こんにちは!ひらみんです。
突然ですが、聞いてください。わたくしごとですが、今住んでいるシェアハウスが2025年3月に閉まることになりました。
駅からちょっと遠いけど、静かな住宅街で、とっても快適に暮らしていた私。引越しなんて考えてもいなかったのですが、「年度内に引っ越さねばならない」というミッションが急に降ってわいてきました。
実家を出て以来、ずっとシェアハウスに住んでいたので、これを機に一人暮らしをしてみようと決めました。人生で初めて一国一城の主となるわけですから、3月に出ていくまでの時間を使って、いろんな家を見て、じっくり考えようと思っています。
そしたら、家探しをきっかけに、自分にとっての幸せを形作るものが見えてきた、というお話です。
どういう家に住みたいか
部屋探しにあたり、検索サイトで一番最初に聞かれるのは、「どのエリアに住むのか」です。
何市に住むのか、JR沿線か、私鉄沿線か、どの駅にするのか、駅の南か北か、もっと具体的にはどの町かも指定できます。職場への出勤の経路や時間も気になります。夜の人通りの多さや治安も考えたくなります。
次に家賃や間取りです。私の給料で支払える家賃はたいしたことないので、1Kか1DKぐらいで、あんまり選択肢は多くありません。
それからやっと、条件を選べます。
私の中で一番優先順位が高いのは、日当たりです。南向きや東向きを希望したいところ。長い時間を過ごす場所だから、明るい場所がいいじゃないですか。お日様で乾かす洗濯物は気持ちいいですしね。
それと、キッチンは広めで、コンロは2つほしいです。気分転換に料理しているところもありますから。
あとは3点セパレートと言われる、お風呂、洗面所、トイレがそれぞれ独立しているというものです。ビジネスホテルみたいに、洗面所とお風呂とトイレが一緒なのは、毎日だと少し不便そうかなと思います。あ、そういえば、洗濯機は室内に置きたいです。
セキュリティのことも考えると、2階以上にした方がいいらしいので、それも条件に加えたいところですね。あと、下にコンビニとか飲食店が入っていない、家だけの建物がいいと思っていました。
引越しを考え始めた当初、私が考えていた条件はこんな感じでした。
どんどん増える希望条件
引っ越ししなきゃいけなくなった、という話をすると、友達から「女性の1人暮らしにはオートロックが必須だよ」とか「浴室乾燥機があると、梅雨でも便利」と言われ、急にあった方がいいんじゃないか、という気になってきました。
場所についても、通勤のしやすさを考えて、中心地からあんまり離れたくないな、とか、西から来る電車は混んでるな、とか、これからの親の介護などのことを考えると、実家の近くの方がいいんだろうか?ということも思い浮かんだりします。
さらに、実際に探し始めると、わりと新しめの家で、駅から徒歩10分ぐらいで、職場には歩いて行けるし、南向きで理想的な部屋があったのですが、父に「そのエリアはやめた方がいい」と言われてしまいました。
実はその辺りはラブホテルがいくつか集まっているエリアで、廊下からも見えたんですよね。ラブホテルって逆に夜に人が歩いていて人気があるように思って、私は気にしていなかったのですが、父として「娘にはラブホテルの近くに住んでほしくない」という気持ちは理解できるような気もして、その部屋はお断りしました。
なんだか急に、「父が納得するエリアか」という視点が入ってきてしまいました。
「この部屋は北向きだけど、実家が近いから、ここにするべきなのか」とか「西向きで線路沿いだけど駅から近いし、このエリアなら、お父さんも納得するかな」など、どこに住むのがいいのか、よくわからなくなってきました。
また、内覧に行った時に担当者からコンビニが近いことや、宅配ロッカー、敷地内のゴミ捨てエリアについてアピールされたりもしたのです。営業の方がアピールするぐらいなので、一般的には優先順位の高いものなのだろうと思うと、便利そうでいいなとそこでも迷い始めました。
自分が幸せだと感じる空間を創るために
特にアドバイスを求めたわけではなかったのですが、いろんな人から追加条件を教えてもらったら、あらゆる角度で条件の優先度を考えなければならず、だんだん嫌になってきました。全部の条件を必須にしたら家賃の金額が合いません。本当に希望する条件と、そうでない条件をもう一度しっかり考える必要がありそうです。
そうしたら、誰かに言われた条件に惑わされることなく、「こういう生活がしたい」という自分の気持ちをもっと大事にしてもいいんじゃないかなと思い始めたんです。
そのためには、もっと自分が具体的に考える必要があったので、新しい部屋でどんな生活を送りたいか、ということをもう少しつっこんで考えてみました。
私は、快適にのんびり過ごしたいんです。休日に近くを散歩したり、窓から入ってくる風にあたりながら寝落ちしたり、たまにちょっと時間のかかる料理を作ったり、友達がお茶しにきたり、そんな風に明るくて居心地のいい部屋に住みたいんです。
それが実現できる条件はなんなのか。
私にとって大事なのは、やっぱり日当たりとキッチンの広さです。明るくて料理ができることは、私にとって大切なことです。
あと、3点セパレートがいいです。
駅から多少遠くてもいいから、静かめなエリアを希望します。具体的には、電車の駅から徒歩15分なら歩きます。
この際、通勤とかスーパーとか実家とかはいったん横に置いちゃおう。よく考えたら、リモートOKの職場で、毎日絶対に出勤しないといけないわけではありませんでした。
それに親の介護は、必要になるかどうか、今はわかりませんしね。
それから、やっぱり女性の一人暮らしなので、セキュリティを考えると2階以上がいいのだと思います。でもそれだけ。オートロックはあればありがたいけど、必須じゃないです。
あと、父がいいよという場所であることも必須かなと思いました。父は治安について私より詳しいので、最終的には父のお墨付きの場所であることは、セキュリティ面でのひとつの安心材料だと思いますから。
逆に、コンビニと宅配ロッカーは必要なさそうです。
浴室乾燥機は今の私には贅沢です。なくても生きていけます。
こうやって自分の快適な生活のために必要なことを取捨選択しました。
全部を羅列することはしませんが、きっとこれらは、他の人の優先順位とは違う、私の部屋選びにとって必要な条件です。これこそが、自分が満たされて心地よい空間を作るために必要なものなんじゃないかなと思います。
あなたらしい選択の理由があったはず
私が悩んでいるように、部屋選びの先輩であるみなさんもきっと、自分にとって幸せな空間になりそうな部屋に悩んで、住んでいるのだと思います。今のお部屋に住もうと決めた理由はなんでしょうか?
家賃が安いから?学校や駅が近いから?
私のシェアメイトは埼玉出身ですが「神戸に住んでみたかったから、ここに来た」と話しています。
誰もが「こういう生活がしたい」と思い描いた生活ができそうに思ったから、今のお部屋を選んでいるはずです。日常生活に埋もれて、ただ単に忘れているだけだと思うんです。
私がシェアハウスに住む理由は、キッチンです。一人暮らしでは実現できないキッチンの広さは私にとってとても魅力的でした。その広いキッチンで、今からチャプチェを作ろうと思います。
引越し当時の想いや期待を叶えられるのは、あなた自身だと思います。あなたらしい幸せな生活を思い出してひとつでもトライしてみませんか?
Text by ひらみん(普通の会社員)
皆さん、こんにちは!Kangasこと、ライフコーチの和田直子です。いかがお過ごしですか?
今日は「オンラインBAR:哲学バー」のタイトル特集、その名も”哲学バー2号店”をお送りします。
「哲学バー」とは、エラマプロジェクトが作ったオンラインのサードプレイス。お酒やお茶を片手に、その時のテーマについて、バーのチーフバーテンダー、マスターとともに、常連客や一見さんが哲学してみる、ゆるりとした繋がりの場です。
今回取り上げられたテーマは「仲良しって何?」。
子供の頃、「仲良しになりなさい」「仲良くしなさい」と言われた経験に違和感を抱いていたという常連さんから出されたテーマ。
確かに、どうして人から「仲良しになりなさい」なんて言われなきゃいけないのでしょうね。とは言え、かくいう私も、そういえば職場で、部下同士がバチバチしているところを見て、「仲良くしてよ~」って言ってたなあ。
ということで哲学バーにふらりと入店した私が、私なりに哲学してみた「仲良し」についてお届けしてみたいと思います。
「仲が良い人はいるけど仲良しはいない」
そう言えば私は、仲良し!って思う人がいないなあ…。
哲学バーが始まってすぐに、私はそう思いました。
仲が良い人はそれなりにいるけれど。たまに人から「直子さんは〇〇さんと仲良しですよね!」「お二人は仲良しだね!」と言われても、否定はしないけど何だかしっくりこない感じがしていました。みなさんはそういうことありませんか?端から見ると「仲良し」だけど、自分ではその関係性を「仲良し」とネーミングしていないこと。
だけど、「仲が良い」と思う人は何人も顔が浮かぶ。この違いって何なのでしょう?
そんなことを言う私が、今までの人生で一人も「仲良し」がいなかったかと言うとそんなことはありません。記憶の中で最も古い「仲良し」は、物心ついたときにはすでにいた1歳上のけいこちゃん。母親同士・姉同士も仲が良くて、小学校低学年くらいまで「仲良し」でよく遊んでいました。今でも年賀状を送り合う仲です。
その後の私の「仲良し」と言えば、高校2年3年の頃の「仲良し5人組」。この5人でいると毎日が大笑いの日々でした。
ですが、いつもべったり5人というわけでもなく、他のクラスメイトとの接点もありながら、結局この「仲良し5人組」に戻る、心地よい絆の距離感でした。
それが私の「仲良し」体験。それ以外に「仲良し」だった人って、あまり思い出せません。
「仲良し」と「仲が良い」。この二つは私にとって、単に名詞と形容詞の違いだけではなさそうです。
「仲良し」とは自分の存在価値を見出す安心材料?
高校時代の仲良し5人組が出来上がった頃、私は「このメンバーで仲良しになりたいな」「仲良しメンバーになれたかも!」という気持ちを抱いていたことを思い出します。
振り返ってみると、私が小学校高学年頃~中学の思春期の入り口にいた頃、小説や映画に出てくるような「THE友達!」といえる、お互いの心を通わせることの出来る交友関係に憧れていたような気がします。
でも、そんな存在と出会えることもなく、どこか物足りなさを感じる友達付き合いをしていました。その後、高校生になってようやく出会えた「仲良したち」。心底ほっとしたような、憧れに手が届いたような、そんな気持ちで心が満たされたようでした。
そして高校卒業後、私だけが一人暮らしで県外へ出ることに。学生時代も帰省の際に集合したり、旅行へ行ったり、「仲良し」はしばらく続き、それぞれの結婚式で顔を合わせて懐かしみ、だんだん私たちの青春も落ち着いていったという感じです。
哲学バーでそんなことを思い出し、それ以降の「仲良し」はいないことと、私の「仲良し探し」には終止符が打たれていることに気づいたのです。だけど「仲が良い」人の顔は、20代後半、30代、40代とそれぞれの年代でいろんな人の顔が浮かびます。
高校時代、仲良し5人組が結成された時のあの安心感。私はもう、それを求めなくなっている。そんな気がします。思春期の入り口で、私の居場所はどこだろうと、この子かな?あの子かな?と友達やグループというものを意識しすぎていた私は、きっと自分を誰かと「仲良し」認定することで自分の存在価値を見出そうとしていたのかもしれません。
私にとっての「仲良し」は、アイデンティティを形成しきれずにいる「私」という存在を、どうにか自分で認めるための安心材料として求めていたものなのだと思います。
「仲が良い人」それは自分軸で生きている証
哲学バーのお客さんから、こんな話が出ていました。
「他人とうまくいかないのは、自分が自立していないから。自分の機嫌を自分で取らず、他人に取ってもらおうとする」
ふむ。なんか分かる気がする。
私にとって「仲良し」が必要なくなったのは、自分軸が出来上がったから。「仲良し」に頼ることなく、自分の存在価値を十分に感じられるようになったからかもしれません。「仲が良い人」との関係性に自分の存在価値を見出すことはしませんし、「仲が良い人」に求めることはお互いの自分軸を尊重し合うこと。
誤解のないように申し上げると、これはあくまでも私の「仲良し」「仲が良い人」論です。
「仲良し」は自分の存在価値を見出す安心材料だと言うならば、別に「仲が良い人」がいなくても生きていけるということ?
それはそれで、想像すると苦しくなります。いつかの私が、物足りなさや寂しさを感じて「仲良し探し」をしていたように、「仲が良い人」がいないと何だかつまらない人生のような気がします。
哲学バーのマスターが言っていました。「『仲』という字は『人と人のあいだ。なか。』」だと。やっぱり私も、自分にとって一緒にいて価値のある、人と人との間で良い関係を持ちながら生きていたい。それが私にとっての「仲が良い人」たち。
そんな人たちがいることを感じ満たされながら、白ワインで哲学バーをした夜でした。
さて、次回哲学バーは、8月5日(月)20:00~22:00です。一見さん大歓迎のこちらのバーには、「哲学対話のテーマ」しかメニューにありません。お酒やおつまみはご自分で。ジュースでもよし、アイスクリームでもよし。あぐらをかいてもよし、寝転んでいても良し。だから聞き専でも良しなのです。もちろん、いつ来てもいつ出ても良しですよ。
さあ、次はどんなテーマがメニューに上がるのでしょうか?
詳しくはエラマプロジェクトHPのイベント情報「エラマの学校」をチェックしてください。
そして、次号の”哲学バー2号店”もどうぞお楽しみに!
Text by Kangas(和田直子/しなやかで強く優しい社会を織りなすライフコーチ)
こんにちは。エラマプロジェクトの和文化担当、橘茉里です。
まだ6月だというのに30℃超えの気温が続出し、最高気温は35℃に迫る勢いです。私は徒歩通勤をしているので、日差しの強さと鋭さに早くも参ってしまいそうです。
そんな暑い日には、怪談やホラー映画でひんやりしたくなりますが、これは日本人の国民性かもしれません。
怪談と言えば夏、というのはどうやら世界共通ではないようです。例えばアメリカでは、お化け屋敷やホラー映画はハロウィンの季節に開催・上映されるのだそうです。
なぜ日本では「怪談は夏」というイメージが強いのかというと、まず第一にお盆の存在が挙げられます。
お盆には各家庭で先祖などの霊魂をお迎えし、お祀りしますね。お盆のある夏は、霊魂を意識しやすい季節であり、供養や鎮魂に気持ちが向かいやすいタイミングだと言えます。
また江戸時代には、恐怖によって暑さを忘れるために「涼み芝居」と称して、怪談物が好んで上演されました。
幽霊のお岩さんが登場する『東海道四谷怪談』は涼み芝居の代表格です。
一方、ハロウィンは古代ケルトの風習が由来とされ、古代ケルトではハロウィンの夜に死者の霊が戻ってくると考えられていました。なんだか日本のお盆に似ていますね。
日本は夏、アメリカはハロウィンの季節がホラーの定番となっているのは、このように死者の霊に関する文化的な背景が影響しているわけです。
そして、ふとこう思いました。
ホラーにその国の文化や習慣が反映されているならば、つまり、ホラーを知ることは文化を知ることにつながるのではないかと。
ホラーから文化を知れるとは、なんとも画期的です。
ということで、今回はジャパニーズホラーから和文化を紐解いてみたいと思います。
私たち日本人が恐れているのは「気配」
先日、YouTubeのおすすめとして、ジャパニーズホラーに対する海外の反応をまとめた動画が表示されたので、見てみました。
その動画はこちらです。(ホラー画像が出てくるので苦手な方はご注意ください。)
https://www.youtube.com/watch?v=H91pNJPGroM
この動画の中で気になったコメントをいくつか取り出し、要点を挙げてみます。
・日本人が恐怖するものは目に見えない神秘なのではないか。
・日本の文化は先祖や幽霊を尊敬すべき存在としていて、日本の映画は自然や空間への敬意を感じる。
・日本のホラーは未知への恐怖とともに、それらを大切にしようとしている。
・日本のホラーは、観客にストレートな恐怖やショックを与えるよりも、不安や偏執に重きを置いているように思う。
海外の方から、日本や日本のホラーはこんな風に見えているようです。
また、日本と海外との違いを感じさせるような、こんなコメントもありました。
・日本のホラーは宗教的な儀式や銃で撃退できないのが嫌だ。
・私たちは銃が効くか効かないかが重要だが、日本の幽霊が襲ってきたらどうすれば良い?
・幽霊は実感を得られないので、実際に起こるストーカーや暴力の方が怖い。
私も以前、海外の人の中には、ジャパニーズホラーを怖く感じない人がいるという話を聞いたことがあります。
確か、「幽霊は物理的に襲ってくるわけではないから怖くない。襲ってくるゾンビの方が怖い」という意見だったような気がします。
ジャパニーズホラーの醍醐味は「気配」です。
直接攻撃を仕掛けてくるから怖いのではなく、じわじわとにじり寄ってくる正体不明の気配に、私たちは逃げ場のなさや絶望感を覚えるのです。
そして幽霊の姿はここぞという場面になるまで登場しないことが多いです。
姿が見えないからこそ怖いのです。もし物語の最初から幽霊の姿がずっと見えていたら、怖さは薄れてしまうのではないかという気がします。
ジャパニーズホラーは恐怖の気配を描くことが得意で、そういう表現が好きな海外の方に、ジャパニーズホラーは大人気です。
しかし、気配に恐怖を感じない人だったとしたら、ジャパニーズホラーの多くの演出は無意味なものになってしまいかねません。
日本では空気を読む文化が非常に発達していると言われますが、実はホラーを楽しむにも、日本的な空気を読む能力(気配を感じ取る能力)が必要なのかもしれません。
私はホラー好きなので、ホラー耐性はある方だと思っていますが、ある遊園地で体験したヘッドフォンをつけて音を聞くというホラーアトラクションが思いのほか怖かったです。
そのアトラクションは幽霊役がいるわけでもなく、視覚的に驚かされるわけでもありません。暗い部屋でただ音を聞いているだけなのです。
ヘッドフォンからは鎖を引きずるような音、近づいてくる足音などが聞こえてきて、私は恐怖からヘッドフォンを外してしまいたくなりました。
音によって、何者かが自分の後ろにいるという気配が表現されていたのです。
後ろに何がいるのだろう。
どんな見た目?
これからどんな恐ろしいことが起こる?
自分でどんどん嫌な想像を膨らませてしまい、自分が創り出した想像によって恐怖が加速してしまったのでした。
先ほど、日本的な怖さを楽しむには空気を読む(気配を感じ取る)力が必要かもしれないと書きましたが、それだけでなく想像力も必要になってきそうです。
現代の教育では、想像力の育成に重きが置かれるようになってきていますが、ジャパニーズホラーも想像力の育成に一躍買ってくれるかもしれませんね。
不朽の名作『リング』に見える日本らしさ
『リング』は鈴木光司によって書かれた小説で、1998年に中田秀夫監督によって映画化されました。
小説と映画では主人公の人物像など様々な点が変更されていますが、物語の大筋は同じです。
「呪いのビデオ」を見た者は、一週間後に死ぬという。
ビデオを見てしまった主人公の浅川と友人の高山は、呪いから逃れるために、ビデオの謎を追う。
そして、貞子という女性の怨念が原因であることを突き止めるというのが『リング』のストーリーです。
この物語において、貞子が姿を見せるのはほんの僅かです。
映画では、テレビ画面から貞子が這い出して来るシーンが有名ですが、小説では幽霊となった貞子の姿はほとんど描かれず、気配によって表現されています。
また、この作品の主眼は死から逃れることですが、核心に迫り、呪いの原因が貞子だと判明してからも、貞子を倒すことで解呪するという流れにはなりません。
個人的な印象で恐縮ですが、ハリウッド映画では、恐怖の原因を倒すことによって問題を解決しようとする傾向があるように思います。
ハリウッドで描かれてきた吸血鬼、ゾンビ、エイリアンなどは交戦可能な存在として描かれることが多いと思います。
悪魔憑きを描いた映画『エクソシスト』でも、悪魔と悪魔祓いの神父との戦いが描かれています。
それに対して日本では、幽霊は戦って倒せる存在として描かれることは少ない気がしますし、そもそも日本人には幽霊を倒すという発想自体、希薄だと思います。
幽霊の前では人間は無力であり、もし幽霊を倒せるとしたら、その幽霊は怖くないように感じます。
もちろん『リング』でも、主人公たちは貞子を倒そうとはしません。
呪いから逃れるために、貞子の遺骸を見つけ、供養しようとするのです。
結果的に、それは呪いから逃れる方法ではないのですが、主人公たちは鎮魂による解決を目指しました。
井戸の底で貞子を見つけた際、映画版では、主人公の浅川を演じる女優の松嶋菜々子が貞子の亡骸を抱きしめるシーンがあります。
呪いの主であろうとも死者を悼み、心を寄せる。
これはとても日本的な行動に思えます。
『リング』にも通じる御霊信仰とは
日本には、御霊(ごりょう)信仰という考え方があります。
不幸な死や無念の死を遂げた人物は怨霊となり、祟りや災いをもたらすと考えられていたのです。
そんな怒り荒ぶる怨霊に対して、私たちの先祖はどう対応したのでしょう。
その答えが鎮魂です。
怨霊を御霊・神として祀ることによって、怨霊の祟りを鎮めようとしたのです。
「これからは大切にお祀りしますので、どうか怒りをお鎮めください」とお願いしたわけですね。
こういう向き合い方を御霊信仰と言います。
日本三大怨霊とは、菅原道真、平将門、崇徳上皇のことですが、
菅原道真は北野天満宮や太宰府天満宮で神として祀られ、現在では学問の神様として親しまれています。
同様に、平将門は東京の神田明神に、崇徳上皇は京都の白峯神宮に祀られています。
このように、私たち日本人は怨霊を倒すのではなく、魂を鎮めることによって調和を図ろうとしてきたのです。
こういう価値観や考え方は、普段は意識せずとも我々日本人の心の中に息づいているのではないでしょうか。
だからこそ『リング』でも、主人公たちは自然と貞子の鎮魂へと向かったように思うのです。
豊かな心で和文化を語ろう
今回のお話はいかがだったでしょうか?
ジャパニーズホラーと御霊信仰のつながりのように、現代のコンテンツには、私たち日本人が昔から大切にしてきた考え方が反映されていたりします。
それを知ることによって、もっと奥深く、もっと豊かに現代を生きていけるようになると思います。
そして、豊かで幸せな生き方を探究している我々エラマプロジェクトでは、これまで日本人が大切にしてきた考え方や生き方や日本らしい物の見方などを、自分の言葉で発信できる和文化ガイドを養成したいと考えています。
「外国の方に、日本のことをもっときちんと説明したい」
「これまで和文化を学ぶ機会がなかったけれど、自国の文化を理解し、語れるようになりたい」
「自分の子どもに向けて、日本の良さを伝えてあげたい」
こんな風に「日本について知りたいなぁ」「伝えられるようになりたいなぁ」と思っていらっしゃる方におすすめの養成講座を開催いたします。
講座では例えば、
・侘び寂びってどういうこと?
・武士道や大和魂ってどういうもの?
こんな疑問を考えていきます。
講師による基礎的な知識のレクチャーはありますが、講座で大切にしたいのは、和文化について自分の考えを深め、それを自分の言葉で表現できるようになるということ。
もちろん知識を得ることは大切ですが、知識の伝達だけで終わらせないのが、この講座の良いところです。
あなたも和文化について考えを深め、語れるようになりませんか?
こちらの和文化ガイド養成講座については、今後情報を発信していく予定ですので、ぜひエラマプロジェクトのwebサイトでチェックしてみてください。
Text by 橘茉里(和えらま共同代表/和の文化を五感で楽しむ講座主宰/国語教師/香司)
こんにちは。エラマプロジェクト代表、フィンランド生涯教育研究家の石原侑美です。突然ですがみなさんが好きな季節はいつですか?
フィンランドでは日照時間が少なくなる時期が長いため、夏はとても貴重な季節とされています。わたしが住んでいる飛騨高山も雪がたくさん降る地域ですので、冬と春・夏の頃を比べると活動しやすさがかなり違います。
エラマプロジェクトでは会員制コミュニティ「エラマの森」を運営していますが、4月末に飛騨高山でオフ会を開催しました。
新緑の季節にあらためて感じた、自然を享受できる気持ちよさとありがたさについて、今回は話していきたいと思います。
体も心も新緑の季節を満喫
エラマの森のオフ会は基本的にフリースタイルです。スケジュールは2白3日でしたが、来たいときに来て帰りたい時間に帰るのもOKといういつも自由度の高い内容にしています。メインの会場は「自然体験施設 太陽の家」で、こちらに宿泊できますし、ご自身の都合に合わせて別の場所で泊まるのも可能です。
何をするかも参加したメンバーで対話して決めたり、ご自身の心の赴くことをしたりと思い思いに過ごしていただける時間が多いです。
今回開催したオフ会は、前回に比べると参加人数が少なかったので、ちょっとした親戚の集まりのような雰囲気になりました。
人数が少なく車の台数に余裕があったこともあり、会場から15分くらいの場所にある温泉に行ったり、30分ほどのところにある公園にみんなで作ったお弁当を持ってピクニックに出かけたりしたんです。
公園のそばには川があって水音が聴こえる中でのピクニックができましたし、まだ桜が咲いていたのでお花見もできました。とても気持ちのいい場所なんですが、わたしたち以外は誰もいなかったのでエラマの森のメンバーだけでその空間をひとり占めという状態になっていました。
東京に住んでいた頃、わたしは虫が苦手だったのですが、飛騨高山に移住して数年が経ち、すっかり平気になっています。
東京から一家で参加していた子どもたちの虫が苦手そうな様子を見て、そんなことを思い出す瞬間もありました。
子どもたちは川遊びは初めてだったそうですが、透明度の高い川に足をつけてみたり、地元の男の子と仲良くなって一緒に遊んだりしていました。また、公園では裸足で芝生の絨毯を駆け巡ったりと子どもたちがのびのびと楽しんでいる姿が印象的でした。
ピクニックから帰ると14時か15時頃で、そこから全員がお昼寝をしたんです。時間もバラバラで30分程度の人もいれば1〜2時間の人もいて、最高は4時間近くの人も!
「まだ寝てるの?大丈夫?」と心配になりつつも、心からリラックスしているんだなとうれしくもありました。
太陽の家に戻ってきてからは、テントサウナに入ったり焚き火をしたりただぼーっとしたりといった時間を過ごしました。庭に出ると草の匂いがとにかく気持ちよく、湿度も低かったので心地よく寝転がれることもあって、そこでも新緑の季節を体いっぱい感じられました。
食事の面でも、太陽の家の管理人さんが山菜を取ってきてくれて天ぷらにしてくれたものをみんなでいただく日がありました。めずらしい種類のものも味わえましたし、山菜が取れる時期は植物の生命力を感じる季節でもあります。
フィンランドには自然享受権というものがありますが、日本でもゼロではないと感じるのが山菜に関してです。採れるエリアやそこに入れる人は限定されるかもしれませんが、普段の生活でわたし自身もその恩恵を受けているのです。
自然や季節の変化に敏感になることで自分の心にも敏感になる
参加メンバーと過ごした時間を振り返ると、あえてすごく深い話をするでもなく、かと言って浅い話をするわけでもなく。みんながほどよく距離感を持ちながら楽しいことをやりながら、一人になりたいときは一人になれる時間もあったんです。
ある程度広くて、建物の中も外も木の香りや草の匂いに溢れている環境があると、常にON状態になる必要はなく、自然にリラックスした状態で過ごせるのではないかと思います。
生命力があるというのは、快活で声も大きくハイテンションであるということではないなと思ったんです。
けっこう穏やかでほどよく元気、ほどよくリラックス、そういうのが元気っていうことなんだろうなとこのとき感じました。
そのためには十分な広さと景色や香りといった「自然」がすごく大事だと思います。
特に新緑の季節は香りが高く、秋だとそういう香りはしません。また、冬だと飛騨高山やフィンランドは雪で覆われるのでさらに香りを感じることは難しい季節になってしまいます。
この新緑の季節は、風の気持ちよさと湿度の低さと緑の香る感じがすごく落ち着かせてくれるという体感がありました。
わたしは飛騨高山に移住してきてもうすぐ4年になりますが、自然の変化、季節や天候の変化にも敏感になりましたし、自分の心にも敏感になってきたという感覚があります。
エラマプロジェクトをやっていることで自分と向き合う習慣があるというのは前提として、季節の変化に敏感になるからこそ、自分が今このままいくと落ちそうだなと感じたときは気持ちに蓋をせず、山に入ってぼーっとしたりしています。
また、ウッドフォーラム飛騨に作ったエラマ図書館に行き、仕事じゃないと断りを入れてソファに座ってただぼーっとするということを積極的にするようになりました。また、それらが手軽にできるような環境に身を置いていることも大きいです。
二十四節気を知ったのも飛騨に来てからでした。飛騨は日本の真ん中なので、ここは二十四節気通りに季節が変わっていくんです。
その意味通りに季節が変わっていくのがすごくわかるので、数週間ごとに季節が変わることがより自分の心にも敏感になる要因なのかなと最近思います。
自然があればあるほど、周りに人がいなければいないほど自分に集中できると思うんです。冬だったら外に出て歩き回るというのが難しいので、すぐ外に出られる新緑の季節はそういった面でもいい時期ですよね。
都会で暮らしているから自然に触れるのが難しいと感じる場合でも、少しでも自然があるところに出かけてみるだけでも十分だと思います。
エラマプロジェクトで体験できること
オフ会以外にも飛騨高山でイベントを実施することがあります。講座やイベントが決まった際はホームページでお知らせしますので気になった方はチェックしてみてください。
また、エラマプロジェクトではフィンランド現地ツアーも開催しています。今年は9月と10
月に予定しており、ヘルシンキやタンペレでサステイナブルな社会を学ぶプログラムや北欧のシリコンバレー、オウルで働き方やウェルビーイングを学ぶプログラムを準備しています。
詳細をご覧になって少しでも興味がわいた方はぜひお問合せください!
By 石原侑美(エラマプロジェクト代表)
Interview & Text by nakagawa momo(フリーライター)
こんにちは、いけかよです。
去る2024年3月20日、3泊4日のスペシャルなツアーが、岐阜県飛騨高山で開催されました。
これまで、フィンランドで2回ツアーを実施してきたエラマプロジェクト。今回は、飛騨高山に生活拠点をおく代表の石原侑美が、自ら暮らし、さまざまなものを見て聴いて感じているその地域を舞台にしたスペシャルなプログラムを作り上げました。
その名も「地域(ローカル)でウェルビーイングに暮らす体験ツアー in 岐阜・飛騨高山」。
さまざまな体験を通じて「学び」をお届けしているエラマプロジェクトですが、今回のツアーはエラマプロジェクト7年の歴史のなかでもひとつのマイルストーンともいうべき特別なものとなりました。
もちろん、すべての経験がスペシャルで唯一無二ですが、どうやら代表の侑美さん的には今回の経験をしっかりじっくり記録として残しておきたいという強い衝動があったようなのです。
ということで、本メディア「よむエラマ」の編集長のわたし、いけかよと侑美さんとの対話を、臨場感そのままにお届けしたいと思います。
人生の分岐点に立つ人が集まった
いけかよ
今回のツアーのきっかけは?
ゆみ
高山市の地域課題解決プランのコンテストがあるからそれに応募してみませんかっていわれて、提案したのがこのツアーでした。内容は言ってしまえば「移住体験ツアー」なんですが、地方創生は移住だけじゃなくて、いかに関係人口を増やすかが大事だから、それを組み込んだツアーということで、高山市から奨励賞をいただいたので実施に至ったという感じ。
でも、もっと個人的なところで言うと、私がフィンランドに行って自然の素晴らしさを知った、そして高山にも移住して4年経った。そこで体験してきたことを、ごく一部ではあるけど4日間にぎゅっと凝縮して体感してもらうことで、私の地元愛を呼び起こすことにもなるだろうし、参加者さんが「自分もこういうことをやりたい!」って思ってもらえるようなツアーにできたらという思いもあったんです。
いけかよ
なるほど。実際やってみての手応えはどんな感じでした?
ゆみ
やっぱりやる直前まで「これでいいんだろうか」とか「人集まるかな」とか「ツアーが目新しすぎてみんなイメージ湧かないかな?」とかいろんな不安がありました。でも「ウェルビーイング」という言葉はいま注目されてるからいけるんじゃないかという一縷の望みも持ちながら、できる限りのことをやって。
そして、参加者は女性6名。20代から50代まで幅広くて、東京、三重、大阪、富山、愛媛、あとは岐阜からと、いろんな地域から来てくれたんです。
結果、やってみて、フィンランドまで行かなくても国内で、飛騨高山でこれだけの素晴らしいものができるんだっていう確信を得られました。それは直前まで不安だったから自分なりにベストを尽くしたからこそ。
そして参加者さんから返ってきた反応がほんとうにみんな喜びに満ち溢れていて…!ツアーの最後にはやっぱり半分以上の人が自分のために浄化の涙を流すんですよね。
それは自分の人生に向き合えているということと、やっぱり人との出会いがあったから。飛騨高山で活躍するいろんなキーパーソンに出会ってもらったんですが、その人たちも性別も年代もバックグラウンドもさまざまで、その出会いのなかで参加者さんたちはどんどん自分の内側に目を向けていったんです。
こういう「内省」ができるプログラムを、国内でもできるんだっていう強い確信を得られました。
いけかよ
そうなんですね…!じゃあ、今回のツアーの目的としては「飛騨高山に移住します!」って言ってもらうこと?
ゆみ
を、やめたんです。そういうプレッシャーのもとでやるのは違うなと思った。だから目的は「地方で豊かに暮らすことを考える」とか、「地方都市においてウェルビーングな社会作りを考える」とか、移住までとはいかないけど地方を拠点に活動したいと思ってもらえるようなものにしたんです。
いけかよ
じゃあ本当に関係人口っていうのがキーになるんですね。
ゆみ
そう。高山市さんも「関係人口を増やしたい」ってすごく言っていたし。
いけかよ
参加者さんたちはどんな思いで参加してくれてたんでしょう?
ゆみ
それがいろいろでめっちゃ面白くて!
ひとりはもちろん「ウェルビーイング」って言葉に反応されて、フィンランドの専門家からそれを学びたいっていう人。
もうひとりはフォルケホイスコーレ(19世紀にデンマークの農村を中心に発達した民衆の民衆による民衆のための成人教育機関。「人生のための学校」などと表現されることもあり、その価値やあり方が近年注目を集めている)的なプログラムを日本のいろんなところで参加している人。このプログラムはフォルケホイスコーレ的なものだと認識して来たそう。
他にも「以前飛騨高山に来た時にとてもいい場所だと思って、インスタを見てたらこのツアーを見つけたから、内容はよくわかりませんけれども申し込みました」っていう方もいたり(笑)。
いけかよ
いいですね。フットワーク軽い!
ゆみ
そうそう(笑)。そういういろんな観点のいろんな層の人が来たっていう感じでした。
でも共通項があるとしたら、やっぱり今が人生の分岐点だとご自身の中で思われてる方が来たような感じではあったかなと思います。
いけかよ
そこ、フィンランドツアーの参加者さんと似てますね。
ゆみ
そう!そこがすごく面白いなと思った。
スペシャルな「地産地消」
いけかよ
それで今回のハイライトは?
ゆみ
それ選ぶの難しいですよね…。
まず、初日に雪がすっごい降って、私たちが泊まった太陽の家なんて50cm積もったんです。飛騨の人からしても3月にこれだけ降るのは珍しいと。「大丈夫かな、予定変更しなきゃいけないかな」って思ったんだけどもうみんな喜んで!他県の人は雪なんか見ることないからみんな舞い上がっちゃって、喜びに満ちてたのは雪があったからっていうのはあると思うんです。
だからもういきなりハイライト(笑)。
いけかよ
そうなんですね!もういきなり(笑)
ゆみ
そう!太陽の家は、やっぱりみんな最初入った瞬間「うわー!」ってなりましたもんね。
いけかよ
あそこは場の持つ力がすごいですよね。
ゆみ
そう!だから今回プログラムを多くを太陽の家でやれたことも大きかった。自然や木の匂いにずっと触れ続けながらやれたから。とにかく外でみんな雪で遊びまくって、めっちゃ楽しそうっていうのも良かったんですよね。
あとは、ごはんにこだわったこと。
もう一つのこのツアーのテーマが「地産地消」だったから、地産地消のものを食べようと。
この、食がめっちゃみなさん喜んでいただいたところで。
いけかよ
食はすごく大事!!普通の旅でも食ってすごい重要度高いですもんね。その土地でしか食べられへんもんって絶対食べたいし。
ゆみ
ですよね。
プログラムの中で、ワークショップが大事なことはわかってるけど、でもやっぱり喜びを味わいたいわけですよ。ワークショップがあるから食の喜びがあるし、食の喜びがあるからワークショップの喜びもわかってくるっていうことで、こだわったんですよね。
いけかよ
うんうん。しかも作り手からじっくり話が聞けるっていうのもいいですよね。
ゆみ
そう。それぞれでクリエイティブに飛騨の地産地消をやっている人たちにお願いしました。その人たちに、自分の人生の話をしてもらって、そのひとりがEarth to Tableの河野美紗ちゃん。
フリーランスシェフの河野美紗さん。オランダのアムステルダムで地元レストランと都市農園&食廃棄プロジェクトに5年ほど携わったのち、現在は飛騨地域で、「五感に響く食体験」と「地域コミュニティ」をテーマに、店舗をもたずに料理と食企画を行っている
ゆみ
なんで飛騨でEarth to Tableをやってるか、オランダで何を見てきたのか。それを踏まえて食と農のコミュニティを飛騨でどうやって実現してるかという話をしてくれた後に、その美紗ちゃんが作った料理を食べるという。
しかもそれがおいしいっていう単純な味覚だけじゃなくて、聴覚や視覚でも、そして美紗ちゃんが体験した飛騨のこともオランダでのことも疑似体験した上で食べてるような感じ。だからおいしいもの以上の咀嚼があって、お腹いっぱいになったっていう感じでしたね。
ゆみ
そして、我が家、石原家にも来てもらって、お義父さんお義母さんもいっしょに宴会して。カブを採ってきてそれをオーブンで焼いてただ食べるとか。
いけかよ
めっちゃいい!!もうお腹すくー!
ゆみ
ははは!でしょ?お腹空くでしょ?そうなんですよ(笑)
これが本当にやりたかったこと
ゆみ
参加者の1人は石原家の宴会のときにお義父さんと「私はずっと長女としてきょうだいとかお父さんお母さんの面倒を見て…」っていろいろ話されてて。そのときにお義父さんが「もうあなたの道に行ったらいいんだよ」って言うんです。それがね、彼女にとっては、他人からなんでもない温かい言葉を言われたからこそ、すごく心にぐっときたらしくて。
でも、温かいからこそ、全てのプログラムが、食べ物も建物も会う人も含めて全てが素晴らしいすごく非現実な空間にいるからこそ、自分のネガティブなところが出てくる瞬間が本当に辛かったと…。
これは他にも言ってる人いたんですよね。
いけかよ
そうなんですね…。
ゆみ
前に飛騨高山でリトリートをやった時もそういうこと言われた人がいて。
リトリートでも今回のプログラムでも自分の人生を振り返ってもらうワークはやるんですが、やっぱりそれをしてるとトラウマが出てくる人ももちろんいたりするんです。それに、トラウマを克服してしてるつもりだったけど、あまりにも美しい、いいものを食べるから、ショック療法のリバウンドじゃないけどそういう感覚に近いものが出てくるような…。
いけかよ
たとえば普段、ジャンクフードばっかり食べてて、こんな美しい食べ物があるのに自分はなにやってんねやろみたいな気持ちになる感じでしょうか?
ゆみ
近いかもしれない。ジャンクフードばっかり食べてて体にいい野菜を食べると、逆に体にぶつぶつができるみたいな、そういう感じ。
いけかよ
好転反応的な?
ゆみ
ああそうそう!まさに好転反応。しっくりくる言葉だと思います。
いけかよ
気持ちの好転反応がいっぱいあったわけですね。
ゆみ
ありましたね。みなさんそれぞれのレベルでそれぞれにあったみたいで。
いけかよ
なんかちょっとわかるような気がする。聞いてて胸が痛むなあ。
ゆみ
そう。わかる人はすごくグッとくると思う。
それが一番わかったのが、ツアー最終日に太陽の家で最後の振り返りをした時に、やっぱりみんなそれ(好転反応)が「あったんだー!」っていう涙があふれて。逆に「やりたいこと見つかったんだー!」っていう喜びの涙の人もいたし。それぞれのその振り返りがそれぞれで作用し合ってましたね。
ツアーが終わって高山駅で解散した後、まだ名残り惜しい、話し足りない、もっと語りたいっていうので、その後1人以外はみんなそこで一緒におそば食べて(笑)。
他にもツアー終わってから改めて飛騨にもう一回来てくれた人もいてね。
でも、これまでも飛騨でリトリートを何度かやってきたけど、今回違うのは本当に関係人口になりそうな人たちがいるっていうこと。これからどんどん具体的なつながりが増えていきそうなんです。今回つながりができて、そこからまたどんどん別の関係人口が生まれそうな要素がある。
だから、今回のプログラムで自分の人生を共有するからこそ、思いっきり自分の「やりたい」っていう気持ちを信頼して出してもらえてるんだなっていうのをすごく感じます。関係性が深く強くなるからこそ、長く関係性が続くような感覚になるというか。
いけかよ
ゆみさんの作ってるプログラムって、「ツアー」だけどでもなんかちょっとレイヤーが違いますよね。
ゆみ
そうですね、旅なんだけど学びの要素がしっかりある。それは深い対話を自分の中でやるようなプログラムですね。
いけかよ
そうだと思います。適切な言葉を見つけるのがすごく難しいけど、トリートメントな感じがするんですよね。そういう要素がすごく強い。
ゆみ
だからこそ、参加する人は怖い部分もあるのかもしれないですね。自分がどうなっちゃうのかな?って。
美しいものに触れて、雪だったのもあってよけい非現実感が増してて。それもあって今回は余計にみなさん内省モードになれたのも確か。雪があることですごく深い対話が生まれたのは間違いないかなって思います。
なにより今回は、本当に来たいと思って来てくださった人しか来てない。「どんな感じやろ?」じゃなくて「行くんだ!」っていう決意を持って来てくださった方ばっかりだった。エラマプロジェクトで、こんな満足度の高いプログラムができるんだっていう自信になったツアーでしたよ。
いけかよ
そうなんですね。フィンランドよりも国内ツアーの方が参加者はやっぱり勇気がいるのかもしれないですね。
ゆみ
そうですね。海外行く方が皆さんイメージできるし、いっぱいお金貯めていくぞって気になるんだけど、国内って行きやすいって思うからこそ、ハードルは高いんですよね。
いけかよ
海外だったら、なんかとりあえず飛行機乗って行くだけで、もう達成感あるでしょ?
でも国内って、やっぱり自分がある程度のお金とか時間とか、ペイしたものがあるんだったらなんらかのリターンはほしいって思うから、なんにも面白くなかったなんて絶対いやですもんね。否が応でも何かを得て帰ろうと思ったら、国内の方が自分の感性をもっと研ぎ澄ませないといけないし、特にゆみさんが作るこういうプログラムではすごく自分と向き合わされると思うし、心の柔らかい部分もすごい刺激されるし。それは結構タフな経験だと思うわけですよ。
ゆみ
そうですね、いい意味でも悪い意味でも。悪い意味っていうのはちょっとネガティブな感情に陥ることもあるかも、っていうところだけですけどね。
いけかよ
そう。でもそれは多分人生においては避けて通れないとこですよね。そういう意味でも、ゆみさんのつくるプログラムはトリートメントっぽいんですよね。
ゆみ
トリートメント。リトリートではなくてトリートメントね(笑)。
いけかよ
言葉遊びみたいだけど!(笑)
でも、トリートメントもデトックスするでしょ?コリをとったり汗を出したりとか。ケアをして悪いものが出るからすっきりするわけだし。ってなると、悪いものがどこにあるのかわからないと出せないし。悪いもの出さないと気持ちよくなれないし。ってなったらやっぱりトリートメントの要素が強い。それが自分の中にあると思うからトリートメントしたいわけでしょ?
ゆみ
ああ、そうだと思う!それはあるのかもしれないですね。
ああ、だから、これが本当にエラマプロジェクトでやりたかったこと。まさにこのツアー!
人生も見つめてるけど自分の次のアクションも、ちょっと「やりたいな」って気が起こってるような状態。これを日本でやれた!
いけかよ
うんうんうん。だから、2Dの人が3Dになる瞬間に立ち合うみたいな。
ゆみ
あーー!そう!そういうことです!
いけかよ
それがいわゆる分岐点なわけですよね、人生の。
ゆみ
で、思ってるだけじゃなくて行動するっていうのが大事ですよね。2Dから3Dの行動。
これを継続的にやっていきたい。私の拠点が高山にあるから高山でやってるけど、拠点になる方がいらっしゃればどこでも。軽やに、いろんなとこでやれるっていうふうになれるといいなって思います。
いけかよ
そうですよね。それぞれの土着の人がそれぞれの土地に愛情を持って。
ゆみ
あ、そう!愛情を持って、が大事!地域に対する愛情があればできる。
いけかよ
素晴らしくない土地なんかどこにもなくて、全ての土地が素晴らしいわけですもんね。
あたしも初めてフィンランドに行った時に、日本のことすごい考えてた。
今回のツアーの参加者の人が「自分の地元のことを知りたくなった」って仰ってたって言ってたけど、それと同じだなって。それぞれの土地を比較する意識もあったりはするけど、高山もフィンランドもすでに地域ブランドがありますよね。何もかもが美しすぎて圧倒されるけど、なんか、それだけで終わりたくない自分もいるんです。フィンランドが素晴らしくて日本が駄目っていうのは違うはず!みたいな。
だから、やっぱり幸せと不幸せみたいなこともそうなんですが、やっぱり人間って比較で相対的にしか物事をジャッジできないでしょ?そのものだけでも十分美しいんだけど、これがいかに美しいかっていうのをわかろうと思ったら、比較する対象がないとわからなかったりする。多分こういうふうに場所を変えることで、自分の土地と高山の比較で地元の素晴らしさをわかっていくんだろうなって。
ゆみ
ああ、そうですね。それはそういう指標になるような場所を訪れることによって、ああ、ここがいいなって、じわじわと来る感覚になるんでしょうね。
いけかよ
だと思います。あと自分自身の心の中の部分でも、来る前と来てからの心の変化が比較になりますよね。
ゆみ
そうですね。
いけかよ
それでいろんなものがあふれてきた人もいたんだろうなと思います。だから、自分の中の汚い部分が辛かったみたいなとこも、多分そこだと思うんですよね。
ゆみ
うんうんうん。それはあると思います。そう、だから、これがエラマでやりたかったこと!1つの完成って感覚ですね、これは。
焚き火を焚く仲間をつくりたい
いけかよ
ゆみさん的には、このプログラムで参加者さんたちにどんなものを持ち帰ってもらいたかったんでしょう?
ゆみ
そうですね…「持ち帰ってもらいたい」があるとすれば、仲間得た!みたいな感覚かな。
今回は、自分が普段いるところでモヤモヤしてる人たちが来たと思うんです。
例えば、飛騨とはまた別の田舎で暮らしてるけど、やっぱり地元では自分のやりたいことは絶対に広がらないっていうモヤモヤ感とか。
自分はこれを頑張ってやってきてるけど、本当にいいのかなとか。
そんなモヤモヤ感を持ってきた時に「あ、この場にいる人たちだとなんかこのモヤモヤが共有できる」って思えるような…。本当にずっと日本社会とか政治の話とかしてましたもんね(笑)。
でも、それは文句じゃなくて「モヤモヤを置く」っていう感じでした。私もモヤモヤしてるけどあの人もモヤモヤしてるんだなってただ出し合うだけ。
でも、集まればちょっとは光もあるかもしれないっていう希望というか、そういうものが私が持ち帰ってもらいたかったことかなって思います。
で、私がやりたかったことは、そういう仲間がほしかったんですよね、多分。飛騨高山でやる人ももちろんそうだけど、日本中で、それこそ「地域で暮らすウェルビーイングな暮らし体験ツアー」みたいなものを、それぞれの地域でやってもらえるような仲間がほしかったんだろうなって思う。
いけかよ
なるほど。「フィンランド教育を全部学ぶコース」やった時も仲間がほしかったって気づいたって言ってましたもんね。
ゆみ
そうですね。なんかやっぱり仲間ほしいんやな、私。
ゆみ&いけかよ
あはははは!(笑)
ゆみ
でもそれが社員とか主従関係とは違う。本当に横の繋がりで仲間がほしいというか…。多分それがすごく強い想いだとは思います。
いけかよ
なるほど。仲間を集めて侑美さんが作りたい理想の世界っていうのはどういう世界なんでしょうね?
ゆみ
そうですね…。それこそ、絵的に言うと日本列島の真ん中の飛騨高山に焚き火が上がってて、富山、大阪、和歌山、名古屋、北海道とかでも焚き火してて。オンラインでもいいし、リアルでもいい。みんな焚き火囲んでゆるっと、お酒とかコーヒーとか飲みながら語れてる世界でありたい。それを実現したいなっていう、本当にそれだけ。
それが別に24時間じゃなくても、そういうふうな瞬間があったら、いつもいがみ合ってるかもしれないけど焚き火の前だったら仲良くなれるみたいな。
いけかよ
休戦する感じですね。
ゆみ
あ、そうそう!休戦もできる。そういう焚き火を囲むみたいな世界になるといいなって。一瞬でもいいから。定期的にそういうことできる世界があるといいなっていう感じ。
いけかよ
なるほど、焚き火。焚き火をすること自体はすごくシンプルなことですよね。でも「いい焚き火」をしようと思ったら下準備とかすごい大変ですよね。
ゆみ
そうそう。前提を共有するとか共通言語を持つとかね。
いけかよ
価値観も違っていいけどぶつからないように受け入れる体制がいるし。
そしてまず平和を愛している人たちじゃないとダメだろうし。
ゆみ
ほんとそうですね。
いけかよ
そういう文化作りをしてるんですよね、エラマプロジェクトは。
ゆみ
Exactly.そういうことでございます。
(対談ここまで)
いかがでしたか?
今回のツアーは、侑美さんご本人にとっても、エラマプロジェクトにとっても、特別なものだったのだなということが少しでもおわかりいただけたのではないでしょうか。
同時に、つねに試行錯誤と模索を繰り返して進歩しているエラマプロジェクトの真に迫る様子も感じていただけるととても嬉しいです。
もし、わたしたちに共感していただける方がいらしたら、いつでも遊びに来てください。そしてあなたといつか焚き火を囲める日がくれば、こんなにうれしいことはありません。
これからのエラマプロジェクトにも乞うご期待、なのです。
では、また!
Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)
こんにちは、ひらふくです。
春は始まりや終わりの時期ですね。私の周りもいろいろ変化が起きました。みなさんも新たに変わったことがあるかもしれません。
変化といえば、最近エラマプロジェクトのホームページにも新しいことがあったようです。以前は、「フィンランド」や「北欧」で検索して見つけてくださる方が多かったのですが、最近は「自分なりの幸せ」というワードでヒットしているとのこと。
「自分なりの幸せ」。確かに私にとっても大事なキーワードです。
ただ、実は最近自分なりの幸せを探すことに少し疲れてしまいました。だってなかなか見つからないし続かないから。非日常なイベントに参加して、気持ちが盛り上がり「見つけた!」と思っても日常に帰ると忘れてしまったりします。
このループから抜け出すため、今回は幸せ”探し”ではなく幸せ”がる”日をやってみました。「幸せがる」は「おもしろがる」から思いついた私の造語です。「これはおもしろい」と興味をもつのと同じで「これは幸せだ」と勝手になんでも幸せに変換してみました。
あるもの全てが幸せに変わるのだから幸せに満ちあふれるはず!…だったのですが事態は思いもよらない方向に。
では、幸せがってみた1日にお付き合いください。
基本の「幸せがりかた」をやってみる
まずは本などでよく見かける方法を試してみました。
・ささいなことが幸せ
・嫌なことも実は幸せ
・人のつながりで幸せ
さっそくやってみます。
■ささいなことが幸せ
朝起きて顔を洗ったとき「冷たい水がすぐ出てきて幸せだな」
歯を磨きながら「清潔な暮らしができて幸せだな」
お茶を淹れて「朝からゆっくりできて幸せだな」
…う~ん、なんだか無理やりな感じ。今日は幸せに思えても明日からもずっと思えるでしょうか。
どれもありがたいことには間違いないのですが、私はワガママなので毎日慣れてしまっていることは幸せ変換しにくそうです。
■嫌なことも実は幸せ
人ごみが苦手なのですがあえて出勤時の満員電車にチャレンジ。もし誰かがお年寄りに席を譲るシーンなどを見れたら心温まること間違いなしです。
しかし、あまりの窮屈さに手すりを掴むのに必死でした。視線が合うと気まずいので周りも見れず耐えるばかり。私にとっては幸せに変換できないものもあるようです。
■人のつながりで幸せ
現代においてつながるツールと言えばSNS!ということでXやインスタをながめてみました。フォローしている方のインスタを見ていると広告で気になるものを発見。そこで紹介されていた商品のさらに先へ…と気づけば2時間がたちました。
でもどうにも幸せな気分にはならず、むしろ「あれ欲しいな」「私もやるべきなのかな」と物欲や不安を煽られているような。「こんなふうになれますよ」という幸せのお手本をたくさん見たはずなのに、私は幸せになっていなかったのでした。
「幸せのお手本」に当てはまろうとして
なんでも幸せがってみたのになぜか空振りです。
ささやかな幸せには慣れるし、満員電車はやっぱり好きになれないし、SNSにある幸せのお手本たちはプレッシャーをかけてきます。
これはなぜなんでしょう。
考えてみると、私はなんでも幸せがると言いながら実はその逆で、世間が示す「あるべき幸せ」にがんばって当てはまろうとしていた気がします。
ささやかなことに感謝できる自分、嫌なこともポジティブに考えられる自分、キラキラ生活で年収●万円の自分…。そんなあるべき像になって、あるべき幸せに当てはまりたかったんです。だって、私には「世の中と違っても自分にはこれが幸せだ」と言い切れるような自信がないから。お手本の真似をして「私は幸せなんだ」と周りや自分に言い聞かせたかったのです。
でも、実際に幸せがってみてわかったのは、私はそれらを幸せだと思えないということでした。
私はどうして自分の幸せを断言する自信がないのでしょうか。
それは、「幸せ」という言葉が今や一人歩きしているせいかもしれません。
本やSNSで切り抜かれる幸せはわかりやすくて誰からも認められるものです。私はいつしか幸せとはそんなスペシャルなものだと思うようになりました。
幸せになるには努力が必要で簡単には手に入らないもの、だから自分はまだ幸せじゃないし、探し続けてやっといつか手に入る特別な瞬間だと信じていました。
でも本当に幸せはそんなにスペシャルなのでしょうか。
幸せがる1日の中で、楽しみにしていた展覧会を見に行きました。展覧会は予想通りのいいものでしたが、あとで思い返して幸せを感じたのは別の瞬間でした。
それは最寄り駅におりて潮の匂いを感じたとき。知らなかったのですが会場は海の近くだったんです。久しぶりに海に出会えてうれしくなりました。
この小さなうれしさが、自然と微笑んでしまったときが、楽しいと思えた一瞬が「私の幸せ」でした。きっと人にはわかってもらえないし、スペシャルなものではないけれど、私はこれを「自分の幸せ」だと認めてあげたい。それではいけないのでしょうか。
「自分の幸せは自分でつくる」という言葉があります。それは努力し続けるアグレッシブな人にしかできない大仕事だと思っていました。
でも、潮を感じた一瞬を「幸せ」だと思えることも、幸せをつくってはいないでしょうか。
幸せをつくるとは、大きな物事を成しとげるのではなく、自分が感じた幸せをちゃんと認めてあげることだと今は思うのです。
それでも悩むならあなたはもう知っている
ここまで読んで、「それでも幸せを探してしまう」と思ったかたはおられますか?
実は私がそうです。
日々の一瞬を「自分の幸せだ」と認めてあげることはできそうです。だけど、そんなふうに毎日を満たすのとは別に、私の人生全体は幸せな方に向かえているのだろうか。そう思って結局幸せ探しは終わらずグルグル探しつづけている時期がありました。
でも、探し続けるあなたはもう気づいていませんか。
自分がもう日々の一瞬の幸せだけでは満足しきれないということに。今と違う方向に向かいたくなっていることに。お手本と違っても「これが自分の幸せの方向だ」と認めてあげる岐路にきているということに。
私は認めてあげるのに3年かかりました。実はこの春に10年以上続けた会社員をやめて個人事業主になったんです。
それまでは悩んでばかりでした。方向性がまだ漠然としていたり、大人だからこそ守るべきものもあります。だからこそ、新しい方向に向かうことも、向かいたいのだと認めることも怖かったのです。今だって世間的には「幸せ」だし、別に毎日が満たされてたらいいじゃないと言い聞かせていました。
なのに、苦労しながらでも切り拓いていく人たちがまぶしくて。
そんな世間的な「幸せ」でがっちり覆われていた私を溶かしてくれたのはエラマプロジェクトでした。特にここに集う人たちです。
エラマに来る人たちは誰も持論をかざしません。なぜなら自分自身も迷い悩んでモヤモヤしているから。誰かに答えを教えてほしいわけではありません。そのモヤモヤを誰かに言えて、おたがいに励まされて許されて、自分で自分の道をまた歩き出したいのだと思います。
エラマはツアーやワークショップをしていて、大きなプログラムの終わりには参加した大人たちが涙を流します。そんなとき、私はいつも場にこんな声が流れているように感じるのです。
「向かっていいんだよ、あなたが幸せだと思う方に進んでいいんだよ」
その言葉が、私を覆っていたスペシャルにギラギラな幸せを溶かして、内にあったまだ頼りなくも柔らかい光を育ててくれました。
エラマには幸せのお手本がありません。エッセンスは紹介するけれど、5人もいる講師は個性豊かにバラバラで「これが絶対の正解!」という方法を教えるわけでもありません。
だからこそ、あなた自身もまだ認められないような「あなたなりの幸せ」も「幸せ」として大事にしてくれるのだと思います。
もしエラマで出会えたら、私もあなたの幸せを大切にしたいし、私もまたあなたが認めてくれたことで励まされるのでしょう。
悩みながら歩くまぶしいあなたへ
幸せがる1日をやってみて、世の中がお手本とする「幸せ」がどれだけ自分に染みついているかがわかりました。誰かのためのお手本は私を幸せにはしてくれないことも。
私はまだまだ覆われて固まってばかり。でも、スペシャルな宝石のような幸せを待ちわびるより、手の中にある原石を磨く日々を気に入っています。
ずっと幸せを探し続けるあなたは、新しい方向に向かう気持ちを認めてあげるときなのかもしれません。それは怖さとの闘いですぐに決断はできないし時間もかかるでしょう。
でも、きっと不毛に「自分なりの幸せ」を探しまわらなくてよくなります。だってもう幸せはあなたの内にあって、認めてもらうのを待っているだけだから。
他人のお手本に幸せを探すのはやめましょう。
自分の幸せに気づいてるなら認めて陽の目を見せてあげましょう。
悩むのはあなたが人生に真摯だから。
いつの日か歩きはじめるあなたがとてもまぶしいです。
text by ひらふく
ふと、自分を振り返ってみたくなる機会はありませんか?
こんにちは、どさんこRUNAです!
親戚が小学校を卒業し、中学生になった今年、自分が小学生や中学生の時に夢中だったことは何だっけ?どんなことを楽しみに過ごしていたっけ?と思い返すことがありました。
自分を振り返る時、私は「日記」を見ています。
「1年前のこの日」というタイトルで、1年前の今日をビデオにしてくれるスマホのおかげで、自ら残す作業をしなくても、スマホが日々の記憶を管理してくれる時代です。
何の会話をしていたのかは、トーク履歴で、自分や社会にどんな出来事があったのかは写真やメモ機能、Webサイトで確認できる便利な現代で、私が「日記」にこだわる理由をお話しします。
「日記の中の自分」と話す理由
人は、1日の中でたくさんの役割をこなしています。
ある人の毎日では、母として、パートナーとして、会社員として、友人として、ママ友として、近所の人として…
慌ただしく日々が過ぎ去っていく中で、誰もが色んな側面の役割を果たしていると思います。
多面的な自分が所々でがんばっているはずなのに、ネット上には止めどなく「同年代の芸能人のキラキラした生活」、「いいパートナー像」、「理想の暮らし」などが発信されています。特に探していないのに目に飛び込んでくると、何気なく他者の生活と自分とを比べて努力が足りないのではないかと不安や心配が生まれてしまうのです。
ネットが提示する「理想の幸せのカタチ」は、自分じゃない世間の期待や意見で作られているものです。その幸せなカタチを目にする機会が多いので、みんなそう”している”んだと、それが”ある”から幸せなんだと思い込んでいるのかもしれません。
なぜなら、自分で幸せのカタチを生み出すよりも、すでにある幸せの共通認識に当てはめて自分の幸せをはかる方が”わかりやすい”からです。
そのわかりやすさがネットの中には溢れています。
だから、スマホから離れて、「日記の中の自分」と話すことにしたのです。
スマホでも日記は書けます。
ですが、予定アプリで何をしたかを管理したり、スマホのメモに日々のことをメモしたりしていると、ピコンの通知とともに誰かの発信やニュースに目がいき、自分が考えていたことを忘れて、ネットの中に入り込んでしまうことがあります。
日記を書くのは自分しかいなくて、それを読むのも自分しかいない。
他者が立ち入ることもなく、他者と比較することもない。
そういった場が必要だと思うのです。
将来どのようなことをしたい?
大きくなったら、何になりたい?
何かを”する”、何かに”なる”ことを求められる世の中で、ただ「ある」だけでいい場が日記だと思うのです。
何をしたか、何もしなかったか、何が嫌だったか、何が嬉しかったか。
ただ「ある」だけの自分でも、色んな面を生きていて、それを実感できる。
日記を書いていくことで、色んな自分を知ることができます。
自分の言葉が生み出される場所
私は、自分の言葉で話す人に憧れを抱きます。
周りにいるそんな人たちには、日記を書いているという共通点がありました。
部活時代の物知りな恩師は、まめに日記を書いている人でした。部活用の日記帳があって、そこに何をしたかや何を伝えたいかをまとめていると言っていました。中身は見ていませんが、分厚い日記帳でした。
部活生にも部活日記としてノートを配り、たまに提出があって、たくさんコメントをしてくれました。ある時、「みんなが求めている言葉を話しているから、自分の言葉で話しなさい」そうコメントされた時がありました。
どうしたらいいか分からず悩んでいると、「自分」がないと「自分の言葉」で話せないから、日記にチームとしてではなくて、自分として何を思ったか書きなさいと言われました。
しっかりした言葉や立派なことを言わなければと思えば思うほど、中身のない浅い言葉を言っている自分に気づきました。
きっちりしたことはカタチになりやすいですが、その反対はなんだろう?そう考えた時に思い浮かんだのが、曖昧で言葉にならないモヤモヤしたものでした。
モヤモヤした感情は、カタチのないものなので、向き合うことも、カタチにすることも難しいです。でも、そのモヤモヤした感情こそ、自分しか感じられない大切なものだと気づいたのです。
また、じいちゃんも日記を書く人でした。
〇〇年に自分はこんなことをしていて、日本の状況はこうだった。
このように自分の出来事と、社会情勢を関連付けて覚えていました。
ある時、何かについて「ひどいよね」と話していると、「誰がそう思ったのか?」と問われたことがありました。その時、聞いてくれる人も同じ感情だと勝手に想像し、自分がどう思ったかを話していないと気づきました。
「〇〇ってひどいよね?」
このように何かを話す時、同じことを感じていると思い、無意識に同意を求めてしまうのは、他者の視点で話しているからで、そこに「自分がない」ということかもしれない。
「自分は〇〇についてひどいと思う」が言えるのは、自分の言葉がある、「自分がある」からこそだと思いました。
曖昧な言葉ばかり選んでしまいがちな会話という場では難しいですが、日記という場では自分の言葉で話す練習ができると思うのです。なぜなら、そこに他者の存在はなく、自分の考えを知ろうとするのも、わかってもらおうとするのも自分しかいないからです。
月日が経ち、記憶力が悪くなっても、家に行くたび、孫とひ孫の名前を全部書いてほしいと言って日記を渡してくれました。私が書いた文字を見て、言葉に出す姿は、忘れないようにと自分に言い聞かせているようでした。
亡くなったじいちゃんの日記には、よく歌っていた曲の歌詞や孫たちの名前が書いてあり、大事なものを忘れないように残す姿を感じました。
日記の中で、その人が生きていることを知った瞬間でした。
どんな自分も「いてよし!」
日記にこだわるのは、自分なりの幸せを見つけられるかもしれない、自分の言葉で話せるようになるかもしれないと思っているからです。
今も、その道半ばですが、そういった目標に進むためだけでなく、心配性な自分をただただ許してほしいという不完全な自分を記す場にもなっています。
私は、友人たちに本当に不安症だね、心配性だね、すんごいネガティブだねと称されます。
こういった私の性格はマイナスで治すべきものとして指摘してもらう機会が多いですが、そんな自分がいるおかげで気づくこと、学ぶこともあります。
きっと共通認識の幸せのカタチを知っているのに、そのカタチに溶け込めない自分、そして溶け込まないといけないと思っている自分が「どうしようどうしよう」と不安を煽っているのだと思います。
「歴史は強者によって作られる」と言いますが、自己啓発本もエッセイも、うまくいった話が多い気がします。それらの本によって助けられることもありますが、別の物語が必要な場合もあります。
とことん失敗していること、笑顔になれない日々のこと、大人と言われる年齢だけど全く大人になれていないこと…。様々な自分の不完全さを日記に記録することで、自分にとって必要な別の物語が生まれると思うのです。
日記だから私の中にしか残らない。でも、それは無駄なものではないと思っています。
ダメダメな自分、イケイケな自分、さまざまな面を持つ自分。
どれも本当の自分で、色んな自分が毎日何かを感じて考えている。
日記を読む未来の自分という読者は、この自分をどう思うだろうか。
自分の色々な側面と日記で向き合うことで、他者にも1つではない様々な側面を持っていると想像することができる。きっと、色んな自分がいるおかげで、白と黒だけでなく、日々に彩りを添えてくれる存在に目を向けることができるのだと思うのです。
自分の言葉で様々な面を持つ自分と対話し、自分の幸せのカタチを形成していく。そうすることで、遠くにいる他者や、その生活を想像する力を養えることができるのが日記が持つ力だと思います。
「いてよし!」
彩りはたくさんあっていいんだと思える日記生活をこれからも続けていこうと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
Text by どさんこRUNA
初めまして!majakka(マヤッカ)です。
この度、エラマライターとしてデビューしました!
これからみなさんと一緒に「わたし」の豊かで幸せな生き方について考え、毎日がちょっと幸せになったら嬉しいです。
どうぞよろしくお願いします。
今日は初めましてなのでわたしについて、そしてわたしが今一番考えている「自分らしい豊かな生き方」をお話しさせてください。
「このままでいいのだろうか」がはじまりだった
わたしは現在、26才のときにアルバイトから始めたカフェチェーンで働いています。
アルバイトを5年経験したのち、社員登用制度で社員となり、現在は店長として働いています。
アルバイト時代を含めると23年目になります。
23年勤務しているわたしですが、このカフェで働くまではケーキ屋、本屋、歯科助手などのアルバイトやデータ入力の派遣など、定職につかず仕事をコロコロと変えていました。
わたしはコツコツとなにかを長く続けることが苦手、責任を持つことから逃げていると感じながら、自分に自信を持てない時期が長くありました。
そんなわたしが今、同じ会社に23年も勤めていることにびっくりしています!
アルバイトを始めたのは新規オープンの店舗で、一緒に入社した同僚たちと励ましあい、助け合ってお客様へ気持ちの良い空間やサービスを提供することに、とてもやりがいを感じていました。「こんなに楽しいアルバイト初めてだ!お給料をもらっていいのかな!?」と思うくらい毎日働くことがとても楽しかったのを覚えています。
それに加えて、都度ステップアップできる環境がありました。ただ働くだけではなく、仲間と切磋琢磨しながらともに成長していくことができました。
と、カッコよく書きましたが、わたしは同僚のなかでは年上の存在ながら大学生の同僚に先を越されることも多々あり、成長の遅い自分を恥ずかしく思うこともありました。
「やっぱり、わたしは責任のある仕事に携わることは難しいんだ。そろそろ辞めようかな…」と逃げだしたくなることもたくさんありました。
でも、そう思う度に、同僚や先輩が話を聴いてくれて思いとどまることができ、今の自分があります。
この職場で、はじめて仕事のやりがいと仲間との温かい絆を感じることができました。
そう感じられたから今までがんばってこれたのだと思います。
そして今も変わらない想いを持って働いている反面、40才になった頃から心身に変化が起きはじめました。
ヘルニアを発症してしまったり、更年期障害の症状が出始めたりと、30代までのように「なんとかなる精神」でがむしゃらに働くことができなくなってきました。
それでも自分の変化に意識を向けることなくどうにか働いていましたが、以前から体調に不安があった母親も歳を重ね、母親のことも気になりはじめました。
今振り返ると、自分のことを過信していたり、先のことを考えることから逃げていたのだと思います。
「わたしはこのままでいいのだろうか?」と不安な気持ちが続き、「豊かな日々」「幸せな生き方」「Wellbeing」などと検索するように。フィンランドが以前から好きだったので「フィンランド」でも何気なくネットで検索していたときにこのメディアの運営母体であるエラマプロジェクトのサイトを見つけました。
エラマプロジェクトが大切にしている「わたし」の幸せで豊かな生き方や、歳を重ねて体調に変化があっても幸せに過ごす方法を知りたいと思ったのです。
そして2年前にエラマの学校のイベントに、昨年はフィンランドツアーに参加しました。
わたしの知りたかった「幸せで豊かに生きる」ヒントをたくさんもらいました。
(※今年もフィンランドツアーが開催されます!詳しくはこちら)
ツアー参加者の職業や年齢、今まで生きてきた過程などはさまざま。お一人お一人、悩みやモヤモヤがあったり、何か行動を起こしたいという想いを持っていらっしゃるように感じ、自分だけじゃないんだと安心しました。同時に、「今までわたしは小さな世界で過ごしていたんだ。世界は広い、もっと自由に過ごし、行動を起こして、ワクワクしていきたい!」という気持ちがムクムクと湧き出てきました。
そして、ツアーにはこの「よむエラマ」の編集長さんも参加しており、そこでの出会いをきっかけに「ライター養成講座」に参加して今に至るのです。
わたしは小さいころから日記を書くことが好きだったので、ライターという仕事に憧れを持っていましたが、「わたしなんかがライターになれるはずない」とチャレンジする前から諦めていたことを思い出します。
このような経緯で、今日初めてライターとして原稿に向かっています。
以前の、身体と心の変化に不安を抱えていたわたしのままだったら「ライターmajakka」にチャレンジできていなかったと思います。
「幸せで豊かな生き方」を少しづつ学び、自分から行動できたことは「心」の豊かさにつながったと感じるのです(まだまだ身体の不調は続いていますが…)。
私が思う「自分らしく」「ありのまま」で心地よく生きていくヒント
年を重ね心身の変化が起きてから、「自分らしく幸せで豊かに生きる」ことを自分なりに考え、行動してきました。
そのヒントは、以下のようなものです。
①自分のことを良く知ること
自分のことを振り返ることはとても勇気がいることだと思います。わたしもそうです。今でも向き合えていないこともあります。
自分のことはわかっているつもりでも、あらためてゆっくり思い巡らせてみると、自分がどんなことでウキウキワクワクするのかと新しい発見ができます。
すると、もやもやするときに自分の「ワクワク」を思いだし、少し前向きになれたりします。
そして、少しずつ前向きになって元気なときに、思い出したくないことには向き合うようにする。そうやって少しずつ向き合えたら、辛い経験も自分にしか体験できなかったことと気づけて、貴重な強みになるかもしれないですよね。
②やらなければいけない!という思いを減らしながら行動する
自分らしく過ごすために意識していることのはずが、やると決めたら毎日!などと「to do」に追われてしまうようになることがあります。
そんなときは「今日はいいんじゃない?」「今は色々考えたい気持ちだ!」と自分と向き合いながら、行動することを意識しています。
自分のペースで「あ、今少し向き合えるかも?」と思う瞬間に少しづつ、ノートや、パソコン、スマホでも、または頭のなかでも考えていこうと自分に言い聞かせています。
とはいえ、ここ何年も、体調のことを考えておかし(ポテトチップスとアイスクリームが大好きです)を食べすぎないようにと毎日心に決めるのですが、ついつい食べ過ぎてしまいます…。どうしたらいいのでしょうか…。
本当に自分は意志が弱いなぁと悲しくなりますが、少しづつ自分と向き合って頑張っていきたいと思っている最中です…。
わたしはなぜmajakkaになったのか
majakkaとはフィンランド語で「灯台」という意味です。最後に、なぜこのライターネームにしたのかをお話させてください。
エラマプロジェクトの「ライター養成講座」では、自分の人生を振り返るワークがありました。
そこで私は楽しかったことも、辛く悲しい思い出とも向き合いました。自分で振り返るだけではなく、ペアになってお互いの人生を語り合い、共有します。わたしは今までの人生に自信を持っていなかったので恥ずかしかったのですが、お相手はじっくり聴いてくださり、こんな言葉をくれました。
「歩むスピードはゆっくりでも、店長として働いている話しをしている表情は、生き生きとしている」
「責任をもって人生を歩んでいくことが大切な価値観だと感じるよ」
びっくりしました!
ただなんとなく「楽しく過ごしたい」だけでなく、わたしは「責任」を持って生きていくことに「豊かな幸せ」を感じるんだと、新しい発見ができたのです。
そして、相手の方はこうも言ってくださいました。
「あなたの人生の話を聴いて浮かんだイメージは、波止場や灯台。カモメのように羽ばたいていくというより、様々な人たちが安心できるようにどしっと腰を据えて見守るような」と。
この「灯台」というイメージがわたしのなかでもとてもフィットし、「一人の人間として、また、店長としてもそのような存在でありたい。お客様にも一緒に働く仲間にとっても安心してくつろげて、少しワクワクしていただきたい」と実感できました。
これが、ライターmajakkaの由来です。
日々うまくいったりいかなかったりの繰り返しですが、自分と対話しながら、焦らずに「自分らしく、心地よく」そして「チャレンジ」して過ごしていきたいと思います。
そして、一緒に過ごしてくれる家族や友人、仲間に感謝しながら。
みなさんはどのように、「わたし」の豊かで幸せな生き方を探していますか?
みなさんと一緒にこれから探していきたいです。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
これから、どうぞよろしくお願いします!
Text by majakka(マヤッカ Wellbeing探求人)
こんにちは!エラマライターのひらみんです。
私にとって4月は、自分の人生で絶対に忘れられない大切な人との別れの月です。その別れは、生き方について改めて考えさせてくれるものです。
長くなりますが、どうぞお付き合いください。
母の姉
4月に思い出すのは、母の姉のことです。
私が子どもの頃は家が近くて、いとことも年齢が近かったこともあって、お盆やお正月に限らず、祖母の家に集まったり、一緒にご飯を食べに行ったり、幼稚園の運動会に来てくれたりするような濃い親戚付き合いをしていました。
伯母はいつも明るくパワフルで、地域の人とバレーボールやボーリングを楽しみ、気が強くてめっちゃ怖いけど、でも同じぐらい優しくて、多くの人から慕われて、PTAとか頼まれちゃう典型的な姉御肌タイプの人でした。
対照的に、私の母はヒステリックでネガティブ思考で、子どもの頃はそんな母が嫌で、「なんで私は伯母の子どもじゃないんだろう」といつも思ってました。
彼女は旦那さんの転勤で広島へ行ってしまいましたが、その後も手紙のやりとりをしていて、それも秘密の関係みたいで楽しかったのを覚えています。そうやって二十歳ぐらいまでの私を支えてくれた人でした。
そんな彼女は20年ほど前に亡くなりました。すい臓がんで手術ができず、余命3年ぐらいと言われている、というショッキングな報告でした。
その後、彼女はできる限り仕事を続け、ボーリングを楽しみ、新婚の頃に住んでいた街を訪ね、お世話になった人たちに会いに行き、祖母やうちの家族にも会いに来て、3年ぐらいは本当に病気なのかと疑うぐらいの元気さを見せていました。
しかし3年を過ぎたころ、やはり病気が進行して入退院を繰り返すようになりました。モルヒネの量が増えた頃には、ひどい言葉を言うこともあると、伯父さんが話していました。
2003年4月、私たち家族が会いに行った時、私は伯母と病室で2人きりになった時がありました。そのとき、彼女が私の方へ手を伸ばしてきたような気がしたのですが、私は怖くて彼女の手を掴むことができませんでした。
どうするのがいいのかパニックになり、掴むべきだとわかっていながらも、細い手を掴んでしまったら自分が泣いてしまうことも想像がついたからです。
その2日後、彼女はあちらの世界へ飛び立っていきました。
彼女の訃報を聞いた時、「私はなぜ彼女の手を取らなかったのか」と考えずにはいられませんでした。
人生最大の後悔から20年
私はあの時、本当に怖かったんだと思います。
「いつ亡くなってもおかしくない、彼女はとてもがんばっている」と伝えられた状態で、私はもちろん、私の母も父も、伯父さんも、そしておそらく本人も、ぎりぎりの状態で気持ちを保っている所に、自分が泣くことで、みんなの気持ちの均衡を崩してしまうことがなによりも怖かった。
もちろん、自分が彼女の命が短いことを肌で感じるのも怖かった。そんなこともあって、手を伸ばせなかったのだと思います。
伯母が亡くなって20年経ちますが、私は今でも、彼女の手を取らなかったことを後悔しています。「手を取らなかったことを、彼女は許してくれているのだろうか」と、ことあるごとに悩みました。
毎年4月に振り返ること
伯母が亡くなったあと、彼女の骨を拾う時に、不謹慎ながらも思ったんです。
「こうやって骨になっちゃう前に、やりたいことやって、行きたい所に行って、食べたいもの食べて、おもしろおかしく生きる!」と。
私の人生には彼女にしてもらったことがたくさんありました。
私を支えてくれた本当に大切な存在だったのに、ありがとうも伝えられなかった。「また会いたい」という気持ちを、都合よく希望にすり替えて、「また会える」と思ってしまった。彼女の命が長くないことをわかっていたのに先延ばしにしてしまった。
「ありがとう」と言ってしまったら、最後の別れになってしまいそうで怖かったのは正直ありました。でも、そんなに切羽詰まる前に伝えておくべきだったんです。
だから私は、伯母が亡くなって以来いつも4月に、自分があのとき骨を拾いながら決意したように生きられているかを確認しています。
そして、病室での後悔も一緒に思い出して、どんなに怖くても、伸ばされた手を掴むべき時に掴む勇気や覚悟があるかどうか、それから、大切な人たちに感謝を出し惜しみしていないか、振り返っています。
後悔するのは、伯母の時だけでもう充分。「あの時、ああしていれば」と後悔したくないんです。
私は、この後悔を克服したり乗り越えたりしたいとは思っていません。それよりも「前向きな後悔」にして、一生抱えて生きたいと思っています。
人生最大の後悔を、前向きに生きるきっかけやモチベーションにすることが、なによりも伯母への供養になると思うから。
みなさんも「前向きな後悔」に捉え直すことができる後悔はありませんか?
Text by ひらみん(普通の会社員)
皆さん、こんにちは。ライフコーチとしての歩みを始めたばかりのKangas(カンガス)こと和田直子です。
これまでの人生の半分を会社員として過ごしてきた私が、ライフコーチとしてもっと自由にありのままの自分で生きていく等身大の自分自身を発信していけたらと思います。どうぞ、よろしくお願いします。
まずはこの「Kangas」という名前から。
「Kangas」は、フィンランド語で「織物」や「布」という意味です。
なぜ、それをライターネームにしたのか。それは私がライフコーチを始めた想いでもあり、実現したい社会のあり方に通じるからです。
今回は自己紹介も兼ねて、私がライフコーチとして独立を決めるまで歩んできた道と葛藤を、そしてKangasに込めた想いを綴ってみたいと思います。
「中途半端な私」
少し幼い頃の記憶に触れさせてください。
幼少期の私を思い出すと、まず一番に蘇ってくるのは、一人遊びが大好きだったこと。部屋中におもちゃや人形を広げて空想の中での日常を展開したり、家具や時計・花瓶などと会話したりもしていました。
親の目を盗んでちょっと悪戯をするときには、いつも話し相手の家具や置物たちに見られている気がしてドキドキしていました(病気の時に薬が嫌で嫌で仕方なく、飲んだふりをしてゴミ箱にそっと捨てたあと、「お願いだからお母さんには言わないで!」と本気で”ゴミ箱さん”に念じていました。笑)。
少し大きくなると、家の前の公園の、大きな楠の木に登ることが楽しみでした。下から見上げるとドキドキするくらいの高さまで登り、枝分かれしているところにもたれながら腰を掛け、ぼーっとすることがお気に入り。小説「赤毛のアン」の主人公、アンと自分を重ねて浸ってみたりもしていました。
そんな私は、中学高校と進む中、いつの間にか、姉のように勉強やスポーツで目立ちたいと思うようになっていました。実は「赤毛のアン」の世界に先に夢中になったのは姉で、私はそれに影響されていたことを思うと、もっと幼い頃から姉をかなり意識していました。
ですが、私は姉のように何事にも集中して取り組むことができず、勉強も運動も姉の成績には及んだことがありません。学校では人気者で後輩からも尊敬されている姉の姿が、私の憧れでもありました。生まれた時から一番近くにいるのに、決して届かない存在が姉でした。
一方で、高校時代に和太鼓に出会い、のめり込みました。そして日本語教師を目指し県外の大学で一人暮らしを始めました。
大学の授業以外で、日本語教師のボランティアや、大将がとにかく厳しかった懐石料理屋でのアルバイトを4年間続け、セミプロ集団の門下生として和太鼓も相変わらず続けていました。
ようやく、姉と比較せず自分の選んだ道に進み始めたという感覚を持てましたが、大学3年生の後半で、授業準備がとにかく大変で自分には向いていない!これを職業として続けることはできない!と日本語教師の道をあきらめました。
そして、やりたいことや得意なことが分からず「中途半端な自分」を常に感じながら始めた就職活動。何十社もの企業にエントリーし、内定の連絡が入らない携帯電話とにらめっこを続ける日々を送っていました。
就職超氷河期と言われていましたが、私には内定先が決まらない理由はそんな社会背景のせいではなく、自分自身だとわかっていました。
リクルートスーツを着て周りと同じ格好をすることにも違和感があり、今思えば”ビジネスカジュアル”で試験や面接に挑み、人事の方に目を付けられたなと感じることも度々。それでも似合わないリクルートスーツを着て行くことに抵抗し続けていました。
誰かと比較して「私は中途半端」と常に自分に自信を持てない一方で、「みんなと一緒は嫌、自分らしさを出したい」ともがいていたことの現れかもしれません。
自分が何者かわからないのに、さらに個性をわからなくするリクルートスーツへの嫌悪感たるや…!!
会社員時代のやりがい
そんな私が、ひょんなことから興味を抱き新卒採用にエントリーし、内定を唯一頂けたのが、その後43歳まで人生の半分を過ごすことになる大手カフェチェーン店を展開する会社です。
会社のミッションと、人事の方々やオフィスのお洒落でオープンな雰囲気は、それまで何社も受けてきたものとは全然違い、とても魅力的で、ここなら私らしく働けるのかも!と感じました。
”ビジネスカジュアル”で最終面接まで進み内定を頂いたときには、「この会社は私そのものを認めてくれた!」という感覚を持てました。
それなのに、私は入社後に店舗勤務になることを大学の友人たちに伝えることが恥ずかしかったのです。自分が働きたい業界が明確でなかったこと、何社も落ち続けて内定をもらえたのが一社のみだったこと、店舗でシフト制で働くことへの抵抗感、これからスーツを着て働く友人たちとエプロンを付けて接客する自分の間に勝手に感じていた格差。
4年制大学を卒業して、専門職に就くかオフィス勤務をすることが、人の目を気にせず過ごせる道だと思いこんでいたのでしょう。いつか本社勤務ができることを希望に持ちながら、でもそれが本当に叶うのか不安を抱きつつ入社しました。
しかし仕事を始めてみると、どのステージ(役職)になっても学びの環境が整っていること、会社が大きくても裁量権を持って店舗運営できること、またライフステージの変化とともに新しく芽生える価値観を仕事の中で体現できることなどからやりがいを感じ、会社へのエンゲージメントも高まっていきました。
いつしか、自分の信念を貫いてチームにビジョンを示し続け、やりたいことにチャレンジし、成果が出始めました。すると社内外に波及するちょっとしたムーブメントとなり、評価されるようになりました。
仲間とともに何度もトライ&エラーを繰り返してきたことが、目に見える形でポジティブな変化を生み、仲間が増えることに喜びを感じていました。
子供時代から自分の中の「こうあるべき」に縛られ、それに到達しない自分自身を「中途半端」とジャッジし続けてきた私が、ビジョンを示し、チームをつくり、形にし続けることができるようになった。
それが社会にとってポジティブな影響力を生み出せたと、自信を持てるようになってきたのです。幼い頃の私が空想の中で描いた幸せな世界を、大人になった私が現実の世界で作り出す喜びを味わえたのかもしれません。
そして、そのような成功体験を持てたことで、まわりの同僚や部下、10代~70代までの店舗アルバイトさんたちにも、もっと自分の個性や才能で、人や社会にポジティブな影響を与えられることを知ってほしいという想いを抱くようになりました。
私から見ると、本当にいろいろな可能性を持つ人々がいるけれど、かつての私がそうだったように、自分や社会の「こうあるべき」に囚われている人、上司や先輩の「正解」を常に探り自分らしく立ち回れない人、称賛されても「自分なんて!」と受け入れられない人、目の前のタスクに追われている人…。そんな人たちをたくさん見てきました。
彼らがもっと自分をオープンにし、自分の中の強みや才能を理解し、仕事の中でそれを表現できるようにしていくこと、それが私が目指す人財育成となっていきました。
一本一本の糸が細くても、違った色でも、そのすべてが必要とされ、しなやかで強い、カラフルな布が織りなされるように、一人ひとりがすでに持つ個性や才能が、優しくも強い、多様性に溢れた社会を作り出すと思うのです。
そう!これこそが、Kangasに込めた私の想いなのです!
「自由」と「ありのまま」を受け入れた先の自分への「信頼」
そのように仕事への情熱を抱く一方で、もっと自分が仕事に誇りを持ちたいという気持ちが大きくなってきました。会社の優先順位を気にせず、自分のやりたいことだけに集中できる仕事をしたいと。
ですが、「私」という人間を社内で認めてもらえても、「この会社の器がなければ、私は何もできない」「会社のブランドの下でしか活躍できるところはない」と感じていることに気付きました。だから、社内で評価され続けなければ自分を満たすことができなくなってもいました。いつもどこか、自信のなさからくる承認欲求があったのです。
そして気づけば二人の子どもたちは思春期真っ只中、巣立ち目前の時期になっていました。シフトで早朝も深夜も働き、世間の長期休暇は必ず仕事の繁忙期で、いつも家族より仕事が優先。本当は子どもたちと一緒にいたい、という気持ちを押し殺して出勤していました。
幼かった我が子たちの姿は霧がかかっているかのような記憶しかありません。「肌身離さず」「手を離さず」「目を離さず」の時期はいつの間にか終わっていて、「心を離さず」が伝わっていることをただただ願いながら、自分の子育てに間違いはなかったと一生懸命信じようとしています。
そんなふうに悶々と悩み、仕事の楽しさと窮屈さに挟まれて過ごしていました。
でも本当は気づいていたのです。
「〇〇会社の私ではなく、私という人間に自信を持ちたい!」
「私がすでに持っているものと経験してきたことを、自分で信じて活かしたい!」
「もっと自由に、ありのままの自分でいたい!」
「もっと家族との時間を持ちたい!」
「子どもたちが巣立つまで、残りの時間を近くで過ごしたい!」
「会社辞めたい!」
私の心はずっと、こんなにも叫んだりつぶやいたりしていたけれど、「私には出来ない」「会社を辞めてお金はどうするの?」と、悩んでは心に蓋をするの繰り返し。そんな日々を3年以上過ごしていました。
コロナが収束し始めた2023年、それまでの色々な制限に、私も知らぬ間に窮屈さを感じていたのでしょうか。思い切り自分の両手両足を自由に開放して羽ばたきたい!そんな想いが急に湧き上がり、それを叶える方法が私にとっては海外旅行でした。
私は何かに取り憑かれたかのように、家族や友人との旅行の計画を立て、自分を開放させていく感覚を得ていきました。それまでの私には信じられないことですが、1年で3回も海外旅行で羽根を伸ばしたのです(もちろん、それだけのお金も羽ばたいていきました~!)。
行きたい時に行ってみたい!を叶えること、非日常に触れて感性が揺さぶられる体験をすることで、私は「自由」でいることを求めているんだと知りました。
旅先で見た、いつも自分らしく立ち回る人々、自分のペースを大事にする人々、自分の好きを堂々とパフォーマンスする人々…。そんな「ありのまま」の姿に惹かれる自分にも気付きました。
「自由」と「ありのまま」。2023年の”海外行きたい病”で気づけた私が大事にしたい価値観です。
中でも、フィンランドのサイマー湖水地方、プンカハリュの大自然の中で過ごした4日間。朝起きたときから夜眠るまで自然の匂いや音に包まれ、自然に触れ、身を委ね、友人と語らったり大笑いしたり、また自分の心と向き合いながら過ごす中、じわじわと心の蓋が外れていく感覚を覚えました。
自分の素直な心の声が全部聞こえてきて、受け入れることが出来たのです。
「そうだよね、そうしたいんだよね」
ずっと前から持っていた答えが私の中から湧き出てきました。
素直な自分の心を受け止めることが出来た安心感は、今までの自分を癒やしていくかのようでした。
もっと自由にしていいよ。ありのままでいいんだよ。もう中途半端じゃないよ。もうすでにいろんなことを持っているよ。だから、自分を信じて!
そう!私に足りなかったものは自分を信じること。自分への「信頼」。
周りの仲間たちには、自分の強みや才能をもっと理解して活かしてほしいと願っていたのに、自分のことを一番信じてあげていられなかった私。
自分への信頼が持てなくて、ずっと追い求めてきた自由とありのままを諦めてきたのか?
私だって、織りなされていく布の一本の糸のはずなのに。
自分なんて中途半端だと、すぐに弱ってほつれてしまう癖があった。
そう気づいたのでした。
ライフコーチへ。私にできる幸せな社会の作り方
自分にとっての大事な価値観「自由」「ありのまま」「信頼」に気づけた私は、会社を卒業する時にこんな気持が湧いてきました。
「ここで得られるものは、すべて得ることが出来た!」
「それが充分すぎるくらい自分のものになっている!」
とっても満足した気持ちでした。21年働いたこの会社で出会えた人、経験、価値観、すべてが今の自分につながり、たくさんのことを学び、考え、行動してきたと実感しています。これからは、それらに出会えたことに感謝し、大事に育み、この先出会う人や社会に還元していこう。そう思えたのです。
そして、これからは、もっと自由にありのままの自分を信頼し、理想の働き方や人生を実現させていこうと。
社会の中の役割に、自分で責任を感じて生きていくこと。それも素晴らしいけれど、自分の素直な気持ちを知って、自分のニーズを満たす人生を送る。そして、自分がすでに持つ個性や才能を活かし誰かをエンパワーする。それができる人々で世界中が溢れていたら。もっともっと、豊かで幸せな社会が広がっていく。私はそう思います。
だから私は、自分で自分の幸せな人生をデザインしていく人々をライフコーチとして応援していきたい。それが、私にできる幸せな社会の作り方です。
一人ひとりの個性と才能が活かされ、しなやかで強く優しい社会を織りなしていけるように。一本一本の糸が編み込まれて、織りなされるKangasのように。
そうは言っても、「自分なんて中途半端」と弱い糸に戻りやすい私の、すぐにほつれてしまう長年の癖。きっとこれからも、何度もほつれてしまうでしょう。でも、これからは早めに自分で自分の糸を繕える気がしています。そんな私の人生のKangasもぜひ楽しみに、これからお付き合いいただけると嬉しいです。
それでは、またお会いする日まで。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
Text by Kangas(和田直子/しなやかで強く優しい社会を織りなすライフコーチ)