こんにちは、pieni(ピエニ)です。
最近、私はとても気になる考え方を知りました。
それは「JOMO(ジョーモ)」というもの。
みなさんはご存じですか?
JOMO(ジョーモ)とは「Joy of Missing Out」の略で、直訳すると「取り残される喜び」。
SNSやコミュニティと常につながっていなければ不安になる状態から、少し距離を置くこと。そして目の前の時間や、自分自身を大切にすることから、静かな幸福を感じること。
それが、JOMO(ジョーモ)という考え方です。
これを知ったとき、「あ!最近体験したことは、まさにJOMOじゃん!」と感じました。
情報があふれかえる毎日、疲弊した私を回復へ導いてくれたもの、そこで見つけたものを「JOMO(ジョーモ)体験」として振り返ってみます。
「忘れられるのでは」という恐怖

私は、仕事やライフワークとして、Webライター、地域情報の発信SNS運営、北欧雑貨の販売を行っています。
いろんな顔を持っていますが、どの活動にも欠かせないのが「情報を見る・得る・発信する」ということ。
子どものころからパソコンが好きで、学生時代から流行り始めたSNSも好き。
WebやSNSの世界で困ることはありませんでした。
けれど、ときどき疲れる...。
見る、得るということより「こんなこと発信していいのかな...」と不安になる瞬間があります。そうなると、情報の中に身を置く自分に違和感を感じることも。
ただ、その違和感は、いつもなら1、2週間で薄れていました。
けれど、昨年末から今年にかけては、ものすごく辛いと感じるようになってしまったのです。
仕事が忙しかったこと、人間関係や子育てで悩みを抱えていたことなど、さまざまな不安が重なり、
「とにかくSNSから離れたい」
「人に出会いたくない」
「外出したくない」
「家族とも話したくない」
「一人になりたい」...そんな気持ちに襲われました。
「じゃあ休んだらいいのでは?」
そう思われるかもしれません。
でも、同時に襲ってきた、もう一つの感情がありました。
それは「忘れ去られるのではないか」という恐怖。
SNSは、定期的に発信していなければ、目にしてもらえる機会が減ります。
更新が止まればフォローも外されてしまうかも。
情報を得ないと、次の発信もできない...ついていけなくなるんじゃないか。
「あぁ...発信者としては致命的」そう思っていました。
SNSだけではありません。
年末年始、挨拶など人と出会う機会も増える時期に、引きこもることは許される?
ダメな妻、ダメな母親と思われるのでは...
このような葛藤がありました。
この状態は「JOMO(ジョーモ)」の反対語「FOMO(フォーモ)」というんだそうです。
FOMO(フォーモ)は「Fear Of Missing Out」の略で、直訳すると「取り残されることへの恐れ」。情報や人とつながっていないと置いていかれる、成功のチャンスを逃してしまう、関係が保てなくなるなど恐怖を感じること。
まさに、私はこの時「FOMO(フォーモ)」にも陥っていました。
なにも発信せず、気にすることなく休みたい。
なのに「休むことが恐怖...」という状態でもあったんです。
そんな相反する感情の中で過ごしていたら、体が先に限界を迎えました。
熱が出て、強制シャットダウン。年末年始は、ゆっくり休むことになりました。
しかし、しばらく休んでも調子が戻ってこない。
再び「このままでは忘れられる、積み重ねてきたものが終わってしまう」
そんな恐怖がやってきました。
そんなとき、事態を変化させる2つの言葉をもらったんです。
ひとつは、お世話になっているカウンセラーさんから
「年齢にともなって、体も変化してくるし、やり方を変える時が来たんじゃないかな」
もう一つは、このメディアのライター仲間から
「きっと在り方は変わらなくても、やり方は変わっていいと、自分に”よし”としてあげることが大切なんだろうね」
これらの言葉に背中を押してもらい「もしかしたら、変化するときなのかもしれない。
今は、休もう。情報や人との関わりを、いったん置いてみよう」。
そう決意しました。
何でも許す場をつくってみた

調整できる仕事や誘いは、しばらく待ってもらったり、お断りしたりしました。
しかし「こんなことをしていていいのだろうか」という不安がしぶとく湧いてきます。
今回はこの感情に蓋をかぶせると、なにも変わらないと感じたので、試してみたことがあります。
それは簡単なノートデコとゆるいジャーナリング。
ノートにかわいいと感じる紙をパンチで切り抜いて、それを貼るだけ。
ノートにときめくと感じるシールを張って、今その時の気持ちを書き出すだけ。
それだけのこと。
始めたときは、どす黒い感情しかでてきませんでした。自分の中では「Deathノート」と名付けていました。
けれど、「Death(デス)っている」暗い気持ちでさえ、なんでも書いていいと許可しました。
感情を書くのがつらくなったら「ゆるめる・ゆるめる」と書く。
さらに、毎日つづかなかったとしても問題ない。
うまく書けなくてもいい。
自分のためだけにこのノートをやっている。
「何をしても許す場」をノートに作ったんです。
ゆるっと続けるうちに、ある日「このノートめっちゃかわいい」という、不思議な満足感が湧いてきました。
そこから、靄がスッと引いていくように落ち着き、ごく自然にやりたいことを書き始めている自分に出会いました。
そして
「自分の在り方ってなんだろう」
「私の原動力や、発信したいと思う言葉は、どんな思想からあふれ出しているんだろう」
このような深いところまで考えることができました。
発見した在り方については、ここで書き出すと壮大な物語になってしまうので、また別の機会にぜひ書かせていただきたいのですが、こんなことを強く感じました。
「SNSなどの情報や、人から離れたとしても、私は私である」
「生まれてから今日まで培ってきた価値観や、心の奥底にある精神性は、なにひとつ否定されるものではないし、だれも否定できない」
「迷子になっていたり、忘れていただけで、落ち着いて見渡すことができれば、一番大切な”核”に戻れる」
この「核」(自分の軸や中心、在り方、精神性と呼ばれるものだと思っています)に触れたとき、自然と涙が出ました。
深くて、静かで、温かい感覚。
どっしりとした安心感があり、とても嬉しい気持ちになりました。
外の情報や評価ではなく、自分の内側にちゃんと戻れた、という感覚でした。
これこそが、私にとっての「JOMO(ジョーモ)」体験だったのです。
取り残される恐怖が消えたわけではありませんでした。
でも、そのたびに否定せず、「怖いよね」と受け止め、無理に追い払おうとせずに過ごしてきました。
そうやって、自分を大切にする時間を重ねた結果、自分の中心に帰れる安心や、喜びを感じられるようになったのだと思います。
休んだからこそ見つかったこと

落ち着いた今、発信したいと思う言葉には、「深さ」や「重み」が加わったと感じています。
誰かにそう言ってもらったわけではありません。
評価されたわけでも、数字で証明されたわけでもありません。
それでも、これは私の中で「確信」になっています。
以前は、もっと発信しなきゃ。頻度を上げなきゃ。フォロワーを増やさなきゃ。
そんな思いにどこか追われていました。
でも今は違います。
数や頻度よりも、ひとつひとつの発信に温度を込めたい。
自分が本当に感じたこと、考えたことを、無理のないかたちで言葉にする。
それがにじみ出たとき、きっと、もっと喜びを感じられる。
そんな考え方に変わりました。
もしかすると、また見捨てられる恐怖に襲われることがあるかもしれません。
でも、そのときは今回と同じように、変化や新しい気づきにつながる「きっかけ」だと受け止められそうです。
離れて、休んで、自分に集中してみる。
そうすれば、また「核」に戻れる。思い出せる。
さらにその先は、新しい進化につながっているかも。
私にとって、そう強く感じられる体験でした。
立ち止まることは、消えることじゃない

やっていたことを、いったん置くこと。
休むこと。
一人になること。
情報から離れること。
それは、怖いことかもしれません。
特につながりを大切にしてきた人ほど、その怖さは大きいのではないかと思います。
でも私は、その時間は「止まる時間」ではなく、自分の中心に帰る時間なのだと感じています。
回復し、静かに深まっていくための時間でもあります。
少しイメージしてみてください。
溺れそうなとき、必死に手足を動かすと、かえって沈んでしまうことがあります。
でも力を抜けば、体は自然に浮いてくる。
迷いや怖さも、少し似ているのかもしれません。
抗い続けるよりも、一度受け止めてみることで、見えるものが変わることがあります。
浮かび上がったときに見える景色は、思っていたよりも穏やかです。
そしてその静かな時間の中でこそ、本当に大切にしたいものの輪郭が、少しずつ見えてくるかも。
少し疲れているなら、立ち止まってみるのも一つの選択だと思います。
離れても、休んでも、存在そのものが消えることはありません。
たとえ誰かに見られていなくても、評価されていなくても、存在してきた事実は変わりません。
私は、こう思います。
「小さくても、きっと何かや誰かに影響を与えている。それは波紋のように広がっていく」
だから、どんな状態であっても、今ここに生きているということ自体が尊い。
ちょっと疲れちゃったな...というあなたへ、今ここでエールを送ります。
Text by pieni(ピエニ)(丹波フィンランド大使)


