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Elämäプロジェクト

【よむエラマ】心を燃やして生きる。忠義と自己犠牲の物語を欲する日本人の心理とは

こんにちは。エラマプロジェクトの和文化担当、橘茉里です。

私は時々、歌舞伎や文楽(人形浄瑠璃)といった伝統芸能を観に行きます。

「伝統芸能」と聞くと、「堅苦しそう」「難しそう」と感じる方もいらっしゃるでしょう。

確かにそういう一面もありますが、実は、現代人もびっくりするほどドラマチックでエンタメ性の高い作品もたくさんあります。

例えば、昼ドラのような愛憎劇、逃避行、心中、ストーキング、転生、BLなどなど。

結構なんでもありなのです(笑)。

そんな中でも、今なお根強い人気があり、多くの作品に描かれているテーマがあります。

それが「忠義」です。

忠義のかたちは様々ですが、歌舞伎や文楽では「忠義のために我が子を犠牲にする」という壮絶な選択として描かれることがあります。

代表的なのが、江戸時代に生まれた名作『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』の四段目、「寺子屋の段」です。

敵方の家臣・松王丸は、恩義ある菅原道真の息子・菅秀才の命を救うため、自分の幼い息子を身代わりとし、菅秀才の代わりに首を討たれるよう仕組みます。

松王丸の妻もまた、息子が身代わりになることを知りながら、寺子屋へ送り出すのです。

もちろん、この夫婦に息子への愛情がないわけではありません。

我が子を想う気持ちをぐっと堪え、忠義を果たしたあと、夫婦はまるで血の涙を流すようにその悲しみを表します。

多くの観客は、あらすじを知ったうえでこの場面を観ます。

それでも「寺子屋の段」の愁嘆場(しゅうたんば)は、我々の強く心を揺さぶるのです。

この演目は今でも人気が高く、毎年のように上演されています。

私も何度も観に行きましたが、いつも不思議に思います。

なぜこの物語は、時代を超えて繰り返し演じられているのでしょう?

なぜ私たちは、こんなにも自己犠牲の物語に心を動かされるのでしょう?

今回は、そんな疑問について考えてみたいと思います。

忠義を通して、私たちが見たいものとは

江戸時代の武士にとって、「忠義」は生き方の核でした。

忠義は、主君に対する深い忠誠心を意味し、時には命を賭してでも果たすべきものとされていたのです。

そのため、主君の名誉や命を守るために、自らの命を惜しまない姿勢が尊ばれました。

仁・義・礼・智・信などの徳目が重んじられる中でも、「忠義」は特に重要な柱とされていたのです。

そして武士には、個人の感情よりも「大義」を優先することが求められました。

新渡戸稲造も『武士道』の中でこう語っています。

「武士道の教えはすべて自己犠牲の精神に貫かれている。」

「女性たちも主君のためならすべてを犠牲にするよう子供たちを励ました。侍の妻たちは、忠誠のためには自分の息子をあきらめる堅固な覚悟を固めていた。」

(著・新渡戸稲造、訳・大久保喬樹『ビギナーズ日本の思想 新訳武士道』より)


かつて理想とされた価値観においては、「忠義>息子の命」だったわけです。

しかし現代の私たちにとって、「自分の子どもを犠牲にする」という選択は、想像を絶します。

今の価値観では、むしろ「自分の命を差し出すより、我が子を犠牲にするほうが辛い」と感じ、「子どものためなら自分を犠牲にしてもいい」と考える人の方が多いように思います。

その点で、「寺子屋の段」のような物語は、現代人には受け入れがたい内容のはずです。

それでも私たちは、この物語に心を動かされてしまう。

私は、「想いの強さ」が見たくて、劇場に足を運んでいるのではないかと思うのです。

「どれだけ犠牲にできるか」は、想いの強さに比例するように感じます。

私たちは本気度が低いものに対して、大きな犠牲を払おうとはしないでしょう。

つまり「寺子屋の段」だったら、「息子を犠牲にしてまで貫き通したい忠義」という想いの強さに、私たちは感動を覚えているのではないでしょうか。

実際にそういう生き方をすることはとても難しいですが、普通は出来ないからこそ、私たちは無意識のうちに「想いの強さ」を伴った行動に憧れのようなものを感じているのかもしれません。

私たちは自由があれば満足なのか?

自己犠牲を美徳とする精神は、何も前近代に限ったことではありません。

例えば、日本の高度経済成長期を支えた企業戦士たちは、会社のために身を粉にして働き、私生活を犠牲にしてでも仕事を優先する生き方を選びました。

これは、武士の忠義に通じる精神性と言えるでしょう。

今でもそうした働き方を好んで選ぶ人もいますが、その一方で、現代では多様な価値観が広まり、「自由に生きたい」「自分のために、自由に時間を使いたい」と考える人も増えています。

では、仕事から解き放たれ、完全に自由になったならば、私たちはそれで満足できるのでしょうか?

定年退職後、やりがいを失ったり、暇な時間をどう使って良いか分からなかったりして、急に老け込んでしまう人がいるという話を耳にすることがあります。

自由を手にしても、それを有効活用できなければ、自由は毒にもなりかねない気がします。

私たちは、ただ自由なだけでは満足できず、「生きがいを持ち、日々満たされ、充実した人生を送っている」状態を必要としているのではないかと思います。

そして、充実した人生の一つが、「使命を持って生きる」という生き方ではないかと感じます。

だから私たちは、使命を持って生きている人に惹かれるのではないでしょうか。

そう考えると、忠義ゆえの自己犠牲に心打たれる背景には、「使命を持って生きたい」という私たち自身の願望があるように思うのです。

『鬼滅の刃』という作品が爆発的にヒットしたのも、単なるエンタメとして以上に、使命に生きる登場人物たちの生き様が、観る人の心を打ったからではないでしょうか。

煉獄杏寿郎という登場人物のこんなセリフがあります。

「胸を張って生きろ
己の弱さや不甲斐なさにどれだけ打ちのめされようと
心を燃やせ
歯を食いしばって前を向け」

(『鬼滅の刃』第8巻より)

彼は強い正義感と責任感を持ち、自らの命をかけて多くの人と仲間を守り抜きます。その生き様は、主人公である炭治郎たちにも大きな影響を与えました。

命の灯を燃やし尽くしながら戦い、最後に残された者たちへ言葉を託す――。「心を燃やせ」というセリフには、煉獄の覚悟と信念が込められているのです。

彼もまた、自分の信念と大義のために命を燃やした人物。「寺子屋の段」との共通点を感じます。

私たちの心を熱くさせるもの。

それはやはり、「想いの強さ」や「使命に生きたい」という情熱なのかもしれません。

心を燃やすことも豊かな生き方のひとつ

エラマプロジェクトでは、フィンランドの文化をベースに、「自分の時間を持つこと(マイタイム)」「休むこと」など、人生を豊かにするためのヒントをお届けしています。

エラマプロジェクトからたくさんのエッセンスを吸収していただきつつ、それと併せて、日本的な「心を燃やす」生き方というのも念頭に置いていただくと良いかなと思います。

どんなに小さなものであっても、自分の心を燃やせるものがあるなら、それはきっと人生を深く、豊かにしてくれるはずです。

あなたの心は、いま何に向かって燃えていますか?

その炎を、どうか大切にしてください。

Text by 橘茉里(和えらま共同代表/和の文化を五感で楽しむ講座主宰/国語教師/香司)

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