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Elämäプロジェクト

【よむエラマ】「わかり合えない」をわかり合う。対話は他者と仲良くするためのものではない

こんにちは!いけかよです。

5月も終わろうとしている今日このごろですが、5月病の人はいませんか?

いけかよは、いまのところだいじょうぶ。

でも、この春はいろんなところで人事異動やら組織改編やら事業改変やらがありまして、わたしも新たなフィールドで新たな企画が始まることになったり、いろんな人のいろんな変化に影響受けたりで、なかなかに落ち着かないサーフィンのような日々であります。

そんななかで、新たな領域に踏み込むと新たな人、価値観、常識と出会います。それらは、これまでの自分の中にある経験や文脈では理解できないことも。

もちろんそんな状況から人は新たなことを学び、成長するわけですが、そこで必要になってくるのはやはり「対話」です。

もちろん他者との対話も重要ですが、今回はそれよりも自分との対話が先かも、というお話。

対話が重要とされる理由

対話することの重要性はいまも昔も変わりません。

でも、対話の方法や位置づけは変わってきているように思います。

たとえば「方法」で言うなら専門的な領域(ケアや教育、福祉など)の方々がさまざまな「●●ダイアローグ」的なメソッドを作られていたりします。

そして位置づけという点では、ことさらに「対話が重要!」と叫ばれるほど、「対話」というものが身近ではなくなってきている、とも言えるかもしれません。

絶滅危惧種の動物は「守りましょう!」ってなりますよね。それと同じ。「対話」が絶滅危惧種だからこそ「重要だ!」と言われるのです。

それはつまり、わたしたちは「会話」はしているけど「対話」はしていない、と言えるのでは?と思うのです。

何が違うのかというと、いけかよ的には「情報」は共有しているけど「気持ち」は共有していないのでは、ということなんです。

もちろんきちんと対話できる人も場もまったくなくなってしまったわけではありません。でも、それは意識的につくらなければいけないものになってしまっているのが現代なのかな、と思うのです。

昔はそれがあった、今はない。じゃあ昔っていつ?と問われればそれに明確に答えることは難しいです、ごめんなさい!

しかし、はっきりと感じているのはいま「対話」はすごく大切なのに「しよう!」という意図がなければできないものである、ということ。

(いつかははっきりとは言えないけど)昔は自然に「対話」は生まれていたんじゃないかと思うのです。

それはなぜか?

みんなに「心の余裕」があったから。

必要なのは誰との対話?

対話をするとはどういうことか?

いけかよは「空気を共有すること」だと思うのです。

日本人には「空気を読む」という、ある種の特殊技能がありますが、その文脈で語られる空気もそうだし、気持ち・感情なども含めた「空気」です。

一方「会話」は前述のとおり「情報共有」です。

暑い、寒い、●日までに△△しといて、牛乳買ってきて、どこどこいってくる、●日に会おう、みたいな。

これはどちらが良いとか悪いとかではありません。用途の違いですね。どちらかが過剰でも生きにくいと思います。

ただ、会話ばかりで対話が減ってくると人と人との関係はやはり乾いてきます。

それが続くと、今度はギスギスしてきます。

すると、ちょっと悲しい状態になってしまいますよね。それは想像に難くないと思います。

限界までいくと、人の心も、ひいては命までも壊れてしまうことになりかねない。

そんな悲しい状態にならないために、というか、人間同士が健やかに軽やかに生きていくために、対話は必須なのですが、その対話のためにはやはり「心の余裕」が必要なんですよね。

だって、自分が追い詰められていて必死なときに誰かの気持ちを察したり寄り添ったり理解したりなんて、無理ですよね。

心の余裕がなくなってしまいがちなのがいまの世の中。急がされたりプレッシャーがかかったり不安が多かったり怒りに飲まれてしまったり。

言いたいことも言えないこんなポイズンな世の中じゃ……!対話できなくても仕方ない、かもしれません。

しかし!だからこそ、必要なのはやっぱり「対話」。

でもそれは、他者との対話ではなく自分との対話です。

いま自分はどこにいて何をしていて、何を感じている?

自分はいま何をしたい?どうありたい?なにがほしい?

これらは自分に問わねばどんどんわからなくなってしまうことなんですよね。かくいういけかよは、そうでした。自分迷子でした。ていうか、いまでも自分迷子に全然なります。

いま自分はどういう状態か?なにを思っているか?

これを理解することが、心の余裕を持つことにつながります。

似たようなことを言っているアプローチをきいたことがありませんか?

そう、マインドフルネス!

自分迷子になりがちな現代に、やはり必要な要素として(というか、多くの人が「なにかがおかしい」と感じていたときに必然的にもたらされ、支持されたというべきか)提示されたのがマインドフルネスだといけかよは思っています。

ほんの数秒でも数分でもいいから、自分自身に集中する。そうすることで心の余裕は生まれます。

すると、他者への関心も蘇ってくる。

まずは自分との対話、そして他者との対話、の順番なんです。

「理解」は必要か?

とはいえ、いけかよは他者との対話はわかり合うために行うものではないような気がしています。

先に「対話とは空気を共有しあうもの」と言ったことと矛盾するとお思いでしょうか。

しかし、「相手を理解する」なんて、けっこうおこがましいことだといけかよは感じているんです。

だって、自分だって自分自身のことがわからないことがあるのに、他者のことなんてもっとわからないと思いませんか?

人を「理解する」というのは「あの人はこういう人だ」と「決めつける」「ジャッジする」ことに近いといけかよは思うんです。でも人は変化する生き物です。それはいいとか悪いとかではありません。環境や時代や教育や経験によってどんどん変わります。

そんな存在を「理解する」なんて、無理やん!と思っています。

だからって「あなたのことは理解できない」なんて言われたらショックかもしれませんね。

しかしこれは相手との関係構築を放棄することではありません。

相手を理解しなくても関係構築はできます。

だからこそ「対話」なんです。

対話は空気を共有すること。それは、相手をジャッジするのではなくそのままを「受け止める」ことです。

相手がごきげんでも、怒っていても、悲しんでいても、不安がっていても、それをそのまま受け止める。

無理な共感も、励ましもアドバイスも基本的にはいらない。そして裏を読もうとしない。裏読みする行為はジャッジすることです。

相手を完全にわかることはできない。

でも、受け止めることはできます。

これで対話はじゅうぶん成り立つといけかよは思います。

対話とは、いわば「わからない」をわかり合う行為とも言えるのです。

自分の真ん中に自分を置く

とはいえ、そんな聖人君子のようなふるまいで対話するなんてなかなか難しいことです。

偉そうなことを書いておきながら、いけかよだって全然!できていません!「あいつムカつく」とか言っちゃいます!ごめんなさい!

でも、だからこそまず自分との対話なんです。

「あ、あたしいまめっちゃムカついてるわ」ってことに気づくことが大事なんです。そこから「なんでこんなにムカついてるんやろ?」「ほんまはどうしたいんやろ?」と、自分の心を紐解いていくんです。

それができてから、他者に向き合う。

まず自分、そして他者。この順番は、絶対だと思うんです。

それは「自分の真ん中に自分を置く」っていう感じ。

他者ではなく。

わたしたちは、人に尽くしなさいとか人にゆずりなさいとか、自己犠牲的な振る舞いとかを学ばされてきました。もちろんそれが功を奏することもあるし、素敵な交流を生むことだってあります。

でも、自分がごきげんでないときに、他者をごきげんにできるでしょうか?

まず自分を自分の、世界の真ん中に置く。自分の幸せが世界の幸せだといけかよは本気で思っているんです。

対話的な場の作り方合宿 in 飛騨高山

最後に少しお知らせをさせてください。

自分と向き合い、すばらしい対話の場をつくるためのスペシャルなプログラムをご用意しました。

対話的な場の作り方合宿 in 飛騨高山
〜フィンランドの文化と飛騨高山の自然から学ぶ〜

2025年7月18日(金)〜7月21日(祝)、3泊4日を飛騨高山のコテージで過ごしながら「対話」についての対話をしていきます。

フィンランド式対話術のスキルから、ざっくばらんなトーク時間の作り方、そしてもちろん自分と向き合うことについても、幅広く、深く、じっくりと学べるプログラムになっています。

なんとなく落ち着かないとか、気持ちがざわざわするとか、忙しさばかりの日々だったりとか。そんなときに少しでも立ち止まることができれば、わたしたちは自分を取り戻すことができます。

自分を真ん中に置くこと。

それを思い出せるよう、飛騨高山でお待ちしていますね。

では、また!

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)

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