添加パンも販売されています。それも全部手作りで、ウッドフォーラムの芝生に座って食べると最高でした。

Café &Rest Room335さんのご飯はとてもおいしい!そして店内がとてもロックなんです。店内にはジュークボックスがあって音楽が流れつづけています。

私がはじめて訪れたのがちょうどジュークボックスが導入された日。男性客のグループが音に合わせて歌いながら会話を楽しんでいました。

食後のお茶にはそっと金平糖が添えられていました。飛騨の方からは、こうした言葉にしないけれど気にかけてくれる優しい気遣いを感じます。

お店の方に「これはなんですか?」と話しかけると「これはこうやって作ってるんだけどおいしくてね…」とこだわりを伝えてくださいます。

おいしいグルメとそれを作る優しい人達に会いに、さあ飛騨高山へ。

きっともっと秋を感じられる高山へ

いかがでしたか?「観光」とは違う高山のディープスポット、エラマライターズだからこそのチョイスです。

喧騒から離れてほっとしたいときに。

ふだんとは違う感覚を味わいたいときに。

「陽」が過多な日々に「陰」をプラスしてバランスをとりたいときに。

ぜひ、飛騨高山へおこしください。

Edit by いけかよ