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Elämäプロジェクト

こんにちは!いけかよです。

毎度毎度?言いますが、このメディアの運営母体である「エラマプロジェクト」は、フィンランドの価値観や生活習慣をベースに、日本独特の文化や価値観もおりまぜつつ「豊かで幸せな生き方をデザインする場」として、「フィンランドの人たちが実践している生き方デザインをベースに、豊かで幸せな生き方を描く習慣の流布」をミッションとしています

なので、エラマプロジェクトが「幸せとはこういうもの」という定義をすることはしないのですが、いろんなイベントやワークショップにご参加いただく方たちには「自分にとっての幸せとはなにか?」と考えるきっかけをご提供することはままあります。

そこで、実際このエラマプロジェクトの運営側にありながらも「自分にとっての幸せとは」と考えることにふと難しさと違和感を感じてしまったことがあったので、今回あえてそれを書いてみようと思ってしまいました。

「なにか」がなければ得られない幸せって幸せなのか?

「自分にとっての幸せはコレ!」と言えることってとても重要なことだと思います。

なぜなら、わたしたちはいとも簡単に仕事や家事やなんらかの「やらなければならないこと」に巻き込まれて、自分の人生の舵を奪われてしまうからです。めちゃめちゃ忙しい時、心がざわざわする時、落ち着かない時、イライラする時、意味もなく泣きそうな時。そんなときにわたしたちには、本来の心地いい自分を取り戻すための時間が必要で、そのときにする「なにか」を「自分にとっての幸せ」として決めておく。これはひとつのライフハックです。「朝起きたらまず歯を磨いて白湯を飲むと決めている」レベルのライフハックです。

だからそれは調子が悪くなったときに「どうしよう…(オロオロ」みたいにならないために決めておく、というかんじ。

しかし同時に、いけかよはそれの難しさを感じてしまいました。

エラマプロジェクトに関わるようになって、「自分にとっての幸せ」とか「幸せな状態とは?」とかをよく考えるようになりました。

そして、最初の頃はわりとあんまり考えなくてもそれを言えたんです。

「なんにも予定のない休日に午前中からベランダで酒を飲んでるとき」

「なんにも予定のない休日に午前中から酒を飲みながら音楽ガンガン流して掃除してるとき」

「プロジェクト終わって仲間と乾杯してるとき」

「仕事終わりに一人でプハ〜って飲んでるとき」

「サイ●リヤとかで飲みながら本読んでるとき」

…とまあ、なんしか「飲む」絡みの結果ばかりが自分からははじき出されてきたのです。

で、他のみなさんのそれをシェアしていただいたとき、もちろんお酒をピックされる方もいらしたのですが

「コーヒーを飲んでほっとひといきついているとき」

「近くの公園を散歩しているとき」

「大好きなペットを愛でているとき」

「大好きな阪神戦を見てるとき」

えっ…!みんな飲まなくても大丈夫なの…!?

恥を承知で言いますが、いけかよのなかには「自分にとっての幸せ=マイタイム=酒を飲んで緩む」という方程式しかなかったことに気づいたのです。

うーん。これはやはりなにかが違う気がする。

そもそも「酒」という「なにか」がなければ得られない幸せって、幸せなのか?

それってもう立派な「アル中」やないか!!

それって「あなた」という「誰か」がおらんと幸せになられへん依存体質女やないか!!

ほんらいあたしらは誰かや何かがなくっても幸せになられへんかったらオカシイやないか!!

誰かや何かがなければ幸せになれないっていうのはそれつまり不幸やないか!!!!!

と思った時、「じゃああたしにとっての幸せってなんなんやろう…」と考え込んでしまったのです。

幸せってそんな難しいことじゃないはず

そして、そうやって考え込んでいるときにまたふと我に返ってしまいました。

「『自分にとっての幸せとはなんなのか』と考えている今この瞬間は果たして幸せなのか…?」と。

きっと「楽しいことを考えてるんだから幸せに決まってんじゃん!!」と思われる方もおられましょう。

しかしいけかよは、シンプルなことを難しく考えてしまう癖(ヘキ)ゆえに、まるでロダンの彫刻のごとく考え込んでしまったのです。そう、ロダン「考える人」です。ロダン的な感じになったらもうぜったい幸せじゃないじゃないですか。

なんだか幸せがものすごく難しいことのように感じてしまう。

ウンウンうなっても答えは出ず、ちょっと苦しい。まるでトイレで(自主規制)

でもなんらかのコレ!という答えは出したい…!スッキリしたい…!まさにトイレで(自主規制Part2)

ここまで考えてしまうと、完全に「幸せな状態」は明後日の方向です。

でもでも、ぜったい幸せなんかそんな難しいことではないはずなのです。じゃないとわたしたちにとって「生きる」っていうこと自体がものすごく難しいっていうことになると思いませんか?

いや、生きることは苦しいよ、お釈迦様も生きることは苦に満ちていると言ってるじゃないかとお思いの方もおられましょう。

でも、呼吸するのってそんなに苦しいでしょうか?

ごはん食べるのってそんなに難しいでしょうか?

眠れない夜もあるかもしれないけど、多くの方はきっとそれなりに眠れていますよね?

水道水にはいろいろなんやかんやいろんな成分入ってるかもしれませんが、多くの国であればそれを飲んでも即死ぬことはありませんよね?

札束でケツを拭けるほどの富豪でないにしても、次の給料日までに暮らしていける見込みはあるんじゃないでしょうか?

今日もYouTubeで推しを見てときめいたりしたんじゃないでしょうか?

てか、そう考えたらめっちゃ幸せやん・・・・・!!!!!

そう、結局、いきついたのは、そもそも「わたしたちは幸せだった」ということなのです。

モヤモヤはサイン

念のため改めて言いますが、「自分にとっての幸せ」を、悩まずサクッとコレ!と言える人は、それでOKなんです。

ここで言及したいのは、いけかよのように「ウーン」となってしまった人に向けてね。

そんな人には、もし「自分にとっての幸せとは?」と考えて2秒以内で答えがでなければ、もう考えるのをやめましょう、と言いたい。

そして、そもそも「自分は幸せなのだ」と決めてかかっちゃいましょう、ということです。

「決めてかかっちゃいましょう」というか、前述の通り、そもそもだいたいのことは満たされているので、それって幸せ以外のなにものでもないじゃないですか。

「いやいや、今自分はパワハラ社長のもとで虐げられて苦しんでる!これのどこが幸せなんや!」とお思いの方もおられるかもしれません。

でもそれも「ここはあんたのおるところと違うで」というシグナルであるかもしれない。

「こういう経営はしたらダメ」という反面教師になるかもしれない。

「自分はこういうことに対して嫌だと思うんだ」ということを知る機会なのかもしれない。

2年後には「普通に『お前みたいなクズは●ね』とか言われる会社におってさ〜。やばない?あ、引く?ゴメンゴメン! けどまあ、いまはあの社長どうしてるんか知らんけどな!俺の売上●千万くらいあってんけど、まー、俺レベルのタフなやつはそんなにおらんと思うしあんな会社潰れるんも時間の問題かな!ガハハ!」と、小気味良いエピソードトークに昇華させてコンパでちょっとウケているかもしれない。そしてそのトークにウケてくれた子とラブラブしているかもしれない。

そう思うと、それに気づいて自分自身の見方と行動を変えればあなたはきっともっとちゃんと「幸せ」に近づく。そのための「サイン」が目の前の「不幸」なのだとしたら、それってつまりは「幸福」であるということ。

そう、モヤモヤすることっていうのは「サイン」なんです。「幸福」への鍵です。

現実で起きることというのは、わかりやすくハッピーなものもあれば逆にわかりやすく傷ついたり悲しんだりするものもあります。

そういうとき、良くも悪くもわたしたちは反応して心はゆれうごきます。そして、それを「良い/悪い」とジャッジしようとします。

でも、前述のパワハラ社長のもとで働いていたエピソードに照らし合わせるならば、そのままその状況に甘んじて苦しみ続ける道もあれば、新たな気づきを得て次なる進路を選ぶという方向もある。つまりは起きた出来事をどのように判断するか、ということなんですよね。

「このせいで自分は不幸」と思うか、「ここから自分は何を学ぶべきか」と思うか。

でも、その思考って、難しいこともあると思います。辛いと感じるのに「幸せだ」と思いこむことには無理があります。

やっぱり自分にとって都合のいいこと=幸せ、そうでないこと=不幸、とジャッジしてしまいやすい。

だから、いけかよは、自分に起きる出来事はすべてベストなことがベストなタイミングで起きている、と思っています。もちろん、それでも、あまりにもキツイときはそれを受け入れられないときもあります。でも、それでいいと思っています。時間が経ってから、あとで「あれがなければ今の自分はないな」「あれがあってよかった」と思えればいいと。

そう思うと「自分にとって幸せとは…?」と考えて、2秒以内に答えが出なければもうその「ウーン」とモヤモヤしている時間が決して幸せとはいえないので、つまりはいずれにしてもわたしたちが経験することはすべてが「ベスト」なのだから、もう考えるのやめましょ、OK!ということ。

自分にとっての幸せなんて、定義できてもできなくても、わたしたちは基本的には幸せなんです。

「幸せ」という言葉に違和感があるならば、「とにかくこの世界は自分にとってベストなことがベストなタイミングで起きるようになっている」と思ってみてください。

いけかよは、これまでの人生を振り返った時にだいたいそれで納得がいくのです。

無理やり「自分はハッピーだ」と思い込もうとしているわけではありません。しんどいこともあったけど、でもあれがなければ成長できなかったなとか、二度と戻りたくはないけどあのときの経験があるから今すごく気楽に生きれているなとか。

もちろん時間をかけて納得していったこともあります。

でも、それが「人間」をやっていることの醍醐味なんじゃないかなぁとも思うのです。

自分の意識で世界の見方は変えられるから。それを「成長」というのかもしれないからね。

と、ここまでわたしのひとり妄想トークをお届けしましたが、こういう思考ってひとりでウンウンうなりながらやらなければいけないわけではありません。ていうかそれはやっぱりしんどいです。

エラマプロジェクトでは、こういった思考を「対話」を通じてみなさんとシェアしていく場をたくさんご用意しています。

ここでいう「対話」はもちろん他者とのものを含みますが、それだけじゃなくてそれを通じて自分自身との対話を深めていただくということも目指しているのです。

自分の思いや気持ちを言葉にすることによって、思いもよらない反応を他者から得られたり、自分自身の考えに改めてはっとさせられたり。

そこにはいわゆる「アハ体験」的なものもあるけれど、静かに、でも確かになにかがあなたのなかにうごめいている。そんな経験をしていただけると思っているのです。

エラマプロジェクトのイベントやワークショップはこちらからどうぞ!

では、また!

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)

こんにちは。ひらみんです。

テーマに惹かれて2023年5月8日のオンライン哲学バーに参加しました。

今回のテーマは、世間を騒がせている、あの「ChatGPT」です。

ChatGPTを使ったことのある人も、ない人も、

AIに詳しい人も、詳しくない人も、今やその名を聞いたことないという人はいないんじゃないでしょうか。

ChatGPTとは、“AIの一種で、人間と自然な会話ができるプログラムのこと”ーーAIとChatGPTの関係はこんな感じでご理解いただけたらと良いのだと思います。

「AIが人間の仕事を奪う」と言われて、私たちライターの仕事もAIに取って代わられる仕事のひとつだと言われています。そんな中で、人間のライターにしかできないことってなんでしょうか。私にとっては、危機迫るテーマが設定された哲学バーでした。

今回の記事は、哲学バーをきっかけに「人間にしかできないことってなんだろう」って考え続けた私なりの考察になりました。

AIについて考える旅に一緒に出かけませんか。

AIってなんだろう

私はデジタル技術の専門家ではないので、まずはChatGPTにAIについて質問してみました。

ひらみ:AIってなんですか

ChatGPT:AIは「人工知能」(Artificial Intelligence)の略称です。AIは、人間の知能や認知能力を模倣・再現し、機械やコンピュータによって実現される技術やシステムを指します。

ひらみ:小学5年生でもわかるように教えて

ChatGPT:AIは「人工知能」のことで、コンピューターが人間のように考えたり学んだりする技術のことです。AIは、たくさんの情報を使って問題を解いたり、決定をしたりすることができます。

人間のように考えたり、学んだりできるという点が、「人間の仕事がAIに取って代わる」と言われる理由なのかもしれません。

AIとはなんぞや、という点については、哲学バーの中で「人工知能は、過去のデータの蓄積である」とも教えてもらいました。そして、「AIは車だと理解したらいい」という考えがあるそうです。私たちは、うまく運転して、正しく使いこなすことが必要なんだと改めて感じました。

また、「車は早く目的地に行ける」という点が、「聞いたことにすぐ答えが返ってくる」というところに感じられて、車というイメージがしっくりくる、という声もありました。

哲学バーのあと、さらに思い巡らせていたら、「仕組みがわからなくても使えるという点も似てるな」と思ったり、AIは善悪の判断をしないので、「使い方を間違えると危ない」という点でも、「AIは車である」という考えが、私の中で、ますます納得のいくものとなったのでした。

「過去のデータの蓄積」という意味

哲学バーで、AIは膨大な過去のデータだと学びました。実際に、現時点で無料版のChatGPTには2021年までのデータが入っています。だけど、記事執筆時では過去となっている大谷選手やヌートバー選手が大活躍した2023年のワールドベースボールクラシックの結果は教えてくれません。入っているデータよりも未来のことは知らないのです。

人間にできて、過去のデータであるAIにできないことについて、最初、私は、AIは新しいことを作り出せないんじゃないかと思っていました。でも、哲学バーの中で、既存のもの同士の掛け合わせて、新しい物を作り出すことができる、という視点を伺い、たしかにそれがイノベーションか、と納得したのでした。

調べたら、手塚治虫の漫画を元データとして、AIが自動生成したものを、人間が漫画にする、という「TEZUKA2020」というプロジェクトがありました。

AIと人間のコラボとはいえ、「ぱいどん」という手塚治虫の新作が21世紀に生まれていました。

人間にしかできないことってなんだろう、と考えながらお風呂に入っていたら、ふと思ったんです。

遠い昔、人類は天動説が正しいと思っていましたよね。でも16世紀にコペルニクスは、それこそ「コペルニクス的転回」で地動説を唱えて、今ではそれが正しい説として認められています。

もし仮に、天動説が正しいというデータしか入ってなかった場合、今のAIが自ら地動説を導き出すことはできないんじゃないでしょうか。なぜなら、過去の常識しか入っていないのですから。地動説が正しくても、その概念がなければ、AIは地動説を出せないのではないかと思います。

その時に正しいと言われている常識をひっくり返すほどの新しい説を生み出すことは、今のAIにはできないんじゃないか、と思い始めました。

AIにできないことをするには

じゃぁ、コペルニクスのような歴史に残る天才的な頭脳を持つ人だけが、AIに勝つことができるんでしょうか。私はそうじゃないと思います。

コペルニクスが地動説にたどり着く前に、まず「天動説は正しいのか?」と、最初に天動説に疑問を持ったんだと思うんです。ここに、答えがあるような気がしました。

そう、「AIは、疑うことができない」のではないでしょうか。

AIは膨大なデータの蓄積で、これまで常識だと思われている考えなどが入っているだけで、

善悪を決めないし、自分自身の意見や判断を持ちません。

だから、ChatGPTから返ってくる答えが正しいのか判断するのは、使う側の人間です。

そう思ったら急に、これまでスタンダードや常識だと思われていたことなどを疑って、立ち止まって考えることは、人間にしかできないのではないか、という考えが降りてきました。

同時に、それって、とってもエラマ的だなと思ったんです。

社会や世間が決めた幸せと、わたしが感じる幸せは同じなのか、疑って、他人が作った理想像を追い求めるんじゃなくて、「ありたい姿」を自分で考えて作ることはAIにはできないと思います。

AIにできなくて、人間にしかできないことを考えたら、エラマの原点に戻ってきました。

エラマはAIに勝てるかもしれない、と思ったら、エラマ的な思考を持つ人は、これからの時代も生き抜いていける!と根拠のない自信がわいてきました。

AIを使いこなすという姿勢で

AIはこれからもどんどん進化していきます。それと同じ速度で、というのは人間には無理ですが、私たちもAIを正しく使うために進化していかなきゃいけない、とも思います。

でも、しばらく、人間はAIに勝てると思います。

私がたどり着いた答えは、今の私が思うことです。ChatGPTがバズっている今、みなさんが考える「人間にしかできないこと」はなんでしょうか。ぜひお聞かせください。

哲学バーでは、全員が納得するような答えとして、ひとつにまとめたり、総括したりしません。誰もが独自のアイデアを持ち、自由に発言できて、相手の考えを否定しないところが、私はとても気に入っています。

興味をお持ちいただければ、哲学バーにぜひお越しください。次回は2023年6月12日(月)で、第40回のテーマは「人生において”無駄”とはなにか」です。

お申し込みはこちらから

ぜひ、お酒片手にオンラインでお会いしましょう!

Text by ひらみなおこ(ふつうの会社員)

なぜフィンランド×和文化なのか?

こんにちは、橘茉里です。

私は国語教師として古典や日本文化の授業を行っている経験、そして香司(お香の調合師)としてお香文化に携わっている経験を生かして、皆さまに和文化の素晴らしさをお伝えする活動をしています。

エラマプロジェクトのチームに参加してからは、フィンランド研究家の石原侑美さんと一緒に、「和えらま」の講座を開いてきました。

この講座ではフィンランドと和文化の絶妙なつながりを見出しながら、豊かで幸せな生き方を探究していますが、今年の3月で、企画がスタートして4年目に突入しました。

これまで扱ってきたテーマは、次のようなものがあります。

サステイナブル
デザイン
自然
子育て
教育
働き方
サウナ・お風呂
余白の文化
音楽
スポーツ
お祭り
わびさび

このような切り口から、フィンランドと和文化を見つめてきました。

(「自然・デザイン・サウナとお風呂」について知りたい方はこちらの記事をご覧ください。「サウナとお風呂」についてはこちらの記事により詳しく載せています。)

フィンランドと和文化という二か国に焦点を当てながら、いつも思うのは、ふたつの文化を掛け合わせて探究するからこそ、大切なものが浮かび上がってくるということ。

侑美さんがフィンランド、私が和文化について下調べをした上で、二人で対話を重ねながら講座の内容を練り上げていきますが、私一人ではその境地に辿り着けなかっただろうなぁということがよくあります。

例えば、両国とも裸の付き合いがあるというつながりから、サウナとお風呂の文化を扱った際、私はお風呂と禊(水で身を清めてケガレを祓うこと)を結び付けて考察しました。

日本人は文化的に、水に浄化の力があると信じてきたのです。

一方、フィンランドのサウナも生や死の入り口と捉えられていたり、浄化の場となっている側面がありました。

フィンランドにそのような価値観があると知らなければ、サウナ・お風呂と精神性の関係について、私は今ほど深掘りできなかったんじゃないかなと思います。

このように、ふたつの国の文化を比べるからこそ、分かることがたくさんあります。

比較と言うと、相手と優劣を競うようなイメージがあったり、相手と比べて自分に劣等感を抱いたりと、ネガティブな印象がありますが、他と比べるって決して悪いことではないんだなぁと、この講座を通して実感しました。

だって、フィンランドと比べることで、日本がもっと輝くのですから。

お互いの魅力を引き出しあうことが、本来の「比較」なのではないかなと思います。

また、私の印象として、日本人は「他の国は素晴らしいけれど、どうせ日本は……」というように、自国を低く見積もりがちな気がします。

フィンランドのデザインって素敵だなぁ。

フィンランドでは起業する人が多くてすごいなぁ。

そんな風に他の国のことは素直に称賛できるのに、自国の日本のこととなると「日本なんて」と、ものすごく辛口採点になってしまったりします。

でも、ちょっと待ってください。

フィンランドのデザインは、自然からインスピレーションを受けたものが多いですが、自然の動植物をモチーフにしたデザインって、日本の伝統文様にも数えきれないほどあるんです。

起業大国のフィンランドに対して、会社勤めをする人が多い日本ですが、江戸時代まで遡れば、自営業やフリーランスの働き方をしている人はとても多かったし、副業している武士も多かった。(武士の副業は生活のためという意味合いも大きいけれど)

現代の日本だけを見ると、つい世知辛い部分に目が行ってしまいますが、今のフィンランドに対して感じている素晴らしさは、案外、昔の日本にあったりするのです。

でも私たちは、自力ではなかなかそれに気づけない。

だから、他の国と比較することで、他の国を通して自国を見つめることが必要なのかもしれません。

フィンランドにはこんな素敵な文化や習慣があるんだよって教えてもらうことで、「あれ?それって日本にもあったんじゃない?」「これって素晴らしいことだったんだね」と、ようやく腑に落とすことができるのかもしれませんね。

こんな風に、フィンランドと和文化のつながりから、豊かで幸せな生き方を探究していくことで、私はますますふたつの国のことが好きになっています。

「和フィン折衷」という言葉に出会う

「よむエラマ」の記事を執筆しているエラマライターズさんたちとのミーティング中、あるライターさんから「和フィン折衷という言葉があるよ」と教えてもらいました。

和フィン折衷!?

私は初耳でした。

ネットで検索してみると、まず「フィンランドデザインの力で和ろうそくを守りたい!」という和Fin折衷プロジェクトが見つかりました。

エラマでも、フィンランドでは照明の明かりや炎によるリラックス効果を大切にしていて、温かみのある照明を用いていることは取り上げてきましたが、このプロジェクトでは、それを和ろうそくで感じてもらいたいとのこと。

フィンランドの方がキャンドルホルダー(燭台)をデザインし、日本の職人がフィンランドをイメージした和ろうそくの制作やキャンドルホルダーの制作を担うそうです。

実は以前、飛騨市(岐阜県)の和ろうそく職人の方からお話を伺い、職人の心意気や伝統の奥深さに圧倒された経験があったので、フィランドデザイン×和ろうそくのコラボは、個人的に非常に感慨深いです。(その時の様子はこちらの記事に書いています。)

ちなみに、「折衷」を辞書で調べると次のような意味が出てきます。

いくつかの異なった考え方のよいところをとり合わせて、一つにまとめ上げること。(『デジタル大辞泉』より)

両方のよいところをとってほどよく調和させること。(『日本国語大辞典』より)

私たちが続けてきたフィンランドと和文化の絶妙なつながり探究も、まさに和フィン折衷ですね!

私たちの講座では、文化や習慣など、精神的な和フィン折衷に着目することが多いですが、上述したフィンランドデザイン×和ろうそくのように、我々も、和フィン折衷の具現化をいくつか行っています。

2023年3月18日(土)、東京の古民家で講座を開催しましたが、その際に匂い袋(お香の一種)の調合ワークショップを行いました。

匂い袋は、白檀、丁子、龍脳、桂皮などの伝統香料を用いて作るのですが、この時はフィンランドのサウナアロマを取り寄せて、香料に加えました。

OSMIAというブランドのサウナアロマで、白樺とグレープフルーツの二種類を使いました。

和の香料の奥深い薫香に、森林を思わせるサウナアロマの爽やかな香りが加わり、まさに和フィン折衷の、現代的な新しい匂い袋を作ることができました。

また、2022年11月13日(日)に開催したエラマ文化祭では、エラマのイベントにもたびたびご出演くださっている舞踊家、見城星梅月さんに舞っていただきました。

星梅月さんが舞うのは、日本の伝統芸能「詩舞」。

文化祭のフィナーレには、フィンランドの楽曲で詩舞を舞っていただき、優雅でありながら凛とした舞に、フィンランドから来日していたゲストたちも涙していました。

こんなにも心震わせる、感動的な場に立ち会うことができて、私も胸がいっぱいでした。

エラマプロジェクトの生み出した和フィン折衷もとっても素敵でしょう?

着物とマリメッコで和フィン折衷

先日、エラマプロジェクトのオンライン/オフラインコミュニティである「エラマの森」の住民さんたちとのオフ会が、埼玉県のムーミンバレーパーク・メッツァビレッジで行われました。

ここは、フィンランドや北欧をテーマにした自然豊かな複合施設です。

私は着物で参加しました。

この緑あふれる土地を着物で歩いてみたいと思ったのです。

和フィン折衷を体現したいと無意識に感じていたのかもしれません。

当日は雨だったので、濡れても良いように木綿の着物をチョイスし、羽織も木綿で合わせました。

着物と言うと、汚れないよう気を付けないといけなかったり、お手入れが難しかったりするイメージがありますが、それは主に絹の着物のこと。

木綿の着物だったら家で洗濯できますし、普段着として気楽に着ることができます。

そして、バッグはフィンランドブランドのマリメッコにしました。

マリメッコの鮮やかな色遣いと大胆なデザインって、着物によくマッチするんです。

私は、自分には派手な柄の服や小物は似合わないと思っているんですが、着物だと無理なくコーディネートできてしまいます。

実際に、着物とマリメッコでメッツァビレッジを闊歩してみた感想は、

気分爽快!
心が踊る!

そんな感覚でした。

着物なのに、なぜか洋服を着ている時よりも開放感がある。

不思議な感覚でした。

どうやら私にとっては、カジュアルな着物を着てフィンランドの小物を持つということや、そういう出で立ちで自然の中にいるということが、自分の性に合っているようです。

想像以上に楽しかったので癖になりそうです。

さて、今回は和フィン折衷を取り上げました。

個人的にも和フィン折衷をもっと探究していきたいですし、エラマプロジェクトとしても、和フィン折衷を通して、皆さんが豊かで幸せになれるお手伝いをしていきたいと思っています。

皆さんはどんな和フィン折衷を自分の暮らしに取り入れたいですか?

和フィン折衷は、どんな組み合わせも自由です。

あなたなりのお気に入りの「折衷」を見つけて、この素敵な考えをぜひ一緒に育てていきましょう。

Text by 橘茉里(和えらま共同代表/和の文化を五感で楽しむ講座主宰/国語教師/香司)

こんにちは、pieni(ピエニ)です。

「皆さんにとって家族ってどんな存在ですか?どんな家族で在りたいですか?」

突然の問いかけをしましたが、私は最近家族との関係についてとても深く考える体験をしました。

私は夫と6歳になる娘と3人で暮らしています。仕事はフリーランスでWEBやSNSに関係することをしながら大好きな北欧雑貨をイベントで販売したり、住んでいる地域にフィンランドのことを伝える活動をしています。

フリーランスになってからは「自分のやりたいことをやって生きることが幸せ」だと思い、積極的に活動してきました。

しかしその中でいつの間にか「家族」をないがしろにしてしまっていたようで、関係がギクシャクしてしまいました…。

今はそのおかげで「家族と真剣に向き合おう。改めて大切にしたい」そう思えるようになったのですが、今回はその体験をもとに自分の人生を考える中で切り離せない「家族との生き方」についてお伝えしたいと思います。

自由がなくなったことに憤りを感じていた私

結婚8年目、子育て6年目を迎えます。振り返るとここまで早く過ぎたという感覚なのですが、心の中では大なり小なり毎年いろいろな葛藤がありました。

結婚も子育ても自分で望んで決めてきたことなので、これを書いちゃうと自分勝手だなぁと思われてしまうかもしれないのですが、私は心の奥底でずっと「憤り」を感じていました。

それは…「自由が無いじゃん」ということ。

自分で稼いだお金は自分で自由に使えて、時間も調整しやすく、行きたいと思った場所や勉強会や交流会にもすぐ行ける状態だった結婚前。

けれど結婚して子育てが始まると、お金を何に使うか相談しなくちゃいけない、NGが出ることもある、子連れで参加すると気を使ってしまう、けれど子どもを預けるのに罪悪感…。子どもを置いて遠方へ泊りがけで出かけることなんて出来ない…。

どうしてもマイナスの感情にとらわれてしまって、それが積もり積もって「憤り」になっていました。

でもそれを出し切ることもできず、切り替えることもできず、結婚したし子どもも産んだしこれは「我慢」すべきことなのだと、この感情をどんどん腐敗させていったのでした。

自分を大切にするために始めたはずなのに

子どもが1歳半になった時、フリーランスで仕事をスタートしました。

勤めていた時の経験を活かしながらWEBやライティングに関係する仕事を少しずついただき、フリーランスや起業家女性の交流会や勉強会にも出かけるようになりました。

そういった活動の中で「自分のやりたいことをやって生きる、主体性をもって生きる、お母さんが生き生きして笑顔なのが幸せ!」という言葉をよく耳にするようになりました。

「憤り」や「我慢」を抱えながら生活していた私には、なんて輝かしい言葉なんだと嬉しくなったのを覚えています。

どれも大切な考え方だと思うのですが、ここに落とし穴がありました。

私はその言葉の本質を理解せず、表面上だけを受け取って「そうだ!我慢なんてしなくていい、私は私の生きたいようにやりたいようにやって笑顔でいたら、夫にも子どもにも喜んでもらえるんだ!」と考えるようになりました。

なので仕事を増やしたり、勉強会にもよく出るようになったり、イベント出店や企画もどんどん進めてみました。

自分のやりたいことをやって生きている!そう思っていました。

確かに自由にやりたいことをやっている状態だったと思います。

しかしある日、夫とスケジュール調整しているときに不協和を感じ始めました。

「次の日曜日はイベント出店するね。再来週の日曜日は主催のイベントするから子どもお願いしたい」

いつものように伝えていると、夫の顔がなんだか曇っています。

なんで嫌そうなの?と気になって「何か嫌なことある?あったら言って欲しいんやけど」と少しケンカ腰に伝えてしまいました。

かえってきたのは「日曜日に出ることがダメとは言わないけれど、自分ばかり犠牲になっているように感じている」という言葉。

この時は「え、だったら自己犠牲じゃない生き方したらいいやん」と思ってしまったのですが…。どうも夫が自己犠牲になってると感じるほど家族としての暮らしがおなざりになっていたようです。

その頃からだんだん会話が減り険悪になっていく夫と私の関係。

それを感じとったのか、成長とともに無くなっていたはずの娘の夜泣きが再発。

深夜に「いやだ!嫌い嫌い!」と言って泣き叫びながら起きるのでした。

次の日にはケロッと何も覚えていないようでしたが、私のほうが寝不足になりイライラしながら娘に対応してしまうので、更に嫌な思いをさせる悪循環。

「やりたい仕事や取り組みをやって、お母さんが生き生き笑顔なのが幸せ!」と自分らしい生き方を実践しようと思って始めたことなのに、真反対の方向へ突き進んでいた時期でした。

このあたりでやっと「あれ?これって考え方とか、やり方が間違っていない?」と気が付き始めました。

家族について向き合ってみる

私は目標を立て、そこに進むための心づくりをしたり、心の癖や思い込みでストップをかけてしまっていることを自己認知する講座を受けています。

その講座の中で家族との関係を話したところ「よく周りを見ている?家族への感謝の気持ちってある?そもそも家族との関係性はどうしたいの?」とフィードバックしてもらいました。

そこで改めて自分と家族の理想の在り方を考えてみました。

今のぎくしゃくした関係性は無くしたい。

夫とは結婚した時みたいに仲良く楽しく話がしたいし、ときにはデートだってしたい。

子どもとは感情でぶつかるんじゃなく、幼くても建設的に話すことを心がけたい。

家族に安心を与えられる存在でいたい。

これがどういう関係性を築きたいのかと聞かれて思い浮かんだことでした。

そう思ってからやっと少しずつ感情的にならずに自分と家族とのやり取りが見え始め、改めたいことが見え始めました。

例えばこんなこと。

日曜日の外出やイベント出店をするとき、行くことを自分の中ですでに決めていて「行ってもいい?参加していい?」という相談をしていなかったこと。

夫はしっかり何を購入するか、どこへ行きたいか相談してくれているのに、私は反対されるのが嫌で内緒にしていたことが多かったこと…。

「平日の子育ては私が一人でしてるんだから、日曜くらいやってよ」と、言葉にはしないけれど心の中では憤りをもって接していたこと。

ギクシャクしていたのは「家族だから許してもらえるだろう」という甘えだったり、言っても仕方ないという諦めだったり、傲慢さから生まれた家族の形だったんだと分かってきました。

人の感情の動きは面白いもので、そこに気が付くともう一段階変化が現れました。

「よく今まで一緒にいてくれたな、離れずにいてくれたな」と「ありがとう」の気持ちが出てきたのです。「できなかった、させてもらえなかった、行かせてもらえなかった」とメラメラ燃えていた「憤り」の感情が鎮静化していくような感覚になりました。

家族だからこそ大切にしたい「対話」するということ

家族としてどう在りたいかは考えることができましたが、その中で「私はどう生きたいのか」を改めて考えてみると、やりたいと思うこと、行きたいと思うことなどを「我慢」することはしたくない、けれど家族に「我慢」させることもしたくないと思いました。

そのためには、家族であっても「対話」することがとっても大切でした。

一方的にやりたいことの主張を通すのではなく、お互いの意見や立場の違いも理解しつつすり合わせていく。

「家族の対話」と言葉にすると少しお堅いように感じますが、休みの過ごし方、それぞれがしたいこと、家の役割分担や子育てのこと、お金のことなど暮らしに身近な話題から始めています。

考え方の違いがあるのでカチンときたり、なんでそう思うの?と感じることがまだまだありつつも、「喧嘩」するために話しをしているんじゃなく「お互いにとって良い着地点」を見つけようとしています。なので我慢ではなく寛容な心持ちで決まったことを受け入れられるように変わってきました。

ちなみに娘の夜泣きも収まって、家族旅行が復活するところまでは関係性が戻ってきてホッとしているピエニ一家です(^^;)

どんな家族で在りたいですか?

家族だから安心して甘えたり、お願いしたりそれができるのはとっても幸せなことだと思います。

けれどそこに感謝の気持ちを忘れていたり、許してくれるだろうという一方的な思い込みがあるとどこかで歪みが生まれているかも。

なんとなく一緒に生きているのではなく、家族がどう在りたいかを持って生きることがお互いを大切にすることにつながると思います。

そして、自分がどう生きたいかを考えたり、知るためにもとっても大切な一歩になるはずです。

最後にもう一度問いかけさせてください。

「皆さんにとって家族はどんな存在ですか?どんな家族で在りたいですか?」

Text by pieni(ピエニ)(丹波フィンランド大使)

こんにちは、ひらふくです。暖かくなって外出もしやすくなりましたね。

今年のゴールデンウイークは国内旅行が去年の1.5倍にまで増えるそうです。私の職場がある京都もスーツケースをひっぱる人でいっぱいです。

そんな春の京都でふと考えてみたこと、それは最近よく聞く”ウェルビーイング”。

WHO(世界保健機関)によると「肉体的にも精神的にもそして社会的にもすべてが満たされた状態」という意味の言葉です。

トレンドなのか、「ウェルビーイングに生きよう!」や「ウェルビーイングな職場で働こう!」といった見出しをよく見かけるようになりました。

私はこうした賢そうな横文字についのってしまいそうになるのですが、でも本当はどんなものでしょうか?本当に必要なものなのでしょうか。

ウェルビーイング、あなたの言葉では?

日本語では幸福や健康、満足できる生活状態と訳すことが多いようです。でもそもそも幸福の意味すら私にはあいまいで、幸福ってなんだろう?状態。

ウェルビーイングは正しくは“Well-Being”と書きます。直訳すれば「良く在る」ですね。良く在るという言葉を自分なりに訳してみるとどんな言葉が合いそうでしょうか?

私がパッと思いついたのは「しっくりくる心地よさ」。

心が地についているように安定していて、くつろいでいて、好きなようにいられること。「しっくり」は元々仮縫いの着物を身体にあててぴったり合う状態を言ったそうで「その人に合う」というニュアンスがあります。

ウェルビーイングは、誰にでも当てはまる心地よさではなく、私にぴったりな心地よさ。

やっと英語から訳せて腑におちて、たしかにそんなふうにいられたら良いかもしれないと思いはじめました。

そこでウェルビーイングをさらに身近な感覚にしたくて、日本文化が色濃く残る京都で「日本流のウェルビーイング」を探すことにしたのです。

不完全だから心が動く

京都の街を歩いていると骨董品屋さんが多くあります。少し欠けた花瓶に枯れたススキが飾られたり、ディスプレイにぽつんと一つお茶碗が置かれていたり。

まったく派手ではないのですがしみじみ感じ入って眺めてしまいました。

そういえば海外の人は日本文化を「わびさび」と表現するそうですね。さびは物が朽ちたり錆びている様子、わびはそれに魅力を感じる心持ちを言うそうです。

古びた質素な茶室や、苔むしていく枯山水、散っていく桜を愛でる感覚。本当なら、茶室はきれいに修繕したほうがいいし、大きな噴水や満開の花を見たほうが気持ちは華やぐでしょう。

なのに、私は不完全なものたちに「しっくりくる心地よさ」を感じました。広がりはじめた苔にこれから数十年かけて育っていく壮大さを見たり、散っていく花にがんばって生きた生き様を想像します。

完全なものは美しいけれど、それ以上の広がりがない気がする。

それは人も同じで、私は自分に自信をもてたり良い人間でありたいけれど、もし完璧な人間になったら実際はがっかりするのかもしれません。

自己嫌悪になりながらも変われないのは、実は今の不完全さを愛おしむ自分がいるからなのかなと思い巡らせました。

路地に迷いこむ心地よさ

もう一つ「しっくりくる心地よさ」を見つけました。それは京都に張り巡らされた路地たち。

京都の道は碁盤の目になっているので先が見通しやすいように思われます。でも実際は、通りに囲まれた1区画のなかにも家がひしめきあって複雑な路地ができているのです。

私はもともと路地奥の隠れたお店を見つけるのが大好き。この日も、路地の突きあたりに民家のリビングを解放したコーヒー屋さんを発見したり、写真撮影NGでお客さんは全員知り合いといった焼きそば専門店を見つけたりしました。

スマートフォンで口コミ評価を調べながら歩いていたら気づかずスルーしてしまうようなお店たち。

鉄板でジュウジュウ音をたてる焼きそばを食べながら、高い口コミ評価は誰かの思うおいしさではあるけれど、私にとっておいしいお店とは限らないよなあと考えたりしました。

そう思うと、仕事でも生活でも上を目指してがんばるように言われるけれど、その指標は誰かの口コミ評価じゃないだろうか。

不完全なものを良いと思う一方で完全を目指すのはなんだか矛盾じゃないだろうか。

誰もが良いとする”上”を目指すのもいいことです。

ただ、私はそれよりも誰も教えてくれず先も見えない”奥”にむかって、こわごわ半分わくわく半分で踏み出していくのが性に合っている気がしたのでした。

ひとりひとりが幸せになれば、社会が幸せになる

最後にもうひとつ、フィンランドから学んだ「しっくりくる心地よさ」を。

フィンランドには「ひとりひとりが幸福になれば社会全体が幸福になる」という考えかたがあります。社会という言葉は前面に出がちですが、よくよく中身をのぞいてみればひとりひとりの集まりでできているもの。

だからまずは自分が幸せであろう。この考えが私は大好きです。

でも、自分の幸せの定義を、誰かの口コミやかっこよさそうな横文字に任せるのはちがうかもしれません。

今回は京都で日本流のウェルビーイングを探してみました。完全さより不完全を、上より奥に進んでいくのが心地よかった。ただそれも「ひらふくが思う、自分にしっくりくる心地よさ」というウェルビーイング。

同じ場所を歩いてもあなたにはあなたのウェルビーイングがきっとあるはずです。

京都から、フィンランドから、そしてあなたの日常から。「良く在る」瞬間を見つけて集めてみませんか?

オーダーメイドの服のようにあなたのウェルビーイングをまとって、さあ春の街へ。

Text by ひらふく(おとな教育の実践人事)

こんにちは!いけかよです。

在宅ワークやリモートワークが多くの方にとって自由に選択できるようになって久しい昨今。働き方はどんどん進化していると思います。

かく言ういけかよは、2018年からフリーランスです。紆余曲折はありましたが、本当にフリーランスが性に合っていると思っています。コロナ禍を経て現在、ありがたいことに日々忙しくしていますが、今日はいけかよがどんなふうに「自分の働き方」を作っているのかをお話したいと思います。

「フリーランスだからさぞかし自由なんだろう」と思われる方もおられるかもしれませんが、意外とそうでもなかったりします。というわけで、いけかよのとある1日のスケジュールを公開してみようと思います。

そして今回は「ええかんじの日」と「あかん日」の2パターンをお示ししようと思いました。そのコントラストから、いけかよがどんなふうに働いて=生きているのか、とくに「あかん日」になにを考え、なにをして自分自身を整えているのかをお伝えしたく思います。

ええかんじの日の場合

まずは、気分も体調も良い「ええかんじの日」バージョンから。

いけかよは毎日繰り返すルーティンワーク的なものが多くないので、●曜日は○○をしている、みたいなものがあまりありません。言い換えれば毎日やることが違います。なので、以下に書くとある日は一例なのですが、例えばこんなかんじ。

7:30頃 起床してシャワーしてコーヒーを飲む

9:30頃 クライアントAの会社へ出向く

10:00頃 クライアントBとオンラインMTG

11:00頃 クライアントAの人たちとMTGしたり作業したり資料作ったり

12:00頃 クライアントAの人たちとランチ

13:00頃 原稿書いたりチェックしたり事務作業したり

14:00頃 クライアントCとオンラインMTG

15:00頃 原稿書いたりチェックしたり事務作業したりアイデア練ったりぼーっとしたり

16:00頃 クライアントAとMTGしていろいろ作業

18:00頃 家に帰る

19:00頃 パーソナルトレーナーさんと自宅でオンライントレーニング

20:00頃 飲み食いしながら原稿書いたりアイデア練ったり

22:00頃 仕事をひとまず終えてYouTubeや録画してた番組や映画などを見てぼーっとする&晩酌

24:00か25:00頃 就寝

という感じです。

まあ、「ええかんじ」の日はつまりは「予定どおりに予定をこなす日」とも言えるかも。

MTGや「今日中に仕上げるぞ」って決めていたタスクをちゃんと終了させられる日ですね。

「いや、それ当たり前やろ!」とツッコミが入りそうですが、いやいや、予定って狂いますやん?イレギュラーな頼まれ事や、やってみたら思った以上に骨が折れるタスクや、わけのわからんことを言うてくる人とか、いてますやん?ね?

まあでも、「ええかんじの日」はいいんです。

問題は「あかん日」ですね。

あかん日の場合

グラデーションはあれど、多分「ええかんじの日」って少ない気がしています。

天気とか気圧とかホルモンバランスとか、前の夜に飲みすぎたとか、飲みすぎたとか、飲みすぎたとか、いろいろあります。日々生きていれば。

体調だけじゃなく、気持ちが塞ぐときもあります。明確な原因があることもあればないことも。また、自信を無くしたり心が揺さぶられすぎたりして動けなくなることもあります。なんとも、人間というのはやっかいなものですね。

この「あかん日」も、「まあまあ」レベルから「完全に閉店」レベルまでグラデーションがありますが、次にご紹介する「あかん日」は、わりとその「あかん度」が高めの日の場合。

なんにもやる気が起きない。なんにもアイデアが浮かばない。疲れ切ってる。しんどい。酒が抜けてない。睡眠不足。鬱っぽい。

そんな日のやりすごし方です。

8:00頃 一応起床。しばしぼんやりする。調整できる予定がないか考える

8:30頃 調整できる予定を調整する。たとえば対面予定だったミーティングをオンラインに切り替えたり、キャンセルできる予定はキャンセルしたり(体調悪いとか適当に言って)、締切に余裕があるタスクは明日に回したりして、自分のための時間に変更。

9:00頃 「いま何がやりたいか」を考える(「何をやるべきか」じゃなく)

そして、「やりたい」と思ったことをする。

たとえば、もう一回寝たり、お風呂に入ったり、コーヒー飲んだり、掃除したり、本を読んだり、気持ちが上がる動画を見たり、料理をしたりなど。「そんなことしてる場合じゃないやろ!」みたなことをやればやるほど気持ちが上向いていきます。

12:00頃 適当にお昼を食べます

14:00頃 さすがにそろそろ仕事をせねば…となってくるので、いつも利用しているコワーキングスペースへ。一人で家にいてもつまらんので、大好きな仲間がいる場所へ行きます。そして、他愛ない話をして元気をもらいます。場所を変えることで気分転換にもなるし!

18:00頃 わたしの第2のオフィスであるガストorサイゼリヤに移動して、もぐもぐしながら仕事。もちろん酒を飲みながら。

22:00頃 ひとまず最低限やるべきことはこなせたかな、となったら帰宅

23:00頃 YouTubeや録画してた番組や映画などを見てぼーっとする&晩酌(まだ飲むんかい!)

24:00か25:00頃 就寝

自分の機嫌を自分でとる

いけかよの「あかん日」は、おつとめの方にとってはちょっと極端かもしれません。「フリーランスは好き勝手できていいね」とも思われたかもしれませんが、本人としてはわりと必死です。自分を立て直すのに必死です。焦る気持ちはもちろんありますし、「あたしなにやってるんやろう」とげんなりすることもあります。

でも、あかん状態でやってもしんどいだけだし、はかどらない。だからそんなときは思い切ってやめてしまうのです。「やらなきゃ」と思っていることを「ほんとに今日やらなきゃいけないか?」と、いったん俯瞰して見てみる。そうすることで、ざわつく心を整えていきます。

フリーランスになってから、とてもお世話になっている先輩女性経営者の方に「自分の機嫌は自分でとれ。それもフリーランスの仕事」といわれたことは、ずっと心にとどめてあります。

これって、フリーランスじゃなくってもすべての人に言えることですよね。これは言い換えればエラマプロジェクト的には「マイタイムを持つ」ということに通じる部分です。

自分だけのために、自分を整えるために、時間をとる。そうすることで、心や気分を調整していくのです。

だからこそ、「今日は○○しなきゃ」とびっしり埋まっている予定をただこなすのではなく、自分が主体的に調整していくのです。予定が「主」ではなく、自分が「主」で、予定が「従」です。

(あ、他者にクリティカルな損害は与えないことはもちろん大前提です、念のため。信頼無くしたら食ってけないですから)

もっと言うなら、自分の心が「主」で、予定が「従」です。

いけかよは、2022年に個人的に大きな内面の変革があって、そこで「絶対に自分を否定しない」と決めました。それから、とりあえず自分に「OK!」と言うようにしています。

ええかんじの日もあかん日も、とりあえず少しだけでもなにかをした自分がいたら「あたしほんまに今日がんばった〜!」「あたし天才ちゃう…!?」と心のなかで声をかけます。

逆にやろうと思ってたことができなかったとしても、頑張ろうと思った、うん、それでOK!と心のなかで声をかけます。

良くても悪くても、どんな気持ちを持っても自分に「OK!」と言うのです。

これも、長く仕事をしていくために大事なこと。

もっというなら、長く「自分」をやっていくために必要なことだと思うのです。

我慢ができなくなってきた できなくてよかった

何かを我慢したり無理したりするって、会社員のときにはデフォルトのことでした。それはシンプルにそれ=「会社に行って上の人の言うこと聞いて働く」以外の選択肢がないと思っていたし、自分にスキルも自信も経験値もなかったからです。

それでも、そんな状況に我慢ができなくなるのはいつも時間の問題で、転職を30回も繰り返すということをやっていました。

そんなわたしはもちろん他人から見ればわがままで身勝手な社会不適合者でしょう。

しかしもちろんフリーランスになってからまったくなんの我慢も必要ないかというとそうではありません。ちょっとヤダなと思う仕事はありますし、タフな状況に身を置かねばならないこともあります。結果が出ないけど逃げられないということももちろん。

でも、そんなときに自分の気持ちに無自覚ではいられなくなってきました。

言い換えれば、かつてのわたしは「ヤダな」と思う仕事でも「やる」以外の選択肢がなくて、「ヤダな」の気持ちに蓋をして仕事をしてヘトヘトになっていたという感じ。だから自分の気持を麻痺させていたとも言えます。

しかし今は「ヤダな」の気持ちにとても敏感になってきました。

これってけっこう大事なことで、「ヤダな」と思ったらやめるということができればベストですが、現実はなかなかそうはいきません。やってみて初めて「これってイヤかも」と気づくこともあるし、引き受けてしまった以上はやりきらないといけないこともあるからです。

でも、そんなときに「ヤダな」の気持ちを無視するのでも蓋をするのでもなく、淡々と「ああ、あたしはこういうときに嫌やって思うんやな」と、その気持をきちんと受け止めるようにしています。

つまり「自分を否定しない」ということ。

それをしてしまうともう「嫌だ」の気持ちが抑えきれなくなってしまうかもしれないという怖さもあるのですが、それって実は逆で、結果的に「じゃあどうしようかな」という、冷静な見立てができるようになります。

なるべくストレスを感じないでやる方法はないか

誰か他の人に頼ることはできないか

本当に自分がやるべきなのか

そもそも、具体的に何に対してわたしは嫌だと思っているのか

いつになればここから抜け出せるか=ゴールがわかれば苦しくても走れる

自分の正直な気持ちを抑え込んで生きるととても消耗します。これはつまりは大切な自分自身のエネルギー(心身ともに)を無駄にする生き方なんですよね。

いけかよは、そんな生き方を長いことしていましたが、本当に心身が壊れてしまうかもという窮地に陥って、自分の心を自覚的に守る=自分のエネルギーを無駄にしないということを意識するようになりました。

結果として、「我慢する」ということがどんどんできなくなってきているし、できなくてよかったとも思っているのです。そもそも、我慢なんてできるタイプじゃないのに長年我慢することに慣れてしまっていたからこそ、心も身体も生活も苦しかったのだと、今は理解できます。

いまこそやろう「そんなことやってる場合じゃない」ことを

ここまでお伝えしてきていけかよが言いたいことは「働き方が自由になる」ということは、同時に自分の働き方を主体的に自分で決める責任があるということ。お勤めの方でも「出社」一択ではなくなった今(もちろんそうでない職種の方もたくさんいらっしゃいますが)、いかに快適に日々働き、暮らし、生きるかを自分でカスタマイズしていく必要があります。

だから、人によってはそれに戸惑ったりする方もいらっしゃるかもしれませんね。組織や企業で1箇所に集まって働くというやり方に馴染みきっている人にとっては、在宅ワークですらやりにくいかも。

「生産性を上げる」なんて簡単に言いますが、それすらも自分に責任があるということです。

だからこそ、わたしたちは日々ご機嫌でいる必要があるのです。そして自分をご機嫌にさせてくれるのは自分しかいません。

どうすれば…?と思う方は、まずは「いまそんなことやってる場合じゃないやろ」ということを、許されるタイミングでやってみてください。ほんの10分とかでもいいと思うのです。

例えば朝イチで、気分がノッてるかノッてないかに関わらずメールチェックすることがルーティンになっている人ならば、今日は気分がノッてないと思ったらまずはお気に入りの推しを愛でる時間をとるとか。

昨夜から気になっているマンガの続きを読むとか。

いきなりお菓子を作り始めちゃうとか。

○○してはいけないなんていうことは基本的にはありません。「そんなことをしたら他人に迷惑がかかる」とお思いでしょうか。しかしそもそも生きるということは他人に迷惑をかけるということ。だから気にしなくて大丈夫です(たぶん)。

それよりも、自分に迷惑をかけないように、ご機嫌でいられるように、自分の殻をやぶっていけるように、「そんなことやってる場合じゃない」ことをわたしたちはやる必要があるのです。

では、また!

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)

こんにちは、どさんこ大学生RUNAです!

突然ですが、みなさんはSNSをどのくらい活用していますか?

私は、一応アカウントを持っている程度で、投稿は全くしていません。

SNSとの適度な距離は、人それぞれ違います。正解がないから分からない…。そう、「SNSとの向き合い方」について考えることを、いつも先延ばしにしていました。

今回は、SNSと「つながり」、「共有」について個人的な体験から考えてみたいと思います。

人間関係を変えていくSNS

インターネットの世界で起こることがリアルな世界に影響を与えることがあると知ったのは、中学生の時でした。

クラスの大半が利用していたTwitterに私の悪口が書かれていたのです。Twitterを使っていなかった私は、何も知らず、それを書いていた人とも仲良く接していました。それがかえって面白かったみたいで、その後も沢山身に覚えのないことがツイートされていました。

それを友達に見せてもらい、はじめて知ることになったのです。 

直接話していた人たちとは違う印象の攻撃的な言葉が無数にありました。

「Twitterを使ってなくて良かった」すぐにそう思いました。

友達は、Twitterのアカウントを作り、誰々がどんなことを言っているのか確認や監視をした方が良いとアドバイスしてくれました。

しかし、私はアカウントを作りませんでした。なぜなら、友達に見せてもらったツイート画面があまりにも怖いものだと感じたからです。

事実無根のことや、人格否定の話題が盛り上がっているTwitterという世界に関わるのが怖い。こうして私の中で、SNSの世界は怖いものとして記憶されました。

高校生になると、友達とはリアルで会っている時だけじゃなく、SNSのやり取りで仲が深まったり、話題が広がったりしていました。

リアルで会った後、個人的なやり取り以外にSNSに投稿しないと「悲しい」と言われてしまうようになりました。

大学生になると、連絡先交換は先ずインスタからが基本で、いきなりLINEを聞くと「重い」と感じられることを知りました。

インスタを交換し、ストーリーで相手の私生活を知って、それに反応して仲良くなっていくのが当たり前のようになっていました。

仲良くなると、親しい友達だけを集めたインスタのアカウントを教えてくれるようになりました。

このようにSNSを活用していくことで、仲が深まったり、相手の趣味や私生活を知ったりして「つながり」が構築されていきます。

私も、SNSで人間関係をつなげていくことにチャレンジしてみました。しかし、さまざまな疑問や違和感を抱いてしまって、その世界の住人に適応できませんでした。

その違和感の1つは、「なぜ日常をシェア(共有)するのか?」でした。

 

なぜ、シェアするのか?

SNSをさまざまなカタチで活用している友達に「人は、なぜシェア(共有)するのだと思う?」と聞いてみました。

インスタの趣味アカウントのフォロワーが7000人以上いるAさんは、「インスタが1つの居場所になっている。趣味をシェアして、反応がもらえることで自分の存在価値があると思える。いわゆる承認欲求が満たされる!」と教えてくれました。

また、推し活専用のアカウントを何個か持っているBさんは、「推しを応援するために、推しの良さを共有したい!推しの良さに気づく人も増やしたい!」と教えてくれました。

また、インスタのストーリーズ機能だけ活用するというCさんは、「友達との関係維持のためかなぁ。LINEとかで連絡するほど仲良くない人、インスタだけで繋がっている人にストーリーで私生活を共有する。それに関心がある人とは、DMでたまに話してつながりを感じることができる」と教えてくれました。

存在価値を感じたり、推しを応援できたり、人と関係を維持できたり…

シェアすることで、人それぞれに合う願望が実現できるという側面があるようです。

私は、考えすぎな性格が原因なのか、そもそもシェアすることにも臆病です。

大学生の友達は、投稿もストーリーもしない私を、不思議でミステリアスだと言うようになりました。

また、長期休みに一切連絡を取らないと約2ヶ月間音信不通になってしまいます。

その間、ほとんどの友達はストーリーで自分の私生活をシェアしていました。

そんな休みの期間に数人の友達から「生きてる?」と連絡が来ました。

友達たちが日常をストーリーで共有している中、1人だけ何をしているのか分からない人…。それが私だったそうです。

ストーリーに私生活を共有していないと生きてるかを心配されるんだ!心配をかけて申し訳ないと思う反面、戸惑いを感じてしまいました。

しかし、この戸惑いも時代と共に消えていくのかもしれません。

2016年、アメリカで「ファビング」が注目を集めました。「ファビング」とは「電話(Phone)」と「冷たく扱うこと(Snubbing)」を組み合わせた言葉です。その言葉が登場するほど、電話に出たり、メールに返信したりして目の前の人を無視する・冷たく扱うことを問題視していました。

「その場にいない人」との交流としては、ストーリーや投稿も同じことのように感じます。今は、どんどんテクノロジーが進化しているので、その違和感をすぐに忘れてしまうくらい新機能が出現していくのかもしれません。

そうして、人と人は見ている景色も、感じている思いも、何もかもをも常に共有するようになっていくのかもと思ってしまいます。(既に今そうなっているのかもしれません)

それは、良いか悪いかではないことでしょう。しかし、常につながっている状態では私は壊れてしまうように思います。

なぜなら、常にシェアしていると人の目が気になってしまうからです。

人と一緒に作業や勉強ができるタイプ?という質問をされたことがありました。

私はすぐに「出来ない…」と答えていました。

誰かがいる空間で作業するのは苦手です。

私は、人の目線、声、におい、感情に大きく反応してしまいます。

なので、すれ違った人の特徴を覚えてしまうことがあります。また、自意識過剰のようですが、誰も自分のことを気にしていないのに、人混みに行くと気が張ってしまい、具合が悪くなることがあります。

なので私は何か重要な考え事をしないといけない時などは、やっぱり1人でいないと出来ないと思うのです。

では、私はもうSNSと向き合っていけないのでしょうか?

分人的なSNSとの向き合い方

「分人」という考え方があります。

「分人」とは、対人関係ごと、環境ごとに分化した、異なる人格のことです。中心に一つだけ「本当の自分」を認めるのではなく、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉えます。

家庭、学校、仕事場、SNSの中にさまざまな人間関係があるからこそ、それぞれの分人が、いろんな自分が、生きている。

そう思うと、文章投稿型、コミュニティ型、写真投稿型、動画投稿型、ライブ配信型などさまざまなカタチがあるSNSは、いろんな自分が生まれ育つ場所、いろんな自分の居場所ともいえそうです。

「SNSと向き合う」それは、キャラや仮面としてではなく、自分の一部として自分が好きなことは何か?自分の中にある大切な部分は何か?を知れる。つまり、自分と向き合うことと似ていると思います。

そして、SNSと向き合うことで、自分の中にあるさまざまな可能性を発揮できるきっかけにもなるのではないでしょうか。

このよむエラマでも、エラマとエラマライターさんたちに出会えてたからこそ、どさんこ大学生RUNAとして発信ができています。違和感と向き合うことを大切にしようという私の一部が、よむエラマの発信のおかげで、生まれ育つことができていたのです。

私もすでにSNSの中にいろんな自分が生きていました。

誰かに日常をシェアする。

つながりを持つ。

SNSと向き合う。

これらに対して、それぞれの場所でさまざまな意見を持つ自分がいる。これからも、いろんなカタチに変化するいろんな自分の考えと向き合っていきたいと思います。

最後まで、読んでいただきありがとうございました。

Text by どさんこ大学生RUNA

こんにちは、あいすかです。
みなさま、いかがお過ごしでしょうか。
新学期、新生活に突入しましたね。年度末からの疲れはでていませんか?
東洋医学の仕事をしていた亡き父が生前、春になるとよく言っていた言葉があります。
‘’春は風の季節。揺らぎの季節‘’
大気の安定しないとき、人の身体(自律神経)はそれに対して正常に反応し、特に精神面が安定しなくなります。
季節の変わり目、年度の変わり目、コロナ後の静から動への変わり目。
変化が重なり合っている今だからこそ、「3つの‘よ’」を意識してみましょう。
①余白 ②余裕 ③予防
 
そして、深呼吸して、スタートダッシュの時期こそ、ゆっくりペースでいきましょう。
今回もかあちゃんに少しお付き合いくださいませ。

いつも頼まれ事を引き受けてしまう人って損なのか問題

あなたはよく周りの人からお願い事をされる人ですか?
かあちゃんが新卒で入社したての頃は、ちょっとしたコピーや雑用を先輩や上司からお願いされることはありました。それは「新人の仕事」みたいな感じでしたが、現代ではもう紙媒体でなくて電子化されているところがほとんどですから、さすがに新人の雑用=コピー取り、は昔ほどではないかもしれません。

人からお願いされることって、日常生活の中で山のようにあって、誰がやってもできることであったり、頼まれる人と頼んだ人との関係性によって、内容も質も種類も多様です。

ここでは、ちょっとしたお願い、ではなく、自分にとって、精神的にも肉体的にもけっこうヘビーなお願いだとイメージできることをお願いされたとき、引き受けるか否かについて、みなさんに問うてみたいと思います。
1分くらい考えてみて下さい。

(チッチッチッチッチ・‥・・・時計の針( ´艸`)) 

例えば、親友や親戚からお金を貸してほしい(がんばったらどうにかなりそうな金額)と言われたとき、自分ならどうするか。

頼んできた本人はとても困っている。貸さないこともありだけど、絶対に彼、彼女なら返してくれるだろうと信じているから貸す。

いや、友達でもお世話になった血縁の親戚であっても、きちんと自分の中で一定の線引きをして付き合う。相手との関係性をこじらせないためには、断ることも大切だ。

どちらも間違いではありません。

コピー取りのように、ちょっと面倒くさいな、と思えるレベルの頼まれごとなら、一瞬イラっとはしてもやれてしまうもの。
ただ、自分の生活に影響が大きいであろう頼まれごとに関しては、当然熟考しますよね。答えは頼まれた方に託されていて、その人の身体面、精神面、生活面からみて受容できる範囲によって左右される。
その代表的なものの一つに、ボランティアがあります。

ここでは、自ら手を挙げて自発的におこなうものではなく、やるつもりはなかったけど、やれないわけでもない、そう思っている人が、つい頼まれてしまった場合について書いてみたいと思います。

みんながやりたくないことをやれる人って、かっこいい?

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代表的なボランティアとして、ここではPTA役員をあげてみたいと思います。
PTAというと、この言葉を聞くだけで拒否反応を示す保護者もいるほどの、小学生の子どもをもつ保護者にとってはボランティア活動の極みだと思っています(笑)。

学校や地域によって活動内容や組織形態は様々です。だからこそ、役員経験者にしか分からないことが山のようにありました。

はい、私も昨年度まで、約2年間、保護者会本部、PTA本部役員をしておりました。自薦ではありません。推薦委員さんから声をかけていただき、引き受けました。
最初に対面でお願いされたとき、「ちょっと考えさせてください」と即答しました。
その場で断ることもできたのですが、なぜ、私は断らなかったのだろう。今になって分かったことがあります。
コロナ禍で、保護者の学校への立ち入りも規制されていました。子どもたちの学校の中のことが全く保護者には分からない。何をしているのかも、学校がどういうところなのかもわからずに過ごしていました。
それなのに、私は毎朝わが子たちを 「いってらっしゃい」 と笑顔で送り出している。
「義務教育である小学校へ行くことは当たり前」と思っていたわけではなく、公立小に不満があったわけでもないのですが、なぜか徐々に不安が募っていったのです。

‘’学校のことをもっと知りたい‘’

それだけが、私がボランティアを2年間も引き受けたモチベーションでした。

先生方のことを信頼していなかったわけではないのです。
保護者の役員問題だけでなく、会社のなかでも同じようなことはあると思います。

労働組合の役員をお願いされるということもあるでしょう(これも私は経験済み)。
企業を超えた同業種の連合会など、さまざまな場面において普段の業務以外でやらなければならない仕事(ボランティア)も山のようにあります。
有償か無償なのかということよりも、経験値(知)として、個人を成長させてくれるものなのかどうか、本業でもプラスになるかどうか、で判断していることが大半だと思うんです。

これは私なりの結果論ですが、やってみないと分からないし、経験した人にしか語れないことがあるんです。
私も、PTA役員を引き受けた後、当初はあまりの業務量の多さに、引き受けるんじゃなかった、と後悔したこともありました。自分の時間は後回しにしてしまうし、「3つの‘よ’」とはかけ離れた生活をしていました。
最初からお断りできる人を(お声がかからない人も)羨ましい、とさえ思っていました。

でも、本部メンバーと校長先生、教頭先生との毎月の会議から、学校の中を知りたいという願望は達成されましたし、先生方の人柄や、保護者の知らないところでの子どもたちの活動や配慮、地域と学校のつながり、さまざまな編み目がくっきりと見えてきて、自分自身がいま生活していることに直結している、と実感できたのです。

メンバーにも恵まれたので、現代に合わせたPTA改革も始められましたし、企業さんとのイベントなど様々なチャレンジもできました。PTAだからできたことを、今になって実感しています。

結果論ではありますが、担任以外の多くの先生方とも顔見知りになりましたし、毎回会議をして議論・相談していた校長先生や教頭先生とも、ざっくばらんに対話できるくらい距離が近くなりました。(ここだけの話、打ち上げも予定しています(笑)。

先日、娘に言われたことがあります。

「お母さん、今年はPTAお疲れ様!人がやりたくないことを引き受けるって、かっこいいよね」

あ、やりたくないこと=PTA役員っていうイメージを、いまの子どもたちも持ってしまっているのか、大人たちがSNS上で流している情報の影響かな、と反省しつつ、私なりに娘にこう答えました。

「やりたくないことも“イメージ”だからね。やった人にしか分からないことがあるから、なんでもそうだけど、経験した人にしか語れないことがあるって、お母さんも勉強したよ。やらないで批判することのほうが、かっこ悪いからね。でも、カラダやココロが悲鳴をあげるようなことはやらない方が良い。まだ、わからない先のことを考えて不安になるより、その後、まわりがハッピーになるか、自分も達成感を味わえるかって、必死に想像するチカラが発揮されるんだよね。その過程も、かっこいいし、クールよね」と。

はふーーん、と言いながら、何やら自分の世界のなかでどうするかを想像していたようでした。

半径3メートルの小さな活動を見守ってもらえていたありがたさに気づく

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ここまで、ボランティアのことや「やりたくないこと=イメージ」だったという気づきを書いてきました。これは、あくまでも私の体験から得た知見です。

ボランティアや学校の保護者役員はみんながやった方がいいのよ、というようなことを声高々に発信したいわけでは決してありません。
学校の役員活動もボランティアも、対価をいただく仕事と同様に、人間関係で成り立っています。ご縁があって引き受けたり、活動をしながらやりがいを感じていったり。

でも、正直、奉仕活動は自分の生活の基盤の上に成り立つプラスアルファの活動になるので、体力的にも精神的にも余力がないとできません。
そういう意味でも、私の中ではやり切った感があり、今回、数年つづけてきた全てのボランティア活動をいったんお休みすることに決めました。

すると最近、地域のママ友やご近所さんから、労いの言葉をたくさんいただくようになりました。
あれ?この人だれだろう?っていう方からも声をかけてもらったりありがたいな、と感じる毎日です。
自分がボランティアをやってみて、歴代の人たちがこれまでしてきてくれた活動内容にも気づくことができたりしました。

そう、感謝の循環をまわしていたんだな、と思います。

時代に合わせてやめる、何を残すか選択する、そういった決断力も身についたかもしれません。
多くの情報や思想にさらされている現代ではありますが、自ら身体をつかって経験したことは事実であり、説得力があります。
だからこそ、まずは動いてみる。半径3メートルでいい。誰かの役に立てているかどうかは考えなくていいので、やってみる。そして考える、動く。その繰り返し。

それを見ていてくれる人は本当にいますから。
また、ご意見ご感想などをいただけたら、うれしいです。

では、次のお手紙まで、みなさまお元気でお過ごしください。
 
Text by Äiskä あいすか(Cheer up girls★かあちゃんライター)

こんにちは、橘茉里です。

新学期が始まりましたね。特に、新入生や新社会人の方は、新たな環境で上手く人間関係を築いていけるか、期待や不安を抱いているかもしれません。

私は、仕事スイッチが入っている時は、初対面の方ともフレンドリーに接することができますが、根っこは人見知りなので、新しい環境に入る時は今でも緊張でドキドキします。

さて、新たな出会いが多い春ですが、今日はあえて、友人との関係を終わらせることについてお話ししようと思います。

世間では、友達の作り方が取り上げられることは多いものの、終わらせることへの関心は薄いように感じます。

しかし、新しい友人関係を築くことと同様に、いえ、もしかしたらそれ以上に、自分に合わなくなってしまった関係を終わらせることって大切なのではないでしょうか?

今回は、自分の気持ちに従って人間関係の断捨離をすることで、人付き合いの悩みが減り、真に繋がりたい人たちとの関係が充実するようになった私の例をご紹介します。

人付き合いにストレスを抱えている人たちに向けて、こんな考え方もあるんだよということを知ってもらえたらいいなぁと思います。

前提として、私はものすごく断り下手である

今、私は友達がとても少ないです。

エラマプロジェクトに関わったり、パラレルワーカーとして活動したりすることで、交友関係はそれなりにありますが、プライベートで遊ぶような友達はかなり少数です。

それは、豊かで幸せな生き方を探求するようになって以降、人間関係の断捨離を行い、かつての友人たちと距離を置いたり、付き合いを絶ったりしてしまったからです。

それまでの私は、この人と友人で居続けるのはちょっとしんどいなぁと思っても、無理をして相手に合わせていました。

でも、豊かな人生を送ると決め、自身と向き合うようになってからは、「私、本当は楽しくないのに、楽しい振りして会話に加わっているなぁ」「この子のこと、嫌いではないけど、会うと疲れちゃうんだよね」などの気持ちに蓋をすることをやめたのです。

やめたというより、気持ちを偽って我慢し続けることができなくなってしまったという方が正確かもしれません。

きっと自分を大切にするようになったことで、自分の本当の気持ちをちゃんと掬い取ってあげられるようになったのだと思います。

この記事を読んでくださっている方の中には、関係を断つなんて極端なことをしなくても、ストレスが溜まらない程度に適当に付き合えば良いのでは?とお思いの方もいらっしゃるでしょう。

それが出来る方は、もちろん断捨離なんてする必要はありません。

でも私は白黒つけたいタイプの人間で、どっちつかずのグレーの状態にとてもストレスを感じます。そんな私にとって、自分とは合わないと感じつつ、友人関係を続けること自体が負担なのです。

それに、曖昧に友人関係を続けることによって、メッセージのやり取りしなければならなかったり、気乗りしない誘いをどう断ろうかと頭を悩ませたりする事態が生じることもかなりしんどいです。

私の場合、そこから解き放たれる方法が、人間関係の断捨離でした。

そもそも私は誘いを断ることがものすごく苦手です。

どのくらい苦手かと言うと、例えば参加したくない飲み会に誘われたとして、誘いを断るストレスを感じるくらいなら、飲み会の2、3時間を我慢した方がマシだと思ってしまうくらい、断ることが苦手です。

今の私は、気乗りしない誘いはさすがに断れますが、かつては断るストレスから逃げるために、やりたくないと思っても引き受けてしまったり、行きたくなくても参加してしまったりしていました。

日本人は「NO」を言えない人が多いというのは良く聞く話ですが、私はその傾向がとても強い人間でした。

「NO」が言えないのは一体なぜなのか。

相手に嫌われるのが怖いの?

相手の期待を裏切るのが嫌なの?

どうしてこんなにも断ることが苦痛なのか、実は自分自身でも良く分かりません。

また、頑張って断ろうと思っても、はっきり断ることができないために、「またの機会に」「時間ができたら…」などの婉曲的な断り文句になってしまうことも多々ありました。

それで相手が察してくれれば良いのですが、どうやら私の物言いでは断りのニュアンスが薄いらしく、相手に「NO」の気持ちが伝わらないストレスに、胃がキリキリしたことも多々ありました。

こうやって思い返してみると、他人からの誘いを断るという人生全体からしたら些細なことに、私は随分振り回され、エネルギーを費やしてしまったなぁと苦笑いするしかありません。

人間関係の断捨離を決行する

先ほど、人間関係の断捨離をするようになったのは自分の豊かな生き方を探求するようになってからだと書きましたが、私は30歳を過ぎた頃から、自分の人生や生き方に悩み、数年の間、迷走期が続きました。

当時は、自分の望む人生はこれじゃない感が強くて、将来にも希望が持てない状態でした。

自分のやりたいことが分からず、どんな人生を送りたいのか、どうやったら自分が心地よく生きられるのか、自分のことがちっとも分かりませんでした。

何かしなければと気ばかり焦って、朝活に参加したり、資格の勉強をしたり、傾聴の講座に出たり、NLP心理学のコースに通ったりもしました。

他にはカウンセリングを受けたこと、ワークショップや自己啓発セミナーに行ったこともありました。

結構なお金と時間を費やして右往左往していたわけです。

そうやってもがきながら、少しずつ「自分」というものを見つけていきました。

エラマプロジェクトと出会ったのは、初期の迷走期を脱して、自分と向き合えるようになってきた頃のこと。

それまでは、人生の目標ややりがいを見つけねば!という渇望感が強かったのですが、エラマの世界観に触れることで、豊かで幸せな人生を送りたいという穏やかな願いへと、自分の気持ちがシフトしていきました。

自分の心の豊かさを意識するようになると、自分にとって心地よいこと、したいこと、したくないこと、色んなことが鮮やかに感じ取れるようになっていきました。

以前だったら、気乗りしないのを我慢して参加していた友達との集まりに対しても、「行きたくない」とより強く思うようになり、さらに「我慢して参加することは豊かな生き方ではない」と感じられるようになりました。

いつの間にか、私の中に「豊かな生き方かどうか」で物事を判断する癖ができていたんです。

そして私は、自分の心の豊かさのために、付き合いたい人たちとだけ付き合おうと決めました。

もちろん現実的には、仕事の人間関係など、自分と合わないと感じても付き合わざるを得ないことはあります。でも、プライベートでは我慢するのをやめようと思ったのです。

私は、今の自分とは合わないなぁと感じる相手との付き合いを断つべく、これまでの古い友人関係を見直し、人間関係の断捨離をすることにしました。

誘いは思いきって断る。

積極的に連絡を取らない。

コミュニティから抜ける。

実行したのはこういう小さなことばかりですが、付き合いをやめると決意すると、以前よりもはっきりとNOの意志を示せるようになりました。

すると、大抵の場合は自然と関係が疎遠になりました。幸か不幸か、コロナ禍によってリアルな会合が制限されたことも断捨離成功を後押ししてくれました。

そんな中、断捨離に苦労したのは、昔は仲が良かったけれど、今ではごくたまに会う程度という関係の友人たちでした。

当時は一緒にいて楽しかったし、素敵な思い出もたくさんあります。そんな人たちを断捨離しようとする私は薄情でしょうか?

でも、人間は昔のままではいられません。良くも悪くも変化する生き物です。

大人になって立場や環境が変わったり、お互いに別々の様々な経験を積むことによって、当時は「この人と合うなぁ」とフィットしていた感覚がどんどんずれていくことがあります。そして気づけば、無理して付き合いを続けているという状態になってしまう。

関係を断つことは冷淡に見えるかもしれませんが、かつては仲が良かったからといって、ずっと関係を維持しなければいけないなんてことはないはずです。

結果的に私は、今は価値観がかけ離れてしまった昔の友人たちと距離を置き、付き合いを終息させることに成功しました。

罪悪感がないわけではありませんが、私は後悔していません。

自分の行動は自分が選んでいい

行くかどうか、引き受けるかどうか、連絡するかどうか。

他人が絡む物事に対して自分の行動を決める時、誰に決定権があると思いますか?

当たり前ですが、自分の行動の決定権は自分にあるのです。

ですが、かつての私は自分に決定権があるとは思えずにいたような気がします。誘われたら行かなきゃいけない、頼まれたら引き受けなきゃいけない。そんな風に思っていました。それは自分にはNOの選択肢がない状態、つまり相手に決定権を渡しているようなものです。

行くかどうか決めるのは自分。

そう思えるようになったら、私は気持ちがとても軽くなりました。

自己肯定感が低かったり、NOと言えない人の中には、昔の私のように自分が決めていいのだと思えない人もいらっしゃると思います。

でも、あなたの人生なのですから、あなたが自分で選んで良いのですよ。

たとえ相手を不快にさせたり、傷つけたりする結果になったとしても、あなたの決定権はあなたのものです。

私は、今の私と合わなくなってしまった友人との付き合いを終わらせるという選択をして、自分の意志でそれを実行しました。

すっかり友人の数は減ってしまいましたが、友人関係の悩みやストレスは驚くほど少なくなりました。そして今では、付き合いたい人たちとの関係を大切にできているので、ストレスどころか満ち足りた気持ちでいられます。

あなたがもし友人に対してストレスを感じているなら、関係を見直してみることも一つの方法です。

私の経験があなたのお役に立てたら幸いです。

Text by 橘茉里(和えらま共同代表/和の文化を五感で楽しむ講座主宰/国語教師/香司)

こんにちは!いけかよです。

新しい季節、みなさんはいかがお過ごしですか?

キラキラの日々に胸踊らせている人も、変化の多い環境にちょっとナーバスな人も、通常運転な人も、さまざまおられることでしょう。

そんな日常にちょっとした彩りを添えてくれるもののひとつは、映画や音楽などのエンタメですよね。そして、そんな映画と音楽が融合した、ある意味「発明」とも言えるのが「サウンドトラック」だと思うのです。

映画だけでなく、ドラマやアニメ、ゲームに至るまで、わたしたちを物語の世界にいっきに引き込んでくれるサウンドトラック。今回は、そんなちょっとニッチなジャンルから、エラマライターズそれぞれのイチオシをピックアップしていただきました!

ひらみんの推しは「A Whole New World」(映画「アラジン《原題:Aladdin》」から)by Peabo Bryson & Regina Belle

言わずと知れた、ディズニー映画『アラジン』の曲です。

と言っても、私の推しは、最近の実写版ではなく、1993年に公開されたアニメーション映画の曲です。ピーボ・ブライソンとレジーナ・ベルのバージョンです。

アカデミー賞とグラミー賞の両方を獲り、映画音楽として最高峰の評価を得た名曲だと思います。「美女と野獣」、「リトルマーメイド」などの音楽も担当した、ディズニー映画音楽の巨匠アラン・メンケンが製作しています。

実は映画を見ていないので、映画から入ったのではなくて、最初はCDで聴きました。映画を見ていなくても、映画の世界観が伝わり、メロディ、歌声、歌詞、演奏、すべてにおいて完成度の高い曲だと思います。ピーボとレジーナの伸びやかな歌声は、もう聞いていてほれぼれしちゃう。2人の声と2人が紡ぐ完璧なハーモニーは耳と脳への贅沢なご褒美でしかないです。

間奏にエレキギターっぽい音が挟み込まれているのも、おもしろいポイントです。

もちろん歌詞もいいんです。

I can show you the world(この世界を僕が見せてあげよう)ってピーボの素敵な声でいきなり始まるんです。どんな世界なのか、いきなりわくわくします。

そして、その「世界」というのは、a whole new world(まったく新しい世界)で、a new fantastic point of view(見たことのない素晴らしい景色)です。

Unbelievable sights(信じられないような眺め)でIndescribable feelings(言葉にできない気持ち)になるような場所です。

どんなに素敵なところなんでしょうか。私にとってこの曲は、a whole new worldに連れて行ってくれる曲で、元気を出したい時に聞く、スイッチのような曲です。

映画を見なくてもサントラを楽しむことはできますよ!

橘茉里の推しは「ザナルカンドにて」(ゲーム「ファイナルファンタジーX」から)by 植松伸夫

切なさ、悲しさ、尊さ、感動。色んな感情が揺さぶられて、涙なしにはプレイできない、名作中の名作「ファイナルファンタジーⅩ」。本作は、2001年にPlay Station2専用ソフトとして販売されたゲームで、今でも絶大な人気を誇る作品です。

私は大学生の頃に、ゲーム好きの弟から譲ってもらったのですが、登場人物たちのつらく哀しく、けれど美しく強い生き様に、夜な夜な涙しながらプレイしたものです。

今回ご紹介する「ザナルカンドにて」は、ゲームのオープニングで流れる楽曲です。ピアノの旋律が切なく心に響きます。

オープニング曲がなぜこんなにも寂しげな曲調なのか。ゲームを進めていき、オープニング場面の意味が明らかになると、曲調の理由にも深く納得することでしょう。ですが、ゲームの内容を知らなくても、この曲は人の心を打つ力を持っていると感じます。

さて、「ファイナルファンタジーⅩ」(略称 FF10)は今春、新作歌舞伎として上演されています。歌舞伎化することを知った際は、正直なところ「歌舞伎でFF10の世界を表現できるのかな」と懐疑的だったのですが、YouTubeで、ヒロイン・ユウナを演じる中村米吉の「異界送り」の舞を観て「ユウナだ!」と感激。早速チケットを取って、歌舞伎を観に行ってしまいました。歌舞伎鑑賞中は、胸が高鳴りっぱなしでしたよ(笑)

なお、歌舞伎では、FF10の楽曲が和楽器を使った歌舞伎バージョンにアレンジされていて、とても素敵です。和文化エバンジェリストを称する私にとって、FF10の楽曲と和楽器という大好きなもの同士の掛け合わせは「よくぞやってくれた!」と拍手喝采ものです。

ストーリー、楽曲、そして新作歌舞伎、どのコンテンツも素晴らしいFF10の世界。ぜひご堪能ください。

どさんこ大学生RUNAの推しは「お母さんの手紙」(ドラマ「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」から)by 得田真裕

突然ですが、私が大好きな脚本家は「坂元裕二」さんです!ドラマや映画では、脚本家に坂元さんの名前があると必ず見ています。

そんな坂元さんの作品のサントラはいつも本当にステキで、坂東祐大さん、for capture planさん、平野義久さんなど…さまざまな方が毎回作品を彩っています。

その中でも、今回ご紹介したいのが2016年に放送されたドラマ「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」の「お母さんの手紙」です。この曲は、第1話で主人公がお母さんの手紙を読む場面で流れてきます。

このサントラを聞くと、私はすぐにその場面を思い浮かべ、お母さんの声で登場した満島ひかりさんが読む手紙の内容を何回も読み返している気持ちになります。

坂本さんのドラマには記憶に残るセリフが数多くありますが、サントラと組み合わさると更に心に深くきざまれる言葉たちに変わるのです。

また、何かを心から伝えたい時、優しい気持ちになりたい時に聞きたくなります。

このドラマでは「手紙」、「メール」、「レシート」が人物たちの人となりが読み取れるもの、想いを届けるものとして登場していました。想いを伝える手段は身近に沢山あるものの、それを使うことは難しいことがあります。心から心へと想いを届けたい時、このサントラがみなさんの背中をおしてくれることを願っています!

いけかよの推しは「Molly」(映画「ひかりのまち《原題:Wonderland》」から)by Michael Nyman

数多くいる映画音楽の巨匠のなかでも、いけかよはマイケル・ナイマンが結構好きです。有名な作品といえばやはりその映画自体も大ヒットした「ピアノ・レッスン」かと思うのですが、いけかよがお気に入りなのは「Wonderland」という映画の「Molly」という曲。1999年のイギリス映画で、日本では「ひかりのまち」というタイトルで2000年に公開されました。

映画自体はミニシアターのみの公開で、むしろ知っている人のほうが少ないかも。しかし監督は秀作をたくさん生み出しているマイケル・ウインターボトムだし、サントラはマイケル・ナイマンだしで、地味(失礼!)な作品ながらストーリーもキャストもスタッフも素晴らしく。

本作のサントラは、曲のタイトルが登場人物の名前になっていて、ご紹介する「Molly」は主人公の妹の名前であり、本作のメインテーマ。

この映画を知らなくても、この曲はイントロを聞けば「知ってる!」と思う方は多いはず!

CMなどでめちゃめちゃ使われています。最近だと、某缶コーヒーのCMで使われていて、いけかよはめちゃめちゃ嬉しかった。

サントラ全曲とも、この映画のためのオリジナルで、ヴォーカルはなく、しっとりと心に寄り添ってくれるような曲ばかり。全曲通して聞いてほしいけど、なかでもやはりこの「Molly」は名曲。

ちょっと切ないとき、疲れたとき、心がささくれだっているとき。きっとあなたを癒やしてくれるはずなのです。

物語×音楽=最強

いかがでしたか?

サウンドトラックをピックアップするとなると、それぞれの個性や好みがより際立ちますよね!

いつも心に太陽を。いつも人生に物語を。そして日々の生活に音楽を。

それがきっと「わたし」の「幸せな時間」を充実させたものにしてくれるはずだと思うのです。

Edit by いけかよ