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Elämäプロジェクト

こんにちは!いけかよです!

世の中が動き出した感半端ない昨今、みなさんいかがお過ごしですか?

今年こそはと、旅のご予定を立ててらっしゃる方も多いでしょう。ワクワクしますね!!

ということで、今回はエラマライターズたちにお気に入りの旅先を聞いてみました!旅行ガイドや旅行サイトで情報は溢れまくっていますが、そこには無い?かもしれないこだわりのスポットをご紹介します!

いけかよの推し旅先は「白浜」(和歌山県)

ベタすぎて申し訳ないのですが、いけかよは白浜が大好きです。

ていうか聞いてください!そもそもいけかよは旅行というもの自体がそんなに好きじゃなかったんです。そのいけかよが「ココは良い!」と思ったというのが白浜。

そもそも、白浜はワーケーションのメッカとして近年注目されていて、長期ステイや仕事をするための設備がとても充実しているお宿が目立ちます。

もともとは、夏場の海遊び客がいなくなると街がとても寂しくなってしまうということもあり、そのへんテコ入れしたっぽいのですが。

そんな白浜で、とあるご縁でお世話になったのがゲストリビングMu 南紀白浜

ワーケーションのためのホテルなので、一般的なホテルで期待するアメニティやルームサービスなどはありません。しかし、多様なワークスペースやとっても広い個室など、「気分を変えて快適に働く」という点においては最高のホテル!

なにより、お部屋からはとってもすてきなオーシャンビューが!!

やばくない?

徒歩5分でビーチなので、朝はもちろんふらっとランチに出かけた際にもちょいとビーチを散歩したり。

夕焼けは夕焼けでやばいよ!

そしてお宿には白浜ならでは!の温泉もついていて言うことなし!

ここはぜひともPC持って最低でも3泊はしてほしいなぁ。

オーナーがとても素敵な人で、宿泊している他のワーケーション客との交流を促してくれたり、地元の人しか絶対知らなさそうなごはん屋さんを教えてくれたり。なので、ホテルというよりもゲストハウスに近いイメージ。

あ、もちろん、海鮮のウマさは保証付きです!!

白浜といえば夏!海!というイメージですが、ぜひオフシーズンでも行っていただきたい。その際には「仕事ですから(( ー`дー´)キリッ」という感じでお願いします!

momoの推し旅先は「中宮寺」(奈良県)

わたしのおすすめは中宮寺の本尊、「菩薩半跏像」です。一番好きな像なのです。

中宮寺は奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北1-1-2にあります。この半跏思惟像に会うためだけに奈良に行ってみませんか。

国宝なので知っている、観たことあるよという方が多いかもしれません。知らない、思い出せないという方はぜひこちらをご覧ください。

確か中学生の頃だったと思うのですが、教科書に菩薩半跏像の写真が資料として載っていました。一目惚れでした。

今振り返ると、写真だけでそんなに惹かれるなんて……この像の威力をしみじみと感じます。

実際に足を運ぶと一日中観ていたくなります。離れがたくなるんです。どの角度から観てもすばらしく、心がおだやかになります。間近でずっと眺めることができれば最高ですが、訪れる方と譲り合って良い時間にしていただきたいです。

中宮寺には天寿国曼荼羅繍帳もあります。本堂に安置されているものは複製で、実物は奈良国立博物館に寄託されているそうですが、菩薩半跏像に会うのに合わせてぜひこちらもご覧になってみてください。さっと見て帰るのはもったいなく感じるはずです。

1日を中宮寺で過ごすためだけに使う。そんなぜいたくな旅をぜひプランのひとつに入れてみてください!

pieniの推し旅先は「琵琶湖」(滋賀県)

日本一大きい湖「琵琶湖」

学生時代に琵琶湖の近くに住んでいたこともあり、思い出の多い場所だから好きというのもありますが、海とはまた違った落ち着きのある雰囲気が魅力的です。

琵琶湖と一口に言っても楽しみ方はいろいろあります。アメリカミシガン州の船をイメージした、その名も「ミシガン」という客船に載ってクルーズするもよし、湖畔で家族や友人たちとBBQを楽しむもよし、SUPやカヌーなどのアクティビティを楽しむのもよし。

夏は海水浴ならぬ湖水浴もできますよ!

湖を中心に幅広い観光を楽しめます。

食事は近江牛に鴨肉料理、うなぎやビワマスといった湖魚料理、ちょっとチャレンジメニューかも?ですが、鮒ずしなど大人っぽい渋い料理たちが癖になるんです。

温泉も各地にあるのでゆっくり出来ますよ〜!

pieni的琵琶湖の楽しみ方は、やっぱりフィンランドを感じる遊び方。

湖の国フィンランドをどーしても思い出しちゃうんですよね。

フィンランドやスウェーデンの食器でスイーツやコーヒーを楽しめるカフェ「珈琲オッタ」や、湖を眺めながら北欧ヴィンテージ食器にふれることができるショップ&カフェ「vokko」があり、そこでゆっくり過ごすのが幸せな時間なんです。

北欧食器も楽しめる「珈琲オッタ」ブルーベリーケーキと自家焙煎珈琲が絶品!

窓辺の席からは琵琶湖が見えるここちいいカフェ「vokko」

そして海岸ならぬ湖岸を散歩するのがものすごく気持ちいい!

県庁所在地がある大津周辺、カフェやショップなどお洒落な店が並ぶ整備された湖岸もあれば、湖西や湖北と呼ばれる地域の自然そのまんまな湖岸もあり、そのどちらも一日で体験できちゃうちょうどいいコンパクトさも推しポイントです。

いつまでも眺めておきたくなるような広い湖。MotherLakeというキャッチフレーズをもつ琵琶湖はその名の通り母のように、気持ちをゆったり包み込んでくれるような力を感じます。

心のデトックス旅、癒しの旅は琵琶湖がおススメです!

人間の成長は移動距離に比例する(らしい)

いかがでしたか?今回は関西に寄ったセレクトになりましたが、どれも素敵でしょ?

いつだったか、誰かが言っていました。「人間の成長は移動距離に比例する」と。

その真意はどうかわかりませんが、コロナ中に移動を制限されて苦しんだいけかよは、なんとなくそんな気がしています。知らない土地や普段とは違う場所に行くと、心をたくさん使いますよね。そのぶん疲れもするけれど、なんだか感受性を育てているような、そんな気にもなります。

ライターズの推し旅先、この夏の旅プランにぜひ加えてみてください!

Edit by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)

こんにちは、どさんこ大学生RUNAです!

寒い冬から、少しずつ暖かい春に近づいてきました。気温が変わり、花が色づく季節になるとなぜだか気持ちも暖かくなるような気がしますね。

そんな春は、新生活、新学期、新社会人…など「新しい」がよく似合います。

新しいイベントはなくても…

この春、チャレンジしたいこと・始めたいことはありませんか?

私は、前向きな知り合いとの会話で見つけたヒントをもとに、自分のネガティブな考え方のくせを変えるためのチャレンジをしたいと思います。

”なんとかなる”が合言葉

「なんとかなる」

そう思って、口に出している人は本当になんとかなっている。

私の知り合いに、自分のことを”前向き”で”能天気”なタイプだというAさんがいます。

Aさんと関わる人も「Aさん=楽観的、楽しそうな人」と認識していました。

「いつも楽しそうで、悩みがなさそう」

って言われるけど、ほんとに悩みないんだよね〜と言うAさんに対して、人のこととか気にならないんですか?と聞くと、「あんまり見てない」と言いました。

許せないほど嫌なことをされたら、どうするんですか?と聞くと、「うーん、怒るだろうけど、まぁすぐ許しちゃうかな」と言って大笑いしてました。

Aさんだけでなく、Aさんの家族もよく笑います。

今の世の中では、珍しいほど、家に人がよく来て、誰でもウェルカムな姿勢なのです。

「ルナより何十年も多く生きてきたけど…何かあっても、なんとかなってるから大丈夫」

笑いながら言っていても、その言葉はとても力強いものでした。

そんなAさんに、最近「こんなに一生懸命考えながら生きているのに楽しくなさそう。病んでるよね」と言われたのです。

何に対しても楽しく考えられる人が「楽しくなさそう」と思うってことは、相当なんだ…と結構なショックを受けました。

では、Aさんと私で大きく違うところはなんだろうと考え始めたのです。

モノゴトに意味をつけるのは、自分自身

あなたは、こう言われたらどう思いますか?

「小さい頃からぜんぜん変わらないね」

「昔は、もっと明るかったのに〜」

「考えすぎて、生きづらそうだね」

どれも私がこれまで言われてきたものです。

この言葉に対して私は…

「小さい頃からぜんぜん変わらないね」

垢抜けない、おしゃれじゃない、ダサい人なんだ。

「昔は、もっと明るかったのに」

暗くてつまらない人なんだ。今の方がダメな性格なんだ。

「考えすぎて、生きづらそう」

考えすぎて面倒な人だと思われてるんだ。私って生きづらいんだ。

こんなふうに周りからかけられる全ての言葉を自分の中でネガティブな捉え方に変換した上で、自分を見てきました。

だからなのか、関わる人が増えるたび、どんどんその変換がパワーアップして、どんどん心配や不安が大きくなりました。

それは、大学生になってから顕著になりました。

一気に会う人が増え、知らない人に会うたびに、みんながとても優秀で魅力的でおもしろい人のように感じました。そして、周りからはダメな自分をジャッジされているような気になったのです。

世間的な見られ方が大事。

そう思ってしまうと家族や大切な友達からの言葉よりも、優秀な教授の言葉など、「世間的な良い例」を信用してしまうようになります。

これができないと信用されない人間になる。

これができないから自分はダメなんだ。

世間に必要とされる人間にならなければと、さほど交流をしていない人の言葉にも強く動揺して、考え込んでいました。

人からこう見られてるから、こう認識されるから…

でも、気づいたのです。私のあり方は他者からの見え方で決まっていると思っていましたが、ぜんぶ自分が自分をそう思っているだけだということに。

”これができないからダメな人間になる”のではない。

「周りからダメな人間だと思われている」って思う自分が、『ダメな自分』という世界を作っていたのです。

私のあり方に意味をつけたのは、自分自身でした。

そして、自分の捉え方は周りの人・環境にも伝わり、自分の意味づけ通りのよくない方向に向かっていたのです。

自分を信じる力

Aさんは「自分は楽しい人」、「何かあっても、なんとかなる」と捉えていました。

このように自分を意味づけできるのは、”自分を信じる力””できると信じる力”が強いからだと思うのです。

「なんとかなる」という言葉は、根拠のない綺麗事のように聞こえるかもしれません。

ですが、「最も強力な自信は根拠のない自信だ」という社会学者の言葉があります。

根拠があって、なんとかなる場合、その根拠が消えると”なんとかならない”に一直線です。

数字やデータの実績という根拠も、より良いデータによって比較され、打ち消されます。

だからこそ、根拠のない自信や謎の自信は強いのです。

また、”なんとかしたい、なんとかなりたい”よりも、”なんとかなる”と言い切ることで一層その言葉にパワーが宿る気がします。

漫画 ワンピースの「海賊王に俺はなる!」

漫画 僕のヒーローアカデミアの「君はヒーローになれる」

このセリフたちが、「海賊王に俺はなりたい!」、「君はヒーローになれそう」というように言い切ってなかったら違ったイメージになりませんか?

言い切れるのも自分を信じる力が強いことを表しています。

「海賊王に俺はなる!」のセリフが登場したのは、ルフィの旅が始まったばかりで、まだ航海を共にする仲間もいない頃でした。

根拠はないが自分を強く信じて宣言する言葉は、周りを引きつけ、仲間はその言葉を信じて疑わないようになるのです。

Aさんが「なんとかなる」と言えば、周りも「Aさんはいつもなんとかなってるから大丈夫」と思える。この前向きな循環は、自分を信じて言い切る姿勢が大事だということを教えてくれるようです。

ポジティブ変換のくせ作り

私は、ネガティブ変換から抜け出したいのです。

そしてAさんを目指して、この春、ポジティブ変換のくせを身につけます!(言い切ろうと思います!!)

例えば…

どうしよう→なんとかなる

できない→やってみよう

どうせ私はなんか→私なりにできた、やれた

緊張しがち→もしこうなったらを準備できる

でも→だからこそ(できること)

良いように考えすぎじゃない?直した方が良い性格もあるよと思われる方もいるかもしれませんね。

でも、ここで大事なのはモノゴトの見方を増やし、ネガティブ変換の沼から抜け出すことです。

また、ポジティブ変換のくせには、モヤモヤと向き合うのも大事だと思うのです。

いつも無意識にマイナスに切り替えて、訳のわからないモヤモヤが頭の中に溢れていました。

そのモヤモヤは、どうにも変えられない過去や、誰かや何かとの比較から来たりします。

ポジティブ変換を考える時、自分のネガティブな口癖や考え方に注目するので、何がモヤモヤを生み出しているか分かるようになるのです。

例えば…

私は「これからどうしよう」と1人でいるときによく思い悩んでいます。

とても漠然とした不安ですが、将来に対して大きな不安を持っていることが分かります。

じゃあ、ポジティブに変換して「これからもなんとかなる!」と思うようにする。

さらに、よくわからなくてモヤモヤが発生するなら、自分の中で勝手に想像して、何年後・何年後の未来の自分をつくっちゃうというポジティブ変換もできます。

モヤモヤの解決ができなくても、その正体を認識することで前に進む・動くことができると思うんです。

そして、私がポジティブ変換のくせをつけるためには”勘違い力”も必要だと思っています。

「自分には自分を信じる力がある」

「自分にはできると信じる力がある」

勘違いしているだけかもしれなくても、先ずはその考えを自分の中に定着させることで、ポジティブ変換ができるようになると思うのです。

Aさんやルフィなど自分を信じる力が強い人物ならどう言うだろう?

その人になりきるような勘違いも持ち合わせた気持ちを大事にしたいです。

謎の力を身につける

”何とかならない”時代という言葉があります。

2022年の小学生の流行語ランキング1位が「それってあなたの感想ですよね?」になるほど、目に見えるデータの力や論理的に話す力が重要視されているように感じます。

そんな時代と逆行しているかもしれませんが、私はポジティブ変換のくせをつけて、「なんとかなる!」と根拠のない自分を信じる謎の力を身につけていきたいと思うのです。

それでどうなるかは、これからのお楽しみです。

この春、あなたは何にチャレンジしたいですか?

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

Text by どさんこ大学生RUNA

こんにちは。エラマプロジェクトの和文化担当、橘茉里です。

私は国語教師、香司(お香の調合師)、和文化エバンジェリストなどいくつかの顔を持っていますが、メインの仕事は教師です。

とある私立高校に勤めて今年で12年目。

干支の一周分です。

人生の大部分を学校という環境で過ごしているわけですが、実は自分が生徒だった頃、私は学校が好きではありませんでした。

先生のことも好きではありませんでした。

それなのに、今は学校の先生をやっているの!?

そんな声が聞こえてきそうです。私自身、不思議な運命だなぁと思います。

今回は、かつて学校も先生も嫌いだった私の過去を振り返りながら、現役教師だってこんな体験をしてこんな風に思っていたんだよ、ということをお伝えしたいと思います。

私の経験が、どなたかの豊かで幸せな生き方に役立つならば幸いです。

私は「クラス一丸となって」が苦手な子どもだった

小学生のうちから、私の学校嫌いは徐々にその傾向が出ていたと思います。

小学1年生の頃。

図工の時間に使う絵の具セットを注文した時のことです。絵の具セットは、赤と青の2種類あり、どちらかを選ぶようになっていました。

私の記憶によると、担任の先生が「好きな方を選ぶように」と言ったのです。だから私は当時好きだった青を注文しました。

けれど、青を選んだ女の子は私一人。

というよりも、男子は青、女子は赤を選ぶことが当然の了解事項になっていたわけです。他のクラスでは、そのように指導されていたのかもしれません。

その後の小学校6年間を通じて、私は女子の中で自分一人が青であることに引け目を感じ、恥ずかしい思いをしました。

どうして担任の先生は「女子は赤を選ぶように」と言わなかったの!?

そう言ってくれたら、私は素直に赤を選んだのに。

私はこんな風に憤っていました。

担任の先生なりに、男子は青、女子は赤という決めつけに思うところがあったのかもしれないし、好きな色を選んでいいというのは、幼い私の勘違いだったかもしれません。

でも私に残ったのは、好きな方を選んだがために、恥ずかしい思いをしたという事実。

小学校低学年の記憶などほとんど薄れているというのに、この羞恥は今でもよく思い出せます。

次は小学6年生の時のこと。

担任の先生は体育の教員で、「みんなで」「クラス一丸となって」のようなことが好きな人でした。

私の小学校には、陸上部や吹奏楽部など、いくつかのクラブがありました。入部は希望制で、全員が入る必要はありません。

ですが陸上部を受け持っていた私の担任は、クラス全員が陸上部の活動に参加するよう促しました。

クラスみんなでやるということに意義があるようでした。

けれど、私はそれがとても嫌でした。「クラスみんなで」を実現するために、なぜ興味のないことをやらねばならないのか本気で分かりませんでした。

担任の先生は必要以上に強制はしませんでしたが、クラスのほとんどが参加している中、私は入っていないというプレッシャーをクラスメイトからも感じました。

みんなで一丸となって取り組むことが素晴らしい、という観念に強い拒否感を抱いたのは、この時が初めてだったかもしれません。

今でも私は「みんなで一緒に」が苦手な人間ですが、小学生の頃からその片鱗があったのかと、我ながら驚きです。

ますます生きづらかった中学校時代

そんな私ですから、制服、校則、部活動など「みんなで一緒に」が目白押しな中学校生活は非常にストレスフルなものとなり(あくまで私の出身中学の話です)、私の学校嫌いは中学時代に加速しました。

私は都会でも田舎でもない町の出身です。町には、バイクで暴走行為をするような「不良」たちもいました。

私の中学では、ほとんどの生徒は彼らと関わることなく過ごしていましたが、なかには付き合いがあった子もいたようです。

生徒が非行に走ることを阻止したい教員たちの姿は、私の目からはとても威圧的に見えました。大声で怒鳴ったり、授業中に丸々一時間説教したりといったことは当たり前にありました。

先生たちは生徒の個性を伸ばすよりも、従順な良い子集団にすることを重視していたように思えます。クラス丸ごと説教されているうちに、私の中で自由とか個性とか、そういった大事なものはどんどん縮こまっていった気がしてなりません。

そんな中学校生活で特に嫌だったのが部活動でした。私の中学では、部活動には全員が参加しなければなりませんでした。

前述のように、小学校の陸上部(確か週2回程度の活動)ですら入りたくなかった私なので、中学の部活は嫌で仕方がありませんでした。

生徒を非行に走らせたくないためか、先生たちは活動の盛んな運動部への入部を強く勧めました。ですが「みんなで一緒に」が苦手な私は、チームスポーツを中心とした中学の運動部に強い拒否感がありました。

それに放課後だけでなく、休日も部活動のために登校しなくてはならないのは、私にとって苦痛でした。

そこで、どうしても運動部に入りたくなかった私は子どもの頃から趣味で習っていたバレエを持ち出し、「バレエを頑張りたいから運動部には入れない」という理由を押し通したのです。

私の学年には、生徒を運動部に入れるという強い意向を持った先生がいたのですが、バレエを理由にすることでなんとか納得してもらったのでした。

結果的に、私は運動部入りを免れ、活動の軽い文化部への入部が叶いました。

私は、学校で何か大きなトラブルを抱えていたわけではありません。真面目な優等生タイプだったので、むしろ先生からの覚えはめでたいくらいでした。

でも、問題を起こさない真面目な優等生が、気持ちよく学校に通っていると思ったら大間違いです。自分の意志ではないことを強制される経験は、柔らかい心をどんどん硬く冷たくしていきます。

こういったことが重なるうちに、私は学校や先生のことが嫌いになっていったのです。

色んな生徒がいるのだから、色んな先生がいたっていい

ここまでお話ししてきたことは、子どもだった私の視点から見たエピソードです。

現在の私が同業者の立場から見たら、当時は分からなかった先生方の苦労や真意が浮かび上がってくることでしょう。

私には合わなかっただけで、客観的に見たら、あの先生方の指導は悪いものではなかったのかもしれません。真相は藪の中です。

ともかく私は大学、大学院と進学し、数年間の大学院生活を経て、高校の教員になりました。

大学院にいた頃、自分は教壇に立つことが向いていると感じ、正規の教員になる決心をしました。

私は探究心は強いものの、自分が研究者になるよりも、先人たちの研究成果を分かりやすく人に伝える方が性に合っていると分かったのです。

こういうきっかけなので、「子どもの頃から先生になりたかった!」「先生は憧れの仕事!」という根っからの教員志望の方とは、気持ちの上でちょっと違う部分があると思います。

「学校が好きだから、先生になりました!」「恩師のようになりたくて!」という方とも違っているでしょう。

でも、学校が好きな子もいれば、嫌いな子もいるように、学校が好きで教師になった先生、学校を好きじゃなかったけれど教師になった先生、どちらもいていいんじゃないかと思っています。

学校は社会の縮図と言われるように、学校に集まる人たちは本当に多様です。

そう考えると、「子どもの頃から学校が好きだった!」という先生しかいない方が不自然ですよね。

今、私は勤務先の学校が好きです。自分の仕事にやりがいを感じ、私なりに信念を持って生徒たちに接しています。

教員の傍らパラレルワーカーをやっているせいか、「先生らしくないね」と言われることも多いですが、教師という仕事には真摯に向き合っているつもりです。

自分が生徒だった時、学校のことも先生のことも嫌いになってしまいましたが、そういうルーツがある私だからこそできること、分かることがあると思っています。

世の中には素晴らしい先生がたくさんいらっしゃって、私の力など微々たるものですが、こんな子ども時代を過ごした先生もいると知ることで、気持ちが軽くなるお子さんがいらっしゃったら嬉しいなと思います。

Text by 橘茉里(和えらま共同代表/和の文化を五感で楽しむ講座主宰/国語教師/香司)

邪気払いとデトックスは似ている!?

こんにちは。エラマプロジェクトの和文化担当、橘茉里です。

2023年がスタートしました。新しい年の始まりって、なんだか清々しい気持ちがしますね。

では、どうして新年は清々しい感じがするのでしょう?

きっと様々な理由があると思いますが、日本文化の観点から見ると、世の中に溜まった穢れや邪気が祓い清められ、浄化されたからと言えます。

昔の人たちは、月日が経つことで世の中に穢れや邪気が蓄積していくと考えていました。そこで季節の変わり目には、邪気払いの行事を行っていました。節分や節句なども、元々は邪気払いの意味合いが強い行事です。

さて、1年の終わりである大晦日にも邪気は溜まっているわけです。そこで朝廷では、疫病や災害の原因となる悪鬼を追い払うために「追儺(ついな)」という儀式を行ったり、浄化を祈願するために「大祓(おおはらえ)」という神事を行ったりしてきました。

鬼を追い払う「追儺」は、後に民間に広まり、節分の豆まきへと繋がっていきます。そして「大祓」は、現在でも宮中祭祀として受け継がれている他、全国の神社で神事として執り行われています。

こうやって旧年の穢れや邪気を祓い清めるからこそ、新しい年は清浄な気配に包まれているわけです。

邪気払いって、なんだかデトックスみたいですね。

世の中に溜まった邪気を祓い清めることと、体内に溜まった毒素や老廃物を排出するデトックス。似ていませんか?

ところでデトックスと言えば、身体的なデトックスだけでなく、心のデトックスも大切だなぁと感じます。

日々のモヤモヤやイライラ、傷ついたこと、悲しかったこと。心の底に重く冷たく蓄積していくそれらを放置していると、そのうち心は疲弊してしまいます。

この世にはびこる穢れや邪気がやがて疫病や災害をもたらすように、心に溜まった毒素は、いずれ私たちの心身を蝕みます。

そうなる前に、心のデトックスが必要です。

季節の変わり目に邪気払いをするように、心に溜まったよどみは定期的に綺麗にしてあげなくては!

ということで、今回は私の体験と古典作品を元に、心のデトックスについて考えていきます。

感動の涙は抜群のデトックス効果あり!

元来、私はネガティブ思考が強く、鬱々を溜め込みやすいので、心を軽くするために色んなことを試してきました。

ゆっくりお風呂に入る、心地よい音楽や香りを感じる、美味しいものを食べる、緑の多い公園を散歩をする、などなど。

その中で、私にとって効果的なのは「泣くこと」でした。

涙を流すことで、心の中のドロドロが洗い流され、とてもすっきりした気持ちになるのです。

ここで言う「泣くこと」とは、何かつらいこと、悲しいことがあったから泣いてしまったという涙ではなく、感動の涙や心を浄化させるような温かな涙のことです。

私は涙もろい人間で、些細なことでも涙が出てきます。

最近は、勤務先の高校で生徒たちの合唱を聞き、目頭が熱くなりましたし(仕事中なのでこらえましたが)、YouTubeで保護犬猫の動画を見てぽろぽろ涙が出ました。

本を読んだり、映画を見たりしてもよく泣きます。

私は国語教師なので、つい物語を考察しながら鑑賞してしまうのですが、「この後の展開はきっとこうでしょ」「これは観客を泣かせる流れでしょ」と分かっていて、頭の中で冷静に物語を批評している自分がいるのにも関わらず、感動してまんまと泣いてしまいます。

こういう時、頭と心は別物だなぁと実感します。そして、いくら頭が冷静に努めようとも、心の動きは止まらないんだなぁと思います。

そうやって心の赴くままに涙を流すと、気持ちが軽くなっていることに気づきます。

さて、あなたは泣くことについてどう思いますか?

「いい大人が泣くなんてみっともない」

「そう簡単に涙を見せるもんじゃない」

「あの子ってすぐ泣いてずるいわよね」

泣くこと、涙を見せることに関しては、このような否定的な意見もあるでしょう。

涙をぐっと堪えて耐え忍ぶことこそ美しいという考えもあります。

それはそれで素晴らしい価値観です。

ただ、そういう耐え忍ぶ美徳だけが日本文化ではありません。古典作品を紐解くと、実は日本人ってけっこう情動的に泣いていたりするんです。

古典では帝もイケメンも、武士だって泣く

古典の中には、数多くの涙の表現が登場します。

例えば『源氏物語』。

『源氏物語』は現代の漫画家によって漫画化していますが、主人公があまりにもよく涙をこぼすので、現代人の感覚になじむように漫画では笑ったり、違う感情表現に変えたりしているそうです。(榎本正純『涙の美学―日本の古典と文化への架橋―』より)

また、古典では涙で衣の袖が濡れることを意味する「袖の涙」という表現がよく出てきますが、日本文学研究者のツベタナ・クリステワ氏によると、自身が『とはずがたり』という作品をブルガリア語訳した際、「袖の涙」に関して読者からこんな質問が頻出したそうです。

「昔の日本人は、女も男も、どうして絶え間なく涙を流していたのだろうか。お化粧をしていたらしいのに。それに、いくら濡れても濡れきらないあの袖は、タオルのような生地でできていたのだろうか」(ツベタナ・クリステワ『涙の詩学』より)

袖の素材は絹で、もちろんタオル生地ではありません(笑)

ただ、外国の読者がそんな風に思うほど、日本の古典作品には涙の表現が多いのですね。

そして現代では、女性よりも男性の方が泣かないイメージがありますが、古典では男性もよく泣いているので、いくつかの例をご紹介しましょう。

◆『源氏物語』「紅葉賀」より

光源氏が18歳くらいの頃。源氏は、宮中で青海波という舞を舞いました。そのあまりの見事さに、ご覧になっていた帝は涙を拭い、他の上級貴族や皇族たちもお泣きになりました。

原文では、「おもしろくあはれなる」様子に涙したと書かれています。つまり悲しいからではなく、感動したから泣いています。

「あはれ」という単語は、古典の授業で習った方も多いと思いますが、喜怒哀楽から生じる深い感動を表わす語です。源氏の舞によって、天皇までもが感動の涙を流しているのです。

◆『伊勢物語』「東下り」より

教科書にも載っている場面なので、ご存知の方も多いでしょう。

主人公の男(平安時代きっての色男、在原業平がモデルとされる)は、自分なんて役に立たない人間だと思い悩み、友を連れ、京を離れて東国に向かいます。その道中、男が都にいる妻を想う和歌を詠むと、一緒にいた人たちはみな涙を流すのです。

しかもちょうどご飯時。乾飯(かれいい)というご飯を乾燥させた携帯食を食べていた際にみんな泣き出してしまったものだから、涙で乾飯がふやけてしまうというオチがついています。

この2つの例では、舞や和歌に深く感じ入ったために泣いています。

彼らは繊細な感受性を持っていて、感情のままに涙することを恥じていませんし、周りの人たちも変だと思っていません。

フィクションだからでしょ?と思われるかもしれませんが、こんな風に泣くことを良しとする文化があったからこそ、このような描写が生まれるわけです。

では武士はどうだったのでしょうか?

さすがに武士は芸術では泣かないかと思いきや、『平家物語』には、祇王という白拍子(女芸者のこと)の歌を聞いて、その場にたくさん並んでいた平家一門の男たちが感動の涙を流すという場面があるんです。

また、『平家物語』に登場する武将は、戦の場面でさえ敵を思って涙を流します。

◆『平家物語』「敦盛最期」より

源氏の熊谷直実は、自分の子ほどの年齢の、見目麗しい平家の若武者である平敦盛と一騎打ちになります。なんとか命を助けてあげたいと思った熊谷ですが、状況がそれを許さず、熊谷は泣く泣く敦盛の首を討ち取ります。戦いの最中から涙を抑えて戦っていた熊谷ですが、討ち取った後、敦盛のことを思い、袖に顔を押し当ててさめざめと泣くのです。

立派な武将ですら、こんな風に泣いています。

日本の古典では、現代人よりもずっと素直に、泣きたい時は心のままに泣いているんです。(もちろん、涙をぐっと堪えている場合もありますが)。

心が動いたら、思うままに泣いてみよう

私は拍手を聞くと、涙が出ます。

何かの舞台を観に行ったとして、観客たちが拍手を送っているのを見ると、泣きたくなるのです。観客たちの感動が、拍手を通して伝わってくるからです。

他には、電車内で若者がお年寄りに親切にしている姿を見ても、なんだか泣きたくなります。

このように、私は感動泣きが得意です。そんなところは平安貴族と似ているかもしれません。

泣くことは心のデトックスになると前述しましたが、感動泣きをすると心が満たされた気分になるので、デトックス以上の効果がある気がします。

だから、現代人はもっと感動泣きをやったらいいんじゃないかなと思います。

平安貴族が歌舞に感動して涙を流していたように、私たちも美しいものや素晴らしいものに触れて心が動いたならば、そのまま泣いてみてはどうでしょうか?

現代人は、さすがに和歌を聞いて泣くのは無理だと思うので、本や映画、音楽など、自分の心に引っかかるものを探すと良いですね。私も「泣ける本」「泣ける映画」をネット検索することがあります。

泣くことに慣れていない方は、そうやって心が動きそうなものを少しずつ試してみてはいかがでしょうか?

涙の後には、きっと心の豊かさが感じられるはずです。

Text by 橘茉里(和えらま共同代表/和の文化を五感で楽しむ講座主宰/国語教師/香司)

note「よむエラマ」を更新しました。
今回の記事は、『フィンランド生涯教育研究家の現地視察滞在レポート2022年夏[前編] 〜コロナ禍と世界情勢に影響を受けた3年間の変化〜 』です。

エラマプロジェクト代表の石原侑美(いしはら ゆみ)は、この夏50日間にわたってフィンランドに滞在しました。
前編では、フィンランドの街の最新の様子と、人々の生活についてお伝えします。

■note「よむエラマ」で本記事を見てみる

リアルでの報告会も開催

10月8日(土)に東京の町田市で報告会をおこないます。
午前と午後、それぞれ違う内容でお届けします。
フィンランドの今が気になるあなたにお会いできるのを楽しみにしています!

■イベント詳細・申し込み

フィンランドといえば、森や湖といった自然豊かな生活や、仕事中もコーヒーを飲む時間を確保するゆとりがある、そんなイメージがありますよね。
そもそも、フィンランドの人はみんな、ゆっくりとリラックスすることを意識して生活しているのでしょうか。

そんな問いをもっていた時に、フィンランドの湖水地方Saimaa(サイマー)在住でsaimaaLifeの設立者、Mari Pennanen(マリ ペンナネン)さんにオンラインインタビューをする機会をいただきました。
saimaaLifeは、360度VR(バーチャルリアリティー)の技術を使って、美しいフィンランド湖水地方の景色や、サイマーでの自然と密に結びついたMariさん自身の生活の様子を世界中の人々に届けています。
彼女は2人の子どもたちと一緒に自然に囲まれた生活を送りながら、”ナチュラル・ウェルビーイング(Natural Well-being)”を提唱しています。

自分自身の整え方、リラックスして過ごす時間がもたらすもの、そしてフィンランドと日本をつなぐ架け橋としての今後の展望など、ご本人の言葉でお届けします。

Mari Pennanen(マリ・ペンナネン) 
2児の母。2011年saimaaLifeを設立。 
観光業に従事した後、生まれ育った自然豊かなPunkaharyu(プンカハリュ)に戻り、現在もPuruves (プルヴェシ)湖のほとりの心地よい小屋で家族と共に過ごしている。
畜産農家の娘だったことから、幼いころから自然や農場から食物が食卓に並ぶまでの過程を見て育つ。それが人生のなかで最も美しく意味のあることだと感じており、子どもたちにも自然と人間とのつながりを尊重することを伝えている。
お気に入りのリラックス方法は薪割りとサウナに入ること。
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私がめざしているナチュラル・ウェルビーイングとは

現代に生きる私たちにとって、生活のスピードが早いということは良い面でもあり、また、そうでない面もあります。

スローライフもトレンドのようになり、その生活が良いとも言われていますが、それが目的となるのではなく、バランスを取ることが私は一番大事だと考えています。

自分にとって心地よいリズムを感じ、自身に問い、対話していくことが大切なのだと思います。

そんな私も、かつて観光業で働いていた頃はストレスの多い毎日に心身ともに疲れ果て、ボロボロになったことがあります。
特に、精神面がひどかった。
そのときに、働く母として、生活と仕事のバランスをとることをまず考えたのです。

いまでは「疲れ果てる」ということはもうありません。

自分を調整するとはどういうことなのか、生活の質を保つことがどれだけ大切であるかを理解し、自分の子どもたちにも日々伝えています。

私がめざしているナチュラル・ウェルビーイングとは、頭と体と心をそれぞれに合った方法で調整していくことです。

「自然の中」で調整することもそうですし、その人が無理なく「自然に」行えることも大切です。

自分でバランスが取れるよう、自然や森のリズムを活用して、頭と体と心を整えるのです。

saimaaLifeでは、私のストーリーと学術的なものを組み合わせてナチュラル・ウェルビーイングのプログラムを作成しています。

休息することも、働くことも、人生の中の“ひとかけら”

私も日本について学ぶようになり、フィンランドと日本がどこか似ていると感じる時があります。

例えば、日本では「仕事をしなければいけない」=「休んではいけない」という思考の癖が存在しているように感じています。それは、フィンランドにもよくみられたことで、10年前の私もそうでした。

しかし、いまの若い世代の人たちが働き出すようになってから、変わってきたように思います。

私たちは働くために生まれてきたのではないく、生きるために生まれてきた、ということに気づき始めました。
人生=仕事ではなくて、人生を構成する1要素として仕事があり、休息がある。
何もしなくてもいい、そういう時間があってもいいのです。

私はsaimaaLifeの主宰者であり、2人の子どもの母親でもあります。
新聞で読んだのですが、日本では「母親になる」ことに、まだまだ保守的であるように見受けられます。「働く」と「母親になる」が共存していない。
働きながら母親になるということが、日本はまだ難しい環境であると私も理解しました。

フィンランドでは政府の制度として、働くもよし、母親業に専念するもよし、個人と家族のライフスタイルに合わせたサポートシステムがあります。(※フィンランド大使館サイト
母親になることでキャリアチェンジをしなければならない、ということもありません。
最初は母親業に専念し、その後、仕事に戻るというのが最近のフィンランドでも一般的です。そして、母親になったからといって、キャリアをあきらめるということもありません。

日本とフィンランドはシステムに違いがあるのかもしれませんね。

感情を表現することを学校で学ぶフィンランド

ナチュラル・ウェルビーイングの状態でいるためには、自分の感情を表現することがとても重要な要素になってきます。

なぜなら、感情(Emotion)は、病気やさまざまな不調と関連しているからです。
先ほどの母親像の話もそうですが、本来の自分を押し殺して、自分の感情を自分の内側に溜めこむことは、さまざまな不調や問題を生み出してしまうのです。

フィンランドでは、私たちの世代(40代)以降から現在までは、子どもの頃から学校で感情を表現することを学んできました。教師には、各々の裁量で多様な手法を用いて、感情表現スキルを生徒たちに伝えることが認められています。(※編集部注)

すべての感情を表現するということは、子どもたちが健やかに成長していくために必要なことです。学校システムの中で、自分と他者のさまざまな感情に触れ、その感情を処理する方法を学んでいるのです。

私の例でいうと、以前の仕事で燃え尽き、心身ともに疲弊していましたが、いまでは完全に健康を取り戻しています。その理由の1つは、自分の感情を表現し、その感情を処理できたことです。
私の心の中にある羞恥心、哀れみ、怒りに気づき、それが鬱状態を引き起こしていたのだと気づくことができたのです。


(※編集部注)
ソーシャル感情スキルという分野で、フィンランドでは学校教育のなかに必須でとりいれられています。(参考論文:岩竹美加子著「フィンランドの教育、日本の教育」 P.18「自分への配慮、日常生活のスキル」)
日本でいわれている非認知能力は評価を伴うので、フィンランドでの感情スキルとは似て非なるものがある、とMariさんとの対話でも感じました。

「Just Be」

「ナチュラル・ウェルビーイングの到達地点はどこなのですか?」といった質問をいただくことがあります。

「ナチュラル・ウェルビーイングの状態に到達した」とあえて定義するとしたら、それは「Just Be」=ありのままの状態であることを自分で認識できたり、感じられたりするときだと思います。
とは言え、それはとても難しいことです。
自分自身を受け入れることができないという人もいるでしょう。

でも、自分を受け入れられないままだと大きな問題が生じます。だからこそ、学ぶのです。自分は大丈夫、と思えるように。

感情を表に出すということは、性別を問わず、人間のもつ本来の能力なのです。
だから、胸の中にしまったままにするのではなく、引き出していくことに集中し、取り組んでいきたいのです。

私は完璧を求めてなんていません。人は誰でもたくさんの間違いするし、完璧な人間なんでいないのです。
かくいう私も、時には、完璧にしようと一生懸命がんばってチャレンジして、疲れ果てることだってある。だけど、その後で、自分自身の心の声がいうのです。「今のわたしで充分だわ。わたしベストを尽くしたわ。」って。

そして、「Doing」に焦点をあてるのではなく、「Being」に切り替えて、バランスを意識しながら過ごすということも大切です。

人によって、自然の中での過ごし方も、時間を感じる速度も、ナチュラルであることそのものの捉え方も、感じ方がそれぞれ違います。
だからこそ、自分にとって、それにどんな意味があるのか、どんな価値があるのかを感じてください。

私のめざす道は、まだ旅の途中です。これからも自分自身の経験を通じて、このナチュラル・ウェルビーイングを伝え広めていきたいと思っています。
ひとりひとりの「Just Be」を ナチュラル・ウェルビーイングのひとつの到達地点として、人びとを助け、サポートをしていきたい。
そのために、私自身が今のナチュラル・ウェルビーイングな生活を維持していくことも大切な目標です。

そして、最後になりますが、今秋、日本でもワークショップができるようにエラマプロジェクトと準備を進めています。
日本のみなさんとお会いできる日を楽しみにしています。

(モノローグここまで)

インタビューを終えて

最初にMariさんにインタビューをするお話をいただいたとき、真っ先に私が質問してみたいと思った内容は、「フィンランド人は日本人に比べて休息をとることが上手なのかどうか」というものでした。

当日のインタビューでは、彼女が提唱するナチュラル・ウェルビーイングを軸に、フィンランドと日本の母親像、学校教育システムにまで、話が広がりました。そして、私の率直な疑問や質問にMariさんはひとつひとつ丁寧に、ゆっくり考えながら、誠実に答えてくれました。時間が経つのを忘れるくらい、私はどんどん彼女の話と彼女のマインドに惹かれていったのです。

フィンランド人だからとか日本人だからとかの前に、大事なのは自分はどうありたいのか、なのではないでしょうか。
人は一人では生きていけない。だからこそ、自然との調和、人のぬくもりや感情に触れることで、自分自身をありのまま、認めてあげよう。私はそんなメッセージを受け取りました。
とても聡明で、チャーミングで、まわりの人を温かくしてくれるMariさん、あなたとの出会いに感謝します。ありがとうございました。

イベントのご案内

フィンランド在住のMariさんとオンラインでお話ができるイベントを開催します!(ガイドと通訳がありますので言語の心配はありません)

【オンライン】フィンランド湖水地方の秋体験ツアー
〜フィンランドの森に豊かな暮らしはあるのか?〜
開催日時:2021年10月25日(月)20時30分~22時
以下のページからお申し込みください。
https://elama.be/workshop/finland-extour/

フィンランドの基礎知識を学び、湖水地方の自然を堪能した後で、Mariさんへの質問タイムもあります。自然の中での暮らし、都会から田舎に移住すること、子育てのこと、ストレスと向き合うこと等々、なんでもOKです。

みなさまのご参加をお待ちしています!

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