Elämäプロジェクト

【フィンランド×和文化】森林率7割の国 ─ 自然との付き合い方

フィンランドと和文化、ふたつの視点から生き方を学ぶ「エラマの学校」の連載【和フィン折衷】。案内人は、フィンランド生涯教育研究家・石原侑美と、和文化エヴァンジェリスト・橘茉里。第2回のテーマは「森との距離感」です。

「摘んでいいよ」

フィンランドの森を歩いていたとき、足元のブルーベリーを指してそう言われて、私は一瞬、手が止まりました。

ここ、誰かの土地じゃないのかな。断らなくて、いいのかな。

日本で山に入るとき、私たちってまず「ここは誰の山だろう」と考えてしまいます。勝手に採ってはいけない、という感覚は、理屈より先に身体に入っている。だから「どうぞ」と言われても、実がひとつぶ手のひらに落ちてくるまでに、数秒かかってしまうのです。

フィンランドも日本も、森林率はどちらもだいたい7割。国土の7割が森という、世界でも指折りの「森の国」どうしです。なのに、森との距離の取り方は、こんなにも違う。

今日は、両国の文化の違いから、自然と向き合うことの本質を掘り下げます。

フィンランドは森、日本は山

フィンランド生涯教育研究家の石原侑美です。和文化エヴァンジェリストの橘茉里さんと続けている講座「和フィン折衷(和文化とフィンランドの文化の折衷)」を、エラマの学校の記事にしてお届けしています。

今回の内容で1番の注目は、講座中の茉里さんのこの一言です。

「私たちって、日本の自然のことを“森”ってあんまり言わないんですよね。“山”って呼ぶことが多い気がします」

言われてみれば、確かに。私たちは「森へ行く」とはあまり言いません。「山に入る」と言います。

山歩き、山開き、山菜採り。日本語には、「山」を使った身近な言葉がたくさんあります。実際、日本の国土は約7割が山地や丘陵地。同時に、森林の割合も約7割。つまり、日本の森林の多くは「山」に広がっているというわけです。  

フィンランドには、その山がほとんどありません。あっても丘くらい。国土の1割は湖で、あとはほぼ平ら。森は水平に、どこまでも続いています。しかも林業が昔からずっと盛んな国なので、多くの森には人の手が入っていて、木と木のあいだに隙間がある。歩くと、光が落ちてきます。

ヘルシンキでも、バスで10分乗れば森です。私が「日本の人が公園に散歩に行くくらいの感覚ですか」と聞いたら、そうそう、という顔をされました。悩みごとがある人には、こう言います。

「悩んでるなら、森へ行けばいい(Jos olet huolissasi, mene metsään.)」

平らで、明るくて、家の続きにある森。フィンランドの「森が近い」は、まずもって物理的に近いのです。

他人の森でベリーを摘んでいい、という発想

もうひとつ、距離を近くしているものがあります。「自然享受権(Everyman's rights)」です。

誰でも、他人の土地を歩いていい。ベリーやきのこを摘んでいい。湖で泳いでもいいし、一晩ならテントも張れる。旅行者でも同じです。

面白いのは、これが「自然享受権法」みたいな一本の法律ではないこと。フィンランド環境省の説明は、「広く受け入れられてきた慣習」。実際には30本近い法律に、してよいこと・いけないことが散らばっていて、その中心にあるのが、なんと刑法です。窃盗を定めた章に、こんな一文があります。この章の規定は、他人の土地から野生のベリーやきのこ、花、落ちた松ぼっくりや乾いた小枝を採ることには適用しない──。つまり、「摘んでいい」と書いてあるのではないのです。「摘んでも罪にならない」と書いてある。権利を与えるかわりに、罰しないと決めることで、森を開いておく。私はここに、いちばんフィンランドらしさを感じます。

しかもフィンランドの森は、国のものではありません。生産力のある森のおよそ6割は、個人や家族の持ちもの。森の持ち主は全国に62万人ほどいます。人口の10人に1人ほどが「うちの森」を持っている国で、よその人がそこでベリーを摘むのが当たり前。ここが、いちばん不思議なところだと思います。

その代わり、線はしっかり引かれています。人の家の庭や畑には入れない。焚き火は許可がいる。生えている木を切るのはもちろん、コケや地衣類、倒れた木を持ち帰ることもできません(地面に落ちた乾いた小枝や松ぼっくりなら、拾ってかまいません)。

いただいていいのは、その年の実りだけ。森そのものには手をつけない。ゆるいのではなく、とても丁寧なルールなのです。

一方、日本はどうでしょう。日本も、森林の約6割は私有林です。ただしフィンランドと違って、他人の森に自由に入ったり、山菜やきのこを採ったりできるわけではありません。無断で山菜やきのこなどを採れば、森林法の「森林窃盗」にあたることもあります。 

……と、ここまで読むと、「やっぱりフィンランドはいいなあ、日本は窮屈だなあ」と思われるかもしれません。

でも、この連載でいちばんお伝えしたいのは、そこではないのです。

日本にも「みんなの森」はあった

日本にも、村のみんなで山を使う仕組みがちゃんとありました。「入会(いりあい)」です。

古くから地域の暮らしを支えてきた仕組みで、村の人たちは周囲の山から、薪や柴、山菜、きのこ、田畑の肥料、屋根を葺くための草など、暮らしに必要なものを得ていました。 

フィンランドの自然享受権が「誰でも」自然を利用できる仕組みなのに対して、日本の入会は、その地域で暮らす人たちが山を共同で利用する仕組みだったのです。

日本の山には「畏れ」がある

講座で、茉里さんはこんな話をしてくれました。

「日本では、自然は身近な存在であると同時に、畏れ(畏怖)を感じる存在でもあったんです。山や岩、樹木、滝などが信仰の対象になることもあります。特に山は、人が暮らす里とは異なる“異界”として捉えられてきました」

山には神がいる一方で、妖怪や鬼などが棲む場所とも考えられてきました。また、亡くなった人の魂が山へ帰ると信じられてきた地域もあります。

私も飛騨高山に暮らしていて、地元の方から「夜に山へ入ったらいかんよ」とよく言われます。温泉に行けば、地域のおじいちゃんおばあちゃんが「うちの畑のトマト、イノシシに食われた」と盛り上がっている。山は暮らしのすぐ隣にある。でも、どこか境の向こう側にあるのです。

こうした山への畏れは、昔の人だけが持っていたものではありません。日本には今も信仰の対象となっている霊山があり、山そのものが神聖な場所として大切にされています。なかには、入山に特別な作法や決まりがある山もあります。

そして、日本で「森」と呼ばれる場所にも、こうした神聖さと結びついたものがあります。神社を囲む「鎮守の森」です。「鎮守の杜」と表記されることもあり、そこは単なる木々の集まりではなく、神社と一体となった神聖な空間として大切にされてきました。

日本の自然は、恵みをもらったり、親しんだりするだけの存在ではありません。ときには一線を引き、畏れと敬意をもって向き合う存在でもあったのです。

フィンランドの森だって、怖い

じゃあフィンランドの森は明るいだけなのかというと、これがそうでもないのです。

フィンランドには「metsänpeitto(メツァンペイット)」という古い言葉があります。直訳すれば「森の覆い」。見慣れた森が急にまったく知らない場所に変わって、人や家畜が森に隠されてしまい、見つからなくなる。探しに来た人の姿は見えているのに、こちらの声が届かない──そんな言い伝えです。

この話を講座でしたとき、茉里さんが言いました。

「それ、日本の神隠しに近い感じですね」

そうなんです。しかもフィンランドの民族叙事詩『カレワラ』には、森を治めるタピオという神と、その妻で森の女主人ミエリッキが出てきます。狩りに行く人はまず唱えごとをして、森の主に「分けてください」とお願いしてから入る。梢がなく横に枝を広げた特徴的なトウヒは「タピオの食卓」と呼ばれ、そこにお供えを置きました。

日本にも、どこか通じる山との向き合い方があります。秋田のマタギ(伝統的な山の猟師)の中には、山に入ると里で使う日常の言葉を控え、「山言葉」と呼ばれる特別な言葉を使う習わしがありました。山を人里とは異なる特別な場所と考え、山の神への畏れや禁忌を大切にしていたことと関係しています。

熊などの獲物も「山の神からの授かりもの」と考え、仲間で分け合いました。

世界観や物語は違っていても、自然の恵みに感謝し、敬意をもって向き合う。そんな精神性は、日本とフィンランドに共通しているのかもしれません。

「森林浴」は、日本語です

森林浴という言葉は、いまや世界中の研究論文でそのまま「Shinrin-yoku」と書かれているのをご存知でしょうか?

「森林浴」という言葉が生まれたのは1982年。当時の林野庁長官が、海水浴や日光浴になぞらえて考えた造語です。当時はまだ、森林浴の効果が科学的に実証されていたわけではなく、いわばキャッチコピーのようなところから始まりました。 

面白いのはここからで、日本はそのあと本気で研究を始めます。全国24か所の森で行われた実験では、森で過ごした人のストレスホルモン(唾液中コルチゾール)は、同じ日に都市で過ごした人より13〜16%低かったと報告されています。免疫細胞が活性化するという研究もあります。

そしてフィンランドでも、ヘルシンキの公園と森で同じような実験が行われ、やはりストレスが和らぐことが示されました。なんと、日本の森林総合研究所の研究者が、共著者に入っていたのです。

日本生まれの「森林浴」が、フィンランドの森で試されていた。ふたつの国の森は、とっくに研究室で出会っていたのでした。

ちなみにその研究、舞台は深い山ではありません。街なかの公園と、都市の中の林です。5分でも、緑のあるところを歩けば身体は反応する。特別な場所へ行かなくてもいい、というのは、都会で暮らす人にとって自然を身近に感じられる大事な要素ですね。

山のふもとまで、歩いていかなくていい

フィンランドの森がうらやましくなったとき、私はいつも思い出すことがあります。

昔の日本は、今よりもっと山が暮らしの身近にあり、自然とさまざまなかたちで付き合ってきました。 フィンランドを見て「いいなあ」と思うことの多くは、実は私たちの文化の中にもあるのです。

だから、フィンランドに憧れるだけでなく、日本にも目を向けてみる。私たちが忘れていた自然との付き合い方を思い出して、今の暮らしの中で取り入れてみるのもいいのかもしれません。 

たとえば、こんなことから。

「自分の木」を1本決める。 通勤路でも、公園の隅でも、ベランダから見える一本でもかまいません。同じ木を、季節をまたいで見に行く。芽吹いて、茂って、色づいて、裸になる。1年やると、その場所は「行くところ」から「知っているところ」に変わります。

5分だけ、緑のあるほうへ歩く。 ヘルシンキの研究の舞台も、街の公園でした。歩けない日は、窓から木を眺めるだけでも。

山に入るときは、ぜひ山への敬意を。心の中で「お邪魔します」と一声かけてみる。山をただ楽しむだけの場所ではなく、少し敬意をもって向き合う場所として考えてみる。そんな小さな意識の変化から始めてもいいのかもしれません。 

あなたにとって、いちばん近い緑はどこですか? そこに立ったとき、「ただのわたし」に戻れていますか?

今度の休みに、その場所まで歩いてみるもよし。誰かとこんな話をしてみたくなったら、対話の場「エラマの森」(https://elama.be/elamamori/)でお待ちしています。

次回は、森の奥にいる存在の話。八百万の神と、フィンランドの森の精霊たち。ふたつの国のアニミズムを、神話までさかのぼって掘り下げます。どうぞお楽しみに。

「エラマの学校」の連載【和フィン折衷】は、石原侑美(フィンランド生涯教育研究家)と橘茉里(和文化エヴァンジェリスト)による講座をもとに記事化してお届けしています。二人のかけ合いを生で聴きたい方は、YouTubeで毎月配信中の「和フィン折衷生ラジオ」(https://www.youtube.com/@elama_6750/streams)をぜひご覧ください。講座本編は、会員制コミュニティ「エラマの森」(https://elama.be/elamamori/)の住民限定でお届けしています。