Elämäプロジェクト

【フィンランド×和文化】沈黙は気まずくない ─ 静けさを愛するふたつの国

フィンランドと和文化、ふたつの視点から生き方を学ぶ「エラマの学校」の連載【和フィン折衷】。案内人は、フィンランド生涯教育研究家・石原侑美と、和文化エヴァンジェリスト・橘茉里。第4回のテーマは「沈黙」です。

1時間、誰も話さないビールフェス

夏のフィンランドで、ヘルシンキ近郊のビールフェスティバルに行ったときのことです。

野外の気持ちのいい会場に、国内各地の醸造所がブースを並べ、奥にはライブステージもある。半袖でちょうどいい気温に、よく晴れた空。人は多くて、隣の人とは肌が触れそうなほどの距離でした。

日本には「袖振り合うも多生の縁」という言葉があります。こういう場所で隣になったら、少し雑談をして、盛り上がれば一緒に乾杯する。日本のビアガーデンでも、ドイツのオクトーバーフェストでも、イメージしやすい風景だと思います。

ところが、30分が過ぎ、1時間が過ぎても、誰も話さないのです。

隣の人との隙間は、わずか数センチ。それでも、誰も話さない。興奮するわけでも、嫌な顔をするわけでもなく、ただ穏やかな表情で、ビールを飲み、音楽を聴き、淡々と時間が流れていく。会場でいちばんうるさかったのは、間違いなく私と夫でした。

これはビールフェスに限った話ではありません。フィンランドではレストランでも、電車でも、とにかく静か。それは不気味さを伴う静けさではなく、本当に穏やかな静けさでした。

今日は、この「穏やかな静けさ」の正体を掘り下げます。

フィンランドは「沈黙は金」、日本は「言わぬが花」

フィンランド生涯教育研究家の石原侑美です。和文化エヴァンジェリストの橘茉里さんと続けている講座「和フィン折衷(和文化とフィンランドの文化の折衷)」を、エラマの学校の記事にしてお届けしています。

フィンランドには「話すことは銀、黙ることは金(Puhuminen on hopeaa, vaikeneminen kultaa.)」ということわざがあります。ヨーロッパの各地に似た言い回しはあるのですが、フィンランドでは暮らしの実感としてこのことわざが生きています。あのビールフェスの静けさは、まさにそういうことなのだと思います。

講座でこの話をしたとき、茉里さんはすぐに日本のことわざを並べました。

「日本なら『言わぬが花』ですね。言葉で全部説明してしまうのは野暮、という感覚が、日本にはあります」

実は、ふたつの国には、コミュニケーションの面でも興味深い共通点があります。どちらも「ハイコンテクスト文化」だということです。

「ハイコンテクスト文化」とは、簡単に言えば、「言わなくても察してもらえる」ことを前提とした文化のことです。言葉そのものだけでなく、その場の空気や状況、相手との関係、共通の経験から、相手の意図や気持ちを読み取ります。日本はその代表例としてよく挙げられ、フィンランドにもハイコンテクスト的な特徴が見られます。

日本には「察する」「空気を読む」など、ハイコンテクストなコミュニケーションを表す言葉がいくつもあります。相手への気遣いや細やかな配慮、共感を生み、人間関係の調和を保つはたらきをしてきました。

一方フィンランドでは、言葉を交わさない時間そのものが自然に受け入れられています。そして、言葉だけでなく、行動や信頼を通して相手に意図を伝えることも大切にされています。

言葉にされていないものにも意味を見出し、沈黙そのものに価値を置く。そんなところにも、ふたつの国の共通点が見えてきます。

沈黙は「思考の時間」であり「尊重の表れ」

ではフィンランドの人たちにとって、沈黙とは何なのでしょう。

フィンランドの沈黙は、長く研究者の関心を集めてきました。会話の中で生まれる「間」を、フィンランドの人たちは他のヨーロッパの国の人より長く許容する。そして、相手が話し終えたあとすぐに言葉を返さないのは、「ちゃんと考えている」証拠だと受け取られる。沈黙は否定でも無関心でもなく、肯定や思考の時間なのです。

もうひとつ大きいのが、体験の共有です。サウナで、森で、湖のほとりで。多くを語らなくても、同じ空間と同じ体験を分かち合うことで、心は通じ合う。前回まで書いてきた森やサウナの文化は、そのまま「黙っていても一緒にいられる場」の文化でもありました。

では、日本はどうでしょうか。

もちろん、日本とフィンランドの会話のあり方が、すべて似ているわけではありません。日本では、会話の沈黙を避けて、相手の話に頻繁にあいづちを打つことがよくあります。その点は、フィンランドの会話とは少し違います。

その一方で、日本では会話の中の「間」も大切にされてきました。言葉が途切れた時間を、ただ気まずいものとして捉えるのではなく、そこに意味や余韻を感じる。日本にも、沈黙を豊かなものとして受け止める土壌があるのです。

こうした感覚は、日本文化のさまざまなところに見られる「余白」の美意識にも通じています。短歌や俳句は、すべてを言葉で説明せず、語られていない部分を読み手の想像に委ねます。日本画では、あえて何も描かない余白が、作品に広がりや奥行きを生み出します。

何もないように見えるところにも、意味や豊かさがある。会話の中の沈黙も、そんな「余白」のひとつなのだと、私は思うのです。

愛想笑いをしない国、本音と建前の国

静けさは、声だけの話ではありません。表情も静かです。

フィンランドの人たちは、愛想笑いをしません。初対面で、こちらがにこにこしても、向こうは真顔のまま。慣れないうちは「嫌われているのかな」と思ってしまいますが、違います。感じていないことを顔に出すのは不誠実だ、という感覚なのです。表情が乏しく見えるのは、正直で誠実であろうとする姿勢の裏返しでした。

公の場で感情を大きく表に出すことも、成熟していないと見なされる傾向があります。困難に直面しても感情的にならず、静かに耐え抜く強さを「シス(sisu)」と呼んで美徳にしてきた国です。

講座で茉里さんは、日本についてこう整理してくれました。

「日本でも『内と外』や『本音と建前』というように、公の場では感情の出し方を調整することがありますよね」

たとえば、相撲や武道では、勝っても大げさに喜びを表現するのではなく、節度ある振る舞いが重んじられてきました。そこには、礼節を守り、相手への敬意を示すという考え方があります。

感情をコントロールし、その場にふさわしい礼儀や振る舞いを大切にする。フィンランドも日本も、感情をすべて表に出すわけではありません。だからこそ、相手の感情の機微や、言葉の裏にある真意を、大切に読み取るのだと思います。

大阪出身の私は、沈黙を埋めてしまう

ここまで読むと、「石原さんは沈黙を肯定しているんですね」と思われるかもしれません。

決してそうではありません。

私は大阪出身です。会話に静けさができた瞬間、咄嗟に間を埋めてしまう癖が、今でもあります。相手が黙ると、何か気に障ったのかなと不安になる。だから話す。あのビールフェスで私たち夫婦がいちばんうるさかったのは、そういうことです。

そして、沈黙が心地よいかどうかは、沈黙そのものでは決まりません。

同じ沈黙でも、初対面の面談で流れる沈黙は気まずく、長年の友人と並んで海を見ているときの沈黙は心地いい。違いは、沈黙の長さではなく、そこに信頼関係の空気があるかどうかです。

フィンランドの人たちが沈黙を気まずく感じないのは、沈黙に強いからではありません。「あなたを信頼しているよ」という空気が、場に先に醸成されているからです。ビールフェスの隣の人も、レストランの隣の席も、「ここにいる人は危険ではない」という前提を、言葉を交わさずに共有していた。だから黙っていられたのです。

心地よい沈黙を作るには、信頼関係の空気感を先に醸成する必要がある。これが、私の結論です。

信頼の空気は、言葉以外でつくれる

「信頼しているよという空気を出すなんて、めちゃくちゃ難しい」と思うかもしれません。

私は、意外と簡単だと思っています。

それは、言葉や声や表情以外のもので、相手と対話してみることです。

「今日の太陽、気持ちいいね」「このビール、おいしいね」。これを言葉にするのでもなく、顔で表現するのでもなく、黙ったまま、あたたかい空気の中で、その場にいる人と静かに分かち合う。隣の人が同じ陽を浴びていて、同じビールを飲んでいる。それだけで、対話は始まっています。

「対話」という言葉を聞くと、私たちはどうしても、会話の内容や、場をどう作るかに頭が向きがちです。けれど、フィンランドの教育現場の研究、フィンランドの人そのものの研究、そして日本国内での研究を重ねてきて思うのは、対話はもっと大きなものだということです。

対話は、言葉、態度、気持ち、場、そしてそれらを包む全体の空気のようなものが、複合的に作用しあって成り立っています。その場に漂っている話題や気持ち、その日の気候までを、キャッチしたり、拒んだり、流れに乗ってみたりする。対話を「会話の内容」「環境」「人」といった局所だけで見ていると、その全体像やメカニズムの一部さえ掴めないことが多いのです。

私はこれを「宇宙空間全体で捉える」と呼んでいます。ずいぶん大げさな言い方ですが、それくらい俯瞰した視点で見ないと、対話というものは見えてきません。

フィンランドの沈黙もそうです。「声を出さない」「黙る」という局所だけに着目すると、訳がわからなくなります。けれど、空気や、天気や、場や、人や、そのすべてが重なった全体として俯瞰すると、見え方が変わります。

あの静けさは、たとえ言葉というツールを使っていなくても、人や天気や地球に、そして自分自身にも、身も心も委ねている行為だったのだと思います。

沈黙を「埋める」より、沈黙を「分かち合う」

フィンランドの静けさがうらやましくなったとき、私はいつも思い出します。余白も、「言わぬが花」も、もともと私たちの文化の中にあったものです。日本で暮らす私たちには、沈黙を受け入れる土壌がすでにある。足りないのは、沈黙を分かち合う相手への信頼を、言葉以外で先に手渡す練習だけなのかもしれません。

たとえば、こんなことから。

家族と同じ部屋にいるとき、5分だけ何も話さずにいてみる。 テレビもスマホもつけず、お茶を飲むだけでいい。「同じ空間にいる」という体験そのものを、言葉なしで分かち合う時間です。

誰かと並んで、同じものを見る。 向かい合うのではなく、横に並ぶ。空でも、川でも、お風呂の湯気でも。並んで同じものを見ているとき、沈黙は気まずさではなく、共有になります。

沈黙が訪れたとき、埋める前に一呼吸おく。 相手は考えているのかもしれない。味わっているのかもしれない。その一呼吸の間に、「言葉を使わない対話」が始まっているかどうかを感じてみる。

ひとりでいるときの静けさも、同じです。何も話さず、何も聴かず、「ただのわたし」で座っている時間。それは、自分自身に身を委ねる対話の時間です。

あなたが最近、心地よく黙っていられたのは、誰と、どんな場所でしたか。

ひとりで思い返してみるもよし。誰かとこんな話をしてみたくなったら、対話の場「エラマの森」(https://elama.be/elamamori/)でお待ちしています。

次回は、一服とコーヒー休憩の話。休むことを大切にする文化を、ふたつの国はどう育ててきたのか。どうぞお楽しみに。

「エラマの学校」の連載【和フィン折衷】は、石原侑美(フィンランド生涯教育研究家)と橘茉里(和文化エヴァンジェリスト)による講座をもとに記事化してお届けしています。二人のかけ合いを生で聴きたい方は、YouTubeで毎月配信中の「和フィン折衷生ラジオ」(https://www.youtube.com/@elama_6750/streams)をぜひご覧ください。講座本編は、会員制コミュニティ「エラマの森」(https://elama.be/elamamori/)の住民限定でお届けしています。