Elämäプロジェクト

こんにちは、pieni(ピエニ)です。

最近、私はとても気になる考え方を知りました。

それは「JOMO(ジョーモ)」というもの。
みなさんはご存じですか?

JOMO(ジョーモ)とは「Joy of Missing Out」の略で、直訳すると「取り残される喜び」。
SNSやコミュニティと常につながっていなければ不安になる状態から、少し距離を置くこと。そして目の前の時間や、自分自身を大切にすることから、静かな幸福を感じること。

それが、JOMO(ジョーモ)という考え方です。

これを知ったとき、「あ!最近体験したことは、まさにJOMOじゃん!」と感じました。

情報があふれかえる毎日、疲弊した私を回復へ導いてくれたもの、そこで見つけたものを「JOMO(ジョーモ)体験」として振り返ってみます。

「忘れられるのでは」という恐怖

私は、仕事やライフワークとして、Webライター、地域情報の発信SNS運営、北欧雑貨の販売を行っています。

いろんな顔を持っていますが、どの活動にも欠かせないのが「情報を見る・得る・発信する」ということ。

子どものころからパソコンが好きで、学生時代から流行り始めたSNSも好き。
WebやSNSの世界で困ることはありませんでした。

けれど、ときどき疲れる…。
見る、得るということより「こんなこと発信していいのかな…」と不安になる瞬間があります。そうなると、情報の中に身を置く自分に違和感を感じることも。

ただ、その違和感は、いつもなら1、2週間で薄れていました。
けれど、昨年末から今年にかけては、ものすごく辛いと感じるようになってしまったのです。

仕事が忙しかったこと、人間関係や子育てで悩みを抱えていたことなど、さまざまな不安が重なり、

「とにかくSNSから離れたい」
「人に出会いたくない」
「外出したくない」
「家族とも話したくない」
「一人になりたい」…そんな気持ちに襲われました。

「じゃあ休んだらいいのでは?」
そう思われるかもしれません。

でも、同時に襲ってきた、もう一つの感情がありました。

それは「忘れ去られるのではないか」という恐怖。

SNSは、定期的に発信していなければ、目にしてもらえる機会が減ります。
更新が止まればフォローも外されてしまうかも。
情報を得ないと、次の発信もできない…ついていけなくなるんじゃないか。

「あぁ…発信者としては致命的」そう思っていました。

SNSだけではありません。
年末年始、挨拶など人と出会う機会も増える時期に、引きこもることは許される?
ダメな妻、ダメな母親と思われるのでは…

このような葛藤がありました。

この状態は「JOMO(ジョーモ)」の反対語「FOMO(フォーモ)」というんだそうです。

FOMO(フォーモ)は「Fear Of Missing Out」の略で、直訳すると「取り残されることへの恐れ」。情報や人とつながっていないと置いていかれる、成功のチャンスを逃してしまう、関係が保てなくなるなど恐怖を感じること。

まさに、私はこの時「FOMO(フォーモ)」にも陥っていました。

なにも発信せず、気にすることなく休みたい。
なのに「休むことが恐怖…」という状態でもあったんです。

そんな相反する感情の中で過ごしていたら、体が先に限界を迎えました。
熱が出て、強制シャットダウン。年末年始は、ゆっくり休むことになりました。

しかし、しばらく休んでも調子が戻ってこない。
再び「このままでは忘れられる、積み重ねてきたものが終わってしまう」
そんな恐怖がやってきました。

そんなとき、事態を変化させる2つの言葉をもらったんです。

ひとつは、お世話になっているカウンセラーさんから
「年齢にともなって、体も変化してくるし、やり方を変える時が来たんじゃないかな」

もう一つは、このメディアのライター仲間から
「きっと在り方は変わらなくても、やり方は変わっていいと、自分に”よし”としてあげることが大切なんだろうね」

これらの言葉に背中を押してもらい「もしかしたら、変化するときなのかもしれない。
今は、休もう。情報や人との関わりを、いったん置いてみよう」。
そう決意しました。

何でも許す場をつくってみた

調整できる仕事や誘いは、しばらく待ってもらったり、お断りしたりしました。
しかし「こんなことをしていていいのだろうか」という不安がしぶとく湧いてきます。

今回はこの感情に蓋をかぶせると、なにも変わらないと感じたので、試してみたことがあります。

それは簡単なノートデコとゆるいジャーナリング。

ノートにかわいいと感じる紙をパンチで切り抜いて、それを貼るだけ。
ノートにときめくと感じるシールを張って、今その時の気持ちを書き出すだけ。

それだけのこと。

始めたときは、どす黒い感情しかでてきませんでした。自分の中では「Deathノート」と名付けていました。

けれど、「Death(デス)っている」暗い気持ちでさえ、なんでも書いていいと許可しました。
感情を書くのがつらくなったら「ゆるめる・ゆるめる」と書く。
さらに、毎日つづかなかったとしても問題ない。
うまく書けなくてもいい。
自分のためだけにこのノートをやっている。
「何をしても許す場」をノートに作ったんです。

ゆるっと続けるうちに、ある日「このノートめっちゃかわいい」という、不思議な満足感が湧いてきました。
そこから、靄がスッと引いていくように落ち着き、ごく自然にやりたいことを書き始めている自分に出会いました。

そして
「自分の在り方ってなんだろう」
「私の原動力や、発信したいと思う言葉は、どんな思想からあふれ出しているんだろう」

このような深いところまで考えることができました。

発見した在り方については、ここで書き出すと壮大な物語になってしまうので、また別の機会にぜひ書かせていただきたいのですが、こんなことを強く感じました。


「SNSなどの情報や、人から離れたとしても、私は私である」


「生まれてから今日まで培ってきた価値観や、心の奥底にある精神性は、なにひとつ否定されるものではないし、だれも否定できない」


「迷子になっていたり、忘れていただけで、落ち着いて見渡すことができれば、一番大切な”核”に戻れる」


この「核」(自分の軸や中心、在り方、精神性と呼ばれるものだと思っています)に触れたとき、自然と涙が出ました。

深くて、静かで、温かい感覚。
どっしりとした安心感があり、とても嬉しい気持ちになりました。
外の情報や評価ではなく、自分の内側にちゃんと戻れた、という感覚でした。

これこそが、私にとっての「JOMO(ジョーモ)」体験だったのです。

取り残される恐怖が消えたわけではありませんでした。
でも、そのたびに否定せず、「怖いよね」と受け止め、無理に追い払おうとせずに過ごしてきました。

そうやって、自分を大切にする時間を重ねた結果、自分の中心に帰れる安心や、喜びを感じられるようになったのだと思います。

休んだからこそ見つかったこと

落ち着いた今、発信したいと思う言葉には、「深さ」や「重み」が加わったと感じています。
誰かにそう言ってもらったわけではありません。
評価されたわけでも、数字で証明されたわけでもありません。
それでも、これは私の中で「確信」になっています。

以前は、もっと発信しなきゃ。頻度を上げなきゃ。フォロワーを増やさなきゃ。
そんな思いにどこか追われていました。

でも今は違います。
数や頻度よりも、ひとつひとつの発信に温度を込めたい。

自分が本当に感じたこと、考えたことを、無理のないかたちで言葉にする。
それがにじみ出たとき、きっと、もっと喜びを感じられる。
そんな考え方に変わりました。

もしかすると、また見捨てられる恐怖に襲われることがあるかもしれません。
でも、そのときは今回と同じように、変化や新しい気づきにつながる「きっかけ」だと受け止められそうです。

離れて、休んで、自分に集中してみる。
そうすれば、また「核」に戻れる。思い出せる。
さらにその先は、新しい進化につながっているかも。

私にとって、そう強く感じられる体験でした。

立ち止まることは、消えることじゃない

やっていたことを、いったん置くこと。
休むこと。
一人になること。
情報から離れること。

それは、怖いことかもしれません。
特につながりを大切にしてきた人ほど、その怖さは大きいのではないかと思います。

でも私は、その時間は「止まる時間」ではなく、自分の中心に帰る時間なのだと感じています。
回復し、静かに深まっていくための時間でもあります。


少しイメージしてみてください。
溺れそうなとき、必死に手足を動かすと、かえって沈んでしまうことがあります。
でも力を抜けば、体は自然に浮いてくる。

迷いや怖さも、少し似ているのかもしれません。
抗い続けるよりも、一度受け止めてみることで、見えるものが変わることがあります。

浮かび上がったときに見える景色は、思っていたよりも穏やかです。

そしてその静かな時間の中でこそ、本当に大切にしたいものの輪郭が、少しずつ見えてくるかも。

少し疲れているなら、立ち止まってみるのも一つの選択だと思います。

離れても、休んでも、存在そのものが消えることはありません。
たとえ誰かに見られていなくても、評価されていなくても、存在してきた事実は変わりません。

私は、こう思います。
「小さくても、きっと何かや誰かに影響を与えている。それは波紋のように広がっていく」

だから、どんな状態であっても、今ここに生きているということ自体が尊い。

ちょっと疲れちゃったな…というあなたへ、今ここでエールを送ります。

Text by  pieni(ピエニ)(丹波フィンランド大使)

こんにちは!majakka(マヤッカ:灯台)です。

わたしは数年前から自分の現状に物足りなさを感じるようになりました。モヤモヤと悩みながら過ごしているときに「幸せ」「自分らしさ」「好きなこと」「やりたいこと」などのキーワード目に飛び込むようになり、SNSや本、ドラマ、友人から気づきを得て「ウェルビーイング」という言葉に出会いました。

ウェルビーイングとは、世界保健機関(WHO)では「身体的・精神的・社会的に良好な状態」とされています。「心身共に健やかな状態をわかっていて、そこに向かって歩んでいる状態」も大切だと、このメディアの運営母体であるエラマプロジェクト代表の石原侑美さんから気づきをいただいてから、わたしは自分なりの「ウェルビーイング」を探求しています。

「もっと自分らしく生きていけたら」と考えていたときに出会った本

色々なことを経験し、気づきを得ていくなかで自分にとっての「ウェルビーイング」は、「自分らしく好きなことに思いっきりチャレンジすること」かなと思っていました。そんなとき、たまたまおもしろそうなセミナーを見つけて参加しました。

主催者は川原卓巳さんです。あの「人生がときめく片づけの魔法」でお馴染みのこんまりさんの旦那さまです。

卓巳さんはとっても明るくて超ポジティブ!自分らしく好きなことで生きていくことが人生を輝かせること、でもただ楽しいだけでなく覚悟が必要であることも気づかせてくれました。

こんまりさんの「ときめき」という言葉はわたしもとても大切にしていて、そんなこんまりさんをプロデュースもされていることを知ったこともあり、もっと卓巳さんの想いを知りたくなりました。

そうして出会った、川原卓巳さんの著書「人生は、捨て。」を読んで得た気づきをお話します。

「モノ」を捨てることで自分の「好き」がわかる!?

卓巳さんは日常生活ではほとんどストレスを感じずに過ごしているそうです!

ストレスフルなわたしにとっては「そんなことある!?でもそう感じられたら幸せだなぁ」と読み進めていくことにわくわくしました。

本のなかでは色々な「捨てる」技術を教えてくれます。

こんまりさんのことをプロデュースされていらっしゃるので「モノ」を捨てる技術がとてもわかりやすいです。

色々な捨てる技術について、その準備や時間、手順などを書かれているのですが、そのなかでモノを捨てるときに一つひとつ手にとって「ときめき」を感じるかどうかで捨てるかどうかを判断するという作業を少し実践してみました。

モノの整理は、写真や思い出の品が出てくると、その思い出に浸ってしまいなかなか進まず時間がかかりますよね。

一つひとつ手にとって「ときめき」を感じることにも少し時間がかかりました。

でもこの作業は単なる「捨てる」ことではなく、自身の「ときめきセンサー」を養うこと。自分の好きなことが見つけやすくなり、自分らしく生きられることにつながるそうです。

なるほど!と思いました。自分の「好き」を察知する力がアップして、身の回りに「好き」なモノがたくさんあれば「幸福感」が高まり、自分らしくいられそうですよね!

そして、捨てる決断をした「モノ」への感謝も忘れずに手放していく。こういったことも温かい気持ちになります。

「人間関係」も捨てる!?

「モノにそれぞれの役割があるように、人間関係にもそのときどきの役割がある」

卓巳さんはこう書かれています。

わかるけど、モノと人は違うんじゃないかなと思いながら読み進めました。

長い人生のなかで、人はたくさんの人と出会います。自分、そして相手のライフステージも変化していきます。とても気の合う仲間ともその変化により関係性は変わっていきます。

大人になり仕事が絡んでくると「この人は自分の利益になるのか」など、心でなく頭のなかで人間関係を作ろうとしてしまうことがあるかもしれません。

わたしはカフェチェーン店の店長をしているのですが、昔、アルバイトさんが将来のことを悩んでいて、新しいことにチャレンジするか、このままアルバイトを続けるかを相談してくれた時に、「今この子に辞められたらお店が回らなくなるからなんとしても続けてもらわなくちゃ」と、必死に新しくチャレンジすることの難しさを話して引き留めたことがありました。

今思うと、なんてひどいことをしたんだろうと反省しています…。自分だけが楽をしたいための関係を継続しようとしていました。

当時、彼女はお店にとどまってくれましたが、数年後に自分の夢にチャレンジしました。わたしが言うのもおこがましいのですがすごいな!と尊敬しています。

自分の利益だけを考えた関係は相手にとっても「自分らしく」生きることを難しくさせてしまいますね。

また、仕事での人間関係に疲れてしまったときに、わたしは幼なじみや高校の同級生と会うと一瞬で純粋な気持ちに戻れます。

日頃のストレスが癒されます。

でも、長い間仲良くしてきた人でもちょっとした違和感を感じることもありますよね。

また、慣れ親しんだ関係に甘んじずに自分を、そして相手と共に成長できるような関係も大切です。

「人間関係」も自分と向き合い、相手のことを想い、「ときめき」を感じるかを心で判断すると温かい気持ちで「自分らしく」人生を歩んでいけそうです。

手放すときには「感謝の気持ち」を持つこと。

やっぱりとっても大切ですね。

「自分」をも捨てることで自分らしさを表現できる

「モノ」「人間関係」の他、お金、子どもへの期待、都会など、色々捨てるべきことが書かれていましたが、「自分」を捨てるということにわたしは大きな気づきを得ました。

「自分らしい状態とは、自分に向かう気を捨てられている状態」

わたしの頭のなかに「??」が浮かびました。

この「自分に向かう気」とは、「自分ってどういう人間なんだろう、自分は人にどう思われているのかな」など、ベクトルが自分に向きすぎていることを言うそうです。

何かに夢中になったり、人のために力を注いでいる時は、自分を気にしていなくて仏教で言う「無我」の状態。

これが本来の自分の良さが出ている「自分らしい」状態だそうです。

なるほど〜!と腑に落ちました。

わたしも好きなことに夢中になっていたり、困っている人に何かできることはないかと考えたり、誰かへのプレゼントを探すときはかなり没頭します。

みなさんも何かに没頭することはありますか?

また「承認欲求」を手放すこと。

この「承認欲求」は自分が「こうありたい」と思う張り合いになるため、プラスの効果もあります。

しかし、それが大きすぎるとどうしても他者からの判断基準になり、自分の人生の満足度を他者にゆだねることになってしまいます。

確かに!

思い返してみると自分で目標を考えても、人からの評価が良いにつけ悪いにつけ思うように得られないと、それに引っ張られてネガティブな方へ進んでいってしまうことがありました。

こんなネガティブ思考をプラスにしていくのは、やはり「人の役に立つこと」を実践していくこと!

誰かに「ありがとう」と言われたら嬉しいですよね!自分も幸せな気持ちになり、満たされます。

自分が人からどう思われているかという気持ちや他者からの評価を手放し、夢中になれることにチャレンジする。誰かのために小さなことから行動を起こす。それが、「自分に向かう気」を捨てることにつながっていると感じました。

わたしも「自分に向かう気」を手放せるように、笑顔で過ごしたり、道を譲り合ったり、公共の場所は(家でも!)次の人が気持ちよく過ごせるようにさっとキレイにしたり、小さなことから始めています。

感謝の気持ちを忘れず、「ときめき」を大切に

「捨てる」ということは自分にとっての「ときめき」がより明確になるという気づきがありました。

これは、人生をより「自分らしく」生きていくためにとっても大切なことだとわたしは感じています。

そして、ただ「捨てる」のではなく、大切なのは一つひとつの出会いに感謝することです。そうすれば、これからも共に歩んでいくモノや人に対してもお互いに「自分らしく」いられて、誰もが心地よく過ごせる社会になりそうです。

「人生は、捨て。」ここには書ききれていない「捨てる」技術がたくさん詰まっています!

みなさんお一人おひとりに響く「自分らしく」生きていく方法を見つけてみてください!!

Text by majakka(ウェルビーイング探求人)

「私はなんでもっと人間関係をうまくできないんだろう」

そう言ってひとり泣いた夜がありました。

フリーランスの人事になって2年目。次の新しい道にふみだす前に、2月のフィンランドに2週間滞在しました。

マイナス20℃の広い世界で考えたのは、この2年間で出会い、そして別れてきた人たちのことです。終わった仕事のクライアントやチームメンバー、研修で会ってそれきりになった人、あの時に傷つけたかもしれない家族のこと。

私たちは日々だれかと関わって生きて、傷ついたり怒ったり悲しんだり、心が麻痺して動かなくなったりしています。「もうAIとだけ話したい」「人間は裏切るから嫌」。そんなことを言われたこともありました。

もう人間関係の正解がわからなくなって、それでも人事としてだれかのことを応援したくて。答えのないままにフィンランドに飛んだのです。

そこで出会ったのは新しい人間関係のヒント。良い悪いの白黒だけでは測れない、これからの時代の”色”でした。

あなたにもひとり泣いた夜はあったでしょうか。

人に傷つきながらも人といることを諦めていない。

そんなあなたにこの記事を贈ります。

2月のフィンランドは白でも黒でもない

人生5回目のフィンランドですが冬に行くのははじめてでした。12月のクリスマスは華やかだけれど、基本的に冬は暗く寒く耐える時期だと聞いていました。

私はすっかりおびえてしまって、2ヶ月前から準備をして人生最高額の防寒アウターを買ったほどです。日照時間が短くて気分が落ちこみやすいと知り、対策としてビタミンDサプリやインスタント味噌汁を買って、Netflix入会までしました。落ち込む準備は万全です。

一方で、スキー場のような雪で白銀に輝く北欧の自然もまた楽しみでした。

(インスタント味噌汁・だしのもと・ほうじ茶ティーバッグのセット。日本食が恋しくなったとき用にジップロックに詰めていきました。)

今回の旅では4つの都市を巡りました。首都ヘルシンキ、成長著しいオウル、砕氷船が有名なケミ、フィンランドで3番目に古い中世都市ラウマ。

この中で一番北にあるのはケミで、サンタクロースのいるロヴァニエミとほぼ同じ緯度です。

飛行機で首都ヘルシンキに降り立ちました。ヘルシンキはフィンランドの中でもっとも都会ですが、大きなテーマパークがあるわけではありません。

ヘルシンキの夜の闇で光るのは、道ゆく人に向けた窓辺の飾りや、カフェでおしゃべりする人たちのランプ、大きなショーウィンドウの中の小さな椅子。

フィンランドにくるといつも「日常の中のささやかな喜び」を味わいにきている気分になります。テーマパークのような想像を超える刺激はないけれど、ただ、忘れていた沁みてくるものがある街です。

(窓辺にカーテンがない家も多いヘルシンキ。家の灯が寒空の下を歩く人を優しく照らしてくれます。)

さあ、ヘルシンキから北上していくと列車の窓は雪景色ばかり。北に行くほど太陽がのぼりきらず、9時ごろに地平線から出てきた太陽は、ずっと日暮れかのようにぼんやりと空を照らして17時ごろにまた沈みます。

そのため、北にあるオウルやケミに着いたとき、私は雪で真っ白な世界か日が出ない真っ暗な闇を想像していました。

でも、そこにあったのは暗く深い黒でも、光輝く白銀の白でもありませんでした。

白黒どちらでもない、”ブルーグレー”な世界だったのです。

臆病な私の歩きかたはこうだった

フィンランドの北部はあまりの寒さで雪がとけません。積もった雪はレフ板のように日光を反射します。すると水平線ギリギリのほのかな日光でも、あたりを照らし出して真っ暗ではなくなります。でも、全部を照らし出すほど明るくはありません。

すると、暗いのか明るいのか黒いのか白いのかわからない、青みがかった視界になります。今まで生きてきてはじめて知りました。白と黒の間はグレーじゃないのです。

(夕方16時のケミの街。日が沈む前にも関わらず、まるで夜のようにイルミネーションがまたたいています。)

さらにびっくりしたのは、このブルーグレーな視界がなんとも心を落ち着かせてくれることでした。

私は毎日10時から15時まで街中を散歩していました。フィンランド人の友人と博物館に行ったり、カフェで家計簿をつけたりもしました。

(ケミ駅のプラットフォームにあるCafe Hertta。学生さんや旅行客、地元の女性たちのおしゃべりでにぎやかでした。)

外を歩いているとき、ふと気づくと自分の頭の中がとてもシンプルなのです。

「お腹へったな」「屋根のつららがすごいな」「寒いけどこの靴あったかいな」、それくらいしか考えていません。

日本にいたときには「次はこの段取りをしておかないと」「返信してないからあの人怒ってないかな…でも気が進まないな…」と同時にいろいろ考えていました。いえ、考えていたというよりも、人間関係にまで気を張って嫌になったり腰が重くなっていました。

フィンランドに来て私の性格が劇的に変わったのでしょうか?

そうではありません。このブルーグレーの視界が、私に余計なことを考えないですむようにしてくれていたのです。

(昼の14時のケミはうっすらと太陽が照っていました。凍った湖の上を歩いていきます。車や自転車の跡についていったり、まだだれも歩いていない新雪に踏み出してみたり。)

日本の都会は夜でも明るくて昼間のようです。ただ、私は明るいところだと人の目が気になる性格なんです。50メートル先の人に変に思われないように姿勢を正して歩こうとしたり、すれ違う人のささやき声や表情が気になったり。

一方で、逆に暗い夜道でもビクビクしています。街灯がぼんやりあるような道では、人がいるのかいないのか見えないのが怖いです。人がいたらいたで、どんな背格好なのかどんな表情なのかも近づかないとわからないのでずっと緊張しています。

明るくても暗くても、白でも黒でも、どちらの視界でも周りの人を意識せずにはいられませんでした。

でも、ブルーグレーの視界は不思議です。50メートル先からくる人は、背格好やニット帽の色はなんとなく見えますが性別や年齢はよくわかりません。すれ違うくらい近くなっても、その表情は青みがかったグレーの向こうではっきり見えなくて。おたがいになんとなく道を譲って端によりながらすれ違っていきます。

きっと相手からも私がどんな人かはっきり見えないことでしょう。ブルーグレーの視界は、人の目を物理的にぼやかしてくれて「はっきり見えない安心感」をくれました。

相手の目線を気にしなくていいからこそ、私は人間関係に気を張らないでリラックスして、シンプルに自分に没頭していられたのです。

明暗のはっきりした日々に「あいまいさ」を

(比較的明るい街でも建物のかげはブルーグレー。わざわざ日陰になる道を選んで散歩するようになりました。)

考えてみると、この「はっきり見えない安心感」は人間関係にも言えるのではないでしょうか。

明るい照明のもとでは、私はいつも気を張って何かの役割を果たしているように思います。

電車の蛍光灯の下では学生や社会人として。会社のパソコンのブルーライトではナントカ部署のナントカさん。家のダイニングテーブルの灯の下ではお父さんやお母さんや家族の一員。

周りが見えてしまうと私はがんばってしまいます。同僚や近所の目が気になったり、「あれもこれもしてあげなきゃ」とやれるだけやろうとします。

明るくおたがいがよく見える環境は、「何かをはっきり果たしなさい」というプレッシャーになっているようにも思います。

とはいえ、いきなり「暗い中でひとりの時間をとりましょう」というのも私には難しいんです。

フィンランドの人たちは暗さにとても慣れています。フィンランド在住20年の方いわく、「フィンランドの人たちは、冬は暗い暗いっていうわりに照明を明るくしないの。夏の明るさが特別なだけで、普段は暗いのが落ちつくんじゃないかな」とのこと。

(オウルの朝9時。外は明るいのに、ホテルのレストランでは照明を落としてキャンドルを灯します。)

でも、今の日本の明るさに慣れた私にとっては暗すぎるのも不安になります。人間関係でも、周りが見えないと寂しさを感じたり、自分はどう思われているだろうかと気になったり。いきなり暗い中でひとりになることも、また落ちつかないのです。

だから「ブルーグレーのあいまいさ」が好きです。

おたがいに全部は見えないけれどなんとなくは見えていて、はっきり見えないことに安心できる。そんな白黒つけない人間関係もあっていいのだと思います。それは、人のことも気にかけながらも気を張らないでいい、相手も自分も大切にできる”ブルーグレーな関係性”です。

あなたの夜明けはブルーグレーな時間

あなたは今、あなたにとって心地よい関係性の中にいますか?

もしかしたら、傷ついて怒っている人もいるかもしれません。期待に応えようとがんばりすぎたり、突然休んで部屋の暗さの中でひとりになりたい日もあるかもしれません。

それでも毎日がんばっているあなたに大きな拍手を贈りたいです。

そして、もし相手のことを意識しすぎている今の関係を変えたいなら、相手のことをあいまいにする時間を作ってみるのはどうでしょう。

気にしないようにと意識するだけだと余計に気になったりしますよね。だから、本当に視界があいまいになって、人の目が気にならなくなる時間に散歩にでてみませんか。

おすすめは夜明け前か日暮れごろです。まったく同じ色ではないけれど、まだ日がのぼる夜明け前、空が黄色くなっていない薄ぼんやりした時間はとても似ています。

15分くらいぼんやり歩きましょう。

周りに目をこらしても、こらさなくてもいいのです。気になるものを見たらいいし、見たいものは自分で選べます。「あの人が自分をどう思ってるか」を考えたり、全てを白日の下にさらさなくてもいい時間です。シンプルになったあなたの心には何が思い浮かぶでしょうか。

(中世都市ラウルの朝方8時。約200〜300年前の建物がのこる旧市街にはカラフルな家が立ち並びます。ブルーグレーに塗られた建物もちらほら。)

人間関係は、周りが見えすぎてぶつかることもあれば、見えなくて孤立したりとさまざまです。もちろん元気なときは思いっきり本音でぶつかるのもいいし、疲れすぎたらシャットダウンして暗闇でひとりになりにいきましょう。

けれど、いつもその白黒どちらかでいる必要はなくて、なんだったら普段の8割はその境目にあるブルーグレーな関係性でもいいんじゃないでしょうか。おたがいにちょっと目を細めてあいまいにして、相手も自分も大事にしながらゆるやかにつながっていきませんか。

人と関わっていたらひとりで泣くような夜もあるけれど。それでも、私に元気をくれるのもまた人です。

人に傷つきながらも、人といることを諦めたくないからこそ、時にはブルーグレーが必要なのです。

ブルーグレーは私をだれかと一緒に生きられるようにしてくれる色。

私をあなたと生きられるようにしてくれる色。

あなたの夜明けにブルーグレーの贈りものを。

text by ひらふく

こんにちは!いけかよです。

あなたは、誰かに対して「この人めんどくさいな」って思ったことはありますか?
「ない」と言う人は、おそらくそんなにいないんじゃないかと思います。
そしてあなたは自分自身をめんどくさいやつだなと思ったことはありますか?

この「めんどくさい」って、一体なんなんでしょう?
今回は、この「人のめんどくささ」について、いけかよの経験を交えつつお話してみたいと思います。

あなたはあなたと仲良しですか?

まず、「めんどくさい人」ってどんな人か。その要素を具体的に挙げるなら、以下のような特徴だと思います。

・承認欲求が強い
・こだわりが強い
・自己主張が強い
・話が長い
・空気が読めない
しつこい

とかでしょうか。

要素だけをピックアップするとあんまり好感は持てなさそうな感じですね。

でも、あなたの周りには、これらの要素をいくつか持っているのになぜか魅力的で人に好かれている人っていませんか?
そして、あなたのなかにもこれらの要素ってありませんか?
まったくないと言い切れる人は少ないんじゃないでしょうか。承認欲求やこだわりの強さなんて、誰しもが多かれ少なかれ持っていると思うのです。

では、あなたは「めんどくさい人」なのでしょうか?

そういうわけでもないと思うのです。多くの人は、日常生活に大きな不都合や不具合はなく、あったとしても自分を受け入れてもらえる安心安全な関係はきっと確保されていると思うのです。

ただ、他者があなたをどう思うか否かは、ここではあまり重要ではないと思っています。
あなたがめんどくさくっても、それを理解し、受け入れてもらえる他者との関係性はきっと作られているからです(それがたった1人でも、5000人でもね)。

重要なのは、「あなたとあなたの関係性」です。
もしあなたがすごく生きづらいとか、苦しいとか、消えてしまいたいとか思っているとしたら、きっとそれは「めんどくささをこじらせている」状態。
つまり「あなたとあなたの関係性」が悪くなっている状態かもしれません。
めんどくささをこじらせると、いろんな方面で不具合が発生します。だから、自分とはできるだけ仲良くなったほうがいい。それってどういうことか?続けていきます。

どんな警察を飼っている?

ここで少しわたしの話をさせてください。

かつてのいけかよは、明確に超めんどくさい奴でした。

自分のことは大嫌いでした。めちゃめちゃこじらせていました。
でも、人には好かれたくて、嫌われることがとっても怖かったんです。

そして、人に好かれるためにいつもいつも「いい人」「ごきげんな人」でいようとして、愚痴や文句や弱音や不安や怒りなどの気持ちは見て見ぬふり、もしくは薄っぺらいポジティブさで塗りつぶそうとしていました。

結果、承認欲求は膨れ上がり、自己否定と自己憐憫がいっぱいで、人に愛されたいくせに愛されたいなんて思ってはいけないとかめんどくさい人だと思われちゃいけないとか、人の悪口を言っちゃいけないとか人を罵倒してはいけない、思ってすらいけないとか、もう心の中は大混乱でした。
そして人の役に立たなければ、人より勝っていなければ、人に貢献・奉仕しなければ自分なんて生きている意味がないとすら思っていました。

そんな気持ちは当然苦しすぎます。そこでいけかよは、そんな自分のネガティブな気持ちを封印するようになりました。
つまり、自分の正直な気持ちに蓋をするということです。
蓋をして、気持ちも行動も、ガチガチに縛るような状況になってしまいました。

すると、「好き」とか「楽しい」とかのポジティブな気持ちもわからなくなってしまったのです。自分が何を好きなのか、何に喜びを感じるのか、自分はどうしたいのか。これがわからないというのは、人生においてけっこうつらいことです。同じような苦しみを抱えたことがある人は多いんじゃないでしょうか。

人間の感情というのはポジティブなものだけ感じてネガティブなものは封印するなんて都合のいいことはできないんですよね。もちろん、ずっと愚痴や文句や怒りばかり発しつづけるのは自分にとっても他人にとっても良くないけど、でも、それらがあるという事実を無視することは、人間としてとっても不自然なことでもあるのです。

ネガティブな感情というのは、そりゃー自分の弱さやズルさや恥っていうのを認めることになるからかなり苦しいことではあるんだけど、それをしっかり感じることができないと、喜びとか愛とか自分がはこれが好きだっていう気持ちもわからなくなってしまう。

これがいわゆる「生きづらさ」というものを生む原因のひとつだといけかよは思っています。
ていうか、わたし自身が自分の感情に蓋をすることで、ものすごく生きづらかったんです。 

あなたに対して「ネガティブ禁止。ポジティブのみ許す。それができない奴はだめなやつ」と言ってくる人がいたらどう思いますか?かなりきつくないですか?
かつてのいけかよは、自分のなかにこんな「ネガティブ警察」を飼って、自分をいじめていたんです。
もしかして、今も飼ってるかもしれない、と思う方もおられるかもしれませんね。

いけかよはこのネガティブ警察のおかげで心身ともにまあまあ苦しんだので、こいつを弱めるべく、自分の感情をしっかり認識して認めるということをこつこつやってきたんです。
おかげで、いまはだいぶ大人しくなって、ネガティブ警察は「ネガティブ警察ごっこをしている小学生」くらいになりました。

自分もネガティブ警察飼ってる、という方もおられるでしょうか。
人によっては「いい人警察」だったり「シゴデキ警察」だったり「いい親警察」だったり。なんらかの、あなたの言動や感情を否定してくる存在がいるかもしれません。
こんな存在がいるとしたら、それは「あなたがあなたをいじめている状態」と言えます。
これは、あなたがあなたとの関係性がうまくいっていないということ。

こうなってくると、自分だけなく他者をも取り締まろうとしてしまうのです。これがいわゆる「めんどくさい人」です。
自分のなかの警察に自分を取り締まられているあなたはきっとすごく我慢をしているはず。自分が我慢しているのに、目の前の他人は自由に楽しそうにやっている。
それを目の当たりにして、あなたのなかの警察が暴れ出したとき、あなたは人に承認を求めたり、過剰な自己主張をしたり悲劇のヒロインになったりしてしまう。
きっともちろん、無意識だと思います。だからこそめんどくさい。それが「警察」の怖いところ。
自分を顧みても、そう思います。

ネガティブ感情はこわくない

いけかよは完全に自分のなかの警察が自分をおさえつけていたので、前述のようにスーパーめんどくさくてスーパー生きづらかった。

こんな経験から、紆余曲折はありましたが、苦しさに懲りたいけかよは「自分に正直である」ということをすごく大切にするようになりました。

今も自分のなかにある淀んだめんどくさい気持ちを、日頃からきちんと認識するようにしています。
ポジティブな感情よりも、むしろネガティブな感情のほうをきちんと認識するように意識しているんです。これらを抑えつけてきて苦しんだわけですから、ムカつくとかモヤモヤするとかすごく怒ってるとか恥ずかしいとか全然納得できてないとか嫌だ!とか。

もちろん時間はかかりました。自分の感情がわからなくなってしまった上に、ものすごい怒りと悲しみと劣等感と被害者意識を抱えていて、それを認めることすら怖すぎてできなかった。これは本当につらかったです。だから、セラピストやカウンセラーなど専門家の手を借りつつ、日々「練習」をしていました。自分の感情をしっかり認識する練習です。
日々の小さな内側の葛藤や内観を経て、昔に比べたらずいぶんと自分に正直になりました。

では、どうすれば自分に正直になれるのでしょう?

まずひとつめは「感じてはいけない感情なんてない」ということを知ることです。
前述のように、感情というのは欲しいものだけ受け入れていらないものはキャンセルする、なんて都合のいいことはできません。辛い感情はたしかに受け止めるのは苦しいけど、でも感情は単なる「反応」にすぎません。誰だって自分を否定されれば傷つくし怒るし悲しいです。でもそれは腕をつねったら痛い、ということと同じです。良いとか悪いとかじゃなく、身体反応なんですね。

あと「ネガティブなことを考えていたらネガティブなことが起こる」みたいな、思考のしくみにビクビクしている人もいるかもしれません。いけかよは完全にそうでした。

でも、そんなこと起きません!!!!!

そりゃーネガティブな感情に囚われ、四六時中それにこだわり続けて考え続けて人や社会を恨み続けていたらたしかに人生が上向きにはならないでしょう。でも、一瞬の感情=単なる身体反応で人生が決まるなんて怖すぎます。

大事なのはネガティブ感情を無視することではなくって、むしろ逆にしっかり認識して、適切に取り扱うことなんです。
身体でも痛む所があれば無視していたらとんでもない病になってた、みたいなことが起きますよね。心でも同じなんです。

それが、もうひとつの方法、「あきらめる」ということです。

あなたを認めることができるのはあなただけ

生きていれば嫌なことはいくらでもあります。
すごく人を恨んだり、怒ったり、ここには書けないような言葉で他者を罵倒したくなることだってあると思うんです。
そして何より、そんな自分のことを大嫌いになることもあると思うんです。
でも、そんな自分を認めてください。あきらめてください。
認めるって難しいかもしれないけど、ここで相田みつをの登場です。にんげんだもの。聖人君子じゃないもの。嫌なものは嫌なんだから、そこに怒り悲しみ苛立ちがあるのはしょうがない。でもそれを無理に「肯定」しなくていい。「認識する」だけでいいんです。

自分は今すごく怒ってるとかすごく認められたがってるとか、本当はすごく弱くてずるいとか。

そんなふうに、ネガティブ感情を俯瞰するもうひとりの自分を自分のなかに置くこと(メタ認知というやつですね)で、あなたは加害者にも被害者にもならなくて済むんです。
ここでいう被害者および加害者というのは、実際に危害を加える/加えられるということではなく、意識のあり方だと思ってください。
自分の感情を抑えつけている人は、少なからず加害者意識や被害者意識があります。そう、これがまさにあなたのなかにいる「警察」です。これが「めんどくさい人」を生んでしまうんですよね。

自分と仲良くなるためには、その意識から脱却しなければいけない。
でも人間ってそもそもそんなに美しい生き物じゃありません。
だからこそ同じ人間として、聖人君子じゃなくて弱かったりずるかったりする人の方にわたしたちは共感するんじゃないでしょうか。
人の共感を集める人ってつまり魅力的な人っていうことになるんじゃないでしょうか。
そう、あなたの中にあるめんどくささは、ちゃんと取り扱えばあなたの魅力になるんです。
それはつまり、「あなたのなかのめんどくささを受け入れる」ということです。

いけかよは承認欲求が強いし目立ちたがりだし人に好かれたいし嫌われることはすごく怖いし。
でもだからって自分が嫌いな人から好かれたらイヤだし、自分は話が長いくせに話が長い人は嫌いだし、自分だって面倒くさいのに面倒くさい人のことは嫌いなんです。

でも、だからなんだというのでしょう。

人間ってそういう矛盾だらけの生き物なんです。
いいとか悪いとかじゃなくて、そもそもそういうめんどくさい生き物なんです。
だったら別によくないですか?あなたのままで。

これが「あきらめる」ということです。
「あきらめる」のは「自分であること」を、です。自分を許して、自分の本当の気持ちを受容して、とことん自分を生きる、ということです。

あきらめることができれば、自分以外のものにならなくて済みます。
人は、もっとちゃんとしてなきゃとかもっとシゴデキじゃなきゃとかもっといい人じゃなきゃとか考えて、自分以外のものになろうとするからめんどくさくなる。つまり生きづらくなってしまうんだと思うんです。

自分であることを諦めるというのは、自分に正直になり、自分を受容するということです。
そしてそれは、あなたにしかできません。
あなたをすべてありのまま受容してくれるのは、あなただけなんです。他人に受容されるよりも、あなたがあなたを受容することがもっともパワフルで意味があることなんです。自分とは一生つきあっていかなければならないからです。

そしたら、自分のなかにあるめんどくささを自分で認めることができて、結果的にそのめんどくささは淀むことなく、昇華していきます。
他人に受容されるのは、それからです。

自分のめんどくささを素直に受け止めることができる人は、他人の面倒くささも受け止めることができます。人間とはそもそもめんどくさい生き物だということを知るからです。そして、自分にも他人にも正直になれる。
そんな人って魅力的なんじゃないでしょうか。

自分に対して正直であれば、他人に対して嘘をつく必要もなくなるんです。

AIにはつくれない「めんどくささ」

あなたのなかにある「めんどくささ」は、あなたの「個性」に過ぎません。
承認欲求が強いとかこだわりが強いとか自己主張が強いとかというのも、裏を返せば努力家でプロ意識が高くて華があるとも言えます。
人の性格って全て裏表です。良いも悪いもないんです。

だからこそ、人間というのは予定“不”調和で矛盾に満ちていて予測もジャッジもできない。AIには作り出せない、生身で血の通ったコミュニケーションは、あなたの「めんどくささ」から生まれるかもしれないのです。

だから、あなたはあなたのままで「あなた」を思い切り生きてほしいと思います。それが結果的に、世界を幸せにすると思うからです。

では、また!

おまけ:素敵にめんどくさいあなたこそ自分と向き合ってほしい

ここまで書いてきたように、自分のなかのめんどくささを「魅力」にしていくためには「自分と向き合う」ということが不可欠だと、いけかよは思っています。

今自分は何を感じているか?
これをキャッチするための行為こそが、自分と対話するということです。
そんな自己対話力は、 AIがなんでも作ってくれる今の時代にこそ重要性を増していると、現役のライターとして現場で感じていることです。

AIとうまく協業しながら、いかに自分がつくることの意味をもたらすか。
それを「言葉の体温を取り戻す」というテーマで、みなさんと一緒に考える場をご用意しました。
「言葉の体温」を取り戻す、対話的ライティング入門講座
きちんと自分自身に立ち返り、内観し、「書くこと」「考えること」についてじっくり浸れる90分です。
いけかよの感じる仕事現場でのAIのリアルなんかもお伝えしますので、AIが得意な人も苦手な人も、ぜひご参加ください。

開催予定は以下のとおり。両日とも同内容です。
お申し込み&詳細は以下よりご確認ください。

2月17日(火)20:00〜21:30
https://elama.be/workshop-event/taiwawriting202602/

3月7日(土)10:00-11:30
https://elama.be/workshop-event/taiwawriting202603/

みなさんのご参加お待ちしています!

こんにちは。エラマプロジェクトの和文化担当、橘茉里です。

私の本業は私立高校の国語教師ですが、「国語教師です」と自己紹介をすると、相手の方からこんな言葉をかけられることがよくあります。

「私、国語が苦手だったんです」

さらに、「登場人物の心情を答えなさい、という問題が苦手で」「模範解答を見ても、なぜそれが正解なのか分からなくて」という声をいただくことも多いです。

そう言われたとき、現役の国語教師として、どんな反応をするのがよいのでしょうか。

私は内心で、「うんうん、その気持ち分かる~」と共感してしまいます。というのも、私自身、模範解答に納得できないという思いを、生徒の頃に何度も抱いてきたからです。

だから私は、「国語が苦手だった」という人に対して、「もっとちゃんと勉強すればよかったのでは?」とは思わないんです。むしろ、その人を国語嫌いにしてしまった教え方や、問いの立て方のほうに、見直す余地があるのではないかと感じます。

個人的には、「国語が苦手だった」という言葉の裏には、「分からなかった」というよりも、「納得できなかった」という感覚が隠れていることが多いような気がしています。

そこで今回は、この「納得できなさ」について考えてみたいと思います。

なぜ「登場人物の感情」が腑に落ちなかったのか

「登場人物の心情を答えよ」という問題、あなたは得意でしたか?

物語文を読んで、登場人物の気持ちを問われる。けれど、本文をいくら読み返しても、心情がはっきり言葉で書かれているとは限りません。

そんなとき、「本文に書かれていないのに、どうして分かるのだろう」と疑問を抱いた人もいるのではないでしょうか。

登場人物の心情が明言されていない場合、彼らの言動や描写から心情を推測するしかないわけで、それはあくまで読み手の推測になります。その人物が本当にそう感じていたかどうかは、実は断定できません。そして本文で明言していないからこそ、模範解答と自分の解答にずれが起こりうるわけです。

教員となった今の立場から見れば、模範解答はあくまで「模範」であって、必ずしも唯一の答えではないと分かります。別解が成立する場合もあるのです。

けれど、生徒だった頃の私は、「模範解答=絶対的に正しいもの」だと受け取っていました。

そのため、自分の答えが模範解答と違ったとき、「なぜ私の感じたことは修正されなければならないのだろう」「なぜ私の感覚は間違いだとされなければならないのか」と、強い違和感を覚えていたのです。

今でも印象に残っている思い出があります。

ある物語文に、「ビー玉のような瞳」という表現が出てきました。私はそれを、「きらきらした美しい瞳」というイメージで読みました。子どもの頃の私にとって、ビー玉は光を集めるような美しい存在だったからです。

ところがその問題では、「ビー玉」は安っぽいものを表す表現として扱われていました。

本文に明示された内容を読み違えているのであれば、自分が間違っていると納得できます。けれどこの場合は、「ビー玉=価値のないもの」とは本文では明言されておらず、うろ覚えですが、恐らく文脈から「ビー玉=価値のないもの」と読むべきだったのです。

でも、私はそこで納得がいかなかった。

どうしてこの場面で「ビー玉=きらきらしたもの」と捉えたらダメなのか。そういう解釈も成り立つんじゃないかって、模範解答を受け入れがたかった。

子どもの頃の話なので、事実を歪曲している可能性はありますが、当時の私が感じた違和感や理不尽さは、紛れもなく本物でした。

こうしたエピソードをもとに振り返ってみると、子どもの私が国語の問題に違和感を抱いていたのは、文脈から感情を読み取ることそのものではなく、「この価値観だけが正しい」と、一つの正答に揃えられてしまうことだったのだと思います。

不正解になるということが、単なるミスではなく、「あなたの感じ方は間違っている」と告げられているように感じたからこそ、私は模範解答に強いもやもやを抱いていたのかもしれません。

国語の問題は「正解探し」ではなく「間違い探し」

教員として教材と向き合うようになってから、私は生徒時代とは違う視点で国語の問題を見るようになりました。

定期試験などの試験問題を作る際に重要なのは、「本文から読み取れるかどうか」という点です。

正答になるのは、本文中に書かれていること、あるいは本文の内容から無理なく導けるもの。一方、誤答は、本文には書かれていないことや、そこまで読み取る根拠が見当たらないものになります。

こうして整理してみると、国語の選択肢問題は、「正しい答えを当てるテスト」というよりも、「本文から外れているものを見抜くテスト」に近いのではないかと思います。

評論文の問題であれば、論理が明確なので、本文に書いてあることと、書いていないことの線引きもしやすいです。

けれど、物語文では事情が異なります。登場人物の心情は、必ずしも明言されていないからです。

授業中ならば、「あなたはそう読んだのですね」と受け止められる読みも、試験では○か×をつけなければなりません。

学校の試験では、多様な解釈を正解とするケースが昔より増えていると思います。それでも、模範解答に沿った解答を求める受験の仕組みが大きく変わらない限り、模範解答に違和感を覚える人は、きっとこれからも現れるのではないでしょうか。

国語の読解と「空気を読む」文化の関係

ここで、少し視点を広げてみます。

日本人のコミュニケーションには、「こういう場合、普通はこうするよね」といった暗黙の了解が数多くあります。

はっきりと言葉にされなくても、その場の状況や関係性から意味を読み取ることが求められる。こうした文化は、「ハイコンテクスト文化」と呼ばれています。

英語圏が言葉ではっきりと伝えるローコンテクスト文化であるのに対して、日本はハイコンテクスト文化が特徴です。

例えば、「もし都合がついたら参加します」と言われたら、この言葉はやんわりとした断り文句として読み取る必要があります(本当に参加するつもりのこともありますが)。

相手ははっきり言葉にしていないけれど、「この場面、この文脈ではこういう意味になる」ということを、私たちは自然と察しています。

また、「言わなくても通じる」といった感覚や、表情や間、これまでの関係性から相手の意図をくみ取ることも、ハイコンテクストなコミュニケーションの一つです。

そして、国語の物語文読解で行っていることも、実はこれとよく似ています。

本文に心情がはっきり描かれていなくても、しぐさや描写から人物の心情を推測していく作業は、まさにハイコンテクスト。

つまり、国語の読解とは、単に文章を正確に読む力だけでなく、「この場面では、普通どう感じるか」という暗黙の了解を読み取る練習でもあるのだと思うのです。

もしかしたら、子どもの頃からこうした形式の問題に触れてきたことも、我々の「空気を読む」能力が培われる要因の一つなのではないでしょうか。私はそんな気がしています。

「空気を読む文化」「ハイコンテクスト文化」自体は、私は日本人の誇るべき性質だと思っているので、国語の物語文読解が、もっと生徒に寄り添う形で進化していくことを願っています。

「分からなかった」自分を大切にしてほしい

「登場人物の気持ちが分からなかった」

もしそんな記憶を持っているなら、それはあなたが、いい加減に読んでいたからでも、能力が足りなかったからでもないと思います。

あなたが自分で感じたことを、自分の中でちゃんと大切にしていたからこそ、簡単に「正解」に乗れなかったのかもしれません。

あなたが国語の問題に感じた違和感や苦手意識は、あなたが自分の感性で、その物語を丁寧に読もうとしていた証なのではないでしょうか。

エラマプロジェクトでは、自分らしい豊かで幸せな生き方を探究しています。「自分らしさ」を大切にしているのは、正解の生き方を目指すのではなく、一人一人が自分の感性や価値観に沿って、幸せな生き方を見つけてほしいからです。

これまで、国語の読解問題が解けない自分を責めたことがあったとしたら、今日からはその感性にそっと丸をつけてみてください。

あなたはきっと、自分らしく物語と向き合ってきたのです。そのこと自体がすでに十分、豊かで価値があることなのだと、私は思っています。

Text by 橘茉里(和えらま共同代表/和の文化を五感で楽しむ講座主宰/国語教師/香司)

こんにちは。Kangasこと、ライフコーチの和田直子です。早いもので2026年に入り、もう一ヶ月が終わろうとしています。皆さん、いかがお過ごしでしょうか?

私は、年末年始に世間で盛り上がる(?)、一年の振り返りと新しい一年の計画を立てることが大好きなタイプの人間です(笑)。

とはいえ、計画通りにすべてこなせるわけでもないですし、計画を立てたときのモチベーションをキープし続けることも難しいタイプでもあります。共感していただける方、いらっしゃるでしょうか…?

普段はどうしても不足していることに目を向けがちなので、振り返りのときこそ出来ていることに目を向けて「よく頑張ったじゃん!」と自分を褒めて、新しい一年のモチベーションにします。

でも、そのモチベーションだけで計画を立てようものなら、私の場合大抵スタートダッシュのあと全力疾走、そして案の定、息が続かず失速。気づけば、当初立てた計画が書かれたノートのページを開くこともなくなる。なんてことがしょっちゅうです。

そうなるので結局「出来ていないことに目が行きがち→年末の振り返りで小さくても出来たことを無理して見つけようとする→自分を褒めて新年へのモチベーションを上げる→スタートダッシュは良いが息切れして失速する」というループを毎年繰り返してしまうわけなのです。

先日のエラマプロジェクトの哲学バーでは「無気力」がテーマでしたが、その時に「気力とは生きる希望であり、自分の力で人生の何かを動かす感覚ではないか」というお話をされた方がいらっしゃいました。

確かにそうかもしれません。計画を立てたもののエネルギー切れになっている時の自分は、モヤモヤの渦に吸い込まれ、当初描いていた「希望」に向かって行動する気も湧かず、むしろどんどん「希望」から離れていっているような感覚になります。

もう、突っ走って息切れして、気力を失うなんていう経験はしたくないなあ。

そう心から願った私の2026年の計画の立て方は、いつもとちょっと違いました。

いつもは、実現したいことや新しいチャレンジなどの目標を立てて計画するのですが、今年は…。

ということで、今日は、私が今年一年の計画を立てるときに大切にしたことをお話したいと思います。

1、好きな瞬間を増やすための計画

まず私が最初にしたこと。それは、スマホのカメラロールや手帳から昨年一年間の好きな瞬間をプライベートと仕事の両方からピックアップすることです。できれば、写真をプライベートと仕事に分けて一枚のスライドに集めてみるのがおすすめです。

「え? これも2025年のこと?」「あ~、この時のことは今でも両親がすごく喜んでくれているなあ」「素敵な出会いもあったな」など、とっても心が温まる作業です。

一人でその作業をしていると、良き思い出に浸り心が喜んでいることに気づくことが出来ます。他の誰かのキラキラしている瞬間と自分を比較することなく、大切な人たちと過ごした瞬間や、感動で心が満たされた瞬間、そして自分が誰かのお役に立てた瞬間の嬉しかった気持ちが蘇ってくるのです。

好きな瞬間の数は関係なく、その時間の質に意識が向いているような感覚にもなります。

この作業をしていることで分かるのは、新しい一年にどんな瞬間を増やしていきたいかということ。そして、自分にとって本当に大切で必要なことも見えてくるのです。

その大切な瞬間の共通点を言語化してみることで、自分にとって重要かつ充実度の高い時間を明確にすることが出来てきます。

例えば私の場合、プライベートで重要なのはこんな時間です。

・家族との時間

・家族(両親、夫、子ども、そしてもちろん自分自身のことも)の未来に想いを馳せる時

・家族や友人たちの大切な価値観に触れる時間

・一人のカフェ時間

また、仕事で充実感を得られるのはこんな時間です。

・人の純粋な想いに触れることや、想いを動かす時間

・社会と繋がろう、社会課題と向き合おうとしている人との対話の時間

そのような時間を今年一年たくさん作れたら幸せだなと思います。だから、本当に自分にとって大切で、好きでたまらない時間をたくさん生み出そう!そんな気持ちが湧いてきます。

2、得たい感情を得るための計画

そして、次に私が書き出したことは「2026年の終わりに、どんな感情を得たいか?」ということ。先ほどの好きな瞬間をたくさん体験した先に、私はどんな感情を得るだろうかと考えてみました。

「感謝の気持ちに満ち溢れている」

「力がみなぎっている」

「ウキウキしている」

「晴ればれしている」

そんな感情や感覚に包まれているといいなあ!

そしてその感情や感覚を、大切に思う人や自分が応援したい人と共有出来ていると、さらに幸せです。

(もし、感情を言葉にするのが難しいと感じる方は、ネットで「感情リスト」と検索してみてください。感情や気持ちを表す言葉のリストがたくさん紹介されているので、参考にしながらしっくりくる言葉を選んでみるのも良い方法です。)

この「2026年の終わりに、どんな感情を得たいか?」という質問、実はある方が発信でされていた質問です。

その方が仰るには「予定は計画をこなすためではなく、その計画をこなす先に得られる感情があるから予定を立てる」と。

例えば、子どもの遠足のお弁当をつくる時も「子どもの喜ぶ笑顔を見れたら嬉しいから!」という理由で、「おかずに何を入れようか?買い出しはどのタイミングで?当日朝は5時起きで」のように計画しますよね。

そこで私はハッとしました。

これまでの私の計画は、「仕事でこんな成果を出すと収入はこれくらいになって、子どもたちの学費の支払いにも余裕が出て旅行にも行けるだろう」というすべて行動ベースだったのです。

また、好きな仕事で経済的に自立できるようになる!(ならねば!)のような自分へのプレッシャーもたくさんかけていました。

成果を出すこと、経済的に自立することのように、欠乏感を補うためのやる気は、私の場合どうしても短期で結果が出ないと続かなくなってしまいます。皆さんにも思い当たることがありませんか?

そうではなく、このプロセスの先には私が見たい美しい景色がある、その景色を見たときの感情を味わいたいというモチベーションには、常に「希望」という心強い味方が伴走してくれているように感じるのです。

でも、だからと言って、得たい感情のための計画がうまくいくとは100%言えないのでは?それだって、息切れしてしまうことがあるんじゃない?

そんな心配も聞こえてきそうなので、次のポイントに進みますね!

3、人生という瓶に最初に入れるべき時間とは?

皆さんは、瓶の中に石や砂を入れる実験の動画を見たことはありますか?瓶の中に、最初に砂や小さな石から入れていくと、大きな石が入る余地がない。逆に、大きな石を最初に入れて、空いている隙間に小さな石、そして砂を入れると、すべてが入り瓶の蓋をすることが出来る。

この動画が伝えようとしていることは、自分にとって本当に大切な意味のあることを、人生という瓶の中に先に入れることの重要性です。

役割や責任に伴う日々のタスクやルーティン、他者の期待に応えるための予定、欠乏感を埋めるために少し無理して挑戦しようとしているプラン…

そういったものを先にこなしていくうちに、自分の好きな瞬間で満たす余白が奪われていってしまうのではないでしょうか?

計画を立てる時に大切なのは、はじめにお伝えした「好きな瞬間」の予定から入れていくこと。「プライベートも仕事も、この一年は好きな瞬間をどのように作ろうかな?」そんなふうに考えてみることから始めてください。

その時のコツとして、好きな瞬間を寄せ集めた写真を見ながら進めることです。それを見ていると得たい感情もセットになってリマインドされるので、私の場合、「この仕事で味わった感情をもう一度得るには?」と、今の自分に出来ることで、これまでの成功体験を再現できる仕事の計画を立てることができました。

計画とは、人生という瓶に最初に入れるべき時間を選択することなんだなと思います。あなたにとって、まず最初に入れるべき大きな石とはどんな時間ですか?

モチベーションとなる「希望」は自分の中にあるもの

この3つのステップで今年の計画を立ててみたわけですが、これまでとの違いとして感じていることは、全力疾走ではなく、かなりのスローペースでスタートしたということ。

足りないものを埋めようとしているわけでもないし、自分を証明したいという気持ちもない。

ただ、はじめに言語化した「自分にとって重要かつ充実度の高い時間」を増やしていきたいと願うだけ。その時間というのは、去年一年間の好きだった瞬間から明確になったことなので、私はすでにその体験を作り出せていたんだと思えば、新しく何かを生み出さなければという焦りを感じることもありません。

そう考えると、計画を実行した先に思い描く「希望」のようなものは、自分の外側で探し続けても見つかるものではないのかもしれません。

自分自身の内側にあるもの、つまり個性や才能、これまでの経験や人脈、そして培ってきた知識やスキルを、力むことなく自然体で活用できていたり、自分の感性に従っているときに、「希望」が顔を出すのだろうなと思います。

計画を実行するためのモチベーションともなる「希望」。それを感じられるかどうかは、自分自身の内側にあるものをきちんと認識していることも大切ではないでしょうか。

自分の内なる部分は、本当に大切な時間がどうやって生まれるのかを知っているはず。ぜひ、あなたが2026年の終わりに感じていたい感情を生み出す時間を、まず最初に瓶に詰めてくださいね!

そしてもし万が一、息切れしそうになっている自分がいたら、ぜひ思い出してください。

「あなたの好きな瞬間はどんな時ですか?」

「どんな感情を得たいから、その計画を立てたのですか?」

「あなたの人生の瓶に最初に入れた時間は何ですか?」

きっと、あなたの中の「希望」が顔を出し、計画を実行するための良き伴走者となってくれるはずです。

Text by Kangas(和田直子/しなやかで強く優しい社会を織りなすライフコーチ)

こんにちは!エラマライターのひらみんです。

みなさんは、やりたいことを100個書き出す、というワークをやったことはありますか?

ワクワクしながらやったことがある人もいれば、書こうとした瞬間に手が止まってしまう人もいるのではないでしょうか。

新しい1年が始まるにあたって、やりたいことを書き出して人生の軸を見つけたいと思ってたのに、、、あれれ、、なんだかもやもやしてしまいました。

やりたいことリスト100って?

やりたいことを100個書き出すことで、自分が求めていること、目標、価値観が明確になると言われています。リストを作って終わるのではなくて、実現させるまでがゴールです。やりたいことを書くという行為によって、脳にインプットされるし、リストを何度も見ることで、目標を意識して行動するようになるようです。

基本的には、なんでも書いていいんだそうです。実行に移すための資金や時間が、今は確保されてなくても書くのは自由です。秘訣は、小さいことも大きいことも入れること。小さな願望ならすぐに実現できますよね。この成功体験によって「自分にもできる」という自己肯定感の向上も期待できるそうですよ。

実際にやってみたら、もやもやした…!

世の中には、100個出すためのtipsやテンプレートなどもあるのですが、あえてそれに頼らずに自分の願いを可視化するためにやってみました。
でも、20個ぐらいで止まってしまったのです。

すると、急に「100個のノルマ」に変化してしまい、「実現したいことを書く」から、「書かないといけないから書く」に意識が切り替わりました。自己理解のために始めたことなのに、残り80個の空白を埋めるために、無理矢理言葉を探し始める作業になってしまったのです。

それに、やりたいことを書くだけなのに、「やりたいことがない自分」はダメなヤツで、自分は、やりたいことさえ見つけられない人間なのだと、思考が捻じ曲がってしまいます。これは良くない。自己理解のために始めたのに、低い自己評価に直結しています。

そうじゃなくて、私が今、一番やりたいことは「やりたいことリストを100個埋める」ことなんです。

もやもやの正体は、どこにあったんだろう

リストはまだ20個のままですが、改めて振り返ってみると、あのもやもやは、やりたいことが出てこないことが理由で生まれたわけではなかった気がします。

20個で止まったとき、私が苦しくなったのは、「これ以上書けない自分」そのものではなくて、「ちゃんとできていない自分」を見てしまったからでした。

やりたいことリストは、本来「自分の願いを可視化するための手段」だったはずなのに、いつの間にか「100個書けているかどうか」で自分を測るものに変わっていました。

そうなると、

・出てこない=努力不足

・書けない=意識が低い

・止まる=ダメな自分

そんな風に、静かに自分を追い詰めていきます。

たぶんこれ、日本人あるあるではないでしょうか。「ちゃんとしなきゃ」で頭の中がいっぱいになっていませんか?

「ちゃんとやらなきゃ」

「最後までやりきらなきゃ」

「決めたことは守らなきゃ」

その感覚が強いからこそ、自由に書いていいはずのリストが、いつの間にか、達成すべきノルマに変わってしまう。でも、ここで立ち止まって思ったんです。

これ、本当に100個書く必要ある?

目的を取り戻そう! —— それは、100個書くことじゃない

改めて考えてみると、やりたいことリストは「100個書くこと」そのものが目的だったわけではありません。

本当の目的は、自分が何を大切にして、どんな方向に進みたいのかを意識しながら生きること。そして、書いた願いをヒントに、日々の選択や行動を少しずつ変えていくことだったはずです。

それなのに、いつの間にか「100個書けていない自分はダメ」とか「やりたいことが出てこない私は浅い人間なのかも」、、、そんなふうに、自分を追い込む道具になってしまっていました。

でも、これってちょっと変ですよね。

やりたいことを書いて、ひとつ叶ったら線を引く。また思いついたら書き足して、実行したら消して、書いて、また消していく。そうやって人生の中で更新され続けるリストなら、気づいたときには、100個なんて自然に超えているはずです。そもそも、「ちゃんと100個書けない自分」を責める必要なんて、どこにもなかったんです。

もし今、やりたいことリストが途中で止まっている人がいたら、無理に続きを書かなくても大丈夫です。「やりたいこと100個が書けなくてモヤモヤしている」なら、それは、人生をちゃんと考えようとしている証拠なのだと思います。

代わりに「これをやれたらちょっと嬉しいな」と思うことをひとつ選んでやってみて、リストに線を引いて消す。それだけで十分です。新しくやりたいことができたら、その時に付け加えたらいいじゃないですか。やりたいことリストは、完成させるものではなく、人生と一緒に更新されていくものですから。

大切なのは、今の自分が大切にしてることに気づいているかどうか。そして、その気づきを、小さくても行動に移しているかどうか。それができているなら、リストが20個でも、50個でも、十分です。やりたいことリストは、自分を評価するためのものではなく、自分と対話するためのものですよね。そしてその対話は、「どう生きたいか」を自分に問い続ける、小さな哲学の実践なのかもしれません。

その対話は、今からでも始められるものなのです。

Text by ひらみん(ふつうの会社員)

こんにちは。エラマプロジェクト代表、フィンランド生涯教育研究家の石原侑美です。

みなさんは「沈黙」についてどういったイメージをお持ちですか?

どちらかというとネガティブな印象が強いのではないでしょうか。今回はフィンランドの「沈黙の文化」をテーマにお話できればと思います。

フィンランドの国民性について

先日の12月6日はフィンランドの独立記念日でした。12〜18世紀はスウェーデンによる支配、19世紀はロシアの統治下にあり、1917年に独立しました。面積は日本の約9割で人口は約550万人(北海道くらい)です。

フィンランドは森林占有率が70%ほどあり、「森と湖の国」というのが特徴のひとつです。

国民性については一般的に、

・人見知り、パーソナルスペースが広い

・勤勉、真面目

・自立心、独立心が強い

・派手な生活を好まず、シンプルで自然なものを好む

・内向的(初対面の人とは打ち解けにくいが、親しくなると心を開く)

・お世辞や社交辞令は好まない

といったことが挙げられます。

そのフィンランドでは対話的な文化(人と、自分と、自然となど)が根付いており、また「沈黙の文化」が存在します。

「沈黙が金、話すは銀」

フィンランドには『沈黙は金、話すは銀』ということわざがありますが、フィンランドでは沈黙は「肯定」や「思考の時間」で、気まずいものとはされていません。相手への尊重の表れなのです。

フィンランドでは相手の話を『聴く』教育が浸透していますが、それと同様に『沈黙』も価値の高いコミュニケーションであると捉えています。

こういった話をエラマプロジェクトの講座でお伝えすると参加者の方々は衝撃を受けられます。

かなり以前のことですがこんなことがありました。

ワークショップを開催したときに感想共有タイムの進行の仕方が違ったのです。フィンランド出身の講師は時間を気にするより「話したくなったら話したいタイミングで話してください」という方法で進行をする方が多かったです。

そうなると、沈黙が非常に長くなります。参加者はみなさん考えをまとめる時間が長くなるのでその間沈黙になるんです。日本だとそれがやはりプレッシャーになってしまうようで、感想共有の時間がつらくてしんどかったという方がいらっしゃいました。

他には、オンラインミーティングなどリアルに会えない状況の場合は沈黙になかなか慣れません。日本だとオンラインでも相槌を打ってくれるので聞いてくれているとわかりやすいですが、フィンランドの人と話していると本当に沈黙を実感します。さらに画面共有をすると相手の顔も小さく表示されるので不安感が大きくなります。相槌もないので。

世界的に見てもフィンランドの人は相槌が圧倒的に少ないそうです。

逆の場合だと、フィンランドのことをそれほど知らない日本の方がフィンランド出身の人と話しているときに、あまりにも相槌が多すぎるためとまどうフィンランドの人も多いのだとか。人によっては不快に思うこともあるようです。

文化の違いですよね。わたしは「沈黙」が彼らの重要な価値観であるとわかったとき、安心したのを覚えています。

わたしは大阪で生まれ育ったのですが、そこでは言葉を埋めないと話を聞いていないと言われたり、何を考えているかよくわからない人と言われたりしました。

帰省した際に大阪の朝の番組などを見ると、かなり早い展開でコーナーが進んでいく印象を今でも受けますし、言葉で埋め尽くしているんですよね。

テレビだからというのもあるかもしれませんし、普通のコミュニケーションにおいてのんびりした大阪人もいますが、言葉を埋めないとあかん!といった強迫観念が大阪の中にあるという感覚は消えません。

対話やそれ以外のコミュニケーションにおいても、人が話をするというのが前提としてありますよね。話を聴くにしても、誰かが話をしている前提で聴くことをイメージしませんか。

でもフィンランドはそうではないのです。

何も話していない時間も聴いているし、何も話してない時間も目線や雰囲気といった何か信号を送っていると考えます。それまでの会話にあえて間を持つことで、お互いの創造性の中で会話をするといった感じでしょうか。

そういったコミュニケーションの選択肢があると知れたとき、わたしは言葉を無理に埋めなくていいんだという安心感を得られました。

お互い沈黙でもいいんです。

夏のフィンランド滞在では、日差しの気持ちいいテラスで10人くらいとビールを飲んだのですが、一人も話さない(笑)。そんなこともありました。

慣れていないと間をあけるって怖いですよね。それができるのはその場にいる人たちへの信頼も重要ではあります。

「ない」もポジティブな意思表示である

コミュニケーションの場において話さない(話せない、話したくない)という行為自体がネガティブに捉えられるのは日本だけではなく多くの社会でよくあることだと思います。

フィンランドに行ってすごくほっとしたのは、喋っているのが正義とは思っていないんですよね。言いたくない、喋ることがないから喋りたくない、わからないというのが、ちゃんとしたポジティブな意思表示だと受け止めてくれる文化で、わたしはそれがとても心地よく感じました。

(人にもよりますし文脈や場面によるのは大前提ですが)「ない」「ゼロ」みたいなものでも意思表示であるとポジティブな反応を示してくれるのはかなりの安心ポイントだとわたしは思っています。

「沈黙」も一種のボキャブラリーなのでは?という考えも浮かびました。

会議の場については、考えたけれど意見がない場合、フィンランドでは「すみません、私は意見がないです」と言葉にするんです。

日本や他の社会だとネガティブに受け止められるから「ない」と言うのはすごくはばかられますよね。フィンランドの場合だと、それを言うことで「この人はわからないんだ」ということがわかる。だから「そうなんだね」と理解するのです。

わからないと言うこともフィンランドでは大事にされるんです。

もちろんほかの文化でも同様の価値観はあると思います。でも、何かしらみんな答えがある前提で話すことが多い印象です。フィンランドだと十分に思考することが大切にされるので、その場しのぎや単純に言葉をつなぐようなことは言えません。

フィンランドがすべてにおいてすごくいい社会だと言いたいわけではありません。でも、「ない」とか「わからない」がネガティブに捉えられないというのは、安心安全な場をつくる際には非常に大事な点になります。

また「沈黙の文化」が共有できていると、言葉にするまでに時間がかかっても焦らずに思考がまとまってから話せるという安心感もありますよね。

フィンランドの対話文化に関する文献の中でもそれは言われています。

「沈黙も対話の最中」という考え方が日本で広まるのは文化の違いもあり簡単ではないでしょう。ただ、沈黙もOKな文化があると知っているだけで、身近で当たり前とされているコミュニケーション方法に対する不安感が多少は解消されるのではと思います。

待てる強さを身につけるには

「沈黙の文化」があるということは相手や自分自身を待つことに慣れているとも言えます。つまり余裕を持っているんですよね。

あなたが余裕を持つために普段意識していることは何かありますか?

もし、一人でその『余白』や『待つ時間』を作るのが難しいと感じるなら、わたしたちと一緒に学んでみませんか?

エラマプロジェクトでは、フィンランドの「少ないことは多いこと」の哲学、日本の伝統文化における「間」や「余白」の美学、東洋と北欧に共通する「手放すことで得られる豊かさ」についての探求などを融合させた全5回のオンラインプログラム、「エラマ・ウェルビーイング『ゼロ』を学ぶコース」を2026年の2月〜3月にかけて開催します。

講師はわたし以外に日本人2人、フィンランド人1人の計4人で、リレー講義となります。

2026年1月31日まで早期申込割引を実施中ですので、ぜひ詳細をチェックしてみてください!

SNSでもエラマプロジェクトの情報を発信していますので、こちらもフォローお願いします!

By 石原侑美(エラマプロジェクト代表)

Interview & Text by nakagawa momo(フリーライター)

「悩んだら森へいきます」

フィンランドの人々と出会う中で何度も耳にした言葉です。住んでいる場所や職業、性別や年齢も関係なく、みなさん不思議と同じことを口にするのです。
あなたはこの言葉に共感しますか?それとも首をかしげるでしょうか。

こんにちは。ライターのひらふくです。
私はこの言葉を聞いた時はよくわかりませんでした。しかも、実際フィンランドの森を歩き、大自然に包まれる体験をしたにも関わらずまだ腑に落ちなかったのです。

そんな私がこの言葉を体感したのは、2025年11月に飛騨高山でおこなわれた『森と自分を”再発見”する森林浴プログラム』でした。

https://elama.be/workshop-event/takayama202511/

県外からも参加者さんが集まり、フィンランドから来日した4名の個人起業家さんたちと飛騨高山の森を味わう1日。私はそこで自分にとっての”本当の森”を知ったのです。

自然が好きな方、“森”というワードになんだか惹かれる方、そして今悩んでいる方。
その気持ちを紐解きに、一緒に森へと入っていきましょう。

このプログラムの講師たち

企画・通訳
石原侑美(いしはら ゆみ)
フィンランド生涯教育研究家、 Elämäプロジェクト代表
岐阜県高山市在住。
フィンランドと日本の文化・教育の架け橋として活動。本企画では主催者としてフィンランドから多彩なゲストを招聘。参加者とゲストの対話が深まるよう、言葉だけでなく文化的な背景も汲み取りながらファシリテーションと通訳を務める。

ゲスト出演
Mari Ahonen (マリ・アホネン)
森林浴ネイチャートレーナー / メンタルヘルス専門家 / SaimaaLife創設者
フィンランド東部サイマー湖地方在住。
9年にわたり日本人との協業を重ねる。
自身が開発した「ナチュラル・ウェルビーイング・モデル」を通じ、人々が自然の力で心身の健康や幸福、バランスの取れた日常を見出すサポートを世界中で行う。
彼女のトレーニングは、フィンランドの自然な暮らしと日本の森林浴を融合させているのが特徴。

メインガイド
臼田 陽子 (うすだ ようこ)
森林インストラクター、「森とひとと木」代表
岐阜県高山市在住。
2024年に「森とひとと木」を設立し、飛騨の多様な森をフィールドに森林浴や木育プログラムを提供。森林の持つ癒やし効果を五感で体験できるきめ細やかなガイドで、人と自然、木とのつながりを紡いでいる。

フィンランドと日本、それぞれの自然観

プログラム当日にみなさんが集まったのは日和田高原ロッジ・キャンプ場です。岐阜県のJR高山駅からさらに車で1時間。地元の方でもきたことがないというほど自然が深い場所です。
「はじめまして」という挨拶が交わされる中、プログラムがスタートしました。

名古屋や三重など県外からの参加者さんも多く、片道3時間かけて來たり前泊したりとプログラムへの熱意を感じます

最初のチェックインではそれぞれが今日の参加理由をお話しされました。森に関することを仕事にしている方もおられれば、実は今まで森に関心がなかったという方もおられました。

その中で印象的だったのはある地元の方の言葉です。

「自然が多い地域で生まれ育ったからこそ、森について考えたことがなかったんです。森が自分にとってどんなものなのか考えたくて参加しました」

また、その後にフィンランドメンバーの一人も同じことを言われました。どうやら”森”がどんなものなのか探っているのは私だけではないようです。

(フィンランドから来日した参加メンバー。左からコテージのオーナー、リンゴ農家兼レストランオーナー、テキスタイルデザイナーというユニークな面々)

実際に森へいく前に、フィンランドの基本知識や自然観、そして日本の自然観について講師陣からお話がありました。

フィンランドから来日された森林浴ネイチャートレーナーのマリさんは、フィンランドの自然享受権という権利について話してくれました。
これは、自然を傷つけたり持ち主に迷惑をかけることがなければ、誰でも自然の中に入って楽しんでいいというもの。例えば、ふらっと森を散策してベリーを摘んだりキャンプをすることも許可をとらなくていいのです。
そんな楽しみ方を通じて、フィンランドの人と森との関係性について話してくださいました。

国土の森林面積率が世界1位のフィンランドでは、森はとても身近ですぐに訪れることができます。よき隣人みたいな存在だと感じました。

一方、日本では「すべてのものには神様が宿る」という考えのもと、森に対しても神聖な気持ちがあります。
森林インストラクターの臼田さんは、山林と人間の住む土地には境界線があり、里や野辺という形で共存してきたこと、日本人の自然観にはバリエーションがあるとお話してくださいました。

お二人の話からは森に対するスタンスは様々であることがわかります。
ふりかえってみると、私にとっての森は、気軽なものというより軽い緊張感があることに気がつきました。フィンランドで森を訪れた時も、楽しいながらどこか緊張していて、「リラックスして癒されなければ」と考えていた気がします。
フィンランドと日本を対比したことで新たな自分が見えてきました。

(フィンランドや飛騨高山の森の専門家、そして両者をつなぐ講師。三者三様の目線を学び視野が広がっていきます)

森を五感で再発見しよう

いよいよ森に入っていきます。まずは入り口にある神社にお参りします。この神社はかつて臼田さんによると昔の日本人は山を聖なるものとして拝んでいたこともあるそう。神様の領域に入らせていただくような神聖な気持ちになりました。

(鳥居をくぐる時にはフィンランドの方も帽子をとってご挨拶。日本文化を尊重してくださり嬉しくなります)

ふと「すべてのものには神様が宿る」の言葉を意識してみると、森の中ではたくさんの生き物の気配を感じます。
池の水面に広がる波紋、触れると意外に温かい木の幹、枯葉が地面から舞い上がる姿、ざあっと風が木立を揺らす音など五感から森に包まれています。

土を掘ってその地面をかいでみると場所によって土の香りが違っていました。土中の微生物が異なるからだそうで、参加者さんからは驚きの声があがります。
フィンランドメンバーからは「うちの森と同じ匂いだよ!」なんて発見もありました。今まで知らなかった形で森への目線を広げていきます。

(足をとめてしゃがみ、土や葉っぱに触れて五感で森を感じていきます。)

臼田さんに導かれて森の奥に進んでいきます。木の幹から出る樹液に触れたり、溶岩が固まって岩になり苔むしたエリアを渡っていきます。

頭上からの木漏れ日を手元のカードにうつしてみると光の繊細な揺れを再発見。「木漏れ日という言葉は日本語にしかないんですよ」と教えてもらいました。自然のささいな移り変わりを楽しむ価値観を感じます。

(白いカードが木漏れ日で明るくなったり暗くなったりと自然とともに移り変わっていきます)

森に入った時は一列に並んでいた私たちですが、気づけばみんな見渡す範囲にばらばらと広がって思い思いにすごしていました。

持ってきた袋に落ち葉や枝を集める人。
新しい発見に楽しそうに盛り上がる人。
一人でまっすぐ進んでいく人。
空を見上げて立ちつくす人。
木の幹にハグする人。

みなさんの自由な過ごし方は、その人にとって森がどんなところかを表しているようでした。

(フィンランドと日本それぞれの参加者さんが同じ木を両側から抱きしめます)

(手に持った枝のフォトフレームごしに好きな風景を切りとってみる時間。何が見えるでしょうか?)

(思い思いに寝転がって。木陰を選んだり日光浴したり砂利道に大の字になる人も)

参加者さんにとって森はどんなところだったのでしょうか。
建物に戻ってランチを食べたら最後のふりかえりです。

(ホテルで作ってもらったこだわりのお弁当には飛騨高山の名物がいっぱい!)

森は立ちどまることを許してくれる

ふりかえりでは、まずフィンランドメンバーが感じたことをシェアしてくれました。

「フィンランドの森と似ているけれど違うところもあった」
「フィンランドの自分の家にある森と日本の森はそっくりだった」

日本とフィンランドは約8,000kmも離れているのに似てるなんて不思議ですね。でも、たしかに森で過ごすみなさんは、前から知り合いだったように和やかに時間をわけ合っていました。

その後は二人でペアになって感じたことを話します。新しい発見があった方や、なんだかしみじみしたという方もいます。
「自分が森に何を求めていたかわかった。身近な近所でその条件を満たす場所を探そうと思う」と言語化を進めた方もおられました。

私も、森に神聖さを感じながらも、新しい見方を得たり、何も考えずぼーっとしたりといろいろな過ごし方をすることができました。

(みなさんが手にしているのは、マリさん制作のサイマー湖水地方のガイドブック。全編日本語で書かれている完全オリジナルなもの!これにももちろん森や自然の魅力がたくさん紹介されています)

また、後から知ったことですが、参加者のおひとりは実は夏ごろから調子が出ず引きこもりがちな日々を送っておられたとのこと。それが今回の森林浴では安らいで穏やかな気持ちになれたのだそうです。
そして後日こんな感想を寄せてくださいました。

「振り返ってみると、山登りやハイキングのように『歩くこと』を目的に山に入ることはあっても、自然を『浴びる』ことを目的に森に入ったことは、 これまで一度もなかったことに気づきました。森を歩くこと自体は初めてではありませんが、今回の体験は、これまでとは全く違う印象を受けました」

この言葉にハッとしました。
登山には「登る」という目的がありひたすら歩いていきます。でも今回の森林浴では「立ちどまる」ことがとても多かったように思います。

参加者さんは、気になるものを見つけて思い思いに過ごしていました。急ぐことも、達成しないといけない目的もなく好きに足をとめてよかったのです。
行動の内容は違えど「思うがままに立ちどまる」ということは共通していました。

そう考えると、反対に普段はどれだけ「やらねばならない」ことに急き立てられているかを痛感します。最初に私が「森ではリラックスしなければ、癒されなければ」と思っていたのも、この「〜しなければならない」思考です。立ちどまる余白をもつことを自分が自分に許せていなかったと気づきました。

(森に入る一歩は立ちどまる一歩)

余白を持つことは実は日常でもできることです。近所の公園で木を眺めながらでもいいですし、スマホを触らないで15分くらい窓の外をぼーっと眺めてもOK。目の前の悩みから離れることを自分に許してあげることが大事なのです。

あなたには守りたい日常や頑張りたいことがきっとあると思います。家庭や仕事や生きがいや、たくさんのしなくてはいけないことたち。
頑張り続けたら疲弊してしまうことも知っているけれど、それでも手を抜くことや手放すことを許せず走り続けているかもしれません。

その葛藤がある時こそ、森へいきませんか。

守りたいものを守り続けるためにこそ余白は必要です。自分で自分に余白を許してあげられなくても森はそんな緊張を緩めてくれます。

森は広くて大きくて、わたしたちを包み込んでくれる場所。頭ではなく五感を開き、たくさんの生き物の存在を感じることで、自分も自然のままのペースで生きられる気持ちになれるのです。

立ちどまる余白を許してあげるために。
守りたいものを守り続けるために。
さあ、森へ。


森が気になったらこちらもどうぞ
https://note.com/elamajp/n/n6227c1c222a3
https://note.com/elamajp/n/n4f59d56a5f0b

text by ひらふく(フィンランド的働きかた実践家)

こんにちは、pieni(ピエニ)です。

自分の感情の中で、いつもざらっとした気持ちになるモノがあり、それがとても不快でした。

それは「嫉妬」という感情でした。

それに気が付いてから、嫉妬に向き合う方法や、手放し方の記事をたくさん読みました。

けれど、一時的には「そうか!試してみよう」となるものの、私の中のもやもやの本質には触れられず、なんだか空回り…

ずっと自分の内側に、悶々とした嫌な感情が居座っていました。

無理に向き合う必要はない、とも思いました。

蓋をしてしまえば表面上は穏やかに暮らせるし、誰かに迷惑がかかるわけでもありません。

今までそうやって過ごしてきたのですし。

しかし、40代に入り、人生の折り返しを意識するようになった今、このざらつきを抱えたまま進むのは嫌だと思ったんです。

これからの自分を大切に生きたいからこそ、自分の心に潜んでいるものをいまのうちに見つめておこう。

そう思い、そっと蓋を開けてみることにしました。

嫉妬を感じるのはどんな時?

私が嫉妬にとらわれるのは、どんな状態だろう?と考えてみました。

●同じような仕事をしている方が注目されたとき。

●新聞やテレビで身近な人、知り合いが賞賛されているとき。

こんな時が多いです。

もちろん「すごいな」「よかったな」と思う気持ちもあります。

けれど同時に、胸の奥で小さなざわざわが起こり「羨ましい。素直におめでとうと言えない。私、全然ダメだ」そんな声が聞こえてきます。

そして、そう思う自分が嫌になる。

このざわつきは、家事や仕事、楽しいはずの推し活でさえも、じわっと気力を奪ってしまうのです。

この感覚は、子どものころから続いてきたので、長い付き合いでした。

でも、こうして考えるうちに「この気持ちを丁寧に紐解いてみたい」と思うようになりました。

正直、途中で投げ出したくなるほど見たくない自分にも出会いました。

けれど、見ないまま生きるほうが、じつはずっと苦しかったのだと思います。

そこで気づいたのが、私が嫉妬するときに動いている“3つの心の動き”でした。

ここから、気づいた感情について書いていきます。

①なりたい姿にならなかった自分への怒り

「嫉妬する相手=なりたい姿」とよく聞きます。

私もそうだと思っていました。

でも、全知全能の神が現れて「その人の能力も立場も丸ごとあなたにあげよう」と言ったら、私は本当に欲しいのだろうか?と考えました。

返ってきた答えは、はっきりと “NO” でした。

羨ましい、いいな、とは思う。

けれど、同じになりたいわけではない。

今の私だからこそできることもあると思う。

では何にざらついているのか。

やったらいい結果になるとわかっていたのに、行動に移さなかった。

なのに、少しずつでもコツコツ続けた相手は成功している。

私は、そこに向かう努力を選ばなかった。

こんな事実に、怒っていたんです。

後悔とは少し違う、行動に移さなかった自分への怒り。

そして「できない、やらない、努力できない自分はクズだ」そんな強い口調で激しく責めている自分にも出会いました。

きっと、周りの誰も私のことをそんな目で見てはいないはずです(…そう信じたいところ)。

それなのに、自分だけが自らに厳しい評価を下している。

●ちょっとかじって、合わないとすぐ離れる。

●壁に当たると、止まってやめてしまう。

●努力の継続が苦手で、そこから逃げてしまう。

●失敗や形にならないことを恐れて行動しない。

それが私の弱い部分だと思いながらも、直そうと思えない自分を、ずっと責めていました。そしてがっかりしていたのだと思います。

その自己否定の痛みが、「なんかむかつく」「羨ましい」「ずるい」という形に変換され、相手に向かっているのだと気づきました。

② 無意識に“上下”をつけてしまう私

これに気づいた時は、性格悪いなぁと、正直かなり落ち込みました。

でも、上下をつけてしまう背景にも理由があったんです。

それは「許せない自分」を直視しないため。

弱さ、情けなさから目をそらすため、“安心できる下の存在” を心の中でつくり上げていました。

自分のダメな部分を、もっと持っていそうな人だとジャッジして、下だと評価してしまうのです。

本当は、こんな上下関係なんてつけたくないのに、つけてしまう。

そして、その“下”に分類した人が賞賛されると、胸の奥で「なんで?私はできないのに、下だと思ったあの人ができている。ずるい!」という感情が暴れ出します。

さらに、その感情を抱いた自分と、相手に平静を装う自分に自己嫌悪…。

こんな悪循環をずっと繰り返していたんです。

この「ずるい」と思う気持ちには、今の自分にはできないこと、やろうとしていないこと、超えられないと感じている部分が眠っていそうです。

③ 「何者かになりたい私」がいつもそこにいる

子どもの頃から、賞賛されたい、認められたい気持ちがありました。

商売屋の長女で、祖父母にとって初めての内孫。手をかけてもらい、蝶よ花よと大切に育ててもらった記憶があります。

店に出ると「看板娘」と言われ、ちょっと調子に乗っていたことも。

大人が手伝ってくれることも多かったので、子どもの頃は工作や作文の賞をもらうこともありました。

こうした経験から、いつしか褒められることが重要になり、何かを目指すというより、賞賛されること自体が目的になっていました。それが認められた実感となり、自分の存在価値を示すものになっていたようです。

でも、ほんとは賞賛されるほどの努力を続けることは苦手。

「できることなら、嫌な部分は誰かにやってほしい」

「ラクして褒められたい」

「イージーモードで何かを成し遂げる何者かになりたい」

大人になった今でも、心の片隅にそんな思いがくすぶっています…。

だからでしょうか。近しい誰かが褒められたり、認められたりすると、胸の奥でざわざわと「羨ましい」「ずるい」「妬ましい」という感情が出てきます。

賞賛されているその人には、もちろん努力の過程があるはずなのに、そこにはあまり目を向けられず、ただ感情だけが先に動いてしまうのです。

この気持ちは、ただの嫉妬ではなく、自分の中に残る「何者かになりたい」「存在価値を感じたい」という願いが顔を出しているのかもしれません。

ヒロアカが教えてくれた嫉妬のカラクリと私のこれから

私はアニメが好きです。

アニメの登場人物のセリフや、心の動きを自分に当てはめて、問題を解決することもあります。

今回、この嫉妬の感情と丁寧に向き合い、隠れていた3つの感情に気が付き、言語化できるまでに導いてくれたのもアニメでした。

『僕のヒーローアカデミア』(ヒロアカ)というアニメをご存じでしょうか。

ヒロアカは、超常能力「個性」を持つ人がほとんどの世界が舞台。

無個性の少年・緑谷出久(デク)が、憧れのNo.1ヒーロー・オールマイトから力を受け継ぎ、名門・雄英高校で仲間たちと出会い、戦いを通して成長していく物語です。

原作はジャンプ掲載の漫画です。なのでThe少年漫画という胸アツシーンが多いのですが、奥にある「人としての成長」が大きなテーマでもあり、登場人物たちの心の葛藤がとても深く描写されています。

登場人物の中に、デクの幼馴染でクラスメイトの「爆豪勝己」がいます。

彼は強い個性を持ち、幼いころから周囲に賞賛され、自分に自信を持つ傾向がありました。

そのため、無個性のデクを見下すこともありましたが、やがて自分より精神的・肉体的に成長するデクに苛立ちや焦りを感じます。

その結果、デクに対してひどい態度を取ることもありました。

しかし、爆豪は自分の弱さに気づき、恐れていた感情を正直に認めます。

その時の言葉が印象的です。

※ここから作品中にでてくるセリフを引用しています。もしこれからヒロアカを見ようと思われる方はご注意ください。

てめーをずっと見下してた、無個性だったから。

俺より遥か後ろにいるハズなのに、俺より遥か先にいるような気がして……

嫌だった、認めたくなかった、だから遠ざけたくていじめた。

否定することで優位に立とうとしてたんだ、俺はずっと負けてた。

雄英に入っててめーの強さと自分の弱さを理解していく日々だった。

今までごめん。

爆豪は、自分の見たくなかった感情を認め、自分の弱さを受け入れます。そして、デクを超えたい存在でありライバルとして認めながら「真の強さ」を手にしていきます。

この物語には大きく心を揺さぶられました。

自分の弱さを悪者にしない。

ただ、自分の一部として見つめる。そして正直になる。

アニメに描かれた、このプロセスは、現実の私にも重なるものでした。

嫉妬や焦りに翻弄されるとき、まずは「いまの自分の心の動き」を認めること。

そこから始めようと思えたのです。

これからも嫉妬と付き合っていく

私はまだ、爆豪のように強く、目標に向かい感情を乗り越える段階ではありません。

まずは、嫉妬してしまう自分、上下をつける癖、何者かになりたがる内側を、そのまま “そこにあるもの” として眺めること。それが始まりだと感じています。

自分への怒りや、責めている部分に対しては、その矛先が外に向く前に

「ほんとにがっかりする必要があったかな?やらなかった理由、続けなかった理由があったんじゃない? その理由のほうこそ、大切なんじゃない?」

というように、自分自身へ丁寧に問いかけようと思います。

上下で判断し、羨ましいと思う感情に対しては

「あ、また上下で見てるね」と気づくだけにして、ジャッジはしない。

「下と思っていた人に、抜かされたと感じて辛いんだね。いたたまれないんだね。

できない自分を残念に思っているんだね。存在価値ないじゃんって思うくらい凹むよね。」

このように、認めながら、静かに心の動きを観察していこうと思います。

賞賛される何者かになりたい、存在価値を感じたいという気持ちは、「これから、わたしがどう生きたいのか」というテーマにつながっていると思います。

ただ褒められたい、ただ何者かになりたい、というこれまでの原動力を少しずつ変えていく作業なので、答えがすぐに見つかるとは限りません。

それでも、心の声に耳を澄ませながら、少しずつ抽象度を上げて、自分の本当の望みに近づいていきたいと思います。

まだまだ嫉妬に振り回されることはあると思います。でも、そのたびに今日ここに書いた気持ちを引き出してこようと思います。

嫉妬する感情を手放すのではなく、受け入れるのでもなく、丁寧に付き合っていく。

これが、今の私がざらりとした不快な気持ちとの折り合いをつける方法です。

嫉妬の感情に向き合うのは、正直なところ苦しいかもしれません。

蓋をして見ないふりをしていたその感情に、少しだけ目を向けてみる。

理由は千差万別。なぜ自分は嫉妬してしまうのか、本当に理解できるのは自分だけです。

もし、あなたも同じように嫉妬で悩むことがあったら、少しだけ心をのぞいてみてください。

向き合うことで、自分でも気づかなかった心の動きや感情のカラクリが見えてきます。

そして、その先には、嫉妬する自分だからこそ見つけられる、本当にやりたいことや進みたい道が、少しずつ見えてくるはず。

嫉妬も、自分を知るための大切な道しるべなのかもしれません。

Text by  pieni(ピエニ)(丹波フィンランド大使)