Elämäプロジェクト

こんにちは!いけかよです。

エラマプロジェクトでとても大事にしている概念として「SISU」があります。
これまで何度もこの「よむエラマ」でも採りあげてきました。

「SISUってなに?」という方のために軽く説明すると、「SISU(シス)」とは、フィンランドの言葉で「勇気」「忍耐力」「粘り強さ」「不屈の精神」といった意味を持ちます。
フィンランドと日本はとても似通った精神性があり、エラマプロジェクトではSISUを「大和魂」なんて表現することもあります。

昨今、このSISUは日本でも、そして世界でもとても注目を浴びているようです。
それもそのはず、映画のタイトルになったことや、関連書籍出版などのムーブメントはあれど、まさにこのSISUを必要とするような社会情勢だからというのもひとつの理由でしょう。
いまは「VUCAの時代」なんて言ってたことすらすでにオワコンに感じつつある、「予測が意味をなさない時代」といえるかもしれません。

そこでいまひとつ、この「SISU」をいけかよなりにいろんな角度で深堀ってみようと思います。

首尾一貫感覚を目指したら

この「SISU」の面白いところは、直訳できる日本語がないので、個々でさまざまな意味を持たせて捉えることができること。
母国であるフィンランドの研究者こそが、その意味を新しく捉え直したりもしているのです。

がんばりすぎてしまうあなたへ。フィンランドの精神性SISU(シス)の再定義「Gentle Power SISU」が教えてくれたこと
https://note.com/elamajp/n/na76d74bfe5dc

ではいけかよはこのSISUをどう捉えているかというと「折れないしなやかな心」のイメージ、それは「センスオブコヒーレンス(首尾一貫感覚)」ととっても相性がいいと思っているのです。

この「センスオブコヒーレンス(Sense of Coherence:SOC、以下SOC)」という言葉にはコロナ禍に出会いました。
みんながみんな、あらゆるものを我慢しなければならなかったあの時期、苦しいながらも救いを求めるなかで、いろんな印象的な言葉を学びました。

レジリエンス、アンラーン、ネガティブケイパビリティ、不便益…。

そのなかでも、いまでもいけかよがすごく大事にしたいなと思っているのがSOCなんです。
このSOCは、ググると以下のような説明がでてきます。

イスラエルの医療社会学者A・アントノフスキー(Aaron Antonovsky)が提唱した、ストレスに柔軟に対応し心の健康を保つための能力(ストレス対処力)。
この感覚は、以下の3つの要素から構成されています。

把握可能感(自分の周囲で何が起こっているかを理解・予測できる感覚)
処理可能感(自分の資源や能力で「何とかやっていける」と思える感覚)
有意味感(直面する困難や日々の出来事に意味や意義を見出せる感覚)
(AIによるリサーチのまとめ)


SOCに関しては書籍も何冊かあるので、ご興味ある方はそちらも読んでみてくださいね。

で、この3つの感覚、もっと噛み砕いて表現することができます。専門家がわかりやすく表現してくれている記事なんかもでてきますが、SOCの理解はざっくりでいいといけかよも思っています。

把握可能感:いまなにが起こってるかをわかってる
処理可能感:自分でどうにかできると思える
有意味感:この状況には意味があると思える

「わかってる」「どうにかできる」「意味がある」この3つがあれば、人はつらい状況を生き抜いていけると提唱するのがSOCです。

でもこれって、めっちゃしっくりきませんか?
例えばあなたが転職したばかりの新しい会社で、入ってみたらスーパーカオスで右も左もわからない、誰が敵か味方かもわからない、何がわからないかもわからない、という状態を想像してください。そこで、ここで起きてることについて「わかってる」「どうにかできる」「意味がある」と思えたとしたら、一筋の光が差すと思いませんか?

でも「そんなん思えたら苦労せんわい!それが見えへんから苦しいんじゃ!」とお思いでしょうか。そう、おっしゃるとおり。

そこでSISUの登場です。

この状況をいったんぐっと我慢して「わかってる」「どうにかできる」「意味がある」にたどり着くまで耐えてみる。そのときの精神こそ、SISUなんじゃないかと思うのです。

SISUはSOCをつかむための力

SOCは、人生におけるひとつの希望です。
仕事でも人間関係でも健康問題でも金銭問題でも、人は「いま自分がどこにいるのか、ゴールがどこなのかがわからない」から、不安に立ちすくんでしまいます。
でも、そこで「わかってる」「どうにかできる」「意味がある」をつかむということは、自分が進む道がわかるということです。迷いがなくなるということです。

闇に落ちたとき、人は闇雲にもがいてしまいますが、それは自分がなにをすればいいかがわからないから。往々にして、悩みは永遠に超えられない壁のように感じてしまいます。視界を全部塞がれたように感じることもあります。でも、SOCはシンプルで、わたしたちが把握すべきことを3つの要素で示してくれているんです。「わかってる」「どうにかできる」「意味がある」これらさえ押さえればいい。そうすれば、道が拓ける感覚がするはずなのです。

でも、です。
それってまあまあな心のパワーを使います。だってまずは、ごくわずかでも希望を持っていなければいけません。「生きよう」という意欲や「考えよう」という意思や「現実を見よう」という勇気も必要です。

だから、そこでわたしたちが発揮すべきものがSISUなのです。

いけかよは、SISUは「身につける」とか「育む」ものではないように感じています。
もともとわたしたちのデフォルトに、本能とか、魂とでもいいましょうか、そこに備わっている機能のように思うのです。
どこかやだれかからもらったり借りたりしなくてもいいはずの力。それがSISUです。わたしたちが、めちゃくちゃつらくても理不尽でも心が折れても、それでも前に進むことができたとき(それがたった1mmでも)、そこにはSISUがあります。
 
SISUを発揮して、いま自分が置かれている状況を「わかり」、どうにか「できる」ことを探し、この状況には「意味がある」まで行き着くことが出来たとき、大きな第一関門突破!という感じがしませんか?

このプロセスは、人間としてとても美しいといけかよは思います。
それは「成長」といい、「一皮むける」とも表現されます。

だから、大切なのはわたしたちは全員必ずSISUを持っている、ということを知ることなんです。もれなく、誰しもが持っている。
それは必ずわたしたちを支え、前に進めてくれるもの。

SISUがあれば、なんでもできる!

…ん?

そこにいたのはあの人だった

そう、いけかよは気づいてしまいました…。日本人のSISUの正体を。

SISUがあれば、なんでもできる!
元気があれば、なんでもできる! 1、2、3、ダーーーーーー!

なんと、SISUを探求したらそこにいたのは猪木でした。SISUがしっくりくるはずです。ここだったんですね。わたしたちの精神性がこんなにもSISUに震える所以は…。

ていうか、でもマジでこれって真理だと思っているのです。SISUは「元気」と言い換えてもいい。もっともシンプルな、わたしたちのエネルギーを表す言葉です。

奇しくも、猪木氏が引退セレモニーで読み上げた有名な「この道を行けばどうなるものか」は、SOCにも通じるものを感じさせます。

「危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。迷わず行けよ。行けばわかるさ」

猪木氏は、わたしたちのSISU=大和魂の体現者だった、ということなのですね。
いけかよはプロレスや猪木氏がとりわけ好きだというわけではありません(むしろ痛いの怖くてプロレスは見れない)。
でも、30代以上の日本人なら「1、2、3」とカウントされたら迷わず「ダーーーー!」と叫ぶはず。これはもはや本能です。そう、SISUと同じように。

だからこそ、自分にはSISUがあるのだと信じてください。
あなたが生きているということは、元気があるということ。その元気は日によって調子はさまざまかもしれません。それでも、消えずにあなたは生きている。SISUの本質は、そこにあります。「それが自分にはあるのだ」と思い出すこと。それこそが、あなたのなかのSISUを発動させる鍵になるのです。

さらにSISUを深めてみたいあなたに

いかがでしたか?
今回は、いけかよの意外なSISU探求をシェアさせていただきました。
まさか、SISUを考えたときに猪木に出会うとは思ってもみませんでした。
こんなふうに、SISUをあなたなりに咀嚼し、いろんなことが起こる日常をしなやかに生き抜くヒントをお伝えする講座をご用意しました。

【オンライン】SISU(シス)とライフデザイン講座

📅 開催日時:2026年6月11日(木) 20:00〜21:30
🖥 開催形式:オンライン(Zoom)
👤 講師:石原侑美(フィンランド生涯教育研究家)

▼お申込み・詳細はこちら

https://elama.be/workshop-event/sisu202606/

あなたなりのSISUは、もっと意外なものが見つかるかも知れません。
フィンランドの精神性をヒントに、ぜひあなたのなかにある強さを見出していただけたら嬉しいです。
エラマプロジェクトのHPからぜひお申込みくださいね。
みなさまといっしょにSISUを探求できますこと、楽しみにしています。

では、また!

こんにちは!いけかよです。

あなたは、誰かに対して「この人めんどくさいな」って思ったことはありますか?
「ない」と言う人は、おそらくそんなにいないんじゃないかと思います。
そしてあなたは自分自身をめんどくさいやつだなと思ったことはありますか?

この「めんどくさい」って、一体なんなんでしょう?
今回は、この「人のめんどくささ」について、いけかよの経験を交えつつお話してみたいと思います。

あなたはあなたと仲良しですか?

まず、「めんどくさい人」ってどんな人か。その要素を具体的に挙げるなら、以下のような特徴だと思います。

・承認欲求が強い
・こだわりが強い
・自己主張が強い
・話が長い
・空気が読めない
しつこい

とかでしょうか。

要素だけをピックアップするとあんまり好感は持てなさそうな感じですね。

でも、あなたの周りには、これらの要素をいくつか持っているのになぜか魅力的で人に好かれている人っていませんか?
そして、あなたのなかにもこれらの要素ってありませんか?
まったくないと言い切れる人は少ないんじゃないでしょうか。承認欲求やこだわりの強さなんて、誰しもが多かれ少なかれ持っていると思うのです。

では、あなたは「めんどくさい人」なのでしょうか?

そういうわけでもないと思うのです。多くの人は、日常生活に大きな不都合や不具合はなく、あったとしても自分を受け入れてもらえる安心安全な関係はきっと確保されていると思うのです。

ただ、他者があなたをどう思うか否かは、ここではあまり重要ではないと思っています。
あなたがめんどくさくっても、それを理解し、受け入れてもらえる他者との関係性はきっと作られているからです(それがたった1人でも、5000人でもね)。

重要なのは、「あなたとあなたの関係性」です。
もしあなたがすごく生きづらいとか、苦しいとか、消えてしまいたいとか思っているとしたら、きっとそれは「めんどくささをこじらせている」状態。
つまり「あなたとあなたの関係性」が悪くなっている状態かもしれません。
めんどくささをこじらせると、いろんな方面で不具合が発生します。だから、自分とはできるだけ仲良くなったほうがいい。それってどういうことか?続けていきます。

どんな警察を飼っている?

ここで少しわたしの話をさせてください。

かつてのいけかよは、明確に超めんどくさい奴でした。

自分のことは大嫌いでした。めちゃめちゃこじらせていました。
でも、人には好かれたくて、嫌われることがとっても怖かったんです。

そして、人に好かれるためにいつもいつも「いい人」「ごきげんな人」でいようとして、愚痴や文句や弱音や不安や怒りなどの気持ちは見て見ぬふり、もしくは薄っぺらいポジティブさで塗りつぶそうとしていました。

結果、承認欲求は膨れ上がり、自己否定と自己憐憫がいっぱいで、人に愛されたいくせに愛されたいなんて思ってはいけないとかめんどくさい人だと思われちゃいけないとか、人の悪口を言っちゃいけないとか人を罵倒してはいけない、思ってすらいけないとか、もう心の中は大混乱でした。
そして人の役に立たなければ、人より勝っていなければ、人に貢献・奉仕しなければ自分なんて生きている意味がないとすら思っていました。

そんな気持ちは当然苦しすぎます。そこでいけかよは、そんな自分のネガティブな気持ちを封印するようになりました。
つまり、自分の正直な気持ちに蓋をするということです。
蓋をして、気持ちも行動も、ガチガチに縛るような状況になってしまいました。

すると、「好き」とか「楽しい」とかのポジティブな気持ちもわからなくなってしまったのです。自分が何を好きなのか、何に喜びを感じるのか、自分はどうしたいのか。これがわからないというのは、人生においてけっこうつらいことです。同じような苦しみを抱えたことがある人は多いんじゃないでしょうか。

人間の感情というのはポジティブなものだけ感じてネガティブなものは封印するなんて都合のいいことはできないんですよね。もちろん、ずっと愚痴や文句や怒りばかり発しつづけるのは自分にとっても他人にとっても良くないけど、でも、それらがあるという事実を無視することは、人間としてとっても不自然なことでもあるのです。

ネガティブな感情というのは、そりゃー自分の弱さやズルさや恥っていうのを認めることになるからかなり苦しいことではあるんだけど、それをしっかり感じることができないと、喜びとか愛とか自分がはこれが好きだっていう気持ちもわからなくなってしまう。

これがいわゆる「生きづらさ」というものを生む原因のひとつだといけかよは思っています。
ていうか、わたし自身が自分の感情に蓋をすることで、ものすごく生きづらかったんです。 

あなたに対して「ネガティブ禁止。ポジティブのみ許す。それができない奴はだめなやつ」と言ってくる人がいたらどう思いますか?かなりきつくないですか?
かつてのいけかよは、自分のなかにこんな「ネガティブ警察」を飼って、自分をいじめていたんです。
もしかして、今も飼ってるかもしれない、と思う方もおられるかもしれませんね。

いけかよはこのネガティブ警察のおかげで心身ともにまあまあ苦しんだので、こいつを弱めるべく、自分の感情をしっかり認識して認めるということをこつこつやってきたんです。
おかげで、いまはだいぶ大人しくなって、ネガティブ警察は「ネガティブ警察ごっこをしている小学生」くらいになりました。

自分もネガティブ警察飼ってる、という方もおられるでしょうか。
人によっては「いい人警察」だったり「シゴデキ警察」だったり「いい親警察」だったり。なんらかの、あなたの言動や感情を否定してくる存在がいるかもしれません。
こんな存在がいるとしたら、それは「あなたがあなたをいじめている状態」と言えます。
これは、あなたがあなたとの関係性がうまくいっていないということ。

こうなってくると、自分だけなく他者をも取り締まろうとしてしまうのです。これがいわゆる「めんどくさい人」です。
自分のなかの警察に自分を取り締まられているあなたはきっとすごく我慢をしているはず。自分が我慢しているのに、目の前の他人は自由に楽しそうにやっている。
それを目の当たりにして、あなたのなかの警察が暴れ出したとき、あなたは人に承認を求めたり、過剰な自己主張をしたり悲劇のヒロインになったりしてしまう。
きっともちろん、無意識だと思います。だからこそめんどくさい。それが「警察」の怖いところ。
自分を顧みても、そう思います。

ネガティブ感情はこわくない

いけかよは完全に自分のなかの警察が自分をおさえつけていたので、前述のようにスーパーめんどくさくてスーパー生きづらかった。

こんな経験から、紆余曲折はありましたが、苦しさに懲りたいけかよは「自分に正直である」ということをすごく大切にするようになりました。

今も自分のなかにある淀んだめんどくさい気持ちを、日頃からきちんと認識するようにしています。
ポジティブな感情よりも、むしろネガティブな感情のほうをきちんと認識するように意識しているんです。これらを抑えつけてきて苦しんだわけですから、ムカつくとかモヤモヤするとかすごく怒ってるとか恥ずかしいとか全然納得できてないとか嫌だ!とか。

もちろん時間はかかりました。自分の感情がわからなくなってしまった上に、ものすごい怒りと悲しみと劣等感と被害者意識を抱えていて、それを認めることすら怖すぎてできなかった。これは本当につらかったです。だから、セラピストやカウンセラーなど専門家の手を借りつつ、日々「練習」をしていました。自分の感情をしっかり認識する練習です。
日々の小さな内側の葛藤や内観を経て、昔に比べたらずいぶんと自分に正直になりました。

では、どうすれば自分に正直になれるのでしょう?

まずひとつめは「感じてはいけない感情なんてない」ということを知ることです。
前述のように、感情というのは欲しいものだけ受け入れていらないものはキャンセルする、なんて都合のいいことはできません。辛い感情はたしかに受け止めるのは苦しいけど、でも感情は単なる「反応」にすぎません。誰だって自分を否定されれば傷つくし怒るし悲しいです。でもそれは腕をつねったら痛い、ということと同じです。良いとか悪いとかじゃなく、身体反応なんですね。

あと「ネガティブなことを考えていたらネガティブなことが起こる」みたいな、思考のしくみにビクビクしている人もいるかもしれません。いけかよは完全にそうでした。

でも、そんなこと起きません!!!!!

そりゃーネガティブな感情に囚われ、四六時中それにこだわり続けて考え続けて人や社会を恨み続けていたらたしかに人生が上向きにはならないでしょう。でも、一瞬の感情=単なる身体反応で人生が決まるなんて怖すぎます。

大事なのはネガティブ感情を無視することではなくって、むしろ逆にしっかり認識して、適切に取り扱うことなんです。
身体でも痛む所があれば無視していたらとんでもない病になってた、みたいなことが起きますよね。心でも同じなんです。

それが、もうひとつの方法、「あきらめる」ということです。

あなたを認めることができるのはあなただけ

生きていれば嫌なことはいくらでもあります。
すごく人を恨んだり、怒ったり、ここには書けないような言葉で他者を罵倒したくなることだってあると思うんです。
そして何より、そんな自分のことを大嫌いになることもあると思うんです。
でも、そんな自分を認めてください。あきらめてください。
認めるって難しいかもしれないけど、ここで相田みつをの登場です。にんげんだもの。聖人君子じゃないもの。嫌なものは嫌なんだから、そこに怒り悲しみ苛立ちがあるのはしょうがない。でもそれを無理に「肯定」しなくていい。「認識する」だけでいいんです。

自分は今すごく怒ってるとかすごく認められたがってるとか、本当はすごく弱くてずるいとか。

そんなふうに、ネガティブ感情を俯瞰するもうひとりの自分を自分のなかに置くこと(メタ認知というやつですね)で、あなたは加害者にも被害者にもならなくて済むんです。
ここでいう被害者および加害者というのは、実際に危害を加える/加えられるということではなく、意識のあり方だと思ってください。
自分の感情を抑えつけている人は、少なからず加害者意識や被害者意識があります。そう、これがまさにあなたのなかにいる「警察」です。これが「めんどくさい人」を生んでしまうんですよね。

自分と仲良くなるためには、その意識から脱却しなければいけない。
でも人間ってそもそもそんなに美しい生き物じゃありません。
だからこそ同じ人間として、聖人君子じゃなくて弱かったりずるかったりする人の方にわたしたちは共感するんじゃないでしょうか。
人の共感を集める人ってつまり魅力的な人っていうことになるんじゃないでしょうか。
そう、あなたの中にあるめんどくささは、ちゃんと取り扱えばあなたの魅力になるんです。
それはつまり、「あなたのなかのめんどくささを受け入れる」ということです。

いけかよは承認欲求が強いし目立ちたがりだし人に好かれたいし嫌われることはすごく怖いし。
でもだからって自分が嫌いな人から好かれたらイヤだし、自分は話が長いくせに話が長い人は嫌いだし、自分だって面倒くさいのに面倒くさい人のことは嫌いなんです。

でも、だからなんだというのでしょう。

人間ってそういう矛盾だらけの生き物なんです。
いいとか悪いとかじゃなくて、そもそもそういうめんどくさい生き物なんです。
だったら別によくないですか?あなたのままで。

これが「あきらめる」ということです。
「あきらめる」のは「自分であること」を、です。自分を許して、自分の本当の気持ちを受容して、とことん自分を生きる、ということです。

あきらめることができれば、自分以外のものにならなくて済みます。
人は、もっとちゃんとしてなきゃとかもっとシゴデキじゃなきゃとかもっといい人じゃなきゃとか考えて、自分以外のものになろうとするからめんどくさくなる。つまり生きづらくなってしまうんだと思うんです。

自分であることを諦めるというのは、自分に正直になり、自分を受容するということです。
そしてそれは、あなたにしかできません。
あなたをすべてありのまま受容してくれるのは、あなただけなんです。他人に受容されるよりも、あなたがあなたを受容することがもっともパワフルで意味があることなんです。自分とは一生つきあっていかなければならないからです。

そしたら、自分のなかにあるめんどくささを自分で認めることができて、結果的にそのめんどくささは淀むことなく、昇華していきます。
他人に受容されるのは、それからです。

自分のめんどくささを素直に受け止めることができる人は、他人の面倒くささも受け止めることができます。人間とはそもそもめんどくさい生き物だということを知るからです。そして、自分にも他人にも正直になれる。
そんな人って魅力的なんじゃないでしょうか。

自分に対して正直であれば、他人に対して嘘をつく必要もなくなるんです。

AIにはつくれない「めんどくささ」

あなたのなかにある「めんどくささ」は、あなたの「個性」に過ぎません。
承認欲求が強いとかこだわりが強いとか自己主張が強いとかというのも、裏を返せば努力家でプロ意識が高くて華があるとも言えます。
人の性格って全て裏表です。良いも悪いもないんです。

だからこそ、人間というのは予定“不”調和で矛盾に満ちていて予測もジャッジもできない。AIには作り出せない、生身で血の通ったコミュニケーションは、あなたの「めんどくささ」から生まれるかもしれないのです。

だから、あなたはあなたのままで「あなた」を思い切り生きてほしいと思います。それが結果的に、世界を幸せにすると思うからです。

では、また!

おまけ:素敵にめんどくさいあなたこそ自分と向き合ってほしい

ここまで書いてきたように、自分のなかのめんどくささを「魅力」にしていくためには「自分と向き合う」ということが不可欠だと、いけかよは思っています。

今自分は何を感じているか?
これをキャッチするための行為こそが、自分と対話するということです。
そんな自己対話力は、 AIがなんでも作ってくれる今の時代にこそ重要性を増していると、現役のライターとして現場で感じていることです。

AIとうまく協業しながら、いかに自分がつくることの意味をもたらすか。
それを「言葉の体温を取り戻す」というテーマで、みなさんと一緒に考える場をご用意しました。
「言葉の体温」を取り戻す、対話的ライティング入門講座
きちんと自分自身に立ち返り、内観し、「書くこと」「考えること」についてじっくり浸れる90分です。
いけかよの感じる仕事現場でのAIのリアルなんかもお伝えしますので、AIが得意な人も苦手な人も、ぜひご参加ください。

開催予定は以下のとおり。両日とも同内容です。
お申し込み&詳細は以下よりご確認ください。

2月17日(火)20:00〜21:30
https://elama.be/workshop-event/taiwawriting202602/

3月7日(土)10:00-11:30
https://elama.be/workshop-event/taiwawriting202603/

みなさんのご参加お待ちしています!

こんにちは!いけかよです。

あなたには「後悔」がありますか?
人生を振り返ってみたとき「ああ、あのときこうしていれば…!」というようなやつです。
そんなものはない!と言い切れる人もいるかもしれません。
ただ、人生で選択を迫られるときに「後悔のないようにしろ」となにやら圧めいたものをかけられることって、たびたびある気がします。
いけかよは、どうにもそこにいつもモヤモヤするんだよね、という、今日はそんなおはなし。

後悔のない人生が良い人生か?

あなたもこれまで「やらないと後悔するよ」とか「後悔しても知らないよ」とか「後悔のないようにね」とか、後悔することを異様にビビらせてくる人に一度くらいは会ったことがあるのではないでしょうか。

また、ときどききかれるのは「人が死ぬとき後悔するのは…」っていうやつですね。もうあえて書きませんけども。

なぜこんなにわたしたちは「後悔する」ことをビビらされているのでしょう?
後悔するということはもうそのときになんらかが「時すでに遅し」で、取り返しがつかなくなっているからでしょうか?

しかしいけかよは「後悔したってええやん」と思っているのです。

もちろん、人の命がかかってくるような事態は別ですが、多くの場合、人生というのは取り返しがつくものです。

もしあなたが45歳で「学生時代にもっと勉強していればもっといい会社でいいポジションにつけたのに…!」と後悔することがあったとしたら、いまからでも勉強したらええやん、と思うのです。
そしていまからでも「もっといい会社」に転職をトライしてみたらええやん、と思うのです。
一方で、「あまり勉強しなかったからそこそこの会社に就職して生きてきたいまの人生」は無価値なのでしょうか?決してそんなことはないはずなのです。その道を歩んだからこそ得られたもの、人、経験がありますよね。
どんな道を歩いたとしても、すべてが尊いと、いけかよは思っているのです。
そしていま後悔して勉強を始めたとしたら、それがあなたにとって学び始めるベストなタイミングだったということなのです。

かくいういけかよは、実は過去に後悔はひとつもありません。「あほなことしたなぁ」と思うことや「あれは申し訳ないことをしたな…」と謝りたい気持ちになること、胸がぎゅっとなることはたくさんありますが、後悔ってひとつもないと言い切れます。
あ、もちろん、飲みすぎて二日酔いの朝に「昨夜のヘパリーゼはグレード上げて『極』にしといたらよかった…」みたいな小さい後悔は日々ありますよ。でも、何年も悔やむような後悔はありません。

それは決してわたしがかっこよい生き方をしてきたということではありません。
むしろ、めちゃめちゃアホで情けなくて必死で生きてきた、という感じです。だからこそ、いかに自分がアホだったかを痛感しているからこそ、「あのときはあの選択しかできなかったよね」と納得できているんです。

そういう意味でいくと、過去に後悔がある人というのは、ご自身への期待値がすごく高いのかもしれません。「自分はもっと良い選択ができたはずの人間なのに…!」という期待値です。これは高いのがいいとか悪いとかではありませんよ。ただ、自分への期待値が不適切に高いと、それが過去の出来事だった場合に「後悔」に転換してしまうのかもしれません。

人はつねに精一杯の力で生きてる説

いけかよは、人間というのはいつもいつも精一杯の力で生きるという機能の存在だと思っています。
過去にもそのようなことをこちらの記事で少し書きました。
https://note.com/elamajp/n/nb85f63070a7a

あなたがどれだけダラダラしているとしても、いまのあなたの精一杯がその「ダラダラ」なのです。人には「気が乗らない」「なんとなくやる気が出ない」ということがしょっちゅうありますから。そんな自分を責める必要は一切ありません。

一方エネルギーがすごくあって元気なときに「調子に乗るのはやめとこう」とあえてエネルギーを小出しにするのって、逆にエネルギーを消費してしまうような気がしませんか?「エネルギーをおさえるためにエネルギーを使う」みたいな。
自分の心と身体のなすがままにしているというのが、人間にとって本来もっとも健やかな気がするのです。

そう考えると、過去の自分の選択というのも、そのときそのときの自分が精一杯考えて出した結果だと言えると思いませんか?
「精一杯やった」というと「そんなに力入れてやったことばかりじゃない」と思うかもしれませんが、たくさん考えても考えなくても下した判断はそのときの自分にとってのベストだったはずだ、と言い換えられます。

この理論から、過去アホだったいけかよはアホなりに精一杯やったと思うので後悔がないのです。その自分が、今の自分をつくっている。すごく大切な経験ばかりでした。もう二度と戻りたくないけど!(笑)

そしてこれからもきっとアホなりに、そのときそのときの精一杯で選択をしていくと思うのです。だからそれが、自分にとっての「正解」なんです。
さっき、過去の自分に期待値が高いと後悔に転換するのかも、と言いました。じゃあ、未来の自分に期待値が高かったら?それはつまり「自分の選択はすべてがベスト」という大前提のもと、自分を支えてくれる期待です。
期待するなら、今この瞬間からの未来の自分に期待できるといいですよね。

そこには「体験」があるだけ

とはいえ、この先後悔をまったくせずに生きていけるかというと、それもわかりません。いけかよの人生も後半戦に突入した今、これまで味わったことない経験もきっと待っているはずですから、あっけらかんとしてばかりもいられないかもしれません。

でも、だからこそと言いましょうか、後悔することがあったとしても、それってすばらしい経験なんじゃないかとも思うのです。
すごく強い後悔って、きっと人を、人の生き方を変えます。悔やんでも悔やみきれない気持ちを抱えるのは苦しすぎるかもしれないけど、でも、だからってその経験を不要だと言い切れるでしょうか?その経験があるからこそ拓ける道というものがある気がするのです。

だとしたら、後悔ってすばらしい経験だと言えると思いませんか?

人はなぜ生まれるのか?そこにはただただ「体験したい」という願望があるのだと、とある人が言いました。

「成し遂げてもいいし、成し遂げられなくてもいい。そこにはただ体験があるだけ」
そしてこれは最近読んだ本でシビれた一文です。

わたしたちはきっと幸せになるために生まれてきているし、自分にとっての幸せってなんなのかを探求することそのものが人生といえます。でも、そこでいわゆる“幸せ”な、つまりはハッピーでポジティブな経験ばかりを「体験」としてカウントし、そうでない辛い苦しい経験は「なんでこんなことが起こるんだ!」と嘆くのは「体験」という観点からみると、ナンセンスなのだろうと思います。

ハッピーも苦しみも、ただの「体験」にすぎない。価値は同等です。
言い方を変えれば、ハッピーも苦しみもすべからく尊い「体験」なのだということです。
とてもそんなふうには思えない、とお感じでしょうか。
でも、生まれてから死ぬまですべてがハッピーポジティブだけだったとしたら、なんて退屈な人生だったのかと、それこそ死ぬ前に後悔するかもしれません。

強い後悔は、人生の転機となりうる貴重な経験なはずです。
そう思えば、後悔することって大してビビる必要ないと思いませんか?
後悔することをビビるよりも、後悔をビビって前に進めない状況にこそビビったほうがいい。
どうせ、どんな道を選択したってベストなんです。10日考えても一瞬しか考えなくても、選択した道はベストなんです。

それを、あなたが選んだのなら。

では、また!
Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)

こんにちは!いけかよです。

去る2025年7月18〜21日の4日間、飛騨高山で「対話的な場の作り方合宿」が行われました。

エラマプロジェクトでは初の試みとなる「対話」をテーマにしたプログラムです。

エラマプロジェクトにおいて「対話」というのは切っても切り離せない、とても重要なツールなのですが、それを扱うのにはそれなりの覚悟と勇気が必要でした。

そして実際に行われた合宿は、その覚悟と勇気が試され、結実した場でもありました。

今回はその合宿のレポートとともに、わたしが改めて「対話」について感じたことをお伝えしてみたいと思います。

プロフェッショナルたちによるさまざまなアプローチ

今回の対話合宿のコンテンツはざっくりとこんなかんじでした。

●フィンランド式対話についての理論
●「哲学バー」についての話し
●積極的傾聴
●コミュニケーションにおいて気をつけたいポイント(さまざまな心理学的アプローチからのナレッジ)
●対話の実践
●「聴く」とはどういうことか
●自己対話
●植物に触れ、対話する
●コンセプチュアルなディナー

フィンランドは「オープンダイアローグ」発祥の地です。

オープンダイアローグという言葉もそれなりに知られてきた感もありますが、そもそも何なのかというと、精神科医療における対話療法の一種。つまり、医療や治療のために用いられていたんですね。しかし、患者と主治医だけではなく、家族、医療スタッフなどが集まって対話することで問題解決を図るというアプローチです。「閉じた会話」ではなく文字通り「開かれた対話」ということですね。

このような手法が生まれるフィンランドという国は、対話において「先進国」と言えるかもしれません。

そのオープンダイアローグ手法の理論をベースにした侑美さんからの講義と、インタビューライターや哲学バーでの場作り経験をもとにしたわたしのナレッジとが、今回のプログラムの柱になっています。

場所はエラマプロジェクトではおなじみの「飛騨にゅうかわ太陽の家」。この場の力もすごいんですよね

フィンランドでは対話の場ではお茶やお菓子は欠かせません。長時間に及ぶワークにはもちろん必須!

エラマプロジェクトがセレクトした本も用意して、自由に手にとっていただきました。これも世界観をつくる大事な要素

参加してくださったのは、医療関係の方や企業での総務担当の方など、バックグラウンドはさまざまな4名の方でした。

侑美さんが参加者ひとりひとりにまっさらのノートを提供。みなさんは自由にメモをとりながらすべてのワークを味わっていきます。

「対話とはなんぞや?」を、侑美さんとわたしそれぞれの、さまざまな観点からの捉え方をしっかりと共有させていただきました。

対話は人間とだけするものではない

エラマプロジェクトだからこそできた今回のプログラムのスペシャル企画は、お店を持たないシェフ、Earth to tableの河野美沙さんによるスペシャルな毎日の朝食&ディナーと、植物のスペシャリスト、アルプガーデンの内方智香子さんによるお話と植物アレンジ体験。

この2人のプロフェッショナルについてもお伝えさせてください。

まずは一人目、美沙さん。

もちろん、3泊4日の合宿で、食事が楽しみなのは当然!

ですが、この食事からも、さまざまな「対話」を味わっていただきたいという意図がありました。

食事って、ただカロリーを摂取するだけのものではありませんよね。目で見て、匂いにそそられて、そして味わう。これこそ対話そのものだと思いませんか?

それを、想いとストーリーをもって提供してくれる美沙さんのお料理は、やっぱりスペシャルなんです。

太陽の家にあるキッチンは広くて素晴らしいんです。合宿中、美沙さんはまるで寮母さんみたいでした。作っている現場を気軽に覗けて、シェフと直接話せることも醍醐味なんですよね

こちらは初日の夜のウェルカムディナー。乾杯を心待ちにしている瞬間…!

こんな夏らしいメニュー!でも美沙さんの手にかかればひとあじもふたあじも違う…!

いつもは食べない朝食も、しっかりいただいてしまう不思議

このお料理と美沙さんの語るそれぞれの食材の物語が、どれだけわたしたちをほぐし、癒やし、満たしてくれたかは想像に難くないでしょう?

作ってくれるお料理の素材すべてがエネルギーに満ちているのです。まさに、愛をもってつくってくださっているからこその味わいでした。

そしてもうひとりのプロフェッショナル、智香子さん。

最初にご自身のこれまでの道のりを、じっくり語ってくださいました。

全員が智香子さんの話しに聞き入ります

わたしはインタビューという仕事を経験していることから、つねづね「人の心を動かすのは人の生きざま」だと思っています。それをあざやかに示してくれた瞬間でした。

ここまで、ご自身の言葉で飾らずにみずからの人生を語れる人はそういません。

智香子さんのお話は決してジェットコースターのような展開ではありません。それでも、人生に真摯に向き合って来た人だからこその「本気」が、わたしたちの心を揺さぶるのです。

そしてその後は智香子さんのレクチャーのもと、植物アレンジ体験です。

智香子さんが用意してくださった植物たち。智香子さんのユニークな点は、野生の植物をもののみごとに扱えること。これ、すべてそうなんです

エラマのオリジナルククサに、各々が思いのままに植物をアレンジしていきます

全員の完成品がこれ!素敵でしょ!

ディナーテーブルのアレンジも、もちろん智香子さん

こんなふうに「対話」というテーマを通じて、さまざまな「プロの仕事」にも触れた日々だったのです。

それはわたしたちの五感と心を揺らし、それによってさらに対話が深まる…。

手前味噌ながら、完璧な場をご提供できたと自負しています。

対話の場は「あり方」がつくる

今回わたしが意識したのは「実践」でした。

「対話」とはその人の「あり方」であり「行動」です。それは、知識のインプットだけで身につくわけでは当然ありませんし、一朝一夕で習得できるものでもありません。

実際対話をする場において「失敗」はつきもの。勝手な誤解やちょっとした態度で傷ついたり傷つけたり、わたしたちはなかなかにやっかいで、気忙しい。

その「失敗」が、その後の関係性に大きな傷を残すこともあるでしょう。

また、相手としっかり通じ合えたと感じたとしても、相手の心の中を正確に理解することはできません。

そんな危険性をはらんでいるのも「対話」。

だからこそ、「対話」を実践してその難しさを体感し、失敗してもらいたい。そんな気持ちもありました。

この対話合宿という場は、失敗が許される場だからです。

そうやってわたしもたくさん失敗をしてきたからです。

そしてナウ今も失敗し、自己嫌悪になったり人を恨んだりの繰り返しです。

そんな自分が情けなくて嫌で泣けてくることもあります。

それでも、対話をやめることができない。

他者とも、そして何より自分とも。

わたしが、そしてもちろん侑美さんが今回意識したもうひとつの要素こそが「自分との対話」です。

これこそが、エラマプロジェクトが伝え続けていることの根幹にあるもの。

わたしたちは、自分としっかり対話をすることで世界に目を向けることができます。

自分が何を感じているか。

自分は何を求めているか。

自分は世界をどう見ているか。

これらをしっかりと捕まえることができたとき、自分の「あり方」が定まります。

その「あり方」が、対話の場をつくるんです。

なぜなら、自分との対話をすることで生まれてくるのが「自分の言葉」だからです。

対話は、言葉だけでなされるものではありません。会話のない対話も、対話のあり方です。

しかし、言葉は重要な道具のひとつであることは間違いありません。

あなたはだれかと話しをしていて「この人、自分の言葉で喋ってないな」とか「本音じゃないな」と感じたことはありませんか?

わたしはそういう違和感を覚える言葉を「借り物の言葉」と表現しますが、借り物の言葉だとどうしても対話にはつながりにくいように感じます。

もちろん、それがだめだというわけではありません。どんな言葉を選ぼうともそれは自由だし、自分の言葉を持てないときだってあるからです。

しかし、「あれはまさに対話だった」と感じられる瞬間は、借り物の言葉では生み出されない気がします。

双方の心のひだに触れ、生身の「その人味(み)」を感じられてこその対話であり、だからこそ「どう在るか」によって対話の場はつくられるんですね。

わたしたちは対話をせずにはいられない

結局対話とは何なのか?

今回の対話合宿を終えて感じたのは、根底からテーマを覆すようなこの大きな「?」でした。

なぜこうも「対話」することは難しいのか。

「対話」を扱うことは難しいのか。

わたしは、それは対話が「呼吸」と同じようなものだからなのではないか、と思うのです。

わたしたちは呼吸しなければ生きていけません。そういう機能の生き物ですね。

対話も、呼吸と同じレベルのものなのではないかと思うのです。

呼吸って、あたりまえすぎて、必須すぎて、「なぜわたしたちは呼吸するのか」なんて、問えないと思いませんか?

いけかよは、対話は呼吸と同レベルで、人間には生きていく上で必須のものだと思うのです。

ていうか、対話とは「あり方」だと先に言いました。

それはつまり、人間が存在しているだけで生まれてしまうのが対話だということを意味します。だとしたら人間が2人以上いるときに「話さない」「心を開かない」というのも、対話のあり方だと思うのです。

それがポジティブかネガティブかは関係ありません。

なぜなら、いけかよは対話とは「空気を共有すること」だと思うからです。

否が応でも、リアルでもオンラインだったとしても、お互いの持つ「空気」は触れ合ってしまいます。

そこで生まれる化学反応的なものは、意図して操れるものではありませんよね。

(それができる人が詐欺師とか教祖とかカリスマとか、そういう存在なのかも)

もちろん、前述したようにオープンダイアローグのような明確な意図のもと行われる場合には、ぞれぞれの合意の上で積極的かつ誠実な姿勢が求められるでしょう。

しかし、日常で繰り広げられているコミュニケーションのうち、何%がポジティブで意味のあるものか?

わたしたちは、まるで息をするように対話をしているのではないか。

そもそも、人間という生き物は、そういうものなのではないか。

呼吸だって、たまにしづらいときがあります。

何かに集中しているときは無意識に息が止まっていることもあります。

逆に、しっかり深い呼吸を意図してすることもできます。

これってまるで対話のようだと思いませんか?

たまにはとっつきにくい人がいる。

何かに集中したいときには外界をシャットアウトしたいこともある。

でも、しっかりリラックスして相手に心を開いて愛を持って接することもできる。

対話とは、わたしたちに標準装備であり、せずには生きられないからこそ、扱いが難しく、考えてもなかなか答えが出づらいものだと思ったのです。

「呼吸のプロ」なんてきいたことありません。

だからきっと「対話のプロ」なんていう人も、存在しないと思うのです。

なぜなら対話は人間が生きるために必要な「道具」「機能」のひとつだからです。

でも、しんどいときでも深い呼吸をして心を整えるというティップスがあるように、少しコツを知っていればよりよい対話を、他者とも、自分ともすることができるのではないか、と思うのです。

そのために、エラマプロジェクトではこのなかなかに捉えどころのない「対話」をこれからもしつこく追いかけていきたいと思っています。

それが、自分と、世界と、仲良くするための道具だと信じているからです。

このプログラムは、次の開催も予定しています。

気になる方はぜひ、エラマプロジェクトのホームページFacebookinstagramをフォローしてお待ち下さいね。

では、また!

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)

先日、夏の光が美しい飛騨高山で、3泊4日の「対話的な場の作り方合宿」を無事に開催いたしました。ご参加くださった皆様、そして関心を寄せてくださったすべての方々に、心より感謝申し上げます。

この4日間は、単なる研修やセミナーではありませんでした。フィンランドの対話文化、哲学の深い問い、飛騨高山の豊かな自然、そして集った一人ひとりの人生が響き合い、一つの壮大なアート作品を全員で創り上げたような、奇跡の時間となりました。

この記事では、その感動と学びの本質を、当日の様子と共にご報告します。

五感で味わう、飛騨高山という舞台

今回の合宿で私たちが大切にしたのは、「頭で理解する」だけでなく「身体で感じる」こと。その中心にあったのが、飛騨高山に根ざすプロフェッショナルたちが届けてくれた、五感をひらく豊かな体験です。

大地のエネルギーをいただく食事

料理人・河野美紗さん(Earth to Table)が振る舞ってくれたのは、もはや「料理」という言葉では表現しきれない、彼女の人生のストーリーが詰まった一皿一皿でした。飛騨の農家さんと丁寧にコミュニケーションを重ねて届けられた、採れたての夏野菜たち。ナス、きゅうり、トマト、ズッキーニ…その一つひとつが持つ生命力に、参加者の皆さんは息をのみました。

「料理で雷に打たれるって、こういうことだったんですね」とある参加者さんが語ったように、それは飛騨の大地のエネルギーをいただく、魂を満たす体験でした。

飛騨の森の記憶を、永遠の贈り物に

贈られた人は幸せになるというフィンランドの工芸品「ククサ」。Elämäオリジナルの、飛騨高山の木から職人さんが一つひとつ手作りした特別なククサに、飛騨在住の植物のプロ・内方智香子さんと共に、地元の植物をあしらっていく。

それは、フィンランドの魂が宿る器に、飛騨の森の記憶を封じ込めるような、静かで神聖な「自然との対話」の時間となりました。

「対話」とはスキルか、在り方か? — 講師陣が届けた深い学び

この豊かな体験の土台の上で、いよいよ「対話」の核心に迫る講義が始まりました。

フィンランドの知恵:「聞く」とは、自然の声まで聴くこと

講師の石原侑美からは、フィンランドの対話文化の背景にある「オープンダイアローグ」の思想をベースに、心地よい場を創るための5つの空間(身体的、時間的、心理的、社会的、会話的)についてお伝えしました。そして「聞く」とは、人の話だけでなく、自然や自分自身の声にまで耳を澄ませる行為であるという、アニミズム的な視点も共有されました。

哲学の問い:対話とは「Inter-View(相互に見る)」こと

講師のいけかよさんからは、「答えを出さない」ことを大切にする哲学バーの実践を通して、対話の技術(How to)以前の「在り方(Being)」を探求しました。傾聴の壁となる自分の中の無意識の「評価(ジャッジ)」に気づき、相手を理解しようとするのではなく、好奇心を持って「相手の隣に座り、同じ景色を眺める」。その在り方こそが、真の対話「Inter-View(相互に見る)」なのだと、参加者の皆さんは深く頷かれていました。

「安心して弱さを話せた」— 参加者の皆さんの声

理論と体験が融合し、心理的安全性が確保されたこの場で、参加者の皆さんからは宝物のような言葉がたくさん生まれました。

「今まで色々な研修を受けてきたけれど、こんなに安心して自分の弱さも話せたのは人生で初めてです。『受け止められる』って、こういうことなんですね」

「正直に言います。私の人生のターニングポイントになりました。料理に雷を打たれ、言葉に心を揺さぶられ、ここから何かが新しく始まる確信があります」

「傾聴ワークで、聴いているようで全然聴けていなかった自分に気づきました。自分の『正しさ』というフィルターを外して聴くことの難しさと、その先にある世界の豊かさを知りました」

「肩書きを外して、ただの“わたし”としてここにいられたことが、何よりのギフトでした。いつの間にか、まるで家族のように感じていました」

この感動の続きを、あなたも体験しませんか?

この合宿は、誰かが一方的に教える場ではありませんでした。専門家と参加者が互いに影響を与え合い、共に場を創り上げた「共創」の4日間でした。

もしこの記事を読んで、あなたの心が少しでも震えたなら。次は、あなたがこの物語の主人公になる番かもしれません。

1. もっと詳しく知りたい!まずはオンライン報告会へ

合宿の熱気と学びを、写真や参加者の声と共にお届けします。「対話って何だろう?」という問いを、一緒に探求しませんか?

・イベント名: 【オンライン】エラマの学校の対話合宿報告会
・日時: 2025年8月6日(水) 20:00〜21:30
・場所: オンライン(zoom)
・料金: 一般 500円(会員制コミュニティ「エラマの森」住民は無料)

>>詳細はこちら

2. 継続的に学び、仲間と繋がりたい方は「エラマの森」へ

Elämäプロジェクトの学びのほとんどが無料または割引で受けられる、会員制コミュニティです。オンラインでの学びや対話、年に2回の飛騨高山オフ会など、あなたの「第二の故郷」のような場所がここにあります。

>>会員制コミュニティ「エラマの森」の詳細はこちら

【予告】対話合宿 第2弾、開催決定!

大変ご好評をいただいたこの合宿、早くも第2弾の開催を予定しています!
詳しい日程や内容は、決まり次第公式サイトやSNSでお知らせします。「次こそは!」と思われた方は、ぜひElämäプロジェクトのInstagramをフォローして、最新情報をお待ちください。

またいつか、どこかの「対話の場」で、あなたとお会いできることを心から楽しみにしています。
kiitos!(キートス!)

こんにちは!いけかよです。

5月も終わろうとしている今日このごろですが、5月病の人はいませんか?

いけかよは、いまのところだいじょうぶ。

でも、この春はいろんなところで人事異動やら組織改編やら事業改変やらがありまして、わたしも新たなフィールドで新たな企画が始まることになったり、いろんな人のいろんな変化に影響受けたりで、なかなかに落ち着かないサーフィンのような日々であります。

そんななかで、新たな領域に踏み込むと新たな人、価値観、常識と出会います。それらは、これまでの自分の中にある経験や文脈では理解できないことも。

もちろんそんな状況から人は新たなことを学び、成長するわけですが、そこで必要になってくるのはやはり「対話」です。

もちろん他者との対話も重要ですが、今回はそれよりも自分との対話が先かも、というお話。

対話が重要とされる理由

対話することの重要性はいまも昔も変わりません。

でも、対話の方法や位置づけは変わってきているように思います。

たとえば「方法」で言うなら専門的な領域(ケアや教育、福祉など)の方々がさまざまな「●●ダイアローグ」的なメソッドを作られていたりします。

そして位置づけという点では、ことさらに「対話が重要!」と叫ばれるほど、「対話」というものが身近ではなくなってきている、とも言えるかもしれません。

絶滅危惧種の動物は「守りましょう!」ってなりますよね。それと同じ。「対話」が絶滅危惧種だからこそ「重要だ!」と言われるのです。

それはつまり、わたしたちは「会話」はしているけど「対話」はしていない、と言えるのでは?と思うのです。

何が違うのかというと、いけかよ的には「情報」は共有しているけど「気持ち」は共有していないのでは、ということなんです。

もちろんきちんと対話できる人も場もまったくなくなってしまったわけではありません。でも、それは意識的につくらなければいけないものになってしまっているのが現代なのかな、と思うのです。

昔はそれがあった、今はない。じゃあ昔っていつ?と問われればそれに明確に答えることは難しいです、ごめんなさい!

しかし、はっきりと感じているのはいま「対話」はすごく大切なのに「しよう!」という意図がなければできないものである、ということ。

(いつかははっきりとは言えないけど)昔は自然に「対話」は生まれていたんじゃないかと思うのです。

それはなぜか?

みんなに「心の余裕」があったから。

必要なのは誰との対話?

対話をするとはどういうことか?

いけかよは「空気を共有すること」だと思うのです。

日本人には「空気を読む」という、ある種の特殊技能がありますが、その文脈で語られる空気もそうだし、気持ち・感情なども含めた「空気」です。

一方「会話」は前述のとおり「情報共有」です。

暑い、寒い、●日までに△△しといて、牛乳買ってきて、どこどこいってくる、●日に会おう、みたいな。

これはどちらが良いとか悪いとかではありません。用途の違いですね。どちらかが過剰でも生きにくいと思います。

ただ、会話ばかりで対話が減ってくると人と人との関係はやはり乾いてきます。

それが続くと、今度はギスギスしてきます。

すると、ちょっと悲しい状態になってしまいますよね。それは想像に難くないと思います。

限界までいくと、人の心も、ひいては命までも壊れてしまうことになりかねない。

そんな悲しい状態にならないために、というか、人間同士が健やかに軽やかに生きていくために、対話は必須なのですが、その対話のためにはやはり「心の余裕」が必要なんですよね。

だって、自分が追い詰められていて必死なときに誰かの気持ちを察したり寄り添ったり理解したりなんて、無理ですよね。

心の余裕がなくなってしまいがちなのがいまの世の中。急がされたりプレッシャーがかかったり不安が多かったり怒りに飲まれてしまったり。

言いたいことも言えないこんなポイズンな世の中じゃ……!対話できなくても仕方ない、かもしれません。

しかし!だからこそ、必要なのはやっぱり「対話」。

でもそれは、他者との対話ではなく自分との対話です。

いま自分はどこにいて何をしていて、何を感じている?

自分はいま何をしたい?どうありたい?なにがほしい?

これらは自分に問わねばどんどんわからなくなってしまうことなんですよね。かくいういけかよは、そうでした。自分迷子でした。ていうか、いまでも自分迷子に全然なります。

いま自分はどういう状態か?なにを思っているか?

これを理解することが、心の余裕を持つことにつながります。

似たようなことを言っているアプローチをきいたことがありませんか?

そう、マインドフルネス!

自分迷子になりがちな現代に、やはり必要な要素として(というか、多くの人が「なにかがおかしい」と感じていたときに必然的にもたらされ、支持されたというべきか)提示されたのがマインドフルネスだといけかよは思っています。

ほんの数秒でも数分でもいいから、自分自身に集中する。そうすることで心の余裕は生まれます。

すると、他者への関心も蘇ってくる。

まずは自分との対話、そして他者との対話、の順番なんです。

「理解」は必要か?

とはいえ、いけかよは他者との対話はわかり合うために行うものではないような気がしています。

先に「対話とは空気を共有しあうもの」と言ったことと矛盾するとお思いでしょうか。

しかし、「相手を理解する」なんて、けっこうおこがましいことだといけかよは感じているんです。

だって、自分だって自分自身のことがわからないことがあるのに、他者のことなんてもっとわからないと思いませんか?

人を「理解する」というのは「あの人はこういう人だ」と「決めつける」「ジャッジする」ことに近いといけかよは思うんです。でも人は変化する生き物です。それはいいとか悪いとかではありません。環境や時代や教育や経験によってどんどん変わります。

そんな存在を「理解する」なんて、無理やん!と思っています。

だからって「あなたのことは理解できない」なんて言われたらショックかもしれませんね。

しかしこれは相手との関係構築を放棄することではありません。

相手を理解しなくても関係構築はできます。

だからこそ「対話」なんです。

対話は空気を共有すること。それは、相手をジャッジするのではなくそのままを「受け止める」ことです。

相手がごきげんでも、怒っていても、悲しんでいても、不安がっていても、それをそのまま受け止める。

無理な共感も、励ましもアドバイスも基本的にはいらない。そして裏を読もうとしない。裏読みする行為はジャッジすることです。

相手を完全にわかることはできない。

でも、受け止めることはできます。

これで対話はじゅうぶん成り立つといけかよは思います。

対話とは、いわば「わからない」をわかり合う行為とも言えるのです。

自分の真ん中に自分を置く

とはいえ、そんな聖人君子のようなふるまいで対話するなんてなかなか難しいことです。

偉そうなことを書いておきながら、いけかよだって全然!できていません!「あいつムカつく」とか言っちゃいます!ごめんなさい!

でも、だからこそまず自分との対話なんです。

「あ、あたしいまめっちゃムカついてるわ」ってことに気づくことが大事なんです。そこから「なんでこんなにムカついてるんやろ?」「ほんまはどうしたいんやろ?」と、自分の心を紐解いていくんです。

それができてから、他者に向き合う。

まず自分、そして他者。この順番は、絶対だと思うんです。

それは「自分の真ん中に自分を置く」っていう感じ。

他者ではなく。

わたしたちは、人に尽くしなさいとか人にゆずりなさいとか、自己犠牲的な振る舞いとかを学ばされてきました。もちろんそれが功を奏することもあるし、素敵な交流を生むことだってあります。

でも、自分がごきげんでないときに、他者をごきげんにできるでしょうか?

まず自分を自分の、世界の真ん中に置く。自分の幸せが世界の幸せだといけかよは本気で思っているんです。

対話的な場の作り方合宿 in 飛騨高山

最後に少しお知らせをさせてください。

自分と向き合い、すばらしい対話の場をつくるためのスペシャルなプログラムをご用意しました。

対話的な場の作り方合宿 in 飛騨高山
〜フィンランドの文化と飛騨高山の自然から学ぶ〜

2025年7月18日(金)〜7月21日(祝)、3泊4日を飛騨高山のコテージで過ごしながら「対話」についての対話をしていきます。

フィンランド式対話術のスキルから、ざっくばらんなトーク時間の作り方、そしてもちろん自分と向き合うことについても、幅広く、深く、じっくりと学べるプログラムになっています。

なんとなく落ち着かないとか、気持ちがざわざわするとか、忙しさばかりの日々だったりとか。そんなときに少しでも立ち止まることができれば、わたしたちは自分を取り戻すことができます。

自分を真ん中に置くこと。

それを思い出せるよう、飛騨高山でお待ちしていますね。

では、また!

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)

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こんにちは!いけかよです。

先日、いけかよは44歳になりました。

めちゃめちゃ若くもないけど、でもまだまだこれから、な年齢と言えるでしょうか。

「四十にして惑わず」なはずの歳から4年も経ちましたが、いまだに惑いまくりな年齢ともいえます。

そんな折、同い年の友達から「人って44歳と60歳でいっきに老けるらしいで」という情報が。

またまたそんな、適当な噂信じたらあかんでぇ、と思っていたら、お世話になっているパーソナルトレーナーさんからも同じ話を聞き、調べてみるとなんとスタンフォード大学などでの研究で明らかになったことらしいのです。

てか研究対象108人て。なんで煩悩の数やねん。

とツッコミつつ、そんな研究を「そうかも」と思わずにいられないいけかよの昨今の出来事を振り返りたいと思います。

元気キャラが売りだったのに

実は、9月の下旬、44歳の誕生日を迎えたその次の日に(!)、いきなり体中が痛みだして寒気が止まらないという症状が発生し、そこから5日ほど発熱して寝込むという事態になってしまったのでした。

スタンフォードの研究恐るべし。

っていうか、研究に実直すぎる?あたしの体恐るべし。

大人になってから数日間にわたり、しかもまあまあな高熱を出して寝込むのは初めてでした。2024年始まってからずっと走り続けてきていたので、その疲れがいっきにきた、という感覚でした。

ほんとうにしんどかった。毎日晩酌をしているいけかよですが、さすがにこのときは普通に断酒状態で(当たり前か(笑))、食べることすら辛かった。何を食べても美味しくないのです。

「ああ、人ってこうやって死んでいくんやなぁ」と、判断能力の落ちた頭でぼんやり考えていました。食べるというのは、エネルギーを取り入れるという、生きていく上でもっとも基本的な行為です。食べるという行為じたいにもエネルギーが必要。「食べたい」はイコール「生きたい」です。それが「いらない」となるということは、「死にたい」と同じとも言える。

やっぱり病気や体調不良でそれまで当たり前にできていたことができなくなると、いろんなことを考えますね。いけかのように発熱レベルの些細なものでも、やはり「自分ってなんなんだろう」とか「なんでこんなことになったんだろう」とか「これにはどんな意味があるんだろう」とか、考えました。まあ、ポジティブなことはあまり考えられませんでしたけども。

もしくはよくわからない妄想とか。寝すぎて眠気はないものの、つらいのでただ横になってることしかできないから、やたらと脳ミソが暴走する感じです。

それから熱は下がったものの、体へのダメージはそこそこにあったようで、10日ほどは微熱が続き、さらに1ヶ月ほども微妙なしんどさや不調がずっとつきまといました。

ゆえに、お仕事もちょっと在宅を増やしたり、出かける用事はなるべく減らしたりと、省エネモードの日々が続きました。

そうすると、結局は熱を出して寝込んでいるときの延長。つまり、ずっと自分の身体に向き合うということをし続けることになったのです。

今日はあたし食べれるかな? 今日は元気かな?と。

「老い」を受け入れる

奇しくも、発熱する少し前から、身体には小さな不調が出ていました。自分にとってはよくある「いつものやつ」です。

なので、かかりつけの漢方医さんに薬を処方してもらったり、自分なりに休んだり食べたり。

でも、もともと若干健康オタク気味なわたしは、ネットでいろんな心身の健康についての情報を拾ったり本を読んだり講座を受けたりしていました。

実は、その動きが加速していたのは夏頃からでした。

「44歳の壁」を身体は察していたのでしょうか。

そこでピンとくるものに出会い、学び始めたのがアーユルヴェーダでした。

学ぶことは、ざっくりいえば心身の健康に関する知識と、毎日できるセルフケアです。

学びはじめた直後に発熱して倒れたので、わりといろいろな役立つ知識を実践できて、そういう意味でもなんちゅうタイミング、というかんじ。

学びはじめて理解したのは、当たり前ですが20代、30代のときと身体は違うということ。だから、食べ方も眠り方も不調の治し方も、20代30代の頃とは変えなきゃいけないんですよね。

自分には自分の歴史=データしかないから、ついつい「いつもこれでいける」のパターンを信じちゃうんですが、でも自分の身体は(きっと心も)「いつも」じゃない。どんどん変わっていく。

だから「いつものやつ」が効かなくなってくるんですよね。

それを「老い」だと受け入れるのは、少し勇気がいりました。なんか、やっぱり負けたような、いろんなものを諦めなきゃいけないような、侘しい気持ちになるからです。

でも、自分の身体を変えていけるということも、同時に学んでいます。

30代までは、自分が元気で健康なのは当たり前でした。

でも、それが少しずつそうじゃなくなる。でも、自分で治していくことができる。

44歳だからこそ味わえる、元気であることの喜びは、尊いものだとも思います。

自分を治すために自分を知る

そもそも、いろんな身体の不調は自分で治すべきものなんですよね。お医者さんが治してくれるものではない。

もちろん、お医者さんやセラピストさんなどの専門家も頼るし、手術やお薬や整体やサプリメントなどの助けも借りますが、自分の身体を治すのは自分。

いけかよは腰痛持ちでもともとめっちゃ太っていたのですが、いまでは腰痛は気にならないものになり、体重もそれなりに痩せられてからは「まいっか」と思えるレベルになりました。

それらは、スペシャリストたちの力を借りつつも、結局は自分の意思で自分の身体は変えるのだということを何度も体感しました。だからこそ、自分と自分の身体にしっかり向き合って、いま自分の身体がどういう状態なのかをわかるっていうのはすごく大事って、わかるんです。

でも、これが難しい!

日々、忙しく過ごしている多くの人が、自分の身体の状態には無自覚だと思います。いけかよはそうでした。漢方医に脈診をされるたびいつも「がんばりすぎ」と言われます。でも、それがデフォルトなんです。「“すぎ”じゃない頑張りってなに?」って感じです。

そういうときに、通常運転がままならないような不調に襲われると、やっと自分の身体と向き合うことになります。そして学ぶのです、「ああ、ここまでくるとだめだったのか」と。

これは気持ちの部分でも同じです。

自分のちょっとした気持ちの浮き沈みにもっと敏感になったほうがいいんですよね。

そんなことにいちいち気を留めていたら日々は立ち行かないと思われるかもしれません。

でも、「自分はこういう状況だと元気になる」「こういう状況だと凹む」「これが好き」「これは嫌い」という自分なりのものさしには、やっぱり敏感でいたほうがよさそうです。

それが、食べ物とはまたちがう日々のエネルギーを左右するからです。

生きるうえで必要なエネルギーは、カロリーだけじゃないですよね。楽しい気持ちややる気やモチベーション、悔しさや苛立ちだってエネルギーです。

それは「生きる希望」とも言い換えられます。

身体の不調を、筋トレや食事で治せるように、心の不調も自分で治すことができるはずです。自分のことをきちんと知っていれば。

そして、これらの「気持ちの処方箋」も、年齢を経れば変わっていく気がする。

若い頃にあんなに情熱を燃やしたことに、いまはもうときめかなくなっている、ってこと、きっとみなさんあるはずです。それって切なくもあるけれど、人間という生き物として当然のこととも言えます。若い頃はコーラとポテチで日々乗り切れていたけど、40過ぎたらご飯とお味噌汁じゃないと身体はいろいろおかしくなる、というような。

そういうことを、わかりやすく突きつけてくるのが、もしかしたら「44歳と60歳の壁」なのかも?と思ったりしたのです。

それは自分のために生きろというサイン

いけかよは、基本的には人間という存在は全員が全員、毎瞬をめちゃめちゃがんばって精一杯生きていると思っています。

「そんなことない、自分はグダグダしている。ぜんぜんがんばってない」と思っている人も、いまある心身のエネルギーを精一杯つかって在ることができる在り方が「グダグダ」というだけで、基本的には人間は「精一杯」がデフォルトのような気がするんです。

パワー全開で張り切るときはもちろん、休むときも、グダるときも、悲しむときも、怒るときも、人の心身のエネルギーは、ONかOFFしかなくって、エネルギータンクにどれだけガソリンがあるか、っていうだけのような気がするのです。コンロの火を調整するレバーのような機能は、ない気がします。

老いというのは、心身ふくめて、このエネルギータンクが小さくなっていくことのような気がします。でも、それは身体からも心からも両面からのアプローチが可能で、かつ、自分でケアすることで大きく保つ、なんなら歳をとっても大きくすることができる、ということですね。

そのためには、前述のように「自分の身体に向き合うこと」「自分の心に向き合うこと」が必要です。適切なケアを自分にしてあげるために、です。

それを、「いきなり老いる」みたいなショッキングな出来事で知らせてくるのが「44歳と60歳の壁」で、それはつまり「自分のために生きろ」というサインなんじゃないかと、いけかよは思うのです。

若い頃って、体力があるし失敗も許されるから、いろんなことに無駄にエネルギーを使うことができます。それはすなわち人間的成長のために必要な学びを得ているときとも言えるけど、一方で自分に自信がないがゆえに、自分をすり減らすような生き方をすることもままある気がします。

やたらと自己犠牲的に仕事をがんばったり、学校や職場で「いい人」になってしまったり、パートナーに尽くしすぎたり。

そうすることでしか他者に貢献するやりかたを知らない、とも言えるかもしれません。

でも、いよいよエネルギータンクが収縮してくる=歳をとってくると、エネルギーの余裕があまりありません。だからこそ、エネルギーを過剰にすり減らさないように、わたしたちは「自分のために生きる」をする必要があります。

気持ちや体力に余裕がなくなってくると、否応にも自分のことにかかりきりになりますね。これって、言い換えれば「自分のために生きる」です。

「44歳と60歳の壁」は、いきなり「自分のために生きる」への強制スイッチを押させるようなものなんじゃないかと思うんです。

そして、その壁を感じたら、最初は焦ってもだんだんとニュートラルに老いを受け入れ、適切なケアをし、回復できるのだということを知る。

自分処方箋も更新していくことを知る。

そして、日々すこやかに過ごせることを愛おしむ余裕もでてくるかもしれません。

ひいては結果的にそれが他者への愛や貢献にもなる、ということを知るのです。

そう考えれば、「44歳と60歳の壁」は悪いものじゃないかもしれませんね。

生きる目的とかも見えてくる

奇しくも、この記事がアップされる2024年11月20日は、冥王星が水瓶座に移動します。

占星術に興味がない人にはごめんなさい、なんのこっちゃでしょうか。いけかよは、占星術が好きなので、つい「あっ!」と思ってしまったのですが、ざっくりいうと、社会の流れを司る星である冥王星は、約20年ごとしか動かないんですが、それが動くタイミングがきたよ、つまり、時代が新たなフェーズに入るよ、ということです。

少し前から「風の時代」と言われてますが、それが本格的になるガチの後押し、っていうかんじです。

(興味がある人は「冥王星 水瓶座」とかで検索してみてください)

そんな、星の世界からのメッセージともリンクしているかもしれないな、と思うのが「自分のために生きる」ということ。

もう年齢的にオバサンやから、とかじゃなく、ほんらい、人間は自分のために生きるのがデフォルトであると思うんですが、だれかのために生きることに喜びや拠り所を見ている人もいると思うし、それって悪いことじゃありません。

でも、結局は自分のために生きる、が、たぶん、きっと正解なのです。

ひとりひとりが果たすべきなにかを持って生まれてきているはずだし、そのためにこの身体と心はつかわれるべきなんです。

そう考えると、「自分がなんのために生まれてきたのかわからない」「やりたいことがわからない」という人は、まず「自分のために生きる」をしてみたらいいんじゃないかと思うんです。まずは、心と身体を元気にすることに集中する。

そしたらなんか、自分の生きる目的とかって、おのずと見えてくる気がしませんか?

そしてなにより「自分のために生きる」は、命を大切にするということにほかなりませんよね。

命輝く人は、老若男女問わず人を魅了します。

まさに「Elämä(エラマ)=命、人生」だから。

そんな命輝く人をめざして、44歳の壁に直面したいけかよはいま「自分のために生きる」をやってみています。

そしたら、50歳くらいにはめちゃめちゃええ感じになってるかもしれへんよね。

そんな期待を胸に、新たな時代が始まる今日から、あなたも「自分のために生きる」をしてみませんか?

では、また!

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)

こんにちは!いけかよです。

毎月開催されているエラマプロジェクトの名物企画「哲学バー」。毎回、1つのテーマを掲げ、参加しているみなさんで自由に好き勝手におしゃべりしあうイベントです。

先日のテーマは「『品』とはなにか」でした。
「品」は、「上品」「下品」「品がある」「品がない」などに使われる「品」です。
この「品」というもの、哲学してみると実に歯ごたえのあるものでした…!
ということで、この哲学バー2号店にて、延長戦ということでひとり哲学バーしてみたいと思いますっ!

生きるために「品」は必要か?

この日は当然ながら「品」という文字が使われる言葉がたくさん列挙されました。
・品がある/ない
・上品/下品
・品格
・品質
・品性
・品行方正 などなど。

でも、どれもこれも、なんだかよく考えると微妙に違うニュアンスな気がするんですよね。
「品がある」と「上品」は、まったくおなじ意味ではない気がしませんか?

そもそも「品がある」ってどういうこと?という点については、もちろん哲学バーでは議論されました。
「品がある」は、言い換えれば「清潔」「ていねい」「姿勢がいい」「言葉遣いがきれい」などなど。なんしか、めっちゃクリーンなイメージですね。ここはみなさんなんとなく同意いただけるのではないかと思います。

そして、その逆の「品がない」も、そのまま同じくひっくり返して「不潔」「雑」「言葉が汚い」とかが連想されますね。

ここで考えたいのは、生きるために「品」は必要か?ということ。

参加者の方からは「品性や品があるのはすばらしいこと。でも、人間のほんとうの生きる力や欲望は、その対極にある『品のない』ところからくるのではないか?」という言葉がとびだしました。

たしかに、生きる力にあふれたエネルギッシュさと、清廉潔白な上品さは共存しないようにも思えます。生きる力=むき出しの欲望や渇望と考えたときに、たとえば戦争とか、生きるか死ぬかのような極端な状況において、上品さを保っていては生き抜くことはできないかもしれませんよね。

「品」とは「品定め」の「品」

また、この「品」ですが、自ら持とうと思って持てるものではない類のように思います。

「今日から品よく生きるぞ」と決めたとて、それってどんな生き方?と思いますよね。
そもそも「品良くなりたい」と思っていることじたい、あんまり品が良いとはいえない感じがするという、恐ろしき矛盾をはらんでいたりします。

そして、自ら「私は強い」という人にさほどの違和感はなかったとしても「私は品が良い」という人に対しては若干の驚きを持ちつつ「…ふ、ふーん…」と引いてしまう感じになりませんか?
そもそも、本当に品のいい人は「私は品が良い」なんて言わないよねという矛盾がここにも発生します。

そう、つまり「品」とは、自分では決められないことなんじゃないかと思うのです。
「今日から私は強くなる」と決めることと「今日から私は品よくなる」と決めることはなにがどう違うのか?この違和感はどこからくるのかというと、そのひとつに「品」とは「自分で決めることができない」という特性があるんじゃないかと思ったのです。

つまりその人に品があるかないかというのはあくまで他人が決めることだということです。
自分がどんなに品位を保っていると思っていても、他人がそう思っていなければその人に品位はないも同然なのです。
(ただ、その人が「自分は品位があるのだ」と思うのはもちろん自由です。そしてそう思うことによって、ほんとうにそうなる可能性だって十分にあるでしょう)

なぜそう思うのか?

この「品」というものは、人が人をコントロールするために人間が勝手に作ったルールに過ぎないのではないか?と思うからです。

そして「品」とは「常識」とか「道徳」とか「マナー」とか「世間」とか、そういった類と同じものだと思うのです。
これらはつまり「枠」です。この「枠」に納まっていれば、非常に扱いが楽な人ができあがるような気がしませんか?
常識的でモラリストで他人に迷惑をかけない人のことを「品行方正」というのです。

少し極端かもしれませんが、いけかよの思う「品」は「品定め」の「品」です。

この人に品があるかないか。きちんと枠に収まっているかどうか。違和感がないかどうか。
そうやってジャッジする=品定めをして、人はだれかを「品がある」「品がない」と判断するんじゃないでしょうか。

でもそこに、ジャッジされた人のキャラクターや価値観や人生観はなにも加味されません。
「品がある/ない」ことと、その人に魅力があるかどうかは関係ない。
「品がある/ない」ことと、その人に才能があるかどうかは関係ない。
「品がある/ない」ことと、その人が人生を楽しんでいるかどうかは関係ない。

そう。つまり「品がある/ない」ことは、実は生きることにはめちゃめちゃどうでもいいことだったのでした。

あの大女優がいちご大福を5個一気食いしたら

しかし、そのような「人間的魅力」と「上品さ」を兼ね備えた人も存在はするだろうと思うのです。それはきっと、それらを併せ持つことが「義務」のような人たち、皇室や貴族や王族とかでしょうか。

じゃあ、そういう人たちに果たしてあなたはなりたいと思うでしょうか?
「なりたい」と思う人はきっとそんなにいないでしょう。なぜか?そういった血筋であるがゆえの責任の重さもさることながら、さぞ息苦しかろうというのは想像に難くないからですよね。絶対にまちがってはいけないプレッシャーのなかで生きるというか。

いや、そんな極端な人たちを例に挙げるなとお思いでしょうか。

じゃあ、哲学バーにも話題にあがった「品のある人」代表例は、女優の吉永小百合さんでした。彼女こそ、「上品」「気品」を絵に描いたような感じがします。ある意味「完全無欠」な存在とも言えるでしょうか。

でも、それってやっぱり「女優」、多くの人からの「吉永小百合はこういう人であってほしい」というある意味の「偶像」の枠にきっちり収まっているからですよね。

そしてそれは事務所の戦略によって、ご本人の意思や個性は抑え込まれているということももしかするとあるのかもしれませんが、女優ってそういう仕事であるということを考えると、皇室や王族に通じるものもありそうです。

でも、ですよ。
たとえば吉永小百合がめちゃくちゃお腹すいてて、控室に差し入れで置かれていたいちご大福を5個くらい一気食いして、口の周りを片栗粉で白くしながら「あんまりおいしかったんで、つい…」なんてはずかしそうにつぶやいていたら、と考えてみてください。

上品か下品かでいうと、下品ですよね?

でも「めちゃめちゃカワイイ〜〜〜〜〜!!!! 好き!!!!」
ってなりませんか?

いや、吉永小百合はそんなことしない!というのはこの際ナシでお願いします。想像してください。
そのうえで、「そんな小百合は嫌だ!」という方もおられましょう。
でも、いけかよは「めちゃめちゃカワイイ〜〜〜〜〜!!!! 好き!!!!」ってなりました。

嫌だ!と思われた方は、きっとその姿に「食欲」という人間としての本能を、しかもむき出しのそれを見たからですよね。そう、「品」と「本能」はきっと相容れないのです。
神格化した偶像的存在である「吉永小百合」が、実は自分たちとおなじ欲を持った人間だったと思い知ることは、ファンからすると裏切られたような気持ちにもなるのでしょう(頭ではわかりつつもね)。

しかし、そうでなくニュートラルに吉永小百合を見てるいけかよとしては、「いちご大福5個一気食い」という人間の本能=生きる力を感じたとき、その人にパワーや魅力を感じることもあると思うのです。

ていうか、いけかよはそういう人が好きです。

わたしたちは人間であり、人間である以上は「下品」とされることを避けて生きることはできません。
人間には食欲、性欲、睡眠欲以外にも承認欲、支配欲などさまざまな欲があり、それらの「欲」に忠実になること。「欲」を満たすこと。「欲」をあらわにすること、これらはきっと「下品」になるはずです。

でも、行き過ぎた欲は身を滅ぼしますが、そうでない場合、欲は日々のガソリンです。
そう考えると、「品」なんて、死んだ人にしか与えられないものなんじゃないかとも思うのです。

なにを自分のものさしにするか

いけかよは、上品に生きるよりも欲望むき出しで人生を楽しみたいと思いました。

どんな生き方か?
貪欲さとか、情熱とか、魂の叫びとか、そういうもの。
ギラギラしてドロドロした、熱い感じのものをしっかり自分のなかでたぎらせて生きることです。

一方で、人間はとてもとても尊い部分も併せ持っています。
たとえば寄付をしたり、電車で席をゆずったり、大切な存在を抱きしめたり、助けてくれた人に恩返しをしたり、深い傷を負った人に寄り添ったり、無償の施しをしたり…。

わかりやすく表現するならば、前者が「悪魔」で後者は「天使」でしょうか。

人間という生き物は、悪魔的な部分だけでも、天使的な部分だけでも生きていくことはできないように思います。どちらも必要だし、すべての人がどちらも併せ持っている。
バランスは人それぞれだしバランスが崩れることもあると思うのだけど、でも、やはり両方が必要なのです。

そしてそこに「品」が挟まれる余地って、ない気がするのです。
「天使」の部分にすら、「品がある」云々って、しっくりこないと思いませんか?

人間が「充実した人生」「良い人生」を送ることと、「品がある」ことはまったく別次元で、いけかよからすると、前述のとおり「どうでもいいこと」。
ただあくまで、いけかよはその物差しを採用しないというだけで、「品がある人として生きたい」という人を否定するものではありませんよ、念の為。

でも、たとえば歴史に名を残した偉人たちを考えてみてください。

マザーテレサとか、ガンジーとか、オードリーヘップバーンとか、アインシュタインとか、松下幸之助とか、ジョン・レノンとか…。

あなたが「スゴイ」と思う人ならだれでも。
その人たちに「品」なんて言葉、チープすぎて似合わないんじゃないでしょうか。
もちろん、人によっては残された逸話が下品すぎっていうこともあるでしょうが(笑)、「品がある」「上品」「品格」などなど、どれもしっくりこないはず。そんなものさしなど、超越したからこそ偉大なものを残し、いまもなお多くの人の心を捉えているのだと思うのです。

そう、「品」とは、人を枠にはめるために考えられた概念だといけかよが思うのはそういうことです。
事実、時代と国が変われば「上品/下品」の概念も変わります。
そばをズーズー言わせて食べることが欧米人には下品に映るけど、日本人にとってはそれが当たり前ですもんね。

いけかよは、時代と国が変わればひっくり返る価値観は、採用しないことにしているんです。
それよりも、自分の人生のルールは自分で決めたい。
「品」とか「常識」とか「モラル」とかじゃなく、自分にとって正しいかどうか、しっくりくるかどうか、納得できるかどうかで、選択をしたいのです。
そして、そんないけかよをだれがどのようにジャッジするかも、どうぞ自由に決めてください、と思っています。
ネガでもポジでも、どうぞご自由に、です。

「品? 知らんがな!」

そんなかんじで、今日も欲望の赴くままに、飲んで喋って笑って、楽しむことに命を使いたいと思っているのです。

では、また!

【告知】哲学バーは毎月開催しているオンラインの対話イベントです

今回は「品とはなにか」というテーマでしたが、こんなふうにいろんなテーマでお酒や好きなドリンク、おつまみなど片手にゆる〜く哲学対話をするイベントを、エラマプロジェクトでは毎月開催しています。

哲学バーのルールは2つ、「①答えを出さない」「②まとめない」。参加した方々それぞれに、いろんな考えや気付きやモヤモヤをもちかえっていただけたらいいな〜と思っています。

次回の開催は9/9(月)20:00から。テーマは「『味のある人』ってどんな人?」です。

詳細・お申し込みは以下HPをご確認ください。

初めての方も大歓迎です。ぜひチェックしてみてくださいね!
https://elama.be/workshop-event/elamabar202409/

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)

こんにちは!いけかよです。

エラマプロジェクトでは、かねてより和文化とフィンランド文化の共通点をお伝えしています。
代表の石原侑美さんからのリアルなフィンランド情報と、和文化講師の橘茉里さんからの日本の知られざる魅力を融合させたコンテンツもたくさん。
「和でよみとくえらま」や「「わたし」らしく伝える和文化ガイド養成コース」などなど、さまざまな情報を発信しています。
これらを、わたしたちは「和フィン折衷」と表現したりしてるんです。

でも、これってフィンランドや日本のスペシャリストだからわかるっていうものではないんです。日本にいてもそこここに、そしてフィンランドにいてもあちらこちらに、それぞれの国の雰囲気を感じるものというのは、あるんです。

というわけで、今回はよむエラマライターズが見つけた「和フィン折衷なもの」をご紹介したいと思います!

いけかよの見つけた和フィン折衷:漫画の「背景」

いけかよは、2019年と2023年にエラマプロジェクトのフィンランドツアーに参加しました。
初めて訪れた2019年はもちろんすべてが新鮮だったのですが、なかでもとても印象的だったのは、フィンランドにはフィンランド語の「ドラゴンボール」があったということ…!

見つけたのはフィンランド中央図書館「Oodi」にて。
いけかよは、「尊敬する人は孫悟空」と常々思っているほどのドラゴンボール好き。この作品が世界中で愛されていることは当然知っていたものの、フィンランド語にまで翻訳されていたのは驚きでした…!

このように、日本のパワーコンテンツ「漫画」ですが、同じようにいけかよが大好きなのがフィンランドの「ムーミン」。
こちらも、世界中で愛されていますよね。
この、原作者であり、画家のトーベ・ヤンソンの描く世界に、いけかよは和フィン折衷を感じました。
それは「背景」なんです。

ムーミン公式サイトより(https://www.moomin.co.jp/news/blogs/63777

トーベ・ヤンソンの描く世界は、キャラクターたちの可愛らしさとは対象的に、とても緻密で幻想的で、少し怖いと感じることも。それは、細部までしっかり描き込まれたこの景色の絵=背景に絶対的な迫力があるから。

それは、日本の漫画にも相通ずるものがあるのです。

いまでこそデジタルで、写真を加工して背景も楽に作画できるようになったものの、背景専門の作画家さんもいるほど、日本の漫画の背景の描き込みってすさまじい!
ヤンソンもそうですが「これって本当に人間が手で描いてるの…?!」と思うようなものが、すっごく多いんです!

先に登場した鳥山明はじゃっかん白いほうだと思いますが、「AKIRA」の大友克洋、「ゲゲゲの鬼太郎」の水木しげるなどは、CGなどまだメジャーでなかった時代からその描き込まれまくったまっくろな原稿は、緻密な背景の最高峰じゃないでしょうか…!

「AKIRA」第1巻、アメリカ版総天然色バージョンから。背景もすごいけどマシンの描き込みもすごい…!

この画力こそが、フィンランドと日本それぞれが持つ、繊細かつ力強い感性が反映されたものの象徴だと思うのです。

マヤッカの見つけた和フィン折衷:「陶磁」と「おふくろの味」

こんにちは!majjaka(マヤッカ)です。
わたしが感じる「和フィン折衷」は「陶磁」です。
昔からフィンランドの食器には憧れを持っていて、いつか欲しいと思っていました。
約10年前に初めてフィンランドを訪れた際に、アラビア社で色々な種類の中から
「Teema」のパステルグリーンのマグとボウル、そしてムーミンのマグを買い、今でもこれらを使う度にフィンランドに思い馳せています(ムーミンのマグは数年前に落として割ってしまい、とても悲しかったです)。

アラビア社では歴史をたどる展示会もあって、興味深かったです。
でも、当時のわたしはただかわいくて素敵!としか思っていなかったので、展示されていた器などを眺めるだけでした。今ならもっとじっくり歴史を感じられたのに悔しいです…。

今まで日本人として生きてきましたが、日本の伝統についてあまり興味を持つことがありませんでした。
しかし、昨年フィンランドを再び訪れ、前回よりも深くフィンランドについて知ることができました。
フィンランドの人々の優しさ、あたたかさ、真面目さ、少しシャイなところを感じたときに、「あら?日本人と少し似ている?」と思うと同時に、セカンドハンドショップ(中古品のお店)で私が以前から興味のあったアラビアのお皿を購入したことを思い出したときに、日本にも伝統的な陶磁があったなぁ、日本も素晴らしい!と誇らしい気持ちになりました。
それは有田焼!

フィンランドの「ittala Arabia」1873年アラビア村
日本の「有田焼」1616年有田町
どちらもその土地で誕生しています。

どちらもその陶磁を大切に引き継ぎながらも、作家の方たちが新しい想いを吹き込んで進化させているそうです。

フィンランドやヨーロッパのアンティークに魅せられているわたしですが、日本の伝統的な骨董にも目を向けていきたいと思います。

もう一つわたしが感じた「和フィン折衷」は「おふくろの味」です!
昨年旅したフィンランドではサイマー湖のほとりにあるコテージに滞在しました。
そこのママが作ってくれるご飯がどれも美味しくて、1日動き回った後の夜ご飯にとてもほっこりさせていただきました。デザートも美味しくてついつい食べすぎてしまうくらい!
同じように、実家のご飯は美味しくて、日頃の疲れを癒してくれますよね。
この「おふくろの味」も、わたしにとってお母さんを思い出させてくれる「和フィン折衷」です。

Kangasの感じる和フィン折衷:「シャイで物静か」そして「人との距離感」

こんにちは!Kangasこと、ライフコーチの和田直子です。
いけかよさんやマヤッカさんと同じく、私も昨年のエラマプロジェクトのフィンランドツアーに参加した一人です。
それまでに受講していたエラマの講座で、「実はフィンランド人と日本人の気質が似ている」ということを聞いていました。
例えば、真面目で勤勉、シャイで物静か、謙虚、礼儀正しい、時間を守るなど…。
そんな知識を得ても、「シャイで物静かに関しては、日本人ほどではないでしょ~!」と何となく思っていましたが、「いや!フィンランド人もシャイで物静かだった!」と感じたエピソードをご紹介します。

写真はE君と出会ったタンペレの街。
フィンランドツアーから約7ヶ月後の今年の春。実はツアー中にタンペレの街で出会った高校生のE君が、彼のお母さんのMさんと旅行で来日し、名古屋のわが家にも遊びに来てくれることになりました。

名古屋駅の新幹線口まで迎えに行き、E君とはハグで再会を喜び合い、そのままのテンションで私は初対面のMさんに“Nice to meet you!”と満面の笑みでご挨拶。

だけど彼女は微笑みながら挨拶を返してくれるものの、どこか一歩引いている感じ。あ、そっか…。「シャイで物静か」なのかな。ハグの勢いを落ち着かせ片手を差し出してみると、Mさんも握手をしてくれました。普段私は初対面の人にハイテンションな挨拶をしないくせにと、自分の振る舞いに少し恥ずかしくなりました。

そのままお昼ご飯を食べに行った後、わが家へご招待。E君は私の息子と歳が近く、二人はすぐに意気投合。私はMさんとコーヒーを飲みながら過ごすことに。
英語がそんなに得意ではない者どうし、それなりに会話は続くのですが、どこかお互い話題を探り、様子を見合って、時間をかけて打ち解けていくという感じ。沈黙になると、一生懸命会話の糸口を探す。初対面では自然なことかもしれませんが、この感覚が日本人同士の様子にとても似ている気がして、会話を続けるのに必死だけれども、妙に親近感をMさんに抱きました。

夕食は夫が得意料理の広島風お好み焼きを振る舞い、その後名古屋駅の新幹線口まで見送りに。E君とハグでしっかり別れを惜しんだあと、お母さんのMさんを見ました。その日の朝の出迎え時を思い出し、挨拶の仕方に気をつけなくちゃと思いながら。すると、彼女の方から「ハグをしてもいい?」と聞いてくれたのです。「もちろん!」と言って母親同士もハグでお別れができたわけです。

彼らが改札を通り抜けて姿が見えなくなるまで見送りながら、私はその日のMさんとの時間に想いを馳せていました。シャイかどうかは分かりませんでしたが、物静かなMさん、そしてお互いに気を使いながら会話を探り心の距離を縮めていった私達。なんだか落ち着くなあ、似ているからかなあ。そんなことを感じながら。
もちろん、初対面から心がフルオープンのフィンランド人やハイテンションの日本人もいるでしょう。でもやっぱり、フィンランド人と日本人の気質は根っこの部分が似ているんだなあ、だから私はフィンランドの人に惹かれるのかなあと思った経験でした。

この初秋も、私はフィンランドツアーに参加します。今度はどんな出会いがあるのかな?もしかして、E君やMさんと再会できるかしら?そしたら次はどんな距離感になっているだろう。フィンランドの国や人を知るたびに日本人である自分自身にも目が向くことが、旅の醍醐味なのかもしれません。またそのご報告ができたらと思います!

あなたなりの「和フィン折衷」を表現してみませんか?

いかがでしたか?
日本とフィンランドの絶妙なつながりや共通点をみつけていただけたら、海の向こうはるか遠くの「幸福度ナンバーワン」の国も、なんだか身近に、そして日本を素敵に感じられたりしませんでしょうか?
こんなふうに、フィンランドに限らず自国と他国の違いや共通点を見つけていくのって、わくわくしますよね。

エラマプロジェクトでは、フィンランドの文化や価値観をベースにした情報発信をしていますが、フィンランドを礼賛したいわけではありません。同時に、日本スゴイ!とみなさんにアピールしたいわけではありません。
どんな国も文化もすばらしい。そのうえで、地球上のあらゆる人とのコミュニケーションを楽しくするツールとして、我が国日本の良さを理解し、それを自分の言葉で表現するための講座を展開しています。

「わたし」らしく伝える和文化ガイド養成講座コース
https://elama.be/workshop-event/waguidecourse202409/

日本の素晴らしさはもちろん、あなたご自身の表現に向き合ってみたい方にはおすすめです。
きっとそれが、世界中の人々とつながる鍵になるかもしれません。

Edit by いけかよ