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Elämäプロジェクト

【よむエラマ】臆病な私がSNSと向き合う。「人は、なぜ日常をシェアするのだろう?」

こんにちは、どさんこ大学生RUNAです!

突然ですが、みなさんはSNSをどのくらい活用していますか?

私は、一応アカウントを持っている程度で、投稿は全くしていません。

SNSとの適度な距離は、人それぞれ違います。正解がないから分からない…。そう、「SNSとの向き合い方」について考えることを、いつも先延ばしにしていました。

今回は、SNSと「つながり」、「共有」について個人的な体験から考えてみたいと思います。

人間関係を変えていくSNS

インターネットの世界で起こることがリアルな世界に影響を与えることがあると知ったのは、中学生の時でした。

クラスの大半が利用していたTwitterに私の悪口が書かれていたのです。Twitterを使っていなかった私は、何も知らず、それを書いていた人とも仲良く接していました。それがかえって面白かったみたいで、その後も沢山身に覚えのないことがツイートされていました。

それを友達に見せてもらい、はじめて知ることになったのです。 

直接話していた人たちとは違う印象の攻撃的な言葉が無数にありました。

「Twitterを使ってなくて良かった」すぐにそう思いました。

友達は、Twitterのアカウントを作り、誰々がどんなことを言っているのか確認や監視をした方が良いとアドバイスしてくれました。

しかし、私はアカウントを作りませんでした。なぜなら、友達に見せてもらったツイート画面があまりにも怖いものだと感じたからです。

事実無根のことや、人格否定の話題が盛り上がっているTwitterという世界に関わるのが怖い。こうして私の中で、SNSの世界は怖いものとして記憶されました。

高校生になると、友達とはリアルで会っている時だけじゃなく、SNSのやり取りで仲が深まったり、話題が広がったりしていました。

リアルで会った後、個人的なやり取り以外にSNSに投稿しないと「悲しい」と言われてしまうようになりました。

大学生になると、連絡先交換は先ずインスタからが基本で、いきなりLINEを聞くと「重い」と感じられることを知りました。

インスタを交換し、ストーリーで相手の私生活を知って、それに反応して仲良くなっていくのが当たり前のようになっていました。

仲良くなると、親しい友達だけを集めたインスタのアカウントを教えてくれるようになりました。

このようにSNSを活用していくことで、仲が深まったり、相手の趣味や私生活を知ったりして「つながり」が構築されていきます。

私も、SNSで人間関係をつなげていくことにチャレンジしてみました。しかし、さまざまな疑問や違和感を抱いてしまって、その世界の住人に適応できませんでした。

その違和感の1つは、「なぜ日常をシェア(共有)するのか?」でした。

 

なぜ、シェアするのか?

SNSをさまざまなカタチで活用している友達に「人は、なぜシェア(共有)するのだと思う?」と聞いてみました。

インスタの趣味アカウントのフォロワーが7000人以上いるAさんは、「インスタが1つの居場所になっている。趣味をシェアして、反応がもらえることで自分の存在価値があると思える。いわゆる承認欲求が満たされる!」と教えてくれました。

また、推し活専用のアカウントを何個か持っているBさんは、「推しを応援するために、推しの良さを共有したい!推しの良さに気づく人も増やしたい!」と教えてくれました。

また、インスタのストーリーズ機能だけ活用するというCさんは、「友達との関係維持のためかなぁ。LINEとかで連絡するほど仲良くない人、インスタだけで繋がっている人にストーリーで私生活を共有する。それに関心がある人とは、DMでたまに話してつながりを感じることができる」と教えてくれました。

存在価値を感じたり、推しを応援できたり、人と関係を維持できたり…

シェアすることで、人それぞれに合う願望が実現できるという側面があるようです。

私は、考えすぎな性格が原因なのか、そもそもシェアすることにも臆病です。

大学生の友達は、投稿もストーリーもしない私を、不思議でミステリアスだと言うようになりました。

また、長期休みに一切連絡を取らないと約2ヶ月間音信不通になってしまいます。

その間、ほとんどの友達はストーリーで自分の私生活をシェアしていました。

そんな休みの期間に数人の友達から「生きてる?」と連絡が来ました。

友達たちが日常をストーリーで共有している中、1人だけ何をしているのか分からない人…。それが私だったそうです。

ストーリーに私生活を共有していないと生きてるかを心配されるんだ!心配をかけて申し訳ないと思う反面、戸惑いを感じてしまいました。

しかし、この戸惑いも時代と共に消えていくのかもしれません。

2016年、アメリカで「ファビング」が注目を集めました。「ファビング」とは「電話(Phone)」と「冷たく扱うこと(Snubbing)」を組み合わせた言葉です。その言葉が登場するほど、電話に出たり、メールに返信したりして目の前の人を無視する・冷たく扱うことを問題視していました。

「その場にいない人」との交流としては、ストーリーや投稿も同じことのように感じます。今は、どんどんテクノロジーが進化しているので、その違和感をすぐに忘れてしまうくらい新機能が出現していくのかもしれません。

そうして、人と人は見ている景色も、感じている思いも、何もかもをも常に共有するようになっていくのかもと思ってしまいます。(既に今そうなっているのかもしれません)

それは、良いか悪いかではないことでしょう。しかし、常につながっている状態では私は壊れてしまうように思います。

なぜなら、常にシェアしていると人の目が気になってしまうからです。

人と一緒に作業や勉強ができるタイプ?という質問をされたことがありました。

私はすぐに「出来ない…」と答えていました。

誰かがいる空間で作業するのは苦手です。

私は、人の目線、声、におい、感情に大きく反応してしまいます。

なので、すれ違った人の特徴を覚えてしまうことがあります。また、自意識過剰のようですが、誰も自分のことを気にしていないのに、人混みに行くと気が張ってしまい、具合が悪くなることがあります。

なので私は何か重要な考え事をしないといけない時などは、やっぱり1人でいないと出来ないと思うのです。

では、私はもうSNSと向き合っていけないのでしょうか?

分人的なSNSとの向き合い方

「分人」という考え方があります。

「分人」とは、対人関係ごと、環境ごとに分化した、異なる人格のことです。中心に一つだけ「本当の自分」を認めるのではなく、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉えます。

家庭、学校、仕事場、SNSの中にさまざまな人間関係があるからこそ、それぞれの分人が、いろんな自分が、生きている。

そう思うと、文章投稿型、コミュニティ型、写真投稿型、動画投稿型、ライブ配信型などさまざまなカタチがあるSNSは、いろんな自分が生まれ育つ場所、いろんな自分の居場所ともいえそうです。

「SNSと向き合う」それは、キャラや仮面としてではなく、自分の一部として自分が好きなことは何か?自分の中にある大切な部分は何か?を知れる。つまり、自分と向き合うことと似ていると思います。

そして、SNSと向き合うことで、自分の中にあるさまざまな可能性を発揮できるきっかけにもなるのではないでしょうか。

このよむエラマでも、エラマとエラマライターさんたちに出会えてたからこそ、どさんこ大学生RUNAとして発信ができています。違和感と向き合うことを大切にしようという私の一部が、よむエラマの発信のおかげで、生まれ育つことができていたのです。

私もすでにSNSの中にいろんな自分が生きていました。

誰かに日常をシェアする。

つながりを持つ。

SNSと向き合う。

これらに対して、それぞれの場所でさまざまな意見を持つ自分がいる。これからも、いろんなカタチに変化するいろんな自分の考えと向き合っていきたいと思います。

最後まで、読んでいただきありがとうございました。

Text by どさんこ大学生RUNA

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