フィンランドと和文化、ふたつの視点から生き方を学ぶ「エラマの学校」の連載【和フィン折衷】。案内人は、フィンランド生涯教育研究家・石原侑美と、和文化エヴァンジェリスト・橘茉里。第3回のテーマは「アニミズム」です。
日本は八百万の神、フィンランドはハルティア
フィンランドで、ある森を訪ねたときのことです。案内をしてくれた土地のおばあさんが、木立のあいだの一点を指して、こう言いました。
「ここにお気に入りの椅子を置くと、エネルギーが体を通っていく感じがするの。だから、ここなの」
日本の田舎のおばあちゃんが言うことと、同じだ。そう思いました。白状すると、この瞬間、私の中のステレオタイプが崩れました。西洋と呼ばれる国では、スピリチュアルなことは口にせず、理屈で、現実的に話すもの。そう勝手に思い込んでいたのです。
その後、研究を進めるほどにわかってきました。フィンランドにも、日本と同じように自然を信仰する文化がかつてありました。キリスト教が国の宗教となった今も、その残り香のようなものが、確かにうっすらと漂っているのです。
前回の記事(→基本編②:森林率7割の国 )で書いたとおり、フィンランドと日本は、どちらも国土のおよそ7割が森林。世界でも有数の自然大国どうしです。
そして両国とも、昔から森や山に囲まれて暮らしてきました。そこから食べものや燃料や素材をいただき、同時に、自然の脅威と向き合い続けてきた国でもあります。日本には地震があり、台風があり、水害がある。フィンランドにあるのは、長い冬の寒さと、太陽が昇らない暗さです。
かたちは違っても、向き合ってきたものは同じでした。自然に敬意を払う文化は世界中にありますが、このふたつの国は、その敬意の残り方が驚くほど似ています。
日本の自然観には、アニミズムと呼ばれる考え方が色濃く見られます。 語源はラテン語の「アニマ(anima)」。「アニマ」は霊魂やいのちという意味です。アニミズムは、人や動物だけでなく、岩や山、道具などあらゆるものに魂が宿っているという考えで、世界各地の古くからの信仰や先住民文化などに広く見られ、日本の神道とも深く結びついています。
木にも、岩にも、山にも魂が宿る。日本では、それらをときに神そのものとして、また、ときに神が宿る場所として信仰してきました。こうした自然に関わる神をはじめ、日本には数えきれないほど多くの神々がいると考え、「八百万の神」と呼んできました。
国土の多くを山地が占める日本では、山は人々にとって特別な存在だったのでしょう。山は神の宿る場所と考えられ、地域によっては、亡くなった人の魂が山へ還り、やがて祖霊となって子孫を見守るとされています。
山から流れる水にも神が宿ると信じられてきました。山や水源では、水を司る神やその化身として、蛇や龍を祀ることもありました。
自然は恵みであり、同時に脅威でもある。人々は災害を防ぐ工夫を重ねる一方、人の力ではどうにもならない自然の力を畏れ敬い、受け入れながら折り合いをつけてきました。

岐阜・高山市の山の中 Photo by Yumi Ishihara
一方フィンランドは、世界観が違いますが、そこに何かが宿っているという感覚は、日本ととてもよく似ているのです。
フィンランドの森や家には「ハルティア(haltija)」がいます。その場所やもの本来の主、という意味の言葉です。森には森のハルティアがいて、家には家を守るトントゥがいて、サウナにはサウナのトントゥがいる。だから森では騒がず、サウナは汚さない。木にも岩にも魂が宿るという日本の感覚は、フィンランドでは「そこに主がいる」というかたちで残ってきました。
ここでも、人は自然を支配しませんでした。その厳しさと折り合いをつけながら生きてきたのです。今でこそキリスト教の国ですが、その前にあったのはシャーマニズムでした。神霊や精霊、死者と直接やりとりできる特別な力を持つ人=シャーマンを通して、お告げを聞き、病を治し、祭りを行う。そういう信仰のかたちです。フィンランドでは、サーミの人たちのシャーマンが太鼓を叩き、歌い、精霊の声を聴いてきました。
そして現代、信仰としての要素はずいぶん薄まっていても、「悩んでるなら、森へ行けばいい」という言葉が生きているように、森への敬意は消えていません。
「魂が宿る」は、親しみと距離のセットだった
山に魂が宿っている。森にハルティアがいる。
正直に言えば、確かめようがありません。木を切っても、岩を割っても、そこに魂は見つからない。科学でも証明できません。
それでも私は、これを迷信ではなく、むしろ実務的な知恵だと考えています。
魂が宿っていると考えた瞬間、自然は「もの」ではなく「相手」になります。相手になれば、親しみがわく。山に入る前に一声かけるし、いただいたものには礼を言う。
同時に、その相手は人間ではありません。何を考えているのか分からない。だから踏み込みすぎない。目に見えない怖さが、ちょうどいいところで足を止めさせます。前回書いたように、フィンランドの森は人を隠しますし、日本の山はしばしば異界とされてきました。
つまり「魂が宿る」という感覚は、親しみと距離を、同時に成立させる仕組みです。恵みをくれる存在であり、ときに命を奪う存在でもある自然と、長く付き合っていくために、ふたつの国が別々にたどり着いた知恵なのだと思います。
けれど私は、この仕組みは人に対しても、そのまま使えると考えています。
「リスペクト」の中身は、誰も教えてくれない
私たちが毎日のように使っている、あの言葉のことです。
「敬意を持って接しよう」「リスペクトが大事」「相手を尊重しよう」。
コミュニケーションが重視される今、この言葉はあちこちで使われています。上司であろうが後輩であろうが、子どもであろうが年上であろうが、同じ対等な人間で、それぞれに意見があり、生き方がある。だから尊重しよう、と。
言っていることは、よく分かります。けれど、具体的にどんな心持ちで、どうすればいいのかまでは、たいてい語られません。
相手を肯定しながら話すことでしょうか。褒めて立てることでしょうか。私は、どちらも違うと思っています。
その心持ちのヒントが、日本とフィンランドの古い信仰の中にあります。
相手を、自分と同じ魂を持つものとして見る。そして自然に恵みと脅威があるように、目の前の人にも、自分にとっての恵みと脅威があると認める。そのうえで、一定の距離を保ちながら、親しみを込める。
これが、敬意の中身です。
距離を取るだけの人は、ただの他人
ただ、これが本当に難しい。
エラマの森の住民さんと話していても、距離感の話は毎回のように出てきます。
友達やコミュニティで親しくなると、距離が近づきます。お世話をしたり、お世話になったり。頼られるのはうれしいし、頼って助かることもある。けれど、その人が持つ性質やタイミングを読み違えた瞬間、あっけなくこじれます。人の心に入りすぎないように保つのは、相当に神経を使う作業です。
だからといって、距離を取るだけでは敬意になりません。それは、ただの他人です。
日本語の「敬遠する」は、『論語』の「鬼神を敬してこれを遠ざく」という言葉から来ています。もともとは、神霊を敬いながらも深入りしない姿勢を表したものでした。今では、人や物事を避けるという意味で使われることが多くなってしまいました。敬う気持ちを失い、距離だけが残れば、それはただの隔たりになってしまいます。
山や森とともに暮らしてきた人々は、ただ怖がって遠ざかるのではありません。山に入り、恵みをいただきながらも、越えてはならない一線があることを知っていました。 本当の敬意は、距離を保つことではなく、距離を保ったまま親しみを込めることです。
そして厄介なことに、人の心は、天候と同じくらい目に見えず、予測ができません。
だから、読むことが大事なのです。
読む力は、本ではなく空で鍛える
では、どうすれば読めるようになるのか。
この講座を続けるうちに、私自身が気づいたことがあります。健やかな人間関係に必要なのは、相手の気持ちを、魂を読むこと。ならば読む力を鍛えるには、どうしたらいいのでしょうか。
文字通り、本を「読めば」いいのでしょうか。
それとも、人の心を「読めば」いいのでしょうか。
空気を「読めば」いいのか?
人も空気を読むことこそ、相手の気持ちや魂を読むことを指す。
思考をぐるぐるさせた結果、私の答えは、この連載がずっと扱ってきたもの――自然と、天気を読むことでした。
私は岐阜県高山市の、街から車で数十分の田舎に暮らしています。高山市は、日本でいちばん面積の広い市町村です。テレビで流れる天気予報は市街地のもので、うちの空とは当たらないことがよくあります。
だから、自分で読みます。空を見て、風のにおいをかいで、肌で温度をはかって、明日を決める。夕飯のメニューも、外でバーベキューをするかどうかも、それで決まります。
いちばん大事なのは冬です。そろそろ雪が来るかどうか。豪雪地帯のこの土地で、その予測は暮らしを左右します。そして天気予報は、それを教えてくれません。雲の動き、気温の下がり方、日々の小さな変化。そこに敏感でいないと、家や庭の雪囲いも、車を冬タイヤに替えるタイミングも逃します。逃せば、家が壊れることもあるし、車がスリップすることもある。健康や、命に関わってくるのです。
夏もそうです。大きな入道雲が立ち上がり、湿気が異常に高くなるのを感じると、夕立が来ると分かる。だから雨戸を閉める。こういうときの空を見ると、山の後ろからまるで龍が舞っているように見えるのです。昔の人も想像力が働いて、「山に神様がいる」と本気で信じてしまうのも頷けます。
そして、この感覚は人の心とよく似ています。
人は自然ほど分かりやすく変化を見せてくれないかもしれません。それでも、表情が少し硬い、会話のテンポがいつもと違う、なんとなく違和感がある。そういう小さな兆しは、必ず出ています。それを拾う勘は、自然の変化を読むことで鍛えられます。
たとえば、こんなことから。
天気予報を見る前に、自分で予測してみる。 空の色、風の向き、湿り気。明日の天気を口に出してから、予報を確かめる。当たった、外れたを繰り返すうちに、身体のほうが先に読み始めます。
「自分の木」の変化を見に行く。 前回、通勤路でも公園の隅でもいいので1本決めることをおすすめしました。今度は、葉のつき方や色を、先週との違いとして見る。読む練習は、同じ対象を繰り返し見ることからしか始まりません。
人に会う前に、その人の「今日の天気」をひとつだけ観察する。 声の速さでも、姿勢でも、返事の間でもかまいません。読もうとするだけで、こちらの距離の取り方が変わります。
自然に魂が宿っていると考えることは、自然を大切にするためだけの話ではありませんでした。親しみを持ちながら、一定の距離を保つ。相手を読む。私たちはその練習を、森や山とのあいだでずっと続けてきたのです。それは、目の前の人と向き合う姿勢に、そのまま効いてきます。
八百万の神も、森のハルティアも、遠い昔の話ではありません。
今日あなたが会ったあの人は、どんな天気をしていましたか。
誰かとこんな話をしてみたくなったら、対話の場「エラマの森」(https://elama.be/elamamori/)でお待ちしています。
次回は、沈黙の話。気まずくならない沈黙を、ふたつの国はどう育ててきたのか。どうぞお楽しみに。
「エラマの学校」の連載【和フィン折衷】は、石原侑美(フィンランド生涯教育研究家)と橘茉里(和文化エヴァンジェリスト)による講座をもとに記事化してお届けしています。二人のかけ合いを生で聴きたい方は、YouTubeで毎月配信中の「和フィン折衷生ラジオ」(https://www.youtube.com/@elama_6750/streams)をぜひご覧ください。講座本編は、会員制コミュニティ「エラマの森」(https://elama.be/elamamori/)の住民限定でお届けしています。

