こんにちは。エラマプロジェクトの和文化担当、橘茉里です。
私の本業は私立高校の国語教師ですが、「国語教師です」と自己紹介をすると、相手の方からこんな言葉をかけられることがよくあります。
「私、国語が苦手だったんです」
さらに、「登場人物の心情を答えなさい、という問題が苦手で」「模範解答を見ても、なぜそれが正解なのか分からなくて」という声をいただくことも多いです。
そう言われたとき、現役の国語教師として、どんな反応をするのがよいのでしょうか。
私は内心で、「うんうん、その気持ち分かる~」と共感してしまいます。というのも、私自身、模範解答に納得できないという思いを、生徒の頃に何度も抱いてきたからです。
だから私は、「国語が苦手だった」という人に対して、「もっとちゃんと勉強すればよかったのでは?」とは思わないんです。むしろ、その人を国語嫌いにしてしまった教え方や、問いの立て方のほうに、見直す余地があるのではないかと感じます。
個人的には、「国語が苦手だった」という言葉の裏には、「分からなかった」というよりも、「納得できなかった」という感覚が隠れていることが多いような気がしています。
そこで今回は、この「納得できなさ」について考えてみたいと思います。
なぜ「登場人物の感情」が腑に落ちなかったのか

「登場人物の心情を答えよ」という問題、あなたは得意でしたか?
物語文を読んで、登場人物の気持ちを問われる。けれど、本文をいくら読み返しても、心情がはっきり言葉で書かれているとは限りません。
そんなとき、「本文に書かれていないのに、どうして分かるのだろう」と疑問を抱いた人もいるのではないでしょうか。
登場人物の心情が明言されていない場合、彼らの言動や描写から心情を推測するしかないわけで、それはあくまで読み手の推測になります。その人物が本当にそう感じていたかどうかは、実は断定できません。そして本文で明言していないからこそ、模範解答と自分の解答にずれが起こりうるわけです。
教員となった今の立場から見れば、模範解答はあくまで「模範」であって、必ずしも唯一の答えではないと分かります。別解が成立する場合もあるのです。
けれど、生徒だった頃の私は、「模範解答=絶対的に正しいもの」だと受け取っていました。
そのため、自分の答えが模範解答と違ったとき、「なぜ私の感じたことは修正されなければならないのだろう」「なぜ私の感覚は間違いだとされなければならないのか」と、強い違和感を覚えていたのです。

今でも印象に残っている思い出があります。
ある物語文に、「ビー玉のような瞳」という表現が出てきました。私はそれを、「きらきらした美しい瞳」というイメージで読みました。子どもの頃の私にとって、ビー玉は光を集めるような美しい存在だったからです。
ところがその問題では、「ビー玉」は安っぽいものを表す表現として扱われていました。
本文に明示された内容を読み違えているのであれば、自分が間違っていると納得できます。けれどこの場合は、「ビー玉=価値のないもの」とは本文では明言されておらず、うろ覚えですが、恐らく文脈から「ビー玉=価値のないもの」と読むべきだったのです。
でも、私はそこで納得がいかなかった。
どうしてこの場面で「ビー玉=きらきらしたもの」と捉えたらダメなのか。そういう解釈も成り立つんじゃないかって、模範解答を受け入れがたかった。
子どもの頃の話なので、事実を歪曲している可能性はありますが、当時の私が感じた違和感や理不尽さは、紛れもなく本物でした。
こうしたエピソードをもとに振り返ってみると、子どもの私が国語の問題に違和感を抱いていたのは、文脈から感情を読み取ることそのものではなく、「この価値観だけが正しい」と、一つの正答に揃えられてしまうことだったのだと思います。
不正解になるということが、単なるミスではなく、「あなたの感じ方は間違っている」と告げられているように感じたからこそ、私は模範解答に強いもやもやを抱いていたのかもしれません。
国語の問題は「正解探し」ではなく「間違い探し」

教員として教材と向き合うようになってから、私は生徒時代とは違う視点で国語の問題を見るようになりました。
定期試験などの試験問題を作る際に重要なのは、「本文から読み取れるかどうか」という点です。
正答になるのは、本文中に書かれていること、あるいは本文の内容から無理なく導けるもの。一方、誤答は、本文には書かれていないことや、そこまで読み取る根拠が見当たらないものになります。
こうして整理してみると、国語の選択肢問題は、「正しい答えを当てるテスト」というよりも、「本文から外れているものを見抜くテスト」に近いのではないかと思います。
評論文の問題であれば、論理が明確なので、本文に書いてあることと、書いていないことの線引きもしやすいです。
けれど、物語文では事情が異なります。登場人物の心情は、必ずしも明言されていないからです。
授業中ならば、「あなたはそう読んだのですね」と受け止められる読みも、試験では○か×をつけなければなりません。
学校の試験では、多様な解釈を正解とするケースが昔より増えていると思います。それでも、模範解答に沿った解答を求める受験の仕組みが大きく変わらない限り、模範解答に違和感を覚える人は、きっとこれからも現れるのではないでしょうか。
国語の読解と「空気を読む」文化の関係
ここで、少し視点を広げてみます。
日本人のコミュニケーションには、「こういう場合、普通はこうするよね」といった暗黙の了解が数多くあります。
はっきりと言葉にされなくても、その場の状況や関係性から意味を読み取ることが求められる。こうした文化は、「ハイコンテクスト文化」と呼ばれています。
英語圏が言葉ではっきりと伝えるローコンテクスト文化であるのに対して、日本はハイコンテクスト文化が特徴です。
例えば、「もし都合がついたら参加します」と言われたら、この言葉はやんわりとした断り文句として読み取る必要があります(本当に参加するつもりのこともありますが)。
相手ははっきり言葉にしていないけれど、「この場面、この文脈ではこういう意味になる」ということを、私たちは自然と察しています。
また、「言わなくても通じる」といった感覚や、表情や間、これまでの関係性から相手の意図をくみ取ることも、ハイコンテクストなコミュニケーションの一つです。
そして、国語の物語文読解で行っていることも、実はこれとよく似ています。
本文に心情がはっきり描かれていなくても、しぐさや描写から人物の心情を推測していく作業は、まさにハイコンテクスト。
つまり、国語の読解とは、単に文章を正確に読む力だけでなく、「この場面では、普通どう感じるか」という暗黙の了解を読み取る練習でもあるのだと思うのです。
もしかしたら、子どもの頃からこうした形式の問題に触れてきたことも、我々の「空気を読む」能力が培われる要因の一つなのではないでしょうか。私はそんな気がしています。
「空気を読む文化」「ハイコンテクスト文化」自体は、私は日本人の誇るべき性質だと思っているので、国語の物語文読解が、もっと生徒に寄り添う形で進化していくことを願っています。
「分からなかった」自分を大切にしてほしい

「登場人物の気持ちが分からなかった」
もしそんな記憶を持っているなら、それはあなたが、いい加減に読んでいたからでも、能力が足りなかったからでもないと思います。
あなたが自分で感じたことを、自分の中でちゃんと大切にしていたからこそ、簡単に「正解」に乗れなかったのかもしれません。
あなたが国語の問題に感じた違和感や苦手意識は、あなたが自分の感性で、その物語を丁寧に読もうとしていた証なのではないでしょうか。
エラマプロジェクトでは、自分らしい豊かで幸せな生き方を探究しています。「自分らしさ」を大切にしているのは、正解の生き方を目指すのではなく、一人一人が自分の感性や価値観に沿って、幸せな生き方を見つけてほしいからです。
これまで、国語の読解問題が解けない自分を責めたことがあったとしたら、今日からはその感性にそっと丸をつけてみてください。
あなたはきっと、自分らしく物語と向き合ってきたのです。そのこと自体がすでに十分、豊かで価値があることなのだと、私は思っています。
Text by 橘茉里(和えらま共同代表/和の文化を五感で楽しむ講座主宰/国語教師/香司)

こんにちは、エラマプロジェクトです。
なんだか気分が沈んで、理由ははっきりしないのに心が重い。もしくは、原因は分かっているけれど、そのことで心がつらい。
そんな風に「自分の中の暗い部分」が浮き彫りになる瞬間ってありますよね。
今回は、あえてそこに光を当ててみたいと思います。
日本とフィンランドは、「心の闇」をどんな風に見つめ、扱い、アウトプットし、そして整えてきたのか。
同じ心の闇でも、文化が違うと付き合い方がこんなに変わる。
その違いを知ることは、「自分の心を大切にする」ための新たな道筋を見つけることでもあります。
「心の闇」ってどんなもの?
今回の記事では、次の5つの状態をまとめて「心の闇」と呼ぶことにします。
ここで大事なのは、心の闇は誰の心にも宿る可能性があるということ。日本とフィンランドの人たちは、心の闇とどのように付き合ってきたのでしょう。
自分の心と向き合うのはどんな時?
心を和歌で表現してきた日本人
日本文化における心の表現として、和歌があります。平安時代の『古今和歌集』の冒頭には、こんな言葉があります。
「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。」
意味は、”日本の和歌は、人の心を根源として、それが無数の言葉として表現されたものである”という感じです。つまり、喜びだけでなく、悲しみや怒り、喪失のつらさなど様々な感情を、和歌として表現してきたのです。
また、華道、茶道、武道などの「道」は、単に技術を上達させるのではなく、自分を律して心を研ぎ澄まし、高みを目指していくことでもあります。
瞑想や座禅を習慣にする方もいらっしゃると思いますが、釈迦が悟りに至る過程で、悪魔の誘惑に打ち勝ったという逸話からは、自分の内面に湧く闇と向き合う比喩のようにも読めます。
フィンランドは日常に内省の場がある

フィンランドのヘルシンキ中央図書館oodi
一方フィンランドでは、自分と向き合う機会が、生活の中にさりげなく入り込んでいます。
読書は、心の中の言葉にならないものに、別の言葉を借りて触れる行為でもあります。
そして創作活動は、言語化できない感情に“形”を与える方法でもありますし、サウナは日常から一段離れて、静寂の中で「自分」に戻る場でもあります。
心の闇を描く芸術とは
日本文学には、心の奥の闇を描いてきた作品がたくさんあります。
例えば『源氏物語』に登場する六条御息所という女性は、愛や誇りの葛藤から、抑え込んだ想いがついには“生き霊”という形で外に出てしまいます。
近代文学でも、夏目漱石や太宰治をはじめ多くの作家が、罪悪感や恥、自己矛盾といった「内面」を描き出しました。
実は、怪談やジャパニーズホラーにも、心の闇を主題にした作品が多く見られます。
海外ホラーでは、ゾンビや吸血鬼など倒せる怪物キャラクターが目立つ一方で、日本のホラーでは幽霊が登場することが多く、情念や未練といった心の闇に焦点が当てられる作品が多い気がします。
フィンランドでは、アートやサウナといった、個人の内面を安全に吐き出せる『社会的な仕組み』が文化の中に溶け込んでいます。
たとえばムーミン。
ムーミンは可愛いだけの児童文学ではなく、孤独や不安、人生の陰影を自然に含みながら、登場人物たちがそれぞれの“しんどさ”と共存している物語です。
ムーミンが国民的に愛されていることは、闇を否定しない価値観を象徴的に示しているようにも感じられます。
さらに意外なのが「フィンランド・タンゴ」の存在です。
実はフィンランドでは、タンゴが国民的な人気を誇ります。
失恋や望郷の“哀愁”を、短調(マイナーコード)のメロディに乗せて分かち合うタンゴ。
悲しみは隠すものではなく、みんなで共鳴させ、人間の一部として肯定するもの──そんな意識がうかがえます。
心の闇を和らげる知恵とは
日本の「節分」「五節句」「大祓」など、季節の節目に行う行事には、溜まった穢れを祓い、清めるという意味合いがこもっています。
こういう季節の節目は、自分の心身に溜まったものを落とすタイミングでもあります。
また、涙も心の闇を浄化するひとつの手段でしょう。
古典文学を紐解くと、平安貴族はもちろんのこと、『平家物語』に登場するようなかつての武士たちも、実はよく泣いています。 泣くことは弱さではなく、深い慈しみや感情の現れであり、今よりもずっと社会的に許容されていたのかもしれません。
フィンランドは自然条件が厳しい国です。
フィンランドの冬は日照時間がとても短く、冬の暗さが気分にも影響しやすいため、だからこそ光が特別な意味を持ちます。日光浴や光を取り入れる習慣は、まさに「闇を照らす」知恵と言えます。
そして音楽。
フィンランドの人たちは、普段は内向的と言われる一方で、ヘヴィメタルのような激しい音で感情を外へ放つ文化もあるのが特徴です。心の叫びを音に乗せることも、心の闇を解消するひとつの方法となっています。
また、フィンランドではキャンドルや焚き火の灯りを好む文化があります。明かりによって闇を消すのではなく、「闇と一緒に生きるための明かり」なのです。暗さを否定せずに共存しているところが、フィンランドらしいなと思います。
エラマプロジェクト石原と橘おすすめの「心の闇」との付き合い方とは?
橘のおすすめは「抵抗しないこと」
気分が落ちている時に、気分を上げようとすればするほど、苦しくなることがあります。
流れに逆らって泳ぐのはとても大変なことです。
そんな時は、あえて悲しみに身を委ねて、波が過ぎるのを待ちます。
わざと泣ける映画を見て大泣きする、という方法もおすすめです。
泣くことは、心の中の“詰まり”を流す行為でもあると思います。
そもそも日本には、貴族も武士もよく泣く「涙の文化」がありますしね。
石原のおすすめは「素の自分に戻ること」
サウナや温泉のあと、外気に当たることをおすすめします。
裸という“役割を脱いだ状態”で風を受けると、心身がフラットに戻る感じがするのです。
これはフィンランド的な「自然の中で自分に戻る」という知恵につながります。
もしサウナが難しければ、夜に短い散歩でもいい。窓を開けて深呼吸でもいい。“自然の温度”を体に入れると、思考がいったん静かになります。
おわりに~闇は消すものじゃなく、扱い方を覚えるもの~
日本とフィンランドは、どちらも内省の時間を大切にしたり、芸術を通して感情を表現することによって、心の闇と向き合っていることが分かりました。
ここから見えてくるのは、心の闇との向き合い方は一つではないということ。
心の闇は、排除する“敵”ではなく、それぞれの文化の中で形作られてきた「付き合い方」があるのですね。
心の闇と向き合う際、今までの自分のやり方がしっくりと来ていない方は、他の文化の習慣を取り入れてみるのも良いですね。それだけで心の闇は“扱えるもの”に変わっていくのかもしれません。
編集後記
私は、自分の思考の癖として、つい「自分は~せねばならない」「~すべきだ」という考え方に引っ張られてしまい、知らず知らずのうちに自分を苦しめてしまうことがあります。
それは「心の闇」というテーマに向き合う時も同じで、「心の闇と向き合わねば」「向き合うべきだ」と考えてしまったら、きっとそれだけで、かなりしんどくなってしまいそうです。
今回、心の闇の解消法にも触れましたが、「心の闇を解消しなきゃ」と力むよりも、まずは、あるがままに受け止めること。
それが何より大切なのだと、改めて感じました。
日本人は真面目な人が多い、とよく言われますが、少し肩の力を抜いて、ほどほどの距離感で付き合う。
そのくらいが、心の闇と向き合うには、ちょうどいいのかもしれませんね。
(執筆:橘茉里)

こんにちは、エラマプロジェクトです。
あなたは自分のことを「人見知り」だと感じますか?
実は、日本人の約7割が「自分は人見知りだ」と感じているという調査結果があるようです。
一方、北欧の国フィンランドの人も「シャイ」「物静か」という印象を持たれることが多いです。
一見すると似ている両国の国民性ですが、その裏にある文化的な背景には、面白い違いが見られます。
そこで今回は、日本とフィンランドのコミュニケーションの奥深さを探ってみたいと思います。
「人見知り」の質が違う
日本人の多くが、自分のことを人見知りだと感じていますが、この感覚はどこから来たのでしょう?
一説によると、控えめに振る舞うことを重んじ、自己主張を控える価値観が、人見知りに影響していると言われています。
例えば、江戸時代の村社会では、村という共同体から仲間外れにされてしまったら、生きていけなくなってしまいます。そのため、目立たないようにしたいという意識が働き、それが人見知りという性質につながっていったようなのです。
日本のように協調性を大切にする文化においては、空気を読む能力が求められます。人見知りは、他人との衝突を避け、和を乱さないようにと、空気を読んだ結果の産物なのかもしれません。
一方、フィンランドの人の人見知りは、「内向的」という言葉が近く、その根底にあるのは「他者への深い配慮」です。
彼らは、相手のパーソナルスペースを何よりも尊重します。相手の立場になって、「相手の邪魔をしたくない」という気持ちから、むやみに話しかけることを避ける傾向があります。
フィンランドの人たちにとって、シャイの理由は、自分本位ではなく「相手への思いやり」なのです。
世界一広い?フィンランドのパーソナルスペース

フィンランドの人のパーソナルスペースは、「世界一広い」と言われるほどです。
その象徴的な例が、バス停での待ち方。
たとえバス停に屋根があっても、人々は密集を避け、お互いに十分な距離を保って立ちます。
他人の領域に踏み込まないという意識が、物理的な距離として明確に現れるのです。
対照的に、日本のパーソナルスペースは状況に応じて伸び縮みします。
日本人はハグなどのスキンシップが少ない文化のため、コミュニケーションを取る際に、相手との距離は比較的広いスペースを保つことがあります。
その反面、満員電車や行列では、我々のパーソナルスペースは驚くほど狭くなります。
日本は、状況に応じて、パーソナルスペースを柔軟に使い分ける文化だと言えるでしょう。
フィンランドの「沈黙」と日本の「あいづち」
フィンランドの人の会話において、「沈黙」は気まずいものではありません。
むしろ、相手の話を深く考え、自分の思考を整理するための機能的な「思考する時間」と捉えられています。
相手が考えをまとめるまで静かに待つのが礼儀であり、話を遮ることは非常に失礼な行為だと考えられています。
かたや日本では、「あいづち」がコミュニケーションの潤滑油です。
その頻度はアメリカの人の2倍とも言われ、相手がまだ話している最中でも「うんうん」「なるほど」などとあいづちを挟むことで、「あなたの話をちゃんと聞いていますよ」というサインを送ります。
この文化差は、時に誤解を生むことがあるかもしれません。
フィンランドの人との会話で、日本流の頻繫なあいづちを打ってしまうと、相手にとってあいづちが「ノイズ」となってしまう恐れがあります。
相手のコミュニケーション文化を理解し、沈黙やあいづちを適度に使い分けられるようになると良いですね。
「空気を読む」文化は同じだけど
前述したように、日本の「村社会」では、波風を立てないことが最重要でした。
その文化が、直接的な明言を避け、「本音と建前」を使い分けるコミュニケーションを生み出しました。
日本では「言わぬが花」という諺があるように、言葉にしない奥ゆかしさや美意識が存在するのです。
フィンランドも、言葉以外の文脈を重視し、相手の意図を「察する」文化があるという点では共通しています。
しかし、彼らには日本人のような「本音と建前」の概念はないようです。
フィンランドの人は状況を察したうえで、自分の意見を非常に率直に主張します。
その言葉は、時に「図星を突かれる」ほど鋭く、それでいて「シンプルで洗練された言葉」なのです。
日本人が空気を読んで「言わない」ことや「本音」を隠すのに対して、フィンランドの人は空気を読んだうえで正直な意見を伝えるのです。
メールや会話での不思議なコミュニケーションスタイル
文章でのコミュニケーションにも、興味深い違いが見られます。
日本の手紙やビジネスメールは、時候の挨拶や前置きが長く、さらに相手への配慮から「ご期待に添えず…」といった遠回しな表現が多用されます。
そして、フィンランドのコミュニケーションスタイルは、相手との関係性によって劇的に変化します。
• 初対面や仕事関係の場合: メールは極端に短く、用件や必要な情報のみが記されます。効率性が最優先です。
• 親しい友人や信頼する相手の場合: 一転して、非常に長い文章を送ることがあります。これは、自分の考えの「背景」や個人的な「ストーリー」を深く共有し、信頼する相手に自分の内面を誠実に伝えようとする行為なのです。
この使い分けは、フィンランドの人たちの「内向的だが、心を開いた相手にはとことん誠実」という国民性を反映しているのかもしれません。
まとめ
「人見知り」「物静かでシャイ」という点で、よく似ている日本人とフィンランド人。
しかしその内面を覗いてみると、行動の動機となる文化は異なっていました。
特に、調和の作り方に、その違いが凝縮されています。
日本の調和が、個々の意見を抑え、争いを避けることで生まれる一方、フィンランドの調和は、全員が正直に意見をテーブルに載せ、議論を重ねて合意を形成するスタイルとなっています。
あなたも今一度、自分のコミュニケーションの取り方を見つめなおしてみてはいかがでしょうか?
編集後記
私は高校の教員として教壇に立ったり、エラマプロジェクトで講座の配信を行ったりと、人前で話す機会が多い仕事をしています。
でも実は、自分のことを「人見知り」だと感じています。特に初対面の方と会う時は、いつもドキドキします。
昔は、そんな自分のことがあまり好きではありませんでした。けれど今は、自分の人見知りを直したいとは感じていません。
確かに人見知りが緩和されたら、私の行動や私を取り巻く世界は大きく変わることでしょう。
けれど、人見知りだからこそ、得られたものもきっとあると思います。
例えば相手の気持ちを想像したり、場の空気を感じ取ったりすることは、私が人見知りだからこそ、伸ばせた力ではないかと思うのです。
そんなふうに考えると、人見知りもまた、自分や相手を大切にするためのひとつのコミュニケーションの形なのだと思います。
人との距離の取り方や、沈黙の過ごし方には、その人らしさがにじむもの。
これからも自分なりのペースで、人とつながっていけたらいいなと思います。
(執筆:橘茉里)
こんにちは。エラマプロジェクトの和文化担当、橘茉里です。
夏の暑さもようやく静まり、ここからは秋を経て冬へと向かっていきますね。
秋は山々の紅葉が美しい季節ですが、冬の自然といったら、どんな風景があるでしょう?
雪景色?
でも、日本人みんなが、雪景色を身近に感じているわけではないですよね。
エラマプロジェクトの代表、石原侑美さんが暮らす飛騨高山は降雪地帯のため、春先までは雪景色が続くそうです。
一方、私が住んでいる埼玉の西部は、年に数回、雪が降るかどうかといったところで、雪が積もることは滅多にありませんし、積もったとしても数日中には溶けてしまいます。
私のように、雪のない冬を過ごす人も結構多いと思います。
そして、そんな人たちにとっての冬の景色は、枯草や葉の落ちた木の幹などから成る、茶色の風景なのではないでしょうか。
枯草の風景なんてつまらない?
いえいえ!
実は冬の枯れた野原の風景には、日本らしい魅力が詰まっているんですよ。
今日は、枯野の魅力とともに、日本人の感性に迫っていきますね。
日本には「枯野」を楽しむ文化があった

日本には、春になったら「花見」をし、秋になったら「月見」をし、といった具合に、季節の風物を愛でる「〇〇見」という文化があります。
そして、冬には「雪見」がありますが、それ以外に「枯野見」があることをご存じですか?
「枯野見」とは、冬の暖かい日に、郊外の枯れた野原を見にいく行楽のことです。今では枯野見を好んで行う人はあまり見かけませんが、昔の人は枯野見を楽しんだようです。
冬枯れの野原には、鮮やかな彩りや華やかさはありません。
それなのに、そんな枯れた景色をわざわざ見に出かけるのは何故なのでしょう。
枯野には華美なものはないけれど、その「ない」景色の中に、静かな美しさや豊かさを見出そうとする、繊細な感性の働きを感じます。
枯野見については、例えば鎌倉時代初期の『松浦宮物語』には、
宮も御前の枯野ご覧ずとて、端近うおはしますほどなりけり。
(訳:皇后宮も御前の枯野をご覧になるというので、御殿の外部近くに出ていらっしゃる時であった。)
このような記述がありますし、同じく鎌倉時代の『平家物語』にも、以下のような描写があります。
枯野のけしき、誠に面白かりければ、若き侍ども三十騎ばかり召し具して、蓮台野や紫野、右近馬場にうち出でて
(訳:枯野の景色がまことに趣深かったので、若侍どもを三十騎ほど連れて、蓮台野や紫野、右近馬場に出かけ…)
これらの古典から、皇后や武士も枯野見を楽しんでいたことが分かります。身分に関係なく、枯野というのは我々の心を捉えるものだったようです。
また、江戸時代には、江戸の向島(墨田区の地域)の長命寺から白髭神社あたりの風景が、枯野見の名所となっていたそうです。ただし、向島の近くに吉原(遊郭)があったため、吉原に行く口実に枯野見を使うこともあったとか。
現代では、枯野見という楽しみは廃れてしまいました。
でも、自分の人生を思い返してみると、枯野の景色は、案外私の記憶に焼き付いていることに気づきます。
子どもの頃、実家の前には空き地が広がっていました。
私が生まれ育った群馬は、山間部は雪が降りますが、私の地元は北風が強いばかりで、雪はあまり降らない地域でした。
だから、子どもの私にとっての冬の景色は、雪ではなく枯野だったのです。
その空き地には今ではマンションが建ってしまいましたが、子ども時代の私は、家の前に広がる枯野を見て育ちました。
ススキなどの枯れた草が織りなす景色。
その様子は、夏の青々とした原っぱよりも、なぜか深く記憶に残っています。
そういえば、日本の原風景には、この枯れた色合いが多いように思います。
枯野だけでなく、稲刈りを終えた田んぼや茅葺き屋根の色も、枯野色です。
枯野色は、私たち日本人にとって、心の故郷を形作る色になっているのではないでしょうか。
「無い」を味わう日本人

見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮れ
平安時代末期~鎌倉時代初期の歌人、藤原定家が詠んだこの和歌は、美しい桜も紅葉もない、海辺にポツンと建つ粗末な小屋があるだけの、静かな秋の夕暮れを描いています。
華やかなものは何もない、粗末な小屋があるだけの風景。
それなのに、この和歌を読むと、言い知れない余韻が残ります。
この和歌が長く愛されてきたのは、我々日本人が、「無い」ということの中に、豊かさや美しさを感じる感性を持っていたからではないでしょうか。
藤原定家が詠んだこの和歌は、日本の美意識、特に侘び・寂びを語る際に引用されることがあります。
侘びは、飾り気のないものや質素なものに対して、しみじみとした趣を感じることです。「足りないことの中にこそ、心の満ち足りた状態がある」という価値観を含んでおり、このことは「知足の美徳」とも表現されます。
知足とは、「足るを知る」ということで、自分の分をわきまえ、現状に満足し、多くを求めないことを意味します。こういった心持ちが、侘びの根底にあります。
一方、寂びは古びたものや色あせたものの中に、時間を経たものだけが持つ味わいや深みを見出す感性です。
枯れた木、ひびの入った器など、古びたものの中に現れてくる、かすかで奥深いものこそ、寂びが感じさせてくれる世界です。
この侘びと寂びは、どちらも目に見える派手さや華やかさとは対極にありますが、侘び・寂びは、心の豊かさの在り方の一つです。
定家の和歌のように、花も紅葉もない情景を味わう態度は、まさに侘び・寂びの感性そのものですし、枯れた野原を見つめる心も、やはり侘び・寂びにつながっていくように感じます。
枯野見であなたの日々に豊かな瞬間を

昔の人たちは、枯野を見ながら、どんなことを感じていたのでしょう。
もしかしたら、枯野を見つめながら、自分の内面と対話をしていたのかもしれません。枯れた風景の中に、時間の流れや移ろうことの美しさ、さらに生と死の循環のようなものを感じ取っていたのかもしれません。
きっと枯野見は、各人にとって、自分の人生の豊かさと向き合う時間になっていたことと思います。
我々エラマプロジェクトは、主にフィンランドの文化・習慣から豊かで幸せな生き方の探究を行っていますが、枯野見の習慣は、日本らしい豊かさを教えてくれるような気がします。
現代の私たちの暮らしには、かつてのような広々とした枯野が多くは残ってはいない地域も多いかもしれません。
けれど、路地や公園、川べりなどに目を向けてみれば、枯野の片鱗は見つかるはずです。そこではスマホをしまい、ただ自然の音に耳を澄ませ、小さな枯野を眺めてみる。
そんな時間を持ってみてはいかがでしょうか?
枯野見にはきっと、あなたにとっての「豊かさ」のヒントが隠れているはずです。
Text by 橘茉里(和えらま共同代表/和の文化を五感で楽しむ講座主宰/国語教師/香司)
こんにちは、エラマプロジェクトです。
森林に恵まれ、古くから木と共に暮らしてきた日本とフィンランド。
どちらも木造建築や木工品などの豊かな文化を持っていますが、その背景や職人のあり方には国ごとの違いもあります。
今回は木工の文化という切り口から、両国が大切にしてきたものを学び、暮らしに活かせるヒントを探してみましょう。
森林の特徴は?

日本は国土における森林率が約68%、フィンランドは約74%で、どちらも世界有数の森林国です。(出典:世界森林資源評価(FRA)2020より)
日本の森林のおよそ9割は、広葉樹を中心とした天然林と、スギやヒノキなどの針葉樹からなる人工林で構成されています。
一方、フィンランドの森林は、マツ・トウヒ・シラカバの3種でほとんどを占めます。木の生え方が密ではないので、風通しの良い森が多いのが特徴です。
動植物の生態系の多様さは日本の方が恵まれていますが、フィンランドの森も、トナカイやヘラジカなど北国らしい動物たちが生息する、豊かな生態系が広がっています。
森をめぐる歩み
日本では、古代から木を伐って暮らしに使ってきましたが、昔は「森を守りながら使う」という考えがまだ十分ではありませんでした。
そのため、7世紀頃から森が減り始め、平安京や平城京の造営、江戸や明治の大規模伐採で、山肌が見える「はげ山」も広がり、森林率は50%ほどまで落ち込みました。
紆余曲折を経て、植林の重要性が広まり、今では人工林も含めて、およそ7割まで緑を取り戻しています。
フィンランドでは、森を守るためのルールがしっかり決められています。
林業はとても盛んですが、むやみに木を伐ることはありません。
伐採するときには、木の年齢や状態をきちんと考えて、森がこれからも健やかでいられるように配慮されます。
そして伐った後は必ず植林などで森を再生させることが徹底されているのです。
木を運ぶ水の文化
日本は川を、フィンランドは湖を利用した水運文化を持っています。
日本では古代から、川を利用して木材を運ぶ「川下げ」が行われてきました。例えば、平城京や平安京の造営、江戸の町への木材供給にも、川が活用されました。
フィンランドには約19万もの湖があります。そのため、湖に木材を浮かべて運ぶ「浮遊ログ(丸太物流)」という、世界でも特殊な運搬方法が用いられてきました。
豊富な水資源を活かした運搬方法は、どちらの国でも生活を支える重要な技術でした。
美しい木造建築
近代に入るまで、日本の建築物の大部分は木造でした。
今でもなお、世界最古の木造建築である「法隆寺」、木造の城郭建築である「姫路城」、白川郷の「合掌造り」をはじめ、数多くの歴史的な木造建築が残されていますね。
そしてフィンランドでも、18世紀までに作られた建物は、木造建築が一般的でした。
世界最大の木造教会「ケリマキ教会」、世界遺産であるラウマ旧市街の木造建築地区が有名ですし、湖畔のボートハウスやサウナもほとんどが木造です。
白木を好む文化
日本では、表面加工を施していない白木(しらき)を好む傾向があります。
白木とは、塗装や着色を一切施さず、木本来の色合いや木目をそのまま活かした木材のことです。
主にヒノキ・スギ・ヒバなど木目の美しい木が使われ、日本では和室の柱や神社の建築、寿司店のカウンターなどに取り入れられています。白木によって、清らかさや木の美しさを表現できます。
そして白木の建造物といえば、伊勢神宮。
伊勢神宮では、遷宮といって、20年ごとに新しい社殿を建て替えます。時間がめぐり、生命が受け継がれていくことを実感しますね。
また、日常の暮らしでも家具や桶、ヒノキ風呂、障子の枠など、白木が多く使われてきました。
フィンランドもまた、木をそのまま生かす文化を持っています。
もともと階級社会ではなく、富を誇示するための豪華な装飾を必要としなかったことが、白木の文化につながったのではないかと推測できます。
ラハティのシベリウスホールなど、現代建築でも白木の美しさを生かしたデザインが多く見られます。
木工品と職人たち
日本はタンス、桶、漆器など、多様な木工品が生活に根づいてきました。
フィンランドでは、ククサや白樺皮のかごなど、自然素材を活かした実用品が今も愛されています。
どちらも自然の色や手触りを生かす姿勢が感じられます。
また、日本の昔ながらの職人は、道を極めるタイプのスペシャリスト型が多いです。
一方、フィンランドの木工職人は「デザイナー」「アーティスト」として、自分の付加価値を見出すジェネラリスト型が多いです。
彼らは、職業学校でビジネスや企画も学び、発信力や市場対応力に長けています。
おわりに
日本とフィンランドは、同じく木と共に生きてきた国。木造建築や白木を好む文化など多くの共通点も見えてきました。
木を活かす知恵や感性は、現代の暮らしにも活かせる宝物です。
あなたも、木の温もりを感じる時間を取り入れてみませんか?
編集後記
私は着物を着るので、着物の収納には桐ダンスを愛用しています。
桐の木は柔らかく細かい繊維を持っていて、湿気の多い時には水分を吸い、乾燥すると吐き出す性質があります。
桐ダンスは湿度管理に優れているので、着物を安心してしまっておけるのです。今は便利な収納用品が次々に登場していますが、「着物の収納と言えば桐ダンス」という感覚は、現代でも変わりません。やっぱり木の力ってすごいなぁと感じます。
こうした知恵を未来につなげていくことで、現代を生きる私たちと木との関わりは、もっと豊かになっていくのかもしれませんね。
(執筆:橘茉里)
こんにちは、エラマプロジェクトです。
一年で最も日が長い「夏至」、そして日光が降り注ぐ夏は、太陽と私たちの暮らしを見つめ直す良い機会です。
特に日照時間の差が大きい日本とフィンランドでは、太陽との付き合い方にも文化的な違いが表れています。
今回は、両国の夏至をめぐる文化や太陽との付き合い方から、心と身体を整えるヒントを見つけていきましょう。
太陽光を浴びると、どんな効果があるの?
太陽の光は、私たちの心と身体にさまざまな恩恵をもたらします。
気分を明るくし、体内時計を整え、ビタミンDを生成して骨や免疫を守ってくれる力があります。
フィンランドの冬は、日照時間が極端に短くなる季節。光を浴びない時間が続くと、気分が沈みがちになり、季節性うつ(冬季うつ)を引き起こすこともあります。
だからこそ夏の太陽光は特別で、フィンランドの人たちは「とにかく日差しを浴びたい」という思いがとても強いのです。
ただし、日光を浴びすぎることで、日焼けや皮膚へのダメージもあるので、適度な付き合い方が大切です。
夏至の日照時間と比べると
一年で最も日が長いのは「夏至」ですね。
フィンランドの夏至の日照時間は、南部(ヘルシンキ)で約19時間。北部(イナリ)では日の出・日没はなく、24時間ずっと太陽が沈まない「白夜」となります。
一方、日本(東京)の日照時間は約14.5時間ですが、梅雨の影響で実際の体感はそれより短く感じられるかもしれません。
夏至の過ごし方は?

フィンランドでは、夏至は一年のうちでとても重要な日で、「夏至祭(ユハンヌス)」が行われます。
夏至祭では、2~3メートルの火柱が立つ大きな焚き火(コッコ)を囲み、悪霊や悪運を払って豊作を祈願します。
夏至には、たくさんの人が森や湖のそばのコテージで自然とともに過ごします。
この頃から大人も夏休みに入ることが多く、2~4週間ほどの長期休暇を取ることもよくあります。
それに対して、日本には全国的に有名な夏至の行事はありません。
しかし、伊勢の神社で夏至祭が行われたり、関西ではタコを食べる習慣があったりと、地域ごとに独自の風習が見られます。
夏至から11日目を「半夏(はんげ)」と言い、この日までに田植えを終えないと収穫が半分になる、という「半夏半作」の言い伝えがあります。
太陽の神話を比べると
日本はその名の通り「日の本の国」です。
聖徳太子が古代中国の皇帝に送った国書では、日本の天皇のことを「日出づる処の天子(=太陽が昇る国の天子)」と表現しています。
太陽は、私たち日本人のアイデンティティともいえる存在なんです。
『古事記』などの神話に登場する天照大神(アマテラス)は皇室の祖神であり、太陽神としての側面もあります。
また、私たちは日常的に「お日様」「お天道様」と呼んで、太陽を身近な存在として敬ってきました。
一方、フィンランドでは太陽神の存在感はやや控えめです。
フィンランドにも豊穣や生命の源とされる太陽の女神パイヴァタルがいますし、叙事詩『カレワラ』の冒頭には、大気の乙女の膝の上で鳥が卵を産み、その卵の黄身が太陽に、白身が月になったという神話があったりします。
しかし森と湖の国であるフィンランドの神話では、太陽よりも水の方がモチーフになることが多いのです。
太陽との付き合い方の違いは?
日本では、日差しを避ける「美白文化」が根強くあります。
日傘や日焼け止めは夏の定番アイテムで、白い肌は美しさや上品さの象徴とされてきました。
対してフィンランドでは、夏の光を積極的に浴びる文化が根付いています。
テラス席ではパラソル無しで太陽を楽しむ人も多いです。
冬の暗さを乗り越えるため、夏の太陽光を「精神の栄養」として余すところなく味わうのです。
おわりに
日本とフィンランドでは、太陽との付き合い方に違いがありますが、どちらの国も自然との営みの中で太陽と向き合ってきました。
太陽光を浴びることにも、避けることにも、どちらにも文化的な意味があります。
自分に合った方法で太陽を生活に取り入れて、心と身体を整えていきましょう。
編集後記
うちの寝室には、カーテンを取り付けていない小窓があります。その小窓から日光が入るので、夏の時期は日の出を迎える4時台から部屋が明るくなります。
そのせいなのか、夏場は早くに目が覚めます。
日の出が遅い冬場はなかなか目覚められないので、人の暮らしは太陽とともにあるんだなぁと実感します。
不思議なもので、朝いちばんの光に包まれて目覚めた日は、それだけで心が軽くなります。
太陽の光は、ただ部屋を明るくしてくれるだけではなく、「今日も一日が始まった」と私のスイッチを入れてくれる気がします。
私たちは太陽のリズムの中で生きている。その壮大さに感謝の気持ちが湧いてきます。
そんなことを、小さな窓から差し込む朝日の中でしみじみと感じたのでした。
(執筆:橘茉里)
こんにちは、エラマプロジェクトです。
現代は情報があふれ、つい「頭で考える」ことに偏りがちです。そんな今だからこそ、「五感で感じること」に目を向けてみませんか?
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。 この五つの感覚は、私たちが世界と出会い、つながるための入り口です。
森林率が世界トップクラスで、自然と共に生きてきた日本とフィンランドは、五感の使い方にも独自の美学と文化が息づいています。
今回は、両国の五感文化を通して、豊かに生きるヒントを見つけてみましょう。
五感を養うと、なにが変わる?
五感を意識して暮らすと、創造性や感受性が育ち、私たちの人間としての成長を促してくれます。
例えば、
・現実を深く理解する:世界とのつながりを実感できる
・感情や感受性が豊かに:美しいもの、心地よいものに心が動く
・ひらめきを生む:感覚の刺激が創造性を育てる
・ストレスを軽減する:香りや手触りが、心と体を整える
・コミュニケーションが円滑に:感受性が高まることで、他者との関係も深まる
こうした五感の豊かさを、日本とフィンランドはどんなふうに育んできたのでしょうか?

視覚:引き算の美、余白の力
日本の「わびさび」を感じさせるデザイン、フィンランドの「シンプルで実用的」なデザイン。どちらも、余白や静けさに美を見出す感性が根付いています。
また、日本では渋く落ち着いた色合い、フィンランドでは雪や湖、森の色といった自然の色使いが好まれます。
華美に飾り立てるのではなく、「引き算」の発想で創られたデザインは、見る人の想像力を育ててくれます。
聴覚:虫の声と、静寂とロック
日本では、虫の音を「声」として聴き、自然と共にある感覚が大切にされています。虫の音を「言葉」として受け取る文化は、世界的にも珍しいものです。
一方フィンランドは「静けさ」を重んじる国ですが、同時にハードロックやメタル音楽の盛んな国でもあります。静と動、両方を大切にするその文化は、感覚の幅の広さを感じさせます。
嗅覚:自然の香りを味わう
日本では古くから、匂い袋や練香など、天然の草木を用いたお香の文化が発達してきました。今でも香りを通じて心を整える知恵が受け継がれています。
フィンランドでは、焚き火、スモークサウナ、森、ベリーの香りなどが暮らしの中に溶け込んでいます。コーヒー消費量が多く、コーヒーの香りも日常の一部です。
どちらの国も、自然な香りに重きを置いている点が共通しています。
味覚:旨味と素材のちから
日本は「うま味」という味覚を大切にし、出汁を使って味に奥行きを出します。「UMAMI」は今や世界で通じる言葉となりました。
フィンランドの料理は、塩、胡椒、ハーブなどを使ったシンプルな味付けで、素材そのものの味を活かします。ライ麦パンやサワークリーム、塩漬けの魚やチーズなど、酸味や塩味が日常の味です。
触覚:手で感じる、暮らしの温度
日本家屋は、畳や障子、木の柱など植物由来の素材から成るため、それらに触れる習慣があり、自然素材を身近に感じる文化があります。
フィンランドでは、ウールやリネン、木工製品、そして編み物の文化が根強く、「編む」という行為そのものが心を整える時間になっています。
どちらも「手で触れること」を大切にし、そこから得られる安心感を暮らしに取り入れているのです。
今、五感を見直す意味とは?
風土も歴史も違う日本とフィンランドですが、どちらの文化にも共通しているのは、自然とともにあること。
自然の音に耳を澄まし、香りを感じ、食を味わい、素材に触れる。
そんな丁寧な暮らし方が、五感を通して見えてきます。
遠い国同士のようでいて、実は心の奥深くでつながっている日本とフィンランド。その文化を知ることは、自分自身の感覚を広げていくことでもあります。
エラマプロジェクトでは、「和フィン折衷」という視点から、五感を養うことを「自分自身と向き合う行為」と捉えています。
日本の繊細な感性とフィンランドの静かな強さ。その両方を感じながら、自分にとって心地よい感覚を見つけ、日々の中で五感を大切にすることが、今を生きるヒントになるかもしれません。
編集後記
窓を開けて網戸にしていると、うちの猫たちはそっと窓辺に近づいて、その大きな瞳で外の様子をじっと見つめます。
鳥のさえずり、風に乗ってくる匂い、肌に触れる外気の気配、人の行き交う音。
彼らは五感をめいっぱい使って、外の世界を感じ取ろうとしているのです。
そんな姿を見ていると、「私は日々、自分の感覚をちゃんと使えているだろうか?」という問いが湧いてきます。
PCやスマホに頼って、自分の五感を置いてきぼりにしていたかも……。
そんな自分に気づいたら、「今日は香りを楽しんでみよう」「音に意識を向けてみよう」と、五感を大切にしたいなと思います。そういう小さな選択が、暮らしをさらに豊かにしてくれる気がします。
ぜひみなさんも、今まで以上に五感を大切に過ごしてみてください。今日という日が、あなたによって優しく豊かな感覚に包まれたものでありますように。
(執筆:橘茉里)
こんにちは。エラマプロジェクトの和文化担当、橘茉里です。
私の本業は高校教師ですが、生徒と向き合っていると、教師という仕事は「生徒を信じる」ことと深く結びついていると感じます。
そして最近、「自分を信じる」ことは、自分らしく豊かに生きるためにとても大切なことだと、改めて気づかされました。
今回は、私の経験から見えてきた「信じる」ことの力について綴ってみたいと思います。
あなたは最近、自分のことを信じられていますか?
生徒がどんどん成績優秀になっていく!?
私が勤めているのは私立高校で、授業内容をかなり自由に組み立てることができます。
そのため、私も教科書に頼らない教材開発を積極的に行っています。
独自のコンテンツで授業をつくるのは大変ですが、自分が本当に伝えたいと思うことを教えることができるし、生徒たちに合わせて柔軟な工夫ができるところも魅力です。
でもその代わり、定期試験も一人でゼロから作らねばならないので、それはなかなか骨が折れます。
先日も、ちょうど定期試験がありました。
ああでもない、こうでもないと頭をフル回転させて、なんとか作り上げた試験問題です。
しかしその試験、生徒の出来はとても良かったんです。
試験問題が簡単だったから?
いえ、そんなことはありません。
うちの学校は偏差値が高くて、学力が高い生徒が集まってきます。
授業内容をそのまま出題すると、みんなが高得点になってしまい実力を測れないので、問題をひねったり、思考力が必要な問いを用意したりと、簡単には正解に辿り着けないように工夫しているんです。
それでも多くの生徒が、解答欄をびっしりと埋め、私が想定している模範解答よりも素晴らしい解答を出してきたりするので、「どうしてみんな、こんなに出来るのだろう?」と不思議になります。
ちなみに、試験の出来が良かったのは今回だけではありません。
ここ数年ずっと、私の見立てを上回る結果が出ているのです。
だから私も、年々難易度を上げているつもりなのですが、それでも生徒たちは良い点数を取ってしまうんです。
うちの生徒、凄すぎじゃない!?
解答用紙からは、生徒が私の授業を深く理解して、さらに生徒自身で思考し、言語化している様子が伺えて、とても嬉しくなります。
それにしても、本当になんでこんなに出来ちゃうんだろう。
彼らの努力があってこそなのはもちろんですが、私が何か影響を与えていることはないでしょうか。
教員経験が長くなるにつれ、私の授業づくりや教え方のスキルが磨かれたから?
それもあるかもしれません。
でももうひとつ。気づいたことがあります。
それは、私が心から「生徒はできる」と信じて、期待しているということです。
「信じる力」に学術的な根拠はあるの?
「ピグマリオン効果」という心理学の用語をご存知でしょうか?
ピグマリオン効果とは、人間は他者から期待されると、学習や仕事のパフォーマンスが向上し、期待に沿った成果を出す傾向にあるという現象のことです。
アメリカの教育心理学者、ロバート・ローゼンタールによって提唱された考え方で、アメリカの小学校で行われた興味深い実験があります。
学期のはじめ、ローゼンタールらは小学生たちに「ハーバード式学力予測テスト」という名前のごく普通のテストを受けさせました。
このテストには何の特別な意味もありませんでしたが、そのクラスの教師には「テストの結果、これから学力が伸びる可能性があると分かった生徒はこの子たちです」と伝え、伸びるとされた生徒のリストを渡しました。
しかし、実際にはそのリストは無作為に選ばれたもの。
つまり、選ばれた子どもたちが本当に優秀だという根拠は何もありませんでした。
けれどもリストに名前が記された子どもたちの多くは、その後、本当に成績が伸びたのです。
この結果は、教師が「この子は伸びるはずだ」と無意識に期待することで、教師の行動が変化すること。そして、期待された生徒自身も、無意識のうちに教師の期待に応えようと頑張るようになることを示しているとされます。
私もまさに、自分の生徒たちにこのような「信じるまなざし」を注いでいるのでしょう。
私が「あなたたちならできる」と心から信じて接していると、生徒たちもそれに応えるように、ますます自分の力を発揮してくれている気がします。
それは相手を追い詰めるような「期待」ではなく、「今のままのあなたを信じるよ」という視点です。
私はこれからも、そんなまなざしで彼らを見つめていたいと思うのです。
あなたもぜひ、今まで以上に他者を信じることを取り入れてみてください。きっとより満たされた関係を築くことができるでしょう。
謙遜は自己否定につながることも
ピグマリオン効果が証明しているように、他者を信じることは大切です。
しかし私たちには、他者よりもまず、最も信じてあげなくてはいけない存在がいませんか?
そう、それは自分自身です。
次は「自分を信じる」ことについて考えてみましょう。
日本には謙遜を美徳とする文化があります。
人より出しゃばらず、控えめに振る舞うことを上品とするような価値観。和を重んじる社会においては、謙遜は確かに調和を生む重要な要素となるでしょう。
相手を立てたり、自分の力を誇示しないことによって、場を和ませ、心地よい空間を作れたりします。
でも、私にはこんな思い出があります。
大学院生の頃、指導教授が私を他人に紹介する際、「橘さんはまだまだで……」とおっしゃったことがありました。
今でもその時のことをしっかり覚えているということは、あれは私にとってずいぶんショックな出来事だったのでしょう。
教授が私を低く言ったのは、おそらく日本的な謙遜でした。自分のゼミの学生を褒める=自分の手腕を褒める、ということに繋がりますから、教授は自分のことを謙遜したかったのだと思います。
でも当時の私はモヤモヤして「そんな風に、おとしめて言わなくてもいいじゃない」と感じたのです。
誰だって、おとしめられるのは嫌なものです。
けれど、よくよく考えてみると、私自身も日常の中でこれと同じようなことをしていると気づきました。
誰かに褒めてもらった時、私は謙遜して、自分で自分のことを「いえいえ、私なんて全然まだまだです」と平気で口にしています。
教授から言われてショックだったことを、私は自分で自分に対して行っていたのです。
他でもない自分からそんなことを言われて、無意識の私はきっと傷ついていたはずです。
また、他人から「ありがとう」と言ってもらった時に、つい「いえいえ、とんでもないです」と謙遜して返答してしまう癖もありました。
これも一見すると丁寧な応対に見えますが、見方を変えると「私には『ありがとう』と言ってもらう価値はありません」と自分を否定してしまっているようなものです。
これはゆゆしき問題です。
そこで、今では「ありがとう」と言ってもらった時に、できるだけ「いえいえ」ではなく、「どういたしまして」と返すように心がけています。
咄嗟の会話では、いまだに「いえいえ」と言ってしまうこともありますが、少しずつ「ありがとう」をきちんと受け取れるようになりたいと思っています。
自分を信じて、自分を輝かせよう
謙遜は確かに美徳です。
日本で培われてきた謙遜という価値観は、とてもかけがえのないものだと思いますし、謙遜の精神は大切にした方がいいと感じます。
でも、その謙遜が「自分を下げること」になってしまったら……。
相手への気遣いとしての謙遜は美しいですが、自分を下げる謙遜は止めた方がいいでしょう。
今回紹介したピグマリオン効果を、自分自身に向けて使ってみませんか?
「私はできる」「私は素晴らしい」と、自分を信じ、期待してあげる。
それはあなたの毎日をもっと自由に、もっと豊かにする力となるはずです。
「あなたならできるよ」
私が生徒に伝えたい言葉を、私自身に、そしてあなた自身に贈ります。
Text by 橘茉里(和えらま共同代表/和の文化を五感で楽しむ講座主宰/国語教師/香司)

※この記事は、2025年5月8日のエラマのYouTubeチャンネルでLIVE配信した無料講座の内容をコラムとしてまとめています。
YouTubeのアーカイブ動画はこちら
「心の闇」と聞くと、少し重たいテーマに感じるかもしれません。しかし、誰にでも訪れる可能性のあるこの感情とどう向き合っていくかは、現代社会を生きる私たちにとって大切な視点ではないでしょうか。
今回の「和フィン折衷ゼミ」では、「心の闇」をテーマに、和文化とフィンランド文化それぞれにおける捉え方や向き合い方、そして解消法について深掘りしていきます。
心の闇とは?ネガティブな感情から過去のトラウマまで
まず、「心の闇」とは具体的に何を指すのでしょうか。一般的には、以下のようなものが挙げられます。
・ネガティブな感情や思考: 怒り、不安、絶望など
・平静を装う状態: 内心では怒りや悲しみを抱えながらも、表面的には平静を装うこと
・過去の傷やトラウマ
・他人に見せない内面: 表と裏で異なる顔を見せること
・誰にでもあるもの: 特定の人だけでなく、人間誰しもが持ちうるもの
特に、日本には「五月病」という言葉があるように、季節の変わり目や環境の変化によって心が揺らぎやすい側面もあります。
心の闇と向き合う文化:和文化とフィンランド
和文化とフィンランド文化では、この「心の闇」とどのように向き合ってきたのでしょうか。
和文化における心の闇との向き合い方
日本では古来より、心の闇と向き合うための様々な文化や習慣が育まれてきました。
・和歌: 喜びだけでなく、悲しみや苦しみといった感情も歌に詠むことで、心の闇と向き合ってきました。古今和歌集の序文には「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」とあり、歌が人の心から生まれるものであることが示されています。
・道を極める(座禅など): 茶道や武道、そして座禅といった「道」を極める行為は、自分自身と向き合い、悟りを目指す中で、心の闇とも対峙するプロセスを含んでいます。
・日記文学: 平安時代の女流文学などに見られるように、日記に自らの苦悩や葛藤を綴ることで、心の闇を表現し、昇華しようとする試みもありました。例えば、藤原道綱母の『蜻蛉日記』は、夫との関係に悩み苦しむ心情が赤裸々に描かれています。
フィンランド文化における心の闇との向き合い方
一方、フィンランドでは以下のような形で心の闇と向き合っています。
・読書: フィンランドは国民の読書量が非常に多く、図書館の利用率も世界トップクラスです。図書館は「第三の場所(サードプレイス)」として重要な役割を担っており、静かに自分と向き合う時間を提供しています。
・アート: フィンランドでは、アートが生活に根付いています。プロの芸術家だけでなく、一般の人々も文化活動に積極的に参加し、絵画や音楽などを通して内面を表現します。
・サウナ: フィンランドのサウナは、単に体を温めるだけでなく、静かに自分自身と向き合い、本音を語り合える場所でもあります。暗く静かな空間で、心の闇と対話する時間となることもあります。
心の闇とアート:表現することで見えてくるもの
心の闇は、アート作品の重要なテーマともなり得ます。
和文化におけるアートと心の闇
・文学作品: 夏目漱石や太宰治、芥川龍之介といった文豪たちの作品には、人間の内面の葛藤や苦悩、孤独といった「心の闇」が深く描かれています。
・古典芸能: 能や歌舞伎などの中にも、人間の情念や業といったものが表現され、観る者に深い共感を呼び起こします。
フィンランド文化におけるアートと心の闇
・ムーミン: 世界中で愛されるムーミンの物語には、実は奥深い哲学や、登場人物たちの抱える孤独や不安といった「陰影」も描かれています。大人になってから読むと、新たな発見があるかもしれません。
・タンゴ: アルゼンチンタンゴとは異なる、哀愁漂うフィンランドタンゴは、魂の叫びや失恋、望郷の念といった感情を表現する音楽として親しまれています。一説には、タンゴの発祥はフィンランドではないかという説もあるほどです。
・ヘヴィメタル: フィンランドはヘヴィメタル大国としても知られています。激しい音楽を通して、心の奥底にある感情を解放する手段となっているのかもしれません。
心の闇を解消する方法:光を見出すヒント
では、実際に心の闇を感じた時、どのように解消していけば良いのでしょうか。
和文化における解消法
・邪気払い: 節分や大晦日など、季節の節目に行われる行事には、邪気を払い、新たな気持ちでスタートするという意味合いが込められています。
・涙を流す: 古典文学などにも見られるように、悲しい時や辛い時に涙を流すことは、感情を解放する一つの方法として捉えられてきました。武士でさえも、時には涙を流したとされています。
・飲酒: 日本には古くから酒を楽しむ文化があり、「憂さを晴らす」といった言葉もあるように、適度な飲酒が気晴らしとなることもあります。ただし、飲みすぎには注意が必要です。
フィンランド文化における解消法
・太陽光を浴びる: 冬の日照時間が短いフィンランドでは、太陽光を浴びることが非常に重要視されています。光線療法(ライトセラピー)も治療法の一つとして取り入れられています。
・ヘヴィメタルを聴く・演奏する: 前述の通り、ヘヴィメタルは感情を爆発させる手段として機能していると考えられます。
焚き火やキャンドル: 暗い冬の長い夜、焚き火やキャンドルの温かい光は、心を落ち着かせ、闇を照らすぬくもりとなります。
・外気浴: サウナの後に外気にあたることは、心身をリフレッシュさせ、フラットな状態に戻す効果があります。特に、ありのままの自分で自然の中に身を置くことは、解放感につながります。
個人的におすすめの心の闇解消法
最後に、出演者それぞれが個人的におすすめする心の闇との向き合い方をご紹介します。
マリ先生のおすすめ:
・悲しみに浸って飽きるのを待つ: 無理に浮上しようとせず、感情に身を任せ、自然と心が落ち着くのを待つ。
・わざと号泣する: 泣ける映画などを観て思いっきり泣き、感情を解放する。
石原のおすすめ:
・外気浴: 温泉やサウナの後、ありのままの姿で外気に触れることで、心身ともにリフレッシュし、フラットな状態になる。
まとめ:心の闇と光のバランス
心の闇は、決して特別なものではなく、誰にでも訪れるものです。大切なのは、その闇とどう向き合い、自分なりの光を見つけていくかということ。和文化とフィンランド文化、それぞれの知恵を参考にしながら、自分に合った方法で心のバランスを整えていけると良いですね。
会員制コミュニティ「エラマの森」では、このような深い学びのコンテンツを、動画で、コラムで毎日配信しています。

「わたし」を豊かで幸せに生きるための学びを得たい方は、ぜひ「エラマの森」へ!
フィンランドの豊かな暮らしと日本の豊かな文化を学び、実践することで、「わたし」の心、頭、体を整える第二の故郷のような場を提供しています。
オンラインでの講座や瞑想、専門家によるコラム、そして飛騨高山でのリアルな体験など、あなたの「エラマ(フィンランド語で「人生・生活」)」を豊かにするヒントがきっと見つかります。
▼詳細・ご登録はこちらから
https://elama.be/elamamori/
こんにちは。エラマプロジェクトの和文化担当、橘茉里です。
私は時々、歌舞伎や文楽(人形浄瑠璃)といった伝統芸能を観に行きます。
「伝統芸能」と聞くと、「堅苦しそう」「難しそう」と感じる方もいらっしゃるでしょう。
確かにそういう一面もありますが、実は、現代人もびっくりするほどドラマチックでエンタメ性の高い作品もたくさんあります。
例えば、昼ドラのような愛憎劇、逃避行、心中、ストーキング、転生、BLなどなど。
結構なんでもありなのです(笑)。
そんな中でも、今なお根強い人気があり、多くの作品に描かれているテーマがあります。
それが「忠義」です。
忠義のかたちは様々ですが、歌舞伎や文楽では「忠義のために我が子を犠牲にする」という壮絶な選択として描かれることがあります。
代表的なのが、江戸時代に生まれた名作『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』の四段目、「寺子屋の段」です。
敵方の家臣・松王丸は、恩義ある菅原道真の息子・菅秀才の命を救うため、自分の幼い息子を身代わりとし、菅秀才の代わりに首を討たれるよう仕組みます。
松王丸の妻もまた、息子が身代わりになることを知りながら、寺子屋へ送り出すのです。
もちろん、この夫婦に息子への愛情がないわけではありません。
我が子を想う気持ちをぐっと堪え、忠義を果たしたあと、夫婦はまるで血の涙を流すようにその悲しみを表します。
多くの観客は、あらすじを知ったうえでこの場面を観ます。
それでも「寺子屋の段」の愁嘆場(しゅうたんば)は、我々の強く心を揺さぶるのです。
この演目は今でも人気が高く、毎年のように上演されています。
私も何度も観に行きましたが、いつも不思議に思います。
なぜこの物語は、時代を超えて繰り返し演じられているのでしょう?
なぜ私たちは、こんなにも自己犠牲の物語に心を動かされるのでしょう?
今回は、そんな疑問について考えてみたいと思います。
忠義を通して、私たちが見たいものとは
江戸時代の武士にとって、「忠義」は生き方の核でした。
忠義は、主君に対する深い忠誠心を意味し、時には命を賭してでも果たすべきものとされていたのです。
そのため、主君の名誉や命を守るために、自らの命を惜しまない姿勢が尊ばれました。
仁・義・礼・智・信などの徳目が重んじられる中でも、「忠義」は特に重要な柱とされていたのです。
そして武士には、個人の感情よりも「大義」を優先することが求められました。
新渡戸稲造も『武士道』の中でこう語っています。
「武士道の教えはすべて自己犠牲の精神に貫かれている。」
「女性たちも主君のためならすべてを犠牲にするよう子供たちを励ました。侍の妻たちは、忠誠のためには自分の息子をあきらめる堅固な覚悟を固めていた。」
(著・新渡戸稲造、訳・大久保喬樹『ビギナーズ日本の思想 新訳武士道』より)
かつて理想とされた価値観においては、「忠義>息子の命」だったわけです。
しかし現代の私たちにとって、「自分の子どもを犠牲にする」という選択は、想像を絶します。
今の価値観では、むしろ「自分の命を差し出すより、我が子を犠牲にするほうが辛い」と感じ、「子どものためなら自分を犠牲にしてもいい」と考える人の方が多いように思います。
その点で、「寺子屋の段」のような物語は、現代人には受け入れがたい内容のはずです。
それでも私たちは、この物語に心を動かされてしまう。
私は、「想いの強さ」が見たくて、劇場に足を運んでいるのではないかと思うのです。
「どれだけ犠牲にできるか」は、想いの強さに比例するように感じます。
私たちは本気度が低いものに対して、大きな犠牲を払おうとはしないでしょう。
つまり「寺子屋の段」だったら、「息子を犠牲にしてまで貫き通したい忠義」という想いの強さに、私たちは感動を覚えているのではないでしょうか。
実際にそういう生き方をすることはとても難しいですが、普通は出来ないからこそ、私たちは無意識のうちに「想いの強さ」を伴った行動に憧れのようなものを感じているのかもしれません。
私たちは自由があれば満足なのか?
自己犠牲を美徳とする精神は、何も前近代に限ったことではありません。
例えば、日本の高度経済成長期を支えた企業戦士たちは、会社のために身を粉にして働き、私生活を犠牲にしてでも仕事を優先する生き方を選びました。
これは、武士の忠義に通じる精神性と言えるでしょう。
今でもそうした働き方を好んで選ぶ人もいますが、その一方で、現代では多様な価値観が広まり、「自由に生きたい」「自分のために、自由に時間を使いたい」と考える人も増えています。
では、仕事から解き放たれ、完全に自由になったならば、私たちはそれで満足できるのでしょうか?
定年退職後、やりがいを失ったり、暇な時間をどう使って良いか分からなかったりして、急に老け込んでしまう人がいるという話を耳にすることがあります。
自由を手にしても、それを有効活用できなければ、自由は毒にもなりかねない気がします。
私たちは、ただ自由なだけでは満足できず、「生きがいを持ち、日々満たされ、充実した人生を送っている」状態を必要としているのではないかと思います。
そして、充実した人生の一つが、「使命を持って生きる」という生き方ではないかと感じます。
だから私たちは、使命を持って生きている人に惹かれるのではないでしょうか。
そう考えると、忠義ゆえの自己犠牲に心打たれる背景には、「使命を持って生きたい」という私たち自身の願望があるように思うのです。
『鬼滅の刃』という作品が爆発的にヒットしたのも、単なるエンタメとして以上に、使命に生きる登場人物たちの生き様が、観る人の心を打ったからではないでしょうか。
煉獄杏寿郎という登場人物のこんなセリフがあります。
「胸を張って生きろ
己の弱さや不甲斐なさにどれだけ打ちのめされようと
心を燃やせ
歯を食いしばって前を向け」
(『鬼滅の刃』第8巻より)
彼は強い正義感と責任感を持ち、自らの命をかけて多くの人と仲間を守り抜きます。その生き様は、主人公である炭治郎たちにも大きな影響を与えました。
命の灯を燃やし尽くしながら戦い、最後に残された者たちへ言葉を託す――。「心を燃やせ」というセリフには、煉獄の覚悟と信念が込められているのです。
彼もまた、自分の信念と大義のために命を燃やした人物。「寺子屋の段」との共通点を感じます。
私たちの心を熱くさせるもの。
それはやはり、「想いの強さ」や「使命に生きたい」という情熱なのかもしれません。
心を燃やすことも豊かな生き方のひとつ
エラマプロジェクトでは、フィンランドの文化をベースに、「自分の時間を持つこと(マイタイム)」「休むこと」など、人生を豊かにするためのヒントをお届けしています。
エラマプロジェクトからたくさんのエッセンスを吸収していただきつつ、それと併せて、日本的な「心を燃やす」生き方というのも念頭に置いていただくと良いかなと思います。
どんなに小さなものであっても、自分の心を燃やせるものがあるなら、それはきっと人生を深く、豊かにしてくれるはずです。
あなたの心は、いま何に向かって燃えていますか?
その炎を、どうか大切にしてください。
Text by 橘茉里(和えらま共同代表/和の文化を五感で楽しむ講座主宰/国語教師/香司)
