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Elämäプロジェクト

ふと、自分を振り返ってみたくなる機会はありませんか?

こんにちは、どさんこRUNAです!

親戚が小学校を卒業し、中学生になった今年、自分が小学生や中学生の時に夢中だったことは何だっけ?どんなことを楽しみに過ごしていたっけ?と思い返すことがありました。

自分を振り返る時、私は「日記」を見ています。

「1年前のこの日」というタイトルで、1年前の今日をビデオにしてくれるスマホのおかげで、自ら残す作業をしなくても、スマホが日々の記憶を管理してくれる時代です。

何の会話をしていたのかは、トーク履歴で、自分や社会にどんな出来事があったのかは写真やメモ機能、Webサイトで確認できる便利な現代で、私が「日記」にこだわる理由をお話しします。

「日記の中の自分」と話す理由

人は、1日の中でたくさんの役割をこなしています。

ある人の毎日では、母として、パートナーとして、会社員として、友人として、ママ友として、近所の人として…

慌ただしく日々が過ぎ去っていく中で、誰もが色んな側面の役割を果たしていると思います。

多面的な自分が所々でがんばっているはずなのに、ネット上には止めどなく「同年代の芸能人のキラキラした生活」、「いいパートナー像」、「理想の暮らし」などが発信されています。特に探していないのに目に飛び込んでくると、何気なく他者の生活と自分とを比べて努力が足りないのではないかと不安や心配が生まれてしまうのです。

ネットが提示する「理想の幸せのカタチ」は、自分じゃない世間の期待や意見で作られているものです。その幸せなカタチを目にする機会が多いので、みんなそう”している”んだと、それが”ある”から幸せなんだと思い込んでいるのかもしれません。

なぜなら、自分で幸せのカタチを生み出すよりも、すでにある幸せの共通認識に当てはめて自分の幸せをはかる方が”わかりやすい”からです。

そのわかりやすさがネットの中には溢れています。

だから、スマホから離れて、「日記の中の自分」と話すことにしたのです。

スマホでも日記は書けます。

ですが、予定アプリで何をしたかを管理したり、スマホのメモに日々のことをメモしたりしていると、ピコンの通知とともに誰かの発信やニュースに目がいき、自分が考えていたことを忘れて、ネットの中に入り込んでしまうことがあります。

日記を書くのは自分しかいなくて、それを読むのも自分しかいない。

他者が立ち入ることもなく、他者と比較することもない。

そういった場が必要だと思うのです。

将来どのようなことをしたい?

大きくなったら、何になりたい?

何かを”する”、何かに”なる”ことを求められる世の中で、ただ「ある」だけでいい場が日記だと思うのです。

何をしたか、何もしなかったか、何が嫌だったか、何が嬉しかったか。

ただ「ある」だけの自分でも、色んな面を生きていて、それを実感できる。

日記を書いていくことで、色んな自分を知ることができます。

自分の言葉が生み出される場所

私は、自分の言葉で話す人に憧れを抱きます。

周りにいるそんな人たちには、日記を書いているという共通点がありました。

部活時代の物知りな恩師は、まめに日記を書いている人でした。部活用の日記帳があって、そこに何をしたかや何を伝えたいかをまとめていると言っていました。中身は見ていませんが、分厚い日記帳でした。

部活生にも部活日記としてノートを配り、たまに提出があって、たくさんコメントをしてくれました。ある時、「みんなが求めている言葉を話しているから、自分の言葉で話しなさい」そうコメントされた時がありました。

どうしたらいいか分からず悩んでいると、「自分」がないと「自分の言葉」で話せないから、日記にチームとしてではなくて、自分として何を思ったか書きなさいと言われました。

しっかりした言葉や立派なことを言わなければと思えば思うほど、中身のない浅い言葉を言っている自分に気づきました。

きっちりしたことはカタチになりやすいですが、その反対はなんだろう?そう考えた時に思い浮かんだのが、曖昧で言葉にならないモヤモヤしたものでした。

モヤモヤした感情は、カタチのないものなので、向き合うことも、カタチにすることも難しいです。でも、そのモヤモヤした感情こそ、自分しか感じられない大切なものだと気づいたのです。

また、じいちゃんも日記を書く人でした。

〇〇年に自分はこんなことをしていて、日本の状況はこうだった。

このように自分の出来事と、社会情勢を関連付けて覚えていました。

ある時、何かについて「ひどいよね」と話していると、「誰がそう思ったのか?」と問われたことがありました。その時、聞いてくれる人も同じ感情だと勝手に想像し、自分がどう思ったかを話していないと気づきました。

「〇〇ってひどいよね?」

このように何かを話す時、同じことを感じていると思い、無意識に同意を求めてしまうのは、他者の視点で話しているからで、そこに「自分がない」ということかもしれない。

「自分は〇〇についてひどいと思う」が言えるのは、自分の言葉がある、「自分がある」からこそだと思いました。

曖昧な言葉ばかり選んでしまいがちな会話という場では難しいですが、日記という場では自分の言葉で話す練習ができると思うのです。なぜなら、そこに他者の存在はなく、自分の考えを知ろうとするのも、わかってもらおうとするのも自分しかいないからです。

月日が経ち、記憶力が悪くなっても、家に行くたび、孫とひ孫の名前を全部書いてほしいと言って日記を渡してくれました。私が書いた文字を見て、言葉に出す姿は、忘れないようにと自分に言い聞かせているようでした。

亡くなったじいちゃんの日記には、よく歌っていた曲の歌詞や孫たちの名前が書いてあり、大事なものを忘れないように残す姿を感じました。

日記の中で、その人が生きていることを知った瞬間でした。

どんな自分も「いてよし!」

日記にこだわるのは、自分なりの幸せを見つけられるかもしれない、自分の言葉で話せるようになるかもしれないと思っているからです。

今も、その道半ばですが、そういった目標に進むためだけでなく、心配性な自分をただただ許してほしいという不完全な自分を記す場にもなっています。

私は、友人たちに本当に不安症だね、心配性だね、すんごいネガティブだねと称されます。

こういった私の性格はマイナスで治すべきものとして指摘してもらう機会が多いですが、そんな自分がいるおかげで気づくこと、学ぶこともあります。

きっと共通認識の幸せのカタチを知っているのに、そのカタチに溶け込めない自分、そして溶け込まないといけないと思っている自分が「どうしようどうしよう」と不安を煽っているのだと思います。

「歴史は強者によって作られる」と言いますが、自己啓発本もエッセイも、うまくいった話が多い気がします。それらの本によって助けられることもありますが、別の物語が必要な場合もあります。

とことん失敗していること、笑顔になれない日々のこと、大人と言われる年齢だけど全く大人になれていないこと…。様々な自分の不完全さを日記に記録することで、自分にとって必要な別の物語が生まれると思うのです。

日記だから私の中にしか残らない。でも、それは無駄なものではないと思っています。

ダメダメな自分、イケイケな自分、さまざまな面を持つ自分。

どれも本当の自分で、色んな自分が毎日何かを感じて考えている。

日記を読む未来の自分という読者は、この自分をどう思うだろうか。

自分の色々な側面と日記で向き合うことで、他者にも1つではない様々な側面を持っていると想像することができる。きっと、色んな自分がいるおかげで、白と黒だけでなく、日々に彩りを添えてくれる存在に目を向けることができるのだと思うのです。

自分の言葉で様々な面を持つ自分と対話し、自分の幸せのカタチを形成していく。そうすることで、遠くにいる他者や、その生活を想像する力を養えることができるのが日記が持つ力だと思います。

「いてよし!」

彩りはたくさんあっていいんだと思える日記生活をこれからも続けていこうと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

Text by どさんこRUNA

こんにちは、どさんこ大学生RUNAです!

あくまで個人的な意見ですが、映画は家より映画館で見る方が何倍も楽しく見ることができると思っています。

「個人的な意見ですが」

「個人的に」

私は、集団の中で発言する際に、よく使っていますが、みなさんは、このような言葉をつけて話し始めることはありますか?

さまざまな言葉がある中でも、よく使われるこの前置きフレーズが対話を難しくさせるものになっているかもしれない。

今回は、「個人的な意見ですが」について考えていきたいと思います。

「個人的な意見ですが」は使い勝手が良い?

よく「個人的な意見ですが…」を使う場面を見るのは、組織・団体・役割がある人や、社会的な影響力を持った公人と呼ばれる人が話すときだと思います。

私も、普段は学校という集団に属していますが、影響力もないのに、なぜか「私の意見は」ではなく「個人的な意見ですが」と前置きしていることが多い気がします。

なぜ私たちはこんなに「個人的な意見ですが…」を使ってしまうのでしょう?

その理由を3つ考えてみました。

1つ目は、謙虚な姿勢を示せるからです。

「私は〇〇」の方は”自分自身”を強く主張しているように感じます。

一方で「個人的には〇〇」は自分の考えや立場を集団の中の一部の意見として扱うことで、控えめにしているように思います。

2つ目は、一種の接続詞みたいになっており、使いやすいからです。

「しかしながら」や「ところで」の代わりに「個人的な意見ですが…」は使えます。

個人の視点を前の会話とどのようにつなげるかという接続詞的な役割として重宝されているように思います。

3つ目は、”人それぞれ”であり、「あなたを否定するつもりはない」とういうことを強調できるからです。

このパターンで使われることが、多いのではないでしょうか?

「親的に」、「会社的に」、「男性として」、「女性ならば」など何らかのカテゴリーや規範を持ち出すと、相手を傷つける恐れがあったり、また相手に何かを押し付けたりする可能性も出てきます。しかし、「個人的に」を使うことで、相手を否定するような表現を避けることができ、さまざまな人の考え方や主義・信条を尊重していると伝えることができます。

攻撃されないように、決めつけではないと知ってもらうために、周りにも同じ考えを強いているわけではないとわかってもらうために、この前置きを使っていると感じます。

「ワタシ(私)的には…」が2000年の流行語大賞のトップテンとしてノミネートされました。今と同様に当時も、断定をさけるあいまいな表現として、その時代の若者が使う「ぼかし言葉」が多用されていました。

このように、さまざまな意味を含められる「個人的な意見ですが…」からみえてくるのは、”使いやすい”面だけでなく、逆の”使わざるをえない”状況です。

間違うことを恐れる私たち

「それは違う」と間違いを指摘され、ミスを叩かれる。

私たちの世界は、”間違い”や”ルールと違うこと”にとても厳しい。

ちょうど2年前、私は「正しさ」に基づいた「攻撃」や議論について考えていました。

なぜなら、コロナ以降、自分にとって悪い影響がなくても、マナー違反行為を激しく非難するなど、”正しさ”に過剰反応している風潮がよく見られたからです。

中学生の時、なぜか極寒の北海道でタイツをはくのは禁止という変な決まりがありました。

猛吹雪の中でもスカートに靴下で行かなければならない。

冷えによる体調不良になった私は、そのルールの意味が分からず、隠れてタイツをはいて登校して、先生に見つかりました。

先生は「個人的には寒いのは分かっているんだけど、学校の決まり、伝統だからね」と言って、タイツをはくことを許可してくれませんでした。

私は、この対応がとても印象的な記憶として残っています。

先生は「個人的には」という言葉を使って、組織のなかにいながらも私に対して中立的立場を表していました。でも、タイツがダメな理由はただ「学校という世の中のルールに反しているから」という納得できないものだったのです。

去年、「バスの運転手がサービスエリアでカレーを食べている」というクレームがバス会社に入り、そのバス会社で働いている人がクレームの内容を投稿して注目を集めました。

「クレームをつける方がおかしい」、「バスの運転手の飲食が無礼な行為だ」という意見も見られ、論争が起こりました。

また、救急隊がコンビニなどで買い物をすることについて”いろいろな意見”があるとして理解を求めるお願いを文章で投稿したものもありました。

自分にとって迷惑ではなくても、「みなさんどう思いますか?」と、多くの人が規則を決めた側かのように、世の中的に失礼だと捉えられる人や、ルールを守っていない人など、見つけた「間違い」を議題に挙げようとします。

このように少しでも「間違い」を言ってしまったら、容赦ない追求にあうかもしれない。

そう思うと、攻撃されないための予防線として「個人的な意見ですが…」を使う必要が出てくるのです。

「私」=属性とセットで認識される存在

そして、「個人的な意見ですが…」をよく使うのは、「私の意見は…」を伝えても大丈夫だと感じられる場がないからかもしれません。

本来「私は〇〇だと思います」とはっきり言えることは素晴らしいことですよね。しかしそれができない。そもそも対話を試みている場がどのようなものか見たことがないので、どうやって対話を行うのか分からないと思っている人も少なくないと思います。

討論・会議・議論・話し合いは、どれも違いがあります。しかし、対話とそれらの大きな違いは、対等な立場で話ができるかどうかだと思います。

議論などでは、集団に属しているひとりとして発言する際の暗黙のルール、例えば、意見がまとまっていること、急いで進めること、正しく決めること、勝つこと、結論を出すこと、相手を傷つけたり怒らせたりしないことなど…”しないといけない”、”するべき”みたいなものがあると感じるのです。

私は、中学生から始まる部活など集団行動の中でパワーバランスの存在を見てから、規律や常識、上下関係を優先させた上で話すことが大切だと学びました。

その頃から、集団の中で若輩者が話せる雰囲気ではないと感じ始めたり、発言するのが怖くて言葉に詰まったり、わかっていないのに理解したふりをしたりするようになりました。

なので、私の意見を主張するよりも、「個人的には」を使って、その場では波風を立てないように進めるのを最優先するのです。

また、SNSのプロフィールや投稿で「発言は個人の見解に基づくものであり、所属組織を代表するものではありません」という一文を目にしたことがあります。

この言葉が必要になる理由は、あらゆる人がその人単体で認識されることはなくて、職場や立場などの属性とセットで認識され、自らもその所属組織の一部であると意識せざるを得ないからです。

自分を集団の中から独立した存在だと思えたら「私の意見は」と言えるのかもしれませんが、私たちは自分が周りとの関係で存在していると認識しているので、「個人的には」を使うべきだと考えてしまうのだと思います。

「私の言葉」を伝えても大丈夫だと思える場

自分の主張を控えめにして、人それぞれであることを強調する「個人的な意見ですが…」が、わかり合うための対話では、逆に使いづらい言葉になると思うのです。

なぜなら、謙虚な姿勢を見せることで逆にえらい人の意見じゃないから気にとめなくても良いという意味にも捉えることができたり、人それぞれと言うとそこで話が終わってしまったりするからです。

ただ自分の想いを話して、相手を見て、言葉を聞いて、本音を交換できる場所のある人が、今どれだけいるのでしょうか?

一時期、「それってあなたの感想ですよね」、「そういうデータあるんですか?」など、他者を言い負かす「論破」という言葉が注目を集めました。スピード勝負で主張し、相手の意見や主観を否定する姿勢をとり、根拠を提示して追い込む。

そんな会話や議論は、メディアで取り上げられ、言葉を交わし合うことがすべて勝ち負けとつながっているように感じさせる様子が、小学生から大人にまで流行しました。

大学生になって議論する時には、「〇〇の観点によると…」、「〇〇氏によれば…」など根拠になるものを示した上で、自分の考えを言うようになりました。

そしてミスが攻められる議論の時こそ、「個人的な意見ですが…」は、間違いかもという心配な部分に保険がかけられるので使いやすいのです。

「間違い」を恐れると、「わからない」を共有することはできません。なぜなら、「わからない」は「負け」すなわち”弱さ”の印の1つだと思われているからです。

勝ち負けという優劣の関係ではなくて、対等な立場で感情や考え、想いを対話して共有する。それは、自分のことや弱さをさらけ出すことなので、すごく怖くて難しいことだと思います。

完全にオリジナルではなくても、言葉が見つからなくても、分かり合えなくても、誰かと対話することで”私の言葉”がつくられるかもしれない。

私の話をしても大丈夫だと思える安心できる場を築けるかもしれない。

周りの誰かが本当の想いを話そうとしてくれた時は、ただ真剣に、共感できても、できなくても最後まで聞いていきたいと思うのです。

そして、たまには「個人的な意見ですが…」ではなくて、「私の意見は…」と、受け取ってくれる誰かがいるかもしれないと思いながら、”私の言葉”をつくっていきたいと思うのです。

なぜなら、”私の言葉”を言える・聞ける居場所があること自体が、私にとって幸せだと感じるからです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

こんにちは、どさんこ大学生RUNAです!

もう今年が終わってしまいます…悲しいです。

今回は、私が今年感じていた不安や、ずっと心に留めていた言葉についてお話ししたいと思います。

2023年が終わってしまう前に、一緒に今年考えていたことを整理してみませんか?

不穏な空気が当たり前に存在する怖さ

私は、予測できなかったり、ありえないと思っていたりすることが次々と起こる状態にいつしか慣れている自分を怖く感じていました。

また地震、また災害、また異常な暑さ、また警報音、また事件、また異常な出来事…それらがテレビ、SNS、ネットから流れてくる。

何かが起きたと思うと、すぐにまた次の何かが起きる。

知らず知らずのうちに、衝撃を受けたことを忘れて、次の何かの情報を知る。

今年起きた国内・海外のニュースを調べると…つい半年前のことがだいぶ前のように思えてしまいます。

異常な出来事を、毎回直視して受け止めていくほど心は丈夫に作られていないので、いつも通りの出来事として消費できるようになってきているのかもしれません。

一方、テレビでは遠くの国で活躍している選手の情報が繰り返し流されたり、「昔はいい時代だった」など昔と今を比較したり、海外の人が褒める日本の良いところを特集したり…。

それらの番組は、一時的にみんながポジティブな気持ちになれるものとして作られているようにも思えてしまいます。

異常、怒り、楽しさ、悲しさ、羨ましさ…。ネット時代において、反応が伴うものは何もかもコンテンツとなって大量に消費されていっているように感じます。

消費されていった先に何か生まれるものがあるかもしれません。しかし、それ以上に消費されては忘れられ、また新たに関心が生まれては消費され、の繰り返しを私は不思議に思えてしまうのです。

自分ごととして捉えて向き合い、自分の考えを持っておきたい議論や問題があるのに…。

生産性や効率性、コスパやタイパが求められている今の社会において、1つ1つ立ち止まって問題や議論に向き合う時間はムダかのように、どんどん新しい事実、ニュースが登場します。

そして、それらを取り入れないと、周りの話題や社会の状況に追いつかないこともあるかと思います。

それほど、多くの関心が四方八方に生まれているのは、逆に無関心が中心にあるからのように思うのです。

自分のことで精一杯で余裕もできないからこそ、重大な出来事に当事者意識が持てず、逆に色んな情報をざっと目を通して終わらせることができるのかもしれません。

しかし、今世界では直視できないほど残虐な行為が行われている場所があります。

急に始まって、急に自分を取り巻く世界が一変する。

そんなことが起こってしまう。

明日私たちの世界も変わってしまうかもしれない。それはありえないことではない。

そんな世の中に誰もが生きているように感じています。

ありえないことが、ごく普通に存在しているかもしれない。

それがかえって怖いことだと感じるのです。

文化や芸術の中に“よりどころ”を探す

いきなりですが今年を思い返すと、いつもは出かけない元日に喫茶店に寄る機会がありました。

その時、「誰もが孤独の時代、人間性失わないで」という印象的な見出しが目に入ったのです。

それは、2015年にノーベル文学賞を受賞し、代表作の「戦争は女の顔をしていない」などで知られているベラルーシの作家、スベトラーナ・アレクシエービッチさんの言葉でした。

新聞を広げて読み進めると、今年ずっと頭の片隅に残って忘れられない2つの文章に出会えました。

「私たちが生きているのは孤独の時代と言えるでしょう。私たちの誰もが、とても孤独です。文化や芸術の中に、人間性を失わないための、よりどころを探さなくてはなりません。

「近しい人を亡くした人、絶望の淵に立っている人のよりどころとなるのは、まさに日常そのものだけなのです。例えば、孫の頭をなでること。朝のコーヒー一杯でもよいでしょう。そんな、何か人間らしいことによって、人は救われるのです。」

あってはならないことである戦争や、人権も尊厳も認められない環境では、“人間らしく”生きようとすればするほど厳しい状況に陥ってしまうのかもしれない。戦争を描いた映画や本で感じたことです。

アレクシエービッチさんは、「人間の文化的な部分が失われてしまう」ことを「獣に変貌する」と表現していました。

そして、作家とは何かに関して「人の中にできるだけ人の部分があるようにするため」に働いていると話していました。

文化や芸術の中に”よりどころ”を探すとは、どういうことなのでしょうか?

よりどころとは、頼みとするところ。支えてくれるもの。根拠。

ここでは、心のよりどころとして、心を支えてくれるものという意味で使われていると、私は捉えました。

今、人の“よりどころ”になっているのは目に見えるわかりやすいモノである気がします。

モノ、お金、承認欲求を満たすモノは、見えるわかりやすいモノだと思います。色んなモノが溢れているからこそ、孤独に陥っても楽しみ方を自分で探して選べる豊かな時代になっているのかもしれません。

モノ、お金、承認欲求を満たすモノも文化であり、芸術かもしれません。しかし私が思い描く芸術は、誰もが専門的に良い悪いと判断できるわかりやすいものではないと思うのです。

今年、初めて舞台を見ました。とても難解な作品で、最後にわかりやすい結末はなく、観客にストーリーを委ねる終わり方だったのです。

モノも人も命ある儚いものですが、それらは次々に新しくなって更新されていきます。

「劣化」という言葉が人にも使われ、推しが劣化したら新しい推しを見つける人がいます。携帯やパソコンも車もどんどん新しいバージョンにすぐ変えていく人がいます。

ですが、文化も芸術も、頭の中や心の中にあり続ける限りなくならないものだと思うのです。

映画『ラーゲリより愛を込めて』を見たときに、とても印象に残ったセリフがありました。

「書いたことは記憶に残っているだろう。記憶に残っていればそれで良いんだ。頭の中で考えたことは誰にも奪えないからね」

頭の中で考えていることは、誰にも奪えない。

私は、ドラマや映画が好きで、お気に入りの作品を何度も見て、セリフをメモしたりもします。そこで出会えた元気になる言葉、励ましてくれる言葉たちは、確かにずっと頭に残っています。

憎しみという狂気によって自分の中から獣が生まれないために、人の部分をなくさないために、文化や芸術の中に“よりどころ”を見つけることは、現代を生きる上で大切なことな気がします。

「人間らしさ」という想像力が”日常そのもの”の光となる

コロナ禍では非日常を経験し、それから日常が戻ってきたと思ったら、新しい日常と称される生活様式が生まれていました。

音楽やアートといった芸術は、日常が平和でなければ生まれず、触れられないものだと思います。

今、お気に入りの音楽を歌えるなら、思いもよらないことが起こったときにその歌が心のよりどころになるかもしれません。

今、好きな物語を覚えているなら、その物語がいつか心のよりどころになるかもしれません。

ネット社会になったことで、誰とでもどこにいても繋がれるようになった「ケイタイ」という世界が手の中にあります。それでも、この世界から孤独を消すことはできていません。

誰もが孤独を抱えているかもしれない。

Aさんにとって日常的なことでも、それはBさんにとっては一生忘れられない出来事かもしれない。

 Cさんから見るとボロボロで捨ててよいものだったとしても、Dさんにとっては思い出と記憶が詰まった宝物かもしれない。

Eさんはなんてことない言葉だと思って使ったとしても、受け取ったFさんにとっては心が傷だらけになる言葉かもしれない。

目の前にいる相手は、全く違うことを考え、違う価値観を持つ人だと知っているはずなのに、自分の価値観を当然のように振りかざしていないだろうか。少しでも間違っていると思うところを見つけたら、そこをめがけて攻撃していないだろうか。

そう自分に問いながらでも、対話を諦めず、1つではない色々な形のつながりを探したり、つくったりすることが大切なのかもしれません。

ただわかりあう。

それがどれほど難しく、わかり合ってくれた相手を大切に感じるか。

「違う」と拒絶されることに怯える人のそばで、ただ1人でも分かり合ってくれる、受け止めてくれる誰かがいる。その存在だけで人は救われるかもしれないと感じるのです。

ですが、それが人だけとは限りません。気持ちを代弁してくれたと感じる小説や映画、音楽、アートを“よりどころ”にすることができると思うのです。

また、文化や芸術から、誰かの“わかってほしいこと”を知ることもできます。

自分だけの考えや価値観でカチカチに固まって、他を感じれなくなったり、受け止められなくなったりしないためにも、日頃から文化や芸術に触れることは大切だと感じます。

私は、好きなアーティストさんのライブに行くと、自分を肯定してもらえる感覚になります。

その音楽に、「ここにいても大丈夫」「存在していい」と言われている気がするのです。あたたかいライブ空間に広がる音楽や言葉を浴びると、自分なりの希望を持つことができます。

好きな脚本家さんのドラマを見ていると、その人のメッセージや考えを知ることができます。自分にとって新しい価値観が加わることがあれば、わかるわかると大きく頷きながら見ることもあります。

なぜかずっと嫌な気持ちが抜けない時に、このままだと嫌いな自分に引きずりこまれそうだと思う時に、好きなドラマを見ます。

このドラマのここが好きだったんだ。このメッセージを大切に思っていたんだ。そう噛み締めると、もとの自分が戻ってきそうな気がするのです。

文化や芸術には、見えないメッセージで溢れているかもしれない。

そこには誰かの思い・感情・伝えたいことがあるかもしれない。

ただ通り過ぎようとしているけれど、少しでも立ち止まったら案外自分と共通した思いのこもった想いかもしれない。

見えるモノだけで決めつけてはいけない

誰もが孤独を抱えるこの時代に、その想像力があるだけで人と人が向き合って対話できる機会が生まれたり…誰かの伝えたいメッセージを受け取ることができたり…

その人なりのつながりをもてたり…救われる誰かがいるかもしれない。

文化や芸術が与えてくれる、人間らしさに含まれる想像力が、私たちの日常そのものを豊かにしてくれる光だと信じたいのです。

今の時代だからこそ、あなたにとっての”よりどころ”を考えてみませんか?

今年も、記事を読んでいただきありがとうございました。

来年も、みなさんに出会えるよう進んでいけたらと思います!

Text by どさんこ大学生RUNA

こんにちは、どさんこ大学生RUNAです!

すっかり秋めいた気候になってきましたね。

突然ですが、結婚式の多い時期はいつだと思いますか?

なんと1位が11月、2位が10月、3位が5月なのだそう。ジューンブライドという言葉があるので、6月だと思っていましたが、意外に秋なんですね。

結婚や結婚式をする・しない・できる・できないこと、それぞれに対しての意見があるように、結婚や結婚式には正しいあり方はないのかもしれません。

ですが、結婚式に参加すると、ルールやマナー、構成など、「”ふつう”はこういうもの」という概念が存在している気がするのです。

結婚式を開催する側・参加する側にしか見えないものがあるように、参加した1人として、結婚式がどうみえるのか?

今回は、「結婚式」に注目して考えてみました。

ふたりが大切にしているものとは?

結婚披露宴、通称「結婚式」は、ふたりが結婚を誓う儀式である”挙式”と、結婚したことをお披露目するためのパーティーである”披露宴”に分かれています。

みなさんは、披露宴に参加した時になにを感じましたか?

私は小さい頃、それは特別で幸せなキラキラしたものだと感じていました。

しかし、全体の流れがわかってから参加すると、見え方が少し変わっていたのです。

なぜなら、「なにを大切にしているか」が披露宴に表れているのかもしれないと感じたからです。

どんなテーマの披露宴なのか。祝辞を誰に頼むのか。

生い立ちの動画では、家族、性格、学生時代のエピソード、趣味など、どんな部分を映し出すのか。

ふたりの出会いの動画は、ストーリー風なのか、思い出写真のスライドショーなのか。

どんな人を呼び、どんなテーブルの配置になっているのか。

お色直しの退場は誰とするのか。飲み物のほとんどがアルコールで悲しんでいる子供を見たことがあるので、食べ物や飲み物の充実度も見てしまいます。

大変な準備を経て開催されたステキな祝いの場であると同時に、ふたりの大切な”なに”かがそこに表れているように思っていました。

しかし、結局その人どころか大切な”なに”かは、表面的にしか分からないのではないかと思うようになりました。

なぜなら、多くの疑問が自分の中から浮かび上がったからです。

披露宴への疑問

どうして、披露宴には決まった構成があるんだろう?

なぜ祝辞を頼む相手は、だいたい新郎が会社の上司で、新婦が何年ぶりかの恩師や学生時代の先輩なんだろう?

「主賓だから」という理由は分かりますが、なぜ上司や同僚が真ん中の席というマナーがあって、身近で支えてくれた人たちは端っこなんだろう?

披露宴で盛り上がっているのは分かりますが、なぜ友人たち・同僚たちの内輪ノリで楽しむのがメインのように見えてしまうんだろう?

これから始まるふたりの結婚生活が、結婚式ではなぜ想像できないんだろう?

生い立ちとふたりの出会いを動画にして見ていると、どうして結婚が幸せのゴールのように見えてくるんだろう?

いつの間にか、「どうして」「なぜ」「なんで」がたくさん自分の中に沸き上がっていました。

目の前で結婚するふたりは世界でたった1組しかいません。しかし、そこには一般的で世間的に幸せなふたりの模範が、マナーとルールで決められた構成によって映し出されているように見えたのです。

何度か披露宴(結婚式)に参加したことがあります。誰1人として同じ人間ではないので、ぜんぶ違う披露宴になっていました。

しかし、祝辞を頼む相手、一緒にお色直しをする人、手紙の内容が、なんだか同じように感じてしまったのです。

しかも、今はYouTubeや各SNSで結婚式の全体の動画や感動的な名場面などが投稿されているので、なおさらどこかで見たものという既視感がありました。

今の結婚式は、規模も方法も大きく変化しています。しかし、枠組みが同じなので、ふたりの大切な”なに”かよりも、世間一般の枠に当てはめられたものとして機能しているように、私には思えてしまったのでした。

参加側にとっての結婚式とは?

結婚式に参加した時、どんな場だと感じたのか気になって友人や親戚に聞いたことがあります。

・自分のことのように喜び、幸せになり、感動もできる場

・両親や祖父母にとっては、一生の思い出の場

・久しぶりに親戚に会って近況報告できる場

・普段できないような服装や髪型、メイクなどができる場

・スピーチや余興をしたり、お祝い動画を作ったりする側にとっては発表会のような場

・何年も会っていない友人と再会できる同窓会みたいな場

・初めて会う人と交流できるかもしれない場

・豪華な食事が食べられる場

一人ひとりが違うように捉えながらも、幸せを感じられる場という共通の感想もありました。この質問の答えには、なんだかその人の価値観や人生観が表れているのかもしれないと思いました。

一方、ステキな場として結婚式を捉える人だけではなく、不満を抱える人もいます。

去年、「お世話になった方々から3万円とって貴重な休日の大半を潰させて…」という結婚式が理解できない理由が書かれたツイートが8.3万のいいねと多くの共感が得られ、話題になりました。

今や、「ご祝儀が高すぎる」とか「結婚式の意味が分からない」がSNSの鉄板ネタになりつつあるそうです。結婚式には時間もお金もかけたくない、それが現代の常識なのかもしれません。

効率的でないお祝い事には、繋がりがある

昔は、芸能人の豪華な結婚式がテレビで中継されていたと聞いたことがあります。今は、テレビではなくYouTubeで結婚式がネタとなって動画がつくられています。なので、結婚式に注目している人が多いことは変わっていないようにみえます。

テレビの場面や文章が切り取られて拡散され、映画が倍速で視聴される。

結婚式に、お金も時間もかけたくない。

それは見たいところだけ切り取り、時間を使わないために早送りするというムダを省いた効率性や利便性が重視されていることを表しているようです。

そして、その価値観に拍車をかけているのが、人と人とのつながりが希薄化していることだと思うのです。

今の家族のあり方、親戚同士の付き合い、友人たちとの関係、仕事上の人間関係…。全てネット上でつなごうと思えばできてしまいます。

結婚式にも令和の新様式として、バーチャル結婚式が登場しています。

これからさらに便利さや機能性を求めれば、結婚式を対面で行うこと自体に批判が生まれてくるかもしれません。

でもそれは結婚式だけでなく、全てのお祝い事に同じことがいえると思うのです。

人生の節目を祝うイベントを、どのくらい知っていますか?

妊娠5ヶ月目の戌の日に子宝を授かったことに感謝し、無事生まれてくることを祈る「帯祝い」があります。人の一生のお祝いは、なんと生まれる前から始まっているのです。

日本には、帯祝いから百寿までお祝い事が盛りだくさんで、その行事は歴史・文化・地域・食事とつながっています。

そう思うと、お祝いごとを煩わしく思うことは、人のつながりだけではなく歴史や文化などとのつながりもどんどん薄れさせるのではないかと、結婚式を通して考えさせられたのです。

結婚式から発見できた自分の考え

結婚式に行ったから、疑問が生まれました。

見たいもの、聞きたいことだけに集中できるバーチャル結婚式では、気づかなかったことかもと思うのです。

ネットの中では、検索・閲覧履歴などを基にして、自分の関心に合わせた情報や商品、ニュース、コミュニティが紹介され続けています。

自分が選んで、判断していると思っていても、いつの間にか各個人に特化したものしか表示されていない自分だけの世界になっています。

その世界には、自分が好きで肯定できる情報がほとんどです。違う意見は、すぐスクロールして見えなくできるし、攻撃もすることもできてしまいます。

ですが、実際に会ったり、話したりすると、スクロールしていたはずの意見を自分の中に落とし込むことができます。新しくて、自分とは違う発想や考えを知ることができるんです。

そして、自分の中にある考えによって、共感や違和感などさまざまな感情が生まれます。

結婚式で、ふたりの大切な”なに”かが見えるのかもしれない。そう思いましたが、逆に結婚式に参加して、さまざまな人を見て、話をして、聞いて、自分の考えを知ることができました。

意外にも、結婚式というのは他者を通じて自分を知る場なのかもしれませんね。

最後まで、読んでいただきありがとうございました。

Text by どさんこ大学生RUNA

こんにちは!いけかよです。

10月になりました。いけかよの住む関西でも、やっと少しだけ秋めいてきたような…?

とはいえ、秋は行楽の季節。食べ物もおいしいし過ごしやすいし、秋こそ旅に出たいな〜と思う方もたくさんおられるはず。

ではぜひ、その旅先候補のひとつに岐阜県の飛騨高山を加えてみてはいかがでしょうか?

ということで、本記事ではわれらがエラマプロジェクトの日本のホームとも言える飛騨高山の魅力を全力で推したいと思いますっ!!

蕎麦好きにはたまらん季節 byいけかよ

飛騨高山にはいろんな美味しいものがありまして、有名な飛騨牛や日本酒をはじめ、朴葉味噌や漬物ステーキなどなど、地元グルメもおいしい!

そんななかでも、秋に開催される新蕎麦まつりが、いけかよは最高だと思うのです…!

新蕎麦まつりは10月下旬から11月にかけて、飛騨の各地で行われているようで、たまたま飛騨高山に行った時に遭遇したのがきっかけ。

蕎麦は最後の晩餐にしてもいいと思うくらいいけかよは好きなのですが、それこそ飲むようにいろんな蕎麦を食べられるこの新蕎麦まつりはいけかよにとってはたまらんイベント!

まさに、この秋のタイミングで訪れるべき催し。ぜひ、開催場所と日時をチェックして行ってみてください!

飛騨市のHPからチェックできそうです。

山の上でおいしいひとときを cafe 櫟-Ichii- by momo

こんにちは、momoです。

わたしがこのお店を知ったのはエラマプロジェクト代表ゆみさんへのインタビューがきっかけでした。

普段はカフェ巡りなどしない、コーヒーはめったに飲まなくなった、そんなわたしですが、過去にものすごくおいしいコーヒーに出会って感動したことがあるので、ゆみさんのお話をうかがい、高山を訪れたときにはこちらのお店にもぜひ足を運びたいと気になって仕方がなかった場所です。

いざそのチャンスがやってきてアクセスを調べると、JR高山駅から徒歩25分などの情報が。徒歩40分までなら許容範囲なので全然いけるなと高山の探検も兼ねて歩いて向かうことにしました。

お店のロケーションは時間や物事に追われる感覚から離れたいという人にはぴったりだと思います。

いただいたのはこちら。

コーヒーは期待を超えるくらいおいしくて、人生2度目のおいしいコーヒーとの出会いに、来れてよかった〜と静かにうれしさを味わっていました。

ケーキは、飛騨高山のフルーツも体験したいと思い、いつもなら食べないタイプの商品を注文。

スポンジが今まで食べたものの中で1番、最高においしかったです。

ここのなら、普段は選ばないショートケーキも食べてみたいと思ってしまうくらいに。

丁寧さが感じられるもので体を満たす幸せをかみしめる時間になりました。
cafe 櫟-Ichii-があるから高山に行きたくなると言っても過言ではないお店です。

ぜひ、高山でおいしいものを味わう幸せと自分の時間を大切にする幸せにひたってみてください!

思いっきり呼吸したくなる景色 by RUNA

こんにちは、どさんこ大学生RUNAです。

去年、開催された「エラマ文化祭」で初めて飛騨高山に行きました。

まだ一度しか訪れたことがないそんな私の飛騨推しポイントは、森林の景色です。

滞在した場所が山間部だったので、周りは豊かな秋の色に染まっている木々でした。

周りの全ての景色が自然だと、身体を伸ばしたくなったり、寝転がりたくなったり、思いっきり呼吸したくなったり…私は、無意識に身体が動いていました。

朝、6時前に目が覚め、気づくと約2時間、外で景色を眺めていました。

その景色がこちらです。

人が多くて、高層ビルばかりの所に行くと、空気のにおいに少し違和感を感じます。

それは私が北海道出身だからかもしれません。地元では、いつものように、もうすぐ冬だななど季節のにおいを感じていました。

飛騨高山でも季節の変わり目を感じました。なぜなら、そこに自然の景色が当たり前に広がっていたからだと思います。

自然豊かな飛騨高山には、紅葉の名所が沢山あるそうです。

思いっきり伸びをしながら、呼吸したくなる飛騨高山で、自然の景色を堪能してみませんか?

グルメと人に会える優しい場所 by ひらふく

こんにちは!ひらふくです。

飛騨高山には5~6回ほど訪れています。毎回私が楽しみにしているのは、おいしいグルメと飛騨の方とお話しすること。今回はエラマ図書館のまわりにある飛騨のお店を2件ご紹介します。

エラマ図書館があるウッドフォーラム飛騨は敷地内にいろいろなお店があります。高山ラーメン、みだらしだんごのお店、そして地元の人が早朝からやってくる産直市場とCafé &Rest Room335という喫茶店など。

産直市場の野菜ははじめて見るものもあってワクワク。作った方の名前が書いてあり丁寧に作られたことを感じます。飛騨の牛乳を使った無添加パンも販売されています。それも全部手作りで、ウッドフォーラムの芝生に座って食べると最高でした。

Café &Rest Room335さんのご飯はとてもおいしい!そして店内がとてもロックなんです。店内にはジュークボックスがあって音楽が流れつづけています。

私がはじめて訪れたのがちょうどジュークボックスが導入された日。男性客のグループが音に合わせて歌いながら会話を楽しんでいました。

食後のお茶にはそっと金平糖が添えられていました。飛騨の方からは、こうした言葉にしないけれど気にかけてくれる優しい気遣いを感じます。

お店の方に「これはなんですか?」と話しかけると「これはこうやって作ってるんだけどおいしくてね…」とこだわりを伝えてくださいます。

おいしいグルメとそれを作る優しい人達に会いに、さあ飛騨高山へ。

きっともっと秋を感じられる高山へ

いかがでしたか?「観光」とは違う高山のディープスポット、エラマライターズだからこそのチョイスです。

喧騒から離れてほっとしたいときに。

ふだんとは違う感覚を味わいたいときに。

「陽」が過多な日々に「陰」をプラスしてバランスをとりたいときに。

ぜひ、飛騨高山へおこしください。

Edit by いけかよ