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Elämäプロジェクト

皆さん、こんにちは。ライフコーチとしての歩みを始めたばかりのKangas(カンガス)こと和田直子です。

これまでの人生の半分を会社員として過ごしてきた私が、ライフコーチとしてもっと自由にありのままの自分で生きていく等身大の自分自身を発信していけたらと思います。どうぞ、よろしくお願いします。

まずはこの「Kangas」という名前から。

「Kangas」は、フィンランド語で「織物」や「布」という意味です。

なぜ、それをライターネームにしたのか。それは私がライフコーチを始めた想いでもあり、実現したい社会のあり方に通じるからです。

今回は自己紹介も兼ねて、私がライフコーチとして独立を決めるまで歩んできた道と葛藤を、そしてKangasに込めた想いを綴ってみたいと思います。

「中途半端な私」

少し幼い頃の記憶に触れさせてください。

幼少期の私を思い出すと、まず一番に蘇ってくるのは、一人遊びが大好きだったこと。部屋中におもちゃや人形を広げて空想の中での日常を展開したり、家具や時計・花瓶などと会話したりもしていました。

親の目を盗んでちょっと悪戯をするときには、いつも話し相手の家具や置物たちに見られている気がしてドキドキしていました(病気の時に薬が嫌で嫌で仕方なく、飲んだふりをしてゴミ箱にそっと捨てたあと、「お願いだからお母さんには言わないで!」と本気で”ゴミ箱さん”に念じていました。笑)。

少し大きくなると、家の前の公園の、大きな楠の木に登ることが楽しみでした。下から見上げるとドキドキするくらいの高さまで登り、枝分かれしているところにもたれながら腰を掛け、ぼーっとすることがお気に入り。小説「赤毛のアン」の主人公、アンと自分を重ねて浸ってみたりもしていました。

そんな私は、中学高校と進む中、いつの間にか、姉のように勉強やスポーツで目立ちたいと思うようになっていました。実は「赤毛のアン」の世界に先に夢中になったのは姉で、私はそれに影響されていたことを思うと、もっと幼い頃から姉をかなり意識していました。

ですが、私は姉のように何事にも集中して取り組むことができず、勉強も運動も姉の成績には及んだことがありません。学校では人気者で後輩からも尊敬されている姉の姿が、私の憧れでもありました。生まれた時から一番近くにいるのに、決して届かない存在が姉でした。

一方で、高校時代に和太鼓に出会い、のめり込みました。そして日本語教師を目指し県外の大学で一人暮らしを始めました。

大学の授業以外で、日本語教師のボランティアや、大将がとにかく厳しかった懐石料理屋でのアルバイトを4年間続け、セミプロ集団の門下生として和太鼓も相変わらず続けていました。

ようやく、姉と比較せず自分の選んだ道に進み始めたという感覚を持てましたが、大学3年生の後半で、授業準備がとにかく大変で自分には向いていない!これを職業として続けることはできない!と日本語教師の道をあきらめました。

そして、やりたいことや得意なことが分からず「中途半端な自分」を常に感じながら始めた就職活動。何十社もの企業にエントリーし、内定の連絡が入らない携帯電話とにらめっこを続ける日々を送っていました。

就職超氷河期と言われていましたが、私には内定先が決まらない理由はそんな社会背景のせいではなく、自分自身だとわかっていました。

リクルートスーツを着て周りと同じ格好をすることにも違和感があり、今思えば”ビジネスカジュアル”で試験や面接に挑み、人事の方に目を付けられたなと感じることも度々。それでも似合わないリクルートスーツを着て行くことに抵抗し続けていました。

誰かと比較して「私は中途半端」と常に自分に自信を持てない一方で、「みんなと一緒は嫌、自分らしさを出したい」ともがいていたことの現れかもしれません。

自分が何者かわからないのに、さらに個性をわからなくするリクルートスーツへの嫌悪感たるや…!!

会社員時代のやりがい

そんな私が、ひょんなことから興味を抱き新卒採用にエントリーし、内定を唯一頂けたのが、その後43歳まで人生の半分を過ごすことになる大手カフェチェーン店を展開する会社です。

会社のミッションと、人事の方々やオフィスのお洒落でオープンな雰囲気は、それまで何社も受けてきたものとは全然違い、とても魅力的で、ここなら私らしく働けるのかも!と感じました。

”ビジネスカジュアル”で最終面接まで進み内定を頂いたときには、「この会社は私そのものを認めてくれた!」という感覚を持てました。

それなのに、私は入社後に店舗勤務になることを大学の友人たちに伝えることが恥ずかしかったのです。自分が働きたい業界が明確でなかったこと、何社も落ち続けて内定をもらえたのが一社のみだったこと、店舗でシフト制で働くことへの抵抗感、これからスーツを着て働く友人たちとエプロンを付けて接客する自分の間に勝手に感じていた格差。

4年制大学を卒業して、専門職に就くかオフィス勤務をすることが、人の目を気にせず過ごせる道だと思いこんでいたのでしょう。いつか本社勤務ができることを希望に持ちながら、でもそれが本当に叶うのか不安を抱きつつ入社しました。

しかし仕事を始めてみると、どのステージ(役職)になっても学びの環境が整っていること、会社が大きくても裁量権を持って店舗運営できること、またライフステージの変化とともに新しく芽生える価値観を仕事の中で体現できることなどからやりがいを感じ、会社へのエンゲージメントも高まっていきました。

いつしか、自分の信念を貫いてチームにビジョンを示し続け、やりたいことにチャレンジし、成果が出始めました。すると社内外に波及するちょっとしたムーブメントとなり、評価されるようになりました。

仲間とともに何度もトライ&エラーを繰り返してきたことが、目に見える形でポジティブな変化を生み、仲間が増えることに喜びを感じていました。

子供時代から自分の中の「こうあるべき」に縛られ、それに到達しない自分自身を「中途半端」とジャッジし続けてきた私が、ビジョンを示し、チームをつくり、形にし続けることができるようになった。

それが社会にとってポジティブな影響力を生み出せたと、自信を持てるようになってきたのです。幼い頃の私が空想の中で描いた幸せな世界を、大人になった私が現実の世界で作り出す喜びを味わえたのかもしれません。

そして、そのような成功体験を持てたことで、まわりの同僚や部下、10代~70代までの店舗アルバイトさんたちにも、もっと自分の個性や才能で、人や社会にポジティブな影響を与えられることを知ってほしいという想いを抱くようになりました。

私から見ると、本当にいろいろな可能性を持つ人々がいるけれど、かつての私がそうだったように、自分や社会の「こうあるべき」に囚われている人、上司や先輩の「正解」を常に探り自分らしく立ち回れない人、称賛されても「自分なんて!」と受け入れられない人、目の前のタスクに追われている人…。そんな人たちをたくさん見てきました。

彼らがもっと自分をオープンにし、自分の中の強みや才能を理解し、仕事の中でそれを表現できるようにしていくこと、それが私が目指す人財育成となっていきました。

一本一本の糸が細くても、違った色でも、そのすべてが必要とされ、しなやかで強い、カラフルな布が織りなされるように、一人ひとりがすでに持つ個性や才能が、優しくも強い、多様性に溢れた社会を作り出すと思うのです。

そう!これこそが、Kangasに込めた私の想いなのです!

「自由」と「ありのまま」を受け入れた先の自分への「信頼」

そのように仕事への情熱を抱く一方で、もっと自分が仕事に誇りを持ちたいという気持ちが大きくなってきました。会社の優先順位を気にせず、自分のやりたいことだけに集中できる仕事をしたいと。

ですが、「私」という人間を社内で認めてもらえても、「この会社の器がなければ、私は何もできない」「会社のブランドの下でしか活躍できるところはない」と感じていることに気付きました。だから、社内で評価され続けなければ自分を満たすことができなくなってもいました。いつもどこか、自信のなさからくる承認欲求があったのです。

そして気づけば二人の子どもたちは思春期真っ只中、巣立ち目前の時期になっていました。シフトで早朝も深夜も働き、世間の長期休暇は必ず仕事の繁忙期で、いつも家族より仕事が優先。本当は子どもたちと一緒にいたい、という気持ちを押し殺して出勤していました。

幼かった我が子たちの姿は霧がかかっているかのような記憶しかありません。「肌身離さず」「手を離さず」「目を離さず」の時期はいつの間にか終わっていて、「心を離さず」が伝わっていることをただただ願いながら、自分の子育てに間違いはなかったと一生懸命信じようとしています。

そんなふうに悶々と悩み、仕事の楽しさと窮屈さに挟まれて過ごしていました。

でも本当は気づいていたのです。

「〇〇会社の私ではなく、私という人間に自信を持ちたい!」

「私がすでに持っているものと経験してきたことを、自分で信じて活かしたい!」

「もっと自由に、ありのままの自分でいたい!」

「もっと家族との時間を持ちたい!」

「子どもたちが巣立つまで、残りの時間を近くで過ごしたい!」

「会社辞めたい!」

私の心はずっと、こんなにも叫んだりつぶやいたりしていたけれど、「私には出来ない」「会社を辞めてお金はどうするの?」と、悩んでは心に蓋をするの繰り返し。そんな日々を3年以上過ごしていました。

コロナが収束し始めた2023年、それまでの色々な制限に、私も知らぬ間に窮屈さを感じていたのでしょうか。思い切り自分の両手両足を自由に開放して羽ばたきたい!そんな想いが急に湧き上がり、それを叶える方法が私にとっては海外旅行でした。

私は何かに取り憑かれたかのように、家族や友人との旅行の計画を立て、自分を開放させていく感覚を得ていきました。それまでの私には信じられないことですが、1年で3回も海外旅行で羽根を伸ばしたのです(もちろん、それだけのお金も羽ばたいていきました~!)。

行きたい時に行ってみたい!を叶えること、非日常に触れて感性が揺さぶられる体験をすることで、私は「自由」でいることを求めているんだと知りました。

旅先で見た、いつも自分らしく立ち回る人々、自分のペースを大事にする人々、自分の好きを堂々とパフォーマンスする人々…。そんな「ありのまま」の姿に惹かれる自分にも気付きました。

「自由」と「ありのまま」。2023年の”海外行きたい病”で気づけた私が大事にしたい価値観です。

中でも、フィンランドのサイマー湖水地方、プンカハリュの大自然の中で過ごした4日間。朝起きたときから夜眠るまで自然の匂いや音に包まれ、自然に触れ、身を委ね、友人と語らったり大笑いしたり、また自分の心と向き合いながら過ごす中、じわじわと心の蓋が外れていく感覚を覚えました。

自分の素直な心の声が全部聞こえてきて、受け入れることが出来たのです。

「そうだよね、そうしたいんだよね」

ずっと前から持っていた答えが私の中から湧き出てきました。

素直な自分の心を受け止めることが出来た安心感は、今までの自分を癒やしていくかのようでした。

もっと自由にしていいよ。ありのままでいいんだよ。もう中途半端じゃないよ。もうすでにいろんなことを持っているよ。だから、自分を信じて!

そう!私に足りなかったものは自分を信じること。自分への「信頼」。

周りの仲間たちには、自分の強みや才能をもっと理解して活かしてほしいと願っていたのに、自分のことを一番信じてあげていられなかった私。

自分への信頼が持てなくて、ずっと追い求めてきた自由とありのままを諦めてきたのか?

私だって、織りなされていく布の一本の糸のはずなのに。

自分なんて中途半端だと、すぐに弱ってほつれてしまう癖があった。

そう気づいたのでした。

ライフコーチへ。私にできる幸せな社会の作り方

自分にとっての大事な価値観「自由」「ありのまま」「信頼」に気づけた私は、会社を卒業する時にこんな気持が湧いてきました。

「ここで得られるものは、すべて得ることが出来た!」

「それが充分すぎるくらい自分のものになっている!」

とっても満足した気持ちでした。21年働いたこの会社で出会えた人、経験、価値観、すべてが今の自分につながり、たくさんのことを学び、考え、行動してきたと実感しています。これからは、それらに出会えたことに感謝し、大事に育み、この先出会う人や社会に還元していこう。そう思えたのです。

そして、これからは、もっと自由にありのままの自分を信頼し、理想の働き方や人生を実現させていこうと。

社会の中の役割に、自分で責任を感じて生きていくこと。それも素晴らしいけれど、自分の素直な気持ちを知って、自分のニーズを満たす人生を送る。そして、自分がすでに持つ個性や才能を活かし誰かをエンパワーする。それができる人々で世界中が溢れていたら。もっともっと、豊かで幸せな社会が広がっていく。私はそう思います。

だから私は、自分で自分の幸せな人生をデザインしていく人々をライフコーチとして応援していきたい。それが、私にできる幸せな社会の作り方です。

一人ひとりの個性と才能が活かされ、しなやかで強く優しい社会を織りなしていけるように。一本一本の糸が編み込まれて、織りなされるKangasのように。

そうは言っても、「自分なんて中途半端」と弱い糸に戻りやすい私の、すぐにほつれてしまう長年の癖。きっとこれからも、何度もほつれてしまうでしょう。でも、これからは早めに自分で自分の糸を繕える気がしています。そんな私の人生のKangasもぜひ楽しみに、これからお付き合いいただけると嬉しいです。

それでは、またお会いする日まで。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

Text by Kangas(和田直子/しなやかで強く優しい社会を織りなすライフコーチ)

こんにちは。エラマプロジェクト代表、フィンランド生涯教育研究家・石原侑美です。2024年の年明け早々に「フィンランドの教育を全部学ぶコース」を開催しました。7年間の研究内容を参加者のみなさんに共有し、講座を終えたわたしが感じたことをあらためて振り返ってみようと思います。

このコースのゴールとは

講座は1月の毎週日曜日の午前中に計4回に渡りオンラインで開催しました。このコースの最大の特徴は、最終的に課題としてフィンランドの先生やコーディネーターのように参加者自身が授業、カリキュラムやプログラムを作って提出するというものでした。

第1回目ではフィンランドの教育について基本的な内容をお伝えし、日本とは違うフィンランドにおける「教育」の定義を体感していただくワークもおこないました。

第2回目は「教育メソッド」、第3回目は「キャリア教育と生涯教育」、第4回目は「教育・教員の学びと評価方法」をテーマにお話しました。

今回の分野は日本語に訳されているものがあまりありません。あったとしても、現場で実践できるレベルのものになると学術的すぎて日本語で学ぶのは困難でした。そこで、例えば第3回目ではPhenomen Based Learning(教科横断型の事象ベース学習のこと。以下、PhBL)の授業をしっかり体験していただきました。

参加者にとってはそれがどんなものかはっきり分からないと思ったので、子どもたちが受ける授業を実際に受けてもらったんですね。

体感してもらったことで腑に落ちる感覚があったかと思います。

参加者は、学校の先生、フリースクールを運営されている方、子どもたち向けの自然体験プログラムを作っている方といった教育的サービスに関わっている人や、習い事のお教室を運営されている方、講座を作るお仕事に携わっている方など、各地からお申し込みをいただきました。

このコースで絶対にお伝えしたかった内容が、3本軸となるPedagogy(ペダゴジー)、PhBL、アントレプレナーシップ教育についてです。

昨年開催した単発の対面講座でもPedagogyについて触れる機会はありましたが、そのときよりもさらに具体的にお伝えしました。また、学術的な内容をわたしなりに編集して授業を作るためのチェックリストを作成し、みなさんに共有しました。

このコースの内容は難易度が高かったと思うのですが、誰もドロップアウトせずに学んでいただけて、学ぶ体力がある人がすごく多かったのが印象的でした。

授業を作るために必要な考え方、基本的なことはお渡しできたかなと思います。

Pedagogy、PhBL、アントレプレナーシップ教育についてご興味が湧いた方は、今後も教育をテーマに単発の入門講座を開催予定ですのでよろしければご参加ください。

※東京:https://elama.be/workshop-event/tokyo202404_education/

※大阪:https://elama.be/workshop-event/osaka202404_education/

フィンランドの教育を日本に導入するのは難しい?

参加者の多くは、現状の日本の教育に対してかなり疑問を持っていらっしゃいました。教育サービスなどのお仕事に直接従事されていない方も問題意識を持っていて、「こういう授業なら受けたかった」といった感想もありました。

現状の教育について疑問を持っているからこそ「こういった内容や方法がいいのでは」とそれぞれお考えになっていたようです。そして今回フィンランドで実践されていることを知り、体験したことで、「答え合わせができた」「励ましをもらった」と話されている方が多かったです。

ご自身が考えていたものとまったく違うという印象は持たれなかったのです。

最後の課題提出については、みなさん現場が違うため内容はもちろん異なるものになりましたが、第1回目に共有したチェックリストに沿ってしっかり授業プランを考えていただきました。またすでに実践されている内容をリストを元にブラッシュアップされている方もいました。

フィンランドの教育が良いと言われるのは、自分で考える力を育む、周りと協力しながらやっていける力を育んでいくといったことを、先駆者的にやっていたからだと思うんです。フィンランドではすごく特別な教育をしているわけではないというのが大事な点なんですよね。

おそらく日本の教育現場でも、これがPedagogyだとかこれがアントレプレナーシップ教育であるとか意識はされていないけれど実際やっていた、みたいなことが実は多かったりするのではないかと思います。

フィンランドの教育を特別視するのではなく、みなさんが望む理想の教育や試行錯誤しながら実践されているものについて答え合わせをするような感覚でフィンランドの教育と向き合っていただくのがよいのではと考えています。

福祉制度が違うから、国が違うからを理由にできないものではなく、やろうと思えばできるんですよね。もちろん制度のせいでやりにくさ、やり易さが出てくるのは間違いないのですが、根本的なところはそんなに変わらないと思うのです。

学ぶ習慣が大切

教育現場におけるより良い実践のために国の制度を変えていくことは必要ですし、そのための働きかけも大事だと思うのですが、わたしたち自身、大人がまず、学びって楽しいなと体感しないと何も変わらない気がします。同時に、学ぶ習慣をつけることがすごく大切だと感じています。

学びというのは図書館に行くことだけではないですし、資格勉強をすることだけでもありません。単純に、今日1日を振り返って感じたことや気づいたことを日記に書くのも十分学びですし、それはPedagogyの定義の中にもあります。「振り返り」も学びのひとつなのです。

もっと軽やかに学びを楽しむのが習慣になるといいなと思います。そして、エラマプロジェクトをやっている理由、フィンランドの教育についてお話をしている理由もそれなのです。

教育の内容はアメリカの分野もありますしヨーロッパの分野もあるのですが、それらは意外と日本語に訳されているものは多くありません。

特にフィンランドのものに関しては本格的な内容のもので日本語版はそんなに多くないんです。

フィンランド教育を研究していく中で、わたしが通訳者となり、今後はさらに言語面だけでなく日本の現場に当てはめるとどうなるかというアイデアを出しやすいような形でお伝えしていくことをやっていきたいと考えています。

それは先生だけではなくて親御さんが立ち上げるサークルでもいいですし、リタイアされた方たちが始めるフリースクール的なものでも、シニア向けのコミュニティでも当てはまります。そういう学びの場やコミュニティをどう運営していくのかにも関係があると思っています。

学びそのものは、学校の中だけで完結しなくなってきていますよね。学校外の人や企業と連携するとか、地元の人に関わってもらうなど、そのコーディネート力もこれからすごく大事になってきます。ですので、みなさんがご自身の活動に落とし込めるように事例や文脈を紹介していきたいです。

今回のコースを終えてみて「学び」の可能性をますます感じました。学びに対するポテンシャルやモチベーションが高い人が多かったというのもあるかもしれませんが、豊かに自分の人生を変えられるのは学びがきっかけになることが多く、自分の人生を描くには学びがベースになるのです。

学んでいるとき、学びを作っているときが大好きだなとあらためて感じました。

このコースを開催した理由も、「仲間が欲しい」というのがどこかにあったんですよね。「学びの場を作っていきたいと思っている、学びの内容もフィンランドの教育で実践されていることをやりたいと思っている人たちと仲間になりたい」。そういう思いがあったんです。

それは直接エラマプロジェクトに関わるのではなくても、つながりを持つという意味でも「仲間」が欲しかったんです。これからもそういう仲間とつながるために、コースをブラッシュアップさせながら続けたいなと思っています。

フィンランドで学びと対話を深める

最後に、参加者の感想も一部ですがご紹介しておきます。

満足度が高かった理由として、

“現時点で他の講座や文献では知り得ないフィンランド教育の手法や考え方を学ぶことができたため。また講座の内容がとてもわかりやすく興味深いものだった”

“私が「教育」に対して思っていた偏見が、意見の一つに変わり、私の中でもっと柔軟に考えていいものという選択肢が生まれたため”

といった感想を記してくださった方もいました。

また、フィンランドの教育では自己評価も採用しており、一方的な評価に偏らないシステムを特に印象に残った点として挙げられている方もいらっしゃいました。フィンランドでも評価方法に関する議論は止んでおらず、参加者のみなさんにも対話していただきました。た。

今回開催したコースは「エラマの学校」のプログラムのひとつです。いつでも自由に気になる学びに参加していただけますので、その他の情報につきましてはこちらからご確認ください。

今年は、フィンランドツアーを3本予定しており、今月末から説明会を実施します。

実際に現地に足を運んでみたいと考えたことがある方は、2024年フィンランド現地スタディプログラムの詳細をぜひご覧ください!

By 石原侑美(エラマプロジェクト代表)
Interview & Text by nakagawa momo(フリーライター)

こんにちは、どさんこ大学生RUNAです!

あくまで個人的な意見ですが、映画は家より映画館で見る方が何倍も楽しく見ることができると思っています。

「個人的な意見ですが」

「個人的に」

私は、集団の中で発言する際に、よく使っていますが、みなさんは、このような言葉をつけて話し始めることはありますか?

さまざまな言葉がある中でも、よく使われるこの前置きフレーズが対話を難しくさせるものになっているかもしれない。

今回は、「個人的な意見ですが」について考えていきたいと思います。

「個人的な意見ですが」は使い勝手が良い?

よく「個人的な意見ですが…」を使う場面を見るのは、組織・団体・役割がある人や、社会的な影響力を持った公人と呼ばれる人が話すときだと思います。

私も、普段は学校という集団に属していますが、影響力もないのに、なぜか「私の意見は」ではなく「個人的な意見ですが」と前置きしていることが多い気がします。

なぜ私たちはこんなに「個人的な意見ですが…」を使ってしまうのでしょう?

その理由を3つ考えてみました。

1つ目は、謙虚な姿勢を示せるからです。

「私は〇〇」の方は”自分自身”を強く主張しているように感じます。

一方で「個人的には〇〇」は自分の考えや立場を集団の中の一部の意見として扱うことで、控えめにしているように思います。

2つ目は、一種の接続詞みたいになっており、使いやすいからです。

「しかしながら」や「ところで」の代わりに「個人的な意見ですが…」は使えます。

個人の視点を前の会話とどのようにつなげるかという接続詞的な役割として重宝されているように思います。

3つ目は、”人それぞれ”であり、「あなたを否定するつもりはない」とういうことを強調できるからです。

このパターンで使われることが、多いのではないでしょうか?

「親的に」、「会社的に」、「男性として」、「女性ならば」など何らかのカテゴリーや規範を持ち出すと、相手を傷つける恐れがあったり、また相手に何かを押し付けたりする可能性も出てきます。しかし、「個人的に」を使うことで、相手を否定するような表現を避けることができ、さまざまな人の考え方や主義・信条を尊重していると伝えることができます。

攻撃されないように、決めつけではないと知ってもらうために、周りにも同じ考えを強いているわけではないとわかってもらうために、この前置きを使っていると感じます。

「ワタシ(私)的には…」が2000年の流行語大賞のトップテンとしてノミネートされました。今と同様に当時も、断定をさけるあいまいな表現として、その時代の若者が使う「ぼかし言葉」が多用されていました。

このように、さまざまな意味を含められる「個人的な意見ですが…」からみえてくるのは、”使いやすい”面だけでなく、逆の”使わざるをえない”状況です。

間違うことを恐れる私たち

「それは違う」と間違いを指摘され、ミスを叩かれる。

私たちの世界は、”間違い”や”ルールと違うこと”にとても厳しい。

ちょうど2年前、私は「正しさ」に基づいた「攻撃」や議論について考えていました。

なぜなら、コロナ以降、自分にとって悪い影響がなくても、マナー違反行為を激しく非難するなど、”正しさ”に過剰反応している風潮がよく見られたからです。

中学生の時、なぜか極寒の北海道でタイツをはくのは禁止という変な決まりがありました。

猛吹雪の中でもスカートに靴下で行かなければならない。

冷えによる体調不良になった私は、そのルールの意味が分からず、隠れてタイツをはいて登校して、先生に見つかりました。

先生は「個人的には寒いのは分かっているんだけど、学校の決まり、伝統だからね」と言って、タイツをはくことを許可してくれませんでした。

私は、この対応がとても印象的な記憶として残っています。

先生は「個人的には」という言葉を使って、組織のなかにいながらも私に対して中立的立場を表していました。でも、タイツがダメな理由はただ「学校という世の中のルールに反しているから」という納得できないものだったのです。

去年、「バスの運転手がサービスエリアでカレーを食べている」というクレームがバス会社に入り、そのバス会社で働いている人がクレームの内容を投稿して注目を集めました。

「クレームをつける方がおかしい」、「バスの運転手の飲食が無礼な行為だ」という意見も見られ、論争が起こりました。

また、救急隊がコンビニなどで買い物をすることについて”いろいろな意見”があるとして理解を求めるお願いを文章で投稿したものもありました。

自分にとって迷惑ではなくても、「みなさんどう思いますか?」と、多くの人が規則を決めた側かのように、世の中的に失礼だと捉えられる人や、ルールを守っていない人など、見つけた「間違い」を議題に挙げようとします。

このように少しでも「間違い」を言ってしまったら、容赦ない追求にあうかもしれない。

そう思うと、攻撃されないための予防線として「個人的な意見ですが…」を使う必要が出てくるのです。

「私」=属性とセットで認識される存在

そして、「個人的な意見ですが…」をよく使うのは、「私の意見は…」を伝えても大丈夫だと感じられる場がないからかもしれません。

本来「私は〇〇だと思います」とはっきり言えることは素晴らしいことですよね。しかしそれができない。そもそも対話を試みている場がどのようなものか見たことがないので、どうやって対話を行うのか分からないと思っている人も少なくないと思います。

討論・会議・議論・話し合いは、どれも違いがあります。しかし、対話とそれらの大きな違いは、対等な立場で話ができるかどうかだと思います。

議論などでは、集団に属しているひとりとして発言する際の暗黙のルール、例えば、意見がまとまっていること、急いで進めること、正しく決めること、勝つこと、結論を出すこと、相手を傷つけたり怒らせたりしないことなど…”しないといけない”、”するべき”みたいなものがあると感じるのです。

私は、中学生から始まる部活など集団行動の中でパワーバランスの存在を見てから、規律や常識、上下関係を優先させた上で話すことが大切だと学びました。

その頃から、集団の中で若輩者が話せる雰囲気ではないと感じ始めたり、発言するのが怖くて言葉に詰まったり、わかっていないのに理解したふりをしたりするようになりました。

なので、私の意見を主張するよりも、「個人的には」を使って、その場では波風を立てないように進めるのを最優先するのです。

また、SNSのプロフィールや投稿で「発言は個人の見解に基づくものであり、所属組織を代表するものではありません」という一文を目にしたことがあります。

この言葉が必要になる理由は、あらゆる人がその人単体で認識されることはなくて、職場や立場などの属性とセットで認識され、自らもその所属組織の一部であると意識せざるを得ないからです。

自分を集団の中から独立した存在だと思えたら「私の意見は」と言えるのかもしれませんが、私たちは自分が周りとの関係で存在していると認識しているので、「個人的には」を使うべきだと考えてしまうのだと思います。

「私の言葉」を伝えても大丈夫だと思える場

自分の主張を控えめにして、人それぞれであることを強調する「個人的な意見ですが…」が、わかり合うための対話では、逆に使いづらい言葉になると思うのです。

なぜなら、謙虚な姿勢を見せることで逆にえらい人の意見じゃないから気にとめなくても良いという意味にも捉えることができたり、人それぞれと言うとそこで話が終わってしまったりするからです。

ただ自分の想いを話して、相手を見て、言葉を聞いて、本音を交換できる場所のある人が、今どれだけいるのでしょうか?

一時期、「それってあなたの感想ですよね」、「そういうデータあるんですか?」など、他者を言い負かす「論破」という言葉が注目を集めました。スピード勝負で主張し、相手の意見や主観を否定する姿勢をとり、根拠を提示して追い込む。

そんな会話や議論は、メディアで取り上げられ、言葉を交わし合うことがすべて勝ち負けとつながっているように感じさせる様子が、小学生から大人にまで流行しました。

大学生になって議論する時には、「〇〇の観点によると…」、「〇〇氏によれば…」など根拠になるものを示した上で、自分の考えを言うようになりました。

そしてミスが攻められる議論の時こそ、「個人的な意見ですが…」は、間違いかもという心配な部分に保険がかけられるので使いやすいのです。

「間違い」を恐れると、「わからない」を共有することはできません。なぜなら、「わからない」は「負け」すなわち”弱さ”の印の1つだと思われているからです。

勝ち負けという優劣の関係ではなくて、対等な立場で感情や考え、想いを対話して共有する。それは、自分のことや弱さをさらけ出すことなので、すごく怖くて難しいことだと思います。

完全にオリジナルではなくても、言葉が見つからなくても、分かり合えなくても、誰かと対話することで”私の言葉”がつくられるかもしれない。

私の話をしても大丈夫だと思える安心できる場を築けるかもしれない。

周りの誰かが本当の想いを話そうとしてくれた時は、ただ真剣に、共感できても、できなくても最後まで聞いていきたいと思うのです。

そして、たまには「個人的な意見ですが…」ではなくて、「私の意見は…」と、受け取ってくれる誰かがいるかもしれないと思いながら、”私の言葉”をつくっていきたいと思うのです。

なぜなら、”私の言葉”を言える・聞ける居場所があること自体が、私にとって幸せだと感じるからです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

こんにちは!いけかよです。

みなさん、日々ご機嫌に過ごしていますか?

かくいういけかよは、最近けっこうイラッとしています。やってらんねー、と思うことが増えています。

というのも、少し前に新しく受注したお仕事が(いけかよはフリーランスです)、思っていた以上に手がかかり、時間もかかり、結果的に相手とのコミュニケーションに違和感を抱き、やたらとエネルギーが奪われ、こんなフィーじゃやってらんねー(ゲボという状態に陥っているから。

いきなり暴言でごめんなさい!

今回の記事でグチり倒したいわけでは、もちろんありません。

この(ゲボ状態、いけかよは陥ってよかったと思っているんです。

今回は、そんな「お仕事における幸せ」をきっかけに、自分にとっての幸せの輪郭をまたひとつ発見した、というお話。

「嫌や」の気持ち、ありがとう

フリーランスにとって、いきなりお仕事がなくなることはよくあることです。でも、それがあるからこそ新しいことにチャレンジすることができるとも言えます。

しかし、働かなければ生活ができませんから、お仕事が減ったときには新たなお仕事をいろいろ掴みにいくわけですが、会社員のときも含め、20年も社会人をやっていますと「こういうのが自分の強み」「こういう仕事がやりたい」「こういうことはやりたくない」というある程度のものさしはできてくるわけです。

これまでなんどもなんども心身を病みながら仕事をしてきた賜物です。

よって、フリーランスになって「無理ですごめんなさい」と簡単には言いにくくなったことと、仕事内容も働き方も多様になったことで、より真剣に、細かく「自分が本当にやりたくて、かつ、無理しないで続けられる仕事ってどんなことだろう?」と、さまざまな条件からお仕事を吟味するようになりました。

そのへんの考察は、こちらの記事にまとめましたのでよろしければご一読ください。

水が合えば稼げる。働くためにわたしたちが投資する「資本」のマネジメント

そして、その結果ゲットしたこの新しい仕事、少し前に経済的にも心理的にも余裕がなくなってきた頃にやっと掴んだ案件でした。

もちろんほっとしましたし、最初はとても評価していただき、とてもありがたかったのですが、始めて2ヶ月も経った頃にはすでに冒頭のように「うざい、やめたい」となっていました(笑)。

なぜか?

「こういうのは嫌や」と思えたからです。

は?とお思いでしょうか。

もっと詳しく言うならば「『こういうのは嫌や』と思っている自分をはっきりと認めることができた」ということです。

自分のなかの「嫌だ」という感情をしっかりと感じ、認め、自覚したのです。

何言ってるかわからないとお思いでしょうか。

でも、いけかよにとってこれはけっこう大きな変化だなと感じています。

なぜなら、いけかよは元来わりと生真面目で我慢しがちで自己犠牲的な性格であったため、嫌だな、と感じることがあってもそれをねじ伏せて無理してがんばってしまう癖があったからなのです。

その仕事がしんどいとか、相手が苦手だなと思うこと、ネガティブ感情を認めてしまうことがいけかよはすごく怖かったんです。その「嫌だ」「うぜー」という気持ちがどんどん増幅していきそうで。

「『嫌だ』なんて思っちゃいけない」

「『こいつウゼー』なんて思っちゃいけない」

「『しんどい』なんて今だけ、気のせい」

こんな気持ちで心身に鞭打っていれば、そりゃ病むよね、というかんじでしょう?

なので、前述のように、なんどもなんども心身を病みながら仕事をすることになったわけです。

でも、わりとこんなふうに自分のなかのいわゆるネガティブ感情に蓋をする癖がついている人は多いんじゃないでしょうか。

こと、仕事やパートナーシップなど、自分の生活の根幹を成すものならなおさらです。

でも、実際は逆なんですね。

ちゃんとその感情をしっかり感じきってあげること、それこそが楽になることへの第一歩なのです。

ミケランジェロもロダンも言ってる

いけかよは、幸せって彫刻みたいなものかも知れない、と思うのです。

彫刻って、いきなり完成形がそこにあるのではなくて、1つの木片や石を削っていって、なんどもなんども削って、いろんな面から整形していく。そしてある時「やった!完成!」って思ってもそれは全体像の一部に過ぎず、また別の角度からみればまだまだ彫る余地はあって、そっちを彫ったら違う美しいラインが現れて…、という作業の繰り返しが、彫刻という芸術なのではと、想像します。

絵画と違うのは、彫刻はいらない部分を「削っていく」ものであること。絵画のように、絵の具を「塗り重ねる」ものではないのです。

これを人間に置き換えるなら、自分にとって不要なものを削っていくということですね。

そう、「嫌だな」という部分です。

人生において「嫌だな」と思うことを削っていくこと、これが幸せの第一歩なのだといけかよは思うのです。

そのためには、「嫌だな」という気持ちと事象をきっちり受け止めなければならない。彫刻家も、コンマ一秒の世界で不要だと判断した部分がわかったからこそ削っているはずなのですから。

かつてのいけかよは、これができなかったので、なかなか楽になれなかったんですね。

でも、いまは「嫌だ」を昔よりクリアにしっかり受け止めることができます。感じてはいけない感情なんてないのだと知ったからです。

そして、それをしっかり受け止めることで、「じゃあこいつを手放そう」と思うことができるようになったのです。

彫刻の巨匠たちは、異口同音に以下のような言葉を残しています。

どんな石の塊も内部に彫像を秘めている。それを発見するのが彫刻家の仕事だ。ミケランジェロ

芸術作品はすでに大理石の塊の中にある。
わたしはただ必要のないものを切り落とすだけなのです。
ロダン

これ、「石の塊」を「人間」に、「彫像」「芸術作品」を「幸せ」に言い換えてみるとどうでしょう?

そしてそれを完成させるのはほかでもない彫刻家=自分なんですよね。

生まれてきてからウン十年の間に、いろんなよけいなものを背負い込んでしまったわたしたちは、本来の美しい姿を石の塊のなかに埋め込まれてしまったとも言えるかもしれません。それは、欲とか不安とか世間体とか嫉妬とかの、「エゴ」と言われるもの。もし今、生きづらいとか幸せってなんなのかがわからなくなっている人はきっと、取り急ぎ「削る」作業が必要なのです。

そのためには、しっかりネガティブな気持ちを受けとめ、何が嫌なのかを見極めなければいけません。

削るべき箇所がわからなければ、どんな天才彫刻家も削ることができないからです。

「ウェルビーイング」は彫刻的幸せから考えるとしっくりくる

わたしたちは、いまの自分になにかをプラスすること=絵画的な、塗り重ねることでの幸せを求めがちだけど、それよりも先に必要なのって彫刻的な幸せ=いらないものを削ぎ落としたニュートラルな自分になること、だと思うのです。

絵画的な幸せは、資本主義と親和性が高いかもしれませんね。「もっとこれがあれば幸せになれるのに!」という欲望を刺激される渇望は、潤された瞬間に虚しいものになることが割とあるというのは、このコラムを読んでくださっているあなたであればすんなり腑に落ちてくださるはずです。

(絵画という芸術をディスって彫刻という芸術を賛美しているわけではないですよ、念のため!ここではあくまで比喩表現。いけかよはどっちも大好きです)

いっぽう、昨今叫ばれている「ウェルビーイング」は、彫刻的な幸せに近いと言えます。自分にとって大切なものはなにか?そしてそれのバランスは取れているか?ということがその理論の根幹だからです。

仕事、お金、パートナーシップ、健康、時間…。人間に必要なものはさまざまあれど、どれかが過剰に多くても少なくても人間は病みます。いみじくも、彫刻がきちんとバランスをとってつくられていなければ倒れてしまうことと同じですね。

でも、いまこの「ウェルビーイング」がなんだかよくわからないと思っている人が多い理由は、絵画的な幸せを求める価値観に染まりすぎているからなのかも、といけかよは思うのです。

それは、さまざまな人がいらっしゃることは大前提ですが、これだけ物質的に恵まれていて、今日明日に殺される恐怖もなく、かつ思い切り資本主義の日本では、「なにがあれば幸せになれるのか」という思考になるのも無理はありませんよね。

でも、そうじゃなくて、いまよけいなものを背負いすぎているわたしたちは、視点を変えて彫刻的な幸せを考えてもいいと思うのです。つまり「なにを捨てれば幸せになれるのか」です。

それは、イラッとする会社の上司との関係性かも知れないし、ファンデーションかもしれないし、まったくペイできてないサブスクかもしれないし、楽しくないのに断る言い訳が見つからなくて仕方なく参加する飲み会かもしれないし、義務感にかられてイヤイヤやっている家事かもしれない。

これらの「嫌だ」と思うことを削ることで、自分のより本質的な幸せを発見することができると思うのです。上塗りする絵画的な幸せはその後からでいい。

しかも、素敵なのはこの彫刻的な幸せも変わっていくこと。「見つけた!これが最高のフォルム!」と思っても、いつしかあれ?と違和感が芽生えて、またそこを削り直していくかも知れないのです。

人生において幸せというものが1つの側面だけではないのと同じで、彫刻もいろんな部位があってバランスを保たれて最高傑作になっていく。その途中は、腕はできた、でも足がまだ…、足できた!と思ったら、その足は頭とのバランスが違う気がする…、など、試行錯誤の繰り返し。

人間の幸せで例えたら、「完成!」っていうときはもしかしたらもうこの世にいないかもしれないのですが、どれだけバランスが悪かろうとも、完成から程遠くても、懸命に美しい形をつくろうと試行錯誤すること、それこそが「生きる」ということなんじゃないかと、いけかよは思うのです。

2024年は宿題をがんばる

というわけで、冒頭の話にもどると、いけかよは「うわー。嫌や」と思えたことで、削りたい部分がわかったんですよね。それがすなわち「自分の幸せの輪郭が少し見えた」ということなんです。

まだそのお仕事を完全に手放したわけではないのですが、「嫌や」という感情、そして何が嫌なのかを、しっかり自分と向き合って特定&言語化中です。

そういう意味でいうと、ネガティブな気持ちを与えてくれたこの案件には感謝です。それがわからなければ、自分にとっての幸せには近づけないのだから。

そして同時に、「嫌やな」と思う部分をどうすれば避けながらタスクをこなせるか、ということも考えていける。

つまり、日々、疲れはてていたりモヤモヤしたりイライラすることは実は幸せに近づくためのチャンスなのです。

しかしいかんせん、わたしたちはそういった感情を扱うことが苦手です。つい「臭いものに蓋」戦法や「あいつが悪い」戦法を使いがち。ときには「自分が悪い」戦法も…。

問題はさまざまなので、何が原因なのかはケースバイケース。でも、明らかなのはそのネガティブ感情があなたのなかから湧き出ているということ。

それに向き合うために、このメディアの運営母体であるエラマプロジェクトは日々お仕事をがんばっているあなたに、ご自身の感情と向き合うためのプログラムをご用意しています。

【2024年2月開講】フィンランド式ウェルビーイングコース〜働き方&休み方を描く〜

今年こそはもっと幸せに働きたい!と思われる方は、ぜひご参加くださいね。

お仕事だけでなく、家事や育児、その他のなんらかの「義務」を背負っている人にはヒントになるポイントがたくさんあるはずです。

2024年は、冒頭からおおきな宿題をわたしたち日本人は突きつけられたなぁと感じることがあります。

でも、これも彫刻的幸せ理論で考えることにしました。

「不幸は、自分ではどうしようもないことをどうにかしようとすることから始まる」という主旨のことを、なにかの本で読んだんですよね。ほんとうにその通りだと思うんです。

いろんな出来事に苦しくなったり怒ったり落ち込んだりしていませんか?

災害だけでなく、プライベートなことでも重みは同様です。

まずは、その感情をしっかり味わって受け止めましょう。

そしてその次に考えるべきは、その問題は、あなたがどうにかできることでしょうか?あなたがどうにかすべきでしょうか?

ここで「自分にはどうにもできない」と認めることは逃げではありません。

「自分にはどうにもできない」とわかったら、それは手放しましょう。

そのうえでしっかりと、何がつらいのか?何に怒っているのか?を見つめてください。そして、できればそれを自分から削ぎ落としていきましょう。

この「削ぎ落とす」ことは、わたしたちが自分自身でどうにかできることですよね。

それができてはじめて、あなたがほんとうにすべきこと=「自分の幸せ」を見つけることのスタート地点に立てるんです。

でも、できないなら無理にする必要もないと思うのです。完璧な美しさの彫刻を築き上げることではなく、それを目指すプロセスこそが美しいといけかよは思うから。

そして、ひとりひとりが余計なものを削ぎ落としながら自分の幸せを見つけていくこと、それこそが、わたしたちに課された「宿題」だと思うのです。

では、また!

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)

こんにちは!エラマライターのひらみんです。

「ストーリーとか知らなくていいから、とにかく今週の話をTVerで見て!!!」

ドラマ「きのう何食べた? season2」第5話を見た後に、友達にLINEで送ってしまいました。

誰かに伝えたくなるほどに心が揺さぶられた神回をご紹介したいと思います。

※ネタバレを含みます。

ドラマの概要

よしながふみの同名漫画を原作にしたドラマで、弁護士の史朗と、恋人で美容師の賢二の同棲中カップルの日常生活が描かれています。史朗は西島秀俊が、賢二は内野聖陽が演じています。





日常生活だからこそ、同棲あるあるや、カップルあるある、仕事あるある、家族あるあるなど、自分の生活の中でも起きるような、ささやかな出来事ばかりです。だけど、「こんな風に言ってもらいたい!」などと、ドラマと自分の生活を重ねることができて、ドラマを身近に感じられるポイントが多いと思います。

毎回2人がテーブルを囲んで一緒に「いただきます」をするんですが、そこも、きちんと料理や相手に向き合っている感じがして、2人がこの同棲生活を大切にしていることが伝わってきます。それに、毎回、史朗さんが作る料理がすっごいおいしそうなんですよね。2人が「これ、おいしー!」「うん、うまいな!」って言いながらにこにこ食べているのも、ほっこりする理由なのかもしれません。

神回の第5話あらすじ

今回の第5話は、史朗の元カレである伸彦が初めて出てくるのですが、それは及川光博です。彼の冷たそうな見た目とモラハラ気質っぽい演技がドはまりして、ナイスな配役でした。

ある日、洗濯機の排水ホースの不具合で水が溢れて、その処理をしていた史朗は、元カレ伸彦と一緒に暮らしていた時にも、同じことが起きた時のことを賢二に話すハメに…。

排水口が詰まって洗濯機周辺が水浸しになったのに、伸彦は何の手伝いもせずに「昼メシまだ?」とか言うだけで、不機嫌そうに外出しちゃうんです。どんな時でもそんな感じで、モラハラに近い伸彦だけど、タイプすぎるビジュアルを理由に史朗は許しちゃっていた、とのこと。

別のある日、史朗が仕事から帰ったら、夕食に親子丼を作ろうと思っていたのに、玉ねぎがなかったんです。賢二がお昼ご飯で食べちゃってて。

玉ねぎがないなら、唐揚げにすることを史朗が提案すると、「仕事から帰ってきて、今から唐揚げなんて大変だよ。使っちゃって本当にごめん。スーパー近いし、今から買ってくる!」と、史朗が止める暇もなく、賢二はさっそうと買いに行っちゃいました。

ひとり取り残された史朗は、伸彦と暮らしてた時にも、似たようなことが起きた時のことを思い出すんです。

伸彦が、自分のお昼ごはんのために唐揚げかなにかを作って食べていて、史朗が帰ってきたらキッチンは後片付けされていなくて汚れたままだし、しかも、鶏肉は、史朗が夕食のために解凍していたもの。それを伝えると、伸彦から「俺も食費を出してる食材を使うのに、お前の許可を取らないといけないの?」みたいな返事が返ってくるんです。

過去と今を行き来して、「そうか、俺今幸せなんだ……」と賢二の優しさを噛みしめた史朗の目に涙。

ドラマの最後、後日談として、史朗は新しい洗濯機のホースがあることに気づきます。史朗は頼んでもいないし、賢二も買ったことをわざわざ報告するわけでもなく。

人を想い合うってこういうこと

今回のシーズン2全体では「人を大切に想う」がテーマであるように感じました。

第5話では、クリスマスということで、いつもより豪華なメニューを一緒に作っているんですが、健康のことを考えながらも賢二にとって思い出の大切なメニュー、明太子ディップを用意してます。

他の話でも買い物の時に「賢二が好きだからな!」という理由でちょっと高いけどナスを買ったり、史朗の遺産を賢二に残そうとしたり、史朗は、直接賢二に「好きだ」とか言わないんですけど、いろんな場面で賢二への愛がかいま見えます。

実は、玉ねぎのエピソードは、第8話にも再び登場します。賢二が史朗に「俺のこと思い出すとしたら、何を思い出す?」と聞くと、史朗は「玉ねぎ」って言うんです。賢二は、玉ねぎ?なんのこと?って感じなんですけど、史朗は心の中で「玉ねぎを買いに行ってくれたことだよ」と優しくつぶやくんです。

賢二を見つめながら、玉ねぎを買ってきてくれた日のことを思い出す史朗にまた泣けますよ。

それぐらい大切なエピソードが第5話です。

この記事を最後まで読んじゃった方は、とにかく第5話をアマゾンプライムで見て!!!

やさしさを上手に送って、受け取りたい

お節介とやさしさの線引きは難しいです。

どちらも「相手のために」という気持ちからきているのですが、軸がどちらにあるのか、というのが線引きのポイントになるようです。

相手が求めてないことだったら、お節介や余計なお世話になるし、相手が本当に求めていることだったら、やさしさや思いやりになるんだそう。

玉ねぎのエピソードでは、史朗が期待していなかった「玉ねぎを買いに行く」という賢二の行動は、今の史朗と、過去の史朗の両方を救ったんだと思います。

洗濯機のホースも、次に起きた時に使えるように、という気持ちから賢二が自発的に買ったものです。

賢二のやさしさを、史朗がうまく受け取れたから、史朗は救われたようにも思えて、人から受けたやさしさや愛を受け取ることも大切だなと思います。

ここらへん、賢二はとても上手で、不器用な史朗の愛をきちんと受け取っています。見習いたい!

実は私は最近、父から「忙しいだろうからご飯を作りに来なくていいよ」と言われるんです。というのも、母が、筋肉が弱まっていく病気だということがわかって、元気なんですけど、家事ができなくなったので、今は父がフルタイムで働きながら家事をやっています。

そういうこともあって、1週間に1回、母の様子見を兼ねて、実家に行ってました。ご飯に一番困っていそうだったし、自分ひとりのためなら作らないようなおかずを作ったりするもの楽しんでいたんです。

煮込みハンバーグとか、母が作ってくれていた名前のない料理を母に味見してもらって、「砂糖が足りない」とか言われながら作ったりしてました。実家から電車と徒歩で40分ぐらいのところに住んでいるので、そんなに負担でもないですしね。

それでも、父に「来なくていい」と言われてしまいました。これは「娘に負担をかけたくない」という父なりのやさしさなのでしょうか。それとも余計なお世話なのでしょうか。

私は、「父の家事の負担を減らしたい」と思ってやっています。親と過ごせる時間も限られてきているので、そういう時間も楽しんでいたのですが、おしつけがましいと思われているんでしょうか。遠回しに「来ないで」と言われているのか、時々わからなくなります。

父のやさしさと思って、言葉通りに受け取っていいのか、悩ましいところです。でも少し回数を減らしました。

人生はドラマと違ってうまくいきませんね。

やさしさを送ったり、受け取ったり、深読みしちゃたり、悩みながら私の人生は続きます!

Text by ひらみん(ふつうの会社員)

こんにちは、丹波フィンランド大使pieniです。

最近とても嬉しいことがあるんです。

家の近くに北欧食器を使ったメニューが楽しめるシネマカフェがあるのですが、そこでは北欧映画をたくさん上映してくれるんです。

アイスランドの映画「主婦の学校」、フィンランド映画の「魂のまなざし」、「AALTO」、「ガールピクチャー」、「マイヤ・イソラ 旅から生まれるデザイン」など。

数年前に上映された作品もありますが、地方ではなかなか見れなかった作品や、丹波フィンランド大使と名のるほど北欧やフィンランドが好きな私にとっては、とっても幸せなことなのです。

さて、私は映画を見るとしばらくその余韻に浸ったり、作品を自分の生き方と照らし合わせて深く考えることがあります。

今回は、マリメッコの伝説的デザイナーマイヤ・イソラの創作の源について描いた作品「マイヤ・イソラ 旅から生まれるデザイン」を見たときに「わたし自身の活動や取り組みの原動力ってなんだろう?」という問いが生まれたので、そこを見つめることにしました。

マイヤ・イソラの創作の源とは?

日本でも人気がある、フィンランドを代表するデザインブランド「マリメッコ」。

そのマリメッコの代表的なデザインである、ケシの花をモチーフとした「Unikko(ウニッコ)」をはじめ、数々のデザインを手がけた伝説的デザイナーが「マイヤ・イソラ」です。

マイヤはマリメッコの成長とともにデザイナーとしての才能を開花させ、活動期間の38年間でなんと500以上のデザインをマリメッコに提供しています。

大胆でカラフルなデザインは時を超えてもなお、暮らしを彩り愛され続けています。

そんなマイヤの創作の源はいったい何だったのか。

マイヤの娘クリスティーナや家族に送った手紙と本人の日記、クリスティーナへのインタビュー、当時の様子が分かるアーカイブ映像や写真をもとに、数々の作品が生まれた背景や、マイヤの創作の源に迫るアート・ドキュメンタリー映画です。

映画は、マイヤ・イソラの生い立ちから始まります。

13歳で一人暮らしを始め、厳しい戦時下(第二次世界大戦)を生き抜き、19歳の時に若くして結婚し、出産。しかしその後離婚。

そして娘を自分の母親に預けてヘルシンキの芸術大学に進学します。

初めての海外旅行先であるノルウェーで見た壺をデザインした作品を、大学のコンテストに出したことがきっかけで、マリメッコの創業者である「アルミ・ラティア」と出会います。そこからマイヤのデザイナーとしての人生が始まりました。

マイヤは創作のために、フィンランド国内にとどまらず、ヨーロッパの国々をはじめ世界中を旅します。

そこでの出会いや見たもの、感じたことを自分の中に落とし込み、エネルギーに変えて創作を続けていました。

旅先から、離れて暮らす娘のクリスティーナにあてた手紙や、日記に書かれた内容から、マイヤは何にも縛られることのない「自由」を愛し、それを実行することで生まれる「情熱」を作品へと昇華していたのだなと感じました。

「Unikko(ウニッコ)」が誕生した話は有名なのでご存じの方も多いかと思いますが、この作品もマイヤの自由を表現する情熱から始まっています。

1964年、マリメッコの創業者アルミは、花はそのままが一番美しいので、ファブリックのモチーフにすることは許可していませんでした。

しかしマイヤは花のデザイン(花シリーズ)を描きアルミに見せます。

そのデザイン達はアルミの心を動かし、中でも「Unikko(ウニッコ)」はマリメッコの代表的なデザインになりました。

ここにはマイヤの自由な創作や、決められた中にはとどまらない!というパッションを感じます。

Unikko(ウニッコ)のテキスタイル。この映画を見てマイヤの生きざまが見えるデザインが好きになりました。

「愛」から生まれるエネルギーもマイヤの源

マイヤは3回の結婚と離婚を経験しています。作品の中でも恋に悩んでいる手紙を娘に送っているのですが、私も娘を持つ親として「え!それを娘に言っちゃう?娘の心は大丈夫なの?」と勝手に心配になるほど恋多き人生でした。

しかし、その恋愛によって作風が変化するほど、相手への情熱や、怒り・孤独といった感情の起伏さえも彼女の創作の原動力になっていると強く感じました。

作中ではあまり語られてはいないのですが、恋愛とは違う、家族への「愛」も彼女の原動力になっていたのではないでしょうか。

それは世界中を旅するマイヤなので、どうしても娘のクリスティーナとは離れて暮らすことになります。

クリスティーナが子どものころ寂しかったり、マイヤへどんな気持ちを持っていたかは作中には描かれていませんが、大人になったときに母と同じマリメッコのデザイナーになっていることから、マイヤのデザインにかける情熱に共感したり、理解していた部分が多くあったのではないでしょうか。

それは、旅先から送られた数々の手紙の内容からも分かります。

一見、娘をほっておいて自由すぎると感じてしまうようなマイヤの手紙ですが、自身が感じることそのままをクリスティーナへ送り続け、見た世界を手紙を通じて共有することに、娘への深い愛があったように感じます。

クリスティーナの夏休みの課題だった植物採集を手伝う中でも「自然シリーズ」というデザインが生まれているのですが、娘への愛をずっと持ち続けることも、創作の源になっていたのだと思います。

マイヤのデザイン。時を超えても愛されている。

わたしの原動力はどこにある?

マイヤの原動力は、旅をしてそこで感じた物事を自分の中で自由に表現する喜びや、恋愛や家族への愛情から生まれる情熱だったと感じました。

この映画を見て、それぞれ人にはなにかしら人生を動かす原動力があるのだと強く感じたとき、マイヤのように大きな何かを成し遂げようとしているわけではありませんが、自分自身の原動力っていったい何なのだろう?ということを考えるようになりました。

例えば私の場合、フィンランドが好きで、フィンランドの雑貨やお菓子を販売していたり、イベントを開催したりしています。これの原動力は?と考えたとき「共有して一緒に喜んでもらいたい」この想いが私を動かしている事に気が付きました。

自分が好きだと思ったり、いいと思ったものや事柄に対し、ワクワクしたり、ときめいた気持ちをそのまま表現したい。そしてそれに共感してもらい、一緒に楽しんだり、心の中が彩られたり、幸せな気持ちになってほしい。よもや「人生変わったわ!」ぐらいまで感じてもらえるようなことがあれば最高に幸せです。

ある意味究極のエゴのような気もしますが…。でも私はそれを望んでいるから動いているのだと思います。

フィンランドに関わる活動だけでなく、書く仕事も同じ気持ちで、記事を通じて追体験してもらい、そこから各々の心の中を楽しんでもらいたいんです。

「自分の好きを表現して、追体験や共感をしてもらって、一緒に楽しみ幸せになる」

私を突き動かすこの想いを大切に生きていきたいです。

マイヤ・イソラを描いた映画を通じ、彼女の創作の源に触れることで、自分自身の原動力に気が付きました。とっても嬉しい心のギフトをもらったような気分です。

今回、映画から感じた気持ちを見つめてみて「私たちがそれぞれの人生の中で今やっていることには何かしら意味があり、それをするための源がある」と強く感じました。

生きていると嫌なことや困ったこと、放棄してしまいたいと思うことも出てくるのですが、その時に自身の原動力を思い出すと、しぼんだ心が復活したり、または新たな道へと自分の足で進むきっかけになると信じています。

それではここで、最後に問いかけてみます。

「あなたの原動力は何ですか?」

いちど振り返って考えてみてもらえると嬉しいです。

おまけ:Elämäな時間をあなたに!

映画「マイヤ・イソラ 旅から生まれるデザイン」に関する書籍があります。

映画のパンフレットとして刊行された本なのですが、マイヤを愛するデザイナーやイラストレーター、エッセイスト、哲学家たちのコラムやメッセージからマイヤの世界観や、創作の原動力について知ることができます。

ちなみに初版特典付きを購入すると、「マイヤ・イソラ 旅から生まれるデザイン」をオンライン視聴することもできますよ。

ちょっと立ち止まって自分のことを見つめてみるElämä(エラマ)タイムを一緒に過ごす本としてpieniからのおすすめいたします。

マイヤ・イソラと旅する手帖

Text by  pieni(ピエニ)(丹波フィンランド大使)

こんにちは。エラマプロジェクト代表、フィンランド生涯教育研究家・石原侑美です。

今日は冬至ですね。ご存知のように北半球では1年でいちばん昼が短く、夜が長くなる日です。

今年も調査研究のため、8月初旬から10月初旬の約2ヶ月間フィンランドに滞在しました。

冬になる前の時期でしたが、フィンランド北部の街に滞在したときは日の短さに気分が落ち込みぎみになりました。そんな経験も踏まえ、今回はフィンランドの暗くて長い冬をテーマにお話ししていきますね。

冬の準備は夏から始まっている!

日本では日焼けや紫外線を気にする方が多いと思いますが、フィンランドをはじめヨーロッパ全体では夏に上半身裸で外に出て日光浴をしている人が多いイメージはありませんか?

冬が近づくにつれ太陽の出ている時間がどんどん短くなるので、日差しを浴びられるときに浴びておこうという感覚なんですよね。ただただ肌を焼いているのではなく、冬の準備でもあるのです。

太陽の光を浴びるとセロトニンという物質が作られ体内時計が調整されますが、フィンランドの冬は日照時間が少なくなるためこのセロトニンが不足します。

そこでライトセラピーなど光を意識的に浴びてうつを抑制することを心がけている人が多いです。

また、マリメッコなどのフィンランドのテキスタイルは柄が大きいのが特徴ですが、家の中でも気分を明るくするためでもあります。

セロトニンの分泌を促進するビタミンDは食べ物からだけでは不足するため、サプリメントの摂取をフィンランド政府が推奨しています。

気晴らしできるものが少ないフィンランドでは、以前はお酒に逃げる人が多く、アルコール中毒者が増えたり、うつ病患者が増えて自殺率が高くなったりというのを繰り返してきました。そういった状況を避けたい考えが国をあげてのサプリメント推奨につながっているのです。

日本はフィンランドに比べると日照時間が長いので気づきにくいですが、もし鬱々とした感情を抱えている場合は、光が足りない可能性がじゅうぶんに考えられます。

昼の12時ですでに夕暮れ。北極圏の街・イバロでの経験

9月下旬にイバロという街を訪れました。地図を見ていただくと分かるようにフィンランドの北部で、北極圏の中に位置します。

イバロは冬至の前後1ヶ月はまったく日が昇りません。南にあるヘルシンキの冬至の日の日照時間は6時間弱ですがイバロまで行くと0分です。

9月下旬のイバロがどうだったかというと、お昼の12時からもう夕方のようなんです。冬の暗さにはまだまだという時期でも、毎日ほとんどの時間帯が夕方と夜という時間を過ごしていると些細なことですごく落ち込むことが多かったです。わたしだけかなと思っていたらパートナーも同じような状態でした。

日本で生活していると少し気分が落ちてしまったときには美味しいものを食べて気分転換をしたり、気晴らしにお気に入りのカフェに行ってみたりという方法もあるかと思いますが、イバロではそれができる環境ではありませんでした。

例えば日本で安く買える野菜もフィンランドでは600円〜800円(2023年9月時点)くらいするのでその点でも手軽に何かできるというわけではありません。

また、もちろんスマホを持っているので動画など見られますが、見ても全然気が晴れないのです。

イバロでの日々はじわじわとくるつらさを感じました。気分が晴れないと前向きに行動できないですし、そもそも体も動かしづらくなる感覚もありました。

季節性うつ病は、気分がその日の天気(光の時間と量)に左右されるものだそうです。そこで15時くらいに仕事を終わらせて、小高い丘にあるトレイルコースを歩いて気分を落ち着かせるという生活に切り替えてみることにしました。

フィンランドには日本のように高い山がありません。そこで、登山ほどキツくもないけど、散歩ほどラクでもないという、程よく体を使えるトレイルコースを歩きました。

大自然のエネルギーを全身で受けながら歩くと、多少気分が晴れるような気が。でも、太陽は夕方くらいの低さで、天気もスカッと晴れる日が少ない。ちょっとでも体を動かしていないと、狂ってしまいそうな気分でした。

この習慣を取り入れなければ、季節性うつの症状はもっとひどくなっていたのではないかと思います。

結果的に、イバロでの生活は予想以上に堪えたというのが正直な感想です。

逆に日本の恵まれている環境を実感することにもなりました。

フィンランド版大和魂「SISU」と幸福度の高さ

フィンランドには「SISU」という言葉があります。単純には訳せないフィンランド語のひとつではありますが、かなり分かりやすく表現すると「根性、忍耐」になります。

このSISUに関してはエラマライターズが記事を何本か書いていますのでよければそちらもご覧ください。

フィンランド魂「SISU」を理解して取り入れようー「フィンランドの幸せメソッドSISU」を読んで

自分にも他人にもやさしく。「EVERYDAY SISU フィンランドの幸せ習慣」 レビュー

フィンランドの「大和魂」を見た!映画「SISU/シス 不死身の男」が教えてくれる

フィンランドの人は暗くて長い冬を、時が過ぎるのを待つしかない状況を毎年体験していることで、つらいことがあっても一旦受け止める、自分の中で答えが出るまで待つといった習慣があるのではないかという気がしていました。

富裕層であればその時期イタリアやスペインなどの南ヨーロッパに行く人も多いのですが、それができる人ばかりではありません。

家の中でも楽しめるようなことを考え、ボードゲームが流行ったりテレビゲームが流行ったりします。また、黙々と編み物をしたり美味しいコーヒーを入れたりと、自分ができることをして淡々とステイホームするのです。

耐えて乗り越えるという経験を常にしていると言えます。

そういう生活をしていると小さなことで幸せを感じます。フィンランドの人々が素晴らしいからというのはもちろんゼロではないですが、やはり環境からの影響は大きいでしょう。

気晴らしするものが本当に少ないので、晴れていること、あるいはキノコが生えているといったことなど、ちょっとした変化に気づいたときに幸せを感じやすいのだと思います。

禅的な感覚を潜在的に持っているのではという話もフィンランドの友人たちとよくします。

家に帰ったらご飯を支度して読書してコーヒーを飲んで、という淡々としているかもしれない生活も、フィンランドの人にとってみれば普通の暮らしなんです。

日本では、シンプルな生活に飽きる人は一定数はいるのではと思います。そうなると旅行に行こうとか引っ越そうとかを考えがちですが、フィンランドの人はそれがかなり少ないのです。

日本では新年度は桜の季節で明るい印象があります。しかしフィンランドの学校の新年度は、秋口になり晴れる日が少なくなってくる8月下旬なので、曇天を見ると新しい学期が始まる季節が来たなと感じるのだそうです。

そういった話からもフィンランドは暗さと密接な国なんだと感じます。

「SISUツアー」開催します!

SISUにはもうひとつ「勇気を持つ」という意味があるのではと思っています。

それは大きなことでなくても「ちょっとしたことだけど自分にとっては大きな意味をもつ勇気」ということです。

2023年8月にひさびさのフィンランドツアーを開催しました。そのときの経験や帰国後に子どもも大人も小さな一歩を踏み出したり変化を感じたりした話を参加者からうかがい、新たなツアー企画を考えました。

時期は2025年の3月なのでかなり先ですが、SISUを体験するツアーが開催されることを頭の片隅に置いておいていただけるとうれしいです。

詳細が決まりましたらHPや各種SNSでもお知らせしますのでぜひフォローしてくださいね。
今後のエラマプロジェクトにもどうぞご期待ください!

By 石原侑美(エラマプロジェクト代表)
Interview & Text by nakagawa momo(フリーライター)

こんにちは、どさんこ大学生RUNAです!

もう今年が終わってしまいます…悲しいです。

今回は、私が今年感じていた不安や、ずっと心に留めていた言葉についてお話ししたいと思います。

2023年が終わってしまう前に、一緒に今年考えていたことを整理してみませんか?

不穏な空気が当たり前に存在する怖さ

私は、予測できなかったり、ありえないと思っていたりすることが次々と起こる状態にいつしか慣れている自分を怖く感じていました。

また地震、また災害、また異常な暑さ、また警報音、また事件、また異常な出来事…それらがテレビ、SNS、ネットから流れてくる。

何かが起きたと思うと、すぐにまた次の何かが起きる。

知らず知らずのうちに、衝撃を受けたことを忘れて、次の何かの情報を知る。

今年起きた国内・海外のニュースを調べると…つい半年前のことがだいぶ前のように思えてしまいます。

異常な出来事を、毎回直視して受け止めていくほど心は丈夫に作られていないので、いつも通りの出来事として消費できるようになってきているのかもしれません。

一方、テレビでは遠くの国で活躍している選手の情報が繰り返し流されたり、「昔はいい時代だった」など昔と今を比較したり、海外の人が褒める日本の良いところを特集したり…。

それらの番組は、一時的にみんながポジティブな気持ちになれるものとして作られているようにも思えてしまいます。

異常、怒り、楽しさ、悲しさ、羨ましさ…。ネット時代において、反応が伴うものは何もかもコンテンツとなって大量に消費されていっているように感じます。

消費されていった先に何か生まれるものがあるかもしれません。しかし、それ以上に消費されては忘れられ、また新たに関心が生まれては消費され、の繰り返しを私は不思議に思えてしまうのです。

自分ごととして捉えて向き合い、自分の考えを持っておきたい議論や問題があるのに…。

生産性や効率性、コスパやタイパが求められている今の社会において、1つ1つ立ち止まって問題や議論に向き合う時間はムダかのように、どんどん新しい事実、ニュースが登場します。

そして、それらを取り入れないと、周りの話題や社会の状況に追いつかないこともあるかと思います。

それほど、多くの関心が四方八方に生まれているのは、逆に無関心が中心にあるからのように思うのです。

自分のことで精一杯で余裕もできないからこそ、重大な出来事に当事者意識が持てず、逆に色んな情報をざっと目を通して終わらせることができるのかもしれません。

しかし、今世界では直視できないほど残虐な行為が行われている場所があります。

急に始まって、急に自分を取り巻く世界が一変する。

そんなことが起こってしまう。

明日私たちの世界も変わってしまうかもしれない。それはありえないことではない。

そんな世の中に誰もが生きているように感じています。

ありえないことが、ごく普通に存在しているかもしれない。

それがかえって怖いことだと感じるのです。

文化や芸術の中に“よりどころ”を探す

いきなりですが今年を思い返すと、いつもは出かけない元日に喫茶店に寄る機会がありました。

その時、「誰もが孤独の時代、人間性失わないで」という印象的な見出しが目に入ったのです。

それは、2015年にノーベル文学賞を受賞し、代表作の「戦争は女の顔をしていない」などで知られているベラルーシの作家、スベトラーナ・アレクシエービッチさんの言葉でした。

新聞を広げて読み進めると、今年ずっと頭の片隅に残って忘れられない2つの文章に出会えました。

「私たちが生きているのは孤独の時代と言えるでしょう。私たちの誰もが、とても孤独です。文化や芸術の中に、人間性を失わないための、よりどころを探さなくてはなりません。

「近しい人を亡くした人、絶望の淵に立っている人のよりどころとなるのは、まさに日常そのものだけなのです。例えば、孫の頭をなでること。朝のコーヒー一杯でもよいでしょう。そんな、何か人間らしいことによって、人は救われるのです。」

あってはならないことである戦争や、人権も尊厳も認められない環境では、“人間らしく”生きようとすればするほど厳しい状況に陥ってしまうのかもしれない。戦争を描いた映画や本で感じたことです。

アレクシエービッチさんは、「人間の文化的な部分が失われてしまう」ことを「獣に変貌する」と表現していました。

そして、作家とは何かに関して「人の中にできるだけ人の部分があるようにするため」に働いていると話していました。

文化や芸術の中に”よりどころ”を探すとは、どういうことなのでしょうか?

よりどころとは、頼みとするところ。支えてくれるもの。根拠。

ここでは、心のよりどころとして、心を支えてくれるものという意味で使われていると、私は捉えました。

今、人の“よりどころ”になっているのは目に見えるわかりやすいモノである気がします。

モノ、お金、承認欲求を満たすモノは、見えるわかりやすいモノだと思います。色んなモノが溢れているからこそ、孤独に陥っても楽しみ方を自分で探して選べる豊かな時代になっているのかもしれません。

モノ、お金、承認欲求を満たすモノも文化であり、芸術かもしれません。しかし私が思い描く芸術は、誰もが専門的に良い悪いと判断できるわかりやすいものではないと思うのです。

今年、初めて舞台を見ました。とても難解な作品で、最後にわかりやすい結末はなく、観客にストーリーを委ねる終わり方だったのです。

モノも人も命ある儚いものですが、それらは次々に新しくなって更新されていきます。

「劣化」という言葉が人にも使われ、推しが劣化したら新しい推しを見つける人がいます。携帯やパソコンも車もどんどん新しいバージョンにすぐ変えていく人がいます。

ですが、文化も芸術も、頭の中や心の中にあり続ける限りなくならないものだと思うのです。

映画『ラーゲリより愛を込めて』を見たときに、とても印象に残ったセリフがありました。

「書いたことは記憶に残っているだろう。記憶に残っていればそれで良いんだ。頭の中で考えたことは誰にも奪えないからね」

頭の中で考えていることは、誰にも奪えない。

私は、ドラマや映画が好きで、お気に入りの作品を何度も見て、セリフをメモしたりもします。そこで出会えた元気になる言葉、励ましてくれる言葉たちは、確かにずっと頭に残っています。

憎しみという狂気によって自分の中から獣が生まれないために、人の部分をなくさないために、文化や芸術の中に“よりどころ”を見つけることは、現代を生きる上で大切なことな気がします。

「人間らしさ」という想像力が”日常そのもの”の光となる

コロナ禍では非日常を経験し、それから日常が戻ってきたと思ったら、新しい日常と称される生活様式が生まれていました。

音楽やアートといった芸術は、日常が平和でなければ生まれず、触れられないものだと思います。

今、お気に入りの音楽を歌えるなら、思いもよらないことが起こったときにその歌が心のよりどころになるかもしれません。

今、好きな物語を覚えているなら、その物語がいつか心のよりどころになるかもしれません。

ネット社会になったことで、誰とでもどこにいても繋がれるようになった「ケイタイ」という世界が手の中にあります。それでも、この世界から孤独を消すことはできていません。

誰もが孤独を抱えているかもしれない。

Aさんにとって日常的なことでも、それはBさんにとっては一生忘れられない出来事かもしれない。

 Cさんから見るとボロボロで捨ててよいものだったとしても、Dさんにとっては思い出と記憶が詰まった宝物かもしれない。

Eさんはなんてことない言葉だと思って使ったとしても、受け取ったFさんにとっては心が傷だらけになる言葉かもしれない。

目の前にいる相手は、全く違うことを考え、違う価値観を持つ人だと知っているはずなのに、自分の価値観を当然のように振りかざしていないだろうか。少しでも間違っていると思うところを見つけたら、そこをめがけて攻撃していないだろうか。

そう自分に問いながらでも、対話を諦めず、1つではない色々な形のつながりを探したり、つくったりすることが大切なのかもしれません。

ただわかりあう。

それがどれほど難しく、わかり合ってくれた相手を大切に感じるか。

「違う」と拒絶されることに怯える人のそばで、ただ1人でも分かり合ってくれる、受け止めてくれる誰かがいる。その存在だけで人は救われるかもしれないと感じるのです。

ですが、それが人だけとは限りません。気持ちを代弁してくれたと感じる小説や映画、音楽、アートを“よりどころ”にすることができると思うのです。

また、文化や芸術から、誰かの“わかってほしいこと”を知ることもできます。

自分だけの考えや価値観でカチカチに固まって、他を感じれなくなったり、受け止められなくなったりしないためにも、日頃から文化や芸術に触れることは大切だと感じます。

私は、好きなアーティストさんのライブに行くと、自分を肯定してもらえる感覚になります。

その音楽に、「ここにいても大丈夫」「存在していい」と言われている気がするのです。あたたかいライブ空間に広がる音楽や言葉を浴びると、自分なりの希望を持つことができます。

好きな脚本家さんのドラマを見ていると、その人のメッセージや考えを知ることができます。自分にとって新しい価値観が加わることがあれば、わかるわかると大きく頷きながら見ることもあります。

なぜかずっと嫌な気持ちが抜けない時に、このままだと嫌いな自分に引きずりこまれそうだと思う時に、好きなドラマを見ます。

このドラマのここが好きだったんだ。このメッセージを大切に思っていたんだ。そう噛み締めると、もとの自分が戻ってきそうな気がするのです。

文化や芸術には、見えないメッセージで溢れているかもしれない。

そこには誰かの思い・感情・伝えたいことがあるかもしれない。

ただ通り過ぎようとしているけれど、少しでも立ち止まったら案外自分と共通した思いのこもった想いかもしれない。

見えるモノだけで決めつけてはいけない

誰もが孤独を抱えるこの時代に、その想像力があるだけで人と人が向き合って対話できる機会が生まれたり…誰かの伝えたいメッセージを受け取ることができたり…

その人なりのつながりをもてたり…救われる誰かがいるかもしれない。

文化や芸術が与えてくれる、人間らしさに含まれる想像力が、私たちの日常そのものを豊かにしてくれる光だと信じたいのです。

今の時代だからこそ、あなたにとっての”よりどころ”を考えてみませんか?

今年も、記事を読んでいただきありがとうございました。

来年も、みなさんに出会えるよう進んでいけたらと思います!

Text by どさんこ大学生RUNA

こんにちは!いけかよです。

あなたは断捨離をしたことがありますか?

「断捨離」という言葉も概念もすっかり浸透しましたよね。それに紐づいて片付けの重要性とかミニマリズムとか、ひいては断捨離が運気を左右するなんていうこともよく聞かれるようになりました。

いけかよも「なんか最近、流れが悪いな」とか「思うようにことが進まないな」と感じるとき、その状況を打破する1手として断捨離をすることがあります。

断捨離するのは服とか靴とかカバンとかが多いですが、他にも本とか過去の仕事の書類とか、そういったものを処分することも多いです。

やっぱりモノが減るとそのぶん気持ちいいですよね。必要なものだけに囲まれてすっきりした部屋に暮らすのは心地よいものです。

そして「古いものを手放せば新しいものが入ってくる」というのもよく言われる話。古いワードローブを処分すれば、そのぶんクローゼットには新しいものが入りますから。

しかし、いけかよは、自分や自分の人生をもっと良くしていきたい!と感じるとき、服やカバンのように簡単には捨てられないけれども、捨てると強烈に日々が変わるなと感じるものを2つ発見しました。今回は、そのお話。

「お金」と「自信」

1つめは「お金」。

もちろん、進んでお金を捨てるようなことなんてしませんから、お金を「なくす」というのが正しい表現です。

いけかよは、過去に自分自身が大きくジャンプアップしたなと感じた時は、だいたいいつも「お金ない!どうしよう!」となっていることが多いと気づいたのです。

ほんとうに情けない話ですけど、頑張って稼いだお金を、いろんなことにぱーっと使っちゃって、お金がたくさん減った後に予期せぬことが起きて生活がグラつく、ということがよくあるのです。これは会社員のときももちろんそうでしたし、フリーランスになって会社員のときよりも多少ゆとりのある生活ができるようになった今でも、同じです。

わかりやすいのは、仕事を辞めざるを得ない状況になったり、急に契約終了することになったり、クライアント都合でフィーを減らされたりといったようなこと。もちろん焦りますし真剣に悩みます。生活もかかっていますから、否が応でも必死のパッチです。

そうすると、次になくなってくるのが「自信」です。これが2つめの要素です。

会社を辞めたり、契約していたお仕事が終了したりといったことはありふれたことです。特にフリーランスなんていう不安定な働き方であれば当然です。なので、次また新しい仕事を探せばいいや、と気楽に考えていますし、それこそ古い仕事を手放すことで新たな、もっと素敵な仕事に巡り合うというのは会社員時代から繰り返してきたことだったので、いけかよはわりと仕事を手放すことについては慣れていると思っていました。

しかし、なかなか新しいお仕事が見つからないときもありますし、商談をしても契約に至らないといったことも起こります。

すると、やはり自信がなくなってくるのです。

「いままでわたしがやってきたことってなんやったんやろう」

「いままでわたしがやってきたことには大した意味なんかなかったんやろうか」

「いままで●年間この仕事してきて、わたしは果たして成長できてるんやろうか」

こんなふうに、どんどん自分自身がブレて、心が折れそうになります。

こうして、お金と自信とは、連動しやすい要素だともいえます。

そして、執着しやすいものだとも。

これまでの自分を取り壊す

いずれも、断捨離するにはかなり抵抗があるものですし、みずから投げ捨てるようなものでもありません。

なので、いけかよも過去に好き好んでお金や自信をなくしたわけではありません。でも、振り返って考えると「そうならざるを得ない」ような経験がたくさんあるのです。そして、お金も自信もないという、いわば満身創痍な状態でお尻に火がついてもがいた後に、いつもまるでギフトかのように新たなステージが用意される、というパターンを何度も経験しているのです。

それはなぜか?考えてみたのですが、お金と自信というのはいわば「過去の自分」が作ってきたものの象徴ですよね。

お金も自信も、お仕事やその他のさまざまな経験を通じて得ていくもの。そうやって得られたお金と自信は、言い換えればそのまんま「これまでの自分」だと言えると思うのです。

そして、なにか流れが悪いなぁとか、人生変えたいなぁと思っているモヤモヤ期って、きっと「新しい自分」になりたいと思っているとも言えると思うんです。

新しい「これからの自分」が、これから稼ぐお金や培う自信は「これまでの自分」が得てきたそれらをなくさなければ積み重ねられないのかもしれないと思ったのです。

いわば、古い建物はいったんすべてとりこわして更地にしなければ新たなビルは建てられないようなイメージです。

良い子は真似をしないでください

今回お話したことは、いけかよだけの話かもしれませんので、くれぐれもみずから積極的にお金や自信を投げ捨てるようなことはしないでくださいね。

お金も自信も、自分を安心させてくれるものです。ですから、わたしたちはそれらに執着します。

でも、わたしに限って言えば、中途半端にお金や自信があるときって必死さがないので、やっぱりそれなりの努力しかしないし守りに入ってしまう。すると結果的に得られるものもインパクトが小さい気がしています。

なので、やはりわたしが人生を変えたいときって、お金と自信の断捨離が必要なのかもしれないと思ったのです。

もっと余裕をもって、安心して、安定した日々を過ごしたいと思う反面、そもそもフリーランスという不安定な働き方を選び、同じことの繰り返しが苦手で飽きっぽいわたしには「安定」こそが「不安定」なのかもしれないのです。

もちろん、渦中にいるときはしんどいですし必死です。「なんでこんなことになっちゃったんやろう」と落ち込むこともありますし、情けなくて不安で泣くこともあります。

でも、お金も自信もなくすということはすなわち「これまでの私」に別れを告げ、「これからの私」を招き入れることにほかならないと、いけかよは自分の人生での経験をもって腹落ちしているのです。

めちゃめちゃきついですけど、いまのいけかよにはこれが「人生を変える特効薬」なのかもしれません。荒療治ですけど…。

いつか穏やかにゴールデンレトリバーと戯れながら、LAの海沿いの家で優雅に昼ビールを飲みつつ「次はなにしよっかな〜」と遊びのプランでも立てるかのようにビジネスアイデアを妄想していたい…と、妄想しているのですが、そのためにはあと何回この荒療治が必要なのでしょう…(遠い目)。

そんなこれからのわたしに期待しつつ、いけかよのもがきはまだまだ続くのです。

では、また!

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)


エラマプロジェクトでは、Webメディア「よむエラマ」を運営しています。創設して3年。毎週水曜に更新し、たくさんの記事をアップしてきました。

よむエラマには、総勢7名のライターさんが所属し、日々自分の暮らしの中で感じる「豊かな生き方を目指すからこそモヤモヤすること」をさまざまな切り口で書いていただいています。

12月の年末ですので、初企画の「よむエラマオブザイヤー」を選び、ライターさんたちの編集会議にて表彰式をしました👏


🏆年間大賞・よむエラマオブザイヤー2023🏆
に輝いたのは、

『学び「直し」をやめたい。人事が見つけた大人の学びで本当に大切なこと。』
ライター:ひらふく
発行:2023年7月19日

この記事は、エラマ内外(読書、編集長、エラマ代表)から最もリアクションがあった記事が選出されます。

本記事は、読者からのリアクションがとても良く、またプロライター編集長からもワードチョイスが痺れるというコメントがあり、文句なしの大賞受賞となりました。

よむエラマオブザイヤーでは、そのほかに
・most いいね賞(noteのみ)
・most note PV賞(note+Webサイト)
・most instagram PV賞
・most instagram エンゲージメント賞
・編集長いけかよチョイス(4記事)
・石原侑美チョイス(2記事)
・よむエラマオブザイヤー特別賞

を選び、表彰しました。

ライターさんからは、
「よむエラマオブザイヤーを作っていただき、ありがとうございました!
みなさんのステキな記事がこうして届いていることや、エラマ代表ゆみさんや、編集長のいけかよさんにコメントを直接頂ける機会を用意して頂き、みなさんのもお祝いでき、幸せな気持ちになりました!」

とこれまた暖かい声をいただきました✨

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来年はどんな記事が生まれるでしょうか?
よむエラマでは、エラマライターズが心血を注いで書いているコラムたちがたくさんあります。

✨よむエラマオブザイヤー2023の記事まとめ

🏆よむエラマオブザイヤー2023年間大賞
『学び「直し」をやめたい。人事が見つけた大人の学びで本当に大切なこと。』
ライター:ひらふく
発行:2023年7月19日
https://note.com/elamajp/n/n24761b90cbfe

🥇most いいね賞、PV賞(note)
『11月のフィンランドは曇り空の下で輝いていた』
ライター:ひらふく
発行:2022年12月21日
https://note.com/elamajp/n/ne791ae67a8b4

🥇most instagram PV賞
『ぼくたちの哲学教室』
ライター:momo
投稿:2023年7月8日
https://www.instagram.com/p/CubV3XfBrYP/?img_index=1

🥇most instagram エンゲージメント賞
『🇬🇧50歳で夢を叶えた女性の人生に触れる』
ライター:pieni
投稿:2023年9月10日
https://www.instagram.com/p/CxAkNmkoJ06/?img_index=1


👍編集長いけかよチョイス
『「できればやりたくないこと」は山のようにある。手放した時にきづいた小さな成功体験』
ライター:あいすか
https://note.com/elamajp/n/ne9d556efe08a

『この春、ポジティブ変換はじめました』
ライター:RUNA
https://note.com/elamajp/n/na089fa50f491

『あなたのお気に入りはなんですか?好きなものから得られるエネルギーを低く見積もってはいけない』
ライター:momo
https://note.com/elamajp/n/ncfd8dd73dd25

『現実を生きるpieni「やさぐれ化」から見えた生き方』
ライター:pieni ( @pieni.kayo )
https://note.com/elamajp/n/n72e772e6912e

👍エラマ代表石原侑美チョイス
『フィンランドの「大和魂」を見た!映画「SISU/シス 不死身の男」が教えてくれる』
ライター:ひらみん
https://note.com/elamajp/n/n3ae53752ad52

『現役の教師である私は、実は学校が好きじゃなかった』
ライター:橘茉里
https://note.com/elamajp/n/n09671f4242df

🥇特別賞
『「自分にとっての幸せとはなにか」と考えることは幸せか?』
ライター:いけかよ
https://elama.be/elamareading/post20230607-2/