こんにちは。エラマプロジェクトの和文化担当、橘茉里です。
あなたはこんな感覚に、身に覚えはありませんか?
つい何度もSNSを開いてしまう。
そして、SNSを見ないでいると、何か大事な情報を見逃しているような気がしてしまう。
または、誰かの楽しそうな投稿を見て、「自分は取り残されているのではないか」と感じてしまう。
そんな風に、「つながっていないと不安になる感覚」や「何かを見逃してしまうことへの不安」のことを「FOMO(フォーモ)」(Fear of Missing Out)と言います。
それに対して生まれたのが、「JOMO(ジョーモ)」(Joy of Missing Out )という考え方です。
2012年頃にアメリカの起業家アニル・ダッシュ氏が提唱したJOMOは、「取り残される喜び」という意味で、あえて全部を追わないことを楽しむ感覚のことです。
例えば、
気づけば手に取ってしまうスマホを、そのまま閉じてみる。
SNSで情報を追いかける代わりに、あえてそれらを見ない時間をつくる。
誰かの時間ではなく、自分の時間に戻る。
そうやって、あえて選ばないことで、自分の時間や心の静けさを大切にする。
そんな在り方を言葉にしたものとして、JOMOという考えが少しずつ広がってきているようです。
私がJOMOという言葉に出会ったのは最近のこと。
私自身は、JOMOの感覚にとても居心地の良さを感じていますが、ただその一方で、こんな風にも思いました。
JOMOは本当に新しい考え方なのだろうか。
私たちはもともとこうした感覚をよく知っていたのではないか、と。
そこで今回は、日本文化とともにJOMOを考えてみたいと思います。
手放したことで、豊かに整っていったものたち

私はここ数年で、様々なものを手放してきました。
それは私なりのJOMOだったように思うので、まずはちょっとご紹介させてください。
時計を使わなくなったこと。
家からテレビを無くしたこと。
そして、人間関係を見直したこと。
家の時計や腕時計は、修理に出すのを億劫がっているうちに、生活の中から無くなっていきました。テレビは、コロナ禍の最中に流れてくるニュースに疲れてしまい、押し入れにしまったのがきっかけです。
それらを手放したあと、私は「不便になった」とは感じませんでした。
むしろ、驚くほど心が穏やかで豊かになったんです。
目に見えるところに時計がなくなると、時間にコントロールされているような感覚は薄れていきました。テレビを手放すと、知らず知らずに取り込んでいた雑多な情報が減ったことで心に余裕が生まれました。
今思うと私は、「時間を知りたい」「情報を得たい」というよりも、「腕時計をするのは当たり前」「家にテレビがあるのは当たり前」という現代人の生活環境を、ただ受け入れていただけだった気がします。
(過去記事はこちら)
https://note.com/elamajp/n/n338560e48486?magazine_key=mb35001ebae34
そして、私にとって時計やテレビよりも大きな手放しだったのは、人間関係です。
私はもともと断ることがとても苦手で、「誘われたら行かなきゃ」「相手に合わせなきゃ」と無理をしていました。そして、価値観が合わなくなった友人との関係を続けることに、かなりのストレスを感じていました。
そこで思い切って、
気が乗らなければ、無理に返事をしなくていい。
誘われても断っていい。
友人関係を続けなくてもいい。
と決めて、それを実行していったら、ストレスだった人間関係は自然とフェードアウトしていきました。そうやって、昔の友人たちとのグループや、関わっていたいくつかのコミュニティから抜けられた時、心底楽になったと感じました。
このような、窮屈な状態から解放されて楽になる感覚が、私にとってのJOMOの感覚かなと思います。
(過去記事はこちら)
https://note.com/elamajp/n/n58f226efaabc?magazine_key=mb35001ebae34
今、改めて振り返ってみると、私は手放したことによって、何かを失ったのではなく、むしろ真に大切なものを得ることができたように思います。
不要なものがそぎ落とされて、本当に大切なものが残っていく感じでしょうか。
その結果、私自身の軸も、より太く安定したように感じます。世間や他人の価値観を気にすることなく、「私にとっての豊かさを選ぶ」ことが私の行動基準になりました。
他人を気にせずに自分の自由な意思で行動し、情報に振り回されることなく静かで穏やかな時間を持つ。そんな暮らしをしていると、手放して空いた空間に、もっと大切なものが自然と入ってきました。
私にとってそれは、愛猫との生活。
居心地の良い住まいで、猫たちと過ごす穏やかな時間は、今の私にとって何よりの幸せです。この幸福は、様々なものを手放さなければ手に入らなかっただろうなと思います。
手放しには覚悟が必要?
ただし、手放すことは、良い面だけではないとも思っています。
人間関係を手放すことで、交友関係は自然と狭くなります。
それは、いざとなった時に頼れる人が少ないということでもあります。
今は友人の少なさが全く気になりませんが、将来的に年を重ねたときには、友人が少ないことで孤独を感じる場面が訪れるかもしれません。誰かを頼りたいと思っても、気軽にお願いできる友がいなくて困ることがあるかもしれません。
でも私は、将来もしそういったことが起こったとしても後悔しないと決めて、今の環境を選んでいます。そうした未来も含めて、自己責任として受け止めるつもりでいます。
これはあくまで私のやり方・考え方であって、これが正しいというわけではありません。
それに私のこういう覚悟の持ち方は、ちょっと極端かなという自覚もあります(笑)
しかし、あなたが目先の解放感だけを求めて、先のことを考えずに手放しを行っていくと、いつか「こんなはずじゃなかった」と後悔する日が訪れるかもしれません。
ですので私は、基本的には手放し推進派であり、JOMO賛成派ではありますが、他人に対しては、盲目的に「手放すといいよ!」とは言わないでおこうと思っています。
こういった手放しやJOMOの実践は、ご自身がきちんと納得したうえで実行するのが大切だと感じます。
鴨長明が選んだ「隠遁」という生き方

JOMOについて考えていたとき、ふと思い出した人物がいます。
それは鎌倉時代の歌人・随筆家である鴨長明です。『方丈記』の作者として有名ですね。
長明は、京都の下鴨神社と縁の深い家に生まれました。父も神職であり、彼自身もその流れの中で生きていくはずでした。
しかし、神職をめぐる人事や一族内の事情の中で、望んだ立場を得ることができませんでした。社会の中で自分の居場所をうまく持てなかった経験が、彼の人生にはありました。
さらに当時の都では、大火や地震、飢饉などの災害が相次ぎます。『方丈記』には、それらの出来事が次々と描かれ、作中には「この世のものは栄えては滅んでいく」という「無常観」の感覚が表現されています。
都にいれば安心だし、満たされる。
そうした価値観が揺らいでいた時代でした。
のちに長明は、都を離れ、山奥の小さな庵で簡素な隠遁生活を始めます。そこでは持ち物も最小限で、人との関わりも限られた生活が営まれていました。
長明はそのような暮らしに、自分なりの豊かさを見出していました。
都での生活や人間関係からあえて離れること。
自分にとって心穏やかな暮らしを選ぶこと。
その姿は、現代の言葉で言えば、JOMOとどこか重なるように思えます。
実は長明だけではなく、特に中世の日本には、都の喧騒や人間関係から距離を取り、あえて隠遁という生き方を選ぶ人たちがいました。
たとえば、吉田兼好は『徒然草』の中で、不完全なものや満たしきらない状態の中にこそ趣があると語っています。すべてを整えきらないことが、かえって心の余白を生むという感覚です。
また、西行法師のように、俗世を離れ、自然の中で生きることを選んだ人もいました。西行は武士としての道を捨て、各地を旅しながら歌を詠む生活を送りました。その姿にもまた、「多くを持たないことで見えてくる豊かさ」が表れているように思えます。
こうした生き方は当時の日本人すべてに当てはまるわけではありませんが、「多くを持つこと」や「中心にいること」だけが価値ではないという感覚は、昔の日本にも連綿と存在していたのです。
大切な感覚は時代を越えて繰り返す
こうして見ていくと、JOMOという言葉で語られている感覚は、まったく新しいものというよりも、我々日本人にとってはどこか懐かしさを感じるものでもあります。
日本には「足るを知る」という言葉があります。
今、すでに十分に満たされていることに気づき、それ以上を求めずに現状に満足する心を持つことを意味します。
実は「足るを知る」という表現には続きがあり、「足るを知る者は富む」と言います。
つまり、満足することを知っている人は、たとえ物質的に貧しくても、精神的な豊かさを得られるということです。
私自身の経験でも、「足りている」と感じるのは、何かをたくさん手に入れたときよりも
・無理をしていないとき
・誰かと比べていないとき
・「私は私で大丈夫」と思えているとき
こういった場面でした。
そして、これはJOMOととても近い感覚だと思うのです。
「足るを知る者は富む」は、古代中国の思想家、老子の教えとされます。老子は紀元前5~6世紀くらいの伝説的な人物ですので、2000年以上前からJOMO的な発想はすでに教えとして確立していたわけです。
今回ご紹介した私自身の手放し、そして鴨長明をはじめとした中世の隠遁者の暮らし、そして「足るを知る」という考え。
これらはどれもJOMOと密接に関わっていたり、JOMOを言い換えているものだったりするように思います。
私たちにとって必要な学びや真に大切な感覚って、時代や言葉を変えて、何度も何度もやってきてくれるのかな、なんて感じます。
あなたはJOMOを、どんな風に取り入れてみたいですか?
Text by 橘茉里(和えらま共同代表/和の文化を五感で楽しむ講座主宰/国語教師/香司)
こんにちは!エラマライターのひらみんです。
「自分らしく、心地よく生きたい」。そう願って、心穏やかに過ごしているはずなのに、ふとした瞬間に、自分でも驚くような「激しい怒り」に飲み込まれてしまうことはありませんか?
今回は、松本美登里さんの著書「『他者』とは?: 対立を超越して思い通りに生きる」が紹介する視点を通して、私たちの日常に潜む「対立の構造」について、少し立ち止まって考えてみたいと思います。
私にとっては、これまでの価値観がひっくり返るような、目からうろこの考え方でした。
世界は「表裏一体」のペアでできている
心地よく、自分らしく生きたい。そう願う私たちが最初に向き合うのは、皮肉にも「思い通りにならない他者や状況」ではないでしょうか。
本書の著者である松本美登里さんは、私たちが直面する人間関係や環境のトラブルを、相手の性格や自分の努力不足のせいにはしません。本書のベースにあるのは
①目の前の現実はすべて「自分の内面が反転して映し出された鏡」である
②この世界は、相反するプラスとマイナスのペア(二元性)で完璧にバランスが取れている
という2点です。
例えば、自分を認めてくれない上司がいるとします。
もし自分の中に無意識に「自分はダメな人間だ(マイナス)」という強い思い込みがあれば、それを埋めるために「評価されたい(プラス)」という願いも同時に生まれます。
すると、自分でも気づかない「自分はダメ」という自己否定が反転して、現実世界に「評価してくれない上司」を登場させます。つまり、目の前で自分をイライラさせる他者や環境は、自分の内面にある「執着」や「思い込み」を教えてくれる鏡なのだと説明されています。
「私は間違ってない」と叫びたくなるとき
私が人生で一番怒りを感じるのは、職場のコピー機の前です。
自分はいつも通りに正しく操作している。コピー機なんてそんなに難しい作業じゃないはずです。それなのに、なぜか印刷されない。紙詰まりを除去しても、まだエラーが消えない……。
「機械が正常に動かない」という状況に陥ったとき、自分でも驚くほどに、機械を壊したくなるような怒りのエネルギーが湧く時があります。無機質な機械から尊厳を傷つけられているような感覚にまで陥ってしまいます。
コピー機の話をこの本のシステムで考えると、私の「正しく処理している」という意識から反転した「正しく動かないコピー機」という事象が生まれています。私が「自分の正しさ」にしがみつくほど、思い通りにならない状況が、自分を否定する「敵」へと変貌します。
さらに、コピー機が動き出した時も、私は、「対処したのだから当然でしょ」「時間を取られた」と被害者意識を持ってしまっているんです。そこには「効率的に動けている自分が正しい」という強い執着が隠れています。それが拒絶されたと感じるからこそ、人格を否定されたような強烈な怒りが湧いてくるのです。
だから、不快なことが起きたら、一度立ち止まって考えてみたいんです。
このイライラを通して、私はなにを守ろうとしているんだろう?
不愉快な出来事は、自分を縛っている思考の癖を教えてくれます。「相手が悪い」で終わらせず、その裏にある自分の内面を読み解くことができたとき、その出来事はあなたを成長させる最高のメリットへと反転します。対処するべきなのは外側の世界ではなく、自分の内側にある考え方なんです。
良いことの裏側にある「バランス」の捉え方

もしかしたら、ここで疑問が湧くかもしれません。
「プラスとマイナスの二元性が完璧なバランスなら、良いことが起きている時も、裏側にマイナスが潜んでいるの?」と。
この「二元性」の論理から言えば、ポジティブなことが起きた時にも、プラスとマイナスがあります。自分の中に無意識に同じ要素と、反対の要素の両方があります。でも、それを「いつか悪いことが起きる」と怖がる必要はありません。
例えば、素敵な誰かに出会った時、自分の中にもその人と同じように素敵な魅力があるからこの出会いが成立しています。ただ、残念ながら同時に、反対の短所もあります。こういう時、私たちは自分の短所に必要以上に注目して、「私はこの人にふさわしくない」と感じたりすることはないでしょうか。そうやって自分の短所を思い詰めて強化してしまうことで、逆に相手がこちらのことをふさわしくないと感じて去ってしまいます。
そうではなくて、自分の魅力も短所も「これも自分の一部なんだな」と認めて受け入れたとき、不思議と対立が消えて、自分の魅力が残るのだそうです。
トラブルは敵だけど、敵じゃないよ

私の中に「こうあるべき」という強い執着がなければ、思い通りに行かない状況は、ただの「事象」として静かに通り過ぎていたはずです。
自分の「思考の癖」を客観的に見ることができたとき、私たちは「怒りそのもの」から一歩離れることができます。二元性と対立構造の仕組みを理解することで、不毛な対立を終わらせて、幸せな人生を選ぶことができます。
トラブルや思い通りに行かない状況を、排除すべき敵ではなく、自分の内面を見つめるためのサインとして大切に受け取りたいと思いました。自分の思考の癖を知って、心地よい生き方を目指したいと思います。
すごく難しい本だったのですが、今までと全く違う考え方を教えてもらえたと思います。
みなさんも、小さな自分との対話から、新しい生き方を始めてみませんか。
Text by ひらみん(ふつうの会社員)
こんにちは。エラマプロジェクト代表、フィンランド生涯教育研究家の石原侑美です。
春分の日を迎えようやく春の訪れを感じるようになりましたが、わたしにとって今回の冬は例年になく厳しい季節でした。
普段から仕事は自宅でおこなうことが多い上、外出もほとんどしない状況でした。そんな過ごし方をする中で感じたことや気づいたことをみなさんに共有できればと思います。
引きこもり生活でAIを多用

わたしは岐阜県高山市に住んでいるのですが、今年の冬は本当に寒くて外に出られませんでした。1月には風邪をひき、かなり長引いて声が出なくなったことも……。そのうえ日照不足と大きな仕事を終えた反動が重なったのか、精神的にもけっこう落ち込んでしまいました。
(3月現在、春の陽気も相まってすっかり元気になっているので、ご心配なく!)
家にこもって仕事をしている中で、これまで以上にAIを使って仕事をするようになりました。もともと新しいツールが出るとさわってみるのが楽しく、おもちゃのように試してみるタイプなんです。
AIを使うとやはり作業のスピードは速くなりますよね。例えば、ある作業ではこれまでおそらく1時間くらいかかっていたものが15分でできるようになったり、英語の翻訳も伴う資料作成では2日間ほど必要だった作業時間が20分でできるようになったりと効率面では非常に助けになる存在です。
わたしは経営者ではありますがフリーランス的な一人社長のため、会社の切り盛りにおいてはどうしても効率化を図らざるを得ない場面が多々あります。その意味でAIの存在は大きいです。しかし、冬のおこもり生活でAIをこれまで以上に使ってみた結果、怖さも感じてしまいました。
AIは便利! だけれども……
すでにご存知の方も多いと思いますが、AIが嘘をつく現象もあります。エラーの一種ではあるらしいのですが、回答を出すスピード感の弊害によるものだったり、インターネット上のソースから判断しきれなかった場合には筋が通るように盛っちゃったりもするようです。つまり一部は事実とは違う回答の可能性もあるんですよね。
わたしはフィンランドに関する研究をしているので関連内容であれば気づけますが、フィンランドを知らない人の場合は事実かどうかの判断が難しいのでAIが出した回答を鵜呑みにすることは多いのではないかと思います。
そして自分が専門外のことに関しては、わたしも同じような状況になる可能性が高いのです。
先日、WebサイトのプログラミングのコードをAIに書いてもらったことがあったんですが、わたしはこの分野については素人なので、疑ったり修正したりはその場ではできないんですよね。実際、得られた回答でWebサイトにしてみると見た目がすごく崩れていたり、全然意図しないものになっていたりするんです。
だからやはり自分の中である程度知識があるとか、自分の中で選択するための軸を持っているというのは大事なポイントになってきますよね。
そしてAIが答えたそのままをコピー&ペーストすることが多くなると、自分の意思、意図、意識といったもの、もっと言えば自分のアイデンティティさえも失いそうな感覚になっていったんです。
心と体はこの世に存在はしているけれど、自分の存在意義や意味を失うような感覚です。
この原因はいろいろあると思うのですが、ひとつはAIのアウトプットがあまりにも知能指数が高くて、世の中の平均点のようなクオリティのものを出してくれるからだという気がします。すごく綺麗だし完璧に近いものも多いんですよね。
しかも自分で考えるより圧倒的にスピードが速い。
そのスピード感で世の中の正解のような内容が出てくるからある種の気持ち良さもあり、さらにあたかも自分が書いたような心地良さも伴うのではないかと思います。
実際は、効率の面からAIの回答をそのまま採用した場合、文章を読み返すと、自分にとってしっくりこなかったり、「これAIで書かれてるよね?」と言われるようなものになっていたりするのではないかと思います。
わたしの場合、AIの使用頻度が高くなったことで、今まで以上にタスクをこなすのが速くなりました。そしてわたしは自分で仕事を作り出す立場なので、そうなるとさらに仕事が生まれていき、数か月前とは段違いの仕事量になっています。その結果、プロジェクトがいっぱい進みすぎて今パンク寸前なんです……(苦笑)。
そうなると頭がなかなか回らなくなって、自分の意思や意図が出にくい、と感じることも。
こういった体験を通してふと頭に浮かんだことがありました。
AIのスピード感やクオリティの高さを何も疑わずただ使い続けることで、自分そのものがなくなってしまうような感覚に陥るという話は、AI利用に限ったことでないのです。
自分の意思を持たず「みんなの正解」を求めてしまう姿勢でも、実は同じ症状が起きてしまうのではないでしょうか。
なぜか自分だけの正解を持てない

これまで企業研修の仕事を担当したことが何度もあるのですが、毎回印象的なことがありました。上司の前だと自分の意見を言うのが憚られるという方が多かったり、上司がいない場合でも、講師が「こう言ってほしいんだろうな」という正解を答えようとする人たちがけっこういたり。自分の中の正解を持てない方が非常に多いんだと感じました。
さらに衝撃的だったのは、企業研修を希望された担当者との事前打ち合わせで、「おそらくたったひとつの正解を求めたくなると思うので、その方向性でお願いします」とオーダーされたときです。
わたしが講師をする場合、「たったひとつの正解は存在しないので、みなさんがイメージするものをみなさんなりにシェアしてください。正解を出す必要性はありません」という前提をまず共有します。そうしないとそもそも意見が出ないからです。
さすがに「さまざまな意見があるという前提でないと進まないので」と理解を求めました。
しかし、その研修のフィードバックで「答えがない中で問いに答えるのはすごく難しかった」という感想があったのです。
わたしとしては「えっ! そうなの!?」と驚くことになりました。自分の意見を言わないのが習慣になっているんだなと、研修後にも衝撃を受けたのです。
もしかしたら多くの場でこんな状況が当たり前になっているのかもしれないと思ったのが、今でも強く印象に残っています。
周りや世間からの「こうするべき」という押し付けが空気のように存在しているからなのか?もしくは自分自身が「世間はこうだから」と思ってしまっているだけなのか?どちらもあるのでしょう。
経営コンサルティングにおいても、社長さんが「従業員がアイデアや意見を出してくれない」と嘆く場面をたくさん見ました。みんなの正解を出そうとしすぎて、自分の正解がない世界にたくさんの人がいるんだろうなと、そのときも強く感じました。
ここでふと思い出すのが、フィンランドの教育現場のことです。
フィンランドでは、小さな頃から「あなたはどう思う?」と問いかけられる場面がとても多い。授業でも、先生がひとつの正解を教えるのではなく、子どもたち自身が考え、言葉にし、友だちの意見と擦り合わせるプロセスを大切にしています。
大事なのは、最初から立派な意見を言えることではないということ。「自分はこう感じた」「自分はこう考える」という小さな声を出す練習を、日常の中で何度も繰り返していくこと。それが主体性の土台になっていくのだと、フィンランドの教育を研究する中で何度も目の当たりにしてきました。
翻って日本では、その練習の機会自体がとても少ないように感じます。だからこそ「自分の正解がない」のは、文化や能力の問題ではなく、単にトレーニングの機会がなかっただけなのだと思うのです。
自分の答えを出すトレーニング

わたしが言いたいことはなにか?
つまり、自分の中の正解や意思を持つ必要性は、AIが発達した今だからの話ではないということです。
自分の答えを出すトレーニングと言うとハードに聞こえるかもしれません。でも、自分を知り、自分を満たすものは何か、自分が意思を持つとはどういうことなのか、そういった土台がとても大事だと思うんです。
それは「自己優先する」ということです。これは日本人も個人主義になってきたとかそういう話ではありません。
仏教の自利利他という考え方にもあるように、「まず自分を満たす」は決して悪いことではないのです。「わたし」の豊かで幸せな生き方を描く場をつくりたい——そんな思いでエラマプロジェクトを誕生させ、フィンランドに根づく「自分の人生を自分で描く」という文化や習慣を日本にも広めるため、活動を続けてきました。
AIを利用する場面であれば、出てきた回答をちょっと時間をかけて吟味してみると、スピード感に流されて自分を失うような感覚からは離れられる気がします。
同じように、人とのやりとりにおいても自分の声を聴く時間をちゃんと確保することを意識してみるのがいいと思うんです。
例えば、メッセージのやりとりでどう返信しようか考える時間を持つように、リアルの会話においても相手のペースに乗せられたスピードで反応するのではなく、一呼吸置いてアウトプットしてみる。そういう小さな積み重ねも自分自身を、そして自分の考えを大切にする一歩になるはずです。
あなたには「主体性」がありますか?
「主体性」は、今回の記事でわたしが伝えたいテーマ。子どもであろうと、大人であろうと、主体性を身に着けていかなければ、予測不可能な現代においてあまりにも無防備だと思うのです。
そして先ほどお話ししたフィンランドの教育現場には、その「主体性」を育てるヒントがたくさん詰まっています。
エラマプロジェクトでは2026年3月25日(水)の夜に「未来を創る『主体性』の育て方」というテーマでオンライン講座を開催します。

当日は、フィンランドから教育のエキスパートであるTuovi Ronkainen(トゥオヴィ・ロンカイネン)氏をゲストにお迎えします!
彼女はフィンランドの教育現場と行政、その両面から「主体性(Agency)」を追求し続ける教育分野の第一人者。
もしついつい周りの正解を求めがちであったり、自分の中に軸がないと感じていたりすることがあれば、この講座で一緒に「主体性」について考えてみませんか?
Tuoviさんは英語でお話されますが、石原が通訳と解説をおこないますのでご心配なく!
詳細はこちらからご覧いただけます。
今回都合が合わない方も、エラマプロジェクトのSNSで情報を発信していますのでぜひチェックしてくださいね。
周囲のいろいろな声やAIの回答がすごいスピードで流れてくる現代。そのスピードのなかで、エラマプロジェクトが少しでもあなたが自分の声に耳を傾けるヒントをお伝えできていたら嬉しいです。
By 石原侑美(エラマプロジェクト代表)
Interview & Text by nakagawa momo(フリーライター)
こんにちは、pieni(ピエニ)です。
最近、私はとても気になる考え方を知りました。
それは「JOMO(ジョーモ)」というもの。
みなさんはご存じですか?
JOMO(ジョーモ)とは「Joy of Missing Out」の略で、直訳すると「取り残される喜び」。
SNSやコミュニティと常につながっていなければ不安になる状態から、少し距離を置くこと。そして目の前の時間や、自分自身を大切にすることから、静かな幸福を感じること。
それが、JOMO(ジョーモ)という考え方です。
これを知ったとき、「あ!最近体験したことは、まさにJOMOじゃん!」と感じました。
情報があふれかえる毎日、疲弊した私を回復へ導いてくれたもの、そこで見つけたものを「JOMO(ジョーモ)体験」として振り返ってみます。
「忘れられるのでは」という恐怖

私は、仕事やライフワークとして、Webライター、地域情報の発信SNS運営、北欧雑貨の販売を行っています。
いろんな顔を持っていますが、どの活動にも欠かせないのが「情報を見る・得る・発信する」ということ。
子どものころからパソコンが好きで、学生時代から流行り始めたSNSも好き。
WebやSNSの世界で困ることはありませんでした。
けれど、ときどき疲れる…。
見る、得るということより「こんなこと発信していいのかな…」と不安になる瞬間があります。そうなると、情報の中に身を置く自分に違和感を感じることも。
ただ、その違和感は、いつもなら1、2週間で薄れていました。
けれど、昨年末から今年にかけては、ものすごく辛いと感じるようになってしまったのです。
仕事が忙しかったこと、人間関係や子育てで悩みを抱えていたことなど、さまざまな不安が重なり、
「とにかくSNSから離れたい」
「人に出会いたくない」
「外出したくない」
「家族とも話したくない」
「一人になりたい」…そんな気持ちに襲われました。
「じゃあ休んだらいいのでは?」
そう思われるかもしれません。
でも、同時に襲ってきた、もう一つの感情がありました。
それは「忘れ去られるのではないか」という恐怖。
SNSは、定期的に発信していなければ、目にしてもらえる機会が減ります。
更新が止まればフォローも外されてしまうかも。
情報を得ないと、次の発信もできない…ついていけなくなるんじゃないか。
「あぁ…発信者としては致命的」そう思っていました。
SNSだけではありません。
年末年始、挨拶など人と出会う機会も増える時期に、引きこもることは許される?
ダメな妻、ダメな母親と思われるのでは…
このような葛藤がありました。
この状態は「JOMO(ジョーモ)」の反対語「FOMO(フォーモ)」というんだそうです。
FOMO(フォーモ)は「Fear Of Missing Out」の略で、直訳すると「取り残されることへの恐れ」。情報や人とつながっていないと置いていかれる、成功のチャンスを逃してしまう、関係が保てなくなるなど恐怖を感じること。
まさに、私はこの時「FOMO(フォーモ)」にも陥っていました。
なにも発信せず、気にすることなく休みたい。
なのに「休むことが恐怖…」という状態でもあったんです。
そんな相反する感情の中で過ごしていたら、体が先に限界を迎えました。
熱が出て、強制シャットダウン。年末年始は、ゆっくり休むことになりました。
しかし、しばらく休んでも調子が戻ってこない。
再び「このままでは忘れられる、積み重ねてきたものが終わってしまう」
そんな恐怖がやってきました。
そんなとき、事態を変化させる2つの言葉をもらったんです。
ひとつは、お世話になっているカウンセラーさんから
「年齢にともなって、体も変化してくるし、やり方を変える時が来たんじゃないかな」
もう一つは、このメディアのライター仲間から
「きっと在り方は変わらなくても、やり方は変わっていいと、自分に”よし”としてあげることが大切なんだろうね」
これらの言葉に背中を押してもらい「もしかしたら、変化するときなのかもしれない。
今は、休もう。情報や人との関わりを、いったん置いてみよう」。
そう決意しました。
何でも許す場をつくってみた

調整できる仕事や誘いは、しばらく待ってもらったり、お断りしたりしました。
しかし「こんなことをしていていいのだろうか」という不安がしぶとく湧いてきます。
今回はこの感情に蓋をかぶせると、なにも変わらないと感じたので、試してみたことがあります。
それは簡単なノートデコとゆるいジャーナリング。
ノートにかわいいと感じる紙をパンチで切り抜いて、それを貼るだけ。
ノートにときめくと感じるシールを張って、今その時の気持ちを書き出すだけ。
それだけのこと。
始めたときは、どす黒い感情しかでてきませんでした。自分の中では「Deathノート」と名付けていました。
けれど、「Death(デス)っている」暗い気持ちでさえ、なんでも書いていいと許可しました。
感情を書くのがつらくなったら「ゆるめる・ゆるめる」と書く。
さらに、毎日つづかなかったとしても問題ない。
うまく書けなくてもいい。
自分のためだけにこのノートをやっている。
「何をしても許す場」をノートに作ったんです。
ゆるっと続けるうちに、ある日「このノートめっちゃかわいい」という、不思議な満足感が湧いてきました。
そこから、靄がスッと引いていくように落ち着き、ごく自然にやりたいことを書き始めている自分に出会いました。
そして
「自分の在り方ってなんだろう」
「私の原動力や、発信したいと思う言葉は、どんな思想からあふれ出しているんだろう」
このような深いところまで考えることができました。
発見した在り方については、ここで書き出すと壮大な物語になってしまうので、また別の機会にぜひ書かせていただきたいのですが、こんなことを強く感じました。
「SNSなどの情報や、人から離れたとしても、私は私である」
「生まれてから今日まで培ってきた価値観や、心の奥底にある精神性は、なにひとつ否定されるものではないし、だれも否定できない」
「迷子になっていたり、忘れていただけで、落ち着いて見渡すことができれば、一番大切な”核”に戻れる」
この「核」(自分の軸や中心、在り方、精神性と呼ばれるものだと思っています)に触れたとき、自然と涙が出ました。
深くて、静かで、温かい感覚。
どっしりとした安心感があり、とても嬉しい気持ちになりました。
外の情報や評価ではなく、自分の内側にちゃんと戻れた、という感覚でした。
これこそが、私にとっての「JOMO(ジョーモ)」体験だったのです。
取り残される恐怖が消えたわけではありませんでした。
でも、そのたびに否定せず、「怖いよね」と受け止め、無理に追い払おうとせずに過ごしてきました。
そうやって、自分を大切にする時間を重ねた結果、自分の中心に帰れる安心や、喜びを感じられるようになったのだと思います。
休んだからこそ見つかったこと

落ち着いた今、発信したいと思う言葉には、「深さ」や「重み」が加わったと感じています。
誰かにそう言ってもらったわけではありません。
評価されたわけでも、数字で証明されたわけでもありません。
それでも、これは私の中で「確信」になっています。
以前は、もっと発信しなきゃ。頻度を上げなきゃ。フォロワーを増やさなきゃ。
そんな思いにどこか追われていました。
でも今は違います。
数や頻度よりも、ひとつひとつの発信に温度を込めたい。
自分が本当に感じたこと、考えたことを、無理のないかたちで言葉にする。
それがにじみ出たとき、きっと、もっと喜びを感じられる。
そんな考え方に変わりました。
もしかすると、また見捨てられる恐怖に襲われることがあるかもしれません。
でも、そのときは今回と同じように、変化や新しい気づきにつながる「きっかけ」だと受け止められそうです。
離れて、休んで、自分に集中してみる。
そうすれば、また「核」に戻れる。思い出せる。
さらにその先は、新しい進化につながっているかも。
私にとって、そう強く感じられる体験でした。
立ち止まることは、消えることじゃない

やっていたことを、いったん置くこと。
休むこと。
一人になること。
情報から離れること。
それは、怖いことかもしれません。
特につながりを大切にしてきた人ほど、その怖さは大きいのではないかと思います。
でも私は、その時間は「止まる時間」ではなく、自分の中心に帰る時間なのだと感じています。
回復し、静かに深まっていくための時間でもあります。
少しイメージしてみてください。
溺れそうなとき、必死に手足を動かすと、かえって沈んでしまうことがあります。
でも力を抜けば、体は自然に浮いてくる。
迷いや怖さも、少し似ているのかもしれません。
抗い続けるよりも、一度受け止めてみることで、見えるものが変わることがあります。
浮かび上がったときに見える景色は、思っていたよりも穏やかです。
そしてその静かな時間の中でこそ、本当に大切にしたいものの輪郭が、少しずつ見えてくるかも。
少し疲れているなら、立ち止まってみるのも一つの選択だと思います。
離れても、休んでも、存在そのものが消えることはありません。
たとえ誰かに見られていなくても、評価されていなくても、存在してきた事実は変わりません。
私は、こう思います。
「小さくても、きっと何かや誰かに影響を与えている。それは波紋のように広がっていく」
だから、どんな状態であっても、今ここに生きているということ自体が尊い。
ちょっと疲れちゃったな…というあなたへ、今ここでエールを送ります。
Text by pieni(ピエニ)(丹波フィンランド大使)
こんにちは!majakka(マヤッカ:灯台)です。
わたしは数年前から自分の現状に物足りなさを感じるようになりました。モヤモヤと悩みながら過ごしているときに「幸せ」「自分らしさ」「好きなこと」「やりたいこと」などのキーワード目に飛び込むようになり、SNSや本、ドラマ、友人から気づきを得て「ウェルビーイング」という言葉に出会いました。
ウェルビーイングとは、世界保健機関(WHO)では「身体的・精神的・社会的に良好な状態」とされています。「心身共に健やかな状態をわかっていて、そこに向かって歩んでいる状態」も大切だと、このメディアの運営母体であるエラマプロジェクト代表の石原侑美さんから気づきをいただいてから、わたしは自分なりの「ウェルビーイング」を探求しています。
「もっと自分らしく生きていけたら」と考えていたときに出会った本
色々なことを経験し、気づきを得ていくなかで自分にとっての「ウェルビーイング」は、「自分らしく好きなことに思いっきりチャレンジすること」かなと思っていました。そんなとき、たまたまおもしろそうなセミナーを見つけて参加しました。
主催者は川原卓巳さんです。あの「人生がときめく片づけの魔法」でお馴染みのこんまりさんの旦那さまです。
卓巳さんはとっても明るくて超ポジティブ!自分らしく好きなことで生きていくことが人生を輝かせること、でもただ楽しいだけでなく覚悟が必要であることも気づかせてくれました。
こんまりさんの「ときめき」という言葉はわたしもとても大切にしていて、そんなこんまりさんをプロデュースもされていることを知ったこともあり、もっと卓巳さんの想いを知りたくなりました。
そうして出会った、川原卓巳さんの著書「人生は、捨て。」を読んで得た気づきをお話します。
「モノ」を捨てることで自分の「好き」がわかる!?

卓巳さんは日常生活ではほとんどストレスを感じずに過ごしているそうです!
ストレスフルなわたしにとっては「そんなことある!?でもそう感じられたら幸せだなぁ」と読み進めていくことにわくわくしました。
本のなかでは色々な「捨てる」技術を教えてくれます。
こんまりさんのことをプロデュースされていらっしゃるので「モノ」を捨てる技術がとてもわかりやすいです。
色々な捨てる技術について、その準備や時間、手順などを書かれているのですが、そのなかでモノを捨てるときに一つひとつ手にとって「ときめき」を感じるかどうかで捨てるかどうかを判断するという作業を少し実践してみました。
モノの整理は、写真や思い出の品が出てくると、その思い出に浸ってしまいなかなか進まず時間がかかりますよね。
一つひとつ手にとって「ときめき」を感じることにも少し時間がかかりました。
でもこの作業は単なる「捨てる」ことではなく、自身の「ときめきセンサー」を養うこと。自分の好きなことが見つけやすくなり、自分らしく生きられることにつながるそうです。
なるほど!と思いました。自分の「好き」を察知する力がアップして、身の回りに「好き」なモノがたくさんあれば「幸福感」が高まり、自分らしくいられそうですよね!
そして、捨てる決断をした「モノ」への感謝も忘れずに手放していく。こういったことも温かい気持ちになります。
「人間関係」も捨てる!?

「モノにそれぞれの役割があるように、人間関係にもそのときどきの役割がある」
卓巳さんはこう書かれています。
わかるけど、モノと人は違うんじゃないかなと思いながら読み進めました。
長い人生のなかで、人はたくさんの人と出会います。自分、そして相手のライフステージも変化していきます。とても気の合う仲間ともその変化により関係性は変わっていきます。
大人になり仕事が絡んでくると「この人は自分の利益になるのか」など、心でなく頭のなかで人間関係を作ろうとしてしまうことがあるかもしれません。
わたしはカフェチェーン店の店長をしているのですが、昔、アルバイトさんが将来のことを悩んでいて、新しいことにチャレンジするか、このままアルバイトを続けるかを相談してくれた時に、「今この子に辞められたらお店が回らなくなるからなんとしても続けてもらわなくちゃ」と、必死に新しくチャレンジすることの難しさを話して引き留めたことがありました。
今思うと、なんてひどいことをしたんだろうと反省しています…。自分だけが楽をしたいための関係を継続しようとしていました。
当時、彼女はお店にとどまってくれましたが、数年後に自分の夢にチャレンジしました。わたしが言うのもおこがましいのですがすごいな!と尊敬しています。
自分の利益だけを考えた関係は相手にとっても「自分らしく」生きることを難しくさせてしまいますね。
また、仕事での人間関係に疲れてしまったときに、わたしは幼なじみや高校の同級生と会うと一瞬で純粋な気持ちに戻れます。
日頃のストレスが癒されます。
でも、長い間仲良くしてきた人でもちょっとした違和感を感じることもありますよね。
また、慣れ親しんだ関係に甘んじずに自分を、そして相手と共に成長できるような関係も大切です。
「人間関係」も自分と向き合い、相手のことを想い、「ときめき」を感じるかを心で判断すると温かい気持ちで「自分らしく」人生を歩んでいけそうです。
手放すときには「感謝の気持ち」を持つこと。
やっぱりとっても大切ですね。
「自分」をも捨てることで自分らしさを表現できる

「モノ」「人間関係」の他、お金、子どもへの期待、都会など、色々捨てるべきことが書かれていましたが、「自分」を捨てるということにわたしは大きな気づきを得ました。
「自分らしい状態とは、自分に向かう気を捨てられている状態」
わたしの頭のなかに「??」が浮かびました。
この「自分に向かう気」とは、「自分ってどういう人間なんだろう、自分は人にどう思われているのかな」など、ベクトルが自分に向きすぎていることを言うそうです。
何かに夢中になったり、人のために力を注いでいる時は、自分を気にしていなくて仏教で言う「無我」の状態。
これが本来の自分の良さが出ている「自分らしい」状態だそうです。
なるほど〜!と腑に落ちました。
わたしも好きなことに夢中になっていたり、困っている人に何かできることはないかと考えたり、誰かへのプレゼントを探すときはかなり没頭します。
みなさんも何かに没頭することはありますか?
また「承認欲求」を手放すこと。
この「承認欲求」は自分が「こうありたい」と思う張り合いになるため、プラスの効果もあります。
しかし、それが大きすぎるとどうしても他者からの判断基準になり、自分の人生の満足度を他者にゆだねることになってしまいます。
確かに!
思い返してみると自分で目標を考えても、人からの評価が良いにつけ悪いにつけ思うように得られないと、それに引っ張られてネガティブな方へ進んでいってしまうことがありました。
こんなネガティブ思考をプラスにしていくのは、やはり「人の役に立つこと」を実践していくこと!
誰かに「ありがとう」と言われたら嬉しいですよね!自分も幸せな気持ちになり、満たされます。
自分が人からどう思われているかという気持ちや他者からの評価を手放し、夢中になれることにチャレンジする。誰かのために小さなことから行動を起こす。それが、「自分に向かう気」を捨てることにつながっていると感じました。
わたしも「自分に向かう気」を手放せるように、笑顔で過ごしたり、道を譲り合ったり、公共の場所は(家でも!)次の人が気持ちよく過ごせるようにさっとキレイにしたり、小さなことから始めています。
感謝の気持ちを忘れず、「ときめき」を大切に
「捨てる」ということは自分にとっての「ときめき」がより明確になるという気づきがありました。
これは、人生をより「自分らしく」生きていくためにとっても大切なことだとわたしは感じています。
そして、ただ「捨てる」のではなく、大切なのは一つひとつの出会いに感謝することです。そうすれば、これからも共に歩んでいくモノや人に対してもお互いに「自分らしく」いられて、誰もが心地よく過ごせる社会になりそうです。
「人生は、捨て。」ここには書ききれていない「捨てる」技術がたくさん詰まっています!
みなさんお一人おひとりに響く「自分らしく」生きていく方法を見つけてみてください!!
Text by majakka(ウェルビーイング探求人)
「私はなんでもっと人間関係をうまくできないんだろう」
そう言ってひとり泣いた夜がありました。
フリーランスの人事になって2年目。次の新しい道にふみだす前に、2月のフィンランドに2週間滞在しました。
マイナス20℃の広い世界で考えたのは、この2年間で出会い、そして別れてきた人たちのことです。終わった仕事のクライアントやチームメンバー、研修で会ってそれきりになった人、あの時に傷つけたかもしれない家族のこと。
私たちは日々だれかと関わって生きて、傷ついたり怒ったり悲しんだり、心が麻痺して動かなくなったりしています。「もうAIとだけ話したい」「人間は裏切るから嫌」。そんなことを言われたこともありました。
もう人間関係の正解がわからなくなって、それでも人事としてだれかのことを応援したくて。答えのないままにフィンランドに飛んだのです。
そこで出会ったのは新しい人間関係のヒント。良い悪いの白黒だけでは測れない、これからの時代の”色”でした。
あなたにもひとり泣いた夜はあったでしょうか。
人に傷つきながらも人といることを諦めていない。
そんなあなたにこの記事を贈ります。

2月のフィンランドは白でも黒でもない
人生5回目のフィンランドですが冬に行くのははじめてでした。12月のクリスマスは華やかだけれど、基本的に冬は暗く寒く耐える時期だと聞いていました。
私はすっかりおびえてしまって、2ヶ月前から準備をして人生最高額の防寒アウターを買ったほどです。日照時間が短くて気分が落ちこみやすいと知り、対策としてビタミンDサプリやインスタント味噌汁を買って、Netflix入会までしました。落ち込む準備は万全です。
一方で、スキー場のような雪で白銀に輝く北欧の自然もまた楽しみでした。

(インスタント味噌汁・だしのもと・ほうじ茶ティーバッグのセット。日本食が恋しくなったとき用にジップロックに詰めていきました。)
今回の旅では4つの都市を巡りました。首都ヘルシンキ、成長著しいオウル、砕氷船が有名なケミ、フィンランドで3番目に古い中世都市ラウマ。
この中で一番北にあるのはケミで、サンタクロースのいるロヴァニエミとほぼ同じ緯度です。
飛行機で首都ヘルシンキに降り立ちました。ヘルシンキはフィンランドの中でもっとも都会ですが、大きなテーマパークがあるわけではありません。
ヘルシンキの夜の闇で光るのは、道ゆく人に向けた窓辺の飾りや、カフェでおしゃべりする人たちのランプ、大きなショーウィンドウの中の小さな椅子。
フィンランドにくるといつも「日常の中のささやかな喜び」を味わいにきている気分になります。テーマパークのような想像を超える刺激はないけれど、ただ、忘れていた沁みてくるものがある街です。

(窓辺にカーテンがない家も多いヘルシンキ。家の灯が寒空の下を歩く人を優しく照らしてくれます。)
さあ、ヘルシンキから北上していくと列車の窓は雪景色ばかり。北に行くほど太陽がのぼりきらず、9時ごろに地平線から出てきた太陽は、ずっと日暮れかのようにぼんやりと空を照らして17時ごろにまた沈みます。
そのため、北にあるオウルやケミに着いたとき、私は雪で真っ白な世界か日が出ない真っ暗な闇を想像していました。
でも、そこにあったのは暗く深い黒でも、光輝く白銀の白でもありませんでした。
白黒どちらでもない、”ブルーグレー”な世界だったのです。
臆病な私の歩きかたはこうだった

フィンランドの北部はあまりの寒さで雪がとけません。積もった雪はレフ板のように日光を反射します。すると水平線ギリギリのほのかな日光でも、あたりを照らし出して真っ暗ではなくなります。でも、全部を照らし出すほど明るくはありません。
すると、暗いのか明るいのか黒いのか白いのかわからない、青みがかった視界になります。今まで生きてきてはじめて知りました。白と黒の間はグレーじゃないのです。

(夕方16時のケミの街。日が沈む前にも関わらず、まるで夜のようにイルミネーションがまたたいています。)
さらにびっくりしたのは、このブルーグレーな視界がなんとも心を落ち着かせてくれることでした。
私は毎日10時から15時まで街中を散歩していました。フィンランド人の友人と博物館に行ったり、カフェで家計簿をつけたりもしました。

(ケミ駅のプラットフォームにあるCafe Hertta。学生さんや旅行客、地元の女性たちのおしゃべりでにぎやかでした。)
外を歩いているとき、ふと気づくと自分の頭の中がとてもシンプルなのです。
「お腹へったな」「屋根のつららがすごいな」「寒いけどこの靴あったかいな」、それくらいしか考えていません。
日本にいたときには「次はこの段取りをしておかないと」「返信してないからあの人怒ってないかな…でも気が進まないな…」と同時にいろいろ考えていました。いえ、考えていたというよりも、人間関係にまで気を張って嫌になったり腰が重くなっていました。
フィンランドに来て私の性格が劇的に変わったのでしょうか?
そうではありません。このブルーグレーの視界が、私に余計なことを考えないですむようにしてくれていたのです。

(昼の14時のケミはうっすらと太陽が照っていました。凍った湖の上を歩いていきます。車や自転車の跡についていったり、まだだれも歩いていない新雪に踏み出してみたり。)
日本の都会は夜でも明るくて昼間のようです。ただ、私は明るいところだと人の目が気になる性格なんです。50メートル先の人に変に思われないように姿勢を正して歩こうとしたり、すれ違う人のささやき声や表情が気になったり。
一方で、逆に暗い夜道でもビクビクしています。街灯がぼんやりあるような道では、人がいるのかいないのか見えないのが怖いです。人がいたらいたで、どんな背格好なのかどんな表情なのかも近づかないとわからないのでずっと緊張しています。
明るくても暗くても、白でも黒でも、どちらの視界でも周りの人を意識せずにはいられませんでした。
でも、ブルーグレーの視界は不思議です。50メートル先からくる人は、背格好やニット帽の色はなんとなく見えますが性別や年齢はよくわかりません。すれ違うくらい近くなっても、その表情は青みがかったグレーの向こうではっきり見えなくて。おたがいになんとなく道を譲って端によりながらすれ違っていきます。
きっと相手からも私がどんな人かはっきり見えないことでしょう。ブルーグレーの視界は、人の目を物理的にぼやかしてくれて「はっきり見えない安心感」をくれました。
相手の目線を気にしなくていいからこそ、私は人間関係に気を張らないでリラックスして、シンプルに自分に没頭していられたのです。
明暗のはっきりした日々に「あいまいさ」を

(比較的明るい街でも建物のかげはブルーグレー。わざわざ日陰になる道を選んで散歩するようになりました。)
考えてみると、この「はっきり見えない安心感」は人間関係にも言えるのではないでしょうか。
明るい照明のもとでは、私はいつも気を張って何かの役割を果たしているように思います。
電車の蛍光灯の下では学生や社会人として。会社のパソコンのブルーライトではナントカ部署のナントカさん。家のダイニングテーブルの灯の下ではお父さんやお母さんや家族の一員。
周りが見えてしまうと私はがんばってしまいます。同僚や近所の目が気になったり、「あれもこれもしてあげなきゃ」とやれるだけやろうとします。
明るくおたがいがよく見える環境は、「何かをはっきり果たしなさい」というプレッシャーになっているようにも思います。
とはいえ、いきなり「暗い中でひとりの時間をとりましょう」というのも私には難しいんです。
フィンランドの人たちは暗さにとても慣れています。フィンランド在住20年の方いわく、「フィンランドの人たちは、冬は暗い暗いっていうわりに照明を明るくしないの。夏の明るさが特別なだけで、普段は暗いのが落ちつくんじゃないかな」とのこと。

(オウルの朝9時。外は明るいのに、ホテルのレストランでは照明を落としてキャンドルを灯します。)
でも、今の日本の明るさに慣れた私にとっては暗すぎるのも不安になります。人間関係でも、周りが見えないと寂しさを感じたり、自分はどう思われているだろうかと気になったり。いきなり暗い中でひとりになることも、また落ちつかないのです。
だから「ブルーグレーのあいまいさ」が好きです。
おたがいに全部は見えないけれどなんとなくは見えていて、はっきり見えないことに安心できる。そんな白黒つけない人間関係もあっていいのだと思います。それは、人のことも気にかけながらも気を張らないでいい、相手も自分も大切にできる”ブルーグレーな関係性”です。
あなたの夜明けはブルーグレーな時間
あなたは今、あなたにとって心地よい関係性の中にいますか?
もしかしたら、傷ついて怒っている人もいるかもしれません。期待に応えようとがんばりすぎたり、突然休んで部屋の暗さの中でひとりになりたい日もあるかもしれません。
それでも毎日がんばっているあなたに大きな拍手を贈りたいです。
そして、もし相手のことを意識しすぎている今の関係を変えたいなら、相手のことをあいまいにする時間を作ってみるのはどうでしょう。
気にしないようにと意識するだけだと余計に気になったりしますよね。だから、本当に視界があいまいになって、人の目が気にならなくなる時間に散歩にでてみませんか。
おすすめは夜明け前か日暮れごろです。まったく同じ色ではないけれど、まだ日がのぼる夜明け前、空が黄色くなっていない薄ぼんやりした時間はとても似ています。
15分くらいぼんやり歩きましょう。
周りに目をこらしても、こらさなくてもいいのです。気になるものを見たらいいし、見たいものは自分で選べます。「あの人が自分をどう思ってるか」を考えたり、全てを白日の下にさらさなくてもいい時間です。シンプルになったあなたの心には何が思い浮かぶでしょうか。

(中世都市ラウルの朝方8時。約200〜300年前の建物がのこる旧市街にはカラフルな家が立ち並びます。ブルーグレーに塗られた建物もちらほら。)
人間関係は、周りが見えすぎてぶつかることもあれば、見えなくて孤立したりとさまざまです。もちろん元気なときは思いっきり本音でぶつかるのもいいし、疲れすぎたらシャットダウンして暗闇でひとりになりにいきましょう。
けれど、いつもその白黒どちらかでいる必要はなくて、なんだったら普段の8割はその境目にあるブルーグレーな関係性でもいいんじゃないでしょうか。おたがいにちょっと目を細めてあいまいにして、相手も自分も大事にしながらゆるやかにつながっていきませんか。
人と関わっていたらひとりで泣くような夜もあるけれど。それでも、私に元気をくれるのもまた人です。
人に傷つきながらも、人といることを諦めたくないからこそ、時にはブルーグレーが必要なのです。
ブルーグレーは私をだれかと一緒に生きられるようにしてくれる色。
私をあなたと生きられるようにしてくれる色。
あなたの夜明けにブルーグレーの贈りものを。

text by ひらふく
こんにちは!いけかよです。
あなたは、誰かに対して「この人めんどくさいな」って思ったことはありますか?
「ない」と言う人は、おそらくそんなにいないんじゃないかと思います。
そしてあなたは自分自身をめんどくさいやつだなと思ったことはありますか?
この「めんどくさい」って、一体なんなんでしょう?
今回は、この「人のめんどくささ」について、いけかよの経験を交えつつお話してみたいと思います。
あなたはあなたと仲良しですか?
まず、「めんどくさい人」ってどんな人か。その要素を具体的に挙げるなら、以下のような特徴だと思います。
・承認欲求が強い
・こだわりが強い
・自己主張が強い
・話が長い
・空気が読めない
しつこい
とかでしょうか。
要素だけをピックアップするとあんまり好感は持てなさそうな感じですね。
でも、あなたの周りには、これらの要素をいくつか持っているのになぜか魅力的で人に好かれている人っていませんか?
そして、あなたのなかにもこれらの要素ってありませんか?
まったくないと言い切れる人は少ないんじゃないでしょうか。承認欲求やこだわりの強さなんて、誰しもが多かれ少なかれ持っていると思うのです。
では、あなたは「めんどくさい人」なのでしょうか?
そういうわけでもないと思うのです。多くの人は、日常生活に大きな不都合や不具合はなく、あったとしても自分を受け入れてもらえる安心安全な関係はきっと確保されていると思うのです。
ただ、他者があなたをどう思うか否かは、ここではあまり重要ではないと思っています。
あなたがめんどくさくっても、それを理解し、受け入れてもらえる他者との関係性はきっと作られているからです(それがたった1人でも、5000人でもね)。
重要なのは、「あなたとあなたの関係性」です。
もしあなたがすごく生きづらいとか、苦しいとか、消えてしまいたいとか思っているとしたら、きっとそれは「めんどくささをこじらせている」状態。
つまり「あなたとあなたの関係性」が悪くなっている状態かもしれません。
めんどくささをこじらせると、いろんな方面で不具合が発生します。だから、自分とはできるだけ仲良くなったほうがいい。それってどういうことか?続けていきます。
どんな警察を飼っている?
ここで少しわたしの話をさせてください。
かつてのいけかよは、明確に超めんどくさい奴でした。
自分のことは大嫌いでした。めちゃめちゃこじらせていました。
でも、人には好かれたくて、嫌われることがとっても怖かったんです。
そして、人に好かれるためにいつもいつも「いい人」「ごきげんな人」でいようとして、愚痴や文句や弱音や不安や怒りなどの気持ちは見て見ぬふり、もしくは薄っぺらいポジティブさで塗りつぶそうとしていました。
結果、承認欲求は膨れ上がり、自己否定と自己憐憫がいっぱいで、人に愛されたいくせに愛されたいなんて思ってはいけないとかめんどくさい人だと思われちゃいけないとか、人の悪口を言っちゃいけないとか人を罵倒してはいけない、思ってすらいけないとか、もう心の中は大混乱でした。
そして人の役に立たなければ、人より勝っていなければ、人に貢献・奉仕しなければ自分なんて生きている意味がないとすら思っていました。
そんな気持ちは当然苦しすぎます。そこでいけかよは、そんな自分のネガティブな気持ちを封印するようになりました。
つまり、自分の正直な気持ちに蓋をするということです。
蓋をして、気持ちも行動も、ガチガチに縛るような状況になってしまいました。
すると、「好き」とか「楽しい」とかのポジティブな気持ちもわからなくなってしまったのです。自分が何を好きなのか、何に喜びを感じるのか、自分はどうしたいのか。これがわからないというのは、人生においてけっこうつらいことです。同じような苦しみを抱えたことがある人は多いんじゃないでしょうか。
人間の感情というのはポジティブなものだけ感じてネガティブなものは封印するなんて都合のいいことはできないんですよね。もちろん、ずっと愚痴や文句や怒りばかり発しつづけるのは自分にとっても他人にとっても良くないけど、でも、それらがあるという事実を無視することは、人間としてとっても不自然なことでもあるのです。
ネガティブな感情というのは、そりゃー自分の弱さやズルさや恥っていうのを認めることになるからかなり苦しいことではあるんだけど、それをしっかり感じることができないと、喜びとか愛とか自分がはこれが好きだっていう気持ちもわからなくなってしまう。
これがいわゆる「生きづらさ」というものを生む原因のひとつだといけかよは思っています。
ていうか、わたし自身が自分の感情に蓋をすることで、ものすごく生きづらかったんです。
あなたに対して「ネガティブ禁止。ポジティブのみ許す。それができない奴はだめなやつ」と言ってくる人がいたらどう思いますか?かなりきつくないですか?
かつてのいけかよは、自分のなかにこんな「ネガティブ警察」を飼って、自分をいじめていたんです。
もしかして、今も飼ってるかもしれない、と思う方もおられるかもしれませんね。
いけかよはこのネガティブ警察のおかげで心身ともにまあまあ苦しんだので、こいつを弱めるべく、自分の感情をしっかり認識して認めるということをこつこつやってきたんです。
おかげで、いまはだいぶ大人しくなって、ネガティブ警察は「ネガティブ警察ごっこをしている小学生」くらいになりました。
自分もネガティブ警察飼ってる、という方もおられるでしょうか。
人によっては「いい人警察」だったり「シゴデキ警察」だったり「いい親警察」だったり。なんらかの、あなたの言動や感情を否定してくる存在がいるかもしれません。
こんな存在がいるとしたら、それは「あなたがあなたをいじめている状態」と言えます。
これは、あなたがあなたとの関係性がうまくいっていないということ。
こうなってくると、自分だけなく他者をも取り締まろうとしてしまうのです。これがいわゆる「めんどくさい人」です。
自分のなかの警察に自分を取り締まられているあなたはきっとすごく我慢をしているはず。自分が我慢しているのに、目の前の他人は自由に楽しそうにやっている。
それを目の当たりにして、あなたのなかの警察が暴れ出したとき、あなたは人に承認を求めたり、過剰な自己主張をしたり悲劇のヒロインになったりしてしまう。
きっともちろん、無意識だと思います。だからこそめんどくさい。それが「警察」の怖いところ。
自分を顧みても、そう思います。
ネガティブ感情はこわくない
いけかよは完全に自分のなかの警察が自分をおさえつけていたので、前述のようにスーパーめんどくさくてスーパー生きづらかった。
こんな経験から、紆余曲折はありましたが、苦しさに懲りたいけかよは「自分に正直である」ということをすごく大切にするようになりました。
今も自分のなかにある淀んだめんどくさい気持ちを、日頃からきちんと認識するようにしています。
ポジティブな感情よりも、むしろネガティブな感情のほうをきちんと認識するように意識しているんです。これらを抑えつけてきて苦しんだわけですから、ムカつくとかモヤモヤするとかすごく怒ってるとか恥ずかしいとか全然納得できてないとか嫌だ!とか。
もちろん時間はかかりました。自分の感情がわからなくなってしまった上に、ものすごい怒りと悲しみと劣等感と被害者意識を抱えていて、それを認めることすら怖すぎてできなかった。これは本当につらかったです。だから、セラピストやカウンセラーなど専門家の手を借りつつ、日々「練習」をしていました。自分の感情をしっかり認識する練習です。
日々の小さな内側の葛藤や内観を経て、昔に比べたらずいぶんと自分に正直になりました。
では、どうすれば自分に正直になれるのでしょう?
まずひとつめは「感じてはいけない感情なんてない」ということを知ることです。
前述のように、感情というのは欲しいものだけ受け入れていらないものはキャンセルする、なんて都合のいいことはできません。辛い感情はたしかに受け止めるのは苦しいけど、でも感情は単なる「反応」にすぎません。誰だって自分を否定されれば傷つくし怒るし悲しいです。でもそれは腕をつねったら痛い、ということと同じです。良いとか悪いとかじゃなく、身体反応なんですね。
あと「ネガティブなことを考えていたらネガティブなことが起こる」みたいな、思考のしくみにビクビクしている人もいるかもしれません。いけかよは完全にそうでした。
でも、そんなこと起きません!!!!!
そりゃーネガティブな感情に囚われ、四六時中それにこだわり続けて考え続けて人や社会を恨み続けていたらたしかに人生が上向きにはならないでしょう。でも、一瞬の感情=単なる身体反応で人生が決まるなんて怖すぎます。
大事なのはネガティブ感情を無視することではなくって、むしろ逆にしっかり認識して、適切に取り扱うことなんです。
身体でも痛む所があれば無視していたらとんでもない病になってた、みたいなことが起きますよね。心でも同じなんです。
それが、もうひとつの方法、「あきらめる」ということです。
あなたを認めることができるのはあなただけ
生きていれば嫌なことはいくらでもあります。
すごく人を恨んだり、怒ったり、ここには書けないような言葉で他者を罵倒したくなることだってあると思うんです。
そして何より、そんな自分のことを大嫌いになることもあると思うんです。
でも、そんな自分を認めてください。あきらめてください。
認めるって難しいかもしれないけど、ここで相田みつをの登場です。にんげんだもの。聖人君子じゃないもの。嫌なものは嫌なんだから、そこに怒り悲しみ苛立ちがあるのはしょうがない。でもそれを無理に「肯定」しなくていい。「認識する」だけでいいんです。
自分は今すごく怒ってるとかすごく認められたがってるとか、本当はすごく弱くてずるいとか。
そんなふうに、ネガティブ感情を俯瞰するもうひとりの自分を自分のなかに置くこと(メタ認知というやつですね)で、あなたは加害者にも被害者にもならなくて済むんです。
ここでいう被害者および加害者というのは、実際に危害を加える/加えられるということではなく、意識のあり方だと思ってください。
自分の感情を抑えつけている人は、少なからず加害者意識や被害者意識があります。そう、これがまさにあなたのなかにいる「警察」です。これが「めんどくさい人」を生んでしまうんですよね。
自分と仲良くなるためには、その意識から脱却しなければいけない。
でも人間ってそもそもそんなに美しい生き物じゃありません。
だからこそ同じ人間として、聖人君子じゃなくて弱かったりずるかったりする人の方にわたしたちは共感するんじゃないでしょうか。
人の共感を集める人ってつまり魅力的な人っていうことになるんじゃないでしょうか。
そう、あなたの中にあるめんどくささは、ちゃんと取り扱えばあなたの魅力になるんです。
それはつまり、「あなたのなかのめんどくささを受け入れる」ということです。
いけかよは承認欲求が強いし目立ちたがりだし人に好かれたいし嫌われることはすごく怖いし。
でもだからって自分が嫌いな人から好かれたらイヤだし、自分は話が長いくせに話が長い人は嫌いだし、自分だって面倒くさいのに面倒くさい人のことは嫌いなんです。
でも、だからなんだというのでしょう。
人間ってそういう矛盾だらけの生き物なんです。
いいとか悪いとかじゃなくて、そもそもそういうめんどくさい生き物なんです。
だったら別によくないですか?あなたのままで。
これが「あきらめる」ということです。
「あきらめる」のは「自分であること」を、です。自分を許して、自分の本当の気持ちを受容して、とことん自分を生きる、ということです。
あきらめることができれば、自分以外のものにならなくて済みます。
人は、もっとちゃんとしてなきゃとかもっとシゴデキじゃなきゃとかもっといい人じゃなきゃとか考えて、自分以外のものになろうとするからめんどくさくなる。つまり生きづらくなってしまうんだと思うんです。
自分であることを諦めるというのは、自分に正直になり、自分を受容するということです。
そしてそれは、あなたにしかできません。
あなたをすべてありのまま受容してくれるのは、あなただけなんです。他人に受容されるよりも、あなたがあなたを受容することがもっともパワフルで意味があることなんです。自分とは一生つきあっていかなければならないからです。
そしたら、自分のなかにあるめんどくささを自分で認めることができて、結果的にそのめんどくささは淀むことなく、昇華していきます。
他人に受容されるのは、それからです。
自分のめんどくささを素直に受け止めることができる人は、他人の面倒くささも受け止めることができます。人間とはそもそもめんどくさい生き物だということを知るからです。そして、自分にも他人にも正直になれる。
そんな人って魅力的なんじゃないでしょうか。
自分に対して正直であれば、他人に対して嘘をつく必要もなくなるんです。
AIにはつくれない「めんどくささ」
あなたのなかにある「めんどくささ」は、あなたの「個性」に過ぎません。
承認欲求が強いとかこだわりが強いとか自己主張が強いとかというのも、裏を返せば努力家でプロ意識が高くて華があるとも言えます。
人の性格って全て裏表です。良いも悪いもないんです。
だからこそ、人間というのは予定“不”調和で矛盾に満ちていて予測もジャッジもできない。AIには作り出せない、生身で血の通ったコミュニケーションは、あなたの「めんどくささ」から生まれるかもしれないのです。
だから、あなたはあなたのままで「あなた」を思い切り生きてほしいと思います。それが結果的に、世界を幸せにすると思うからです。
では、また!
おまけ:素敵にめんどくさいあなたこそ自分と向き合ってほしい
ここまで書いてきたように、自分のなかのめんどくささを「魅力」にしていくためには「自分と向き合う」ということが不可欠だと、いけかよは思っています。
今自分は何を感じているか?
これをキャッチするための行為こそが、自分と対話するということです。
そんな自己対話力は、 AIがなんでも作ってくれる今の時代にこそ重要性を増していると、現役のライターとして現場で感じていることです。
AIとうまく協業しながら、いかに自分がつくることの意味をもたらすか。
それを「言葉の体温を取り戻す」というテーマで、みなさんと一緒に考える場をご用意しました。
「言葉の体温」を取り戻す、対話的ライティング入門講座
きちんと自分自身に立ち返り、内観し、「書くこと」「考えること」についてじっくり浸れる90分です。
いけかよの感じる仕事現場でのAIのリアルなんかもお伝えしますので、AIが得意な人も苦手な人も、ぜひご参加ください。
開催予定は以下のとおり。両日とも同内容です。
お申し込み&詳細は以下よりご確認ください。
2月17日(火)20:00〜21:30
https://elama.be/workshop-event/taiwawriting202602/
3月7日(土)10:00-11:30
https://elama.be/workshop-event/taiwawriting202603/
みなさんのご参加お待ちしています!
こんにちは。エラマプロジェクトの和文化担当、橘茉里です。
私の本業は私立高校の国語教師ですが、「国語教師です」と自己紹介をすると、相手の方からこんな言葉をかけられることがよくあります。
「私、国語が苦手だったんです」
さらに、「登場人物の心情を答えなさい、という問題が苦手で」「模範解答を見ても、なぜそれが正解なのか分からなくて」という声をいただくことも多いです。
そう言われたとき、現役の国語教師として、どんな反応をするのがよいのでしょうか。
私は内心で、「うんうん、その気持ち分かる~」と共感してしまいます。というのも、私自身、模範解答に納得できないという思いを、生徒の頃に何度も抱いてきたからです。
だから私は、「国語が苦手だった」という人に対して、「もっとちゃんと勉強すればよかったのでは?」とは思わないんです。むしろ、その人を国語嫌いにしてしまった教え方や、問いの立て方のほうに、見直す余地があるのではないかと感じます。
個人的には、「国語が苦手だった」という言葉の裏には、「分からなかった」というよりも、「納得できなかった」という感覚が隠れていることが多いような気がしています。
そこで今回は、この「納得できなさ」について考えてみたいと思います。
なぜ「登場人物の感情」が腑に落ちなかったのか

「登場人物の心情を答えよ」という問題、あなたは得意でしたか?
物語文を読んで、登場人物の気持ちを問われる。けれど、本文をいくら読み返しても、心情がはっきり言葉で書かれているとは限りません。
そんなとき、「本文に書かれていないのに、どうして分かるのだろう」と疑問を抱いた人もいるのではないでしょうか。
登場人物の心情が明言されていない場合、彼らの言動や描写から心情を推測するしかないわけで、それはあくまで読み手の推測になります。その人物が本当にそう感じていたかどうかは、実は断定できません。そして本文で明言していないからこそ、模範解答と自分の解答にずれが起こりうるわけです。
教員となった今の立場から見れば、模範解答はあくまで「模範」であって、必ずしも唯一の答えではないと分かります。別解が成立する場合もあるのです。
けれど、生徒だった頃の私は、「模範解答=絶対的に正しいもの」だと受け取っていました。
そのため、自分の答えが模範解答と違ったとき、「なぜ私の感じたことは修正されなければならないのだろう」「なぜ私の感覚は間違いだとされなければならないのか」と、強い違和感を覚えていたのです。

今でも印象に残っている思い出があります。
ある物語文に、「ビー玉のような瞳」という表現が出てきました。私はそれを、「きらきらした美しい瞳」というイメージで読みました。子どもの頃の私にとって、ビー玉は光を集めるような美しい存在だったからです。
ところがその問題では、「ビー玉」は安っぽいものを表す表現として扱われていました。
本文に明示された内容を読み違えているのであれば、自分が間違っていると納得できます。けれどこの場合は、「ビー玉=価値のないもの」とは本文では明言されておらず、うろ覚えですが、恐らく文脈から「ビー玉=価値のないもの」と読むべきだったのです。
でも、私はそこで納得がいかなかった。
どうしてこの場面で「ビー玉=きらきらしたもの」と捉えたらダメなのか。そういう解釈も成り立つんじゃないかって、模範解答を受け入れがたかった。
子どもの頃の話なので、事実を歪曲している可能性はありますが、当時の私が感じた違和感や理不尽さは、紛れもなく本物でした。
こうしたエピソードをもとに振り返ってみると、子どもの私が国語の問題に違和感を抱いていたのは、文脈から感情を読み取ることそのものではなく、「この価値観だけが正しい」と、一つの正答に揃えられてしまうことだったのだと思います。
不正解になるということが、単なるミスではなく、「あなたの感じ方は間違っている」と告げられているように感じたからこそ、私は模範解答に強いもやもやを抱いていたのかもしれません。
国語の問題は「正解探し」ではなく「間違い探し」

教員として教材と向き合うようになってから、私は生徒時代とは違う視点で国語の問題を見るようになりました。
定期試験などの試験問題を作る際に重要なのは、「本文から読み取れるかどうか」という点です。
正答になるのは、本文中に書かれていること、あるいは本文の内容から無理なく導けるもの。一方、誤答は、本文には書かれていないことや、そこまで読み取る根拠が見当たらないものになります。
こうして整理してみると、国語の選択肢問題は、「正しい答えを当てるテスト」というよりも、「本文から外れているものを見抜くテスト」に近いのではないかと思います。
評論文の問題であれば、論理が明確なので、本文に書いてあることと、書いていないことの線引きもしやすいです。
けれど、物語文では事情が異なります。登場人物の心情は、必ずしも明言されていないからです。
授業中ならば、「あなたはそう読んだのですね」と受け止められる読みも、試験では○か×をつけなければなりません。
学校の試験では、多様な解釈を正解とするケースが昔より増えていると思います。それでも、模範解答に沿った解答を求める受験の仕組みが大きく変わらない限り、模範解答に違和感を覚える人は、きっとこれからも現れるのではないでしょうか。
国語の読解と「空気を読む」文化の関係
ここで、少し視点を広げてみます。
日本人のコミュニケーションには、「こういう場合、普通はこうするよね」といった暗黙の了解が数多くあります。
はっきりと言葉にされなくても、その場の状況や関係性から意味を読み取ることが求められる。こうした文化は、「ハイコンテクスト文化」と呼ばれています。
英語圏が言葉ではっきりと伝えるローコンテクスト文化であるのに対して、日本はハイコンテクスト文化が特徴です。
例えば、「もし都合がついたら参加します」と言われたら、この言葉はやんわりとした断り文句として読み取る必要があります(本当に参加するつもりのこともありますが)。
相手ははっきり言葉にしていないけれど、「この場面、この文脈ではこういう意味になる」ということを、私たちは自然と察しています。
また、「言わなくても通じる」といった感覚や、表情や間、これまでの関係性から相手の意図をくみ取ることも、ハイコンテクストなコミュニケーションの一つです。
そして、国語の物語文読解で行っていることも、実はこれとよく似ています。
本文に心情がはっきり描かれていなくても、しぐさや描写から人物の心情を推測していく作業は、まさにハイコンテクスト。
つまり、国語の読解とは、単に文章を正確に読む力だけでなく、「この場面では、普通どう感じるか」という暗黙の了解を読み取る練習でもあるのだと思うのです。
もしかしたら、子どもの頃からこうした形式の問題に触れてきたことも、我々の「空気を読む」能力が培われる要因の一つなのではないでしょうか。私はそんな気がしています。
「空気を読む文化」「ハイコンテクスト文化」自体は、私は日本人の誇るべき性質だと思っているので、国語の物語文読解が、もっと生徒に寄り添う形で進化していくことを願っています。
「分からなかった」自分を大切にしてほしい

「登場人物の気持ちが分からなかった」
もしそんな記憶を持っているなら、それはあなたが、いい加減に読んでいたからでも、能力が足りなかったからでもないと思います。
あなたが自分で感じたことを、自分の中でちゃんと大切にしていたからこそ、簡単に「正解」に乗れなかったのかもしれません。
あなたが国語の問題に感じた違和感や苦手意識は、あなたが自分の感性で、その物語を丁寧に読もうとしていた証なのではないでしょうか。
エラマプロジェクトでは、自分らしい豊かで幸せな生き方を探究しています。「自分らしさ」を大切にしているのは、正解の生き方を目指すのではなく、一人一人が自分の感性や価値観に沿って、幸せな生き方を見つけてほしいからです。
これまで、国語の読解問題が解けない自分を責めたことがあったとしたら、今日からはその感性にそっと丸をつけてみてください。
あなたはきっと、自分らしく物語と向き合ってきたのです。そのこと自体がすでに十分、豊かで価値があることなのだと、私は思っています。
Text by 橘茉里(和えらま共同代表/和の文化を五感で楽しむ講座主宰/国語教師/香司)
こんにちは。Kangasこと、ライフコーチの和田直子です。早いもので2026年に入り、もう一ヶ月が終わろうとしています。皆さん、いかがお過ごしでしょうか?
私は、年末年始に世間で盛り上がる(?)、一年の振り返りと新しい一年の計画を立てることが大好きなタイプの人間です(笑)。
とはいえ、計画通りにすべてこなせるわけでもないですし、計画を立てたときのモチベーションをキープし続けることも難しいタイプでもあります。共感していただける方、いらっしゃるでしょうか…?
普段はどうしても不足していることに目を向けがちなので、振り返りのときこそ出来ていることに目を向けて「よく頑張ったじゃん!」と自分を褒めて、新しい一年のモチベーションにします。
でも、そのモチベーションだけで計画を立てようものなら、私の場合大抵スタートダッシュのあと全力疾走、そして案の定、息が続かず失速。気づけば、当初立てた計画が書かれたノートのページを開くこともなくなる。なんてことがしょっちゅうです。
そうなるので結局「出来ていないことに目が行きがち→年末の振り返りで小さくても出来たことを無理して見つけようとする→自分を褒めて新年へのモチベーションを上げる→スタートダッシュは良いが息切れして失速する」というループを毎年繰り返してしまうわけなのです。
先日のエラマプロジェクトの哲学バーでは「無気力」がテーマでしたが、その時に「気力とは生きる希望であり、自分の力で人生の何かを動かす感覚ではないか」というお話をされた方がいらっしゃいました。
確かにそうかもしれません。計画を立てたもののエネルギー切れになっている時の自分は、モヤモヤの渦に吸い込まれ、当初描いていた「希望」に向かって行動する気も湧かず、むしろどんどん「希望」から離れていっているような感覚になります。
もう、突っ走って息切れして、気力を失うなんていう経験はしたくないなあ。
そう心から願った私の2026年の計画の立て方は、いつもとちょっと違いました。
いつもは、実現したいことや新しいチャレンジなどの目標を立てて計画するのですが、今年は…。
ということで、今日は、私が今年一年の計画を立てるときに大切にしたことをお話したいと思います。
1、好きな瞬間を増やすための計画

まず私が最初にしたこと。それは、スマホのカメラロールや手帳から昨年一年間の好きな瞬間をプライベートと仕事の両方からピックアップすることです。できれば、写真をプライベートと仕事に分けて一枚のスライドに集めてみるのがおすすめです。
「え? これも2025年のこと?」「あ~、この時のことは今でも両親がすごく喜んでくれているなあ」「素敵な出会いもあったな」など、とっても心が温まる作業です。
一人でその作業をしていると、良き思い出に浸り心が喜んでいることに気づくことが出来ます。他の誰かのキラキラしている瞬間と自分を比較することなく、大切な人たちと過ごした瞬間や、感動で心が満たされた瞬間、そして自分が誰かのお役に立てた瞬間の嬉しかった気持ちが蘇ってくるのです。
好きな瞬間の数は関係なく、その時間の質に意識が向いているような感覚にもなります。
この作業をしていることで分かるのは、新しい一年にどんな瞬間を増やしていきたいかということ。そして、自分にとって本当に大切で必要なことも見えてくるのです。
その大切な瞬間の共通点を言語化してみることで、自分にとって重要かつ充実度の高い時間を明確にすることが出来てきます。
例えば私の場合、プライベートで重要なのはこんな時間です。
・家族との時間
・家族(両親、夫、子ども、そしてもちろん自分自身のことも)の未来に想いを馳せる時
・家族や友人たちの大切な価値観に触れる時間
・一人のカフェ時間
また、仕事で充実感を得られるのはこんな時間です。
・人の純粋な想いに触れることや、想いを動かす時間
・社会と繋がろう、社会課題と向き合おうとしている人との対話の時間
そのような時間を今年一年たくさん作れたら幸せだなと思います。だから、本当に自分にとって大切で、好きでたまらない時間をたくさん生み出そう!そんな気持ちが湧いてきます。
2、得たい感情を得るための計画
そして、次に私が書き出したことは「2026年の終わりに、どんな感情を得たいか?」ということ。先ほどの好きな瞬間をたくさん体験した先に、私はどんな感情を得るだろうかと考えてみました。
「感謝の気持ちに満ち溢れている」
「力がみなぎっている」
「ウキウキしている」
「晴ればれしている」
そんな感情や感覚に包まれているといいなあ!
そしてその感情や感覚を、大切に思う人や自分が応援したい人と共有出来ていると、さらに幸せです。
(もし、感情を言葉にするのが難しいと感じる方は、ネットで「感情リスト」と検索してみてください。感情や気持ちを表す言葉のリストがたくさん紹介されているので、参考にしながらしっくりくる言葉を選んでみるのも良い方法です。)
この「2026年の終わりに、どんな感情を得たいか?」という質問、実はある方が発信でされていた質問です。
その方が仰るには「予定は計画をこなすためではなく、その計画をこなす先に得られる感情があるから予定を立てる」と。
例えば、子どもの遠足のお弁当をつくる時も「子どもの喜ぶ笑顔を見れたら嬉しいから!」という理由で、「おかずに何を入れようか?買い出しはどのタイミングで?当日朝は5時起きで」のように計画しますよね。
そこで私はハッとしました。
これまでの私の計画は、「仕事でこんな成果を出すと収入はこれくらいになって、子どもたちの学費の支払いにも余裕が出て旅行にも行けるだろう」というすべて行動ベースだったのです。
また、好きな仕事で経済的に自立できるようになる!(ならねば!)のような自分へのプレッシャーもたくさんかけていました。
成果を出すこと、経済的に自立することのように、欠乏感を補うためのやる気は、私の場合どうしても短期で結果が出ないと続かなくなってしまいます。皆さんにも思い当たることがありませんか?
そうではなく、このプロセスの先には私が見たい美しい景色がある、その景色を見たときの感情を味わいたいというモチベーションには、常に「希望」という心強い味方が伴走してくれているように感じるのです。
でも、だからと言って、得たい感情のための計画がうまくいくとは100%言えないのでは?それだって、息切れしてしまうことがあるんじゃない?
そんな心配も聞こえてきそうなので、次のポイントに進みますね!
3、人生という瓶に最初に入れるべき時間とは?

皆さんは、瓶の中に石や砂を入れる実験の動画を見たことはありますか?瓶の中に、最初に砂や小さな石から入れていくと、大きな石が入る余地がない。逆に、大きな石を最初に入れて、空いている隙間に小さな石、そして砂を入れると、すべてが入り瓶の蓋をすることが出来る。
この動画が伝えようとしていることは、自分にとって本当に大切な意味のあることを、人生という瓶の中に先に入れることの重要性です。
役割や責任に伴う日々のタスクやルーティン、他者の期待に応えるための予定、欠乏感を埋めるために少し無理して挑戦しようとしているプラン…
そういったものを先にこなしていくうちに、自分の好きな瞬間で満たす余白が奪われていってしまうのではないでしょうか?
計画を立てる時に大切なのは、はじめにお伝えした「好きな瞬間」の予定から入れていくこと。「プライベートも仕事も、この一年は好きな瞬間をどのように作ろうかな?」そんなふうに考えてみることから始めてください。
その時のコツとして、好きな瞬間を寄せ集めた写真を見ながら進めることです。それを見ていると得たい感情もセットになってリマインドされるので、私の場合、「この仕事で味わった感情をもう一度得るには?」と、今の自分に出来ることで、これまでの成功体験を再現できる仕事の計画を立てることができました。
計画とは、人生という瓶に最初に入れるべき時間を選択することなんだなと思います。あなたにとって、まず最初に入れるべき大きな石とはどんな時間ですか?
モチベーションとなる「希望」は自分の中にあるもの

この3つのステップで今年の計画を立ててみたわけですが、これまでとの違いとして感じていることは、全力疾走ではなく、かなりのスローペースでスタートしたということ。
足りないものを埋めようとしているわけでもないし、自分を証明したいという気持ちもない。
ただ、はじめに言語化した「自分にとって重要かつ充実度の高い時間」を増やしていきたいと願うだけ。その時間というのは、去年一年間の好きだった瞬間から明確になったことなので、私はすでにその体験を作り出せていたんだと思えば、新しく何かを生み出さなければという焦りを感じることもありません。
そう考えると、計画を実行した先に思い描く「希望」のようなものは、自分の外側で探し続けても見つかるものではないのかもしれません。
自分自身の内側にあるもの、つまり個性や才能、これまでの経験や人脈、そして培ってきた知識やスキルを、力むことなく自然体で活用できていたり、自分の感性に従っているときに、「希望」が顔を出すのだろうなと思います。
計画を実行するためのモチベーションともなる「希望」。それを感じられるかどうかは、自分自身の内側にあるものをきちんと認識していることも大切ではないでしょうか。
自分の内なる部分は、本当に大切な時間がどうやって生まれるのかを知っているはず。ぜひ、あなたが2026年の終わりに感じていたい感情を生み出す時間を、まず最初に瓶に詰めてくださいね!
そしてもし万が一、息切れしそうになっている自分がいたら、ぜひ思い出してください。
「あなたの好きな瞬間はどんな時ですか?」
「どんな感情を得たいから、その計画を立てたのですか?」
「あなたの人生の瓶に最初に入れた時間は何ですか?」
きっと、あなたの中の「希望」が顔を出し、計画を実行するための良き伴走者となってくれるはずです。
Text by Kangas(和田直子/しなやかで強く優しい社会を織りなすライフコーチ)
こんにちは!エラマライターのひらみんです。
みなさんは、やりたいことを100個書き出す、というワークをやったことはありますか?
ワクワクしながらやったことがある人もいれば、書こうとした瞬間に手が止まってしまう人もいるのではないでしょうか。
新しい1年が始まるにあたって、やりたいことを書き出して人生の軸を見つけたいと思ってたのに、、、あれれ、、なんだかもやもやしてしまいました。
やりたいことリスト100って?

やりたいことを100個書き出すことで、自分が求めていること、目標、価値観が明確になると言われています。リストを作って終わるのではなくて、実現させるまでがゴールです。やりたいことを書くという行為によって、脳にインプットされるし、リストを何度も見ることで、目標を意識して行動するようになるようです。
基本的には、なんでも書いていいんだそうです。実行に移すための資金や時間が、今は確保されてなくても書くのは自由です。秘訣は、小さいことも大きいことも入れること。小さな願望ならすぐに実現できますよね。この成功体験によって「自分にもできる」という自己肯定感の向上も期待できるそうですよ。
実際にやってみたら、もやもやした…!

世の中には、100個出すためのtipsやテンプレートなどもあるのですが、あえてそれに頼らずに自分の願いを可視化するためにやってみました。
でも、20個ぐらいで止まってしまったのです。
すると、急に「100個のノルマ」に変化してしまい、「実現したいことを書く」から、「書かないといけないから書く」に意識が切り替わりました。自己理解のために始めたことなのに、残り80個の空白を埋めるために、無理矢理言葉を探し始める作業になってしまったのです。
それに、やりたいことを書くだけなのに、「やりたいことがない自分」はダメなヤツで、自分は、やりたいことさえ見つけられない人間なのだと、思考が捻じ曲がってしまいます。これは良くない。自己理解のために始めたのに、低い自己評価に直結しています。
そうじゃなくて、私が今、一番やりたいことは「やりたいことリストを100個埋める」ことなんです。
もやもやの正体は、どこにあったんだろう

リストはまだ20個のままですが、改めて振り返ってみると、あのもやもやは、やりたいことが出てこないことが理由で生まれたわけではなかった気がします。
20個で止まったとき、私が苦しくなったのは、「これ以上書けない自分」そのものではなくて、「ちゃんとできていない自分」を見てしまったからでした。
やりたいことリストは、本来「自分の願いを可視化するための手段」だったはずなのに、いつの間にか「100個書けているかどうか」で自分を測るものに変わっていました。
そうなると、
・出てこない=努力不足
・書けない=意識が低い
・止まる=ダメな自分
そんな風に、静かに自分を追い詰めていきます。
たぶんこれ、日本人あるあるではないでしょうか。「ちゃんとしなきゃ」で頭の中がいっぱいになっていませんか?
「ちゃんとやらなきゃ」
「最後までやりきらなきゃ」
「決めたことは守らなきゃ」
その感覚が強いからこそ、自由に書いていいはずのリストが、いつの間にか、達成すべきノルマに変わってしまう。でも、ここで立ち止まって思ったんです。
これ、本当に100個書く必要ある?
目的を取り戻そう! —— それは、100個書くことじゃない

改めて考えてみると、やりたいことリストは「100個書くこと」そのものが目的だったわけではありません。
本当の目的は、自分が何を大切にして、どんな方向に進みたいのかを意識しながら生きること。そして、書いた願いをヒントに、日々の選択や行動を少しずつ変えていくことだったはずです。
それなのに、いつの間にか「100個書けていない自分はダメ」とか「やりたいことが出てこない私は浅い人間なのかも」、、、そんなふうに、自分を追い込む道具になってしまっていました。
でも、これってちょっと変ですよね。
やりたいことを書いて、ひとつ叶ったら線を引く。また思いついたら書き足して、実行したら消して、書いて、また消していく。そうやって人生の中で更新され続けるリストなら、気づいたときには、100個なんて自然に超えているはずです。そもそも、「ちゃんと100個書けない自分」を責める必要なんて、どこにもなかったんです。
もし今、やりたいことリストが途中で止まっている人がいたら、無理に続きを書かなくても大丈夫です。「やりたいこと100個が書けなくてモヤモヤしている」なら、それは、人生をちゃんと考えようとしている証拠なのだと思います。
代わりに「これをやれたらちょっと嬉しいな」と思うことをひとつ選んでやってみて、リストに線を引いて消す。それだけで十分です。新しくやりたいことができたら、その時に付け加えたらいいじゃないですか。やりたいことリストは、完成させるものではなく、人生と一緒に更新されていくものですから。
大切なのは、今の自分が大切にしてることに気づいているかどうか。そして、その気づきを、小さくても行動に移しているかどうか。それができているなら、リストが20個でも、50個でも、十分です。やりたいことリストは、自分を評価するためのものではなく、自分と対話するためのものですよね。そしてその対話は、「どう生きたいか」を自分に問い続ける、小さな哲学の実践なのかもしれません。
その対話は、今からでも始められるものなのです。
Text by ひらみん(ふつうの会社員)
