こんにちは。エラマプロジェクトの和文化担当、橘茉里です。
2025年が始まって、約2週間が経ちました。
本日1月15日は「小正月」と呼ばれ、この日の朝にお粥(特に小豆粥)を食べたり、地域によって「どんど焼き」などの様々な行事が行われたりします。
そして、小正月(もしくは1/20の二十日正月)が過ぎると正月は終わりと見なすことが多いです。
皆さんはどんなお正月を過ごしましたか?
今年一年の目標を立てたり、今年はこんな風に過ごしたいなぁと願望を書き記したりした方もいらっしゃるでしょう。
ちなみに、私の今年一年の抱負は「前進あるのみ」です。
そして今の私を表すキーワードは、「努力」「根性」「忍耐」です。
豊かで幸せな生き方を探究するエラマプロジェクトのチームメンバーとして活動をするようになって、今年で6年目。
6年目に辿り着いた先が、まさか「努力」「根性」「忍耐」とは!
自分でも驚きの展開ですが、自分にとっての “エラマ(人生、生き方)” を探究していったら、いつしか「努力」「根性」「忍耐」というステージに突入してしまったのです。
ですが、私はこの状況をとてもポジティブに捉えています。
長い人生において自分が望む豊かな生き方を実現するためには、短期的には、耐えて頑張ることが必要とされる時期もやってくると感じています。
ただしそれは、やりたくないことを我慢してやり続けることではありません。
「自分の望む人生のために、今は頑張り時なのだ」
こういう感覚のことです。
今までこの「よむエラマ」では、自分を認めたり自分を大切にしたりといった、こじれていたものを解きほぐすような方向性の記事を書いてきました。
しかし今日は、あえて「頑張っている私」のことをお話したいと思います。
自分のやりたいことをやっていたら、ハードモードが始まった
私は前回の記事で、「自分の命が残り一週間だとしたら、私は何がしたいだろう?」を考えると、自分の本当にやりたいことや自分らしい生き方が分かるよ、というお話をしました。
〈前回の記事はこちら〉
私にとっての幸せな生き方は「余命1週間だとしたら」を考えると見えてくる
その記事の中で、「特別なことは何もしなくていい。自分の家で、愛する猫たちと心穏やかに過ごしたい。これが私の望む生き方だ」と書きました。
さらに、仕事をガツガツ頑張るモードではなく、今ある幸せに目を向けて「足るを知る」暮らしにシフトしていきたいとも書きました。
その思いは全く変わっていないのですが、その記事を公開したあたりから、私の思いとは裏腹に、私の生活はどんどん忙しくなっていきました。
私の本業は私立高校の国語教師です。そして副業として、和文化講師やお香の調合師などをしています。
ここ5年間は、本業と副業の二足のわらじを履いて活動してきました。
この二足だけでもなかなか忙しかったのですが、実は三足目のわらじを履いてしまったのです。
昨年、私は愛猫の持病改善のために、アニマルレイキ®という動物への手当て療法を学び始めました。
3ヶ月の講座を受講し終えた後も、もっと学びを深めたいと思い、今はティーチャークラスに所属して、将来的にプロとして活躍できるように勉強しているところです。
このように国語教師、和文化パラレルワーカーという二足に加えて、アニマルレイキという三足目ができた結果、ますます忙しくなってしまったのです。
でも、自分のやりたいことを選び取った結果の忙しさなので、後悔はありませんし、精神的なつらさもありません。
今の私は、確かにちょっと頑張りすぎているかもしれない。
だけど、私は間違いなく自分の望む人生のために、今を目いっぱい生きている。
そう胸を張って言えるので、「頑張っている自分すごい!」と自己肯定しながら、仕事に追われる日々を送っています。
フィンランドの人たちの価値観「SISU(シス)」とは?
フィンランドにはSISU(シス)という考え方があります。
SISUは「勇気」「忍耐力」「粘り強さ」「不屈の精神」「困難に立ち向かう強い意志」などを表わす言葉で、瞬間的なものではなく、困難を耐え抜く長期的な力を意味します。
SISUの代表例として、1939年の冬戦争で圧倒的に不利な状況にも関わらず、フィンランド軍がソ連軍に対して勇敢に戦ったことが挙げられますが、SISUの精神は現代のスポーツ、ビジネス、教育など様々な場面で発揮されます。
エラプロジェクトではSISUを大切な価値観の一つとしてお伝えしていますし、このよむエラマでも、SISUの記事がいくつかありますので、ぜひ読んでみてください。
〈SISUの記事はこちら〉
フィンランド魂「SISU」を理解して取り入れようー「フィンランドの幸せメソッドSISU」を読んで
自分にも他人にもやさしく。「EVERYDAY SISU フィンランドの幸せ習慣」 レビュー
フィンランドの「大和魂」を見た!映画「SISU/シス 不死身の男」が教えてくれる
そして、私が今「ちょっと働きすぎでは」というくらい頑張っているこの状況は、SISUを発揮していると言えるのではないかと思います。
SISUは、困難に陥った時に冷静に状況を分析して、長期的な視点で粘り強く行動することです。また、目標を達成するために合理的に判断することでもあります。
衝動的で無謀な「とにかく努力!根性!」ではなく、冷静に長期的な視点を持つというところが、SISUの魅力だなぁと感じます。
この記事の冒頭で、今の私のキーワードは「努力」「根性」「忍耐」だとお伝えしましたが、これらは無謀な我慢を強いる根性論のことではなく、実はSISUのことを指していたのです。
豊かで幸せな人生のためには、時にSISUを発揮することも必要
人生においては、「無理をしないこと」「頑張らないこと」を実行すべきタイミングもあれば、その反対に、今は頑張り時というタイミングが訪れることもあるでしょう。
もしくは、自分にとっての豊かさを探究する過程では、自分と向き合うことで見たくない自分の本音に気づいたり、隠しておきたかった自分の弱さに出会ったりすることもあるでしょう。
自分にとっての豊かさを探究するって、実はだいぶハードなことだと思います。
都合の良い、口当たりの良いところだけしか見ないのでは、真の豊かさは得られないでしょうから。
きっと皆さんも、自分の豊かさを探究する過程で、目を背けたくなったり、逃げたくなったり、もう頑張りたくないと思ったりすることがあるかもしれません。
そんな時は、SISUのことを思い出してほしいのです。
もちろん無理をする必要はありませんし、つらい時は逃げても休んでも良いと思います。ですが、もし「頑張ってみたい」と思ったら、その時はあなたのSISUを発揮してください。
SISUのことを「粘り強さ」「不屈の精神」「困難に立ち向かう力」などと紹介しましたが、これらは日本人にもかなり馴染みのある感覚だと思います。
日本には忍耐が美徳とされる価値観がありますし、「石の上にも三年」や「雨だれ石を穿つ」ということわざがあるように、長期間にわたって辛抱し、努力をすることを良しとしてきた文化があります。
だから、日本人はSISUが得意だと思います。
ただし、日本人の場合は、自分の豊かさのために頑張るのではなく、私欲を捨てて、主君や国、会社、家族のために尽くすという自己犠牲的な頑張りが目立つように感じます。
私は、忍耐の末に本懐を遂げる『忠臣蔵』のようなストーリーが大好きですし、日本の自己犠牲的な頑張りに魅力を感じますが、自分で実行するとなると、私欲を捨てて他者のために尽くすやり方はかなりしんどいでしょう。
ですので、皆さんは私欲を捨てて他人のために頑張るのではなく、ぜひ自分の豊かさのために頑張るということをやってみてくださいね。
“私の豊かな生き方のために、軽やかにSISUを発揮する”
私はこの一年をそんな風に生きていきたいと思います。
Text by 橘茉里(和えらま共同代表/和の文化を五感で楽しむ講座主宰/国語教師/香司)
こんにちはpieni(ピエニ)です。
この記事が公開される日はクリスマス。皆さんはどんな一日を過ごしていますか。
日本のクリスマスといえば、イルミネーションや街中に飾られる大きなツリー、クリスマスイベントなど華やかなイメージがあります。
恋人とクリスマスデート、友人や家族とクリスマスパーティー。様々なクリスマスの過ごし方があると思います。
中には平日だし仕事だし特に何もしない、という方や、ほんとは誰かと過ごしたい気持ちの方、反対にパーティーに誘われているけれど、ひとりでゆっくり過ごしたいなど、さまざまな自分の感情が見えてくる日かもしれませんね。
今回はクリスマスってそもそもどんな日?ということや、フィンランドのクリスマスの過ごし方から「わたし(自分自身)はどんなふうに過ごしたいと願っているのか」を見つめてみたいと思います。
そもそもクリスマスとは?
クリスマスとはどのように始まったのか?何の日なのか?
改めて尋ねると「どうだったっけ?」と考えてしまう人もいるのではないでしょうか。
この記事を書くまで、わたしもその一人でした。
クリスマスとは「イエス・キリストが降誕したことを祝う日」です。
イエス・キリストは神の子で、人の姿になって現れ多くの人を救ったとされています。
そのためイエス・キリストがこの世界に生まれてきたことに感謝し、祝う日とされています。
しかし12月25日にイエス・キリストが生まれたわけではありません。
クリスマスがいつから始まったのかは明らかではありませんが、ローマ帝国時代にペルシャから伝わった冬至の祭りが関係していたり、この時期に行われていた農耕の祭りの日にしたなど、クリスマスが12月25日になった理由には諸説あります。
日本のクリスマスについて考えてみた
日本ではじめてのクリスマスは歴史をさかのぼることはるか昔。戦国時代の16世紀なんだとか。
日本を訪れた宣教師達が、現在の山口県にてキリスト教信者を集め、キリスト降誕祭のミサを行ったことが始まりとされています。
その後、江戸幕府の禁教令によりキリスト教は禁止されたため、クリスマスを祝う文化は広まりませんでした。
時は流れて、明治時代。横浜で開業した明治屋が銀座進出とともにクリスマス商品を売り出したことで注目され始めました。
その後、大正天皇の崩御の日が12月25日(1926年・大正15年)であり、12月25日が大正天皇祭(国民の休日)と定められたことにより、クリスマスが普及するきっかけになります。
戦後は、日本特有のクリスマスケーキが誕生したり、デパートでクリスマス商戦が繰り広げられるなどして、日本のクリスマス文化が展開していきました。
もともとはキリスト教の祈りや感謝の時間であったクリスマスのはずですが、日本では商戦としての意味合いが強いように感じます。
また「恋人はサンタクロース」(1980年・松任谷由実)を1982年に松田聖子がカバーしたことにより、クリスマスプレゼントは子どもだけでなく、恋人へ贈るものという新しい流れが生まれ、宗教的な意味より、恋人達の一大イベントへ変化していったという推測もあります。
わたしは20代のころ、クリスマスは一人でいたら孤独、恋人や友人と過ごさなければ、寂しい人というレッテルを貼られるという感覚を持っていました。
「クリぼっち」という言葉も過去には流行ったこともありましたね。
これは、日本でクリスマス文化が広まってきた歴史や背景ゆえの感覚だったのかもしれません。
もしそうであれば、だれと過ごそうが、どのように過ごそうが、一人であっても、日常と変わらないように過ごしても、まったく問題ないなと思えてきます。
フィンランドのクリスマスの過ごし方とは?
それでは、フィンランドのクリスマスはどのような過ごし方なのか。
フィンランドで日本語講師をされていた「たにしきあやこ」さん(現在はフィンランド語講師)にお話を伺いました。
私はヘルシンキのような街にはいなくて、ラハティの森の中でクリスマスを迎えました。
それはそれは静かなクリスマスで、12月の頭を過ぎたら、ホストファザーが森にもみの木を伐採しに行き、クリスマスツリーにして飾りつけを始めます。
(伐採は数本なら許可されていると思います)
クリスマスカードが親戚や友達から届き始めるので(切手もクリスマス限定切手になる)それをツリー下に置いたりしてワクワク感を楽しみます。
子どもがいる家庭はクリスマス前日にプレゼントをツリー下に置き、サンタから届いたプレゼントの開封を楽しみます。
クリスマス料理のメインは豚のハム、付け合わせに人参グラタン。シナモン・カルダモンなどのスパイスを効かせたホットワイン「グロッギ]」、星型のパイ生地の中央にプルーンジャムをのせた「ヨウルトルットゥ」や「ジンジャークッキー」を1週間ぐらい食べ続けます。
とにかく地方も街中もクリスマス当日はキャンドルに火を灯し、家族で静かにお祝いします。
イルミネーションが華々しいのは都会の一部で、森の中に住む戸建てのお家はむしろ灯りは落として、静かに深々と降る雪を見ながらお祝いするイメージです。
このように教えていただきました。
雪が降り積もる静かな景色の中、家族とあたたかなクリスマスを過ごす情景が目の前に浮かぶようでした。
また、日本に来られていたフィンランドの方にお話を伺ったときは、家族と一緒に真夜中のクリスマスミサに出かける習慣があると聞きました。
また、真夜中のミサに行く子どもの気持ちを歌ったクリスマス曲もあると教えてもらいました。
フィンランドのクリスマスの過ごし方を聞き、少し昔(わたしが子どもだった昭和の終わりごろ)の日本の年末やお正月のようだと感じ、懐かしさを覚えました。
祖父の作ったしめ縄を家中に飾り、大晦日は家族そろって年越しそばを食べ、除夜の鐘をつきにいく。お正月はお年玉をもらったり、祖母や母が作ったおせちをしばらくの間食べ続ける。そして近所の神社へ初詣へ行く。
このような日本のお正月の過ごし方と、フィンランドのクリスマスにはなんだか共通点を感じます。
わたしが過ごしたいクリスマスの一日
日本とフィンランドのクリスマスを比較してみましたが、どちらが良いか悪いかの話ではなく、わたし自身はどのように過ごしているかを考えてみました。
今は子どもがまだ幼いので、サンタさんからのプレゼントを用意して家族で過ごす時間にしています。
また、今年は子どもからのリクエストがあり、クリスマスケーキを一緒に作ったり、もらったプレゼントでゆっくりと一緒に遊ぶ約束をしました。
このような過ごし方をしますが、改めて考えてみたところ、ここにプラスしたいことが出てきました。
私の家族はキリスト教徒ではないので、ミサに出かけたりはしませんが、子どもの頃にすごしたお正月のように、どこか遠くへ出かけたり、特別なことをしなくても、まさに今ここで家族で平和に暮らせていることへの感謝を感じてみます。
そしてそれを家族や自分自身へも伝える日にしてみようと思います。
普段から伝えられるといいのですが、ちょっぴり照れくさいのでこの機会に。
クリスマスだけではない日々の過ごし方とは
今回は日本やフィンランドのクリスマスをピックアップして、その過ごし方を問いかけてみましたが「自分自身がどのように過ごしたいか」と考えてみることは、日々の暮らしにも反映できることだと思っています。
・華やかで、ワクワクすることがいっぱいの日々を過ごしたい
・穏やかで落ち着いた静かな日々を過ごしたい
・華やかさもあるし、落ち着きもあるバランスいい日々を過ごしたい
・家族や友人に囲まれた賑やかな日々がいい
・人数は多くなくても、深く付き合える大切な人と日々を分かち合いたい
などなど、百人百様の考え方があると思います。
あなたはどんなクリスマスの1日を過ごしたいですか?誰と一緒に何を感じる時間にしたいですか?
この問いかけを残したいと思います。
このような過ごし方を考える時間も、自分自身を見つめて、幸せに生きるための大切なひと時になります。
この機会にぜひ一度考えてみてくださいね。
Text by 丹波フィンランド大使pieni(ピエニ)
こんにちは。エラマプロジェクト代表、フィンランド生涯教育研究家の石原侑美です。
2024年もあと少しとなりましたが、みなさんにとって今年1年はどのような年だったでしょうか。
わたしは今年も現地での研究、スタディツアー開催のため夏から秋にかけて2ヶ月間フィンランドに滞在しました。昨年と違い、今回は家族と一緒ではなく1人でその期間を過ごしました。
その間に、フィンランドの良さを感じつつも日本の良さ、すばらしさをあらためて実感することになりましたのでそれについて今回はお話したいと思います。
物価の高さはやはりつらい
日本も以前から物価がどんどん上がっている状況ですが、フィンランドも物価がかなり高いので滞在中の生活はやはり楽ではありません。
例えばランチ。フィンランドのランチはビュッフェランチが基本なので、安いところでも18ユーロ、3,000円(2024年11月12日現在のレート)くらいかかります。だから気軽に外に食べに行けないんです。
ファストフードやカフェに行けばもちろんもう少し安く済みますが、それでもそれなりの価格です。そのためやはり気軽には外食できません。
だからスーパーで食材を買って自分で調理して食事を摂ることがほとんどでした。イタリアのリゾット用のお米(ジャポニカ米)がフィンランドのスーパーで手に入ったのですが、それを鍋で炊くと日本のお米と同じように食べられたので、基本食はご飯を炊き、持参していたお味噌で味噌汁を作っていました。
他にはそのお米を使ってリゾットを作るなどして料理はそれなりに楽しんでやっていました。
ただ、日本ではわたしの場合、義母が食事の支度をしてくれることもあるので自分が作った料理をずっと食べ続けるということはあまりありません。なので、ちょっとしたお惣菜を買いたくなる日もあったんです。でも、お惣菜であっても「がんばって自分で料理するか」……という気になるくらいの値段なんです。
そんな物価の高さなので、フィンランドでは日本の生活でイメージするほどお腹いっぱい食べるということができませんでした。
講座などでお話したこともあるんですが、フィンランド人は1日5食食べるんです。日本のように定食並みのしっかりとしたご飯というよりは、ちょこちょこ食べる感じです。むしろそうしたほうがフィンランドの場合は経済的にもお腹的にもちょうどいいというわけなんです。
10月下旬に帰国しましたが、帰国後は食事の面で日本のありがたさをすごく感じました。食事が美味しいこと、自宅で収穫できる新鮮な野菜はもちろん、スーパーで買う場合でも国産の野菜がたくさんあることがとても幸せです。帰ってきて漬物をボリボリ食べたときどれほど幸せを感じたか(笑)。
JALと羽田空港にも感謝
帰国便はJALを利用したのですが、実はJALの機内食で泣いたんです。味噌汁の美味しさに(笑)。
あとは、JAL専用の亀田製菓おつまみミックスと日本茶でもかなり気分が上がってしまいました!
そして日本に到着したらまた別の驚きと発見がありました。羽田空港の国際線ターミナルにある「江戸小路」をご存じですか。
第3ターミナルの4階には江戸の町並みが再現されています。
外国人観光客向けのいかにもなおもてなしの風景を見ると、住み慣れている日本人からすると冷めた目で見てしまうこともあるかもしれません。しかしフィンランドで仕事をたくさんして2ヶ月ぶりに帰ってきたわたしは、「江戸小路」を見てすごく落ち着いた気持ちになり、安心感に包まれたのです。
奇をてらってやっていることにではなく、ここまで世界観を作って歓迎してくれているという心に感動しました。
到着後わざわざ4階まで行きましたし、そこでほっとして一息つきました。
見方が変わると違った角度で景色や良さに気づけるひとつの例かなと思います。
エネルギッシュさの違いは日照時間の差なのか?
日差しがあるというのも幸せポイントの大きな要素ですね。フィンランド滞在は8月〜10月にかけてだったので、9月〜10月になると日照時間が少なくなり曇りの日が多くなるんです。以前にもお話したことがあるんですが、太陽の光のあるなしは心身にどうしても影響が出ます。
フィンランドの人たちはそういった環境に工夫を凝らし日々生活しています。そしてフィンランドの良さと言えば、静寂だと思います。日本では味わえないくらい耳にとっての静かさもありますし、デザイン的にも広告が少ないため、目にもうるさくないというか、静寂を享受しやすい環境であるのがすごくいいんです。
一方で日本に帰ってきていいなと思ったのは、フィンランドとは逆のエネルギッシュさでした。心地いいなと思ってしまいました。日本の人と話しているとエネルギッシュだなと感じたんです。
フィンランドの人は落ち着きすぎているので「エネルギッシュ」とは言い難いんですね。なので、日本の人と話していると元気がもらえます。帰国してからの3週間くらいの間にその明るさも大きな魅力に思えました。
フィンランドと比べて太陽の出ている時間が長いからなのか、四季を感じてみんなが変化を楽しんでいるからなのか、日本(人)のエネルギッシュさに今さらながらに気づきました。
アジアの中ではまだ落ち着いているほうかもしれませんが、それでも日本に住んでいる人からはかなりの熱量を感じ取りましたよ。
感じ取ったことを形にしていきたい
ここまでわたしが日本や日本的なものを良い!と感じたのは、パートナーと離れて1人でフィンランドで過ごしたというのも大きいのかなと思っています。滞在期間中、お互い時間が合わずオンラインですら顔を合わせてコミュニケーションがとれない日が続いたこともありました。
ツアーを実施したことでそれなりに日本語を話したので、言語の面でストレスが溜まったことはありませんでした。ただ、家族と離れている期間が2ヶ月あったのはかなり久々だったので、孤独感に襲われる瞬間は多かったです。
大人になると時間の流れが速く感じるでしょう?でも今回、嫌なことがあったわけでもないのに2ヶ月間がとても長く感じたんです。
もちろんフィンランドの心地よさも感じてはいました。先述した静寂さのほかにも、わたしにとってフィンランドの人との距離感は心地いいものでした。離れて見守ってくれているあの感じがすごく好きなんです。自然もいちいち全部美しいし、人にも恵まれているのですごくいい環境なんです。
それでも家族ロスがひどく、本当にホームシックか!っていうぐらい、日本シックではなくて石原家シックみたいな感じで早く帰りたいって思うこともたびたび……。
そういう体験をしたので、帰国後、小さな幸せを一つ一つ噛みしめています。幸せに対する感度がとても高まっている感じがします。
いつも住んでいる場所から外へ、日本から海外へ出るからこそわかることがあるんですよね。わたしが住んでいる高山市でもずっと地元にいる人よりもUターンした人や移住者のほうが高山の良さを語れるとよく言われています。今回のわたしの体験もそういったことと近いのかなと思いました。しみじみと日本の良さを感じることになりました。
今後は、これまでエラマでやってきたことを含め、日本に帰ってきたときに感じたエネルギッシュさやものを大切にするときなどの精神性を海外の人にも発信することを考えています。そんな講座をたくさんご用意していますので、ぜひエラマプロジェクトのHP「エラマの学校」ページをチェックしてみてください。
また、エラマプロジェクトの情報はWebサイトやSNSでお知らせしていますので、こちらもぜひチェックしてみてくださいね!
By 石原侑美(エラマプロジェクト代表)Interview & Text by nakagawa momo(フリーライター)
こんにちは!エラマライターのひらみんです。
突然ですが、みなさんは、自分の生き方を否定されたこと、ありますか?
私はあります。先日のこと。私の人生で初めて起きた、けっこう大きな出来事でした。
さすがに数日間引きずりました。
私の人生は、誰かから否定されるような生き方なのでしょうか。
青天の霹靂
私は「感情の浮き沈みはなるべく少なくしたい」と思っています。波風の大きくない穏やかな日々が理想です。
だからといって、保守的に考えて「なにもしない」というわけではないんです。
友達とお腹を抱えて泣くほど笑ったり、心が擦り切れるまで働いたり、以前書いたように、亡くなった叔母のことを思い出して悲しくなったりすることもあります。
辛いことを見て見ぬふりしているとか、感情に蓋をしている、とかそういうわけでもないんです。大きなことから小さなこと、ハッピーなことから辛いことまで、私なりにはいろいろあったけれど、自分なりに人生を楽しんでいます。
それなのに、先日久しぶりに会った、15年ぐらい付き合いのある年上の友人から、
「いつ会っても『こんな悩みがあって〜』みたいな話が全然ないよね。もっといろんなことに心を開いて、感情の浮き沈みがないと、人生楽しめないよ」
って言われたんです。
せ、青天の霹靂ってこれですか?!
言われたことの意味がわからない時、人って、なにも言えなくなるんですね。それぐらい驚きました。
自分では、今の生活にわりと満足しているのですが、その人からは私は、挑戦することを諦め、辛いことを避けているように見えているようでした。
その人は、働きながらMBAを取って、人生が現在進行形で大きく変わっていく真っ最中で、熱意を持って挑戦する意志を持った仲間との出会いや、人生の岐路にいるヒリヒリ感などがあるのだと思います。めちゃ忙しいし、自分は何をやるべきなのか、悩みもがいているけれど、自分が前進していることを感じて、楽しそうでした。
だから、私がぬるま湯的な安全な場所にいて、なにも新しいことに取り組んでないことを指摘されました。たしかに自分の成長のために厳しい環境に身を置いていないと言われれば、特にここ数年はそうなのかもしれません。
これでも一応、去年転職して新しい環境に飛び込んで、未経験の仕事をしているのですが、辛いことがないと、成長や挑戦とは呼べないのでしょうか。
悩んだり努力や挑戦を続けたりして、何かを達成しようとする人生は魅力的で、そんな人は輝いて見えるけど、私は今のような、悩みが少なくて穏やかな生活の方が自分には合っているんじゃないかなと思っているんです。
なのに、「あなたはそのような穏やかな人生で満足する人じゃないでしょ?」と決めつけられたように言われたことに違和感を感じました。
感情の起伏が激しい方が幸せなの?
感情の起伏が激しい/少ないというのは、そもそもどういうことでしょう?
感情の起伏が激しい人のイメージとしては、気分屋で、イライラしたりしているのが見た目にもわかりやすい、みたいに、少しネガティブなイメージがあります。
でもきっと、喜びや楽しいとかの面でも大きく心が動くのではないでしょうか。
感受性が強くて、好きになったらすごく熱中できる点は大変うらやましいところです。
辛いことや悲しいことも大きいけれど、楽しいことも大きくて、刺激的でアドレナリンが出そうですね!
一説によると、創造性が高いそうですよ。
一方で、私みたいに、感情の起伏が少ない人もいると思います。心を閉ざしてるとか、いつも冷静とか言われちゃう人ですね。それでも、小さいけれど毎日の中に波はありますよね。
あくまで一般論としてですが、感情の安定性が幸福感と心理的健康を高める重要な要因であることを示す研究論文があります。
感情が安定している=感情の起伏が少ない、ということですから、感情の起伏が少なくて安定している人の方が幸せなんだそうです。
(研究論文:https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/23163709/)
幸福度世界一の国、フィンランドの人はどうなの?
感情の起伏と幸福感はリンクしていることがわかったら、幸福度世界一のあの国、フィンランドの人はどうなのか、知りたくなりました。
フィンランドの人は、心穏やかで感情の波があまり大きくなさそうなイメージです。
国や公共サービスへの信頼も厚くて、便利で機能的な社会で、そもそもネガティブな感情を感じることが少なそうですよね。
フィンランドの教育では、子供たちの教育にとって、SEL(=Social Emotional Learning/社会性と情動の学習)が重要であると考えられています。
興味深いのは、「感情を理解し管理する能力」は練習して伸ばすことができるスキルであると捉えているところでした。
自分の感情を理解してコントロールできるように教育する、ということは、あまり感情の起伏が激しくない大人に成長するのではないでしょうか。
社会的な面でも、便利でストレスの少ない社会があって、教育の中でも、子どもの頃から自分の感情をコントロールできるスキルを学ぶのがフィンランド人と言えそうです。
これが幸福度世界一と直結しているかわかりませんが、なかなか興味深い話です。
自分の人生は自分のもの
話を戻して、そもそも、私がなんで数日間も引きずるぐらいショックを受けたのか考えてみたんです。
付き合いが長くて、私のことを理解してくれていると思っている人に言われたからショックが大きかったし、その人が正しくて、私が間違ってる、みたいな言われ方をしたのも納得がいかなかった。
そして、その人の考えと近い理想像の私があって、その理想像と現実の私が違うから、
「同じ価値観なはずでしょ?ジェットコースター的な人生が好きなはずでしょ?」
「こっちの世界に来いよ」
「本当の自分を取り戻せ」
みたいに言われ続けたなって思い出したんです。
相手の価値観や理想像を押し付けられてる気がして、すごく嫌でした。
そのとき、この人は、目の前にいる私を受け入れてくれているわけじゃないんだな、って感じました。
すると、私のことを受け入れてくれていない人が言う話に落ち込む必要ないな〜って思ったんです。
そう感じたら、回復が早かった。
感情の起伏が少なくて安定している人の方が、幸せな人生を送れるらしいし、感情の起伏の激しい人生に無理してつっこんでいく必要はないですよね。
感情の起伏が激しい人が、感情の起伏が少ない人生を無理して選ぶ必要もないはずです。
もちろん人それぞれの考え方があるのだと思いますが、私は今の感情の起伏が少ない人生を楽しんでいます。
それだけで十分。
自分と同じ生き方を選んでいない人を否定したり、誰かに生き方を強要するような時間も主義も持ち合わせていません。
もしかしたら私の考えもこれから変わっていくかもしれない。
でも、感情の起伏の激しい人生にいますぐスイッチすることはできない。
それが今の私の答えなのだと思います。
どんなことでも、意思表示をしたら、否定する人がいるかもしれません。
だけど、自分には自分に合った生き方があって、それは誰かに否定されたり強制されたりするものじゃないですよね。
だから、どんな生き方でも、自分に合った生き方を選んでいいはずです。
自分の人生は自分のもの。そう思いませんか?
Text by ひらみん(ふつうの会社員)
こんにちは。ひらふくです。
2024年もあと少しになりましたね。みなさんは今年どんな思い出ができたでしょうか?嬉しくなる記憶や思い出したくもない苦い記憶。いろいろあったかもしれません。
私の思い出の一つは10月に参加したエラマプロジェクトのツアーです。ツアータイトルは「”北欧のシリコンバレー” フィンランド・オウルで働き方とウェルビーイングを学ぶプログラム」。
これまで人事として社員の働き方に向き合ってきた私にとっては永遠のテーマです。また、今年からフリーランスになったこともあり、「幸せな働き方」は四六時中考えていることでした。
世界幸福度ランキングで1位をとり続けるフィンランド。そのワークスタイルはきっとヒントになると期待して、半年前からワクワクしていたのです。
ですが、まさかこのツアーで苦さも嬉しさも両方味わうことになるなんて思ってもいませんでした。
原因はフィンランド滞在中も私が日本での働き方をしていたこと。そうしたら一体何が起きたのでしょうか?フィンランドで七転八倒しながら得た「働き方」への気づきをご紹介します。
朝5時から夜23時まで働く
このツアーがおこなわれたのは10月13日〜19日までの7日間です。特に14日から18日までの5日間には、3人のフィンランド講師のかたからワークショップを受けることができました。
合間には自由時間もあって、オウルの街中を散策したりリサイクルショップに掘り出し物を探しに行ったり。イチョウが金色に染まる海沿いの公園で、落ち葉を踏みしめながら夕日を見たりもしました。
最終日には、河上の貸切ボートサウナで空気の冷たさとサウナの熱さに心身ともにリラックス。どこをとってもオリジナルなツアーだなとしみじみ思います。
さて、ここでツアーの楽しさだけをお伝えできればよかったのですが。その裏で起こっていたことをお話しさせてください。
私は現在フリーランスの人事としてフルリモートで働いています。いわゆるPCひとつでどこでも仕事ができる環境です。
こう聞くと自由そうですが、まだフリーとしての生活リズムを作れていない私は、ツアー中だけ休日にするなんて芸当ができませんでした。そのためツアー中も仕事を持ちこんで、日本の企業さんとの打ち合わせなどもしていました。
ですが日本とフィンランドの時差は6時間もあります。日本の朝11時がフィンランドの朝5時なのです。まして昼間はプログラムに参加しているので仕事ができません。結果、ツアーがはじまってみれば私の1日はこんなふうになりました。
4:30 起床
5:00 日本企業さんと打ち合わせ・そのままPC仕事
9:30 ツアープログラム開始
昼間 スマホで仕事の連絡を確認
16:30 ツアープログラム終了
18:00 PC仕事
23:00 就寝
なんて散々な生活リズム。他のツアー参加メンバーからは「社畜してるじゃん」と苦笑されました。
私はフィンランドで何をしているんだろう
一方で、フィンランドの人々は16時には仕事を終えて帰宅します。日本では「早く終わったらさらに他の仕事もするべきだ」という声も聞きますが、フィンランドでは帰宅して家庭や自分の時間にあてるのです。
仕事は人生の一部ではあるけれど全てではない。そう考えて人生全体を味わおうとしているスタンスに憧れます。
このスタンスは、ツアーで最初に講師をしてくださったニコさんも体現されていました。ニコさんは職業専門学校OSAOの元・校長先生です。
「生徒が人生に必要な力をつけられるよう手助けするのが先生です」。そう語りながら、フィンランドの人々にとっての幸せや人生観を紹介してくださいました。企業研修などを手がける人事としては、特に「学び」への考え方に感じ入りました(長くなるため今回は割愛しますがいつかご紹介したいです)。
ただ、ニコさんの語る「幸せ」に共感すればするほど、朝5時から夜23時まで仕事をしている”社畜”な自分が情けなくなりました。
半年前から楽しみにしていたのに、お金も時間もがんばって調整してここまで来たのに。現実の自分は「幸せな働き方」からかけ離れていることが浮き彫りになるばかりで。
ツアー中は相部屋だったので、ルームメイトを起こさないよう朝はホテルのロビーで仕事をしていました。7時ごろになると私の横をモーニングビュッフェを食べにいく人々が通りすぎていきます。
その豊かで和やかな雰囲気と、PCに向かっている自分の差を痛感して。私はフィンランドまで来て何をしているんだろうと思いました。
朝5時のロビーにはフロントの人と私しかいません。
あなたが元気で幸せだからこそ
転機が訪れたのはプログラム3日目。ライターのモニカ・ルーッコネンさんのワークショップでした。
モニカさんは日本でも翻訳出版されている『マイタイム』の著者です。日本に住んでおられた経験や、フィンランドの大企業ノキアでの会社員経験もあります。日本とフィンランドの働き方の違いやその背景まで話してくださいました。
モニカさんが提唱する”マイタイム”とは自分のための時間をとること。肩書を外して、自分を満たしてケアしてあげる時間を持つことです。エラマプロジェクトでもマイタイムの大切さは語られていて、その重要性はわかっているつもりでした。
でも、そんな私にモニカさんは言ったのです。
「日本人は周りに奉仕する優しい人たち。でも、まずは自分をケアしてあげましょう。
あなたが幸せだからこそ見ている人も幸せになれる」
いろいろな考えが頭をかけめぐりました。
私は自身をケアできているだろうか、日本人は自分より周りを優先しすぎていないだろうか…などです。
ただ、そのとき最後に心に浮かんだのは、朝のロビーでPCに向かう私を心配してくれていたツアーメンバーのことでした。
本当の”思いやり”って?
日本人の働き方のひとつに周りへの”思いやり”があると感じます。お客様や仲間など誰かのためにがんばったり、「自分は良くても他の人が困るから」と残業して手を尽くしてくれる人もいます。残業はよくないと眉をしかめながらも、私は思いやりを日本人の美徳だと思っていました。今も美徳だと思います。
でも、モニカさんの言葉でハッとしました。自分で精一杯な今の私は本当に相手を”思いやって”いるのだろうかと。
朝5時から仕事をしているときは、約7000km離れた日本の仕事相手のことを考えていました。私の都合で迷惑をかけたくないと”思いやって”、できるだけ相手のスケジュールに合わせていたのです。
そうやって眠たい目をこすりながらPCに向かう私に、ツアーメンバーは「大丈夫?」と声をかけてくれていました。「大丈夫!」と軽く返していましたが、今思えばその優しさの意味をちゃんと考えて受けとれていなかったのです。
このツアーは、他のメンバーにとっても日常を離れて味わったり楽しんだりする大切な時間です。なのに横で辛そうに仕事をする人がいたら気になりますよね。モニカさんの言葉でそこに思い至って申し訳なくなりました。そして、それを責めるのでなく気遣ってくれるメンバーの有難さにもようやく気づきました。
7000km先にいる人も大事です。でも、まず目の前にいる人を笑顔にできているのでしょうか。そして相手を笑顔にするのは自分が笑顔でいることなのではないでしょうか。
実は、ツアーに来る前は「自分をケアする」ことに少し後ろめたさもありました。周りより自分を優先していいのかな、それは利己的じゃないかなと思っていました。
でも、無理をしながら他人を”思いやる”姿は、実は身近な人たちを心配させているのかもしれません。それは誰も幸せではないのです。
モニカさんのワークショップを受けた日の夜から私は仕事をセーブしました。全ての仕事を拾うことはやめて、必要なものや続けたいものだけに。
できた時間で夜はみんなとバーに行って、真面目な話やお酒の感想や、翌日には忘れてしまうような笑い話をしました。外は気温5度と寒いのに、ワイワイしながらスーパーでアイスクリームを買って帰りました。
最終日の貸切サウナではみんな思い思いにすごしていました。川に飛びこむ人やサウナにこもる人、テーブルで話しこむ人、屋外のお風呂で空を見上げる人。その様子を見ながら、二度とないこのメンバーとの景色をずっと覚えていたいと思いました。
よく食べて、よく話して、よく笑いました。私が笑って相手も笑ってくれる時間でした。ツアーが終わった今も、ふと思い返してはあのとき仕事をセーブしてよかったと思います。
私が私を優先することで誰かに迷惑をかけたかもしれません。でも、自分が元気でいることで、また誰かを元気にもできるのではないでしょうか。
肌になじむ働き方をあなたと
今回のツアーでは、フィンランドの人々の働き方とウェルビーイングにふれました。知識だけではなく、現地の人々と直接接して感じたことや、ツアーメンバーと一緒だからこそ気づけたことがありました。
社畜をしないと気づけなかったのは情けないのですが、日本での働き方をフィンランドでやってみたからこそ理想と現実のギャップに気づけました。ギャップを埋めるために試行錯誤して実践することもできました。
国の制度や今までつちかってきた価値観が違うので、フィンランドのワークスタイルをそのまま日本に持ってくることはできません。ですが、やっぱりおたがい似ている部分もあって、フィンランドの人の「幸せ」は私の肌になじみます。
だから、私はこれからもフィンランドをヒントに、「幸せな働き方」をいろいろ実践してみようと思います。そのひとつとして、実は地元の島根県でフィンランドをテーマとしたコワーキングスペースをはじめることにしました。
先代のオーナーさんから継いで二代目としてやっていきます。名前は「コワーキングハウス・マヤッカ」。マヤッカとはフィンランド語で灯台のこと。人生の岐路で迷った時に立ち寄れる灯台のような場所になりたいです。
日本家屋と北欧テイストをミックスしたコワーキングスペースです。
幸せにいろいろな形があるように働き方もいろいろあっていいはず。日本のやり方、欧米のやり方、そしてフィンランドのやり方。人と違っていたとしても、自分がより心地よくいられる方法を探して実践してみてお伝えしていこうと思います。
そしてあなたが日々感じたこともたくさん聞かせてくれませんか。あなたのお話や元気で笑っている姿が私を笑顔にしてくれます。
人を思いやれるあなただからこそ、まずは自分からケアしてあげましょう。
あなたが今日も元気でいてくれることを願っています。
text by ひらふく(フィンランド的働きかた実践家)
こんにちは!いけかよです。
先日、いけかよは44歳になりました。
めちゃめちゃ若くもないけど、でもまだまだこれから、な年齢と言えるでしょうか。
「四十にして惑わず」なはずの歳から4年も経ちましたが、いまだに惑いまくりな年齢ともいえます。
そんな折、同い年の友達から「人って44歳と60歳でいっきに老けるらしいで」という情報が。
またまたそんな、適当な噂信じたらあかんでぇ、と思っていたら、お世話になっているパーソナルトレーナーさんからも同じ話を聞き、調べてみるとなんとスタンフォード大学などでの研究で明らかになったことらしいのです。
てか研究対象108人て。なんで煩悩の数やねん。
とツッコミつつ、そんな研究を「そうかも」と思わずにいられないいけかよの昨今の出来事を振り返りたいと思います。
元気キャラが売りだったのに
実は、9月の下旬、44歳の誕生日を迎えたその次の日に(!)、いきなり体中が痛みだして寒気が止まらないという症状が発生し、そこから5日ほど発熱して寝込むという事態になってしまったのでした。
スタンフォードの研究恐るべし。
っていうか、研究に実直すぎる?あたしの体恐るべし。
大人になってから数日間にわたり、しかもまあまあな高熱を出して寝込むのは初めてでした。2024年始まってからずっと走り続けてきていたので、その疲れがいっきにきた、という感覚でした。
ほんとうにしんどかった。毎日晩酌をしているいけかよですが、さすがにこのときは普通に断酒状態で(当たり前か(笑))、食べることすら辛かった。何を食べても美味しくないのです。
「ああ、人ってこうやって死んでいくんやなぁ」と、判断能力の落ちた頭でぼんやり考えていました。食べるというのは、エネルギーを取り入れるという、生きていく上でもっとも基本的な行為です。食べるという行為じたいにもエネルギーが必要。「食べたい」はイコール「生きたい」です。それが「いらない」となるということは、「死にたい」と同じとも言える。
やっぱり病気や体調不良でそれまで当たり前にできていたことができなくなると、いろんなことを考えますね。いけかのように発熱レベルの些細なものでも、やはり「自分ってなんなんだろう」とか「なんでこんなことになったんだろう」とか「これにはどんな意味があるんだろう」とか、考えました。まあ、ポジティブなことはあまり考えられませんでしたけども。
もしくはよくわからない妄想とか。寝すぎて眠気はないものの、つらいのでただ横になってることしかできないから、やたらと脳ミソが暴走する感じです。
それから熱は下がったものの、体へのダメージはそこそこにあったようで、10日ほどは微熱が続き、さらに1ヶ月ほども微妙なしんどさや不調がずっとつきまといました。
ゆえに、お仕事もちょっと在宅を増やしたり、出かける用事はなるべく減らしたりと、省エネモードの日々が続きました。
そうすると、結局は熱を出して寝込んでいるときの延長。つまり、ずっと自分の身体に向き合うということをし続けることになったのです。
今日はあたし食べれるかな? 今日は元気かな?と。
「老い」を受け入れる
奇しくも、発熱する少し前から、身体には小さな不調が出ていました。自分にとってはよくある「いつものやつ」です。
なので、かかりつけの漢方医さんに薬を処方してもらったり、自分なりに休んだり食べたり。
でも、もともと若干健康オタク気味なわたしは、ネットでいろんな心身の健康についての情報を拾ったり本を読んだり講座を受けたりしていました。
実は、その動きが加速していたのは夏頃からでした。
「44歳の壁」を身体は察していたのでしょうか。
そこでピンとくるものに出会い、学び始めたのがアーユルヴェーダでした。
学ぶことは、ざっくりいえば心身の健康に関する知識と、毎日できるセルフケアです。
学びはじめた直後に発熱して倒れたので、わりといろいろな役立つ知識を実践できて、そういう意味でもなんちゅうタイミング、というかんじ。
学びはじめて理解したのは、当たり前ですが20代、30代のときと身体は違うということ。だから、食べ方も眠り方も不調の治し方も、20代30代の頃とは変えなきゃいけないんですよね。
自分には自分の歴史=データしかないから、ついつい「いつもこれでいける」のパターンを信じちゃうんですが、でも自分の身体は(きっと心も)「いつも」じゃない。どんどん変わっていく。
だから「いつものやつ」が効かなくなってくるんですよね。
それを「老い」だと受け入れるのは、少し勇気がいりました。なんか、やっぱり負けたような、いろんなものを諦めなきゃいけないような、侘しい気持ちになるからです。
でも、自分の身体を変えていけるということも、同時に学んでいます。
30代までは、自分が元気で健康なのは当たり前でした。
でも、それが少しずつそうじゃなくなる。でも、自分で治していくことができる。
44歳だからこそ味わえる、元気であることの喜びは、尊いものだとも思います。
自分を治すために自分を知る
そもそも、いろんな身体の不調は自分で治すべきものなんですよね。お医者さんが治してくれるものではない。
もちろん、お医者さんやセラピストさんなどの専門家も頼るし、手術やお薬や整体やサプリメントなどの助けも借りますが、自分の身体を治すのは自分。
いけかよは腰痛持ちでもともとめっちゃ太っていたのですが、いまでは腰痛は気にならないものになり、体重もそれなりに痩せられてからは「まいっか」と思えるレベルになりました。
それらは、スペシャリストたちの力を借りつつも、結局は自分の意思で自分の身体は変えるのだということを何度も体感しました。だからこそ、自分と自分の身体にしっかり向き合って、いま自分の身体がどういう状態なのかをわかるっていうのはすごく大事って、わかるんです。
でも、これが難しい!
日々、忙しく過ごしている多くの人が、自分の身体の状態には無自覚だと思います。いけかよはそうでした。漢方医に脈診をされるたびいつも「がんばりすぎ」と言われます。でも、それがデフォルトなんです。「“すぎ”じゃない頑張りってなに?」って感じです。
そういうときに、通常運転がままならないような不調に襲われると、やっと自分の身体と向き合うことになります。そして学ぶのです、「ああ、ここまでくるとだめだったのか」と。
これは気持ちの部分でも同じです。
自分のちょっとした気持ちの浮き沈みにもっと敏感になったほうがいいんですよね。
そんなことにいちいち気を留めていたら日々は立ち行かないと思われるかもしれません。
でも、「自分はこういう状況だと元気になる」「こういう状況だと凹む」「これが好き」「これは嫌い」という自分なりのものさしには、やっぱり敏感でいたほうがよさそうです。
それが、食べ物とはまたちがう日々のエネルギーを左右するからです。
生きるうえで必要なエネルギーは、カロリーだけじゃないですよね。楽しい気持ちややる気やモチベーション、悔しさや苛立ちだってエネルギーです。
それは「生きる希望」とも言い換えられます。
身体の不調を、筋トレや食事で治せるように、心の不調も自分で治すことができるはずです。自分のことをきちんと知っていれば。
そして、これらの「気持ちの処方箋」も、年齢を経れば変わっていく気がする。
若い頃にあんなに情熱を燃やしたことに、いまはもうときめかなくなっている、ってこと、きっとみなさんあるはずです。それって切なくもあるけれど、人間という生き物として当然のこととも言えます。若い頃はコーラとポテチで日々乗り切れていたけど、40過ぎたらご飯とお味噌汁じゃないと身体はいろいろおかしくなる、というような。
そういうことを、わかりやすく突きつけてくるのが、もしかしたら「44歳と60歳の壁」なのかも?と思ったりしたのです。
それは自分のために生きろというサイン
いけかよは、基本的には人間という存在は全員が全員、毎瞬をめちゃめちゃがんばって精一杯生きていると思っています。
「そんなことない、自分はグダグダしている。ぜんぜんがんばってない」と思っている人も、いまある心身のエネルギーを精一杯つかって在ることができる在り方が「グダグダ」というだけで、基本的には人間は「精一杯」がデフォルトのような気がするんです。
パワー全開で張り切るときはもちろん、休むときも、グダるときも、悲しむときも、怒るときも、人の心身のエネルギーは、ONかOFFしかなくって、エネルギータンクにどれだけガソリンがあるか、っていうだけのような気がするのです。コンロの火を調整するレバーのような機能は、ない気がします。
老いというのは、心身ふくめて、このエネルギータンクが小さくなっていくことのような気がします。でも、それは身体からも心からも両面からのアプローチが可能で、かつ、自分でケアすることで大きく保つ、なんなら歳をとっても大きくすることができる、ということですね。
そのためには、前述のように「自分の身体に向き合うこと」「自分の心に向き合うこと」が必要です。適切なケアを自分にしてあげるために、です。
それを、「いきなり老いる」みたいなショッキングな出来事で知らせてくるのが「44歳と60歳の壁」で、それはつまり「自分のために生きろ」というサインなんじゃないかと、いけかよは思うのです。
若い頃って、体力があるし失敗も許されるから、いろんなことに無駄にエネルギーを使うことができます。それはすなわち人間的成長のために必要な学びを得ているときとも言えるけど、一方で自分に自信がないがゆえに、自分をすり減らすような生き方をすることもままある気がします。
やたらと自己犠牲的に仕事をがんばったり、学校や職場で「いい人」になってしまったり、パートナーに尽くしすぎたり。
そうすることでしか他者に貢献するやりかたを知らない、とも言えるかもしれません。
でも、いよいよエネルギータンクが収縮してくる=歳をとってくると、エネルギーの余裕があまりありません。だからこそ、エネルギーを過剰にすり減らさないように、わたしたちは「自分のために生きる」をする必要があります。
気持ちや体力に余裕がなくなってくると、否応にも自分のことにかかりきりになりますね。これって、言い換えれば「自分のために生きる」です。
「44歳と60歳の壁」は、いきなり「自分のために生きる」への強制スイッチを押させるようなものなんじゃないかと思うんです。
そして、その壁を感じたら、最初は焦ってもだんだんとニュートラルに老いを受け入れ、適切なケアをし、回復できるのだということを知る。
自分処方箋も更新していくことを知る。
そして、日々すこやかに過ごせることを愛おしむ余裕もでてくるかもしれません。
ひいては結果的にそれが他者への愛や貢献にもなる、ということを知るのです。
そう考えれば、「44歳と60歳の壁」は悪いものじゃないかもしれませんね。
生きる目的とかも見えてくる
奇しくも、この記事がアップされる2024年11月20日は、冥王星が水瓶座に移動します。
占星術に興味がない人にはごめんなさい、なんのこっちゃでしょうか。いけかよは、占星術が好きなので、つい「あっ!」と思ってしまったのですが、ざっくりいうと、社会の流れを司る星である冥王星は、約20年ごとしか動かないんですが、それが動くタイミングがきたよ、つまり、時代が新たなフェーズに入るよ、ということです。
少し前から「風の時代」と言われてますが、それが本格的になるガチの後押し、っていうかんじです。
(興味がある人は「冥王星 水瓶座」とかで検索してみてください)
そんな、星の世界からのメッセージともリンクしているかもしれないな、と思うのが「自分のために生きる」ということ。
もう年齢的にオバサンやから、とかじゃなく、ほんらい、人間は自分のために生きるのがデフォルトであると思うんですが、だれかのために生きることに喜びや拠り所を見ている人もいると思うし、それって悪いことじゃありません。
でも、結局は自分のために生きる、が、たぶん、きっと正解なのです。
ひとりひとりが果たすべきなにかを持って生まれてきているはずだし、そのためにこの身体と心はつかわれるべきなんです。
そう考えると、「自分がなんのために生まれてきたのかわからない」「やりたいことがわからない」という人は、まず「自分のために生きる」をしてみたらいいんじゃないかと思うんです。まずは、心と身体を元気にすることに集中する。
そしたらなんか、自分の生きる目的とかって、おのずと見えてくる気がしませんか?
そしてなにより「自分のために生きる」は、命を大切にするということにほかなりませんよね。
命輝く人は、老若男女問わず人を魅了します。
まさに「Elämä(エラマ)=命、人生」だから。
そんな命輝く人をめざして、44歳の壁に直面したいけかよはいま「自分のために生きる」をやってみています。
そしたら、50歳くらいにはめちゃめちゃええ感じになってるかもしれへんよね。
そんな期待を胸に、新たな時代が始まる今日から、あなたも「自分のために生きる」をしてみませんか?
では、また!
Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)
こんにちは。majakka(マヤッカ)です。
日々、人生におけるウェルビーイングについて考えながら日々を過ごしています。わたしは今カフェチェーンで働いているのですが、お店によく来てくださるお客様から、最近「毎日に幸せを感じるヒント」をいただきました。
きょうはそのヒントを、読んでくださるあなたにもお届けできたらと思います。
元脳神経外科医の方による「人間が幸せを感じる時」
そのお客様は、元脳神経外科の方です。
いつもお店が少し落ち着いた時間に来てくださって、少しの時間ですが色々なお話を聴かせてくださいました。そんななかで、働くことや悩んだときの対処法など、気づいたら自分が色々考えているウェルビーングを体現されている方だ!と感じ、このお客様とお話するのが働く楽しみの一つになりました。
「幸せを感じるのは心臓ではなくて脳からなんだよ」と言われたことがあり、元脳神経外科医さんだったことを知りました。
わたしは出来事に左右されやすく、感情的になってしまうことが多いんです、と悩み相談をしたことがありました。
すると「感情的になるのは、出来事に対する『思考』→いやだ、辛いなどの『感情』に進んでしまうからで、出来事に対する『思考』→なぜその出来事が起きたのかという『思考』→『感情』、というように、感情の前にもう一度思考すると感情的にならないよ」と教えてくださったんです。
それ以来「思考→思考→感情」のステップを意識しています。
忘れていると、すぐに感情的になってしまうわたしですが、忘れずにこのステップを意識できたときは、なんだか心が落ち着いて物事や相手の気持ちに向き合うことができます。この思考は、大切にしていきたい「ウェルビーング=心身共に健やかな状態」でいられる気がしています!
そして、最近は「人間が幸せを感じる時」は「やる気」「モチベーションの維持」が大切とも教えていただいたんです。
いつも自分を鼓舞してがんばろうとしていたわたし
この日は「今日も1日がんばります!」とお伝えしたところ「がんばるっていうことはね…」とお話を聴かせてくださいました。
わたしはどんなことを教えてくれるんだろうとわくわくしました!お客様のお話をまとめてみると、
「がんばるという気持ちはやる気につながっていて、そのやる気は出そうと思っても出ない。自分で選択することの積み重ねがやる気につながり、それによって幸せを感じることになる」ということでした。
たとえ選択を間違えて失敗したとしても、それが経験となって次に活かされていく。
そうかぁ。わたしはいつも今日もがんばろう。と漠然と自分に念じていました。一緒に働く仲間や家族にもそうです。まぁ、がんばれたなという日もあったけど、ただただ疲れた…と感じる日が多いかなと振り返りました。
誰かにやってくださいと言われたことや、どうしたらいいかわからず上司のアドバイスをそのまま受け入れて取り組んだこと、選択する余地もないほど切羽詰まっていたとき、やりたくなくて先延ばしにしていたことをするときなどは、気づいたらどっと疲れていたり、なんだか達成感がなかったりしていたなと思います。
このようなことは、自分で選択していなかったからなのかも?と思いました。
一方で、一緒に働く仲間に対しても自ら考えてもらったことは楽しそうにやり遂げているけど、わたしからこのようにした方がいいよ!と伝えたことはなかなかお仕事がはかどっていないように見られることが多かったです。
1日に数千もの選択をしている私たち
お話を聞いてから、やはり自分で考えて選択し経験を重ねていくことが自らのやる気やモチベーションを引き出し、幸せを感じて生きていけるんだと理解しました。
そして周りの方たちとのつながりも大切にしていくことで、同じように自分で選択していけるように支えあえたら、豊かで幸せなコミュニティが広がって幸せだなと感じます。
大きな選択だけでなく、毎日の小さな選択も含めると人間は1日に数千もの選択をしているそうです。すべての選択を意識していたらとっても疲れてしまうけど、小さな選択だったら、できそうです。
たとえば今日の気分に合う洋服を選んだり、いつもならあまり挨拶をしない人に笑顔で挨拶する。いつもは仕事仲間に言われた通り働いているけど、その仕事の意味を考えてみる。
毎日のさまざまな選択を自分の意志で決定していくと、やる気も自然に維持できるかもしれないですね。
わたしは毎日の様々な選択のなかでも、特に食についての選択を意識していきたいと思っています。いつもついつい食べすぎたり、お腹も空いていないのにお菓子をだらだら食べる選択をしています。結果、お腹の調子が悪くなったり身体が重くなったりと、健康を感じられません。食べるものの選択をして自分を幸せにしてあげたいと思います!
また、一人ひとり大切にしたい選択は色々ありますよね。時に自分が選択しようとしていることが、良い方向へ進んでいくのか不安になることもあります。
最近も友人からのアドバイスに、そうしたいけど、でもわたしにとって本当に幸せなことなんだろうか…と悩み、もやもやしていることがあります。
そんな時、自分が納得できるようじっくり考えて選択したら、きっと誰かのせいにすることなく、上手くいったら自信につながるし、もし失敗しても次に活かしていけるでしょう。
自分と対話しながら自分らしい選択をしていける人になっていきたいと思います。
読んでくださったあなたにとって「幸せを感じるヒント」になったら嬉しいです。
Text by majakka(ウェルビーング探求人)
こんにちは。Kangasこと、ライフコーチの和田直子です。これを書いている10月中旬、ようやく私の大好きな秋がやってきたなあと感じるこの頃です。朝晩は少し冷え込み澄んだ空気を感じるようになってきたものの、日中の日差しはまだ強く、半袖で過ごすこともできるあたたかい秋。9月上旬に旅したフィンランドの気候のよう。いつもなら暖炉に火を点ける時期だと聞くのに、「もっと半袖を持ってくればよかった」と思うほどでした。
そう。私はこの9月、エラマプロジェクトのフィンランド現地スタディープログラム「フィンランドのサスティナブルな社会とウェルビーイングの暮らしを学ぶプログラム」に中学生の娘と参加してきました。
フィンランド現地スタディプログラム(ツアー)|Elämäプロジェクト (elama.be)
今回はその旅で感じたことを、じっくり思い出しながら書いてみようと思います。どうぞお付き合いください。
フィンランドの何に惹かれているのか?
実は昨年も私はエラマプロジェクトのフィンランドツアーに参加しました。そこで自分の心の声と向き合えたことが大きなきっかけとなり、今年の春に長年働いていた会社を退職し、個人でライフコーチとして仕事を始めました。その経緯はこちらにも綴っています。
はじめまして、Kangasです。会社員を辞めてライフコーチとして歩みだした私の「これまで」と「これから」|よむエラマ Produced by Elämäプロジェクト (note.com)
昨年の旅がきっかけで、これからは自分の心地の良い生き方をしていこうと思うようになりましたが、私はフィンランドの何に惹かれているのか?ということが分からずにいました。
フィンランドの人や社会の豊かさに対し、憧れや羨ましさのような感覚を持ってしまうのは何故だろう?という自分に対する疑問もありました。日本にいても、絶対「豊かさ」があるはずなのに。どうしても、フィンランドの方が日本よりも、人や社会が豊かだと感じてしまう。私はフィンランドで感じる豊かさの、一体何に対して惹かれているのだろう?
そんな言葉にできない幸福感を再び感じたくて、そして娘ともこの感覚を共有したいと思い、今年のプログラムに参加をしてきました。
コミュニケーションが人や社会のあり方をつくる
今まで私が言葉にできなかったフィンランドへの憧れや羨ましさ。今回の旅でもやはり、その感覚が私の内側から湧き上がってきました。今回こそは、それを言葉にしてみよう。そして、私にとっての豊かさとは何かを明らかにしたい。今、そう思いながらこれを書いています。
まず、今回の旅で最も感動を覚えた場所、それが“Restaurant & Bar Nolla”です。フィンランドで唯一成功しているといわれるゼロ・ウェイスト(ゴミを出さない)レストランで、その名前“Nolla”はフィンランド語でゼロを意味します。
レストランで案内された私たちのテーブルは、なんと厨房の中。シェフたちの手元や動きが間近で見られ、料理中の熱気や活気が直に伝わるライブ感たっぷりの食事体験をしました。そこでは、ゴミを出さない工夫やセンスあふれるアイディアが、お料理や空間の隅々にまで感じられました。そのクリエイティビティが、お店全体の世界観を生み出し、私にとっては忘れられない感動体験となりました。
実は私は以前、大手カフェチェーンのマネージャーをしており、「ゼロ・ウェイストストアを作りたい!」という信念を持って会社に提案をした経験があります。大規模なチェーンだからこそ、それが実現すれば社会にとてもポジティブな影響を与えられるはずと意気込んでいました。しかし、賛同し共に動いてくれる仲間がいる一方で、大きな組織ゆえに慎重派も多く、その影響力のある慎重派とのコミュニケーションを続けることをいつの間にか諦めていました。そして、私のゼロ・ウェイストストアを実現する夢の炎も少しずつ小さくなっていきました。
そんな経験があったからこそ、私はNollaがなぜ成功しているのかを知りたいと思ったのです。あるスタッフが「このお店を始める時、『失敗してもいいから、とにかくやってみよう』という気持ちで、私たちも街の人々も取り組みました」と語ってくれました。この言葉は、前職で私が抱いた野望に対して諦めてしまったコミュニケーションのことを思い出させてくれました。どれだけ豊かな思いを描いていても、困難を乗り越えるためのコミュニケーションを諦めてしまうことで、自分自身の可能性に制限をかけていたのだと思います。
さらに、コミュニケーションを放棄することは、社会全体の豊かさに広がりをもたらすチャンスを逃すことにもつながるのかもしれません。
Nollaでの体験は、単にゴミをゼロにするためのコミュニケーションではなく、ゼロを目指す過程で生まれるアイデアや挑戦を楽しむためのコミュニケーションでした。私たちお客もNollaの世界観や価値観に触れることで、そこにある想いを共有し、共にその時間を心から楽しんでいました。きっと、Nollaには「失敗してもいい、とにかくやってみよう」と背中を押す力のあるコミュニケーションがあったのだと思います。
コミュニケーションが人や社会のあり方を形作っているのだろうか。私が感じる豊かさとは、コミュニケーションに影響しているものかもしれない。Nollaでの体験を振り返っていると、そんなことに気付き始めました。
コミュニケーションが生まれる場所
その視点で去年と今年の旅を振り返ると、さまざまな場面でコミュニケーションが生まれる工夫があったことを思い出します。
まず学校では、先生が生徒一人ひとりに寄り添い、安心して授業や学校生活に参加できる環境が整っていました。静かに過ごしたい時や、少人数で話し合いながら学びたい時、それぞれのニーズに応じて取り組めるスペースも用意されています。また、先生同士が交流できるリビングのような職員室も印象的でした。
次に図書館。フィンランドの図書館は本を借りたり勉強をしたりするだけでなく、楽器の練習やミシンの使用もできる、まるで公民館のような場所です。キッズスペースにはベビーカーが並び、ママたちは離乳食をあげながらおしゃべりを楽しみ、パパたちは赤ちゃんを抱っこしながら立ち話をしていました。
さらに、娘とヘルシンキの街を歩いていて見つけた自転車と歩行者専用の道路も印象的でした。かつて港からの貨物輸送に使われていた線路を活用した道で、平日の夕方には仕事帰りに颯爽と走る人や、友人と会話を弾ませながら運動する人たちが見られました。
愛犬と気軽に乗車できる電車でさえ、飼い主と犬が自然にコミュニケーションを楽しむ場所になっているように感じます。
こうしたフィンランドらしい光景に触れると、人が集まり、つながりが生まれる場所に私は豊かさを実感していました。誰かと心地よい会話を楽しむことも、ただそうした場に身を置くだけでもよい。私が憧れを感じるのは、こうした場所が街の風景に溶け込み、人と人との心地よいつながりを生んでいることだと分かりました。
そうそう、サウナもその一つでした。娘と毎晩のように通ったサウナでは、初対面の人たちとも自然にコミュニケーションが生まれました。「ロウリュウしてもいい?」という声かけから始まる会話もありました。
ある晩、一緒に居合わせたフィンランド人の女性が、先に出る際にわざわざ私たちのためにバケツに水を汲んで「Enjoy!」と言ってくれました。その優しさに、私たちも思わず「Kiitos!(ありがとう!)」と返していました。
一方、コミュニケーションが私たちのあり方に欠かせないからこそ、時にはそれから距離を置きたくなることもあります。
自分のあり方を表現したり、他者のあり方を理解するために、コミュニケーションは不可欠なもので、そして、その積み重ねが社会のあり方を形づくっていくのだと、今の私は感じています。
しかし、置かれた環境や相手との価値観の違いが原因で、コミュニケーションを取ることが苦しくなることもあります。以前の職場で、コミュニケーションを諦めてしまった経験がまさにそのような状況でした。
人が集まり、つながりが生まれる場所に豊かさを感じると分かった今、たとえコミュニケーションから遠ざかりたくなる時があっても、そのような場所にただ身を置くだけで、心が癒されたり落ち着いたりするのではないかと思います。振り返ってみると、私は常に人とのつながりや、それが生まれる空間からエネルギーを得てきました。みなさんは、どうでしょうか?
自分のための1時間
「自分のための1時間をつくろう」
これは、ヘルシンキ郊外の街カラサタマのスローガンです。仕事や家庭の責任から離れて、自分に投資する時間を持つことを提案するこの言葉は、フィンランド人らしい考え方を表していると思いませんか?カラサタマは「スマートシティー」として知られ、デジタル技術を活用してインフラや施設を最適化し、市民と環境の両方にとって快適で心地よい街づくりを進めています。
この旅を経て、私が意識するようになったのは「自分のための1時間」という考え方でした。たとえば、日課として続けてきた愛犬の散歩や、早朝のジャーナリングなどを「自分のための時間」としてより大切に捉えるようになりました。こうして毎日1時間以上を、自分との対話や、心と体の調子を感じるための時間として使っています。
また、心地よいコミュニケーションが生まれる場所へ足を運ぶことも大切にしています。家族や友人と過ごす時間や、人の気配を感じるカフェでのひとり時間も、私にとってはポジティブな気持ちやアイデアが生まれる大切な時間です。
私にとっての豊かさを言葉にしたら
私にとっては、人と人がつながる場所でそれぞれの価値観が尊重され、心地よい距離感の中に身を置くことで、自分の幸福度が高まります。だからこそ、私は心地の良いコミュニケーションを生みだそうとするフィンランドの人々のあり方と、それを支える社会のあり方に惹かれるのだと理解できたのです。
フィンランドを旅して、そして、この記事を通して言葉にできた、私にとっての豊かさ。それが分かった安心感を今感じています。
皆さんも自分にとっての豊かさは何か、ぜひ言葉にしてみてください。誰と、どんな場所で、どのように過ごし、どんな気持ちでいると、あなたは心が満たされますか?
Text by Kangas(和田直子/強くしなやかで優しい社会を織りなすライフコーチ)
こんにちは。エラマプロジェクトの和文化担当、橘茉里です。
私がエラマプロジェクトに運営メンバーとして加入したのは2020年。
また、自身の主催ワークショップを立ち上げるなど、本格的にパラレルワーカーとして活動を始めたのも2020年のことです。
それ以来、少しずつ経験値を積み上げながら、パラレルワーカー歴は今年で5年目を迎えました。
5年目になると、1年目の頃とはだいぶ心境が変わっていることに気づきます。
和文化の奥深さ、豊かさを広めたい。
敷居が高く思われがちな和文化に親しむための第一歩をつくりたい。
その想いは今も昔も同じですが、1年目は「活躍したい」「自分の力がどの程度通用するか挑戦したい」といった、自己実現の欲求が今よりも強かったように思います。
私の本業は教員ですが、教員は休日出勤もありますし、仕事を持ち帰って夜間に作業することもあります。そのため、休日や夜間に働くことへの抵抗は元々ありませんでした。
ですから、パラレルワークのために自分の余暇を仕事に充てることは苦にならず、むしろたくさん働けることにやりがいを感じていました。
けれど、プライベートな時間を削って仕事を頑張るという状態をある程度経験してみた結果、どうやら私はその状態に満足してしまったようなのです。
私は、仕事ガツガツモードから、新たな生き方へとシフトしていきたいと考えているのです。
では、今の私が望む生き方とは何なのでしょう?
今回は、私にとっての幸せとは何なのかを改めて考えてみたいと思います。
あと1週間で命が尽きるとしたら?
私にとっての幸せとは何だろう。
どうやったらそれが分かるのだろう。
簡単に分かる方法があったらいいのに。
そんなことをつらつらと考えているうちに、閃きました。
“あと1週間で命が尽きるとしたら、私は何がしたいだろう?”
こう自分に問いかけてみれば良いのだと。
あと1週間でこの世を去るとなれば、世間体やお金を気にすることなく、自分が本当に望むことだけを選ぶはずです。
つまりこの問いを考えることによって、自分が本当に求めているものは何か、自分にとっての幸せとは何か、ということが分かるに違いありません。
そこで、自分の命を残り1週間と仮定して、想像を膨らませてみることにしました。
やりたいことは何でもやってみよう!
さあ、何をしよう!?
……想像してみて、愕然としました。
なんと、やりたいことがなかったのです!
「やりたいことは、……特にないなぁ」
豪遊してみる?
1週間を老舗旅館の離れで過ごす?
楽しそうではありますが、人生最後の1週間を使ってまでしたいことではありません。
「行きたい場所も特にないなぁ」
世界の絶景や世界遺産など、行ってみたいと思っていた場所はいくつかありますが、やはり残り1週間の命を使ってまで行きたいとは思えないのです。
「食べたいものは、……うーん」
美味しいものは大好きなので、採れたての鮮魚の舟盛りとか、高級食材とか、確かに食べたい気はします。
でも、なぜかそういう豪勢なものよりも、丁寧に炊いたお米に、お味噌汁とお漬物。
そんなシンプルなご飯を大切に味わえたら十分だと感じました。
驚くべきことに、あと1週間で命が尽きると仮定した結果、特別なことは何もしなくていいという答えが出てきたのです。
残り1週間の人生の中で、本当に私がしたいことは何?
この問いを深掘りしていくにつれ、自分の中の欲のようなものがどんどん削り取られて、身軽になっていくような感覚がありました。
そして、心の中から自然に出てきた答えは「自分の家で、愛する猫たちと心穏やかに過ごしたい」というものでした。
まだ見ぬ世界の絶景を眺めに行くよりも、美食を味わうことよりも、私は猫たちと静かに暮らしたい。
それが私にとっての幸せ。
この結論に、私は思わず笑ってしまいました。
だって、私の望みはすでに叶っているのです。
猫たちのおかげで、私は穏やかで満ち足りた日々を送っています。
そっか、私はもうすでに豊かで幸せなんだ。
そうつぶやくと、心がぽかぽかと温かくなりました。
「足るを知る」ことで豊かで幸せな生き方になる
「足るを知る」もしくは「知足」という考え方があります。これは古代中国の思想家、老子が記したとされる『老子』に出てくる言葉です。
辞書を引くと、“自分の今の状態に満足し、欲張らないこと” といった感じの説明が出てきますが、その説明だとちょっと言葉足らずな印象があります。
実は、「足るを知る」の後ろには言葉が続きます。『老子』には「足るを知る者は富む」と表現されているのです。
つまり『老子』には、“今の自分のありのままを受け入れ、満足することによって、精神的な豊かさを得ることができるよ” ということが書かれているのです。
確かに、どんなに物質的に恵まれていたとしても、本人が「足りない」「満たされない」という意識でいる限り、いつまで経っても安心感や満足感は訪れず、心の平穏や豊かさは得られないですよね。
お金持ちだったり、才能に溢れていたりと、世間から羨まれる条件を持った人なのに、なぜか幸せそうに見えないということがあったり、その反対に、稼ぎは少なく生活は厳しそうなのに、いつもニコニコと幸せいっぱいに過ごしている人がいたりします。
これも「足るを知る」を実践できているか否かの違いなのかなと感じます。
そして私が、あと1週間で命が尽きるならと仮定して、あれこれ考えを巡らせたプロセスも、「私にとっての足るを知る」ための作業だったように思います。
そのプロセスをちょっと振り返ってみましょう。
1週間の間にやりたいことを思い浮かべてみたけれど、どれもしっくりこなくて、自分の家で猫たちと穏やかに暮らすことこそ、私が求めているものだという結論に至った。
しかし、それはすでに叶っているものだった。
私は、自分にとっての豊かで幸せな生き方がもうすでに実現できていることに気づいた。
これってまさに「私にとっての足るを知る」だと思いませんか?
もちろん私だって今の生活に全く不満がないわけじゃないし、もっとこうしたい、こうなりたいという欲求は当然あります。
でも、自分にとっての「足るを知る」が分かっていると、焦ったりあがいたり、他人を羨んだりすることなく、心が落ち着いた状態で日々を過ごせるように思います。
「足るを知る」ことで得られる豊かさや幸せは、大規模でドラマチックなものではないでしょう。
ほんの些細な出来事に対して、「ああ、これが幸せってことなんだなぁ」としみじみ感じるような、そんな慎ましやかで穏やかな幸福のことだと思います。
そして、そんな幸福をあなたもすでに手に入れているのです。
あとは「足るを知る」ことに気づくだけです。
仕事は、長い人生を歩むために必要なもの
あと1週間で命が尽きるとしたら、という問いかけから、自分にとっての「足るを知る」を知った私ですが、実は、今まで意図的に触れていないことがありました。
それは仕事のことです。
もし自分の命が残り1週間だったならば、私は何の未練もなく、すべての仕事を手放すでしょう。
あと1週間しかないのに、仕事をしているなんて時間がもったいない!
私は猫たちとまったりごろごろするんだ!
きっとこう思うはずです。
しかし現実のリアルな私にとっては、仕事はなくてはならないものですし、残り1週間の命という縛りがなければ、仕事は「重要なものランキング」のトップ3に入るくらい大切なものです。
生きている私にとって仕事は必要。
でも、残り1週間の命なら仕事はいらない。
では、私にとって仕事とは一体どんな存在なのでしょう?
仕事をしたいという気持ちは、10年後も数十年後も、自分はこの世界に生きていると思うからこそ、成り立つものではないでしょうか。
自分の時間がまだ数十年あるということは、その数十年を有意義に過ごすための行動をしなければなりません。
まずは、お金が必要です。
それだけでなく、生きがいも必要です。
仕事というのは、お金と生きがいの両方を満たしてくれるものなのではないでしょうか。
私たちはこの人間社会を面白く楽しく生きていくために、生きがいを必要としているのかもしれません。
生きがいとは、長い人生を豊かにするために必要なもの。
そして、生きがい、やりがいの最たるものと言えば、仕事ではないでしょうか。
だから私は、余命1週間だったら仕事はいらないけれど、余命数十年だったら必要と感じるのだと思います。
「足るを知る」生き方と、仕事から生きがいを得る生き方は、ベクトルが違う生き方ですね。
では、私たちはどのように生きていったら良いのでしょう?
私は両立させれば良いのだと思います。
「足るを知る」生き方と、やりがいや生きがいを感じる生き方、その両方のバランスを取りながら生きていくのが、現代人に合っているのではないかと感じます。
この記事の冒頭で、パラレルワーカー5年目の私は、1年目の頃とは心境が変わってきていると書きました。
思えば、1年目の私はやりがいや生きがい重視の生き方をしていたように思います。
けれど今の私は、あの頃よりも「足るを知る」を大切にしたくなっているのです。
私も自分なりのバランスを探りながら、これからの人生を歩んでいきたいと思います。
暖かな日差しの中、猫たちの寝顔を眺めながら、そんなことを考えた今日この頃なのでした。
Text by 橘茉里(和えらま共同代表/和の文化を五感で楽しむ講座主宰/国語教師/香司)
こんにちは。エラマプロジェクト代表、フィンランド生涯教育研究家の石原侑美です。
現地での研究、フィンランドツアー開催のため今年もフィンランドにやってきました。
この記事が公開されるのは1本目のツアー「フィンランドのサステイナブルな社会とウェルビーイングの暮らしを学ぶプログラム」が終わった後。そしてその約1ヶ月後、10/13からは2本目のツアー「”北欧のシリコンバレー”フィンランド・オウルで働き方とウェルビーイングを学ぶプログラム」を開催します。
8月中旬からフィンランドに滞在し、1本目のツアーが始まる前の約2週間はサイマー湖水地方で過ごしていました。
その期間でわたしが得られたことなどみなさんにも共有できたらと思う経験がありましたので、今回は「余白」と「対話」と「勇気」に関するお話をしたいと思います。
最初の2週間は森と湖に囲まれて
8月、フィンランドのサイマー湖水地方、プンカハリュに到着。ここに来て感じたのは、まず去年より湿気が多かったことです。滞在2週目のある日に森の中を歩いていたら暑くて汗をかきそうなくらいでした。
気温自体は日本と比べるとかなり低くて21〜22度くらいだったんですが、それ以上に暑く感じて、日差しも強かったです。
その週は1日だけ台風かと思うくらいの風と雨と雷がすごい日がありましたが、それ以外の日はずっと晴れていてとても気持ちよく過ごせました。
隣のコテージにはフィンランド個人旅行のコーディネートを担当した一家もいらっしゃって、約1週間滞在されました。スケジュールを一部ご紹介すると、ある夜はコテージでバーベキュー→サウナに入る→湖で泳ぐを繰り返し、みんなできれいな景色や自然の中の楽しさを味わっていました。
そして、個人では行くのが難しい、現地の小学校見学にも行きました。翌日は
プンカハリュ在住の森林浴ネイチャートレーナーで「SaimaaLife」を運営しているマリ・アホネンの案内のもと森の散策に行き、その後はコテージでカレリアパイとブルーペリーパイを作るワークショップがありました。
このようにわたしは通訳やガイドの仕事で人と過ごす時間はあったのですが、基本的にはいつもの暮らしとは違う形(家族と離れて一人)で過ごす時間がとても多く、自己対話の時間も生まれていったのです。
きれいな景色に癒されると病む?
フィンランドでも通常の仕事はしているのですが、その仕事でいろいろあり、どうしようもなくなったときがありました。
そういう場合は日本にいたらおいしいご飯を食べるとかお酒を飲むとかちょっと外に食べに行こうとか、そういった発散の仕方ができますし、わたしは家族と一緒に暮らしているので家族と話してちょっと気分転換することもできるんですが、一人だとそれができないんですよね。
今はオンラインという方法もありますが、家族も忙しくて1週間話せないという状況にもなりました。コテージの前に湖がある場所に滞在していたんですが、落ち込んだ気分で外をパッと見ると、すごく景色がいいから、より病んでしまったんです。
もちろんきれいな景色を見ると癒されますが、同時に一人だとすごく病みやすくて。日差しはあるのに病みやすかったです、その1週間は(笑)。
例えばあの人はなんでそんなことを言うんだろうとか、わたしがもうちょっとこれを確認しておけばよかったのかと後悔したりとか、自分ではコントロールが効かないくらいの、心の中のどろどろした部分、闇の部分というのがあって。
その中でハッと景色を見ると湖がキラキラ光っているし、白樺の葉も湖のきらめきのようにキラキラしていて。
光を見れば見るほど、美しすぎる景色の前でより自分の闇が出てくるような、闇があるということにどんどん気づくような。
光に照らされるほど自分の影が濃くなるーー。そんな感覚に陥ったんです。
これが、もし暗い秋や冬だったらまた違う感覚なんでしょうが、明るくていいものに出会っていくほど自分の闇に気づいてしんどくなる感覚です(苦笑)。
日頃から自分を見つめるという習慣はありますが、やっぱり生きているといろいろ起こります。そのたびに問いを立てて向き合ってはいるのですが……。
しかし、それでもその1週間はいい自己対話ができた日々でもありました。
自己対話と余白
わたしの場合は、自己対話は心の中だけでやっています。人によっては書き出したり、誰かに聞いてもらったりする方法の方もいると思います。
仕事以外の時間は、心地いいL字型ソファーに寝そべって過ごすことが多かったです。窓からは湖などの景色が見える位置だったんですが、気持ちがほどけていくからこそ闇だけではない自分の本音が見えてくるというのはあると思うんです。
ある日、自分の声なのでしょうがふと「わたし本当にその生き方でいいの?」がやってきたんです。自然の中で余白が多くなると自分と対話しやすくなるとあらためて気づきました。
実は答えも出たんです。
前々から、自分が近い将来にやりたいと思うものがありました。それは周りも賛成してくれているし、このまま実現のための準備をしようと思っていて、自分自身もそんなに疑問を持たずに進んでいたんですね。
でも、本当にその道でいいの?と思ったときに、それを「やらない」という答えになりました。正確に言えば、90%以上その結論に至りました。短期間にそんな疑問がすぐに出てきて自分で決断できるのは初めてだったので、不思議な体験でした。
この1週間はわたしにとって本当にしんどかった一方で充実していました。
結果的にひさしぶりの一人時間を満喫した、という話になりますね(笑)。
「余白」とは、日本にいるときなら、仕事がある程度落ち着いたら、次は夜ご飯を作るとか、明日のための準備をするとか、畑から何か取ってくるとか、家でやることがたくさんあります。
でも、一人になるとまずスケジュール的な意味での余白ができます。
それによって、考えなくていいことが増えて、頭の余白もできますね。
日本にいると「今日何作ろうかな、何を作る必要があったかな?」と思うと、そのためには買い物に何時に出て、何を買うと何のメニューになるかな、明日銀行に行かなきゃいけないよね、などなど、仕事以外にも考えることがたくさんあります。
でもフィンランドに来ると、旅行者だからというのもあってそれを考える必要がない。ご飯はずっと作っていますが自分一人のためだからそんな大したことはないので、どんどん頭の余白ができてくるっていうのは大きいかもしれません。その結果、心の余白ができたという感じです。
「勇気」と「希望」の関係性
前述のマリのプログラム(森の散策)に同行した際にマリが話してくれたことなのですが、自然に触れれば触れるほどいろんな神経系のバランスが整っていくそうです。
森の中であれば、木を見る、木に触れる、木の匂いを嗅ぐ。もちろん虫もたくさんいますし刺されてかゆい体験もしますが、自然の中にいると本音が見えてくるんですよね。日本でも自然の中で過ごす効果・効能は広く知られていますよね。
マリのウェルビーイングコースのプログラムでも彼女はよく「FIND YOUR NATURE」と言います。「あなたの自然を見つけよう」ということではあるんですが、natureという言葉には「自然」以外にもたくさんの意味があるんです。「人間性」も「本質」もnatureという言葉にできるんですよね。
だから「FIND YOUR NATURE」というのは、あなたの「自然」を見つけることだけではなくて、あなたの「本音」を見つけるという意味も含まれるんですよ。
仏教では「自然」を「じねん」とよんで「自ら然る」(人間の作意のないそのままの在り方
)という意味に解釈しています。自然というのは木とか水とかだけではなく、ありのままの自分でいるという意味の方が強いのかもしれないねという話を森の散策中にしていました。
さらにみんなで対話をしていると、「ありのまま」の難しさについての話になりました。
まずありのままの自分を知ることが難しいし、ありのままの自分がわかったところで、それになるのは難しいのではないかと。
例えば、何かしらの勇気を持ってやめるという決断をしなければありのままでいられないかもしれないし、勇気を持って自分の超えなきゃいけない心の壁に向き合う必要があるかもしれない。
ありのままでいるってすごく難しいことだし、勇気のいることだから、実はありのままでいようという話はそんなにキラキラしたことではないねという意見にまとまったのです(笑)。
自然の中にいると、明るくて美しくてキラキラしていて、確かに癒されます。でも、同時にありのままの自分をあぶり出されるから、それと向き合うことになったときに辛さも伴うんですよね。そりゃ勇気を持たなきゃいけないよね、と……。
何とかしてその苦しさを、自分自身の機嫌をとることで解消させなければいけないんだなと実感することになるのです。
他にも、幸せになるためには勇気がいる、自分らしくいるためには勇気を持たないといられないといった話も出て、対話はつきませんでした。
ふと、参加者の女性がマリに「勇気はどこから来るのか?」という質問を投げかけたんです。するとマリの回答がおもしろくて。
「勇気を出すというのは人間の特徴だ」とマリは言ったんです。
それは、勇気を持つためには自分が気づかなければいけないし、自分と対話をするために心にも頭にも余白を持って、それだけの体力がないといけないと。
病気(体も心も含めて)のときに自分と対話するのはすごくエネルギーがいるから、体力のあるときに、余裕のあるときに自分との対話をおこなうのだとも言っていました。
マリは「そうやって向き合うからこそ自分が幸せに生きたいという気持ちや『未来の希望の光』に向かって進むんだ」「それが人間の特徴なんだ」と言っていたんです。
それを促すために余白が必要ということなんですね。
それって「生きがい理論」にもつながるのかなと思います。
「生きがい」と「生きがい感」の違いを神谷美恵子さんが『生きがいについて』という本の中で書いています。生きがい感の定義として、今あるもの、目の前に集中して幸せなものを噛み締めることだけではなく、それに加えていかに未来への希望を持てているかどうかだとされています。
幸せになるためにはどうすればいいか?ということに対して、フィンランドでもいろいろな文献でも仏教的な思想でも、「今あるものに集中する」「今あるものを大切にする」という感覚がありますね。
本当に幸福感を持つためには「未来に明るい光があるかもしれない」という希望を持つこと。
それが勇気を持つためにもすごく大事なのかなって感じています。
人間の脳ってマイナス思考がベースなので、未来を思えば思うほど人間は不安になるんですよね。それは人間として当たり前ですし、不安を希望に変えられるのも人間の力だと思います。
マリの言葉とわたしなりに感じていることを総合すると、「希望を持たせる力」こそ勇気なのかなと思ったりしたのです。
「勇気をもらう」という言葉があります。勇気を持つことは、自分の中だけじゃないような気がするんです。
一方、覚悟となると自分の中にしかない印象ですよね。
フィンランドの書物にも「勇気を持って」という言葉はよく出てきますし、フィンランド人もよくその言葉を使います。覚悟ではなくて勇気という言葉が多いので、「勇気」は自分のライフデザインを考える上で大事だなと感じます。
「忍たま乱太郎」(アニメ)の主題歌で歌っていることは間違いなかったなって今になって思いました。そう、勇気100%(笑)!
そういえば、時代劇の水戸黄門の歌にも「人生勇気が必要だ」っていう歌詞が出てきますもんね。
フィンランド滞在報告会を予定しています
さて、今回は、余白をたっぷり味わった私が、フィンランドの自然の中で得たたくさんの気づきをお話させていただきました。
いかがでしたか?
10月下旬までフィンランドに滞在しますが、帰国後、今年もフィンランド滞在報告会を実施予定です。
きっと、さらなる学びと、濃い〜体験談、そしてもちろんリアルなフィンランドの最新情報をお伝えできると思います。
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どうぞお楽しみに!
By 石原侑美(エラマプロジェクト代表)
Interview & Text by nakagawa momo(フリーライター)