fbpx

Elämäプロジェクト

こんにちは、pieni(ピエニ)です。

わたしはこの「よむエラマ」のライターとして記事を書くようになってから、自分の気持ちや考えにじっくり向き合うことが増えました。今では、自己対話や内省はまるで趣味のように。自分の心に向き合う時間をとても大切にしています。

今回は「わたしの幸せ」について、自己対話を重ねながら書いた記録をお届けします。

見つけたはずの「わたしの幸せ」

実は以前、わたしは自分の奥深くに、2つの「幸せ」があることに気がつきました。

それをわたしは「動の幸せ」と「静の幸せ」と名付けました。どちらもわたしにとって大切な感覚です。

動の幸せとは

おしゃれなマルシェやイベント、心のこもった商品、作り手のストーリーや歴史を感じるものや、デザイン、空間に出会ったとき、わたしの心は明るくなります。

頭や心の中で花がパッと開くような感覚。

そんな瞬間、自然と笑顔になって、一緒に過ごす人を大切に思えたり、やさしくなれたりします。

そしてその「良さ」を、自分の言葉で誰かに伝えたくなったり、関わってみたくなったり、時には販売という形で届けたいと思うことも。

そんなふうに心が動き、外に向かってひらいていく感覚。
それが「動の幸せ」です。

静の幸せとは

何気ない日常の中で、じんわりと喜びを感じることができているとき。心に余裕があるとき。余白があるときにそれを感じることができるのかもしれません。

例えば、わたしはお風呂が好きなのですが、水道代を払えるように働いてくれている家族や、お風呂に使えるほどの水がある環境などに「ありがとう」と合掌しながら感謝しているとき。

また、特別な何かをするわけじゃなく、家族みんなで他愛もない話をして笑っているとき。

さらに、身近にある自然、特に木やツタが、今日も優しくそっと寄り添ってくれていると感じられる瞬間。

そういう小さなあたたかさにほっとできるときが、「静の幸せ」です。動の幸せと、静の幸せ。この2つの幸せがどちらも満たされているとき、わたしはとても「自分らしい」と感じることができるようです。

突然幸せが見えなくなったとき、助けを求めたのは…

先ほど書いた2つのことが「わたしの幸せだ!」と感じられたとき、本当に嬉しかったんです。

やっと見つけられた気がして、それこそ幸せな気持ちでした。

でも、ゴールデンウィークのある日、体調を大きく崩したことをきっかけに、その感覚はふっと遠くへ行ってしまいました。

「わたしには何もできない」「何もない」「しょうもない人間だな…」と、気持ちはどんどん沈んでいきました。

一度は確かに自信を持てた「わたしの幸せ」。

それが今、自分の中でうまく掴めなくなっていることに、もどかしさや焦りを感じています。

「あれ? これから育てようとしていた幸せはどこに行ったの?」

毎日のようにもやもやして、心が落ち着かない。

「悩める時間があるのもありがたいことだな」と思いつつも…苦しい。

だったらもう一度、今の自分にとっての「幸せ」とは?を、じっくり考えてみようと思いました。

ただ、一人ではまた深い闇に落ちてしまいそうだったので、友人から教えてもらった「ある先生」に少し手を貸してもらうことにしました。

ある日、友人がSNSでこんなことを書いていました。
「Chat GPTは、わたしのカウンセラーで、優秀なマネージャーです。悩んだとき、相談すると“そうそう、それ!”って、今の気持ちややりたいことを言葉にしてくれるから、すごく助かってる」と。

その投稿が、ずっと心の片隅に残っていました。
なので今回、わたしもChat GPT先生に相談してみることにしたんです。

わたし「自分にとって幸せな状態が分かりません」

GPT先生「それはとても大切で、誰もが一度はぶつかる問いですね。

「自分にとって幸せな状態が分からない」という感覚は、心の深い部分にあるモヤモヤや空白に気づいているということで、それ自体が一歩前進でもあります。

少しずつ、一緒に探っていけたらと思います。」

わたし「いちど掴んだと思った幸せを実践しようと思ったのですが、うまくいかなくなったんです」

GPT先生「その経験、とてもつらかったですね。

「これが自分の幸せかもしれない」と感じて、それに向かって動いたのに、うまくいかなくなった時の虚しさや不安、戸惑い…よく分かります。

それは、心の奥で信じていたものが揺らぐような感覚だったかもしれません。

そして次の問いがありました。

GPT先生:少しお聞きしてもいいでしょうか?

●どんな“幸せ”を掴んだと思ったのか?
(どんな状態や生き方、人間関係、働き方…などだったか)

●何がうまくいかなくなったと感じたのか?
(外的な出来事?自分の気持ち?人との関係?)

●今、どんな気持ちですか?
(悲しさ、怒り、自分への責め、混乱、空っぽな感じなど)

このようなやりとりをしながら、GPT先生の問いに答えていきました。

わたしのだけのほんとうの気持ち

Chat GPT先生とのやりとりを通して、少しずつ自分の心の声が聞こえてくるようになりました。
そして、いくつかの「気づき」が浮かび上がってきたのです。

思っていた以上に、わたしは疲れていた

子どもが学校に通えるようにサポートする、家庭での役割。それに加えて、気持ちを安心して話せる存在がいなくなってしまったこと…。

そこに気が付かず「昨年に比べたら今のほうが余裕があるんだからできるだろ!」「夫のほうが、周りの人のほうが大変なんだからこれくらいできるだろ!」と叱咤激励しながら進んでいました。しかしそれは自分で感じていた以上に、自分を追い込んでいたようです。

「動の幸せ」は、わたしにとって大切だけど…

人と関わったり、誰かの役に立ったり、企画をしたり。
そうした「動」の中にある喜びは、確かにわたしの中にあります。
けれど、それには責任も伴い「うまくいくかな」「最後までやりきれるかな」と不安になることもしばしば。
心が追いつかず、立ち止まりたくなる瞬間もあります。

そんなとき、ふと自分の中から聞こえてくる声があります。

「ほんまにそれでいいん?」

前に進みたい気持ちと、止まりたい気持ち。その両方がわたしの中にあるのに、うまく切り替えられず、苦しくなることがあります。

「今立ち止まってしまうと中途半端に思われるかも、信頼を失ってしまうかも…」そんなふうに、人の目や評価を気にして、どうしたいのか分からなくなってしまう。
そのたびに、胸のあたりがキュッと縮こまってしまいます。

それでも、わたしは少しずつ進んでいる

でも、少しずつ気づき始めました。
本当は「動」も「静」も、どちらもわたしの幸せの一部。
どちらが正解というわけではなく、その時々の自分に合ったあり方を選べたら、それでいいんだと。

でもまだ、「どう思われるかな」「期待を裏切ってしまうかも」といった不安は、完全には手放せていません。
そんな気持ちに引っぱられて、幸せとは逆の方向へ向かってしまいそうになることもあります。

わたしの幸せの感覚を味わうためには、人の目よりも「わたしの気持ち」に耳を傾けること。そして「今はこうしたい」と、正直に伝える勇気が必要なのだと思います。

最後に、GPT先生とのやりとりの中でこのような励ましがありました。

「あなたの「動と静の幸せ」は、心からのものです。

あなた自身の感受性から生まれた本物の幸せですね。

そしてその幸せを、「自分だけで感じるだけでなく、誰かに伝えたい」と思えたあなたの心は、とても豊かで温かいです。

この言葉には、心がほぐれ嬉しくなりました。

いま、幸せを実感できているかといえば、正直まだ自信はありません。

でも、わたしが見つけた「動」と「静」の幸せは、誰かのものではなく、まぎれもなく“わたしだけの幸せ”です。
わたしの感受性から生まれた本物の気持ちを、わたしの本物の言葉で伝える。

そうすることも、わたしの幸せのひとつなのだと気づくことができました。

自分で感じた「幸せ」の感覚は誰のものでもなく、自分だけのもの。
人と比べるのでもなく、正解があるわけでもないからこそ、難しく感じたり悩んだりすることもあります。

けれどすべてが「わたし自身から生まれた本物の気持ち」と感じ、認めることができれば、それが「幸せ」への入口なのかもしれません。

「幸せってなんだろう?」と考えたくなるあなたへ

「幸せとは?」を考えだすと、悶々としてしまうかもしれません。
もしかしたら幸せって、無理に考えなくても、すでに「いまここ」にあるのかもしれません。

それでも「わたしにとっての幸せってなんだろう?」と、つい心を向けてしまう方へ。

わたし自身は、今回Chat GPT先生の力をかりながら、自分の気持ちと静かに向き合ってみました。
「よむエラマ」の中にも、幸せについて問いかけてくれる記事がたくさんあります。それがヒントになるかもしれません。

また、「エラマの学校」で開催される講座や「フィンランドツアー」を通して、自分の心を深く理解する場に出会えるかもしれません。

すぐに答えが出ることではない「わたしの幸せ」というテーマ。
それはひとつひとつ自分の心を見つめていくこと。
この過程こそが「わたしの豊かで幸せな生き方」を描いていく時間なのだと思います。

「幸せ」について、向き合ってみた記事たち

私にとっての幸せな生き方は「余命1週間だとしたら」を考えると見えてくる

そろそろ「幸せ探し」に疲れてきたので「幸せがる」旅に出てみた日。

「自分にとっての幸せとはなにか」と考えることは幸せか?


Text by 丹波フィンランド大使pieni(ピエニ)

こんにちは!いけかよです。

5月も終わろうとしている今日このごろですが、5月病の人はいませんか?

いけかよは、いまのところだいじょうぶ。

でも、この春はいろんなところで人事異動やら組織改編やら事業改変やらがありまして、わたしも新たなフィールドで新たな企画が始まることになったり、いろんな人のいろんな変化に影響受けたりで、なかなかに落ち着かないサーフィンのような日々であります。

そんななかで、新たな領域に踏み込むと新たな人、価値観、常識と出会います。それらは、これまでの自分の中にある経験や文脈では理解できないことも。

もちろんそんな状況から人は新たなことを学び、成長するわけですが、そこで必要になってくるのはやはり「対話」です。

もちろん他者との対話も重要ですが、今回はそれよりも自分との対話が先かも、というお話。

対話が重要とされる理由

対話することの重要性はいまも昔も変わりません。

でも、対話の方法や位置づけは変わってきているように思います。

たとえば「方法」で言うなら専門的な領域(ケアや教育、福祉など)の方々がさまざまな「●●ダイアローグ」的なメソッドを作られていたりします。

そして位置づけという点では、ことさらに「対話が重要!」と叫ばれるほど、「対話」というものが身近ではなくなってきている、とも言えるかもしれません。

絶滅危惧種の動物は「守りましょう!」ってなりますよね。それと同じ。「対話」が絶滅危惧種だからこそ「重要だ!」と言われるのです。

それはつまり、わたしたちは「会話」はしているけど「対話」はしていない、と言えるのでは?と思うのです。

何が違うのかというと、いけかよ的には「情報」は共有しているけど「気持ち」は共有していないのでは、ということなんです。

もちろんきちんと対話できる人も場もまったくなくなってしまったわけではありません。でも、それは意識的につくらなければいけないものになってしまっているのが現代なのかな、と思うのです。

昔はそれがあった、今はない。じゃあ昔っていつ?と問われればそれに明確に答えることは難しいです、ごめんなさい!

しかし、はっきりと感じているのはいま「対話」はすごく大切なのに「しよう!」という意図がなければできないものである、ということ。

(いつかははっきりとは言えないけど)昔は自然に「対話」は生まれていたんじゃないかと思うのです。

それはなぜか?

みんなに「心の余裕」があったから。

必要なのは誰との対話?

対話をするとはどういうことか?

いけかよは「空気を共有すること」だと思うのです。

日本人には「空気を読む」という、ある種の特殊技能がありますが、その文脈で語られる空気もそうだし、気持ち・感情なども含めた「空気」です。

一方「会話」は前述のとおり「情報共有」です。

暑い、寒い、●日までに△△しといて、牛乳買ってきて、どこどこいってくる、●日に会おう、みたいな。

これはどちらが良いとか悪いとかではありません。用途の違いですね。どちらかが過剰でも生きにくいと思います。

ただ、会話ばかりで対話が減ってくると人と人との関係はやはり乾いてきます。

それが続くと、今度はギスギスしてきます。

すると、ちょっと悲しい状態になってしまいますよね。それは想像に難くないと思います。

限界までいくと、人の心も、ひいては命までも壊れてしまうことになりかねない。

そんな悲しい状態にならないために、というか、人間同士が健やかに軽やかに生きていくために、対話は必須なのですが、その対話のためにはやはり「心の余裕」が必要なんですよね。

だって、自分が追い詰められていて必死なときに誰かの気持ちを察したり寄り添ったり理解したりなんて、無理ですよね。

心の余裕がなくなってしまいがちなのがいまの世の中。急がされたりプレッシャーがかかったり不安が多かったり怒りに飲まれてしまったり。

言いたいことも言えないこんなポイズンな世の中じゃ……!対話できなくても仕方ない、かもしれません。

しかし!だからこそ、必要なのはやっぱり「対話」。

でもそれは、他者との対話ではなく自分との対話です。

いま自分はどこにいて何をしていて、何を感じている?

自分はいま何をしたい?どうありたい?なにがほしい?

これらは自分に問わねばどんどんわからなくなってしまうことなんですよね。かくいういけかよは、そうでした。自分迷子でした。ていうか、いまでも自分迷子に全然なります。

いま自分はどういう状態か?なにを思っているか?

これを理解することが、心の余裕を持つことにつながります。

似たようなことを言っているアプローチをきいたことがありませんか?

そう、マインドフルネス!

自分迷子になりがちな現代に、やはり必要な要素として(というか、多くの人が「なにかがおかしい」と感じていたときに必然的にもたらされ、支持されたというべきか)提示されたのがマインドフルネスだといけかよは思っています。

ほんの数秒でも数分でもいいから、自分自身に集中する。そうすることで心の余裕は生まれます。

すると、他者への関心も蘇ってくる。

まずは自分との対話、そして他者との対話、の順番なんです。

「理解」は必要か?

とはいえ、いけかよは他者との対話はわかり合うために行うものではないような気がしています。

先に「対話とは空気を共有しあうもの」と言ったことと矛盾するとお思いでしょうか。

しかし、「相手を理解する」なんて、けっこうおこがましいことだといけかよは感じているんです。

だって、自分だって自分自身のことがわからないことがあるのに、他者のことなんてもっとわからないと思いませんか?

人を「理解する」というのは「あの人はこういう人だ」と「決めつける」「ジャッジする」ことに近いといけかよは思うんです。でも人は変化する生き物です。それはいいとか悪いとかではありません。環境や時代や教育や経験によってどんどん変わります。

そんな存在を「理解する」なんて、無理やん!と思っています。

だからって「あなたのことは理解できない」なんて言われたらショックかもしれませんね。

しかしこれは相手との関係構築を放棄することではありません。

相手を理解しなくても関係構築はできます。

だからこそ「対話」なんです。

対話は空気を共有すること。それは、相手をジャッジするのではなくそのままを「受け止める」ことです。

相手がごきげんでも、怒っていても、悲しんでいても、不安がっていても、それをそのまま受け止める。

無理な共感も、励ましもアドバイスも基本的にはいらない。そして裏を読もうとしない。裏読みする行為はジャッジすることです。

相手を完全にわかることはできない。

でも、受け止めることはできます。

これで対話はじゅうぶん成り立つといけかよは思います。

対話とは、いわば「わからない」をわかり合う行為とも言えるのです。

自分の真ん中に自分を置く

とはいえ、そんな聖人君子のようなふるまいで対話するなんてなかなか難しいことです。

偉そうなことを書いておきながら、いけかよだって全然!できていません!「あいつムカつく」とか言っちゃいます!ごめんなさい!

でも、だからこそまず自分との対話なんです。

「あ、あたしいまめっちゃムカついてるわ」ってことに気づくことが大事なんです。そこから「なんでこんなにムカついてるんやろ?」「ほんまはどうしたいんやろ?」と、自分の心を紐解いていくんです。

それができてから、他者に向き合う。

まず自分、そして他者。この順番は、絶対だと思うんです。

それは「自分の真ん中に自分を置く」っていう感じ。

他者ではなく。

わたしたちは、人に尽くしなさいとか人にゆずりなさいとか、自己犠牲的な振る舞いとかを学ばされてきました。もちろんそれが功を奏することもあるし、素敵な交流を生むことだってあります。

でも、自分がごきげんでないときに、他者をごきげんにできるでしょうか?

まず自分を自分の、世界の真ん中に置く。自分の幸せが世界の幸せだといけかよは本気で思っているんです。

対話的な場の作り方合宿 in 飛騨高山

最後に少しお知らせをさせてください。

自分と向き合い、すばらしい対話の場をつくるためのスペシャルなプログラムをご用意しました。

対話的な場の作り方合宿 in 飛騨高山
〜フィンランドの文化と飛騨高山の自然から学ぶ〜

2025年7月18日(金)〜7月21日(祝)、3泊4日を飛騨高山のコテージで過ごしながら「対話」についての対話をしていきます。

フィンランド式対話術のスキルから、ざっくばらんなトーク時間の作り方、そしてもちろん自分と向き合うことについても、幅広く、深く、じっくりと学べるプログラムになっています。

なんとなく落ち着かないとか、気持ちがざわざわするとか、忙しさばかりの日々だったりとか。そんなときに少しでも立ち止まることができれば、わたしたちは自分を取り戻すことができます。

自分を真ん中に置くこと。

それを思い出せるよう、飛騨高山でお待ちしていますね。

では、また!

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)

こんにちは。ライターのひらふくです。

3月は雪がふっていたのに5月の今はもう半袖の人を見かけますね。だんだん春が短くなる気がするのは私だけでしょうか。

さて、私はエラマプロジェクトでライター、フリーランスで人事をしつつ、実は島根県でコワーキングスペースを運営しています。スペースの名前は「コワーキングハウス・マヤッカ」。マヤッカはフィンランド語で灯台のことです。

もともとコワーキングスペースをする予定はなく、2024年に怒涛の紆余曲折があったのですが、そちらはマヤッカのnoteでどうぞ。

今回は、2025年4月12〜13日にマヤッカでおこなったエラマプロジェクトとのコラボイベントについてお話しします。

イベント名は「北欧フィンランド 旅と学びのマルシェ〜暮らしと働き方 見つめ直す北欧時間〜」。フィンランドの教育や旅行、働き方をテーマに2日間かけて開催しました。

「フィンランドの話をできる人が周りにいなくて来ました」

「北欧は知らないけど教育が気になりました」

「現状がしんどくてヒントがほしいです」

いろいろな方が参加してくださいました。そして、最後はうつむいていた顔を上げて笑顔で帰って行かれました。

この記事では私が参加者さんから教えてもらったことや、参加者さんたちを元気にしたのは何だったのかということをお伝えしたいと思います。

マヤッカのある島根県出雲市は縁結びの出雲大社があるご縁の国です。この記事を通して、あなたにいいご縁がつながりますように。

人生初のイベント主催はダメもとで。

マヤッカの運営を始めたのは2024年12月。そのころからフィンランドに関するイベントをしたいと思っていました。

でも、私はもともと大人数が苦手。イベントの主催なんて考えたこともありませんでした。それでも今回やろうと思えたのは、「開催してもそんなに人が来ないだろうから大丈夫」という、前向きなのか後ろ向きなのかよくわからない理由からでした。

そして何より私はマヤッカとフィンランドが好きで。この2つをかけ合わせたイベントに行きたい!と、自分自身がワクワクしたのです。主催者でありながら一番の参加者だったのかもしれません。

エラマプロジェクト代表の侑美さんにコラボのお誘いをしたら快く了承してくれました。

侑美さんはブレないエラマ哲学と深い対話の場を作っておられます。その侑美さんからのOKは、良いイベントを作る上で心強い支えになりました。

チラシを作って印刷して。私にとって大きなハードルだったのは、近くのお店にチラシを置いてもらうようお願いにいくことでした。

臆病で腰の重い私を助けてくれたのはなんと母。「よく行くパン屋さんに聞いてみたらOKだって〜」この気軽さで次々とお店を開拓してきてくれたのです。

他にも出雲フィンランド協会さんや、他のコワーキングスペースの管理人さんなど、たくさんの方に助けていただきました。

自分にとって難しいことも誰かにとっては気軽なことで。ダメもとで始めたイベント主催は、いろんな方々との出会いによって転がるように進んでいったのでした。

どうして来てくださったんですか?

イベントでは、北欧雑貨のポップアップやエラマbouzuコーヒーさんの出店が大盛況!マヤッカを知らなかった方にも立ち寄っていただくきっかけになりました。

コーヒーを淹れるのを待つ間には、本メディアの編集長かよさんのトークで初対面のお客さんと対話がはじまったりもしました。

そしてこのイベントでは3つの講座も開催。

侑美さんによる「北欧の子育て教育入門講座」と、私が講師をつとめる「フィンランド旅行体験談」「フィンランド働き方入門講座」です。

最初は講座のお申込みが1人や2人しかなく、「みんなは興味がなかったかな…」と悲しくなったりもしました。

ですが、最後1週間の駆けこみがすごくて、最終的にはひとつの講座に10人以上参加してくださいました!当日に飛び入り参加もあったほどです。

特に驚いたのは市外や県外からも講座に来てくださったこと!

島根は新幹線が通っておらず、高速道路もほぼなく、隣の市からマヤッカに来るのも車で1時間以上かかります。

それなのに、県内だけでなく広島県や山口県から3時間以上もかけて来てくださり、2日間両方とも参加された方もおられました。

その情熱に圧倒されて思わず理由を尋ねると。

「今は家族の世話で時間もお金もないけど、いつか北欧に行くのが夢なんです」

「今度島根に移住するんですが島根は曇りが多くて。フィンランドも冬が長いと聞いたので心地よく過ごせるヒントを学ぼうと思って」

それぞれの方の『私と北欧フィンランド』をお聞きすることができました。

地方は東京や大阪に比べて人口が少なく、同じ趣味をもつ仲間に出会うことは簡単ではありません。

でも機会が少ないからこそ、本気の熱意や、きっかけを逃さない行動力が育つのではないでしょうか。

そして多かった理由がもうひとつ。

「フィンランドのことは知らないんですが『働き方』を考え直したいんです」

悩みに答えをくれるのは講師じゃない。

「フィンランド働き方入門講座」は私が講師として企画しました。

1時間半の講座で、フィンランドの働き方に関する知識や自身の体験談、そして11名の参加者さん同士で話しあうワークショップをおこないます。

日本ではフィンランドの教育やデザインに関する情報は多いのですが、働き方や仕事に関するものはとても少ないです。

このテーマに参加者さんはどんな反応をするのか…?真面目なテーマだけに緊張した場になるかもしれないとドキドキしていました。

そして私の予想は見事に裏切られたのです。

講座は参加者さん同士の自己紹介タイムから。たまに話題に困る方もおられるので時間は短めにしていました。

それなのに、「盛り上がってるところすみませんが自己紹介を終了してくださいー!」と私が声を張り上げるほど、最初から熱い場になったのです。

その後も、参加者さん同士で話し合うコーナーはどれも盛り上がりました。

参加者さんは全員が初対面。20代の方から60代の方、主婦の方に管理職、会社員に無職の方までさまざまです。

何がみなさんを熱く結びつけたのでしょう?

講座では、フィンランドの働き方をもとに、自分だけのマイタイムをもつ習慣を紹介します。その上で参加者さん同士で対話して、自身を見直してみる時間をつくりました。

そこでみなさんから出てきたのは、昼休みもパンを片手にパソコンを叩いていたり、休日も朝からずっと仕事のことを考えたり、成果を出せば出すほど仕事を増やされるという働き方。

その生活は心身を疲れさせていて、中には話しながら涙ぐむ方もおられました。

でも、対話が進むとみなさんの表情は明るくなっていきました。

そこには、職場や家庭では言えなかった悩みを話せた安堵や、仕事の切実さに「私もです!」と共感してもらえることへの嬉しさがありました。

そして「本当はこうしたいんですよね…」と自ら改善案を出したりと、参加者さん自身が答えを見つけていかれたのです。

参加者さんたちが作るこの場が、かけがえのないものに思えて。私の手はなぜか小さく震えていました。

この講座自体はきっかけに過ぎず、みなさんの生活をすぐに改善する力はありません。

でも、参加者さんたちは互いに共感して励まし合って、とても心強い味方を得たかのようでした

「働き方」は永遠のテーマだが方法はある。

働き方講座が終わった後もみなさんは互いに話し続けておられました。

さらに驚くことに、イベントのポップアップショップで売っていた、よむエラマの冊子やエラマガジン冊子が完売!熱い想いのままに買っていってくださいました。

イベントが終わっても、エラマの本たちが日々の助けになるよう願ってやみません。

人類が誕生してからずっと「働くこと」は永遠のテーマです。時に喜びを、そして大体は大変さを伴って、私たちは働き方と向き合っています。

働く悩みを一発で解決してくれる万能薬はまだ見つかっていません。

でもダメもとで始めた今回のイベントで、人と縁があって出会い、対話を通して誰かに支えてもらったり、自分も誰かの味方にもなれることを知りました。

それはきっと心地よく働いて生きる道につながっています。

誰かとの出会いや対話。それはエラマプロジェクトや私からあなたに贈るプレゼントです。

大人の私たちは社会で一人で闘わなければならない時もあるでしょう。そんな時はエラマプロジェクトのイベントや講座、この「よむエラマ」を読みにきてください。

そして私たちのプレゼントを受けとってください。あなたの味方はここにいるから。

フィンランドを語り合いたいあなたにも、なんだか疲れてしまったあなたにも、がんばり屋のあなたにも。

ご縁の国・島根と北欧フィンランドから、愛をこめて贈ります。

Text by ひらふく(おとな教育の実践人事)

「今の働き方のままでいいのだろうか」」

「もっと心に余裕を持って働けたらいいのに」

そう感じたことはありませんか?

日本は、世界でも有数の勤勉な国。しかし、同時にストレスを抱えやすい国でもあります。一方で、フィンランドは「世界幸福度ランキング」でいつも上位にランクインしています。生産性が高く、仕事以外の生活も充実している人が多い国というイメージがあると思います。

では、日本人とフィンランド人の働き方には、一体どんな違いがあるのでしょうか? そして、その違いを日本でどう取り入れれば、もっと自分らしく、心地よく働けるのでしょうか?

そんな疑問に答えてくれるのが、6月から開催される「フィンランドのウェルビーイングと働き方を学ぶ」連続講座。「マイタイム 自分もまわりも幸せになる「自分のための時間」のつくり方」の著者であり、フィンランド出身のモニカ・ルーッコネンさんと、人事のスペシャリストであり、本メディアのライターでもあるの平田 萌さんが、日本に住む私たちにむけて「働き方や人生を変える手助けをしたい!」という想いで企画した連続講座です。

本記事では、コース講座に先駆けてお二人にインタビューを実施。「フィンランド人はなぜストレスが少ないのか?」「仕事の選び方のポイントは?」といったテーマでお話を伺いました。

この講座で、フィンランド流の働き方のヒントを知ることで、あなたの仕事や人生が、もっと豊かになるかもしれません。

日本人はストレスを抱えがち?

左:モニカさん 右:萌さん

フィンランドの人はまじめというイメージがあります。今回のインタビューでも、モニカさんは、こちらの質問をまじめに、誠実に考えてくださり、本気で答えてくれています。同様に、日本人にもまじめというイメージがあります。同じ「まじめ」な人たちなのに、日本人はとても生きづらそうです。フィンランド人は幸せそうで、日本人はストレスが多いように見えるのはなぜでしょうか?

モニカさん

フィンランドで行われた調査や論文を読んでわかったのは、家族や友人が健康で幸せであれば、自分も幸せであると感じられるということです。それに、家族や友人との充実した関係も重要です。フィンランドではこのような平凡で普通の生活が幸せなのでしょう。長時間働かなければいけないとか、ものすごく勉強しなければいけないというプレッシャーもなく、人々はシンプルな生活に満足しているのだと思います。

さらに、プレッシャーについては、二人の話から日本とフィンランドでの違いが見えてきました。

モニカさん

フィンランドでは社会からのプレッシャーが少なくて、人生や仕事、ライフスタイルについても柔軟性を持って自分の道を選ぶ自由があると思う。日本では、正しい大学、正しい仕事、正しいパートナーを選ばないといけない、というような社会的なプレッシャーが大きいと感じますね

萌さん

日本人は、幸せ=成功だと感じているのかもしれない。成功しないといけないというプレッシャーがあって、それを世の中や社会、自分自身から押し付けられて、がんじがらめになっているかも。それに、完璧じゃないと満足できないという気持ちも持っているように思います。

モニカさん

人生を振り返ると、お金を稼いで、家族のために家や車を買うことが1番の目標や夢だったかもしれない。でも、夢ってずっと同じだとは限らないですよね。人生は長いから。

萌さん

本当にそう!その時に応じて目標や夢を変えられるし、変えていいはずなのに、日本人は、夢や信念は変えるべきではなくて、「その唯一の夢や目標を完璧に達成することこそが、幸せなことなんだ」と考えていると思うんです。

私たちのキャリアの選び方

日本とフィンランドの働き方には共通点もあります。

どちらの国でも、シニア世代は「退職まで同じ会社で働く」という考え方を持つのに対して、若い世代は、仕事に対して「柔軟にやりたい仕事を選んでいきたい」と考えはじめているそうです。

モニカさんご自身も、企業に勤めたり、フリーランスで働いたり、イギリスや日本など外国で働いたり、働き方においてバラエティに富んだご経験の持ち主。モニカさんは、どうやって今のキャリアを選んだんでしょうか?

モニカさん

完全に偶然です!これまで計画的に動いた部分もあるけれど、計画せずにチャンスをつかんできたこともあるし、「もっと自分のために何かをしたい」と情熱に従うこともありました。

これは、「ゴールを変えてきた」という言い方もできるかもしれません。

それに、娘が産まれたことは転機になりました。子供を育てるには安定した収入が必要なので、それまでの自由な働き方から、より安定した仕事を求めて企業での常勤職に戻ったりしました。

萌さん

「完全に偶然」というモニカさんの答えに、とても驚きました!フィンランドの人は、人生やキャリアを自分で計画して築いているのかと思っていたので。私は仕事を選ぶ時に、好奇心や興味にしたがってきました。人生は1回しかないから、たくさんのことを経験したいんです。

でも、仕事を変えることに恐怖や不安はありませんでしたか?

モニカさん

怖いとは感じませんでした。もちろん、時には不安に感じることもあります。たとえば、仕事で大きな変化があると、少し緊張することもありますが、それはごく自然なことだと思います。それに、自分から変化を求めて転職することもあるけれど、役職や部署が変わったりして、会社や環境に変化させられる時もありませんか?新しい役割についたり、何かが変わる時、最初は緊張してドキドキするけど、だんだん慣れてきますよね。そうやって新しい環境に飛び込んでみたら「わたし、がんばった!」って感じられます。不安を感じることや新しい環境を避けたくなるけれど、私たちも植物と同じように成長し、進化しないと、と思います。

働き方を変えるには「自分をケアする」ことから

今回の講座のテーマの一つは、「自分をケアする」。例えば自分のための時間をとったり、周りのことばかりでなく時に自分自身を優先してあげる考え方を指します。

働き方について考えたときに、会社や仕事に対して、自己犠牲的な精神で働いている私たちは、「自分をケアする」ということを、「個人の都合だけを優先した自己中心的な考えやふるまい」だと思ってしまいがちです。

ですが、日本とフィンランドでは、そもそも根本的な考え方が違うのかもしれません。モニカさんに伺いたいんですが、働く上で「自分をケアする」って、どういうことでしょうか?

モニカさん

まず、フィンランドでは雇用主や会社は生産性アップのために、従業員が自分をケアすることを奨励しています。それに、効率よく働くために、身体的にも精神的にもいい状態を維持することは、従業員の責任だと言われています。だから、私は自分自身をしっかりケアして、勤務時間中にきちんと仕事を遂行する必要があるんです。

働き方に関する質問で返ってくる答えとしては思いもよらないけれど、とても基本的なことが返ってきました。効率的に働くために、モニカさんは具体的にどんなことを実践していますか?

モニカさん 

基本的には、よく食べて、十分な睡眠を取って、運動をして体力をつけること。それから、仕事も家庭生活も大切にしています。家族や友人、社会的な生活や趣味の時間などのプライベートの生活と仕事のバランスを取って、身体的にも精神的にも自分をケアしています。

仕事もプライベートもどちらも人生に欠かせないものです。

さらに、日本で暮らしたことのあるモニカさんならではの視点と講座に対する熱い気持ちを聞くことができました。

モニカさん

日本の人たちはとても長時間働いていて、雇用主や会社に自分自身を捧げて、週末も働くことがありますよね。仕事とプライベートのバランスをとるために、フィンランドのアイデアを共有したいんです。

萌さん

仕事との距離感を考えてみたら、日本人って仕事との距離がすごく近いと思う。いつも仕事のことを考えている気がします。

モニカさん

フィンランドでは、仕事との距離はもっと離れています。仕事が終わったら、もうそれで終わり。仕事は仕事、生活は生活。日本だと仕事は個人的なもので、人生で最も重要なことなのかもしれませんね。それで、萌さんと2人で話した結論は、仕事からもう少し距離を置こうとすることが助けになるかもしれないよね、ということ。

萌さん

私たち日本人にとっては、一見リスクに感じることかもしれないけど、自分を優先してケアして仕事と距離を置くことで、むしろ仕事に対しても前向きになれると思うんです。

自分の仕事をとらえ直そう

「1日のうち、仕事をしている時間の割合って大きいので、仕事を好きになれたら、人生が豊かになるのではないか、と思うのですが、モニカさんはどう思いますか?」と質問したところ、「要求が高すぎたり、難しい同僚がいたり、メンタルを保てないような難しい状況にある人など、誰もが今の仕事を好きになれるとは限らないと思うけれど」と丁寧な前置きがあった上で、こんなふうに答えてくれました。

モニカさん

自分の視点や働き方を工夫することで、仕事に対する気持ちを前向きに変えられる可能性があると思います。自分の仕事観について考えてみるといいでしょう。最近は、私は自分のためではなく、自分の仕事を通して他の人にどう貢献できるか、ということを考えています。

自分の仕事にどんな意味を見いだせるかを考えるなら、それは個人的な内省の時間なのかもしれません。「私は誰かの役に立てているか?」「何か小さなことでも貢献できているか?」と問い直しています。

これらの問いに、簡単に答えが出るわけじゃないけどね、と言いながら、さらにモニカさんは最近フィンランドで広がりつつある「ファインチューニング(柔軟な業務の微調整)」について教えてくれました。

モニカさん

小さなことだけど…例えば、朝の集中力がある時間に重要な仕事を入れる。でも、疲れている朝にはそういう集中力の必要な仕事は午後に回したり、リフレッシュのために小さな休憩を挟んだり、昼休みに同僚と話したり。私の上司は、集中したい時、メールの通知をオフにしています。業務を邪魔する通知が集中力を欠きますから。こうした小さな工夫が、仕事の感じ方に大きな違いをもたらすと思います。

近年、フィンランドではこの“ファインチューニング”という考え方が、ウェルビーイングや働き方改革のキーワードとして注目を集めています。これは、「劇的に変える」のではなく「ほんの少し整える」ことで、自分らしいペースを取り戻し、よりよく働き、生きるための技術なのです。

モニカさん

自分の仕事にどのように意味やモチベーションを見出すかを考えるのは重要なこと。ファインチューニングが、モチベーションを上げるための私の答えだと思います。仕事をしながら、新しいことを学んだり、業務を調整したり、そういうことができたらいいですね。

私たちの講座のアイデアは、まさにここにあって、小さいけれど、みなさんの役に立つことを見つける手助けをしたいと思っているんです。

萌さん

本当に小さいことなんです。でも、とても重要なこと。

モニカさん

そう、小さいけれど、ある意味、とても大きなことかもしれません。人生や日々を変えてしまうようなものになるかもしれないから。

上司は簡単には変えられないけど、自分の視点は変えられるでしょう?

小さなことが、働き方と人生を大きく変える

2人の話から、「自分の視点を変えたり、自分のコンディションを整えることが、仕事へのモチベーションや満足感につながる」——そんなフィンランド流のやり方が垣間見えたのではないでしょうか。

「でも、自分ひとりではどうやったらいいかわからない…」

「具体的な方法はどうやるの?」

そんな方に向けて、モニカさんと萌さんが一緒に企画した連続講座を開催します。

【オンライン】フィンランドのウェルビーイングと働き方を学ぶコース

フィンランドのライフスタイル専門家であり、日本での就業経験もあるモニカさんは、日本とフィンランドの両方の視点をお持ちです。

また、今では組織に関する研究者ですが、フリーランスや作家としての実績もあり、働き方の面でも多様な経験をされています。

そんな幅広い観点から、モニカさんにしかできないお話をしてくださいます。

モニカさんのお話は英語になりますが、当日は通訳がありますので、英語に自信がない方でも安心してご参加いただけます。

このコースでは、今の仕事にどう向き合うかを一緒に探っていきます。「仕事に意味を見出せないなら転職」というような大きな変化を起こすのではなく、自分にとっての「いい1日」を考えたり、マインドフルネスのやり方を学んだりと、日本でもすぐに実践できる具体的で効果的なアイデアをお伝えします。

フィンランドと日本の働き方の違いを学びながら、日本で働くあなた自身の働き方が心地よくなるヒントを見つけませんか?

第1回目は2025年6月11日(水)よりスタートです。
お申し込みはこちらから。
みなさんにお会いできるのを楽しみにしています!

Text by ひらみん(ふつうの会社員)

フィンランドや北欧は十数年以上に渡ってわたしをワクワクさせてくれています。今日は、そんなフィンランドや北欧のデザインを通してそれらはなぜわたしをワクワクさせてくれるのかを考えてみたいと思います。

読んでくださるあなたにとっても北欧の魅力を発見し、ワクワクしていただけたら嬉しいです。

わたしが北欧を知ったきっかけ

思い起こすと、わたしは10代のころからアメリカの映画を観ることが大好きでした。E.T.やバックトゥザフューチャー、あとは王道のラブコメも!

アメリカンな世界観に憧れが生まれ、中学生時代は大の苦手だった英語にも高校生になってから真面目に取り組むようになりました。

教材のなかに出てくる大きな家、お庭、スクールバス、ハンバーガーショップやスーパーなど、なにをみても可愛くてワクワクしました。いつか自分もその世界を体験したいと思うようになりました。

それからアメリカやカナダでホームステイ体験をして憧れの世界を実際に体験でき、日本ではアメリカ発祥のコーヒーチェーン店で働き始めました。

そんなアメリカ大好きだったわたしが、気づいたら北欧に魅せられていたのは何がきっかけだったんだろう…と、このメディアで記事を書くようになって振り返ることができました。

そこで自分の記憶を辿ってみたところ、2005年万国博覧会で行った「北欧館」がきっかけのようです。

2005年の万博は愛知で開催され、わたしは名古屋に住んでいたので何度か行きました。

家族で初めて目にする各国のおやつやごはんを食べたり、帰りの電車(リニモという無人電車がこの万博の目玉でした!)がとても混んでいて疲れ果てたり!

でも楽しかったな〜!という思い出がよみがえりました。

どのパビリオンもとてもきらびやかでその国の食べ物も新鮮でウキウキしましたが「北欧館」はグレーを基調にした館内、木製で丸みを帯びた通路、カフェテリアの椅子やテーブルは確かオフホワイト系で、とても穏やかな空気感。一番印象に残ったパビリオンでした。

それから1年後、映画「かもめ食堂」が公開されます。「かもめ食堂」の淡々とストーリーが進んでいく様子、やはり景色の緑や湖、そしてインテリアや食器、どれも清らかで心がリフレッシュされる感覚がわたしの「北欧」に惹かれていったきっかけだったなぁと思います。

「かもめ食堂」は、公開されたときと、初めてフィンランドとスウェーデンへ旅行に行く前に一緒に行く友達と観なおした楽しい記憶があります。

あなたにとって今惹かれているものやことのきっかけはいつ、どんなことでしたか?

記憶を辿ってみると、その時の気持ちや大切な人との思い出が今の自分を豊かにしてくれるかもしれません。

北欧デザインのこれまで

マリメッコやイッタラ、リサラーソンなど日本でも有名なものにワクワクさせてもらっていますが、今までスカンジナビアンデザインの歴史やどんな想いで創られてきたかを知る機会はありませんでした。

今回、北欧デザインについて書くことをきっかけに、その歴史を紐解いてみました。その学びをここでシェアさせてください。

北欧デザインが世界に広がっていったきっかけは、18世紀〜19世紀にかけて起こった産業革命や万国博覧会などによる影響が大きいそうです。わたしが北欧に興味を持ったきっかけである万博が影響していることに、とても親近感が湧きます。

この時期にフィンランドの農家の手工芸品に関心が集まりました。理由はフィンランドの伝統文化であることや、厳しい気候の中で収入が安定しない農家の人々が生活道具として作っていた手工芸品のクオリティが高かったことでした。

わたしは、フィンランドやスウェーデンの手編みのかごが好きですが、始めは農家の方が丁寧に手作りされていたんだなぁと感慨深く感じました。

そして産業の近代化により20世紀初頭のヨーロッパでは大量生産のために企画や様式を変化させていきました。それが大量生産による品質の低下につながっていき、これを改善するために、北欧では手工芸協会が設立されました。

そして、近代化に逆らうのではなく、工業生産に適したデザインも取り入れるようになります。

スウェーデン、グスタフスベリ社のウィルヘルム・コーゲは大量生産ながらも温かみのあるデザイン、家庭での調理のしやすさを考えた陶磁器を提案しました。

グスタフスベリ社の名前は知っていましたが、それらが時代に合わせながら作られていることや、生活スタイルの変化に合わせながら機能性とデザイン性のバランスをとっている点などが長く愛される理由だと感じます。

フィンランドのアラビアもとっても有名ですよね。

量産品に対しては、グスタフスベリ社のウィルヘルム・コーゲと同じ思いを持ちながら簡素化、合理化してつくられました。

確かにシンプルでどんな食事やインテリアにもなじむデザインのものが多く、実際にわたしもマグカップなど使っていますが、落としてもなかなか割れませんし、他の食器や食材の邪魔をしないデザインです。

陶磁器だけでなく、テーブルや椅子などのインテリアも魅力的ですよね!

北欧ではデザイナーが職人を兼務していたり、職人と協働することを大切にしていたそうです。

アーツアンドクラフツの思想のもと、デザインだけでは美しいプロダクトは完成しない。デザイナーは職人を大切にし、その地位を高めていく関係性は他国から憧れを抱かれていました。

※アーツアンドクラフツとは

19世紀後半からイギリスで起こった手工業、職人の仕事を再考、実践する運動。ただ大量生産することではなく、今まで丁寧に手作業でモノづくりをしていた職人さんに焦点を当てて、手作りにしか出せない美しさや長く愛される手工芸品を復活させる取り組みです。

アーツアンドクラフツはアメリカでも評価され、1950年代に日本でも北欧デザインが流行ったのはアメリカの影響が大きかったようです。

ニューヨークのMoMA美術館はご存じですか?

MoMA=The Museum of Modern Art。時代に先駆けて洗練されているとても格好いい美術館ですよね!

1950年から1955年にかけてMoMAでは「グッドデザイン展」が開催され、小さな日用品から高級家具までが展示されていました。それらはイームズなどデザインの第一人者たちが選んだものだったのです。

アメリカの有名デザイナーと北欧デザイナーとのつながりがあったことは全く想像していませんでしたが、とても興味深いですね。

同じ時期に、およそ4年をかけてアメリカ、カナダの24か所を巡回した「デザイン・イン・スカンジナビア展」が開催されました。

こちらも北欧4か国(フィンランド、スウェーデン、デンマーク、ノルウェー)から集められた生活用品が展示されていて、美術館の集客数記録を塗り替えるほどの人気になったのだとか…!

そのころにタイムスリップして観に行きたいです!

陶磁器、インテリアだけでなく、ラグも北欧の代表的なプロダクトです。

ラグの分野においては、女性の地位向上のための取り組みもされていました。

今日では幸福度世界上位を占めている北欧ですが、1900年代はまだまだ働く女性の地位は低かったのです。しかし、これに異を唱えたスウェーデンのメルタ・モース・フェッテルストロームは女性労働者へあらためてラグ織りの素晴らしさと「地位が低いのではなくこれからの社会を担っていくデザイナーになれる」という思いを伝えていきました。これらの活動を通して、ラグ織りをがんばっている女性たちの意識を向上させていったというところはさすがだな〜と思います。

また、日本の民芸家と北欧デザイナーとの交流もありました。

1900年前半の頃の民芸家である河井寛次郎、北大路魯山人とカイ・フランクやスティグ・リンドベリらが出会い、お互いに良い刺激を受けあっていたのだそう。彼らはどうやってお互いの存在を知りえたのだろう?どんな話をしたのかな?と、とても気になります。

わたしは京都にお気に入りのビンテージショップ(アメリカやヨーロッパ各地の骨とう品がセンス良く並んでいるお店です)があるので、時々行っています。

京都の五条坂にある河村寛二郎記念館へ行ったことがあり、古きよき温かみのあるインテリア、今でも古さを感じさせない陶磁器にときめきました。

それは北欧デザインに対してワクワクする感覚と同じだったなと気づきました。

そして、20世紀初頭にどうやって北欧と日本はつながっていったんだろうと気になりました。

学びがもたらす、豊かな毎日

北欧デザインについて深く知ることで、漠然とした「好き」が、なぜ好きなのかという明確な理由に変わり、さらに世界への興味が広がっていくのを感じました。

このように、自分をワクワクさせてくれることについて「学ぶ」という行為は、わたしの毎日を確実に豊かにしてくれています。

きっとあなたにも、気になることや好きなことがあるのではないでしょうか。それらについて本を読んだり、イベントに参加したり、少しずつ行動してみると、新しい発見や世界とのつながりが生まれ、心が躍るのを感じられるかもしれません。

もしフィンランドや、そこで育まれた暮らしのデザインに興味が湧いたなら、このメディアの運営母体であるエラマプロジェクトが、さまざまな学びの機会をご用意しています。

日本とフィンランドの意外な共通点を探るオンライン講座や、現地の空気に触れるオリジナルプログラムなど。

特に今年の夏には、まさにこの記事のテーマとも響き合うような「ホームインテリアと豊かな暮らしを描く」フィンランド現地プログラムを企画しています。
アルヴァ・アアルトの自邸や現役デザイナーのアトリエ、そして現地の一般家庭を訪ね、湖水地方の美しい自然の中でシェフが腕を振るうディナーを味わう…そんな、デザインと暮らしの豊かさを五感で体験できる特別な旅です。

わたし自身も以前、エラマプロジェクトのフィンランドツアーに参加した経験がありますが、そこで過ごした時間、出会った人々、そして得た学びは、今も私の人生を照らしてくれる宝物になっています。大人になってからの学びや体験は、本当に心を満たしてくれるものだと実感しました。

こちらのプログラムについて、現在無料のオンライン説明会も実施しています。ご興味があれば、ぜひエラマプロジェクトのウェブサイトを覗いてみてくださいね。

エラマの学校「フィンランド現地プログラム」 – Elämäプロジェクト

あなたにとって、心を豊かにしてくれるものは何ですか?

その「好き」という気持ちを大切に、少しずつ学びを取り入れながら、あなたらしい彩りある毎日が紡がれていきますように!

参考文献:「北欧デザイン」の考え方: プロダクト、建築、テキスタイル 名作をつくった人と時代とアイデンティティ

Text by majakka(マヤッカ)(ウェルビーング探究人)

こんにちは。エラマプロジェクトの和文化担当、橘茉里です。

私は時々、歌舞伎や文楽(人形浄瑠璃)といった伝統芸能を観に行きます。

「伝統芸能」と聞くと、「堅苦しそう」「難しそう」と感じる方もいらっしゃるでしょう。

確かにそういう一面もありますが、実は、現代人もびっくりするほどドラマチックでエンタメ性の高い作品もたくさんあります。

例えば、昼ドラのような愛憎劇、逃避行、心中、ストーキング、転生、BLなどなど。

結構なんでもありなのです(笑)。

そんな中でも、今なお根強い人気があり、多くの作品に描かれているテーマがあります。

それが「忠義」です。

忠義のかたちは様々ですが、歌舞伎や文楽では「忠義のために我が子を犠牲にする」という壮絶な選択として描かれることがあります。

代表的なのが、江戸時代に生まれた名作『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』の四段目、「寺子屋の段」です。

敵方の家臣・松王丸は、恩義ある菅原道真の息子・菅秀才の命を救うため、自分の幼い息子を身代わりとし、菅秀才の代わりに首を討たれるよう仕組みます。

松王丸の妻もまた、息子が身代わりになることを知りながら、寺子屋へ送り出すのです。

もちろん、この夫婦に息子への愛情がないわけではありません。

我が子を想う気持ちをぐっと堪え、忠義を果たしたあと、夫婦はまるで血の涙を流すようにその悲しみを表します。

多くの観客は、あらすじを知ったうえでこの場面を観ます。

それでも「寺子屋の段」の愁嘆場(しゅうたんば)は、我々の強く心を揺さぶるのです。

この演目は今でも人気が高く、毎年のように上演されています。

私も何度も観に行きましたが、いつも不思議に思います。

なぜこの物語は、時代を超えて繰り返し演じられているのでしょう?

なぜ私たちは、こんなにも自己犠牲の物語に心を動かされるのでしょう?

今回は、そんな疑問について考えてみたいと思います。

忠義を通して、私たちが見たいものとは

江戸時代の武士にとって、「忠義」は生き方の核でした。

忠義は、主君に対する深い忠誠心を意味し、時には命を賭してでも果たすべきものとされていたのです。

そのため、主君の名誉や命を守るために、自らの命を惜しまない姿勢が尊ばれました。

仁・義・礼・智・信などの徳目が重んじられる中でも、「忠義」は特に重要な柱とされていたのです。

そして武士には、個人の感情よりも「大義」を優先することが求められました。

新渡戸稲造も『武士道』の中でこう語っています。

「武士道の教えはすべて自己犠牲の精神に貫かれている。」

「女性たちも主君のためならすべてを犠牲にするよう子供たちを励ました。侍の妻たちは、忠誠のためには自分の息子をあきらめる堅固な覚悟を固めていた。」

(著・新渡戸稲造、訳・大久保喬樹『ビギナーズ日本の思想 新訳武士道』より)


かつて理想とされた価値観においては、「忠義>息子の命」だったわけです。

しかし現代の私たちにとって、「自分の子どもを犠牲にする」という選択は、想像を絶します。

今の価値観では、むしろ「自分の命を差し出すより、我が子を犠牲にするほうが辛い」と感じ、「子どものためなら自分を犠牲にしてもいい」と考える人の方が多いように思います。

その点で、「寺子屋の段」のような物語は、現代人には受け入れがたい内容のはずです。

それでも私たちは、この物語に心を動かされてしまう。

私は、「想いの強さ」が見たくて、劇場に足を運んでいるのではないかと思うのです。

「どれだけ犠牲にできるか」は、想いの強さに比例するように感じます。

私たちは本気度が低いものに対して、大きな犠牲を払おうとはしないでしょう。

つまり「寺子屋の段」だったら、「息子を犠牲にしてまで貫き通したい忠義」という想いの強さに、私たちは感動を覚えているのではないでしょうか。

実際にそういう生き方をすることはとても難しいですが、普通は出来ないからこそ、私たちは無意識のうちに「想いの強さ」を伴った行動に憧れのようなものを感じているのかもしれません。

私たちは自由があれば満足なのか?

自己犠牲を美徳とする精神は、何も前近代に限ったことではありません。

例えば、日本の高度経済成長期を支えた企業戦士たちは、会社のために身を粉にして働き、私生活を犠牲にしてでも仕事を優先する生き方を選びました。

これは、武士の忠義に通じる精神性と言えるでしょう。

今でもそうした働き方を好んで選ぶ人もいますが、その一方で、現代では多様な価値観が広まり、「自由に生きたい」「自分のために、自由に時間を使いたい」と考える人も増えています。

では、仕事から解き放たれ、完全に自由になったならば、私たちはそれで満足できるのでしょうか?

定年退職後、やりがいを失ったり、暇な時間をどう使って良いか分からなかったりして、急に老け込んでしまう人がいるという話を耳にすることがあります。

自由を手にしても、それを有効活用できなければ、自由は毒にもなりかねない気がします。

私たちは、ただ自由なだけでは満足できず、「生きがいを持ち、日々満たされ、充実した人生を送っている」状態を必要としているのではないかと思います。

そして、充実した人生の一つが、「使命を持って生きる」という生き方ではないかと感じます。

だから私たちは、使命を持って生きている人に惹かれるのではないでしょうか。

そう考えると、忠義ゆえの自己犠牲に心打たれる背景には、「使命を持って生きたい」という私たち自身の願望があるように思うのです。

『鬼滅の刃』という作品が爆発的にヒットしたのも、単なるエンタメとして以上に、使命に生きる登場人物たちの生き様が、観る人の心を打ったからではないでしょうか。

煉獄杏寿郎という登場人物のこんなセリフがあります。

「胸を張って生きろ
己の弱さや不甲斐なさにどれだけ打ちのめされようと
心を燃やせ
歯を食いしばって前を向け」

(『鬼滅の刃』第8巻より)

彼は強い正義感と責任感を持ち、自らの命をかけて多くの人と仲間を守り抜きます。その生き様は、主人公である炭治郎たちにも大きな影響を与えました。

命の灯を燃やし尽くしながら戦い、最後に残された者たちへ言葉を託す――。「心を燃やせ」というセリフには、煉獄の覚悟と信念が込められているのです。

彼もまた、自分の信念と大義のために命を燃やした人物。「寺子屋の段」との共通点を感じます。

私たちの心を熱くさせるもの。

それはやはり、「想いの強さ」や「使命に生きたい」という情熱なのかもしれません。

心を燃やすことも豊かな生き方のひとつ

エラマプロジェクトでは、フィンランドの文化をベースに、「自分の時間を持つこと(マイタイム)」「休むこと」など、人生を豊かにするためのヒントをお届けしています。

エラマプロジェクトからたくさんのエッセンスを吸収していただきつつ、それと併せて、日本的な「心を燃やす」生き方というのも念頭に置いていただくと良いかなと思います。

どんなに小さなものであっても、自分の心を燃やせるものがあるなら、それはきっと人生を深く、豊かにしてくれるはずです。

あなたの心は、いま何に向かって燃えていますか?

その炎を、どうか大切にしてください。

Text by 橘茉里(和えらま共同代表/和の文化を五感で楽しむ講座主宰/国語教師/香司)

こんにちは!エラマライターのひらみんです。

あなたは自分の部屋を見渡したとき、「もっと居心地のいい空間にしたいな」と思ったことはありませんか?

引っ越しの際、どんな部屋にしようか悩んでいたときに私が出会ったのが、「ジャパンディ」という言葉でした。

世界的に注目が集まっているインテリア様式なのですが、シンプルでありながら温もりを感じられる暮らし方に繋がっています。だけど、単に流行しているインテリア様式ではなく、このメディアの運営母体であるエラマプロジェクトが大切にしている「わたしの豊かで幸せな生き方を見つける」というコンセプトに通じるものがあるんです。

なので、今回は、ジャパンディについて学びながら、エラマプロジェクトとの共通点を考えてみたいと思います。

最後までどうぞお楽しみください。

世界が注目する新しい暮らしの形

「ジャパンディ(Japandi)スタイル」とは、和風(Japanese)スタイルと北欧風(Scandinavian)スタイルを融合させたインテリアスタイルのことです。

2020年頃から海外で流行したのですが、ジャパンディスタイルが注目され始めたのは、コロナパンデミックの影響で、家で過ごす時間が増えたことによって、人々の意識が家の中に向き始めたことがきっかけと言われています。

「ジャパン」と、「スカンディナビアン」の「ディ」がくっついた言葉なんです。

概念としては、日本の侘び寂びと、北欧のヒュッゲが掛け合わされていて、自然との調和をベースに、両者の良さや共通点を活かしたスタイルのことなのだそう。

機能的で、シンプルなデザインの北欧スタイルと、日本の「禅」からくる落ちついた美しさが組み合わされているのが特徴です。

「自然や暮らしを大切にして、シンプルに生きる」という考え方が、ジャパンディの本質なんですね。

海外では、ジャパンディの書籍もいろいろ出ています。

Japandi Style: When Japanese and Scandinavian Designs Blend

Japandi Living

ジャパンディスタイルの部屋をつくるポイント

具体的にどんなものを使えば、ジャパンディスタイルになるのか、気になりますよね。

ポイントは3つです。

まずは、素材。

天然素材や、手触りがいい素材を使っていることが多いです。木材や石、土、麻などです。

次に、デザイン。

デザインは、シンプルでミニマルです。

色は落ち着いた色で、グレーとか白、茶色などのアースカラーが多く使われています。そこに、緑とか青、黒などでアクセントになるような色も使われています。

最後に、余白を楽しむこと。

「侘び寂び」とか「禅」など、日本の精神性を楽しむ、ということなんですが、私は、それは「非対称の美しさ」にあるのではないかと思っています。

対称・非対称は、シンメトリー・アシンメトリーとも言われますが、シンメトリーの美しさは荘厳さや安定感があります。ヴェルサイユ宮殿とか、ヨーロッパの庭などは、完璧なシンメトリーで整えられています。西洋建築では、伝統的にシンメトリーこそが美しいという考えが主流です。

この完璧な調和!!(ヴェルサイユ宮殿)

一方でアシンメトリーには、動きやダイナミックさがあります。日本の床の間や生け花は、アシンメトリーの美しさを感じられると思います。そこに余白があるんです。

この完璧な調和!!(ヴェルサイユ宮殿)

これ以上の詳しい実践方法については、専門のインテリア系のサイトに譲りたいと思いますが、私がよく見たサイトはこちらです。どちらも具体的な取り入れ方が書いてあるのでわかりやすくて、自分でもやれそう!と思わせてくれます。

ハローインテリア|https://hellointerior.jp/note/post-31683/

Re:CENO|https://www.receno.com/pen/coordinate/u51/2024-02-16.php

「ジャパンディ」と「和フィン折衷」はどう違う?

日本文化と北欧文化を融合させて、いいとこ取りしたインテリア様式がジャパンディスタイルですが、エラマプロジェクトでも、和文化とフィンランド文化を掛け合わせて「和フィン折衷」と呼んでいます。

シンプルなライフスタイルを掲げて、ひとの内面的な心の豊かさを重視する価値観は共通していると感じます。だけど、ジャパンディと和フィン折衷には、ひとつ大きな違いがあります。

それは、色の使い方。

ジャパンディではアースカラーで、グレー、ベージュ、ブラウンなど、彩度が低く、落ち着いた色が中心です。

逆に、和フィン折衷では明るい色を取り入れています。マリメッコやアラビアなど、フィンランドデザインでは、パステルカラーやビビッドなアクセントカラーが入っていますよね。

このように、色の取り入れ方が全然違います。

リラックスして過ごす空間に、自分が元気になれる色や好きな色があると、もっと心地よく過ごせると思います。ジャパンディはとっても素敵だけど、なにか物足りない気がして、実は私にとっては居心地の良い空間というわけじゃないかもしれない、という考えにたどりつきました。

でも、ジャパンディは、単なる部屋のデザインではなく、「自分にとって心地よい暮らしとは?」を考えるきっかけになりました。

「わたし」の豊かな暮らしをつくるために

ジャパンディはとても素敵ですし、考え方にも大いに共感できるけれど、必ずしもすべてをそのまま取り入れる必要はないのかもしれません。実際に私は、そのまま全部を取り入れようとは思っていないんです。

例えば、私が取り入れたのは、

●フローリングや壁が白いので、カーテンは白にしました。そうすると、白が多すぎるので、カーペットをグレーにして、落ち着いた印象を持たせました
●ソファは、布張りのブラウン
●テレビ台やソファ前のローテーブルは、同じお店で購入して、色を統一しました●テレビ台に観葉植物を置きました
●だけど、ソファに置いてるクッションは、アースカラーではなく、スウェーデンカラーです。ソファの色と合ってないかもしれないけど、お気に入りのクッションなので。

結局のところ、一番大切なのは「自分にとって心地よい暮らしとは?」を考えること。

スタイルに縛られず、自分が本当に落ち着く空間を作ることこそ、「私の豊かな暮らし」への第一歩です。別にジャパンディでなくても、カントリー風でも、シックでも、SFサイバー的な感じでも、「わたしが心地よく過ごせる空間」を自分の家の中に作ることはできそうじゃないですか?

エラマプロジェクトが提案する「和フィン折衷」は、単なるデザインやインテリアの話ではなく、「わたしにとっての幸せ」を見つけるための考え方でもあります。日本とフィンランド、それぞれの文化の良い部分を取り入れながら、「自分にとってちょうどいい心地よさ」をデザインすること。それは、部屋づくりだけでなく、生き方そのものにもつながっています。

暮らしの中に少しでも「好き」や「心地よさ」を増やしていくことができたら、それだけで毎日がちょっと豊かになる。

エラマプロジェクトが大切にするのは、そうした「わたし」の「豊かで幸せな生き方」をデザインすることです。

あなたなら、どんな「わたしらしい豊かで幸せな空間」を作りますか?よかったら教えてください!

Text by ひらみん(ふつうの会社員)

こんにちは、ライターのpieniです。

現在全国で上映されている映画「小学校 〜それは小さな社会〜」を見られた方はいらっしゃいますか?

私は「関西日本・フィンランド協会」さんのFacebookで、教育大国フィンランドでも大ヒットした映画として紹介されていたのをきっかけにこの映画を知りました。

現在小学1年生の娘の母として奮闘中のわたくし。

とくに今年は4月から10月までの期間、小学校の教室で母子登校(母子で授業に参加する)というちょっぴり貴重な体験をきっかけに、小学校の取り組みや先生、教育にとても興味を持つようになりました。

それもあり、この作品を見に行きました。

この映画を通して、感じたことや考えたことがたくさんあったので、わたしなりのレビューをお届けしたいと思います。

映画「小学校 〜それは小さな社会 〜 」公式サイト
https://shogakko-film.com/

「小学校〜それは小さな社会〜」から生まれた短編版「Instruments of a Beating Heart」で映画の一部を見ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=DRW0auOiqm4

6年生になると「日本人」?

映画「小学校 〜それは小さな 社会 〜 」は東京都世田谷区の塚戸小学校の1年間に密着し、新1年生の入学から6年生の卒業、そして次年度のスタートまでの学校生活を追った教育ドキュメンタリー映画です。

監督はイギリス人の父と日本人の母を持つ山崎エマさん。

「6歳児は世界のどこでも同じようだけれど、12歳になる頃には、日本の子どもは“日本人”になっている。すなわちそれは、小学校が鍵になっているのではないか」との思いを強めた彼女は、日本社会の未来を考える上でも、公立小学校を舞台に映画を撮りたいと思った。
映画「小学校 〜それは小さな 社会 〜 」公式サイトより

このようなきっかけから、エマ監督は4,000時間にもなる膨大な時間を現場で過ごし、小学校の児童や先生、学校生活そのものを映し出しています。

映画では特に大きな事件が起こるわけでもなければ、特殊な教育プログラムが出てくるわけでもなく、日常の学校生活が年間行事に沿いながら淡々と映し出されます。

しかし児童や先生が、何かアクションを起こしたとき「そのとき何を考えたか」については、本人の話し声やインタビューシーンによって伝わってきます。

また、1年生と6年生に焦点があてられ、小学校生活6年間で子どもたちはどのように変化するのか、どのように「日本人」になるのか、そこに注目して1年生と6年生の対比を描かれているようにも感じました。

映画を見ている最中も、見終わった後もさまざまな感情が沸いてきました。

私の場合は子育て中なので、気が付けばどうしても「母親の気持ち」で見ていました。

1年生の児童が授業中寂しくなったり、できないことを乗り越えなければいけないシーンがあり、つい娘と重ねてしまい涙する。

6年生の先生が卒業する子どもたちに話しかけるシーンがあり、感動で涙。

また、先生自身も己のポリシーを貫くことと、保護者からの声、児童の反応の中で迷いながら1年間の学級運営をされる姿にまた涙…。

このようにさまざまなシーンで、ハンカチとティッシュが必要な作品でした。

そんな状態になりつつも、この映画から小学校について強く感じたことがありました。

大人になった今、あなたは小学校の世界を知っていますか?

小学校。日本では義務教育ということもあり、大人になるまでに多くの人が一度は体験する世界。

しかし、卒業後は学校の先生にならない限り、詳しくその世界を知ることはないのではないでしょうか。

保護者になったとしても、参観日や先生との懇談、運動会や音楽会などのイベント、子どもからの話で知る程度。

PTA役員や、ボランティアなどで関わることがあるかもしれませんが、それでも学校の日常を知ることは難しいと思います。

わたし自身、この後に書く小学校との関わりがなければ、知ることができない世界だったと思います。

この映画は、舞台となった塚戸小学校のすべてが映し出されているわけではないと思いますが、普段は深く知ることができない小学校の「今」を広く世に知らせてくれたと感じています。

映画のポスターやWEBサイトには「いま、小学校を知ることは未来の日本を考えること」というキャッチコピーが掲げてあります。

まずは、小学校の世界を知るということ。そして一人ひとりが考えること。

これこそがこの映画の重要なポイントだと感じています。

映画を企画された監督はもちろん、世界に学校の様子を公開すると決意された塚戸小学校の先生や保護者の方々の勇気に賞賛を送りたいと感じました。

「小学生」そして「日本人」になるということ

ここから、私の体験談も織り交ぜて感想を書きます。

うちの娘は入学時に「学校に行くのが怖い、ひとりでは行けない」という状態でした。

なので学校に慣れるまで母子登校という道を選びました。

母子登校について聞いたり、調べてみると、お母さんは別室や車の中で待機して過ごす、子どもと一緒に図書室など教室とは別室で過ごすなど、いろんなパターンがありました。

うちの場合は子どもの不安が強かったため、しばらく授業も一緒に受けさせてもらえるようお願いしました。

教室の一番後ろに座り、1年生の授業を一緒に受ける日々。

今思うと、毎日が参観日。

小学校を卒業して以来、実に29年ぶりに小学校へ通い、リアルな学校の世界を知ることができました。

保育園児だった子どもたちが入学を機に、集団生活で必要なことを身につけたり、授業として初めて字を習ったり、計算を習う。

時には怒られたり、問題の答えが分からず悔し涙を流しながらも、できるようになる様子や、学校の中で1日1日と段階を踏んで「小学生」になる姿を目の当たりにしました。

たとえば、集団で移動するときは列からはみ出さない、自分の場所をしっかり守る。そうでなければ、学校で迷子になったり、階段から落ちたり危険なこともある。

授業の始まりと終わりにはしっかり挨拶をする。遊ぶときは遊ぶ、時間を守ってけじめをつける。

一見窮屈そうで、特にうちの娘はそういった集団行動が苦手な面はあるのですが、この一番初期の教育を受け、小学生になっていく過程が社会に出たときの基礎的な力になっていると感じたのです。

ひとつ面白いと思った事例があります。

おそらく日本人の多くの人が経験したことがあるであろう「プリント回し」。

プリントを1枚もらったら、自分の分をとって後ろの人に回していくというあれです。

私は気が付いたころには何も考えずに回していましたが、これも1年生の時にやり方を教わっているのだと発見しました。

1年生になってしばらくの間は先生が1枚1枚プリントを配っておられましたが、1か月ほどたち、児童たちが学校生活に慣れ始めたころに練習が始まりました。

「プリントをもったら、自分の分を1枚とりましょう。残りのプリントは後ろを振り向いて、どうぞと声をかけて渡しましょう。もらった人はありがとうと言いましょう。そしてまた後ろの人へプリントを回します」

このように詳しくレクチャーしてから、プリント回しの実践スタート。

はじめはバサッとプリントを全部落とす子もいるし、自分のをとり忘れてしまう子もいる、途中で止まっていることもありました。

しかし、数週間もするとみんなスムーズにプリントを渡せるようになっていき、それが日常となりました。

社会に出てからは、なかなかプリントを回す機会は減りましたが、それでも何らかの集まりに出たときはスムーズに資料を回しています。

気にも留めていなかった行為ですが、このプリント回しのように、社会で生きていく基礎を小学校で教わってきたのだと思います。

映画でも、給食の配膳や掃除、挨拶をする、シューズをそろえる、廊下の進行方向に気を付けて歩くといった基本的なことを教えてもらい取り組むシーンが出てきます。

このような日常生活の基礎を教えることが日本が変わらず取り組んできた、日本の教育だと感じました。

また、作中で6年生が最上級生としての心構えを新学期に言い渡されるシーンがあります。「自分の殻を破れ!」と起業塾などで言われるような言葉をかけられる6年生。

運動会の練習中、なかなか課題をクリアできない子どもたちに向けて再びその言葉が出てきます。「結果ではなく、過程が大事なんだ。目標に向かって殻を破れ!」。

正直、今どきの小学生はそこまで求められるのか!と驚きました。

作中には、最上級生としての姿を見せたり、運動会に向けてできなかったことを自宅でも何回も練習するシーンがあり、先生の言葉を実践している姿が見えました。

娘が通う小学校でも、6年生ってこんなに賢かったっけ?私の時代はもっと適当だった気がする…と思うような姿を見ることがあります。

娘が教室に入れず廊下にいると、すれ違う6年生が面白いことを言って笑わせてくれたり、手を振ってくれたり。母としてもその6年生に何度心を救われたことか。

運動会など全校の活動ではリーダーとして引っ張っていく様子もよくわかりました。

賛否はさまざまあれど、日本人らしい頑張りや集団行動、秩序を守るということは、確かに小学校で基礎がつくられているのかもしれません。

先ほども書きましたが、小学校での生活や教育の様子は、授業参観だけではわかりません。この映画を通して、日本の小学校の世界を知る機会が広がったことは、日本人を知ることや、自分たちがどうやって学んできたのかを振り返るきっかけになると感じています。

見た後に小学校について考えたくなる

この映画の一番の醍醐味は、小学校という多くの人が通る世界を題材にしていることから、映画を見た後に「感情が動く、感想をシェアしたくなる」ことではないでしょうか。

教育関係、暮らし関係のWEBコラムや、個人のブログやnoteなどでも、考察記事やレビュー記事が多いように感じます。

私も、映画を見た友人たちと感想シェア会を行いました。

そこで出た感想を一部ご紹介します。

●1年生も6年生も考えていることが思った以上に大人で驚いた
●子どの頑張りはもちろん、先生たちも悩みながらも一生懸命接してくれてるんだと涙が出た
●責任というキーワードがよく出てきたが、それは子どもにとっては重いと感じた
●自立はしてほしいけれど、責任に押しつぶされてほしくない
●6年生の男の子が「大人になりたくない。だって大変そうだから」というシーンがあった。それは残念だけれど、大人が大人になりたい姿を見せれていないから
先生にもっと心の余裕を持たせてあげたい
●朝早く来て、授業もして、学校活動も担い、事務的な仕事もする。それではゆっくり考える時間もない
●先生ひとりで40人ほどを見るのはかなり負担。ピザ2枚でお腹がいっぱいになれる人数でなければ、チームが大きすぎるという理論(アマゾンのCEO、ジェフ・ベゾスの「ピザ2枚の法則」)を参考にすると、とてもではないけれど運営は難しいと思う
●先生の役割についていろいろ考えることができる。例えば、大学のように授業はその専門の先生にお願いして、担任の先生はファシリテーターや、児童一人一人の様子を見て気づいたことを手助けするなど、全体を見ることに特化してはどうか
●先生が何をしたくて、何を専門にしたくて先生になったかを聞いてみたい
●先生それぞれが、何のプロだと思っているかで学校運営や、役割が変わってきそう

などなど、子どもに関しての感想から、先生へ対しての想いなどさまざまな声が聞けました。

ひとりで映画を見ただけでは気づかなかった「学校の在り方、学校の運営、先生の在り方」などを考える機会になりました。

この映画を見た方が、ほかにはどのような感想を持たれているかとても興味深いです。

また、この映画に関してぜひ読んでいただきたい記事があります。

なぜ「教育大国」フィンランドが、日本の公立小学校に注目するか? ー日本とフィンランドそれぞれのリアルを専門家が語り合うー【オフィシャルレポート】

山崎エマ監督と、フィンランドの教育専門家、日本の教育の専門家、映画に出てくる塚戸小学校の先生とでディスカッションされた時のレポートです。

この記事の中では、フィンランドの教育との比較や、フィンランドの教育専門家が感じた日本の教育のポイントについて書かれています。

また、映画を撮影したエマ監督や教育関係者の願いとして「この映画を通して日本の教育をもう一度考えるきっかけにしたい」といった話が語られています。

この記事の中のエマ監督の話から引用します。

ある小学校のお母さんが、この映画を見た後に泣きながら、「先生たちがこんなにも悩みながら、一生懸命議論しているなんて考えたことがありませんでした」と話してくれました。そして、「自分もこれまで学校に対してあまりプラスになるような行動をしてこなかった。不安が先に立ち、提案もできていなかったけれど、明日から何か行動を起こします」と言ってくれたのです。こうした気づきを持つ人が1人でも増えれば、学校や教員、教育に関わる全ての人たちを、みんなでリフトアップできるのではないかと思っています。

私も、母子登校で小学校を知ったり、この映画を見たことにより、学校に対して何ができるのだろう?と考えるようになりました。

まだ具体的にアクションを起こせてはいませんが、関わりをもつ機会を増やしたり、学校のオープンデーに参加したり、娘が通う学校の取り組みを文章を通じて世に伝えることをしたいです。

日本の学校や教育に関して、ほかの国と比較し自由や選択が少ないという厳しい意見もあります。

またわたし自身も学校にはいいイメージをもっていなかった時期もあります。

もちろん、時代が変わるにつれ学校や教育も変化が必要だとは思いますが、頭ごなしにダメだなどと思うのではなく、映画を見たお母さんがエマ監督に話されたように「学校にプラスになること」それを考え続けたいと強く感じました。

映画「小学校 〜それは小さな社会 〜 」はまだ全国上映中です。(2025年3月現在)

イオンシネマなど大きな映画館での上映も始まっているようですので、小学校の世界を知りたい方はぜひご覧ください!

そして感想を語り合ってもらったり、コメントでいただけると嬉しいです。

エラマの学校もにもぜひ来てみてください

「小学校 〜それは小さな社会 〜 」は日本の教育の話でしたが、このよむエラマを運営するElämäプロジェクトでは、フィンランドの教育や文化から自分の暮らし方を考える・描く「エラマの学校」を開講しています!

全国どこでも、世界のどこでもコースや講座を開講。オンラインでも学べるので、教育に興味がある方はぜひ覗いてみてください。

エラマの学校
https://elama.be/workshop/

丹波フィンランド大使pieni(ピエニ)

こんにちは!ライターのひらふくです。

さて、エラマプロジェクトの長寿企画といえば「哲学バー」!

毎月1回だけ集まってひとつのテーマをみんなで自由に話すこのイベント。2025年2月で記念すべき60回目を迎えました。

60回目のテーマは「生産性とは何か?」。

…はい、ここで仕事のことを思い出して、なんだか気分が落ちこんだ方には今回の記事をおすすめします!

なぜなら、私も同じようにこの言葉にモヤモヤしながら哲学バーに参加したから。そしてその後は少しだけ「生産性」に前向きになれたから。

哲学バー2号店、今夜は私と語り合いませんか。

「生産性」ってなんだかこわい

生産性という言葉の意味は「投入した資源や労力に対して得られる成果の量や割合」だそうです。Productivityという英単語の和訳で、もともと日本語にはない言葉でした。

少ない労力で大きな成果が得られたら生産性が高いね!と言われます。

2月の哲学バーでは、参加者さんがいろんな角度から切りこんでいました。

「生産性は最初のゴール設定が大事だと思う」

「人間関係でも生産性ってあるの?」

「社会にとっての生産性もあれば自分にとっての生産性もある」

「実は生産性が低い時なんかないんじゃない?」

「難民支援の現場では、いくら支援しても立ち上がらない人もいるけど、じゃあその活動は生産性が低いの?」

「会社は上司受けする人が出世する。生産性が低くても要領のいい人の方が出世する」

さすがの着眼点…。どれもじっくり考えてみたくなります。

ですが、その時の私が思っていたのは実はすごく単純なことで。

「生産性ってなんだかこわい言葉だな」でした。

必要なのはわかるけれど、プレッシャーをかけてくるようで緊張感があって、ともすれば壁のように立ちはだかるもの。絶対的な良し悪しの指標として私たちを測るもの。

社会も企業も「生産性を上げよう!」と叫ぶけれど、本当はみんなその言葉は好きじゃないんじゃないかとさえ思いました。

ネジ1本の価値

哲学バーの楽しい点は、いろんな立場・いろんな年齢の方が集まるところです。だからこそ自分にない発想にハッとさせられます。

この日の私に飛びこんできたのは、参加者さんのこの言葉でした。

「自分は上司としては向いてなかった。コツコツ現場でやるのが好きだったんです。だから評価はされませんでした」

その会社では、上司になること=生産性が高い=評価されるという図式でした。

でも、本当にそうなのでしょうか。生産性ってそういうことなのでしょうか。

私は今まで人事という仕事をしてきました。いろんな部署にお邪魔していると、どの仕事も、なければ会社が回らないことがわかります。

例えば、現場でネジ1本を大切に作る人がいるから、機械は安全に動くし、遠くまで人や物を運べるし、今日も誰かのもとに生きるために必要なものが届くのです。

だから、管理職の人よりも、現場の職人さんが尊敬されている会社だってあります。

「生産性」という言葉は絶対の指標に思えるけれど、実は「何をもって生産性が高いとするか」は会社や場所によって違うのです。

生産性って、私たちが思っているより、ずっとあいまいなものかもしれない。

するとなんだか緊張がほぐれてきました。

「生産性」で測りきれない私たち

場所によって生産性を測る指標はちがう。

じゃあ、私たちはどこを目指したらいいのでしょう?

ひとつは、あなたを喜んでくれる場所にいることです。

例えば、細かい数字が苦にならないならお金や品質をチェックする仕事につく。一方、何時間もゲームを続けられる人は、ゲーム会社でならいろんな活躍ができるかもしれません。

あなたがやってて楽しいこと、興味があること、苦にならないこと、自然とできること。

あなたにとっては当たり前でも、その力を高く評価し必要とする場所があります。

その場所にいられれば、あなたは「生産性の高い人」「いてくれて嬉しい人」であり、そしてあなたにとっても楽しい場所になりそうです。

そしてもうひとつ。

誰かに対して「生産性が低いな」と思ったとしても、その誰かも私の知らない何かを生み出している。それを忘れないでいたいのです。

会社にいると、その会社の目標に向かうために一定の指標で測られます。それはある意味では必要なことだと思います。

でも本音では、私は自分と誰かを比べて、高い・低いと評価したくもされたくもありません。

私が「生産性」という言葉をこわいと思ってしまったのは、その言葉の裏には誰かと比べられているんだという暗黙の了解があって、それが嫌だったのです。

本当は比べて評価する必要はないのでしょう。

私たちは誰もが何かを生み出していて、それはひとつの場所のひとつの指標だけで高い低いと測り切れるようなシンプルなものではない気がします。

場所が変われば指標も評価も変わる。

生産性ってそんなあいまいなもの。

振り回されずに、もう少し気軽に、この言葉と付き合ってみたいと思いました。

さあ、あなたにとって「生産性」はどんな存在でしょうか?

【告知】哲学バーは毎月開催しているオンラインの対話イベントです

次回の開催は3/12(月)20:00〜22:00。テーマは「もっと!寛容さとは何か?」。1月に大好評だった「寛容さとは何か?」の第2弾です。

哲学バーの開店日はこちらからチェックしてくださいね。
はじめての参加でも、顔出ししない聞き専でもOKです!

哲学バーの何が楽しいかって、問いは突き詰めても答えは出さないところ。
新たな問いを持ち帰ってもいいし解決しなくても自由です。

そこにあるのは、立ち止まって考えられる時間と仲間。
そんな夜をご用意してお待ちしています。

Text by ひらふく(フィンランド的働きかた実践家)

こんにちは。エラマライターのmajakka(マヤッカ)です。マヤッカはフィンランド語で「灯台」を意味します。わたしの文章を読んでくださったときに、灯台のように、みなさんが何かに迷ったり、目標にたどり着けるか不安になったときに目印になり、安心できるようなライターになりたいと思っています。

特に、3年ほど前から「自分にとっての豊かさとは」という概念を知り、自分にとって、まわりの人たちにとっての豊かさや幸せを考えたり、実感できることを探求しています。

今回はわたしが職場で感じたストレスから、自分にとっての豊かさ、幸せを高める術を発見したお話をさせてください。

異動して半年後、仲間との関係に変化が…

わたしはフランチャイズの飲食店の店長をしています。新しい店舗に異動して半年が過ぎました。新しい職場環境にも慣れ、仲間との関係構築も少しずつできてきているかなと楽観していたのですが、少しずつ変化が起きました。

初めは店舗でのリーダー的存在の方からの相談事。業務のことだったので、優先順位をつけながら改善していました。しかしその後、業務的なこともあるけれど、一緒に働く仲間が働きづらいと言っているという相談もいただきました。よく聴いてみると、わたしの店長としての想いが伝わっておらず、みんなが疲弊し、バラバラな方向を向いているようだ、という内容でした。

わたしの行動やコミュニケーション不足で申し訳ないと思いつつも、直接言ってくれたらその場で解決できるのにな…と少し悲しくもなりました。

この相談を聴いてから、少しずつ仲間一人ひとりにそれとなく話を聴いていきました。

すると、ある人に聞いたことと違う内容を聞くことになったり、わたしに対してではなく他の仲間に対して感じていることだったりと、様々な内容が出てきました。わたしは店長として何から取り組んだらいいのかわからなくなり混乱してしまいました。

どうすればいいの?

ひとつ対応してもそこじゃない。うまく話が聴けたかも!と思っても次の日には元通り…。

店長をしていてこんなに先が見えなくなったのは初めてでした。

毎日深夜2時頃目が覚めると、そこから朝まで眠れなくなりました。

また、これまでは風邪を引いても熱を出すことがなかったのですが、毎日熱が出て仕事を1週間ほど休んでしまいました。

最初は、わたしに対して不信感を持っている人がいることが辛くてストレスになっているから眠れなくなっているんだろうな、まだまだわたしは小さな人間だな、と思っていました。自己肯定感は低かったですが、なんとか改善していかなくちゃと考える日々でした。

日々職場でできることを考えて取り組んでいたのですが、数人の仲間がまだ笑顔で働けていないことや、人によって言うことが違うという状態が、どうにももどかしく、どうしたらいいか途方にくれてしまったのです。

そこで、全員で一度に話してもらい、これからすべきことを考えることに決めました。

最初は一人ひとり想いや大切にしている価値観が違うので、うまくまとめられるか不安でした。でも、わたしがみんなに聴きたいこと、これからどうしていったらみんなが笑顔で働けるかを考えられるように準備しました。

結果、全員がすべてを吐き出すことはできていないかもしれないけれど、仲間を思いやりながら話をしてくれ、また、仲間の話に耳を傾けてくれていました。

これからの方向性もみんなで決めることができ、明るい兆しが見えたのです。

また、わたしの店長としてはもちろん、ひとりの仲間としての働き方が前向きでなかったと気づかせてもらえました。今の仲間はお店への愛着が強く、より良いお店にしていきたいという意欲がとても高いことがよくわかりました。半年一緒に働いて、みんなで話し合ったことで改めてそれを感じ、仕事に対するわたしの意欲が少し恥ずかしくもなりました。

自分にとっての豊かさ、幸せについて考えることが増えたいまのわたしは自分の生き方にも変化が出てきていると感じています。そしてこれは仕事に取り組む姿勢に影響を与えていると思うのです。

それ以前のわたしは、いつでも全力で働いて、自分のケアは後回しにしていたようです(わたしが5年前にヘルニアになってしまったのも要因のひとつかなと思っています)。

ここ1〜2年は、仕事も大切だけど、自分にとって心身が健やかでいるために、お休みをちゃんともらったり、もう少しできるかもしれないけど自分に相談してここまでにして帰ろう、と考えて仕事に取り組むようになっていました。

でも、このことが今回、一緒に働く仲間とのギャップを生んでいたのかもしれません。

自分で自分への処方箋を出せたような気持ちに

この出来事はわたしにとってとても辛くストレスがかかることでしたが、自分が何に対して精神的に辛くなるのかを知ることができたと感じています。

最初は仲間がわたしに対して良く思っていないことが辛いんだと思っていました。でも、仲間の話を一気に聴くことでこれからすべきことがはっきりしたんです。

それは仲間一人ひとりがどんな想いで働いているのかを理解するために日々話を聴くこと、お店がどうやったらより良くなるかを伝えること、そしてそれを実際の行動で見せていくことでした。

モチベーションは一人ひとり違うので、みんなの想いに寄り添いながらもチームで働いていくことの楽しさを実感してもらえるようなコミュニケーションをとっていかなくては、という気づきを得ることもできました。。

その日から眠れるようになったんです。

もちろん、自分に対して何か言われたりすることは辛いです。今は自分のすべきことをかなり意識して働いていますが、全員が全員わたしに対する思いがポジティブになったとは思いません。一度話し合ったからって、その後の行動が伴っていかなければ根本は解決しないですよね。

でも、わたし自身はやるべきことがわかりとてもスッキリした気持ちで毎日眠れるようになりました。

わたしにとっての人生の豊かさ、幸せは先のゴールが明確になっていることが大切なんだと気づかせてもらえた経験でした。

悲しかったり、もやもやしたり、ストレスを感じることは生きていく上で辛いです。でも、そんなときでも自分にとって豊かで幸せに生きる術が見つかることがありますね。

わたしは今まで辛いことがあったら「あ~、しんどかった。もう起きないといいなぁ。これからはなんとか回避していきたいなぁ」くらいにしか捉えられないことが多かったのですが、今回自分で自分への処方箋を見つけられたことがとても嬉しいんです。なぜなら幸せで豊かな毎日を過ごせる機会が高まったなと感じることができたから。そんな自分を褒めてあげたいと思います!

自分の不調に向き合って、どんな対処法が合っているのかを考えて行動する。これも日々少しずつではありますが、自分を大切にする時間を作れている成果かなと思います。

自分で自分の人生の豊かさや幸せを見つけてあげることがまわりの人たちの幸せにもつながっていくといいですよね。

最後まで読んでくださりありがとうございます。これからもみなさんと一緒に日々の様々な出来事から自分で自分を元気にしてあげられる処方箋をたくさん見つけていけたら嬉しいです!

Text by majakka(マヤッカ)(ウェルビーング探求人)