
※この記事は、2025年5月8日のエラマのYouTubeチャンネルでLIVE配信した無料講座の内容をコラムとしてまとめています。
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「心の闇」と聞くと、少し重たいテーマに感じるかもしれません。しかし、誰にでも訪れる可能性のあるこの感情とどう向き合っていくかは、現代社会を生きる私たちにとって大切な視点ではないでしょうか。
今回の「和フィン折衷ゼミ」では、「心の闇」をテーマに、和文化とフィンランド文化それぞれにおける捉え方や向き合い方、そして解消法について深掘りしていきます。
心の闇とは?ネガティブな感情から過去のトラウマまで
まず、「心の闇」とは具体的に何を指すのでしょうか。一般的には、以下のようなものが挙げられます。
・ネガティブな感情や思考: 怒り、不安、絶望など
・平静を装う状態: 内心では怒りや悲しみを抱えながらも、表面的には平静を装うこと
・過去の傷やトラウマ
・他人に見せない内面: 表と裏で異なる顔を見せること
・誰にでもあるもの: 特定の人だけでなく、人間誰しもが持ちうるもの
特に、日本には「五月病」という言葉があるように、季節の変わり目や環境の変化によって心が揺らぎやすい側面もあります。
心の闇と向き合う文化:和文化とフィンランド
和文化とフィンランド文化では、この「心の闇」とどのように向き合ってきたのでしょうか。
和文化における心の闇との向き合い方
日本では古来より、心の闇と向き合うための様々な文化や習慣が育まれてきました。
・和歌: 喜びだけでなく、悲しみや苦しみといった感情も歌に詠むことで、心の闇と向き合ってきました。古今和歌集の序文には「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」とあり、歌が人の心から生まれるものであることが示されています。
・道を極める(座禅など): 茶道や武道、そして座禅といった「道」を極める行為は、自分自身と向き合い、悟りを目指す中で、心の闇とも対峙するプロセスを含んでいます。
・日記文学: 平安時代の女流文学などに見られるように、日記に自らの苦悩や葛藤を綴ることで、心の闇を表現し、昇華しようとする試みもありました。例えば、藤原道綱母の『蜻蛉日記』は、夫との関係に悩み苦しむ心情が赤裸々に描かれています。
フィンランド文化における心の闇との向き合い方
一方、フィンランドでは以下のような形で心の闇と向き合っています。
・読書: フィンランドは国民の読書量が非常に多く、図書館の利用率も世界トップクラスです。図書館は「第三の場所(サードプレイス)」として重要な役割を担っており、静かに自分と向き合う時間を提供しています。
・アート: フィンランドでは、アートが生活に根付いています。プロの芸術家だけでなく、一般の人々も文化活動に積極的に参加し、絵画や音楽などを通して内面を表現します。
・サウナ: フィンランドのサウナは、単に体を温めるだけでなく、静かに自分自身と向き合い、本音を語り合える場所でもあります。暗く静かな空間で、心の闇と対話する時間となることもあります。
心の闇とアート:表現することで見えてくるもの
心の闇は、アート作品の重要なテーマともなり得ます。
和文化におけるアートと心の闇
・文学作品: 夏目漱石や太宰治、芥川龍之介といった文豪たちの作品には、人間の内面の葛藤や苦悩、孤独といった「心の闇」が深く描かれています。
・古典芸能: 能や歌舞伎などの中にも、人間の情念や業といったものが表現され、観る者に深い共感を呼び起こします。
フィンランド文化におけるアートと心の闇
・ムーミン: 世界中で愛されるムーミンの物語には、実は奥深い哲学や、登場人物たちの抱える孤独や不安といった「陰影」も描かれています。大人になってから読むと、新たな発見があるかもしれません。
・タンゴ: アルゼンチンタンゴとは異なる、哀愁漂うフィンランドタンゴは、魂の叫びや失恋、望郷の念といった感情を表現する音楽として親しまれています。一説には、タンゴの発祥はフィンランドではないかという説もあるほどです。
・ヘヴィメタル: フィンランドはヘヴィメタル大国としても知られています。激しい音楽を通して、心の奥底にある感情を解放する手段となっているのかもしれません。
心の闇を解消する方法:光を見出すヒント
では、実際に心の闇を感じた時、どのように解消していけば良いのでしょうか。
和文化における解消法
・邪気払い: 節分や大晦日など、季節の節目に行われる行事には、邪気を払い、新たな気持ちでスタートするという意味合いが込められています。
・涙を流す: 古典文学などにも見られるように、悲しい時や辛い時に涙を流すことは、感情を解放する一つの方法として捉えられてきました。武士でさえも、時には涙を流したとされています。
・飲酒: 日本には古くから酒を楽しむ文化があり、「憂さを晴らす」といった言葉もあるように、適度な飲酒が気晴らしとなることもあります。ただし、飲みすぎには注意が必要です。
フィンランド文化における解消法
・太陽光を浴びる: 冬の日照時間が短いフィンランドでは、太陽光を浴びることが非常に重要視されています。光線療法(ライトセラピー)も治療法の一つとして取り入れられています。
・ヘヴィメタルを聴く・演奏する: 前述の通り、ヘヴィメタルは感情を爆発させる手段として機能していると考えられます。
焚き火やキャンドル: 暗い冬の長い夜、焚き火やキャンドルの温かい光は、心を落ち着かせ、闇を照らすぬくもりとなります。
・外気浴: サウナの後に外気にあたることは、心身をリフレッシュさせ、フラットな状態に戻す効果があります。特に、ありのままの自分で自然の中に身を置くことは、解放感につながります。
個人的におすすめの心の闇解消法
最後に、出演者それぞれが個人的におすすめする心の闇との向き合い方をご紹介します。
マリ先生のおすすめ:
・悲しみに浸って飽きるのを待つ: 無理に浮上しようとせず、感情に身を任せ、自然と心が落ち着くのを待つ。
・わざと号泣する: 泣ける映画などを観て思いっきり泣き、感情を解放する。
石原のおすすめ:
・外気浴: 温泉やサウナの後、ありのままの姿で外気に触れることで、心身ともにリフレッシュし、フラットな状態になる。
まとめ:心の闇と光のバランス
心の闇は、決して特別なものではなく、誰にでも訪れるものです。大切なのは、その闇とどう向き合い、自分なりの光を見つけていくかということ。和文化とフィンランド文化、それぞれの知恵を参考にしながら、自分に合った方法で心のバランスを整えていけると良いですね。
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こんにちは。エラマプロジェクトの和文化担当、橘茉里です。
私は時々、歌舞伎や文楽(人形浄瑠璃)といった伝統芸能を観に行きます。
「伝統芸能」と聞くと、「堅苦しそう」「難しそう」と感じる方もいらっしゃるでしょう。
確かにそういう一面もありますが、実は、現代人もびっくりするほどドラマチックでエンタメ性の高い作品もたくさんあります。
例えば、昼ドラのような愛憎劇、逃避行、心中、ストーキング、転生、BLなどなど。
結構なんでもありなのです(笑)。
そんな中でも、今なお根強い人気があり、多くの作品に描かれているテーマがあります。
それが「忠義」です。
忠義のかたちは様々ですが、歌舞伎や文楽では「忠義のために我が子を犠牲にする」という壮絶な選択として描かれることがあります。
代表的なのが、江戸時代に生まれた名作『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』の四段目、「寺子屋の段」です。
敵方の家臣・松王丸は、恩義ある菅原道真の息子・菅秀才の命を救うため、自分の幼い息子を身代わりとし、菅秀才の代わりに首を討たれるよう仕組みます。
松王丸の妻もまた、息子が身代わりになることを知りながら、寺子屋へ送り出すのです。
もちろん、この夫婦に息子への愛情がないわけではありません。
我が子を想う気持ちをぐっと堪え、忠義を果たしたあと、夫婦はまるで血の涙を流すようにその悲しみを表します。
多くの観客は、あらすじを知ったうえでこの場面を観ます。
それでも「寺子屋の段」の愁嘆場(しゅうたんば)は、我々の強く心を揺さぶるのです。
この演目は今でも人気が高く、毎年のように上演されています。
私も何度も観に行きましたが、いつも不思議に思います。
なぜこの物語は、時代を超えて繰り返し演じられているのでしょう?
なぜ私たちは、こんなにも自己犠牲の物語に心を動かされるのでしょう?
今回は、そんな疑問について考えてみたいと思います。
忠義を通して、私たちが見たいものとは
江戸時代の武士にとって、「忠義」は生き方の核でした。
忠義は、主君に対する深い忠誠心を意味し、時には命を賭してでも果たすべきものとされていたのです。
そのため、主君の名誉や命を守るために、自らの命を惜しまない姿勢が尊ばれました。
仁・義・礼・智・信などの徳目が重んじられる中でも、「忠義」は特に重要な柱とされていたのです。
そして武士には、個人の感情よりも「大義」を優先することが求められました。
新渡戸稲造も『武士道』の中でこう語っています。
「武士道の教えはすべて自己犠牲の精神に貫かれている。」
「女性たちも主君のためならすべてを犠牲にするよう子供たちを励ました。侍の妻たちは、忠誠のためには自分の息子をあきらめる堅固な覚悟を固めていた。」
(著・新渡戸稲造、訳・大久保喬樹『ビギナーズ日本の思想 新訳武士道』より)
かつて理想とされた価値観においては、「忠義>息子の命」だったわけです。
しかし現代の私たちにとって、「自分の子どもを犠牲にする」という選択は、想像を絶します。
今の価値観では、むしろ「自分の命を差し出すより、我が子を犠牲にするほうが辛い」と感じ、「子どものためなら自分を犠牲にしてもいい」と考える人の方が多いように思います。
その点で、「寺子屋の段」のような物語は、現代人には受け入れがたい内容のはずです。
それでも私たちは、この物語に心を動かされてしまう。
私は、「想いの強さ」が見たくて、劇場に足を運んでいるのではないかと思うのです。
「どれだけ犠牲にできるか」は、想いの強さに比例するように感じます。
私たちは本気度が低いものに対して、大きな犠牲を払おうとはしないでしょう。
つまり「寺子屋の段」だったら、「息子を犠牲にしてまで貫き通したい忠義」という想いの強さに、私たちは感動を覚えているのではないでしょうか。
実際にそういう生き方をすることはとても難しいですが、普通は出来ないからこそ、私たちは無意識のうちに「想いの強さ」を伴った行動に憧れのようなものを感じているのかもしれません。
私たちは自由があれば満足なのか?
自己犠牲を美徳とする精神は、何も前近代に限ったことではありません。
例えば、日本の高度経済成長期を支えた企業戦士たちは、会社のために身を粉にして働き、私生活を犠牲にしてでも仕事を優先する生き方を選びました。
これは、武士の忠義に通じる精神性と言えるでしょう。
今でもそうした働き方を好んで選ぶ人もいますが、その一方で、現代では多様な価値観が広まり、「自由に生きたい」「自分のために、自由に時間を使いたい」と考える人も増えています。
では、仕事から解き放たれ、完全に自由になったならば、私たちはそれで満足できるのでしょうか?
定年退職後、やりがいを失ったり、暇な時間をどう使って良いか分からなかったりして、急に老け込んでしまう人がいるという話を耳にすることがあります。
自由を手にしても、それを有効活用できなければ、自由は毒にもなりかねない気がします。
私たちは、ただ自由なだけでは満足できず、「生きがいを持ち、日々満たされ、充実した人生を送っている」状態を必要としているのではないかと思います。
そして、充実した人生の一つが、「使命を持って生きる」という生き方ではないかと感じます。
だから私たちは、使命を持って生きている人に惹かれるのではないでしょうか。
そう考えると、忠義ゆえの自己犠牲に心打たれる背景には、「使命を持って生きたい」という私たち自身の願望があるように思うのです。
『鬼滅の刃』という作品が爆発的にヒットしたのも、単なるエンタメとして以上に、使命に生きる登場人物たちの生き様が、観る人の心を打ったからではないでしょうか。
煉獄杏寿郎という登場人物のこんなセリフがあります。
「胸を張って生きろ
己の弱さや不甲斐なさにどれだけ打ちのめされようと
心を燃やせ
歯を食いしばって前を向け」
(『鬼滅の刃』第8巻より)
彼は強い正義感と責任感を持ち、自らの命をかけて多くの人と仲間を守り抜きます。その生き様は、主人公である炭治郎たちにも大きな影響を与えました。
命の灯を燃やし尽くしながら戦い、最後に残された者たちへ言葉を託す――。「心を燃やせ」というセリフには、煉獄の覚悟と信念が込められているのです。
彼もまた、自分の信念と大義のために命を燃やした人物。「寺子屋の段」との共通点を感じます。
私たちの心を熱くさせるもの。
それはやはり、「想いの強さ」や「使命に生きたい」という情熱なのかもしれません。
心を燃やすことも豊かな生き方のひとつ
エラマプロジェクトでは、フィンランドの文化をベースに、「自分の時間を持つこと(マイタイム)」「休むこと」など、人生を豊かにするためのヒントをお届けしています。
エラマプロジェクトからたくさんのエッセンスを吸収していただきつつ、それと併せて、日本的な「心を燃やす」生き方というのも念頭に置いていただくと良いかなと思います。
どんなに小さなものであっても、自分の心を燃やせるものがあるなら、それはきっと人生を深く、豊かにしてくれるはずです。
あなたの心は、いま何に向かって燃えていますか?
その炎を、どうか大切にしてください。
Text by 橘茉里(和えらま共同代表/和の文化を五感で楽しむ講座主宰/国語教師/香司)
みなさん、こんにちは!エラマプロジェクトです。
今日は、私たちがいつも発信している「和フィン折衷」について、少し深掘りしてみようと思います。
「和フィン折衷」とは、なんだか難しい言葉に聞こえるかもしれませんが、実はとてもシンプルなんです。
簡単に言うと、日本(和)とフィンランド(フィン)の良いところを混ぜて、新しい何かを生み出そう!という、エラマ独自のコンセプトなのです。
ただ単に文化を比べるだけでなく、それぞれの良さを理解し合って、今の私たちの暮らしをもっと面白く、豊かにしていくのが目的です。
和フィン折衷の、ここが魅力です!
文化の融合: 日本の繊細な美意識と、フィンランドのシンプルで機能的なデザインが合わさると、本当に新しい発見があるのです。
異文化理解の促進: まったく違うように見える文化も、よくよく見てみると共通点があったりして面白いです。そこから、新しい「気づき」が生まれるのです。
実践的なアプローチ: 理想論だけではなく、実際に私たちの生活に取り入れられるようなアイデアを、みんなで試行錯誤していくのがエラマ流です。

具体的にどんなことをしているのでしょうか?
たとえば…
デザインやモノづくり: フィンランドのデザインを参考に、日本の伝統工芸をアップデートしてみたりします。
生き方改革: フィンランドの「シス(SISU)」という、困難に立ち向かう精神と、日本の「根性」を掛け合わせて、タフでしなやかな生き方を探求したりします。
自然との付き合い方: 日本とフィンランドは、どちらも四季が豊かな国なので、それぞれの自然観を参考に、もっとサステナブルな暮らし方を見つけたりします。
子育てや教育: フィンランドの自由な教育と、日本の伝統的な教育の良いところを組み合わせて、子どもたちが自分らしく伸び伸び育つような新しいアプローチを考えたりします。

エラマプロジェクト、こんな活動をしています!
「和フィン折衷」をみなさんに知っていただき、一緒に楽しむために、エラマはこのような活動をしています。
トークイベント&ワークショップ: フィンランドと日本の文化に詳しい方々をお呼びして、みんなで語り合ったり、実際に手を動かして体験できる場をつくったりします。
メディア発信: ブログやYouTubeで、私たちの活動や、和フィン折衷の魅力を発信しています。
体験型イベント: 和フィン折衷を体感できるイベントを企画しています。みんなでワイワイ楽しみましょう。
コミュニティ「エラマの森」: オンラインやオフラインで、みんなで繋がれる場所です。気軽にお話できる仲間を見つけてください。

「和フィン折衷」で、どんな未来が待っているのでしょう?
新しい視点の獲得: 自分の文化を客観的に見つめ直すことで、新たな価値観に気づけるかもしれません。
創造性の促進: 違う文化の要素が組み合わさることで、予想外のアイデアや解決策が生まれる可能性が大きいです。
グローバルな視点: 異文化を理解することで、世界はもっと広がるでしょう。国際人としての第一歩を踏み出しましょう。
人生が豊かに!: 両方の文化の良いところを取り入れることで、毎日がもっと楽しく、充実したものになるはずです。
エラマの「和フィン折衷」は、ただの文化交流ではありません。
もっと自由で、もっとワクワクする、新しい生き方を見つけ出すための冒険なのです。
日本とフィンランド、そして世界中の文化の魅力を再発見して、みんなで一緒に、もっと豊かな暮らしを創造していきましょう!
そして、そのヒントをさらに深めるために、ぜひこちらの無料オンライン講座にご参加ください!
和フィン折衷の研究講座
〜和文化とフィンランドの五感を使う文化〜
日時: 2月19日(水) 21:00〜21:30
場所: エラマYouTubeチャンネルにて配信
参加費: 無料
内容:
フィンランドと和文化の視点から、「豊かで幸せな自分らしい生き方」を探求します。
今月のテーマは「五感を使う文化」。日本の美意識とフィンランドの自然への敬意を、五感を通して体感します。
講師は、フィンランド生涯教育研究家の石原侑美と、和文化伝道師の橘茉里。家庭料理や手作り料理にも焦点を当てながら、文化の奥深さを紐解きます。
↓画像をタップして詳細を確認!

一緒に、新しい文化の扉を開きましょう!
こんにちは。エラマプロジェクトの和文化担当、橘茉里です。
2025年が始まって、約2週間が経ちました。
本日1月15日は「小正月」と呼ばれ、この日の朝にお粥(特に小豆粥)を食べたり、地域によって「どんど焼き」などの様々な行事が行われたりします。
そして、小正月(もしくは1/20の二十日正月)が過ぎると正月は終わりと見なすことが多いです。
皆さんはどんなお正月を過ごしましたか?
今年一年の目標を立てたり、今年はこんな風に過ごしたいなぁと願望を書き記したりした方もいらっしゃるでしょう。
ちなみに、私の今年一年の抱負は「前進あるのみ」です。
そして今の私を表すキーワードは、「努力」「根性」「忍耐」です。
豊かで幸せな生き方を探究するエラマプロジェクトのチームメンバーとして活動をするようになって、今年で6年目。
6年目に辿り着いた先が、まさか「努力」「根性」「忍耐」とは!
自分でも驚きの展開ですが、自分にとっての “エラマ(人生、生き方)” を探究していったら、いつしか「努力」「根性」「忍耐」というステージに突入してしまったのです。
ですが、私はこの状況をとてもポジティブに捉えています。
長い人生において自分が望む豊かな生き方を実現するためには、短期的には、耐えて頑張ることが必要とされる時期もやってくると感じています。
ただしそれは、やりたくないことを我慢してやり続けることではありません。
「自分の望む人生のために、今は頑張り時なのだ」
こういう感覚のことです。
今までこの「よむエラマ」では、自分を認めたり自分を大切にしたりといった、こじれていたものを解きほぐすような方向性の記事を書いてきました。
しかし今日は、あえて「頑張っている私」のことをお話したいと思います。
自分のやりたいことをやっていたら、ハードモードが始まった
私は前回の記事で、「自分の命が残り一週間だとしたら、私は何がしたいだろう?」を考えると、自分の本当にやりたいことや自分らしい生き方が分かるよ、というお話をしました。
〈前回の記事はこちら〉
私にとっての幸せな生き方は「余命1週間だとしたら」を考えると見えてくる
その記事の中で、「特別なことは何もしなくていい。自分の家で、愛する猫たちと心穏やかに過ごしたい。これが私の望む生き方だ」と書きました。
さらに、仕事をガツガツ頑張るモードではなく、今ある幸せに目を向けて「足るを知る」暮らしにシフトしていきたいとも書きました。
その思いは全く変わっていないのですが、その記事を公開したあたりから、私の思いとは裏腹に、私の生活はどんどん忙しくなっていきました。
私の本業は私立高校の国語教師です。そして副業として、和文化講師やお香の調合師などをしています。
ここ5年間は、本業と副業の二足のわらじを履いて活動してきました。
この二足だけでもなかなか忙しかったのですが、実は三足目のわらじを履いてしまったのです。
昨年、私は愛猫の持病改善のために、アニマルレイキ®という動物への手当て療法を学び始めました。
3ヶ月の講座を受講し終えた後も、もっと学びを深めたいと思い、今はティーチャークラスに所属して、将来的にプロとして活躍できるように勉強しているところです。
このように国語教師、和文化パラレルワーカーという二足に加えて、アニマルレイキという三足目ができた結果、ますます忙しくなってしまったのです。
でも、自分のやりたいことを選び取った結果の忙しさなので、後悔はありませんし、精神的なつらさもありません。
今の私は、確かにちょっと頑張りすぎているかもしれない。
だけど、私は間違いなく自分の望む人生のために、今を目いっぱい生きている。
そう胸を張って言えるので、「頑張っている自分すごい!」と自己肯定しながら、仕事に追われる日々を送っています。
フィンランドの人たちの価値観「SISU(シス)」とは?
フィンランドにはSISU(シス)という考え方があります。
SISUは「勇気」「忍耐力」「粘り強さ」「不屈の精神」「困難に立ち向かう強い意志」などを表わす言葉で、瞬間的なものではなく、困難を耐え抜く長期的な力を意味します。
SISUの代表例として、1939年の冬戦争で圧倒的に不利な状況にも関わらず、フィンランド軍がソ連軍に対して勇敢に戦ったことが挙げられますが、SISUの精神は現代のスポーツ、ビジネス、教育など様々な場面で発揮されます。
エラプロジェクトではSISUを大切な価値観の一つとしてお伝えしていますし、このよむエラマでも、SISUの記事がいくつかありますので、ぜひ読んでみてください。
〈SISUの記事はこちら〉
フィンランド魂「SISU」を理解して取り入れようー「フィンランドの幸せメソッドSISU」を読んで
自分にも他人にもやさしく。「EVERYDAY SISU フィンランドの幸せ習慣」 レビュー
フィンランドの「大和魂」を見た!映画「SISU/シス 不死身の男」が教えてくれる
そして、私が今「ちょっと働きすぎでは」というくらい頑張っているこの状況は、SISUを発揮していると言えるのではないかと思います。
SISUは、困難に陥った時に冷静に状況を分析して、長期的な視点で粘り強く行動することです。また、目標を達成するために合理的に判断することでもあります。
衝動的で無謀な「とにかく努力!根性!」ではなく、冷静に長期的な視点を持つというところが、SISUの魅力だなぁと感じます。
この記事の冒頭で、今の私のキーワードは「努力」「根性」「忍耐」だとお伝えしましたが、これらは無謀な我慢を強いる根性論のことではなく、実はSISUのことを指していたのです。
豊かで幸せな人生のためには、時にSISUを発揮することも必要
人生においては、「無理をしないこと」「頑張らないこと」を実行すべきタイミングもあれば、その反対に、今は頑張り時というタイミングが訪れることもあるでしょう。
もしくは、自分にとっての豊かさを探究する過程では、自分と向き合うことで見たくない自分の本音に気づいたり、隠しておきたかった自分の弱さに出会ったりすることもあるでしょう。
自分にとっての豊かさを探究するって、実はだいぶハードなことだと思います。
都合の良い、口当たりの良いところだけしか見ないのでは、真の豊かさは得られないでしょうから。
きっと皆さんも、自分の豊かさを探究する過程で、目を背けたくなったり、逃げたくなったり、もう頑張りたくないと思ったりすることがあるかもしれません。
そんな時は、SISUのことを思い出してほしいのです。
もちろん無理をする必要はありませんし、つらい時は逃げても休んでも良いと思います。ですが、もし「頑張ってみたい」と思ったら、その時はあなたのSISUを発揮してください。
SISUのことを「粘り強さ」「不屈の精神」「困難に立ち向かう力」などと紹介しましたが、これらは日本人にもかなり馴染みのある感覚だと思います。
日本には忍耐が美徳とされる価値観がありますし、「石の上にも三年」や「雨だれ石を穿つ」ということわざがあるように、長期間にわたって辛抱し、努力をすることを良しとしてきた文化があります。
だから、日本人はSISUが得意だと思います。
ただし、日本人の場合は、自分の豊かさのために頑張るのではなく、私欲を捨てて、主君や国、会社、家族のために尽くすという自己犠牲的な頑張りが目立つように感じます。
私は、忍耐の末に本懐を遂げる『忠臣蔵』のようなストーリーが大好きですし、日本の自己犠牲的な頑張りに魅力を感じますが、自分で実行するとなると、私欲を捨てて他者のために尽くすやり方はかなりしんどいでしょう。
ですので、皆さんは私欲を捨てて他人のために頑張るのではなく、ぜひ自分の豊かさのために頑張るということをやってみてくださいね。
“私の豊かな生き方のために、軽やかにSISUを発揮する”
私はこの一年をそんな風に生きていきたいと思います。
Text by 橘茉里(和えらま共同代表/和の文化を五感で楽しむ講座主宰/国語教師/香司)
こんにちは。エラマプロジェクトの和文化担当、橘茉里です。
私がエラマプロジェクトに運営メンバーとして加入したのは2020年。
また、自身の主催ワークショップを立ち上げるなど、本格的にパラレルワーカーとして活動を始めたのも2020年のことです。
それ以来、少しずつ経験値を積み上げながら、パラレルワーカー歴は今年で5年目を迎えました。
5年目になると、1年目の頃とはだいぶ心境が変わっていることに気づきます。
和文化の奥深さ、豊かさを広めたい。
敷居が高く思われがちな和文化に親しむための第一歩をつくりたい。
その想いは今も昔も同じですが、1年目は「活躍したい」「自分の力がどの程度通用するか挑戦したい」といった、自己実現の欲求が今よりも強かったように思います。
私の本業は教員ですが、教員は休日出勤もありますし、仕事を持ち帰って夜間に作業することもあります。そのため、休日や夜間に働くことへの抵抗は元々ありませんでした。
ですから、パラレルワークのために自分の余暇を仕事に充てることは苦にならず、むしろたくさん働けることにやりがいを感じていました。
けれど、プライベートな時間を削って仕事を頑張るという状態をある程度経験してみた結果、どうやら私はその状態に満足してしまったようなのです。
私は、仕事ガツガツモードから、新たな生き方へとシフトしていきたいと考えているのです。
では、今の私が望む生き方とは何なのでしょう?
今回は、私にとっての幸せとは何なのかを改めて考えてみたいと思います。
あと1週間で命が尽きるとしたら?
私にとっての幸せとは何だろう。
どうやったらそれが分かるのだろう。
簡単に分かる方法があったらいいのに。
そんなことをつらつらと考えているうちに、閃きました。
“あと1週間で命が尽きるとしたら、私は何がしたいだろう?”
こう自分に問いかけてみれば良いのだと。
あと1週間でこの世を去るとなれば、世間体やお金を気にすることなく、自分が本当に望むことだけを選ぶはずです。
つまりこの問いを考えることによって、自分が本当に求めているものは何か、自分にとっての幸せとは何か、ということが分かるに違いありません。
そこで、自分の命を残り1週間と仮定して、想像を膨らませてみることにしました。
やりたいことは何でもやってみよう!
さあ、何をしよう!?
……想像してみて、愕然としました。
なんと、やりたいことがなかったのです!
「やりたいことは、……特にないなぁ」
豪遊してみる?
1週間を老舗旅館の離れで過ごす?
楽しそうではありますが、人生最後の1週間を使ってまでしたいことではありません。
「行きたい場所も特にないなぁ」
世界の絶景や世界遺産など、行ってみたいと思っていた場所はいくつかありますが、やはり残り1週間の命を使ってまで行きたいとは思えないのです。
「食べたいものは、……うーん」
美味しいものは大好きなので、採れたての鮮魚の舟盛りとか、高級食材とか、確かに食べたい気はします。
でも、なぜかそういう豪勢なものよりも、丁寧に炊いたお米に、お味噌汁とお漬物。
そんなシンプルなご飯を大切に味わえたら十分だと感じました。
驚くべきことに、あと1週間で命が尽きると仮定した結果、特別なことは何もしなくていいという答えが出てきたのです。
残り1週間の人生の中で、本当に私がしたいことは何?
この問いを深掘りしていくにつれ、自分の中の欲のようなものがどんどん削り取られて、身軽になっていくような感覚がありました。
そして、心の中から自然に出てきた答えは「自分の家で、愛する猫たちと心穏やかに過ごしたい」というものでした。
まだ見ぬ世界の絶景を眺めに行くよりも、美食を味わうことよりも、私は猫たちと静かに暮らしたい。
それが私にとっての幸せ。
この結論に、私は思わず笑ってしまいました。
だって、私の望みはすでに叶っているのです。
猫たちのおかげで、私は穏やかで満ち足りた日々を送っています。
そっか、私はもうすでに豊かで幸せなんだ。
そうつぶやくと、心がぽかぽかと温かくなりました。
「足るを知る」ことで豊かで幸せな生き方になる
「足るを知る」もしくは「知足」という考え方があります。これは古代中国の思想家、老子が記したとされる『老子』に出てくる言葉です。
辞書を引くと、“自分の今の状態に満足し、欲張らないこと” といった感じの説明が出てきますが、その説明だとちょっと言葉足らずな印象があります。
実は、「足るを知る」の後ろには言葉が続きます。『老子』には「足るを知る者は富む」と表現されているのです。
つまり『老子』には、“今の自分のありのままを受け入れ、満足することによって、精神的な豊かさを得ることができるよ” ということが書かれているのです。
確かに、どんなに物質的に恵まれていたとしても、本人が「足りない」「満たされない」という意識でいる限り、いつまで経っても安心感や満足感は訪れず、心の平穏や豊かさは得られないですよね。
お金持ちだったり、才能に溢れていたりと、世間から羨まれる条件を持った人なのに、なぜか幸せそうに見えないということがあったり、その反対に、稼ぎは少なく生活は厳しそうなのに、いつもニコニコと幸せいっぱいに過ごしている人がいたりします。
これも「足るを知る」を実践できているか否かの違いなのかなと感じます。
そして私が、あと1週間で命が尽きるならと仮定して、あれこれ考えを巡らせたプロセスも、「私にとっての足るを知る」ための作業だったように思います。
そのプロセスをちょっと振り返ってみましょう。
1週間の間にやりたいことを思い浮かべてみたけれど、どれもしっくりこなくて、自分の家で猫たちと穏やかに暮らすことこそ、私が求めているものだという結論に至った。
しかし、それはすでに叶っているものだった。
私は、自分にとっての豊かで幸せな生き方がもうすでに実現できていることに気づいた。
これってまさに「私にとっての足るを知る」だと思いませんか?
もちろん私だって今の生活に全く不満がないわけじゃないし、もっとこうしたい、こうなりたいという欲求は当然あります。
でも、自分にとっての「足るを知る」が分かっていると、焦ったりあがいたり、他人を羨んだりすることなく、心が落ち着いた状態で日々を過ごせるように思います。
「足るを知る」ことで得られる豊かさや幸せは、大規模でドラマチックなものではないでしょう。
ほんの些細な出来事に対して、「ああ、これが幸せってことなんだなぁ」としみじみ感じるような、そんな慎ましやかで穏やかな幸福のことだと思います。
そして、そんな幸福をあなたもすでに手に入れているのです。
あとは「足るを知る」ことに気づくだけです。
仕事は、長い人生を歩むために必要なもの
あと1週間で命が尽きるとしたら、という問いかけから、自分にとっての「足るを知る」を知った私ですが、実は、今まで意図的に触れていないことがありました。
それは仕事のことです。
もし自分の命が残り1週間だったならば、私は何の未練もなく、すべての仕事を手放すでしょう。
あと1週間しかないのに、仕事をしているなんて時間がもったいない!
私は猫たちとまったりごろごろするんだ!
きっとこう思うはずです。
しかし現実のリアルな私にとっては、仕事はなくてはならないものですし、残り1週間の命という縛りがなければ、仕事は「重要なものランキング」のトップ3に入るくらい大切なものです。
生きている私にとって仕事は必要。
でも、残り1週間の命なら仕事はいらない。
では、私にとって仕事とは一体どんな存在なのでしょう?
仕事をしたいという気持ちは、10年後も数十年後も、自分はこの世界に生きていると思うからこそ、成り立つものではないでしょうか。
自分の時間がまだ数十年あるということは、その数十年を有意義に過ごすための行動をしなければなりません。
まずは、お金が必要です。
それだけでなく、生きがいも必要です。
仕事というのは、お金と生きがいの両方を満たしてくれるものなのではないでしょうか。
私たちはこの人間社会を面白く楽しく生きていくために、生きがいを必要としているのかもしれません。
生きがいとは、長い人生を豊かにするために必要なもの。
そして、生きがい、やりがいの最たるものと言えば、仕事ではないでしょうか。
だから私は、余命1週間だったら仕事はいらないけれど、余命数十年だったら必要と感じるのだと思います。
「足るを知る」生き方と、仕事から生きがいを得る生き方は、ベクトルが違う生き方ですね。
では、私たちはどのように生きていったら良いのでしょう?
私は両立させれば良いのだと思います。
「足るを知る」生き方と、やりがいや生きがいを感じる生き方、その両方のバランスを取りながら生きていくのが、現代人に合っているのではないかと感じます。
この記事の冒頭で、パラレルワーカー5年目の私は、1年目の頃とは心境が変わってきていると書きました。
思えば、1年目の私はやりがいや生きがい重視の生き方をしていたように思います。
けれど今の私は、あの頃よりも「足るを知る」を大切にしたくなっているのです。
私も自分なりのバランスを探りながら、これからの人生を歩んでいきたいと思います。
暖かな日差しの中、猫たちの寝顔を眺めながら、そんなことを考えた今日この頃なのでした。
Text by 橘茉里(和えらま共同代表/和の文化を五感で楽しむ講座主宰/国語教師/香司)
こんにちは。エラマプロジェクトの和文化担当、橘茉里です。
まだ6月だというのに30℃超えの気温が続出し、最高気温は35℃に迫る勢いです。私は徒歩通勤をしているので、日差しの強さと鋭さに早くも参ってしまいそうです。
そんな暑い日には、怪談やホラー映画でひんやりしたくなりますが、これは日本人の国民性かもしれません。
怪談と言えば夏、というのはどうやら世界共通ではないようです。例えばアメリカでは、お化け屋敷やホラー映画はハロウィンの季節に開催・上映されるのだそうです。
なぜ日本では「怪談は夏」というイメージが強いのかというと、まず第一にお盆の存在が挙げられます。
お盆には各家庭で先祖などの霊魂をお迎えし、お祀りしますね。お盆のある夏は、霊魂を意識しやすい季節であり、供養や鎮魂に気持ちが向かいやすいタイミングだと言えます。
また江戸時代には、恐怖によって暑さを忘れるために「涼み芝居」と称して、怪談物が好んで上演されました。
幽霊のお岩さんが登場する『東海道四谷怪談』は涼み芝居の代表格です。
一方、ハロウィンは古代ケルトの風習が由来とされ、古代ケルトではハロウィンの夜に死者の霊が戻ってくると考えられていました。なんだか日本のお盆に似ていますね。
日本は夏、アメリカはハロウィンの季節がホラーの定番となっているのは、このように死者の霊に関する文化的な背景が影響しているわけです。
そして、ふとこう思いました。
ホラーにその国の文化や習慣が反映されているならば、つまり、ホラーを知ることは文化を知ることにつながるのではないかと。
ホラーから文化を知れるとは、なんとも画期的です。
ということで、今回はジャパニーズホラーから和文化を紐解いてみたいと思います。
私たち日本人が恐れているのは「気配」
先日、YouTubeのおすすめとして、ジャパニーズホラーに対する海外の反応をまとめた動画が表示されたので、見てみました。
その動画はこちらです。(ホラー画像が出てくるので苦手な方はご注意ください。)
https://www.youtube.com/watch?v=H91pNJPGroM
この動画の中で気になったコメントをいくつか取り出し、要点を挙げてみます。
・日本人が恐怖するものは目に見えない神秘なのではないか。
・日本の文化は先祖や幽霊を尊敬すべき存在としていて、日本の映画は自然や空間への敬意を感じる。
・日本のホラーは未知への恐怖とともに、それらを大切にしようとしている。
・日本のホラーは、観客にストレートな恐怖やショックを与えるよりも、不安や偏執に重きを置いているように思う。
海外の方から、日本や日本のホラーはこんな風に見えているようです。
また、日本と海外との違いを感じさせるような、こんなコメントもありました。
・日本のホラーは宗教的な儀式や銃で撃退できないのが嫌だ。
・私たちは銃が効くか効かないかが重要だが、日本の幽霊が襲ってきたらどうすれば良い?
・幽霊は実感を得られないので、実際に起こるストーカーや暴力の方が怖い。
私も以前、海外の人の中には、ジャパニーズホラーを怖く感じない人がいるという話を聞いたことがあります。
確か、「幽霊は物理的に襲ってくるわけではないから怖くない。襲ってくるゾンビの方が怖い」という意見だったような気がします。
ジャパニーズホラーの醍醐味は「気配」です。
直接攻撃を仕掛けてくるから怖いのではなく、じわじわとにじり寄ってくる正体不明の気配に、私たちは逃げ場のなさや絶望感を覚えるのです。
そして幽霊の姿はここぞという場面になるまで登場しないことが多いです。
姿が見えないからこそ怖いのです。もし物語の最初から幽霊の姿がずっと見えていたら、怖さは薄れてしまうのではないかという気がします。
ジャパニーズホラーは恐怖の気配を描くことが得意で、そういう表現が好きな海外の方に、ジャパニーズホラーは大人気です。
しかし、気配に恐怖を感じない人だったとしたら、ジャパニーズホラーの多くの演出は無意味なものになってしまいかねません。
日本では空気を読む文化が非常に発達していると言われますが、実はホラーを楽しむにも、日本的な空気を読む能力(気配を感じ取る能力)が必要なのかもしれません。
私はホラー好きなので、ホラー耐性はある方だと思っていますが、ある遊園地で体験したヘッドフォンをつけて音を聞くというホラーアトラクションが思いのほか怖かったです。
そのアトラクションは幽霊役がいるわけでもなく、視覚的に驚かされるわけでもありません。暗い部屋でただ音を聞いているだけなのです。
ヘッドフォンからは鎖を引きずるような音、近づいてくる足音などが聞こえてきて、私は恐怖からヘッドフォンを外してしまいたくなりました。
音によって、何者かが自分の後ろにいるという気配が表現されていたのです。
後ろに何がいるのだろう。
どんな見た目?
これからどんな恐ろしいことが起こる?
自分でどんどん嫌な想像を膨らませてしまい、自分が創り出した想像によって恐怖が加速してしまったのでした。
先ほど、日本的な怖さを楽しむには空気を読む(気配を感じ取る)力が必要かもしれないと書きましたが、それだけでなく想像力も必要になってきそうです。
現代の教育では、想像力の育成に重きが置かれるようになってきていますが、ジャパニーズホラーも想像力の育成に一躍買ってくれるかもしれませんね。
不朽の名作『リング』に見える日本らしさ
『リング』は鈴木光司によって書かれた小説で、1998年に中田秀夫監督によって映画化されました。
小説と映画では主人公の人物像など様々な点が変更されていますが、物語の大筋は同じです。
「呪いのビデオ」を見た者は、一週間後に死ぬという。
ビデオを見てしまった主人公の浅川と友人の高山は、呪いから逃れるために、ビデオの謎を追う。
そして、貞子という女性の怨念が原因であることを突き止めるというのが『リング』のストーリーです。
この物語において、貞子が姿を見せるのはほんの僅かです。
映画では、テレビ画面から貞子が這い出して来るシーンが有名ですが、小説では幽霊となった貞子の姿はほとんど描かれず、気配によって表現されています。
また、この作品の主眼は死から逃れることですが、核心に迫り、呪いの原因が貞子だと判明してからも、貞子を倒すことで解呪するという流れにはなりません。
個人的な印象で恐縮ですが、ハリウッド映画では、恐怖の原因を倒すことによって問題を解決しようとする傾向があるように思います。
ハリウッドで描かれてきた吸血鬼、ゾンビ、エイリアンなどは交戦可能な存在として描かれることが多いと思います。
悪魔憑きを描いた映画『エクソシスト』でも、悪魔と悪魔祓いの神父との戦いが描かれています。
それに対して日本では、幽霊は戦って倒せる存在として描かれることは少ない気がしますし、そもそも日本人には幽霊を倒すという発想自体、希薄だと思います。
幽霊の前では人間は無力であり、もし幽霊を倒せるとしたら、その幽霊は怖くないように感じます。
もちろん『リング』でも、主人公たちは貞子を倒そうとはしません。
呪いから逃れるために、貞子の遺骸を見つけ、供養しようとするのです。
結果的に、それは呪いから逃れる方法ではないのですが、主人公たちは鎮魂による解決を目指しました。
井戸の底で貞子を見つけた際、映画版では、主人公の浅川を演じる女優の松嶋菜々子が貞子の亡骸を抱きしめるシーンがあります。
呪いの主であろうとも死者を悼み、心を寄せる。
これはとても日本的な行動に思えます。
『リング』にも通じる御霊信仰とは
日本には、御霊(ごりょう)信仰という考え方があります。
不幸な死や無念の死を遂げた人物は怨霊となり、祟りや災いをもたらすと考えられていたのです。
そんな怒り荒ぶる怨霊に対して、私たちの先祖はどう対応したのでしょう。
その答えが鎮魂です。
怨霊を御霊・神として祀ることによって、怨霊の祟りを鎮めようとしたのです。
「これからは大切にお祀りしますので、どうか怒りをお鎮めください」とお願いしたわけですね。
こういう向き合い方を御霊信仰と言います。
日本三大怨霊とは、菅原道真、平将門、崇徳上皇のことですが、
菅原道真は北野天満宮や太宰府天満宮で神として祀られ、現在では学問の神様として親しまれています。
同様に、平将門は東京の神田明神に、崇徳上皇は京都の白峯神宮に祀られています。
このように、私たち日本人は怨霊を倒すのではなく、魂を鎮めることによって調和を図ろうとしてきたのです。
こういう価値観や考え方は、普段は意識せずとも我々日本人の心の中に息づいているのではないでしょうか。
だからこそ『リング』でも、主人公たちは自然と貞子の鎮魂へと向かったように思うのです。
豊かな心で和文化を語ろう
今回のお話はいかがだったでしょうか?
ジャパニーズホラーと御霊信仰のつながりのように、現代のコンテンツには、私たち日本人が昔から大切にしてきた考え方が反映されていたりします。
それを知ることによって、もっと奥深く、もっと豊かに現代を生きていけるようになると思います。
そして、豊かで幸せな生き方を探究している我々エラマプロジェクトでは、これまで日本人が大切にしてきた考え方や生き方や日本らしい物の見方などを、自分の言葉で発信できる和文化ガイドを養成したいと考えています。
「外国の方に、日本のことをもっときちんと説明したい」
「これまで和文化を学ぶ機会がなかったけれど、自国の文化を理解し、語れるようになりたい」
「自分の子どもに向けて、日本の良さを伝えてあげたい」
こんな風に「日本について知りたいなぁ」「伝えられるようになりたいなぁ」と思っていらっしゃる方におすすめの養成講座を開催いたします。
講座では例えば、
・侘び寂びってどういうこと?
・武士道や大和魂ってどういうもの?
こんな疑問を考えていきます。
講師による基礎的な知識のレクチャーはありますが、講座で大切にしたいのは、和文化について自分の考えを深め、それを自分の言葉で表現できるようになるということ。
もちろん知識を得ることは大切ですが、知識の伝達だけで終わらせないのが、この講座の良いところです。
あなたも和文化について考えを深め、語れるようになりませんか?
こちらの和文化ガイド養成講座については、今後情報を発信していく予定ですので、ぜひエラマプロジェクトのwebサイトでチェックしてみてください。
Text by 橘茉里(和えらま共同代表/和の文化を五感で楽しむ講座主宰/国語教師/香司)
こんにちは。エラマプロジェクトの和文化担当、橘茉里です。
私は国語教師、香司(お香の調合師)、和文化エバンジェリストなどいくつかの顔を持っていますが、メインの仕事は教師です。
とある私立高校に勤めて今年で12年目。
干支の一周分です。
人生の大部分を学校という環境で過ごしているわけですが、実は自分が生徒だった頃、私は学校が好きではありませんでした。
先生のことも好きではありませんでした。
それなのに、今は学校の先生をやっているの!?
そんな声が聞こえてきそうです。私自身、不思議な運命だなぁと思います。
今回は、かつて学校も先生も嫌いだった私の過去を振り返りながら、現役教師だってこんな体験をしてこんな風に思っていたんだよ、ということをお伝えしたいと思います。
私の経験が、どなたかの豊かで幸せな生き方に役立つならば幸いです。
私は「クラス一丸となって」が苦手な子どもだった
小学生のうちから、私の学校嫌いは徐々にその傾向が出ていたと思います。
小学1年生の頃。
図工の時間に使う絵の具セットを注文した時のことです。絵の具セットは、赤と青の2種類あり、どちらかを選ぶようになっていました。
私の記憶によると、担任の先生が「好きな方を選ぶように」と言ったのです。だから私は当時好きだった青を注文しました。
けれど、青を選んだ女の子は私一人。
というよりも、男子は青、女子は赤を選ぶことが当然の了解事項になっていたわけです。他のクラスでは、そのように指導されていたのかもしれません。
その後の小学校6年間を通じて、私は女子の中で自分一人が青であることに引け目を感じ、恥ずかしい思いをしました。
どうして担任の先生は「女子は赤を選ぶように」と言わなかったの!?
そう言ってくれたら、私は素直に赤を選んだのに。
私はこんな風に憤っていました。
担任の先生なりに、男子は青、女子は赤という決めつけに思うところがあったのかもしれないし、好きな色を選んでいいというのは、幼い私の勘違いだったかもしれません。
でも私に残ったのは、好きな方を選んだがために、恥ずかしい思いをしたという事実。
小学校低学年の記憶などほとんど薄れているというのに、この羞恥は今でもよく思い出せます。
次は小学6年生の時のこと。
担任の先生は体育の教員で、「みんなで」「クラス一丸となって」のようなことが好きな人でした。
私の小学校には、陸上部や吹奏楽部など、いくつかのクラブがありました。入部は希望制で、全員が入る必要はありません。
ですが陸上部を受け持っていた私の担任は、クラス全員が陸上部の活動に参加するよう促しました。
クラスみんなでやるということに意義があるようでした。
けれど、私はそれがとても嫌でした。「クラスみんなで」を実現するために、なぜ興味のないことをやらねばならないのか本気で分かりませんでした。
担任の先生は必要以上に強制はしませんでしたが、クラスのほとんどが参加している中、私は入っていないというプレッシャーをクラスメイトからも感じました。
みんなで一丸となって取り組むことが素晴らしい、という観念に強い拒否感を抱いたのは、この時が初めてだったかもしれません。
今でも私は「みんなで一緒に」が苦手な人間ですが、小学生の頃からその片鱗があったのかと、我ながら驚きです。
ますます生きづらかった中学校時代
そんな私ですから、制服、校則、部活動など「みんなで一緒に」が目白押しな中学校生活は非常にストレスフルなものとなり(あくまで私の出身中学の話です)、私の学校嫌いは中学時代に加速しました。
私は都会でも田舎でもない町の出身です。町には、バイクで暴走行為をするような「不良」たちもいました。
私の中学では、ほとんどの生徒は彼らと関わることなく過ごしていましたが、なかには付き合いがあった子もいたようです。
生徒が非行に走ることを阻止したい教員たちの姿は、私の目からはとても威圧的に見えました。大声で怒鳴ったり、授業中に丸々一時間説教したりといったことは当たり前にありました。
先生たちは生徒の個性を伸ばすよりも、従順な良い子集団にすることを重視していたように思えます。クラス丸ごと説教されているうちに、私の中で自由とか個性とか、そういった大事なものはどんどん縮こまっていった気がしてなりません。
そんな中学校生活で特に嫌だったのが部活動でした。私の中学では、部活動には全員が参加しなければなりませんでした。
前述のように、小学校の陸上部(確か週2回程度の活動)ですら入りたくなかった私なので、中学の部活は嫌で仕方がありませんでした。
生徒を非行に走らせたくないためか、先生たちは活動の盛んな運動部への入部を強く勧めました。ですが「みんなで一緒に」が苦手な私は、チームスポーツを中心とした中学の運動部に強い拒否感がありました。
それに放課後だけでなく、休日も部活動のために登校しなくてはならないのは、私にとって苦痛でした。
そこで、どうしても運動部に入りたくなかった私は子どもの頃から趣味で習っていたバレエを持ち出し、「バレエを頑張りたいから運動部には入れない」という理由を押し通したのです。
私の学年には、生徒を運動部に入れるという強い意向を持った先生がいたのですが、バレエを理由にすることでなんとか納得してもらったのでした。
結果的に、私は運動部入りを免れ、活動の軽い文化部への入部が叶いました。
私は、学校で何か大きなトラブルを抱えていたわけではありません。真面目な優等生タイプだったので、むしろ先生からの覚えはめでたいくらいでした。
でも、問題を起こさない真面目な優等生が、気持ちよく学校に通っていると思ったら大間違いです。自分の意志ではないことを強制される経験は、柔らかい心をどんどん硬く冷たくしていきます。
こういったことが重なるうちに、私は学校や先生のことが嫌いになっていったのです。
色んな生徒がいるのだから、色んな先生がいたっていい
ここまでお話ししてきたことは、子どもだった私の視点から見たエピソードです。
現在の私が同業者の立場から見たら、当時は分からなかった先生方の苦労や真意が浮かび上がってくることでしょう。
私には合わなかっただけで、客観的に見たら、あの先生方の指導は悪いものではなかったのかもしれません。真相は藪の中です。
ともかく私は大学、大学院と進学し、数年間の大学院生活を経て、高校の教員になりました。
大学院にいた頃、自分は教壇に立つことが向いていると感じ、正規の教員になる決心をしました。
私は探究心は強いものの、自分が研究者になるよりも、先人たちの研究成果を分かりやすく人に伝える方が性に合っていると分かったのです。
こういうきっかけなので、「子どもの頃から先生になりたかった!」「先生は憧れの仕事!」という根っからの教員志望の方とは、気持ちの上でちょっと違う部分があると思います。
「学校が好きだから、先生になりました!」「恩師のようになりたくて!」という方とも違っているでしょう。
でも、学校が好きな子もいれば、嫌いな子もいるように、学校が好きで教師になった先生、学校を好きじゃなかったけれど教師になった先生、どちらもいていいんじゃないかと思っています。
学校は社会の縮図と言われるように、学校に集まる人たちは本当に多様です。
そう考えると、「子どもの頃から学校が好きだった!」という先生しかいない方が不自然ですよね。
今、私は勤務先の学校が好きです。自分の仕事にやりがいを感じ、私なりに信念を持って生徒たちに接しています。
教員の傍らパラレルワーカーをやっているせいか、「先生らしくないね」と言われることも多いですが、教師という仕事には真摯に向き合っているつもりです。
自分が生徒だった時、学校のことも先生のことも嫌いになってしまいましたが、そういうルーツがある私だからこそできること、分かることがあると思っています。
世の中には素晴らしい先生がたくさんいらっしゃって、私の力など微々たるものですが、こんな子ども時代を過ごした先生もいると知ることで、気持ちが軽くなるお子さんがいらっしゃったら嬉しいなと思います。
Text by 橘茉里(和えらま共同代表/和の文化を五感で楽しむ講座主宰/国語教師/香司)