Elämäプロジェクト

【よむエラマ】「無い」を愛おしむ。「枯野見」に学ぶ贅沢な冬の味わい方

こんにちは。エラマプロジェクトの和文化担当、橘茉里です。

夏の暑さもようやく静まり、ここからは秋を経て冬へと向かっていきますね。

秋は山々の紅葉が美しい季節ですが、冬の自然といったら、どんな風景があるでしょう?

雪景色?

でも、日本人みんなが、雪景色を身近に感じているわけではないですよね。

エラマプロジェクトの代表、石原侑美さんが暮らす飛騨高山は降雪地帯のため、春先までは雪景色が続くそうです。

一方、私が住んでいる埼玉の西部は、年に数回、雪が降るかどうかといったところで、雪が積もることは滅多にありませんし、積もったとしても数日中には溶けてしまいます。

私のように、雪のない冬を過ごす人も結構多いと思います。

そして、そんな人たちにとっての冬の景色は、枯草や葉の落ちた木の幹などから成る、茶色の風景なのではないでしょうか。

枯草の風景なんてつまらない?

いえいえ!

実は冬の枯れた野原の風景には、日本らしい魅力が詰まっているんですよ。

今日は、枯野の魅力とともに、日本人の感性に迫っていきますね。

日本には「枯野」を楽しむ文化があった

日本には、春になったら「花見」をし、秋になったら「月見」をし、といった具合に、季節の風物を愛でる「〇〇見」という文化があります。

そして、冬には「雪見」がありますが、それ以外に「枯野見」があることをご存じですか?

「枯野見」とは、冬の暖かい日に、郊外の枯れた野原を見にいく行楽のことです。今では枯野見を好んで行う人はあまり見かけませんが、昔の人は枯野見を楽しんだようです。

冬枯れの野原には、鮮やかな彩りや華やかさはありません。

それなのに、そんな枯れた景色をわざわざ見に出かけるのは何故なのでしょう。

枯野には華美なものはないけれど、その「ない」景色の中に、静かな美しさや豊かさを見出そうとする、繊細な感性の働きを感じます。

枯野見については、例えば鎌倉時代初期の『松浦宮物語』には、

宮も御前の枯野ご覧ずとて、端近うおはしますほどなりけり。
(訳:皇后宮も御前の枯野をご覧になるというので、御殿の外部近くに出ていらっしゃる時であった。)

このような記述がありますし、同じく鎌倉時代の『平家物語』にも、以下のような描写があります。

枯野のけしき、誠に面白かりければ、若き侍ども三十騎ばかり召し具して、蓮台野や紫野、右近馬場にうち出でて
(訳:枯野の景色がまことに趣深かったので、若侍どもを三十騎ほど連れて、蓮台野や紫野、右近馬場に出かけ…)

これらの古典から、皇后や武士も枯野見を楽しんでいたことが分かります。身分に関係なく、枯野というのは我々の心を捉えるものだったようです。

また、江戸時代には、江戸の向島(墨田区の地域)の長命寺から白髭神社あたりの風景が、枯野見の名所となっていたそうです。ただし、向島の近くに吉原(遊郭)があったため、吉原に行く口実に枯野見を使うこともあったとか。

現代では、枯野見という楽しみは廃れてしまいました。

でも、自分の人生を思い返してみると、枯野の景色は、案外私の記憶に焼き付いていることに気づきます。

子どもの頃、実家の前には空き地が広がっていました。

私が生まれ育った群馬は、山間部は雪が降りますが、私の地元は北風が強いばかりで、雪はあまり降らない地域でした。

だから、子どもの私にとっての冬の景色は、雪ではなく枯野だったのです。

その空き地には今ではマンションが建ってしまいましたが、子ども時代の私は、家の前に広がる枯野を見て育ちました。

ススキなどの枯れた草が織りなす景色。

その様子は、夏の青々とした原っぱよりも、なぜか深く記憶に残っています。

そういえば、日本の原風景には、この枯れた色合いが多いように思います。

枯野だけでなく、稲刈りを終えた田んぼや茅葺き屋根の色も、枯野色です。

枯野色は、私たち日本人にとって、心の故郷を形作る色になっているのではないでしょうか。

「無い」を味わう日本人

見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮れ

平安時代末期~鎌倉時代初期の歌人、藤原定家が詠んだこの和歌は、美しい桜も紅葉もない、海辺にポツンと建つ粗末な小屋があるだけの、静かな秋の夕暮れを描いています。

華やかなものは何もない、粗末な小屋があるだけの風景。

それなのに、この和歌を読むと、言い知れない余韻が残ります。

この和歌が長く愛されてきたのは、我々日本人が、「無い」ということの中に、豊かさや美しさを感じる感性を持っていたからではないでしょうか。

藤原定家が詠んだこの和歌は、日本の美意識、特に侘び・寂びを語る際に引用されることがあります。

侘びは、飾り気のないものや質素なものに対して、しみじみとした趣を感じることです。「足りないことの中にこそ、心の満ち足りた状態がある」という価値観を含んでおり、このことは「知足の美徳」とも表現されます。

知足とは、「足るを知る」ということで、自分の分をわきまえ、現状に満足し、多くを求めないことを意味します。こういった心持ちが、侘びの根底にあります。

一方、寂びは古びたものや色あせたものの中に、時間を経たものだけが持つ味わいや深みを見出す感性です。

枯れた木、ひびの入った器など、古びたものの中に現れてくる、かすかで奥深いものこそ、寂びが感じさせてくれる世界です。

この侘びと寂びは、どちらも目に見える派手さや華やかさとは対極にありますが、侘び・寂びは、心の豊かさの在り方の一つです。

定家の和歌のように、花も紅葉もない情景を味わう態度は、まさに侘び・寂びの感性そのものですし、枯れた野原を見つめる心も、やはり侘び・寂びにつながっていくように感じます。

枯野見であなたの日々に豊かな瞬間を

昔の人たちは、枯野を見ながら、どんなことを感じていたのでしょう。

もしかしたら、枯野を見つめながら、自分の内面と対話をしていたのかもしれません。枯れた風景の中に、時間の流れや移ろうことの美しさ、さらに生と死の循環のようなものを感じ取っていたのかもしれません。

きっと枯野見は、各人にとって、自分の人生の豊かさと向き合う時間になっていたことと思います。

我々エラマプロジェクトは、主にフィンランドの文化・習慣から豊かで幸せな生き方の探究を行っていますが、枯野見の習慣は、日本らしい豊かさを教えてくれるような気がします。

現代の私たちの暮らしには、かつてのような広々とした枯野が多くは残ってはいない地域も多いかもしれません。

けれど、路地や公園、川べりなどに目を向けてみれば、枯野の片鱗は見つかるはずです。そこではスマホをしまい、ただ自然の音に耳を澄ませ、小さな枯野を眺めてみる。

そんな時間を持ってみてはいかがでしょうか?

枯野見にはきっと、あなたにとっての「豊かさ」のヒントが隠れているはずです。

Text by 橘茉里(和えらま共同代表/和の文化を五感で楽しむ講座主宰/国語教師/香司)

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