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Elämäプロジェクト

【よむエラマ】44歳の壁がきたら、自分のために生きていく

こんにちは!いけかよです。

先日、いけかよは44歳になりました。

めちゃめちゃ若くもないけど、でもまだまだこれから、な年齢と言えるでしょうか。

「四十にして惑わず」なはずの歳から4年も経ちましたが、いまだに惑いまくりな年齢ともいえます。

そんな折、同い年の友達から「人って44歳と60歳でいっきに老けるらしいで」という情報が。

またまたそんな、適当な噂信じたらあかんでぇ、と思っていたら、お世話になっているパーソナルトレーナーさんからも同じ話を聞き、調べてみるとなんとスタンフォード大学などでの研究で明らかになったことらしいのです。

てか研究対象108人て。なんで煩悩の数やねん。

とツッコミつつ、そんな研究を「そうかも」と思わずにいられないいけかよの昨今の出来事を振り返りたいと思います。

元気キャラが売りだったのに

実は、9月の下旬、44歳の誕生日を迎えたその次の日に(!)、いきなり体中が痛みだして寒気が止まらないという症状が発生し、そこから5日ほど発熱して寝込むという事態になってしまったのでした。

スタンフォードの研究恐るべし。

っていうか、研究に実直すぎる?あたしの体恐るべし。

大人になってから数日間にわたり、しかもまあまあな高熱を出して寝込むのは初めてでした。2024年始まってからずっと走り続けてきていたので、その疲れがいっきにきた、という感覚でした。

ほんとうにしんどかった。毎日晩酌をしているいけかよですが、さすがにこのときは普通に断酒状態で(当たり前か(笑))、食べることすら辛かった。何を食べても美味しくないのです。

「ああ、人ってこうやって死んでいくんやなぁ」と、判断能力の落ちた頭でぼんやり考えていました。食べるというのは、エネルギーを取り入れるという、生きていく上でもっとも基本的な行為です。食べるという行為じたいにもエネルギーが必要。「食べたい」はイコール「生きたい」です。それが「いらない」となるということは、「死にたい」と同じとも言える。

やっぱり病気や体調不良でそれまで当たり前にできていたことができなくなると、いろんなことを考えますね。いけかのように発熱レベルの些細なものでも、やはり「自分ってなんなんだろう」とか「なんでこんなことになったんだろう」とか「これにはどんな意味があるんだろう」とか、考えました。まあ、ポジティブなことはあまり考えられませんでしたけども。

もしくはよくわからない妄想とか。寝すぎて眠気はないものの、つらいのでただ横になってることしかできないから、やたらと脳ミソが暴走する感じです。

それから熱は下がったものの、体へのダメージはそこそこにあったようで、10日ほどは微熱が続き、さらに1ヶ月ほども微妙なしんどさや不調がずっとつきまといました。

ゆえに、お仕事もちょっと在宅を増やしたり、出かける用事はなるべく減らしたりと、省エネモードの日々が続きました。

そうすると、結局は熱を出して寝込んでいるときの延長。つまり、ずっと自分の身体に向き合うということをし続けることになったのです。

今日はあたし食べれるかな? 今日は元気かな?と。

「老い」を受け入れる

奇しくも、発熱する少し前から、身体には小さな不調が出ていました。自分にとってはよくある「いつものやつ」です。

なので、かかりつけの漢方医さんに薬を処方してもらったり、自分なりに休んだり食べたり。

でも、もともと若干健康オタク気味なわたしは、ネットでいろんな心身の健康についての情報を拾ったり本を読んだり講座を受けたりしていました。

実は、その動きが加速していたのは夏頃からでした。

「44歳の壁」を身体は察していたのでしょうか。

そこでピンとくるものに出会い、学び始めたのがアーユルヴェーダでした。

学ぶことは、ざっくりいえば心身の健康に関する知識と、毎日できるセルフケアです。

学びはじめた直後に発熱して倒れたので、わりといろいろな役立つ知識を実践できて、そういう意味でもなんちゅうタイミング、というかんじ。

学びはじめて理解したのは、当たり前ですが20代、30代のときと身体は違うということ。だから、食べ方も眠り方も不調の治し方も、20代30代の頃とは変えなきゃいけないんですよね。

自分には自分の歴史=データしかないから、ついつい「いつもこれでいける」のパターンを信じちゃうんですが、でも自分の身体は(きっと心も)「いつも」じゃない。どんどん変わっていく。

だから「いつものやつ」が効かなくなってくるんですよね。

それを「老い」だと受け入れるのは、少し勇気がいりました。なんか、やっぱり負けたような、いろんなものを諦めなきゃいけないような、侘しい気持ちになるからです。

でも、自分の身体を変えていけるということも、同時に学んでいます。

30代までは、自分が元気で健康なのは当たり前でした。

でも、それが少しずつそうじゃなくなる。でも、自分で治していくことができる。

44歳だからこそ味わえる、元気であることの喜びは、尊いものだとも思います。

自分を治すために自分を知る

そもそも、いろんな身体の不調は自分で治すべきものなんですよね。お医者さんが治してくれるものではない。

もちろん、お医者さんやセラピストさんなどの専門家も頼るし、手術やお薬や整体やサプリメントなどの助けも借りますが、自分の身体を治すのは自分。

いけかよは腰痛持ちでもともとめっちゃ太っていたのですが、いまでは腰痛は気にならないものになり、体重もそれなりに痩せられてからは「まいっか」と思えるレベルになりました。

それらは、スペシャリストたちの力を借りつつも、結局は自分の意思で自分の身体は変えるのだということを何度も体感しました。だからこそ、自分と自分の身体にしっかり向き合って、いま自分の身体がどういう状態なのかをわかるっていうのはすごく大事って、わかるんです。

でも、これが難しい!

日々、忙しく過ごしている多くの人が、自分の身体の状態には無自覚だと思います。いけかよはそうでした。漢方医に脈診をされるたびいつも「がんばりすぎ」と言われます。でも、それがデフォルトなんです。「“すぎ”じゃない頑張りってなに?」って感じです。

そういうときに、通常運転がままならないような不調に襲われると、やっと自分の身体と向き合うことになります。そして学ぶのです、「ああ、ここまでくるとだめだったのか」と。

これは気持ちの部分でも同じです。

自分のちょっとした気持ちの浮き沈みにもっと敏感になったほうがいいんですよね。

そんなことにいちいち気を留めていたら日々は立ち行かないと思われるかもしれません。

でも、「自分はこういう状況だと元気になる」「こういう状況だと凹む」「これが好き」「これは嫌い」という自分なりのものさしには、やっぱり敏感でいたほうがよさそうです。

それが、食べ物とはまたちがう日々のエネルギーを左右するからです。

生きるうえで必要なエネルギーは、カロリーだけじゃないですよね。楽しい気持ちややる気やモチベーション、悔しさや苛立ちだってエネルギーです。

それは「生きる希望」とも言い換えられます。

身体の不調を、筋トレや食事で治せるように、心の不調も自分で治すことができるはずです。自分のことをきちんと知っていれば。

そして、これらの「気持ちの処方箋」も、年齢を経れば変わっていく気がする。

若い頃にあんなに情熱を燃やしたことに、いまはもうときめかなくなっている、ってこと、きっとみなさんあるはずです。それって切なくもあるけれど、人間という生き物として当然のこととも言えます。若い頃はコーラとポテチで日々乗り切れていたけど、40過ぎたらご飯とお味噌汁じゃないと身体はいろいろおかしくなる、というような。

そういうことを、わかりやすく突きつけてくるのが、もしかしたら「44歳と60歳の壁」なのかも?と思ったりしたのです。

それは自分のために生きろというサイン

いけかよは、基本的には人間という存在は全員が全員、毎瞬をめちゃめちゃがんばって精一杯生きていると思っています。

「そんなことない、自分はグダグダしている。ぜんぜんがんばってない」と思っている人も、いまある心身のエネルギーを精一杯つかって在ることができる在り方が「グダグダ」というだけで、基本的には人間は「精一杯」がデフォルトのような気がするんです。

パワー全開で張り切るときはもちろん、休むときも、グダるときも、悲しむときも、怒るときも、人の心身のエネルギーは、ONかOFFしかなくって、エネルギータンクにどれだけガソリンがあるか、っていうだけのような気がするのです。コンロの火を調整するレバーのような機能は、ない気がします。

老いというのは、心身ふくめて、このエネルギータンクが小さくなっていくことのような気がします。でも、それは身体からも心からも両面からのアプローチが可能で、かつ、自分でケアすることで大きく保つ、なんなら歳をとっても大きくすることができる、ということですね。

そのためには、前述のように「自分の身体に向き合うこと」「自分の心に向き合うこと」が必要です。適切なケアを自分にしてあげるために、です。

それを、「いきなり老いる」みたいなショッキングな出来事で知らせてくるのが「44歳と60歳の壁」で、それはつまり「自分のために生きろ」というサインなんじゃないかと、いけかよは思うのです。

若い頃って、体力があるし失敗も許されるから、いろんなことに無駄にエネルギーを使うことができます。それはすなわち人間的成長のために必要な学びを得ているときとも言えるけど、一方で自分に自信がないがゆえに、自分をすり減らすような生き方をすることもままある気がします。

やたらと自己犠牲的に仕事をがんばったり、学校や職場で「いい人」になってしまったり、パートナーに尽くしすぎたり。

そうすることでしか他者に貢献するやりかたを知らない、とも言えるかもしれません。

でも、いよいよエネルギータンクが収縮してくる=歳をとってくると、エネルギーの余裕があまりありません。だからこそ、エネルギーを過剰にすり減らさないように、わたしたちは「自分のために生きる」をする必要があります。

気持ちや体力に余裕がなくなってくると、否応にも自分のことにかかりきりになりますね。これって、言い換えれば「自分のために生きる」です。

「44歳と60歳の壁」は、いきなり「自分のために生きる」への強制スイッチを押させるようなものなんじゃないかと思うんです。

そして、その壁を感じたら、最初は焦ってもだんだんとニュートラルに老いを受け入れ、適切なケアをし、回復できるのだということを知る。

自分処方箋も更新していくことを知る。

そして、日々すこやかに過ごせることを愛おしむ余裕もでてくるかもしれません。

ひいては結果的にそれが他者への愛や貢献にもなる、ということを知るのです。

そう考えれば、「44歳と60歳の壁」は悪いものじゃないかもしれませんね。

生きる目的とかも見えてくる

奇しくも、この記事がアップされる2024年11月20日は、冥王星が水瓶座に移動します。

占星術に興味がない人にはごめんなさい、なんのこっちゃでしょうか。いけかよは、占星術が好きなので、つい「あっ!」と思ってしまったのですが、ざっくりいうと、社会の流れを司る星である冥王星は、約20年ごとしか動かないんですが、それが動くタイミングがきたよ、つまり、時代が新たなフェーズに入るよ、ということです。

少し前から「風の時代」と言われてますが、それが本格的になるガチの後押し、っていうかんじです。

(興味がある人は「冥王星 水瓶座」とかで検索してみてください)

そんな、星の世界からのメッセージともリンクしているかもしれないな、と思うのが「自分のために生きる」ということ。

もう年齢的にオバサンやから、とかじゃなく、ほんらい、人間は自分のために生きるのがデフォルトであると思うんですが、だれかのために生きることに喜びや拠り所を見ている人もいると思うし、それって悪いことじゃありません。

でも、結局は自分のために生きる、が、たぶん、きっと正解なのです。

ひとりひとりが果たすべきなにかを持って生まれてきているはずだし、そのためにこの身体と心はつかわれるべきなんです。

そう考えると、「自分がなんのために生まれてきたのかわからない」「やりたいことがわからない」という人は、まず「自分のために生きる」をしてみたらいいんじゃないかと思うんです。まずは、心と身体を元気にすることに集中する。

そしたらなんか、自分の生きる目的とかって、おのずと見えてくる気がしませんか?

そしてなにより「自分のために生きる」は、命を大切にするということにほかなりませんよね。

命輝く人は、老若男女問わず人を魅了します。

まさに「Elämä(エラマ)=命、人生」だから。

そんな命輝く人をめざして、44歳の壁に直面したいけかよはいま「自分のために生きる」をやってみています。

そしたら、50歳くらいにはめちゃめちゃええ感じになってるかもしれへんよね。

そんな期待を胸に、新たな時代が始まる今日から、あなたも「自分のために生きる」をしてみませんか?

では、また!

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)

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