Elämäプロジェクト

裸の付き合いは国境を越える ─ サウナと風呂が教えてくれること

フィンランドと和文化、ふたつの視点から生き方を学ぶ「エラマの学校」の連載【和フィン折衷】。案内人は、フィンランド生涯教育研究家・石原侑美と、和文化エヴァンジェリスト・橘茉里。第1回のテーマは「サウナと風呂」です。

私が暮らす岐阜県の飛騨高山には、世界中からたくさんの旅行者がやってきます。

「みんなの前で裸になるのは、ちょっと抵抗があるな」

ガイドとして海外からのゲストをご案内していると、温泉の前でこの言葉を耳にすることは珍しくありません。でも、不思議なことに、フィンランドから来た方にだけは、ほとんど言われたことがないんです。

むしろ「日本にも自分たちのサウナ文化と通じるものがあるんだね」と、うれしそうに暖簾をくぐっていきます。

ユーラシア大陸の反対側にある、遠い遠い国。なのに、裸になることだけは、お互いに何のためらいもない。この不思議が、今日のお話の出発点です。

遠い国なのに、なぜか懐かしい

はじめまして、の方も多いと思います。フィンランド生涯教育研究家の石原侑美です。私はエラマプロジェクトという活動の中で、和文化エヴァンジェリストの橘茉里さんと一緒に、「フィンランドと日本はどれだけ似ているか」というテーマの講座を、もう何年も続けてきました。火の文化、余白、昔ばなし、闇との向き合い方──毎月ひとつの切り口で両国を見比べてみると、驚くほど「つながりポイント」が見つかるのです。

茉里さんは高校で国語を教え、お香の調合もする、根っからの和文化の人です。この講座が生まれたきっかけは、二人の何気ない会話でした。私がフィンランドの文化を、茉里さんが和文化を持ち寄っておしゃべりしているうちに、「あれ? 日本とフィンランドって、思った以上に似ていない?」「しかも、ただ似ているだけじゃなくて、精神性のところでかなり繋がっているんじゃない?」──そんな発見に二人で盛り上がったのが、すべての始まりです。

この連載は、そんな私たち二人の講座「和フィン折衷」を、エラマの学校の記事としてお届けするものです。第1回は、その「精神性の繋がり」がいちばん体感しやすいところから。サウナとお風呂の話です。


サウナで生まれ、湯に浸かって生きる

フィンランドのサウナの歴史は、2000年以上前にさかのぼります。地面に掘った穴で蒸気を浴びた原型まで含めれば、さらに数千年前とも言われます。しかも古いサウナは、ただ身体を清めるだけの場所ではありませんでした。肉を燻し、麦芽を乾かし、ときには寝泊まりもする──暮らしのまんなかにある多目的空間だったのです。いまも残る伝統的な「スモークサウナ」は、この原型をとどめたサウナです。

驚くのはその数です。人口約560万人の国に、サウナは推計およそ300万。ざっくり2人に1つの計算で、一軒家を建てるならサウナをつくるのが当たり前。そしてかつて──主に19世紀から20世紀前半にかけて──農村部ではサウナで赤ちゃんを産み、亡くなった方の身体を清めることも行われていました。清潔で温かく、静かなサウナは、お産の場として理にかなっていたのです。フィンランドの人たちにとってサウナは「この世の入り口と出口」であり、教会にも似た神聖な場所でした。

この話を講座でしたとき、茉里さんがすっと返してくれました。

「日本にもよく似た文化がありますね。生まれてすぐ産湯につかって、人生の最期には湯灌で身体を清めてもらう。日本でも、人生の節目には湯が大切な役目を果たしてきました 」

そうなのです。しかも「風呂」の源流をたどると、蒸し風呂に行き着きます。奈良時代、仏教の広まりとともに寺院に「浴堂」がつくられ、身体を清めることは仏に仕える大切な行いとされました。庶民に開かれた施浴(せよく)もお寺から始まっていて、病人や貧しい人々に無償で入浴の機会が提供されていました。奈良時代の光明皇后が、千人の病人の身体を洗い清めたという伝説も残っています。当時の入浴は、室(むろ)と呼ばれる小さな建物の中で蒸気を満たし、身体を温めて汗を流す蒸し風呂が中心でした。湯船にたっぷりお湯を張って浸かるお風呂が庶民に広まったのは、ずっと後の江戸時代のこと。「風呂」の語源には諸説ありますが、蒸気を閉じ込める「室(むろ)」から来たという説もあるほどで、つまり日本のお風呂の原点は、フィンランドのサウナにも通じる蒸し風呂の文化だったのです。

蒸気で身体を清め、人生の入り口と出口に立ち会う。ふたつの国のサウナ文化と入浴文化は、思いがけないほど似た出発点を持っていました。

ちなみに、フィンランドのサウナが世界に知られたのは1936年のベルリンオリンピック。選手村にフィンランド選手団のためのサウナが設けられ、各国の注目を集めたのがきっかけでした。日本に広がったのは1964年、東京オリンピックの選手村にサウナが設けられてから。サウナの世界進出の歴史にも、日本はちゃっかり登場しています。

裸になると、肩書きが消える

サウナとお風呂には、もうひとつ大きな共通点があります。服と一緒に、肩書きも脱いでしまうところです。

スーツも制服も、名刺もありません。サウナのベンチに並んで座れば、会社の社長も学生も、ただの「汗をかいている人」。フィンランドでは、このことが政治の世界にまで生かされてきました。「サウナ外交」という言葉があり、戦後の長期政権を築いたケッコネン大統領は、東西冷戦のただ中、各国の要人を自らのサウナに招いて重要な交渉を行ったことで知られています。1957年には、当時のソ連の最高指導者フルシチョフを深夜のサウナでもてなした逸話も残っています。裸になってしまえば、駆け引きの鎧も一緒に脱げてしまうからでしょう。

日本語には、もっと直球の言葉がありますね。そう、「裸の付き合い」。本音で語り合える間柄を、私たちは昔から「裸」にたとえてきました。例えば、江戸の公衆浴場(湯屋)には二階に座敷を設けたところもあり(主に男性のお客さんの空間でしたが)、湯上がりの人たちが将棋を指し、茶を飲み、世間話に花を咲かせたといいます。湯屋は身体を洗う場所である以上に、人々が集い、交流する町の社交場でした。

社会学には「サードプレイス」という考え方があります。家でも職場でもない、肩書き抜きで居られる第三の場所が、人の幸福には欠かせないという理論です。フィンランドの公衆サウナと日本の銭湯は、理論が生まれるはるか前から、まさにそれを実践してきた場所でした。裸の人間どうしが、ただ隣に座る。そんな場所を、ふたつの国は何百年も守り続けてきたのです。

蒸気の中には、何かがいる

もう一歩、深いところへ潜ってみます。

フィンランド語で、サウナストーンに水をかけたときに立ちのぼる蒸気を「ロウリュ(löyly)」と呼びます。日本のサウナ施設でもすっかりおなじみになった言葉ですが、実はこの言葉、古くは「魂」や「命の息吹」を意味していたと言われています。焼けた石から立ちのぼる白い蒸気を、かつてのフィンランドの人たちは、サウナに宿る命そのもののように感じていたのかもしれません。サウナには「サウナトントゥ」という精霊が棲んでいて、騒いだり汚したりすると機嫌を損ねる──そんな言い伝えもあり、だからサウナの中では静かに、行儀よく過ごすのだと言われています。

茉里さんとこの話をしたとき、二人で顔を見合わせました。

「その感覚、日本人にはすごくよく分かりますね」

日本には、八百万の神という考え方があります。山や川だけでなく、かまどや井戸、トイレなど、暮らしの中のさまざまな場所に神様が宿ると考えてきました。実際、「トイレの神様」という歌が大きな話題になったことを覚えている方も多いでしょう。

ただ、日本では、お風呂そのものに神様がいるというより、水自体や、それを湯へと変える火に神聖な力を見出すことが多いように思います。水には穢れを清める力があると考えられ、また、かまどの神に象徴されるように、火もまた神聖な力を持つものとして敬われてきました。ちなみに、温泉地では大国主命(おおくにぬしのみこと)や少彦名命(すくなひこなのみこと)など、医薬や温泉とのゆかりが深い神々が祀られている例もあります。

目には見えない存在を身近に感じ、その場を大切にする。八百万の神と森の精霊たち──この話は連載の第3回でたっぷり掘り下げますが、サウナとお風呂は、ふたつの国のアニミズムが湯気の向こうに顔をのぞかせる場所でもあるのです。

「整う」は、現代の湯治

「でも、日本のサウナとフィンランドのサウナって、同じものなの?」と思った方、鋭いです。実は入り方は、びっくりするほど真逆です。

日本で主流のドライサウナは80〜100度の高温で、湿度10%ほどとカラカラに乾燥していて、テレビがついていて、熱波師さんがタオルで蒸気を送ってくれる。12分計とにらめっこしながら「あと少し」と耐える、ちょっとしたエンターテインメントであり修行の世界です。一方フィンランドのサウナは60〜80度ほどとマイルド。ロウリュの蒸気でしっとりと湿っていて、テレビはなく、蒸気の量も自分の手で、自分のペースで。聞こえるのは石が蒸気を上げる音と、水の音だけ。

伝統的なスモークサウナに入ると、薄暗闇の中で、だんだん自分が「空(くう)」になっていくような感覚があります。考えごとが蒸気と一緒に立ちのぼって、あとには何も残らない。私はフィンランドでこの感覚を知ってから、サウナは「何かをする場所」ではなく「何もしなくていい場所」なのだと考えるようになりました。禅の世界に「只管打坐(しかんたざ)」──ただひたすらに坐る、という言葉がありますが、フィンランドのサウナで起きていることは、それにとても近い。実際、フィンランドの文化を「瞑想的な文化基盤を持つ静かな幸福」として論じた研究(尾崎真奈美「静かなる幸福:フィンランドの瞑想的文化基盤」2019)もあります。宗教のためでも修行のためでもなく、ただ静けさの中に座る。それが結果として、深い瞑想と同じ状態をつくり出しているというのです。

フィンランドでサウナが心と身体を整える時間であるように、日本にも古くから、水や湯によって心身を清め、癒やす文化がありました。

その原点のひとつに、「禊(みそぎ)」があります。神話では、黄泉の国(死の世界)から戻ったイザナギが、川の水で死の穢れを洗い流したことが禊の始まりとされています。神社で参拝前に手や口を清める手水にも、この禊の考え方が受け継がれています。水で身を清めることは、日本の文化の中で、穢れを祓い、生命力をよみがえらせることと深く結びついてきました。そして、湯によって心身を癒やす文化として育まれたのが「湯治」です。温泉地に何日も逗留し、心と身体をゆっくりと癒やし、回復をはかる知恵は、古くから日本各地で受け継がれてきました。

嫌なことがあったら「水に流す」と言うくらい、私たちは水と湯に、浄化と再生の力を見出してきたのです。

だから、いまの日本の「整う」ブームは、まったく新しいものではないのだと思います。あれは湯治であり、禊の現代版。サウナ室と水風呂と外気浴のサイクルの果てに訪れるあの静けさは、蒸気の中で「空」になるフィンランドの時間と、同じ場所にあります。入り方は真逆でも、ふたつの国は「湯と蒸気で自分を回復させる」という同じ答えに、それぞれの道からたどり着いていました。

「気持ちいいから」でいい

講座の中で、私がいちばん心に残っている話があります。

日本の禊は、真冬の川にも入ります。あんなに冷たい水に入っていけるのは、そこに祈りがあるからです。穢れを祓うため、願いを届けるため──自分を超えた何かに向かっているからこそ、身体は動く。考えてみれば、これは禊にかぎった話ではありません。家族のため、会社のため、誰かのため。そう思えたときにぐんと力が出るのは、日本で暮らす私たちの得意技のようなところがあります。

一方、フィンランドにも真冬の凍った湖へ入る「寒中水泳」の文化があります。氷に穴を開けて、ざぶんと入る。サウナとセットだと思われがちですが、寒中水泳だけを楽しむ人も多く、どうして入るのかと聞くと、返ってくる答えはたいていひとつだけ。

「気持ちいいから」。

祈りのためでも、健康のためでも、誰かのためでもない。ただ自分が気持ちよくなるから。理由は、それだけで足りている。はじめてこの答えを聞いたとき、私はずいぶん驚きました。そして、少しうらやましくもなりました。

フィンランドには「マイタイム」という言葉があります。誰かのためではなく、自分のために使う時間。それは怠けでもわがままでもなく、自分に余裕をつくることで、まわりの人にも優しくあれるための土台だと考えられています。何かを「する(Doing)」ことより、ただ「在る(Being)」ことを大切にする時間、と言ってもいいかもしれません。

誰かのためなら頑張れる私たちこそ、「自分が気持ちいいから」という理由を、ひとつ持ってみてもいいのではないでしょうか。その練習場所として、湯船とサウナほどふさわしい場所はありません。なにしろそこでは、肩書きも、スマホも、「〜しなければ」も、ぜんぶ脱衣所に置いてくることになっているのですから。

裸の付き合いは、国境を越える

精霊や信仰と結びついてきた湯とサウナは、時代とともに「わたし」と向き合う場所になりました。蒸気の中で肩書きを脱ぎ、ただの一人の人間に戻る時間。それを何百年も大切にしてきた国が、ユーラシア大陸の東の端と、北の端に、ひとつずつあった。私にはそのことが、なんだかとても心強く感じられるのです。

今日、お仕事の帰りに、近所の銭湯や温泉に寄ってみるのもいいでしょう。でも、それが難しければ、自分の家のお風呂で十分です。服と一緒に、今日一日背負っていた肩書きや役割もぜんぶ脱衣所に置いて、真っ裸の自分と向き合うつもりで、湯船に浸かってみる。湯気の向こうのその時間はきっと、8,000キロ近く離れたフィンランドの湖畔のサウナと、同じ場所につながっています。

最後に、講座でいつもそうしているように、問いをひとつ置いていきます。

今日の問い 最近、肩書きも役割もぜんぶ脱いで、「ただのわたし」に戻れたのは、いつでしたか? そのとき、何を感じていましたか?

今夜、湯船の中でひとり、ゆっくり考えてみるもよし。誰かとこんな話をしてみたくなったら、対話の場「エラマの森」でお待ちしています。

次回は、森林率7割どうしのふたつの国の「森との距離感」のお話。癒やしに行く場所としてのフィンランドの森と、畏れとともにある日本の山は、実はまったく違う顔をしています。どうぞお楽しみに。





「エラマの学校」の連載【和フィン折衷】は、石原侑美(フィンランド生涯教育研究家)と橘茉里(和文化エヴァンジェリスト)による講座をもとに記事化してお届けしています。二人のかけ合いを生で聴きたい方は、YouTubeで毎月配信中の「和フィン折衷生ラジオ」をぜひご覧ください。アーカイブからもご視聴いただけます。講座本編は、会員制コミュニティ「エラマの森」の住民限定でお届けしています。