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Elämäプロジェクト

こんにちは。エラマプロジェクト代表、フィンランド生涯教育研究家の石原侑美です。

現地での研究、フィンランドツアー開催のため今年もフィンランドにやってきました。

この記事が公開されるのは1本目のツアー「フィンランドのサステイナブルな社会とウェルビーイングの暮らしを学ぶプログラム」が終わった後。そしてその約1ヶ月後、10/13からは2本目のツアー「”北欧のシリコンバレー”フィンランド・オウルで働き方とウェルビーイングを学ぶプログラム」を開催します。

8月中旬からフィンランドに滞在し、1本目のツアーが始まる前の約2週間はサイマー湖水地方で過ごしていました。

その期間でわたしが得られたことなどみなさんにも共有できたらと思う経験がありましたので、今回は「余白」と「対話」と「勇気」に関するお話をしたいと思います。

最初の2週間は森と湖に囲まれて

8月、フィンランドのサイマー湖水地方、プンカハリュに到着。ここに来て感じたのは、まず去年より湿気が多かったことです。滞在2週目のある日に森の中を歩いていたら暑くて汗をかきそうなくらいでした。

気温自体は日本と比べるとかなり低くて21〜22度くらいだったんですが、それ以上に暑く感じて、日差しも強かったです。

その週は1日だけ台風かと思うくらいの風と雨と雷がすごい日がありましたが、それ以外の日はずっと晴れていてとても気持ちよく過ごせました。

隣のコテージにはフィンランド個人旅行のコーディネートを担当した一家もいらっしゃって、約1週間滞在されました。スケジュールを一部ご紹介すると、ある夜はコテージでバーベキュー→サウナに入る→湖で泳ぐを繰り返し、みんなできれいな景色や自然の中の楽しさを味わっていました。

そして、個人では行くのが難しい、現地の小学校見学にも行きました。翌日は

プンカハリュ在住の森林浴ネイチャートレーナーで「SaimaaLife」を運営しているマリ・アホネンの案内のもと森の散策に行き、その後はコテージでカレリアパイとブルーペリーパイを作るワークショップがありました。

このようにわたしは通訳やガイドの仕事で人と過ごす時間はあったのですが、基本的にはいつもの暮らしとは違う形(家族と離れて一人)で過ごす時間がとても多く、自己対話の時間も生まれていったのです。

きれいな景色に癒されると病む?

フィンランドでも通常の仕事はしているのですが、その仕事でいろいろあり、どうしようもなくなったときがありました。

そういう場合は日本にいたらおいしいご飯を食べるとかお酒を飲むとかちょっと外に食べに行こうとか、そういった発散の仕方ができますし、わたしは家族と一緒に暮らしているので家族と話してちょっと気分転換することもできるんですが、一人だとそれができないんですよね。

今はオンラインという方法もありますが、家族も忙しくて1週間話せないという状況にもなりました。コテージの前に湖がある場所に滞在していたんですが、落ち込んだ気分で外をパッと見ると、すごく景色がいいから、より病んでしまったんです。

もちろんきれいな景色を見ると癒されますが、同時に一人だとすごく病みやすくて。日差しはあるのに病みやすかったです、その1週間は(笑)。

例えばあの人はなんでそんなことを言うんだろうとか、わたしがもうちょっとこれを確認しておけばよかったのかと後悔したりとか、自分ではコントロールが効かないくらいの、心の中のどろどろした部分、闇の部分というのがあって。

その中でハッと景色を見ると湖がキラキラ光っているし、白樺の葉も湖のきらめきのようにキラキラしていて。

光を見れば見るほど、美しすぎる景色の前でより自分の闇が出てくるような、闇があるということにどんどん気づくような。

光に照らされるほど自分の影が濃くなるーー。そんな感覚に陥ったんです。

これが、もし暗い秋や冬だったらまた違う感覚なんでしょうが、明るくていいものに出会っていくほど自分の闇に気づいてしんどくなる感覚です(苦笑)。

日頃から自分を見つめるという習慣はありますが、やっぱり生きているといろいろ起こります。そのたびに問いを立てて向き合ってはいるのですが……。

しかし、それでもその1週間はいい自己対話ができた日々でもありました。

自己対話と余白

わたしの場合は、自己対話は心の中だけでやっています。人によっては書き出したり、誰かに聞いてもらったりする方法の方もいると思います。

仕事以外の時間は、心地いいL字型ソファーに寝そべって過ごすことが多かったです。窓からは湖などの景色が見える位置だったんですが、気持ちがほどけていくからこそ闇だけではない自分の本音が見えてくるというのはあると思うんです。

ある日、自分の声なのでしょうがふと「わたし本当にその生き方でいいの?」がやってきたんです。自然の中で余白が多くなると自分と対話しやすくなるとあらためて気づきました。

実は答えも出たんです。

前々から、自分が近い将来にやりたいと思うものがありました。それは周りも賛成してくれているし、このまま実現のための準備をしようと思っていて、自分自身もそんなに疑問を持たずに進んでいたんですね。

でも、本当にその道でいいの?と思ったときに、それを「やらない」という答えになりました。正確に言えば、90%以上その結論に至りました。短期間にそんな疑問がすぐに出てきて自分で決断できるのは初めてだったので、不思議な体験でした。

この1週間はわたしにとって本当にしんどかった一方で充実していました。

結果的にひさしぶりの一人時間を満喫した、という話になりますね(笑)。

「余白」とは、日本にいるときなら、仕事がある程度落ち着いたら、次は夜ご飯を作るとか、明日のための準備をするとか、畑から何か取ってくるとか、家でやることがたくさんあります。

でも、一人になるとまずスケジュール的な意味での余白ができます。

それによって、考えなくていいことが増えて、頭の余白もできますね。

日本にいると「今日何作ろうかな、何を作る必要があったかな?」と思うと、そのためには買い物に何時に出て、何を買うと何のメニューになるかな、明日銀行に行かなきゃいけないよね、などなど、仕事以外にも考えることがたくさんあります。

でもフィンランドに来ると、旅行者だからというのもあってそれを考える必要がない。ご飯はずっと作っていますが自分一人のためだからそんな大したことはないので、どんどん頭の余白ができてくるっていうのは大きいかもしれません。その結果、心の余白ができたという感じです。

「勇気」と「希望」の関係性

前述のマリのプログラム(森の散策)に同行した際にマリが話してくれたことなのですが、自然に触れれば触れるほどいろんな神経系のバランスが整っていくそうです。

森の中であれば、木を見る、木に触れる、木の匂いを嗅ぐ。もちろん虫もたくさんいますし刺されてかゆい体験もしますが、自然の中にいると本音が見えてくるんですよね。日本でも自然の中で過ごす効果・効能は広く知られていますよね。

マリのウェルビーイングコースのプログラムでも彼女はよく「FIND YOUR NATURE」と言います。「あなたの自然を見つけよう」ということではあるんですが、natureという言葉には「自然」以外にもたくさんの意味があるんです。「人間性」も「本質」もnatureという言葉にできるんですよね。

だから「FIND YOUR NATURE」というのは、あなたの「自然」を見つけることだけではなくて、あなたの「本音」を見つけるという意味も含まれるんですよ。

仏教では「自然」を「じねん」とよんで「自ら然る」(人間の作意のないそのままの在り方

)という意味に解釈しています。自然というのは木とか水とかだけではなく、ありのままの自分でいるという意味の方が強いのかもしれないねという話を森の散策中にしていました。

さらにみんなで対話をしていると、「ありのまま」の難しさについての話になりました。

まずありのままの自分を知ることが難しいし、ありのままの自分がわかったところで、それになるのは難しいのではないかと。

例えば、何かしらの勇気を持ってやめるという決断をしなければありのままでいられないかもしれないし、勇気を持って自分の超えなきゃいけない心の壁に向き合う必要があるかもしれない。

ありのままでいるってすごく難しいことだし、勇気のいることだから、実はありのままでいようという話はそんなにキラキラしたことではないねという意見にまとまったのです(笑)。

自然の中にいると、明るくて美しくてキラキラしていて、確かに癒されます。でも、同時にありのままの自分をあぶり出されるから、それと向き合うことになったときに辛さも伴うんですよね。そりゃ勇気を持たなきゃいけないよね、と……。

何とかしてその苦しさを、自分自身の機嫌をとることで解消させなければいけないんだなと実感することになるのです。

他にも、幸せになるためには勇気がいる、自分らしくいるためには勇気を持たないといられないといった話も出て、対話はつきませんでした。

ふと、参加者の女性がマリに「勇気はどこから来るのか?」という質問を投げかけたんです。するとマリの回答がおもしろくて。

「勇気を出すというのは人間の特徴だ」とマリは言ったんです。

それは、勇気を持つためには自分が気づかなければいけないし、自分と対話をするために心にも頭にも余白を持って、それだけの体力がないといけないと。

病気(体も心も含めて)のときに自分と対話するのはすごくエネルギーがいるから、体力のあるときに、余裕のあるときに自分との対話をおこなうのだとも言っていました。

マリは「そうやって向き合うからこそ自分が幸せに生きたいという気持ちや『未来の希望の光』に向かって進むんだ」「それが人間の特徴なんだ」と言っていたんです。

それを促すために余白が必要ということなんですね。

それって「生きがい理論」にもつながるのかなと思います。

「生きがい」と「生きがい感」の違いを神谷美恵子さんが『生きがいについて』という本の中で書いています。生きがい感の定義として、今あるもの、目の前に集中して幸せなものを噛み締めることだけではなく、それに加えていかに未来への希望を持てているかどうかだとされています。

幸せになるためにはどうすればいいか?ということに対して、フィンランドでもいろいろな文献でも仏教的な思想でも、「今あるものに集中する」「今あるものを大切にする」という感覚がありますね。

本当に幸福感を持つためには「未来に明るい光があるかもしれない」という希望を持つこと。

それが勇気を持つためにもすごく大事なのかなって感じています。

人間の脳ってマイナス思考がベースなので、未来を思えば思うほど人間は不安になるんですよね。それは人間として当たり前ですし、不安を希望に変えられるのも人間の力だと思います。

マリの言葉とわたしなりに感じていることを総合すると、「希望を持たせる力」こそ勇気なのかなと思ったりしたのです。

「勇気をもらう」という言葉があります。勇気を持つことは、自分の中だけじゃないような気がするんです。

一方、覚悟となると自分の中にしかない印象ですよね。

フィンランドの書物にも「勇気を持って」という言葉はよく出てきますし、フィンランド人もよくその言葉を使います。覚悟ではなくて勇気という言葉が多いので、「勇気」は自分のライフデザインを考える上で大事だなと感じます。

「忍たま乱太郎」(アニメ)の主題歌で歌っていることは間違いなかったなって今になって思いました。そう、勇気100%(笑)!

そういえば、時代劇の水戸黄門の歌にも「人生勇気が必要だ」っていう歌詞が出てきますもんね。

フィンランド滞在報告会を予定しています

さて、今回は、余白をたっぷり味わった私が、フィンランドの自然の中で得たたくさんの気づきをお話させていただきました。

いかがでしたか?

10月下旬までフィンランドに滞在しますが、帰国後、今年もフィンランド滞在報告会を実施予定です。

きっと、さらなる学びと、濃い〜体験談、そしてもちろんリアルなフィンランドの最新情報をお伝えできると思います。

エラマプロジェクトのWebサイトSNSでお知らせしますので、ぜひチェック&フォローしてくださいね!

どうぞお楽しみに!

By 石原侑美(エラマプロジェクト代表)
Interview & Text by nakagawa momo(フリーライター)

こんにちは。ライターのひらふくです。暑い日々がつづきますが立秋もすぎて暦の上ではもう秋ですね。

秋になるとなんだかもの寂しい気持ちになります。ひとりでいると理由もなく心にすきま風が吹いているような気分になったり。

私はひとりでいることは苦ではありません。一人旅にも行くし自分だけでカフェに行くのも楽しいです。逆に飲み会などは最大4人までにしたいと思うくらいです。

でも、ひとりが好きだけどひとりは寂しいときがありませんか。

自分で選んだはずなのに誰かにここにいてほしいと思ったり、なのに人間関係の大変さに出くわすとやっぱりひとりが楽だと思い直したり。心は揺れ動いていて自分でも自分がわからなくなってしまいます。

そこで、今回はあらためて”ひとり”が持つ意味や、自分にとって生きやすいバランスを考えてみました。ひとりでいたいけれどひとりが寂しい。そんな時にかたわらに置いてもらえたら嬉しいです。

“ひとり”ってなんでしょう?

私が”ひとり”について考えたのはエラマプロジェクト主催の侑美さんの言葉からでした。侑美さんは2024年は8月から10月までフィンランドに滞在しています。そこで豊かな自然にひとり囲まれている中で孤独感について考えることがあったそうです。

物理的な距離は離れていても、心はいつも近くに感じられる。そんな温かい関係に支えられているからこそ、こうして一人で静かに過ごしていても、深い孤独感を感じずにいられるのだと思います。

そして、この3日間で改めて気づいたのは、「周りの人との心地よい人間関係があってこそ、ひとりの時間も充実する」ということ。

周りの人との関係に悩み、疲れてしまうと、ひとりの時間も孤独で寂しいものになってしまいますよね。

どんな人と一緒にいたいのか、どんな距離感で付き合いたいのか。

心地よい人間関係を築くために、常に模索し続けることが大切なのだと感じています。

ひとりの時にも周りの人との心地よい人間関係に支えられている。それは私の心にすとんと落ちてきました。物理的にはひとりでも、それを寂しいと思うかどうかは自分の心が決めること。心が寄り添っていると思えるのなら寂しくないのです。

例えば本を読んでいたら響く言葉に出会って「今度あの人に話そう」と顔が浮かぶ時。悲しいことがあっても来週あの人に会うまではがんばろうとふんばる時。ひとりでいるけれどきっと心は孤独ではないのでしょう。

反対に、大勢でいるけれどひとりぼっちだと感じる時もあります。私の場合は、大人数の飲み会にがんばって行ったけれどノリきれなくて声だけで笑っている時。自分でも顔がこわばっているのがわかります。

それは心と反対の行動をしているからかもしれません。本来は楽しかったら笑うし違うと思ったら笑わなくていいはずです。できないのは相手を気遣って私の心を押しこめているから。自分の心を出さないでいると、物理的には近くても、おたがいの心は遠くて自分だけ置いてきぼりにされたようです。

どうやら”ひとり”には二つの意味があるようです。その空間にひとりでいることと、心が誰ともつながっていないと感じていること。

私は心を押しこめるくらいなら空間にひとりでいたいと思います。でも心は誰かと寄り添っていたい。この二つは実は矛盾しなくてどちらも叶えられそうで少し嬉しくなってきました。

スナフキンのカッコよさは彼以外が作ってる

空間にひとりだけど心はひとりじゃない。これってどんなバランスなんでしょう?

ふと浮かんだのはフィンランドが生んだ名作ムーミンに出てくるスナフキンです。

日本のアニメのスナフキンは物知りでクールな孤独を愛する一匹狼。いつもムーミンやスニフをフォローしてシニカルな笑みを浮かべていてカッコいいと評判です。自分を偽らない彼の言葉は心に突き刺さってきます。

「いつもやさしく愛想よくなんてやってられないよ。理由はかんたん。時間がないんだ」
「大切なのは、自分のしたいことを自分で知ってるってことだよ」

埼玉県飯能市のムーミンバレーパークには、彼の言葉を刻んだプレートがベンチに据え付けてあるんです。

私は幼いころはスナフキンがお気に入りで、あんなふうに自由でいたいと願っていました。でも、スナフキンのあるセリフに出会って今は少し変わってきています。

「ぼく、ムーミンたちのことだって、わずらわしく思うこともある。おしゃべりもしたがるし、どこへ行っても、だれかしらいるし。だけど、ムーミン一家とくらしていると、いっしょでも、ひとりでいられるんだ。(中略)ムーミンたちは、ぼくのこと、ひとりにしておいてくれたんだ…」
「ムーミン谷の十一月」より

いっしょにいるけどひとりにしてくれる。それはひとりでいるけどいっしょにいてくれることと似ている気がして。

そう思うと、スナフキンが毎年冬にムーミン谷を去って一人旅に出るのは、ムーミンたちがいてくれるからじゃないかと感じます。春に待っていてくれる人たちがいるから、彼はひとりでも孤独じゃないのです。彼のクールなカッコよさはムーミンたちのおかげだとしたら少しスナフキンに親近感がわいてきました。

私は会いたい人たちを思い浮かべる時にこのセリフを思い出します。

例えば同じ空間で無言でいても苦じゃない人たち。言葉がまとまってなくても最後まで聞いて「うん」とうなづいてくれる人たち。いっしょに旅行に行った先で「ちょっとひとりで歩いてくるね」と言ったら「いってらっしゃい」と気持ちよく送り出してくれる人たち。

私の心を尊重して、でも孤独にはしないで寄り添ってくれるのです。こんな人たちとずっといっしょにいたいなと願っています。

ひとりだけど心はひとりじゃない。それはスナフキンのバランスかもしれませんね。

寂しさも心地よさに変えて

最近”solitude(ソリチュード)”という英語を知りました。

意味は”孤独”なのですが、ひとりでいることにポジティブなニュアンスがあります。他の人と離れてすごすことで自由を感じたり思考や感情をふりかえって内省できたりするからとのこと。

フィンランドの人たちが休みの日に森で過ごすのもこれに近い気がします。

また、ソリチュードは寂しさも歓迎するそうです。寂しくないほうがいいと思っていたのでちょっと不思議です。寂しさを歓迎する理由も考えてみましょう。

寂しい時は心が冷えて辛くなります。そして誰かに会いたくなって会いたい人たちのことを思い浮かべます。

すると彼らとつながっている気がしてふわっと心があったかくなって。寒いからこそ焚き火が温かく感じられるように、寂しいからこそ心のつながりを実感できるのかもしれません。

寂しさは寄り添うために必要なことだとしたらそんなに悪いものでもなさそうです。ソリチュードの直訳は”孤独”ですが私は”心地いい孤独”と訳したいなと思いました。

日常では、忙しさや悲しさに紛れてすぐにひとりぼっちかのように落ちこんでしまいます。

でも大事なのは寄り添いたい人たちのことを忘れないこと。寂しさをきっかけに大事な人たちに思いをはせて心はそばにいたいと思います。(もちろん呼ばれたら物理的にもそばに飛んでいきますよ!)

ひとりが好きだけどひとりは寂しいあなたへ。

この記事を書いている今、私はあなたに思いをはせています。そして私と同じようにあなたのことを思い浮かべている人が今もきっといます。

だからあなたも誰かのことを思い出して寄り添ってみませんか。そうしたらひとりが好きな私たちは孤独な時でさえも心地よく過ごせるはず。

毎日いろいろなことがあるけれど寂しさも心地よさに変えて。ひとりだけれどいっしょに生きていきましょう。

Text by ひらふく

こんにちは。majaka(マヤッカ)です。majakaはフィンランド語で灯台を意味します。

灯台のように、人がほっとしたり、一緒に何か目指していくこと、それが自分自身、そしてまわりの人たちにとって幸せになっていくこといいなと思いmajakaという名前をつけました。

そんなわたしは、2〜3年前から、人にとっての幸せってどういうことなんだろうと考えています。そのなかで「ウェルビーイング」という幸せに生きていく定義について知り、色々考えたり、少しづつ行動しています。

きょうは、ウェルビーイングな状態ってどういうことなんだろう?どうしたらより豊かで幸せな毎日を過ごせるのかな?ということについてみなさんと一緒に考えていけたらと思います。

ウェルビーイングとはどのような状態?

あなたにとってウェルビーイングという言葉は馴染み深いですか?

ウェルビーイングとは「心身共に健やかな状態」とされれていて、最近わたしが学んだところでは「自分で、心身共に健やかな状態をわかっていて、そこに向かって歩んでいる状態」ということ。

毎日の生活のなかで、ウェルビーイング、自分なりの幸せな状態でいるのはなかなか難しいなと感じていました。

でも、自分にとって心身共に健やかな状態に向かって頑張っていたら良いんだ、と理解できてからは、ワクワクすること、わたしだったら、良い香り包まれていることや好きな色のアイテムを持ち歩いていること、仕事に追われず、優先順位を考えて仕事すること、一緒に働く仲間も笑顔で働けていること。プライベートでは家族友人も笑顔でいること。あとは健康!これは本当に大事ですね(わたしは長年腰痛に悩んでいますが…)。

このように、自分にとってウェルビーイング がわかってきていたものの、今この瞬間、まだ腰痛に悩んでいたり、小さな出来事に落ち込むこともありでいることって難しい?と思うこともあります。でも、少しずつでも、確かに前向きに歩んでいることがウェルビーイングなんだと思えたり、最近は心身、特に心が今までより穏やかになっているなと感じています。

あなたにとって、心がうきうきしたり、穏やかになったり、健康でいられるために意識していることはなんですか?

わたしはウェルビーイングじゃないのにあの人はなぜウェルビーイングなの?

わたしのウェルビーイングについてお話しましたが、あなたにとってウェルビーイングとはどのような状態ですか?

わたしはウェルビーイングの状態とは、自分だけでなく関わる人たちも同じくウェルビーイング でいられることだと思っています。

家族や友人、同僚が、何かに悩んでいたり、落ち込んでいると自分も心が辛くなって、どうにかしてあげたいと思います。

自分なりに考えて、その人のために言葉をかけたり、行動することで、一緒にウェルビーイング が高まっていくと嬉しいと思うのですが、実際にはあまりうまくいっていないように感じることが多いです。

わたし自身が感じたことですが、わたしが悩んでいることを誰かに相談しても余計にモヤモヤしてしまうことがあります。

でも、相談した相手はとても満足そうで、何度かやり取りをしていても同じような様子なのでその人に「○○さんは悩みとかありますか?」と聞いてみました。

すると「悩むことはあるけど、すぐに行動に移すから、ずっと悩んでいる人には、悩んでないですぐ行動すればいいじゃんって思う」とのこと。

「じゃあ、○○さんは今とってもウェルビーイング ですね!」

と言ったら「そうだね!」とニコニコされていました。

その時は「いいなぁ〜。うらやましい!」と思ったのですが、家に帰ってふと振り返ってみると、本人は良い状態かもしれないけど、相談した相手(わたし)はモヤモヤが晴れずにいる…。それってその人にとって、ウェルビーイングなのかな?と考えてしまいました。

こんなに、ウェルビーイングのことを考えているわたしより、いとも簡単に(少なくともわたしにはそう見えていました)を体現しているなんて不公平だ!!なんて理不尽なことを思ったりもしました。

その一方で、わたしも一緒に過ごす人たちと会話したり、一緒に働く仲間と話したあと、同じような気持ちにさせてしまっているのでは?という問いも生まれ、に向かって歩めているのかよくわからなくなってしまうことがよくあるのです。

ウェルビーイング について考えれば考えるほど、自分やまわりの人にとってのウェルビーイングがどんなことなのかわからなくなることもありました。

ウェルビーイングはひとりひとり違うもの

自分にとっての豊かさや幸せを考えはじめて数年。

ウェルビーイングという言葉に出会い、日々の暮らしのなかで、わたしが豊かに感じることをみつめてみたり、改めて自分の大切にしていることや今までの人生などを振り返る機会もあり、紆余曲折しながらも自分にとってのウェルビーイングな状態がわかってきました。

そして、どうしてあの人は幸せそうなんだろう?わたしは落ち込んでいるのに…という想いに対しては、「一人ひとりウェルビーイング の状態は違う」ということに気づくことができました。

もちろん、いつでもみんなが心身共に健やかな状態でいられたら最高です。

でも、その時の感情やコンディションは一人ひとり違います。

家をでる前に家族とささいなけんかをしたとか、着ていきたかった洋服がしわくちゃだったとか。

今日はいつもより腰が痛い、頭が重いなぁ、とか。

そして、大事にしていることも違う、生きてきた環境も人それぞれですよね。

私はそんな当たり前のことに気づけず、どうして?と、人と比べたり自分の勝手な感情によって、自分で自分をウェルビーイングから遠ざけていました。

でも、友人や家族、仕事の仲間と話したり、自分の価値観を見直したりしたなかで、気づけたのかなと思います。

今は、自分の大切にしていることをよく理解して、毎日生きていくこと。

そして、その毎日を一緒に過ごす人たちにも少しでも自分のウェルビーイング を感じて過ごしてもらえるように、一人ひとりの想いが違うことを忘れずに、まず思いやりと感謝を伝えていこうと思っています。

そして、これからも悩みながら、今の幸せと、より豊かな人生過ごせるよう少しずつ努力していくことがわたしにとってのウェルビーイング です。

毎日ハッピーでいられたらもちろん最高ですが、いろいろ悩んだり、考えたりしながら、自分にとってのウェルビーイング を探求できたら結果、1日1日が健やかでいられるはずです!

あなたにとってのウェルビーイングを発見して、今までより人生を豊かに感じていただけたら嬉しいです。

Text by majjaka(マヤッカ)(ウェルビーイング探求人)

こんにちは!いけかよです。

毎月開催されているエラマプロジェクトの名物企画「哲学バー」。毎回、1つのテーマを掲げ、参加しているみなさんで自由に好き勝手におしゃべりしあうイベントです。

先日のテーマは「『品』とはなにか」でした。
「品」は、「上品」「下品」「品がある」「品がない」などに使われる「品」です。
この「品」というもの、哲学してみると実に歯ごたえのあるものでした…!
ということで、この哲学バー2号店にて、延長戦ということでひとり哲学バーしてみたいと思いますっ!

生きるために「品」は必要か?

この日は当然ながら「品」という文字が使われる言葉がたくさん列挙されました。
・品がある/ない
・上品/下品
・品格
・品質
・品性
・品行方正 などなど。

でも、どれもこれも、なんだかよく考えると微妙に違うニュアンスな気がするんですよね。
「品がある」と「上品」は、まったくおなじ意味ではない気がしませんか?

そもそも「品がある」ってどういうこと?という点については、もちろん哲学バーでは議論されました。
「品がある」は、言い換えれば「清潔」「ていねい」「姿勢がいい」「言葉遣いがきれい」などなど。なんしか、めっちゃクリーンなイメージですね。ここはみなさんなんとなく同意いただけるのではないかと思います。

そして、その逆の「品がない」も、そのまま同じくひっくり返して「不潔」「雑」「言葉が汚い」とかが連想されますね。

ここで考えたいのは、生きるために「品」は必要か?ということ。

参加者の方からは「品性や品があるのはすばらしいこと。でも、人間のほんとうの生きる力や欲望は、その対極にある『品のない』ところからくるのではないか?」という言葉がとびだしました。

たしかに、生きる力にあふれたエネルギッシュさと、清廉潔白な上品さは共存しないようにも思えます。生きる力=むき出しの欲望や渇望と考えたときに、たとえば戦争とか、生きるか死ぬかのような極端な状況において、上品さを保っていては生き抜くことはできないかもしれませんよね。

「品」とは「品定め」の「品」

また、この「品」ですが、自ら持とうと思って持てるものではない類のように思います。

「今日から品よく生きるぞ」と決めたとて、それってどんな生き方?と思いますよね。
そもそも「品良くなりたい」と思っていることじたい、あんまり品が良いとはいえない感じがするという、恐ろしき矛盾をはらんでいたりします。

そして、自ら「私は強い」という人にさほどの違和感はなかったとしても「私は品が良い」という人に対しては若干の驚きを持ちつつ「…ふ、ふーん…」と引いてしまう感じになりませんか?
そもそも、本当に品のいい人は「私は品が良い」なんて言わないよねという矛盾がここにも発生します。

そう、つまり「品」とは、自分では決められないことなんじゃないかと思うのです。
「今日から私は強くなる」と決めることと「今日から私は品よくなる」と決めることはなにがどう違うのか?この違和感はどこからくるのかというと、そのひとつに「品」とは「自分で決めることができない」という特性があるんじゃないかと思ったのです。

つまりその人に品があるかないかというのはあくまで他人が決めることだということです。
自分がどんなに品位を保っていると思っていても、他人がそう思っていなければその人に品位はないも同然なのです。
(ただ、その人が「自分は品位があるのだ」と思うのはもちろん自由です。そしてそう思うことによって、ほんとうにそうなる可能性だって十分にあるでしょう)

なぜそう思うのか?

この「品」というものは、人が人をコントロールするために人間が勝手に作ったルールに過ぎないのではないか?と思うからです。

そして「品」とは「常識」とか「道徳」とか「マナー」とか「世間」とか、そういった類と同じものだと思うのです。
これらはつまり「枠」です。この「枠」に納まっていれば、非常に扱いが楽な人ができあがるような気がしませんか?
常識的でモラリストで他人に迷惑をかけない人のことを「品行方正」というのです。

少し極端かもしれませんが、いけかよの思う「品」は「品定め」の「品」です。

この人に品があるかないか。きちんと枠に収まっているかどうか。違和感がないかどうか。
そうやってジャッジする=品定めをして、人はだれかを「品がある」「品がない」と判断するんじゃないでしょうか。

でもそこに、ジャッジされた人のキャラクターや価値観や人生観はなにも加味されません。
「品がある/ない」ことと、その人に魅力があるかどうかは関係ない。
「品がある/ない」ことと、その人に才能があるかどうかは関係ない。
「品がある/ない」ことと、その人が人生を楽しんでいるかどうかは関係ない。

そう。つまり「品がある/ない」ことは、実は生きることにはめちゃめちゃどうでもいいことだったのでした。

あの大女優がいちご大福を5個一気食いしたら

しかし、そのような「人間的魅力」と「上品さ」を兼ね備えた人も存在はするだろうと思うのです。それはきっと、それらを併せ持つことが「義務」のような人たち、皇室や貴族や王族とかでしょうか。

じゃあ、そういう人たちに果たしてあなたはなりたいと思うでしょうか?
「なりたい」と思う人はきっとそんなにいないでしょう。なぜか?そういった血筋であるがゆえの責任の重さもさることながら、さぞ息苦しかろうというのは想像に難くないからですよね。絶対にまちがってはいけないプレッシャーのなかで生きるというか。

いや、そんな極端な人たちを例に挙げるなとお思いでしょうか。

じゃあ、哲学バーにも話題にあがった「品のある人」代表例は、女優の吉永小百合さんでした。彼女こそ、「上品」「気品」を絵に描いたような感じがします。ある意味「完全無欠」な存在とも言えるでしょうか。

でも、それってやっぱり「女優」、多くの人からの「吉永小百合はこういう人であってほしい」というある意味の「偶像」の枠にきっちり収まっているからですよね。

そしてそれは事務所の戦略によって、ご本人の意思や個性は抑え込まれているということももしかするとあるのかもしれませんが、女優ってそういう仕事であるということを考えると、皇室や王族に通じるものもありそうです。

でも、ですよ。
たとえば吉永小百合がめちゃくちゃお腹すいてて、控室に差し入れで置かれていたいちご大福を5個くらい一気食いして、口の周りを片栗粉で白くしながら「あんまりおいしかったんで、つい…」なんてはずかしそうにつぶやいていたら、と考えてみてください。

上品か下品かでいうと、下品ですよね?

でも「めちゃめちゃカワイイ〜〜〜〜〜!!!! 好き!!!!」
ってなりませんか?

いや、吉永小百合はそんなことしない!というのはこの際ナシでお願いします。想像してください。
そのうえで、「そんな小百合は嫌だ!」という方もおられましょう。
でも、いけかよは「めちゃめちゃカワイイ〜〜〜〜〜!!!! 好き!!!!」ってなりました。

嫌だ!と思われた方は、きっとその姿に「食欲」という人間としての本能を、しかもむき出しのそれを見たからですよね。そう、「品」と「本能」はきっと相容れないのです。
神格化した偶像的存在である「吉永小百合」が、実は自分たちとおなじ欲を持った人間だったと思い知ることは、ファンからすると裏切られたような気持ちにもなるのでしょう(頭ではわかりつつもね)。

しかし、そうでなくニュートラルに吉永小百合を見てるいけかよとしては、「いちご大福5個一気食い」という人間の本能=生きる力を感じたとき、その人にパワーや魅力を感じることもあると思うのです。

ていうか、いけかよはそういう人が好きです。

わたしたちは人間であり、人間である以上は「下品」とされることを避けて生きることはできません。
人間には食欲、性欲、睡眠欲以外にも承認欲、支配欲などさまざまな欲があり、それらの「欲」に忠実になること。「欲」を満たすこと。「欲」をあらわにすること、これらはきっと「下品」になるはずです。

でも、行き過ぎた欲は身を滅ぼしますが、そうでない場合、欲は日々のガソリンです。
そう考えると、「品」なんて、死んだ人にしか与えられないものなんじゃないかとも思うのです。

なにを自分のものさしにするか

いけかよは、上品に生きるよりも欲望むき出しで人生を楽しみたいと思いました。

どんな生き方か?
貪欲さとか、情熱とか、魂の叫びとか、そういうもの。
ギラギラしてドロドロした、熱い感じのものをしっかり自分のなかでたぎらせて生きることです。

一方で、人間はとてもとても尊い部分も併せ持っています。
たとえば寄付をしたり、電車で席をゆずったり、大切な存在を抱きしめたり、助けてくれた人に恩返しをしたり、深い傷を負った人に寄り添ったり、無償の施しをしたり…。

わかりやすく表現するならば、前者が「悪魔」で後者は「天使」でしょうか。

人間という生き物は、悪魔的な部分だけでも、天使的な部分だけでも生きていくことはできないように思います。どちらも必要だし、すべての人がどちらも併せ持っている。
バランスは人それぞれだしバランスが崩れることもあると思うのだけど、でも、やはり両方が必要なのです。

そしてそこに「品」が挟まれる余地って、ない気がするのです。
「天使」の部分にすら、「品がある」云々って、しっくりこないと思いませんか?

人間が「充実した人生」「良い人生」を送ることと、「品がある」ことはまったく別次元で、いけかよからすると、前述のとおり「どうでもいいこと」。
ただあくまで、いけかよはその物差しを採用しないというだけで、「品がある人として生きたい」という人を否定するものではありませんよ、念の為。

でも、たとえば歴史に名を残した偉人たちを考えてみてください。

マザーテレサとか、ガンジーとか、オードリーヘップバーンとか、アインシュタインとか、松下幸之助とか、ジョン・レノンとか…。

あなたが「スゴイ」と思う人ならだれでも。
その人たちに「品」なんて言葉、チープすぎて似合わないんじゃないでしょうか。
もちろん、人によっては残された逸話が下品すぎっていうこともあるでしょうが(笑)、「品がある」「上品」「品格」などなど、どれもしっくりこないはず。そんなものさしなど、超越したからこそ偉大なものを残し、いまもなお多くの人の心を捉えているのだと思うのです。

そう、「品」とは、人を枠にはめるために考えられた概念だといけかよが思うのはそういうことです。
事実、時代と国が変われば「上品/下品」の概念も変わります。
そばをズーズー言わせて食べることが欧米人には下品に映るけど、日本人にとってはそれが当たり前ですもんね。

いけかよは、時代と国が変わればひっくり返る価値観は、採用しないことにしているんです。
それよりも、自分の人生のルールは自分で決めたい。
「品」とか「常識」とか「モラル」とかじゃなく、自分にとって正しいかどうか、しっくりくるかどうか、納得できるかどうかで、選択をしたいのです。
そして、そんないけかよをだれがどのようにジャッジするかも、どうぞ自由に決めてください、と思っています。
ネガでもポジでも、どうぞご自由に、です。

「品? 知らんがな!」

そんなかんじで、今日も欲望の赴くままに、飲んで喋って笑って、楽しむことに命を使いたいと思っているのです。

では、また!

【告知】哲学バーは毎月開催しているオンラインの対話イベントです

今回は「品とはなにか」というテーマでしたが、こんなふうにいろんなテーマでお酒や好きなドリンク、おつまみなど片手にゆる〜く哲学対話をするイベントを、エラマプロジェクトでは毎月開催しています。

哲学バーのルールは2つ、「①答えを出さない」「②まとめない」。参加した方々それぞれに、いろんな考えや気付きやモヤモヤをもちかえっていただけたらいいな〜と思っています。

次回の開催は9/9(月)20:00から。テーマは「『味のある人』ってどんな人?」です。

詳細・お申し込みは以下HPをご確認ください。

初めての方も大歓迎です。ぜひチェックしてみてくださいね!
https://elama.be/workshop-event/elamabar202409/

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)

こんにちは!ひらみんです。

突然ですが、聞いてください。わたくしごとですが、今住んでいるシェアハウスが2025年3月に閉まることになりました。

駅からちょっと遠いけど、静かな住宅街で、とっても快適に暮らしていた私。引越しなんて考えてもいなかったのですが、「年度内に引っ越さねばならない」というミッションが急に降ってわいてきました。

実家を出て以来、ずっとシェアハウスに住んでいたので、これを機に一人暮らしをしてみようと決めました。人生で初めて一国一城の主となるわけですから、3月に出ていくまでの時間を使って、いろんな家を見て、じっくり考えようと思っています。

そしたら、家探しをきっかけに、自分にとっての幸せを形作るものが見えてきた、というお話です。

どういう家に住みたいか

部屋探しにあたり、検索サイトで一番最初に聞かれるのは、「どのエリアに住むのか」です。

何市に住むのか、JR沿線か、私鉄沿線か、どの駅にするのか、駅の南か北か、もっと具体的にはどの町かも指定できます。職場への出勤の経路や時間も気になります。夜の人通りの多さや治安も考えたくなります。

次に家賃や間取りです。私の給料で支払える家賃はたいしたことないので、1Kか1DKぐらいで、あんまり選択肢は多くありません。

それからやっと、条件を選べます。

私の中で一番優先順位が高いのは、日当たりです。南向きや東向きを希望したいところ。長い時間を過ごす場所だから、明るい場所がいいじゃないですか。お日様で乾かす洗濯物は気持ちいいですしね。

それと、キッチンは広めで、コンロは2つほしいです。気分転換に料理しているところもありますから。

あとは3点セパレートと言われる、お風呂、洗面所、トイレがそれぞれ独立しているというものです。ビジネスホテルみたいに、洗面所とお風呂とトイレが一緒なのは、毎日だと少し不便そうかなと思います。あ、そういえば、洗濯機は室内に置きたいです。

セキュリティのことも考えると、2階以上にした方がいいらしいので、それも条件に加えたいところですね。あと、下にコンビニとか飲食店が入っていない、家だけの建物がいいと思っていました。

引越しを考え始めた当初、私が考えていた条件はこんな感じでした。

どんどん増える希望条件

引っ越ししなきゃいけなくなった、という話をすると、友達から「女性の1人暮らしにはオートロックが必須だよ」とか「浴室乾燥機があると、梅雨でも便利」と言われ、急にあった方がいいんじゃないか、という気になってきました。

場所についても、通勤のしやすさを考えて、中心地からあんまり離れたくないな、とか、西から来る電車は混んでるな、とか、これからの親の介護などのことを考えると、実家の近くの方がいいんだろうか?ということも思い浮かんだりします。

さらに、実際に探し始めると、わりと新しめの家で、駅から徒歩10分ぐらいで、職場には歩いて行けるし、南向きで理想的な部屋があったのですが、父に「そのエリアはやめた方がいい」と言われてしまいました。

実はその辺りはラブホテルがいくつか集まっているエリアで、廊下からも見えたんですよね。ラブホテルって逆に夜に人が歩いていて人気があるように思って、私は気にしていなかったのですが、父として「娘にはラブホテルの近くに住んでほしくない」という気持ちは理解できるような気もして、その部屋はお断りしました。

なんだか急に、「父が納得するエリアか」という視点が入ってきてしまいました。

「この部屋は北向きだけど、実家が近いから、ここにするべきなのか」とか「西向きで線路沿いだけど駅から近いし、このエリアなら、お父さんも納得するかな」など、どこに住むのがいいのか、よくわからなくなってきました。

また、内覧に行った時に担当者からコンビニが近いことや、宅配ロッカー、敷地内のゴミ捨てエリアについてアピールされたりもしたのです。営業の方がアピールするぐらいなので、一般的には優先順位の高いものなのだろうと思うと、便利そうでいいなとそこでも迷い始めました。

自分が幸せだと感じる空間を創るために

特にアドバイスを求めたわけではなかったのですが、いろんな人から追加条件を教えてもらったら、あらゆる角度で条件の優先度を考えなければならず、だんだん嫌になってきました。全部の条件を必須にしたら家賃の金額が合いません。本当に希望する条件と、そうでない条件をもう一度しっかり考える必要がありそうです。

そうしたら、誰かに言われた条件に惑わされることなく、「こういう生活がしたい」という自分の気持ちをもっと大事にしてもいいんじゃないかなと思い始めたんです。

そのためには、もっと自分が具体的に考える必要があったので、新しい部屋でどんな生活を送りたいか、ということをもう少しつっこんで考えてみました。

私は、快適にのんびり過ごしたいんです。休日に近くを散歩したり、窓から入ってくる風にあたりながら寝落ちしたり、たまにちょっと時間のかかる料理を作ったり、友達がお茶しにきたり、そんな風に明るくて居心地のいい部屋に住みたいんです。

それが実現できる条件はなんなのか。

私にとって大事なのは、やっぱり日当たりとキッチンの広さです。明るくて料理ができることは、私にとって大切なことです。

あと、3点セパレートがいいです。

駅から多少遠くてもいいから、静かめなエリアを希望します。具体的には、電車の駅から徒歩15分なら歩きます。

この際、通勤とかスーパーとか実家とかはいったん横に置いちゃおう。よく考えたら、リモートOKの職場で、毎日絶対に出勤しないといけないわけではありませんでした。

それに親の介護は、必要になるかどうか、今はわかりませんしね。

それから、やっぱり女性の一人暮らしなので、セキュリティを考えると2階以上がいいのだと思います。でもそれだけ。オートロックはあればありがたいけど、必須じゃないです。

あと、父がいいよという場所であることも必須かなと思いました。父は治安について私より詳しいので、最終的には父のお墨付きの場所であることは、セキュリティ面でのひとつの安心材料だと思いますから。

逆に、コンビニと宅配ロッカーは必要なさそうです。

浴室乾燥機は今の私には贅沢です。なくても生きていけます。

こうやって自分の快適な生活のために必要なことを取捨選択しました。

全部を羅列することはしませんが、きっとこれらは、他の人の優先順位とは違う、私の部屋選びにとって必要な条件です。これこそが、自分が満たされて心地よい空間を作るために必要なものなんじゃないかなと思います。

あなたらしい選択の理由があったはず

私が悩んでいるように、部屋選びの先輩であるみなさんもきっと、自分にとって幸せな空間になりそうな部屋に悩んで、住んでいるのだと思います。今のお部屋に住もうと決めた理由はなんでしょうか?

家賃が安いから?学校や駅が近いから?

私のシェアメイトは埼玉出身ですが「神戸に住んでみたかったから、ここに来た」と話しています。

誰もが「こういう生活がしたい」と思い描いた生活ができそうに思ったから、今のお部屋を選んでいるはずです。日常生活に埋もれて、ただ単に忘れているだけだと思うんです。

私がシェアハウスに住む理由は、キッチンです。一人暮らしでは実現できないキッチンの広さは私にとってとても魅力的でした。その広いキッチンで、今からチャプチェを作ろうと思います。

引越し当時の想いや期待を叶えられるのは、あなた自身だと思います。あなたらしい幸せな生活を思い出してひとつでもトライしてみませんか?

Text by ひらみん(普通の会社員)

皆さん、こんにちは!Kangasこと、ライフコーチの和田直子です。いかがお過ごしですか?

今日は「オンラインBAR:哲学バー」のタイトル特集、その名も”哲学バー2号店”をお送りします。

「哲学バー」とは、エラマプロジェクトが作ったオンラインのサードプレイス。お酒やお茶を片手に、その時のテーマについて、バーのチーフバーテンダー、マスターとともに、常連客や一見さんが哲学してみる、ゆるりとした繋がりの場です。

今回取り上げられたテーマは「仲良しって何?」。

子供の頃、「仲良しになりなさい」「仲良くしなさい」と言われた経験に違和感を抱いていたという常連さんから出されたテーマ。

確かに、どうして人から「仲良しになりなさい」なんて言われなきゃいけないのでしょうね。とは言え、かくいう私も、そういえば職場で、部下同士がバチバチしているところを見て、「仲良くしてよ~」って言ってたなあ。

ということで哲学バーにふらりと入店した私が、私なりに哲学してみた「仲良し」についてお届けしてみたいと思います。

「仲が良い人はいるけど仲良しはいない」

そう言えば私は、仲良し!って思う人がいないなあ…。

哲学バーが始まってすぐに、私はそう思いました。

仲が良い人はそれなりにいるけれど。たまに人から「直子さんは〇〇さんと仲良しですよね!」「お二人は仲良しだね!」と言われても、否定はしないけど何だかしっくりこない感じがしていました。みなさんはそういうことありませんか?端から見ると「仲良し」だけど、自分ではその関係性を「仲良し」とネーミングしていないこと。

だけど、「仲が良い」と思う人は何人も顔が浮かぶ。この違いって何なのでしょう?

そんなことを言う私が、今までの人生で一人も「仲良し」がいなかったかと言うとそんなことはありません。記憶の中で最も古い「仲良し」は、物心ついたときにはすでにいた1歳上のけいこちゃん。母親同士・姉同士も仲が良くて、小学校低学年くらいまで「仲良し」でよく遊んでいました。今でも年賀状を送り合う仲です。

その後の私の「仲良し」と言えば、高校2年3年の頃の「仲良し5人組」。この5人でいると毎日が大笑いの日々でした。

ですが、いつもべったり5人というわけでもなく、他のクラスメイトとの接点もありながら、結局この「仲良し5人組」に戻る、心地よい絆の距離感でした。

それが私の「仲良し」体験。それ以外に「仲良し」だった人って、あまり思い出せません。

「仲良し」と「仲が良い」。この二つは私にとって、単に名詞と形容詞の違いだけではなさそうです。

「仲良し」とは自分の存在価値を見出す安心材料?

高校時代の仲良し5人組が出来上がった頃、私は「このメンバーで仲良しになりたいな」「仲良しメンバーになれたかも!」という気持ちを抱いていたことを思い出します。

振り返ってみると、私が小学校高学年頃~中学の思春期の入り口にいた頃、小説や映画に出てくるような「THE友達!」といえる、お互いの心を通わせることの出来る交友関係に憧れていたような気がします。

でも、そんな存在と出会えることもなく、どこか物足りなさを感じる友達付き合いをしていました。その後、高校生になってようやく出会えた「仲良したち」。心底ほっとしたような、憧れに手が届いたような、そんな気持ちで心が満たされたようでした。

そして高校卒業後、私だけが一人暮らしで県外へ出ることに。学生時代も帰省の際に集合したり、旅行へ行ったり、「仲良し」はしばらく続き、それぞれの結婚式で顔を合わせて懐かしみ、だんだん私たちの青春も落ち着いていったという感じです。

哲学バーでそんなことを思い出し、それ以降の「仲良し」はいないことと、私の「仲良し探し」には終止符が打たれていることに気づいたのです。だけど「仲が良い」人の顔は、20代後半、30代、40代とそれぞれの年代でいろんな人の顔が浮かびます。

高校時代、仲良し5人組が結成された時のあの安心感。私はもう、それを求めなくなっている。そんな気がします。思春期の入り口で、私の居場所はどこだろうと、この子かな?あの子かな?と友達やグループというものを意識しすぎていた私は、きっと自分を誰かと「仲良し」認定することで自分の存在価値を見出そうとしていたのかもしれません。

私にとっての「仲良し」は、アイデンティティを形成しきれずにいる「私」という存在を、どうにか自分で認めるための安心材料として求めていたものなのだと思います。

「仲が良い人」それは自分軸で生きている証

哲学バーのお客さんから、こんな話が出ていました。

「他人とうまくいかないのは、自分が自立していないから。自分の機嫌を自分で取らず、他人に取ってもらおうとする」

ふむ。なんか分かる気がする。

私にとって「仲良し」が必要なくなったのは、自分軸が出来上がったから。「仲良し」に頼ることなく、自分の存在価値を十分に感じられるようになったからかもしれません。「仲が良い人」との関係性に自分の存在価値を見出すことはしませんし、「仲が良い人」に求めることはお互いの自分軸を尊重し合うこと。

誤解のないように申し上げると、これはあくまでも私の「仲良し」「仲が良い人」論です。

「仲良し」は自分の存在価値を見出す安心材料だと言うならば、別に「仲が良い人」がいなくても生きていけるということ?

それはそれで、想像すると苦しくなります。いつかの私が、物足りなさや寂しさを感じて「仲良し探し」をしていたように、「仲が良い人」がいないと何だかつまらない人生のような気がします。

哲学バーのマスターが言っていました。「『仲』という字は『人と人のあいだ。なか。』」だと。やっぱり私も、自分にとって一緒にいて価値のある、人と人との間で良い関係を持ちながら生きていたい。それが私にとっての「仲が良い人」たち。

そんな人たちがいることを感じ満たされながら、白ワインで哲学バーをした夜でした。

さて、次回哲学バーは、8月5日(月)20:00~22:00です。一見さん大歓迎のこちらのバーには、「哲学対話のテーマ」しかメニューにありません。お酒やおつまみはご自分で。ジュースでもよし、アイスクリームでもよし。あぐらをかいてもよし、寝転んでいても良し。だから聞き専でも良しなのです。もちろん、いつ来てもいつ出ても良しですよ。

さあ、次はどんなテーマがメニューに上がるのでしょうか?

詳しくはエラマプロジェクトHPのイベント情報「エラマの学校」をチェックしてください。

そして、次号の”哲学バー2号店”もどうぞお楽しみに!

Text by Kangas(和田直子/しなやかで強く優しい社会を織りなすライフコーチ)


こんにちは。エラマプロジェクトの和文化担当、橘茉里です。

まだ6月だというのに30℃超えの気温が続出し、最高気温は35℃に迫る勢いです。私は徒歩通勤をしているので、日差しの強さと鋭さに早くも参ってしまいそうです。

そんな暑い日には、怪談やホラー映画でひんやりしたくなりますが、これは日本人の国民性かもしれません。

怪談と言えば夏、というのはどうやら世界共通ではないようです。例えばアメリカでは、お化け屋敷やホラー映画はハロウィンの季節に開催・上映されるのだそうです。

なぜ日本では「怪談は夏」というイメージが強いのかというと、まず第一にお盆の存在が挙げられます。

お盆には各家庭で先祖などの霊魂をお迎えし、お祀りしますね。お盆のある夏は、霊魂を意識しやすい季節であり、供養や鎮魂に気持ちが向かいやすいタイミングだと言えます。

また江戸時代には、恐怖によって暑さを忘れるために「涼み芝居」と称して、怪談物が好んで上演されました。

幽霊のお岩さんが登場する『東海道四谷怪談』は涼み芝居の代表格です。

一方、ハロウィンは古代ケルトの風習が由来とされ、古代ケルトではハロウィンの夜に死者の霊が戻ってくると考えられていました。なんだか日本のお盆に似ていますね。

日本は夏、アメリカはハロウィンの季節がホラーの定番となっているのは、このように死者の霊に関する文化的な背景が影響しているわけです。

そして、ふとこう思いました。

ホラーにその国の文化や習慣が反映されているならば、つまり、ホラーを知ることは文化を知ることにつながるのではないかと。

ホラーから文化を知れるとは、なんとも画期的です。

ということで、今回はジャパニーズホラーから和文化を紐解いてみたいと思います。

私たち日本人が恐れているのは「気配」

先日、YouTubeのおすすめとして、ジャパニーズホラーに対する海外の反応をまとめた動画が表示されたので、見てみました。

その動画はこちらです。(ホラー画像が出てくるので苦手な方はご注意ください。)
https://www.youtube.com/watch?v=H91pNJPGroM

この動画の中で気になったコメントをいくつか取り出し、要点を挙げてみます。

・日本人が恐怖するものは目に見えない神秘なのではないか。

・日本の文化は先祖や幽霊を尊敬すべき存在としていて、日本の映画は自然や空間への敬意を感じる。

・日本のホラーは未知への恐怖とともに、それらを大切にしようとしている。

・日本のホラーは、観客にストレートな恐怖やショックを与えるよりも、不安や偏執に重きを置いているように思う。

海外の方から、日本や日本のホラーはこんな風に見えているようです。

また、日本と海外との違いを感じさせるような、こんなコメントもありました。

・日本のホラーは宗教的な儀式や銃で撃退できないのが嫌だ。

・私たちは銃が効くか効かないかが重要だが、日本の幽霊が襲ってきたらどうすれば良い?

・幽霊は実感を得られないので、実際に起こるストーカーや暴力の方が怖い。

私も以前、海外の人の中には、ジャパニーズホラーを怖く感じない人がいるという話を聞いたことがあります。

確か、「幽霊は物理的に襲ってくるわけではないから怖くない。襲ってくるゾンビの方が怖い」という意見だったような気がします。

ジャパニーズホラーの醍醐味は「気配」です。

直接攻撃を仕掛けてくるから怖いのではなく、じわじわとにじり寄ってくる正体不明の気配に、私たちは逃げ場のなさや絶望感を覚えるのです。

そして幽霊の姿はここぞという場面になるまで登場しないことが多いです。

姿が見えないからこそ怖いのです。もし物語の最初から幽霊の姿がずっと見えていたら、怖さは薄れてしまうのではないかという気がします。

ジャパニーズホラーは恐怖の気配を描くことが得意で、そういう表現が好きな海外の方に、ジャパニーズホラーは大人気です。

しかし、気配に恐怖を感じない人だったとしたら、ジャパニーズホラーの多くの演出は無意味なものになってしまいかねません。

日本では空気を読む文化が非常に発達していると言われますが、実はホラーを楽しむにも、日本的な空気を読む能力(気配を感じ取る能力)が必要なのかもしれません。

私はホラー好きなので、ホラー耐性はある方だと思っていますが、ある遊園地で体験したヘッドフォンをつけて音を聞くというホラーアトラクションが思いのほか怖かったです。

そのアトラクションは幽霊役がいるわけでもなく、視覚的に驚かされるわけでもありません。暗い部屋でただ音を聞いているだけなのです。

ヘッドフォンからは鎖を引きずるような音、近づいてくる足音などが聞こえてきて、私は恐怖からヘッドフォンを外してしまいたくなりました。

音によって、何者かが自分の後ろにいるという気配が表現されていたのです。

後ろに何がいるのだろう。

どんな見た目?

これからどんな恐ろしいことが起こる?

自分でどんどん嫌な想像を膨らませてしまい、自分が創り出した想像によって恐怖が加速してしまったのでした。

先ほど、日本的な怖さを楽しむには空気を読む(気配を感じ取る)力が必要かもしれないと書きましたが、それだけでなく想像力も必要になってきそうです。

現代の教育では、想像力の育成に重きが置かれるようになってきていますが、ジャパニーズホラーも想像力の育成に一躍買ってくれるかもしれませんね。

不朽の名作『リング』に見える日本らしさ

『リング』は鈴木光司によって書かれた小説で、1998年に中田秀夫監督によって映画化されました。

小説と映画では主人公の人物像など様々な点が変更されていますが、物語の大筋は同じです。

「呪いのビデオ」を見た者は、一週間後に死ぬという。

ビデオを見てしまった主人公の浅川と友人の高山は、呪いから逃れるために、ビデオの謎を追う。

そして、貞子という女性の怨念が原因であることを突き止めるというのが『リング』のストーリーです。

この物語において、貞子が姿を見せるのはほんの僅かです。

映画では、テレビ画面から貞子が這い出して来るシーンが有名ですが、小説では幽霊となった貞子の姿はほとんど描かれず、気配によって表現されています。

また、この作品の主眼は死から逃れることですが、核心に迫り、呪いの原因が貞子だと判明してからも、貞子を倒すことで解呪するという流れにはなりません。

個人的な印象で恐縮ですが、ハリウッド映画では、恐怖の原因を倒すことによって問題を解決しようとする傾向があるように思います。

ハリウッドで描かれてきた吸血鬼、ゾンビ、エイリアンなどは交戦可能な存在として描かれることが多いと思います。

悪魔憑きを描いた映画『エクソシスト』でも、悪魔と悪魔祓いの神父との戦いが描かれています。

それに対して日本では、幽霊は戦って倒せる存在として描かれることは少ない気がしますし、そもそも日本人には幽霊を倒すという発想自体、希薄だと思います。

幽霊の前では人間は無力であり、もし幽霊を倒せるとしたら、その幽霊は怖くないように感じます。

もちろん『リング』でも、主人公たちは貞子を倒そうとはしません。

呪いから逃れるために、貞子の遺骸を見つけ、供養しようとするのです。

結果的に、それは呪いから逃れる方法ではないのですが、主人公たちは鎮魂による解決を目指しました。

井戸の底で貞子を見つけた際、映画版では、主人公の浅川を演じる女優の松嶋菜々子が貞子の亡骸を抱きしめるシーンがあります。

呪いの主であろうとも死者を悼み、心を寄せる。

これはとても日本的な行動に思えます。

『リング』にも通じる御霊信仰とは

日本には、御霊(ごりょう)信仰という考え方があります。

不幸な死や無念の死を遂げた人物は怨霊となり、祟りや災いをもたらすと考えられていたのです。

そんな怒り荒ぶる怨霊に対して、私たちの先祖はどう対応したのでしょう。

その答えが鎮魂です。

怨霊を御霊・神として祀ることによって、怨霊の祟りを鎮めようとしたのです。

「これからは大切にお祀りしますので、どうか怒りをお鎮めください」とお願いしたわけですね。

こういう向き合い方を御霊信仰と言います。

日本三大怨霊とは、菅原道真、平将門、崇徳上皇のことですが、

菅原道真は北野天満宮や太宰府天満宮で神として祀られ、現在では学問の神様として親しまれています。

同様に、平将門は東京の神田明神に、崇徳上皇は京都の白峯神宮に祀られています。

このように、私たち日本人は怨霊を倒すのではなく、魂を鎮めることによって調和を図ろうとしてきたのです。

こういう価値観や考え方は、普段は意識せずとも我々日本人の心の中に息づいているのではないでしょうか。

だからこそ『リング』でも、主人公たちは自然と貞子の鎮魂へと向かったように思うのです。

豊かな心で和文化を語ろう

今回のお話はいかがだったでしょうか?

ジャパニーズホラーと御霊信仰のつながりのように、現代のコンテンツには、私たち日本人が昔から大切にしてきた考え方が反映されていたりします。

それを知ることによって、もっと奥深く、もっと豊かに現代を生きていけるようになると思います。

そして、豊かで幸せな生き方を探究している我々エラマプロジェクトでは、これまで日本人が大切にしてきた考え方や生き方や日本らしい物の見方などを、自分の言葉で発信できる和文化ガイドを養成したいと考えています。

「外国の方に、日本のことをもっときちんと説明したい」

「これまで和文化を学ぶ機会がなかったけれど、自国の文化を理解し、語れるようになりたい」

「自分の子どもに向けて、日本の良さを伝えてあげたい」

こんな風に「日本について知りたいなぁ」「伝えられるようになりたいなぁ」と思っていらっしゃる方におすすめの養成講座を開催いたします。

講座では例えば、

・侘び寂びってどういうこと?

・武士道や大和魂ってどういうもの?

こんな疑問を考えていきます。

講師による基礎的な知識のレクチャーはありますが、講座で大切にしたいのは、和文化について自分の考えを深め、それを自分の言葉で表現できるようになるということ。

もちろん知識を得ることは大切ですが、知識の伝達だけで終わらせないのが、この講座の良いところです。

あなたも和文化について考えを深め、語れるようになりませんか?

こちらの和文化ガイド養成講座については、今後情報を発信していく予定ですので、ぜひエラマプロジェクトのwebサイトでチェックしてみてください。

Text by 橘茉里(和えらま共同代表/和の文化を五感で楽しむ講座主宰/国語教師/香司)

ふと、自分を振り返ってみたくなる機会はありませんか?

こんにちは、どさんこRUNAです!

親戚が小学校を卒業し、中学生になった今年、自分が小学生や中学生の時に夢中だったことは何だっけ?どんなことを楽しみに過ごしていたっけ?と思い返すことがありました。

自分を振り返る時、私は「日記」を見ています。

「1年前のこの日」というタイトルで、1年前の今日をビデオにしてくれるスマホのおかげで、自ら残す作業をしなくても、スマホが日々の記憶を管理してくれる時代です。

何の会話をしていたのかは、トーク履歴で、自分や社会にどんな出来事があったのかは写真やメモ機能、Webサイトで確認できる便利な現代で、私が「日記」にこだわる理由をお話しします。

「日記の中の自分」と話す理由

人は、1日の中でたくさんの役割をこなしています。

ある人の毎日では、母として、パートナーとして、会社員として、友人として、ママ友として、近所の人として…

慌ただしく日々が過ぎ去っていく中で、誰もが色んな側面の役割を果たしていると思います。

多面的な自分が所々でがんばっているはずなのに、ネット上には止めどなく「同年代の芸能人のキラキラした生活」、「いいパートナー像」、「理想の暮らし」などが発信されています。特に探していないのに目に飛び込んでくると、何気なく他者の生活と自分とを比べて努力が足りないのではないかと不安や心配が生まれてしまうのです。

ネットが提示する「理想の幸せのカタチ」は、自分じゃない世間の期待や意見で作られているものです。その幸せなカタチを目にする機会が多いので、みんなそう”している”んだと、それが”ある”から幸せなんだと思い込んでいるのかもしれません。

なぜなら、自分で幸せのカタチを生み出すよりも、すでにある幸せの共通認識に当てはめて自分の幸せをはかる方が”わかりやすい”からです。

そのわかりやすさがネットの中には溢れています。

だから、スマホから離れて、「日記の中の自分」と話すことにしたのです。

スマホでも日記は書けます。

ですが、予定アプリで何をしたかを管理したり、スマホのメモに日々のことをメモしたりしていると、ピコンの通知とともに誰かの発信やニュースに目がいき、自分が考えていたことを忘れて、ネットの中に入り込んでしまうことがあります。

日記を書くのは自分しかいなくて、それを読むのも自分しかいない。

他者が立ち入ることもなく、他者と比較することもない。

そういった場が必要だと思うのです。

将来どのようなことをしたい?

大きくなったら、何になりたい?

何かを”する”、何かに”なる”ことを求められる世の中で、ただ「ある」だけでいい場が日記だと思うのです。

何をしたか、何もしなかったか、何が嫌だったか、何が嬉しかったか。

ただ「ある」だけの自分でも、色んな面を生きていて、それを実感できる。

日記を書いていくことで、色んな自分を知ることができます。

自分の言葉が生み出される場所

私は、自分の言葉で話す人に憧れを抱きます。

周りにいるそんな人たちには、日記を書いているという共通点がありました。

部活時代の物知りな恩師は、まめに日記を書いている人でした。部活用の日記帳があって、そこに何をしたかや何を伝えたいかをまとめていると言っていました。中身は見ていませんが、分厚い日記帳でした。

部活生にも部活日記としてノートを配り、たまに提出があって、たくさんコメントをしてくれました。ある時、「みんなが求めている言葉を話しているから、自分の言葉で話しなさい」そうコメントされた時がありました。

どうしたらいいか分からず悩んでいると、「自分」がないと「自分の言葉」で話せないから、日記にチームとしてではなくて、自分として何を思ったか書きなさいと言われました。

しっかりした言葉や立派なことを言わなければと思えば思うほど、中身のない浅い言葉を言っている自分に気づきました。

きっちりしたことはカタチになりやすいですが、その反対はなんだろう?そう考えた時に思い浮かんだのが、曖昧で言葉にならないモヤモヤしたものでした。

モヤモヤした感情は、カタチのないものなので、向き合うことも、カタチにすることも難しいです。でも、そのモヤモヤした感情こそ、自分しか感じられない大切なものだと気づいたのです。

また、じいちゃんも日記を書く人でした。

〇〇年に自分はこんなことをしていて、日本の状況はこうだった。

このように自分の出来事と、社会情勢を関連付けて覚えていました。

ある時、何かについて「ひどいよね」と話していると、「誰がそう思ったのか?」と問われたことがありました。その時、聞いてくれる人も同じ感情だと勝手に想像し、自分がどう思ったかを話していないと気づきました。

「〇〇ってひどいよね?」

このように何かを話す時、同じことを感じていると思い、無意識に同意を求めてしまうのは、他者の視点で話しているからで、そこに「自分がない」ということかもしれない。

「自分は〇〇についてひどいと思う」が言えるのは、自分の言葉がある、「自分がある」からこそだと思いました。

曖昧な言葉ばかり選んでしまいがちな会話という場では難しいですが、日記という場では自分の言葉で話す練習ができると思うのです。なぜなら、そこに他者の存在はなく、自分の考えを知ろうとするのも、わかってもらおうとするのも自分しかいないからです。

月日が経ち、記憶力が悪くなっても、家に行くたび、孫とひ孫の名前を全部書いてほしいと言って日記を渡してくれました。私が書いた文字を見て、言葉に出す姿は、忘れないようにと自分に言い聞かせているようでした。

亡くなったじいちゃんの日記には、よく歌っていた曲の歌詞や孫たちの名前が書いてあり、大事なものを忘れないように残す姿を感じました。

日記の中で、その人が生きていることを知った瞬間でした。

どんな自分も「いてよし!」

日記にこだわるのは、自分なりの幸せを見つけられるかもしれない、自分の言葉で話せるようになるかもしれないと思っているからです。

今も、その道半ばですが、そういった目標に進むためだけでなく、心配性な自分をただただ許してほしいという不完全な自分を記す場にもなっています。

私は、友人たちに本当に不安症だね、心配性だね、すんごいネガティブだねと称されます。

こういった私の性格はマイナスで治すべきものとして指摘してもらう機会が多いですが、そんな自分がいるおかげで気づくこと、学ぶこともあります。

きっと共通認識の幸せのカタチを知っているのに、そのカタチに溶け込めない自分、そして溶け込まないといけないと思っている自分が「どうしようどうしよう」と不安を煽っているのだと思います。

「歴史は強者によって作られる」と言いますが、自己啓発本もエッセイも、うまくいった話が多い気がします。それらの本によって助けられることもありますが、別の物語が必要な場合もあります。

とことん失敗していること、笑顔になれない日々のこと、大人と言われる年齢だけど全く大人になれていないこと…。様々な自分の不完全さを日記に記録することで、自分にとって必要な別の物語が生まれると思うのです。

日記だから私の中にしか残らない。でも、それは無駄なものではないと思っています。

ダメダメな自分、イケイケな自分、さまざまな面を持つ自分。

どれも本当の自分で、色んな自分が毎日何かを感じて考えている。

日記を読む未来の自分という読者は、この自分をどう思うだろうか。

自分の色々な側面と日記で向き合うことで、他者にも1つではない様々な側面を持っていると想像することができる。きっと、色んな自分がいるおかげで、白と黒だけでなく、日々に彩りを添えてくれる存在に目を向けることができるのだと思うのです。

自分の言葉で様々な面を持つ自分と対話し、自分の幸せのカタチを形成していく。そうすることで、遠くにいる他者や、その生活を想像する力を養えることができるのが日記が持つ力だと思います。

「いてよし!」

彩りはたくさんあっていいんだと思える日記生活をこれからも続けていこうと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

Text by どさんこRUNA

初めまして!majakka(マヤッカ)です。

この度、エラマライターとしてデビューしました!

これからみなさんと一緒に「わたし」の豊かで幸せな生き方について考え、毎日がちょっと幸せになったら嬉しいです。

どうぞよろしくお願いします。

今日は初めましてなのでわたしについて、そしてわたしが今一番考えている「自分らしい豊かな生き方」をお話しさせてください。

「このままでいいのだろうか」がはじまりだった

わたしは現在、26才のときにアルバイトから始めたカフェチェーンで働いています。

アルバイトを5年経験したのち、社員登用制度で社員となり、現在は店長として働いています。

アルバイト時代を含めると23年目になります。

23年勤務しているわたしですが、このカフェで働くまではケーキ屋、本屋、歯科助手などのアルバイトやデータ入力の派遣など、定職につかず仕事をコロコロと変えていました。

わたしはコツコツとなにかを長く続けることが苦手、責任を持つことから逃げていると感じながら、自分に自信を持てない時期が長くありました。

そんなわたしが今、同じ会社に23年も勤めていることにびっくりしています!

アルバイトを始めたのは新規オープンの店舗で、一緒に入社した同僚たちと励ましあい、助け合ってお客様へ気持ちの良い空間やサービスを提供することに、とてもやりがいを感じていました。「こんなに楽しいアルバイト初めてだ!お給料をもらっていいのかな!?」と思うくらい毎日働くことがとても楽しかったのを覚えています。

それに加えて、都度ステップアップできる環境がありました。ただ働くだけではなく、仲間と切磋琢磨しながらともに成長していくことができました。

と、カッコよく書きましたが、わたしは同僚のなかでは年上の存在ながら大学生の同僚に先を越されることも多々あり、成長の遅い自分を恥ずかしく思うこともありました。

「やっぱり、わたしは責任のある仕事に携わることは難しいんだ。そろそろ辞めようかな…」と逃げだしたくなることもたくさんありました。

でも、そう思う度に、同僚や先輩が話を聴いてくれて思いとどまることができ、今の自分があります。

この職場で、はじめて仕事のやりがいと仲間との温かい絆を感じることができました。

そう感じられたから今までがんばってこれたのだと思います。

そして今も変わらない想いを持って働いている反面、40才になった頃から心身に変化が起きはじめました。

ヘルニアを発症してしまったり、更年期障害の症状が出始めたりと、30代までのように「なんとかなる精神」でがむしゃらに働くことができなくなってきました。

それでも自分の変化に意識を向けることなくどうにか働いていましたが、以前から体調に不安があった母親も歳を重ね、母親のことも気になりはじめました。

今振り返ると、自分のことを過信していたり、先のことを考えることから逃げていたのだと思います。

「わたしはこのままでいいのだろうか?」と不安な気持ちが続き、「豊かな日々」「幸せな生き方」「Wellbeing」などと検索するように。フィンランドが以前から好きだったので「フィンランド」でも何気なくネットで検索していたときにこのメディアの運営母体であるエラマプロジェクトのサイトを見つけました。

エラマプロジェクトが大切にしている「わたし」の幸せで豊かな生き方や、歳を重ねて体調に変化があっても幸せに過ごす方法を知りたいと思ったのです。

そして2年前にエラマの学校のイベントに、昨年はフィンランドツアーに参加しました。

わたしの知りたかった「幸せで豊かに生きる」ヒントをたくさんもらいました。

(※今年もフィンランドツアーが開催されます!詳しくはこちら

ツアー参加者の職業や年齢、今まで生きてきた過程などはさまざま。お一人お一人、悩みやモヤモヤがあったり、何か行動を起こしたいという想いを持っていらっしゃるように感じ、自分だけじゃないんだと安心しました。同時に、「今までわたしは小さな世界で過ごしていたんだ。世界は広い、もっと自由に過ごし、行動を起こして、ワクワクしていきたい!」という気持ちがムクムクと湧き出てきました。

そして、ツアーにはこの「よむエラマ」の編集長さんも参加しており、そこでの出会いをきっかけに「ライター養成講座」に参加して今に至るのです。

わたしは小さいころから日記を書くことが好きだったので、ライターという仕事に憧れを持っていましたが、「わたしなんかがライターになれるはずない」とチャレンジする前から諦めていたことを思い出します。

このような経緯で、今日初めてライターとして原稿に向かっています。

以前の、身体と心の変化に不安を抱えていたわたしのままだったら「ライターmajakka」にチャレンジできていなかったと思います。

「幸せで豊かな生き方」を少しづつ学び、自分から行動できたことは「心」の豊かさにつながったと感じるのです(まだまだ身体の不調は続いていますが…)。

私が思う「自分らしく」「ありのまま」で心地よく生きていくヒント

年を重ね心身の変化が起きてから、「自分らしく幸せで豊かに生きる」ことを自分なりに考え、行動してきました。

そのヒントは、以下のようなものです。

①自分のことを良く知ること

自分のことを振り返ることはとても勇気がいることだと思います。わたしもそうです。今でも向き合えていないこともあります。

自分のことはわかっているつもりでも、あらためてゆっくり思い巡らせてみると、自分がどんなことでウキウキワクワクするのかと新しい発見ができます。

すると、もやもやするときに自分の「ワクワク」を思いだし、少し前向きになれたりします。

そして、少しずつ前向きになって元気なときに、思い出したくないことには向き合うようにする。そうやって少しずつ向き合えたら、辛い経験も自分にしか体験できなかったことと気づけて、貴重な強みになるかもしれないですよね。

②やらなければいけない!という思いを減らしながら行動する

自分らしく過ごすために意識していることのはずが、やると決めたら毎日!などと「to do」に追われてしまうようになることがあります。

そんなときは「今日はいいんじゃない?」「今は色々考えたい気持ちだ!」と自分と向き合いながら、行動することを意識しています。

自分のペースで「あ、今少し向き合えるかも?」と思う瞬間に少しづつ、ノートや、パソコン、スマホでも、または頭のなかでも考えていこうと自分に言い聞かせています。

とはいえ、ここ何年も、体調のことを考えておかし(ポテトチップスとアイスクリームが大好きです)を食べすぎないようにと毎日心に決めるのですが、ついつい食べ過ぎてしまいます…。どうしたらいいのでしょうか…。

本当に自分は意志が弱いなぁと悲しくなりますが、少しづつ自分と向き合って頑張っていきたいと思っている最中です…。

わたしはなぜmajakkaになったのか

majakkaとはフィンランド語で「灯台」という意味です。最後に、なぜこのライターネームにしたのかをお話させてください。

エラマプロジェクトの「ライター養成講座」では、自分の人生を振り返るワークがありました。

そこで私は楽しかったことも、辛く悲しい思い出とも向き合いました。自分で振り返るだけではなく、ペアになってお互いの人生を語り合い、共有します。わたしは今までの人生に自信を持っていなかったので恥ずかしかったのですが、お相手はじっくり聴いてくださり、こんな言葉をくれました。

「歩むスピードはゆっくりでも、店長として働いている話しをしている表情は、生き生きとしている」

「責任をもって人生を歩んでいくことが大切な価値観だと感じるよ」

びっくりしました!

ただなんとなく「楽しく過ごしたい」だけでなく、わたしは「責任」を持って生きていくことに「豊かな幸せ」を感じるんだと、新しい発見ができたのです。

そして、相手の方はこうも言ってくださいました。

「あなたの人生の話を聴いて浮かんだイメージは、波止場や灯台。カモメのように羽ばたいていくというより、様々な人たちが安心できるようにどしっと腰を据えて見守るような」と。

この「灯台」というイメージがわたしのなかでもとてもフィットし、「一人の人間として、また、店長としてもそのような存在でありたい。お客様にも一緒に働く仲間にとっても安心してくつろげて、少しワクワクしていただきたい」と実感できました。

これが、ライターmajakkaの由来です。

日々うまくいったりいかなかったりの繰り返しですが、自分と対話しながら、焦らずに「自分らしく、心地よく」そして「チャレンジ」して過ごしていきたいと思います。

そして、一緒に過ごしてくれる家族や友人、仲間に感謝しながら。

みなさんはどのように、「わたし」の豊かで幸せな生き方を探していますか?

みなさんと一緒にこれから探していきたいです。

最後まで読んでくださってありがとうございます。

これから、どうぞよろしくお願いします!
Text by majakka(マヤッカ Wellbeing探求人)

こんにちは!エラマライターのひらみんです。

私にとって4月は、自分の人生で絶対に忘れられない大切な人との別れの月です。その別れは、生き方について改めて考えさせてくれるものです。

長くなりますが、どうぞお付き合いください。

母の姉

4月に思い出すのは、母の姉のことです。

私が子どもの頃は家が近くて、いとことも年齢が近かったこともあって、お盆やお正月に限らず、祖母の家に集まったり、一緒にご飯を食べに行ったり、幼稚園の運動会に来てくれたりするような濃い親戚付き合いをしていました。

伯母はいつも明るくパワフルで、地域の人とバレーボールやボーリングを楽しみ、気が強くてめっちゃ怖いけど、でも同じぐらい優しくて、多くの人から慕われて、PTAとか頼まれちゃう典型的な姉御肌タイプの人でした。

対照的に、私の母はヒステリックでネガティブ思考で、子どもの頃はそんな母が嫌で、「なんで私は伯母の子どもじゃないんだろう」といつも思ってました。

彼女は旦那さんの転勤で広島へ行ってしまいましたが、その後も手紙のやりとりをしていて、それも秘密の関係みたいで楽しかったのを覚えています。そうやって二十歳ぐらいまでの私を支えてくれた人でした。

そんな彼女は20年ほど前に亡くなりました。すい臓がんで手術ができず、余命3年ぐらいと言われている、というショッキングな報告でした。

その後、彼女はできる限り仕事を続け、ボーリングを楽しみ、新婚の頃に住んでいた街を訪ね、お世話になった人たちに会いに行き、祖母やうちの家族にも会いに来て、3年ぐらいは本当に病気なのかと疑うぐらいの元気さを見せていました。

しかし3年を過ぎたころ、やはり病気が進行して入退院を繰り返すようになりました。モルヒネの量が増えた頃には、ひどい言葉を言うこともあると、伯父さんが話していました。

2003年4月、私たち家族が会いに行った時、私は伯母と病室で2人きりになった時がありました。そのとき、彼女が私の方へ手を伸ばしてきたような気がしたのですが、私は怖くて彼女の手を掴むことができませんでした。

どうするのがいいのかパニックになり、掴むべきだとわかっていながらも、細い手を掴んでしまったら自分が泣いてしまうことも想像がついたからです。

その2日後、彼女はあちらの世界へ飛び立っていきました。

彼女の訃報を聞いた時、「私はなぜ彼女の手を取らなかったのか」と考えずにはいられませんでした。

人生最大の後悔から20年

私はあの時、本当に怖かったんだと思います。

「いつ亡くなってもおかしくない、彼女はとてもがんばっている」と伝えられた状態で、私はもちろん、私の母も父も、伯父さんも、そしておそらく本人も、ぎりぎりの状態で気持ちを保っている所に、自分が泣くことで、みんなの気持ちの均衡を崩してしまうことがなによりも怖かった。

もちろん、自分が彼女の命が短いことを肌で感じるのも怖かった。そんなこともあって、手を伸ばせなかったのだと思います。

伯母が亡くなって20年経ちますが、私は今でも、彼女の手を取らなかったことを後悔しています。「手を取らなかったことを、彼女は許してくれているのだろうか」と、ことあるごとに悩みました。

毎年4月に振り返ること

伯母が亡くなったあと、彼女の骨を拾う時に、不謹慎ながらも思ったんです。

「こうやって骨になっちゃう前に、やりたいことやって、行きたい所に行って、食べたいもの食べて、おもしろおかしく生きる!」と。

私の人生には彼女にしてもらったことがたくさんありました。

私を支えてくれた本当に大切な存在だったのに、ありがとうも伝えられなかった。「また会いたい」という気持ちを、都合よく希望にすり替えて、「また会える」と思ってしまった。彼女の命が長くないことをわかっていたのに先延ばしにしてしまった。

「ありがとう」と言ってしまったら、最後の別れになってしまいそうで怖かったのは正直ありました。でも、そんなに切羽詰まる前に伝えておくべきだったんです。

だから私は、伯母が亡くなって以来いつも4月に、自分があのとき骨を拾いながら決意したように生きられているかを確認しています。

そして、病室での後悔も一緒に思い出して、どんなに怖くても、伸ばされた手を掴むべき時に掴む勇気や覚悟があるかどうか、それから、大切な人たちに感謝を出し惜しみしていないか、振り返っています。

後悔するのは、伯母の時だけでもう充分。「あの時、ああしていれば」と後悔したくないんです。

私は、この後悔を克服したり乗り越えたりしたいとは思っていません。それよりも「前向きな後悔」にして、一生抱えて生きたいと思っています。

人生最大の後悔を、前向きに生きるきっかけやモチベーションにすることが、なによりも伯母への供養になると思うから。

みなさんも「前向きな後悔」に捉え直すことができる後悔はありませんか?

Text by ひらみん(普通の会社員)