こんにちは!Kangasこと、ライフコーチの和田直子です。
私は、最近「こうあるべき」を手放す勇気と覚悟を持てたことで、本来のありたい自分に戻れたと感じたので、今日はそれについて書いてみようと思います。
今月、私は16歳の娘と一緒にフィンランドへ行ってきました。目的は、正規留学を目指している娘の希望する高校を見学し、校長先生と直接お話しするためです。
2年前に娘はフィンランド留学を決意し、フィンランド語の勉強を続けてきました。16歳になった今年の8月入学を目標にしていましたが、言語の習得が間に合わず、来年の1月入学に目標を定め直して準備してきました。
そして、ようやくご縁からある高校を見つけ、娘のフィンランド留学をしたいという気持ちに誠実に向きあってくださる校長先生に出会えました。
メールでのやり取りやオンラインでの面談を重ね、現地を実際に訪れてみることになりました。
フィンランドに降り立ってすぐ、娘は「フィンランド語、何も聞き取れない…」と少し落ち込んだ様子。ベーシックな文法の理解に自信を持ち始めていたけれど、普段のレッスンより聞こえてくるフィンランド語のスピードが格段に速く、耳が追いつかないようでした。
校長先生との面談中には、娘は自分の考えを聞かれた瞬間、緊張で言葉が出なくなってしまうこともありました。そして、そんな自分の状況に涙が溢れ、止まらなくなってしまいました。
娘に抱いていた私の「こうあるべき」

娘はこの旅で、この先どのように学びを進めたいか、フィンランドでの留学生活をどのように始めたいかを決めなくてはいけませんでした。
私としては、最短で可能なタイミング(来年1月)に現地の高校に入ったほうが、多少言語力が追いついてなくても、日本で勉強を続けるより習得が速いのではないかと思っていました。それに心のどこかでは、中学を卒業してなかなか進路が決まらないことへの焦りも私は感じていました。今思うと、私自身の中の「こうあるべき」だったんだと思います。
娘はそんな私の考えに従い、一度はそのように校長先生に伝えました。
でも、すでに日本の真冬のように寒く、曇り空と雨ばかりの10月のフィンランドを体験した娘。留学がスタートするかもしれない1月の暗さをリアルに想像することができたのか、ある晩、滞在先のアパートで「言葉が不安だし、寒いし暗いし怖い!」と大泣きしてしまいました。
その姿を見ていると、16歳でこれ程にも遠く日本語が伝わらない場所に、娘を一人で送り出そうとしていることが間違っているのではないかと、この2年間で初めて私が不安に陥ってしまったのです。
それからもう一度ゆっくり考え直しました。
そして彼女は、自分が安心して進める留学のプランを話し始めました。
その内容を聞けば、日本の一般的な社会のレールを歩いてきた私からすると「本当にそのペースで大丈夫?」と思ってしまうものです。中学を卒業して、同い年の子たちはいま高校1年生の2学期を過ごしているわけですが、まだ入学する高校が決まらない娘は、すでにだいぶ遅れをとっています(フィンランドの高校に入ると決めた時点で、だいぶレールから外れているとは思いますが!)。
でも娘がこの旅で出した答えは、「自分は大丈夫!と思ったタイミングで高校に入学する」ということ。そのプランで行くときっと高校卒業は20歳近くになっているでしょう。もしかすると、卒業のための単位を取得できた頃には20歳を超えているかもしれません!
それでも娘は「年齢なんて何も気にしない」と。
緊張と不安で泣いていた時は、きっと「うまくやらなきゃ」「お母さんは早く入学できたほうが良いと思っているだろう…」など、余計な思考が娘を追い詰めていたのかもしれません。
娘はずっと答えを持っていたのに、私がそれを抑え込んでコントロールしようとしていたのだと思います。そのことに何となくずっと気づいていたけれど、娘の留学に対して「こうあるべき」という私の思考を手放したくなかった気もします。手放すのが怖いというか、執着してたというか…。
でも私も現地に行ったことで、まだ16歳の娘がここで暮らすのかと想像でき、「こうあるべき」を手放す覚悟を持たなければいけないと感じました。そして、その覚悟を持つことは勇気のいることでもありました。
「彼女にとってそれがベストなら、それでいい」そう自分に言い聞かせながらも心の中のざわつきは、しばらく残っていたと思います。
結局私の中のざわつきが消えたのは、娘が安心し、自分の選択を受け止めてワクワクしている姿を見れたときでした。
私自身もその選択ができたことに安心していると気づきましたし、娘の明るくなった表情を見ると嬉しくなり、応援したい気持ちがさらに大きくなりました。
このエピソードを思い出している時に浮かんだのが、エラマプロジェクトの代表、石原侑美さんとお話をしている時に聞いた「0(ゼロ)」の概念です。
「ゼロ」の概念

侑美さんから聞いたのは、エラマプロジェクトの哲学バーでの対話から『物や予定を減らし余白を設けることが、豊かさにつながる』という気づきが生まれ、それを「ゼロ」という概念として捉えるという話でした。
余白から生まれる豊かさとは、まさにシンプルさを大切にするフィンランドの人々の「vähemmän on enemmän (少ないことは多いこと)」という価値観そのものでもあり、それは東洋にある仏教の世界の「空」という思想にも通じるものでもあります。
「空」とは、単に「何もない」状態ということではなく、執着から離れ無限の可能性に満ちた状態を言うそうです。
「ゼロ」という言葉を聞くと、何もない状態を想像する人もいるかもしれません。でも、そのようなフィンランド人や仏教の価値観・思想を「ゼロ」と表現するならば、それは「余計なものや思考が何もない」状態を意味するのではないでしょうか。
私が娘に対して抱いていた「こうあるべき」を手放せた瞬間、私は「ゼロ」になれたのかもしれません。
侑美さんが仰るには、この「ゼロ」の考え方は、 フィンランド・ヘルシンキにあるレストラン「Nolla」からインスピレーションを受けたのだそうです。
このレストランの名前Nollaはフィンランド語で「ゼロ」を意味します。仕入れから調理、提供まで、ゴミを出さず、CO2を削減する運営をされています。私も以前訪れたことがあるのですが、お料理も本当に素晴らしいですし、スタッフの皆さんの誇りをダイレクトに感じることのできるお店です。
Nollaには「必要なものだけを残す」という哲学のようなものがあるのだと思います。
娘が「自分のタイミングで行きたい」と言ったとき、私は正直妥協してそれを受け入れた感覚でした。「予定通り行った方がいいのではないか」という思いが頭を巡っていたし、私の娘に対する「こうあるべき」を完全に手放すのが惜しい気さえしました。
でも、迷いがすっかり晴れたような娘の表情を見ると、「私がコントロールしても無駄だよな」と、自分の中にあった執着がふーっと消えていくのを感じたのです。
その後、私は心から娘の選択を尊重できましたし、これまでと同じように彼女の未来にワクワクできました。それこそ、私にとって必要な感情が残ったとも言え、私自身の本来のありたい姿でもありました。
人生のエネルギーを高める「ゼロ」

皆さんも、日々の小さな選択や人生の大きな決断に、誰かの声が気になることはありませんか?世の中の「こうあるべき」「今すべき」という思考が渦巻いてしまうことが。それを自分に対してだけでなく、今回の私のように家族や身近な人に押し付けてしまっていることだってあるのかもしれません。
できるだけ世の中の流れに似た選択をしていくほうが楽なのかもしれないけれど、それが自分にとって必要なかったとしたらどうでしょうか?
逆に誰の声も気にせず自分の意思を貫くには、それなりの勇気と覚悟がいります。それまでの「こうあるべき」という執着を手放すのが惜しかったり、誰かの声を無視することで相手に申し訳ないと思ってしまうからです。
でも、その勇気と覚悟の先に「自分はこうありたかったんだ」と思える安心感があることを、今回の娘との旅で知りました。純粋な自分に戻れた感覚、それも「ゼロ」の概念に入るのではと思います。
「必要なものや思考だけを残す」
「純粋な自分に戻る」
この2つができたら人生って最強なんじゃないかなって思うんです。スピリチュアルに聞こえるかもしれないけれど、「ゼロ」には純度の高い自分のエネルギーが充満しているような気がします。
「ゼロ」なのに充満しているって、何だか不思議ですね!でもそれが「ゼロ」の持つ力なのかもしれません。
そう言えば、赤ちゃんを見てもそうですよね。誰の声を気にすることもなく、成長していく力を持っています。0才が人生の始まりであるように、「ゼロ」の自分に戻ることは生きたい人生の始まりでもありますね。
皆さんも、この記事を読んで何か心が反応した気がするなら、自分の「ゼロ」をぜひ見つけて感じてみてください。きっと、自分に戻れた安心とワクワクに包まれるのではないかなと思います。その瞬間から、皆さん自身の人生をゆったりと歩んでいってくださいね。
Text by Kangas(和田直子/しなやかで強く優しい社会を織りなすライフコーチ)


