こんにちは、pieni(ピエニ)です。
「皆さんにとって家族ってどんな存在ですか?どんな家族で在りたいですか?」
突然の問いかけをしましたが、私は最近家族との関係についてとても深く考える体験をしました。
私は夫と6歳になる娘と3人で暮らしています。仕事はフリーランスでWEBやSNSに関係することをしながら大好きな北欧雑貨をイベントで販売したり、住んでいる地域にフィンランドのことを伝える活動をしています。
フリーランスになってからは「自分のやりたいことをやって生きることが幸せ」だと思い、積極的に活動してきました。
しかしその中でいつの間にか「家族」をないがしろにしてしまっていたようで、関係がギクシャクしてしまいました...。
今はそのおかげで「家族と真剣に向き合おう。改めて大切にしたい」そう思えるようになったのですが、今回はその体験をもとに自分の人生を考える中で切り離せない「家族との生き方」についてお伝えしたいと思います。
自由がなくなったことに憤りを感じていた私
結婚8年目、子育て6年目を迎えます。振り返るとここまで早く過ぎたという感覚なのですが、心の中では大なり小なり毎年いろいろな葛藤がありました。
結婚も子育ても自分で望んで決めてきたことなので、これを書いちゃうと自分勝手だなぁと思われてしまうかもしれないのですが、私は心の奥底でずっと「憤り」を感じていました。
それは...「自由が無いじゃん」ということ。
自分で稼いだお金は自分で自由に使えて、時間も調整しやすく、行きたいと思った場所や勉強会や交流会にもすぐ行ける状態だった結婚前。
けれど結婚して子育てが始まると、お金を何に使うか相談しなくちゃいけない、NGが出ることもある、子連れで参加すると気を使ってしまう、けれど子どもを預けるのに罪悪感...。子どもを置いて遠方へ泊りがけで出かけることなんて出来ない...。
どうしてもマイナスの感情にとらわれてしまって、それが積もり積もって「憤り」になっていました。
でもそれを出し切ることもできず、切り替えることもできず、結婚したし子どもも産んだしこれは「我慢」すべきことなのだと、この感情をどんどん腐敗させていったのでした。
自分を大切にするために始めたはずなのに
子どもが1歳半になった時、フリーランスで仕事をスタートしました。
勤めていた時の経験を活かしながらWEBやライティングに関係する仕事を少しずついただき、フリーランスや起業家女性の交流会や勉強会にも出かけるようになりました。
そういった活動の中で「自分のやりたいことをやって生きる、主体性をもって生きる、お母さんが生き生きして笑顔なのが幸せ!」という言葉をよく耳にするようになりました。
「憤り」や「我慢」を抱えながら生活していた私には、なんて輝かしい言葉なんだと嬉しくなったのを覚えています。
どれも大切な考え方だと思うのですが、ここに落とし穴がありました。
私はその言葉の本質を理解せず、表面上だけを受け取って「そうだ!我慢なんてしなくていい、私は私の生きたいようにやりたいようにやって笑顔でいたら、夫にも子どもにも喜んでもらえるんだ!」と考えるようになりました。
なので仕事を増やしたり、勉強会にもよく出るようになったり、イベント出店や企画もどんどん進めてみました。
自分のやりたいことをやって生きている!そう思っていました。
確かに自由にやりたいことをやっている状態だったと思います。
しかしある日、夫とスケジュール調整しているときに不協和を感じ始めました。
「次の日曜日はイベント出店するね。再来週の日曜日は主催のイベントするから子どもお願いしたい」
いつものように伝えていると、夫の顔がなんだか曇っています。
なんで嫌そうなの?と気になって「何か嫌なことある?あったら言って欲しいんやけど」と少しケンカ腰に伝えてしまいました。
かえってきたのは「日曜日に出ることがダメとは言わないけれど、自分ばかり犠牲になっているように感じている」という言葉。
この時は「え、だったら自己犠牲じゃない生き方したらいいやん」と思ってしまったのですが...。どうも夫が自己犠牲になってると感じるほど家族としての暮らしがおなざりになっていたようです。
その頃からだんだん会話が減り険悪になっていく夫と私の関係。
それを感じとったのか、成長とともに無くなっていたはずの娘の夜泣きが再発。
深夜に「いやだ!嫌い嫌い!」と言って泣き叫びながら起きるのでした。
次の日にはケロッと何も覚えていないようでしたが、私のほうが寝不足になりイライラしながら娘に対応してしまうので、更に嫌な思いをさせる悪循環。
「やりたい仕事や取り組みをやって、お母さんが生き生き笑顔なのが幸せ!」と自分らしい生き方を実践しようと思って始めたことなのに、真反対の方向へ突き進んでいた時期でした。
このあたりでやっと「あれ?これって考え方とか、やり方が間違っていない?」と気が付き始めました。
家族について向き合ってみる
私は目標を立て、そこに進むための心づくりをしたり、心の癖や思い込みでストップをかけてしまっていることを自己認知する講座を受けています。
その講座の中で家族との関係を話したところ「よく周りを見ている?家族への感謝の気持ちってある?そもそも家族との関係性はどうしたいの?」とフィードバックしてもらいました。
そこで改めて自分と家族の理想の在り方を考えてみました。
今のぎくしゃくした関係性は無くしたい。
夫とは結婚した時みたいに仲良く楽しく話がしたいし、ときにはデートだってしたい。
子どもとは感情でぶつかるんじゃなく、幼くても建設的に話すことを心がけたい。
家族に安心を与えられる存在でいたい。
これがどういう関係性を築きたいのかと聞かれて思い浮かんだことでした。
そう思ってからやっと少しずつ感情的にならずに自分と家族とのやり取りが見え始め、改めたいことが見え始めました。
例えばこんなこと。
日曜日の外出やイベント出店をするとき、行くことを自分の中ですでに決めていて「行ってもいい?参加していい?」という相談をしていなかったこと。
夫はしっかり何を購入するか、どこへ行きたいか相談してくれているのに、私は反対されるのが嫌で内緒にしていたことが多かったこと...。
「平日の子育ては私が一人でしてるんだから、日曜くらいやってよ」と、言葉にはしないけれど心の中では憤りをもって接していたこと。
ギクシャクしていたのは「家族だから許してもらえるだろう」という甘えだったり、言っても仕方ないという諦めだったり、傲慢さから生まれた家族の形だったんだと分かってきました。
人の感情の動きは面白いもので、そこに気が付くともう一段階変化が現れました。
「よく今まで一緒にいてくれたな、離れずにいてくれたな」と「ありがとう」の気持ちが出てきたのです。「できなかった、させてもらえなかった、行かせてもらえなかった」とメラメラ燃えていた「憤り」の感情が鎮静化していくような感覚になりました。
家族だからこそ大切にしたい「対話」するということ
家族としてどう在りたいかは考えることができましたが、その中で「私はどう生きたいのか」を改めて考えてみると、やりたいと思うこと、行きたいと思うことなどを「我慢」することはしたくない、けれど家族に「我慢」させることもしたくないと思いました。
そのためには、家族であっても「対話」することがとっても大切でした。
一方的にやりたいことの主張を通すのではなく、お互いの意見や立場の違いも理解しつつすり合わせていく。
「家族の対話」と言葉にすると少しお堅いように感じますが、休みの過ごし方、それぞれがしたいこと、家の役割分担や子育てのこと、お金のことなど暮らしに身近な話題から始めています。
考え方の違いがあるのでカチンときたり、なんでそう思うの?と感じることがまだまだありつつも、「喧嘩」するために話しをしているんじゃなく「お互いにとって良い着地点」を見つけようとしています。なので我慢ではなく寛容な心持ちで決まったことを受け入れられるように変わってきました。
ちなみに娘の夜泣きも収まって、家族旅行が復活するところまでは関係性が戻ってきてホッとしているピエニ一家です(^^;)
どんな家族で在りたいですか?
家族だから安心して甘えたり、お願いしたりそれができるのはとっても幸せなことだと思います。
けれどそこに感謝の気持ちを忘れていたり、許してくれるだろうという一方的な思い込みがあるとどこかで歪みが生まれているかも。
なんとなく一緒に生きているのではなく、家族がどう在りたいかを持って生きることがお互いを大切にすることにつながると思います。
そして、自分がどう生きたいかを考えたり、知るためにもとっても大切な一歩になるはずです。
最後にもう一度問いかけさせてください。
「皆さんにとって家族はどんな存在ですか?どんな家族で在りたいですか?」
Text by pieni(ピエニ)(丹波フィンランド大使)