こんにちは。エラマプロジェクトの和文化担当、橘茉里です。
あなたはこんな感覚に、身に覚えはありませんか?
つい何度もSNSを開いてしまう。
そして、SNSを見ないでいると、何か大事な情報を見逃しているような気がしてしまう。
または、誰かの楽しそうな投稿を見て、「自分は取り残されているのではないか」と感じてしまう。
そんな風に、「つながっていないと不安になる感覚」や「何かを見逃してしまうことへの不安」のことを「FOMO(フォーモ)」(Fear of Missing Out)と言います。
それに対して生まれたのが、「JOMO(ジョーモ)」(Joy of Missing Out )という考え方です。
2012年頃にアメリカの起業家アニル・ダッシュ氏が提唱したJOMOは、「取り残される喜び」という意味で、あえて全部を追わないことを楽しむ感覚のことです。
例えば、
気づけば手に取ってしまうスマホを、そのまま閉じてみる。
SNSで情報を追いかける代わりに、あえてそれらを見ない時間をつくる。
誰かの時間ではなく、自分の時間に戻る。
そうやって、あえて選ばないことで、自分の時間や心の静けさを大切にする。
そんな在り方を言葉にしたものとして、JOMOという考えが少しずつ広がってきているようです。
私がJOMOという言葉に出会ったのは最近のこと。
私自身は、JOMOの感覚にとても居心地の良さを感じていますが、ただその一方で、こんな風にも思いました。
JOMOは本当に新しい考え方なのだろうか。
私たちはもともとこうした感覚をよく知っていたのではないか、と。
そこで今回は、日本文化とともにJOMOを考えてみたいと思います。
手放したことで、豊かに整っていったものたち

私はここ数年で、様々なものを手放してきました。
それは私なりのJOMOだったように思うので、まずはちょっとご紹介させてください。
時計を使わなくなったこと。
家からテレビを無くしたこと。
そして、人間関係を見直したこと。
家の時計や腕時計は、修理に出すのを億劫がっているうちに、生活の中から無くなっていきました。テレビは、コロナ禍の最中に流れてくるニュースに疲れてしまい、押し入れにしまったのがきっかけです。
それらを手放したあと、私は「不便になった」とは感じませんでした。
むしろ、驚くほど心が穏やかで豊かになったんです。
目に見えるところに時計がなくなると、時間にコントロールされているような感覚は薄れていきました。テレビを手放すと、知らず知らずに取り込んでいた雑多な情報が減ったことで心に余裕が生まれました。
今思うと私は、「時間を知りたい」「情報を得たい」というよりも、「腕時計をするのは当たり前」「家にテレビがあるのは当たり前」という現代人の生活環境を、ただ受け入れていただけだった気がします。
(過去記事はこちら)
https://note.com/elamajp/n/n338560e48486?magazine_key=mb35001ebae34
そして、私にとって時計やテレビよりも大きな手放しだったのは、人間関係です。
私はもともと断ることがとても苦手で、「誘われたら行かなきゃ」「相手に合わせなきゃ」と無理をしていました。そして、価値観が合わなくなった友人との関係を続けることに、かなりのストレスを感じていました。
そこで思い切って、
気が乗らなければ、無理に返事をしなくていい。
誘われても断っていい。
友人関係を続けなくてもいい。
と決めて、それを実行していったら、ストレスだった人間関係は自然とフェードアウトしていきました。そうやって、昔の友人たちとのグループや、関わっていたいくつかのコミュニティから抜けられた時、心底楽になったと感じました。
このような、窮屈な状態から解放されて楽になる感覚が、私にとってのJOMOの感覚かなと思います。
(過去記事はこちら)
https://note.com/elamajp/n/n58f226efaabc?magazine_key=mb35001ebae34
今、改めて振り返ってみると、私は手放したことによって、何かを失ったのではなく、むしろ真に大切なものを得ることができたように思います。
不要なものがそぎ落とされて、本当に大切なものが残っていく感じでしょうか。
その結果、私自身の軸も、より太く安定したように感じます。世間や他人の価値観を気にすることなく、「私にとっての豊かさを選ぶ」ことが私の行動基準になりました。
他人を気にせずに自分の自由な意思で行動し、情報に振り回されることなく静かで穏やかな時間を持つ。そんな暮らしをしていると、手放して空いた空間に、もっと大切なものが自然と入ってきました。
私にとってそれは、愛猫との生活。
居心地の良い住まいで、猫たちと過ごす穏やかな時間は、今の私にとって何よりの幸せです。この幸福は、様々なものを手放さなければ手に入らなかっただろうなと思います。
手放しには覚悟が必要?
ただし、手放すことは、良い面だけではないとも思っています。
人間関係を手放すことで、交友関係は自然と狭くなります。
それは、いざとなった時に頼れる人が少ないということでもあります。
今は友人の少なさが全く気になりませんが、将来的に年を重ねたときには、友人が少ないことで孤独を感じる場面が訪れるかもしれません。誰かを頼りたいと思っても、気軽にお願いできる友がいなくて困ることがあるかもしれません。
でも私は、将来もしそういったことが起こったとしても後悔しないと決めて、今の環境を選んでいます。そうした未来も含めて、自己責任として受け止めるつもりでいます。
これはあくまで私のやり方・考え方であって、これが正しいというわけではありません。
それに私のこういう覚悟の持ち方は、ちょっと極端かなという自覚もあります(笑)
しかし、あなたが目先の解放感だけを求めて、先のことを考えずに手放しを行っていくと、いつか「こんなはずじゃなかった」と後悔する日が訪れるかもしれません。
ですので私は、基本的には手放し推進派であり、JOMO賛成派ではありますが、他人に対しては、盲目的に「手放すといいよ!」とは言わないでおこうと思っています。
こういった手放しやJOMOの実践は、ご自身がきちんと納得したうえで実行するのが大切だと感じます。
鴨長明が選んだ「隠遁」という生き方

JOMOについて考えていたとき、ふと思い出した人物がいます。
それは鎌倉時代の歌人・随筆家である鴨長明です。『方丈記』の作者として有名ですね。
長明は、京都の下鴨神社と縁の深い家に生まれました。父も神職であり、彼自身もその流れの中で生きていくはずでした。
しかし、神職をめぐる人事や一族内の事情の中で、望んだ立場を得ることができませんでした。社会の中で自分の居場所をうまく持てなかった経験が、彼の人生にはありました。
さらに当時の都では、大火や地震、飢饉などの災害が相次ぎます。『方丈記』には、それらの出来事が次々と描かれ、作中には「この世のものは栄えては滅んでいく」という「無常観」の感覚が表現されています。
都にいれば安心だし、満たされる。
そうした価値観が揺らいでいた時代でした。
のちに長明は、都を離れ、山奥の小さな庵で簡素な隠遁生活を始めます。そこでは持ち物も最小限で、人との関わりも限られた生活が営まれていました。
長明はそのような暮らしに、自分なりの豊かさを見出していました。
都での生活や人間関係からあえて離れること。
自分にとって心穏やかな暮らしを選ぶこと。
その姿は、現代の言葉で言えば、JOMOとどこか重なるように思えます。
実は長明だけではなく、特に中世の日本には、都の喧騒や人間関係から距離を取り、あえて隠遁という生き方を選ぶ人たちがいました。
たとえば、吉田兼好は『徒然草』の中で、不完全なものや満たしきらない状態の中にこそ趣があると語っています。すべてを整えきらないことが、かえって心の余白を生むという感覚です。
また、西行法師のように、俗世を離れ、自然の中で生きることを選んだ人もいました。西行は武士としての道を捨て、各地を旅しながら歌を詠む生活を送りました。その姿にもまた、「多くを持たないことで見えてくる豊かさ」が表れているように思えます。
こうした生き方は当時の日本人すべてに当てはまるわけではありませんが、「多くを持つこと」や「中心にいること」だけが価値ではないという感覚は、昔の日本にも連綿と存在していたのです。
大切な感覚は時代を越えて繰り返す
こうして見ていくと、JOMOという言葉で語られている感覚は、まったく新しいものというよりも、我々日本人にとってはどこか懐かしさを感じるものでもあります。
日本には「足るを知る」という言葉があります。
今、すでに十分に満たされていることに気づき、それ以上を求めずに現状に満足する心を持つことを意味します。
実は「足るを知る」という表現には続きがあり、「足るを知る者は富む」と言います。
つまり、満足することを知っている人は、たとえ物質的に貧しくても、精神的な豊かさを得られるということです。
私自身の経験でも、「足りている」と感じるのは、何かをたくさん手に入れたときよりも
・無理をしていないとき
・誰かと比べていないとき
・「私は私で大丈夫」と思えているとき
こういった場面でした。
そして、これはJOMOととても近い感覚だと思うのです。
「足るを知る者は富む」は、古代中国の思想家、老子の教えとされます。老子は紀元前5~6世紀くらいの伝説的な人物ですので、2000年以上前からJOMO的な発想はすでに教えとして確立していたわけです。
今回ご紹介した私自身の手放し、そして鴨長明をはじめとした中世の隠遁者の暮らし、そして「足るを知る」という考え。
これらはどれもJOMOと密接に関わっていたり、JOMOを言い換えているものだったりするように思います。
私たちにとって必要な学びや真に大切な感覚って、時代や言葉を変えて、何度も何度もやってきてくれるのかな、なんて感じます。
あなたはJOMOを、どんな風に取り入れてみたいですか?
Text by 橘茉里(和えらま共同代表/和の文化を五感で楽しむ講座主宰/国語教師/香司)


