Elämäプロジェクト

こんにちは。Kangasこと、ライフデザインコーチの和田直子です。
6月28日、私が仲間と運営する愛知県あま市の「ゴミを出さないレストラン」nico.chanで、「Re : Table」というイベントを開催しました。

かつて不用品として手放された食器たちを倉庫から掘り出し、nico.chanのシェフが料理を盛り付け、フルコースの食事を楽しむというイベントです。
使われる食器の一部は、お客様ご自身に選んでいただく体験もしていただきました。

「Re : Table」の詳細はこちら(定期的に開催しています)

「ゴミを出さないレストラン」nico.chan Re:table~手放された器から始まる、食卓の再生~ https://plantthewhy0830.peatix.com/

このイベントのアイディアは、私たち運営メンバーが家庭から出る不用品の回収拠点となっている倉庫を訪れ、仕分けしきれないほどに積み上げられたモノ(食器、台所用品、衣類、布団などあらゆる生活用品)を目にしたことがきっかけとなり生まれました。

イベントの内容に賛同してくださった倉庫側のご協力を得て、私たちは積み上げられた器たちの中からピンとくるものを掘り出してレストランへ持ち帰りました。

初めて開催した「Re : Table」では、初対面のお客様どうしが「次のお料理はどんなお皿で出てくるのか楽しみね」などと会話される姿も見られ、また私自身も「前は、どんな方が使っていたのだろう」と自然と想像していました。

そして、お一人のお客様は、ご自分でお料理の一品に選ばれていたお皿を購入されて、ご自宅に迎え入れる選択をされました。後日、SNSにその器に盛り付けられたお料理の写真が投稿されていて、「手放された器の価値をもう一度引き出し循環させる」という私たちのイベントへの想いが実った瞬間を目にすることができました。

その写真がこちら。ご本人に掲載のご快諾を頂きました!

私がフィンランドで体験した「循環」

そんな光景を目にしながら思い出した、私自身のフィンランドでの体験があります。

2023年のエラマプロジェクトのフィンランドツアーに参加した時のことです。
サイマー湖水地方のプンカハリュという小さな街のセカンドハンドショップへ入りました。フィンランドのセカンドハンドショップを、この時初めて知った私は、あることにとても感動したことを覚えています。

それは、使い古されたような食器が、売り場の真ん中にたくさん並んでいたことです。そんなこと?と思われるかもしれません。でも、考えてみてください。日本の「リサイクルショップ」と呼ばれるようなお店では、食器に関しては未使用のもの、しかも箱入りのものなど明らかに未使用とわかるものしか取り扱っていない場合が多くありませんか?

しかしフィンランドでは、その後の旅で入ったどのセカンドハンドショップでも、まるで少し前までは、どこかのお宅のキッチンや食卓に並んでいたかのような食器が売られているのです。逆に未使用のものを見かけたことなど、一度もないかもしれません。

初めて訪れたプンカハリュのセカンドハンドショップで目にした食器たちは「次はどんなお家に行けるのかしら?」と、あるものはワクワクしながら、あるものはどーんと落ち着いて、お迎えを待っているかのように見えました。


そんな中で私の心が惹かれたのは、こちらのカップ&ソーサーです。

フィンランドの代表的な陶器ブランドであるアラビアのもので、美しいブルーのラインとアンティークな雰囲気に惹かれ、旅の思い出として2脚購入することを決めました。
それをレジに持っていくと、店主さんは割れないように頑丈に包みながらこんなことを教えてくれました。

「これは、1970年代のとっても良いものよ」

その言葉を聞いた私は、一瞬でいろんなことを想像しました。
「前の持ち主さんはどんな人だったんだろう?」
「どんな雰囲気のお家で使われてたのだろう?」

「少し年老いたきれいなご婦人と旦那様が、このカップでコーヒーを飲みながらお喋りしたり、読書なんかされていたかも…」
などなど。

私は自分の想像力がどんどん膨らむのを感じながら、大事に大事に受け取ったことを覚えています。

また、同じ街にあるレストランに入ったことも思い出しました。

地産地消の食材でお料理を提供し、地元の人々に愛されているというそのレストランでは、私たちが訪れたときにも地域の皆さんの集まりで使われていて、とても賑わっていました。

そのレストランのお料理もワインもとっても美味しくて、メインのフィンランド名物のムイックのお味は今でも忘れられません(ムイックは湖などに生息する淡水魚で、バターや油でカリッと揚げたお料理が最高!)。

その感動と同じくらい私を感動させたことが、使われている食器すべてが、セカンドハンドのものだったということ!!

これは私の想像なのですが、「もしこれらすべての食器がこの地域の家庭で使われていたものだったとしたら、なんて素敵な循環なのだろう!」「もしそうだとしたら、このレストランは地元の皆さんの誇りだろうなあ!」なんて思いを巡らしていました。

私が初めてフィンランドを旅したときの思い出の一部には、出会った器とそれを手にしていたであろう人々に思いを馳せる時間がありました。

時を経て、今年の6月に開催したRe : Tableでは、フィンランドで感じた美しく豊かな循環を、今私が暮らす身近な場所で作り出し、あの時の感動を再び味わうことができました。


循環が生み出す豊かさの正体

こうして振り返ってみると、私がRe:Tableやフィンランドで感じていた豊かさを生み出したのは私自身の「想像力」だったのかもしれません。


モノが循環していくと、そこには物語が生まれます。人がその循環の中に入ったり、触れたりすることで、その物語を想像する力が生まれる。そして、その想像力が、豊かな感情を生み出すのだと思います。


使い込まれた質感 や、たとえ傷や欠けがあったとしても、本来なら劣化とされてしまうものが、その器の物語を想像するだけで唯一無二の味わいに変わる。それは私たち人間の生き様と重なるものがあるからこそ、物語を持つ器やモノに感情が湧いてくるのでしょうね。

そして面白いのは、この想像力は器だけに向かっているのではなく、器の向こう側にいる人へ向かっていることです。
会ったこともない、そしてこれからも出会うことはないであろう誰かを想像している時の感覚は、私にとっては、人の人生をテーマにした上質な映画や舞台を観たあとの感動や余韻とどこか似ているのです。

また、一つの器の「循環」の一部になるということは、いつか自分自身もまた誰かが想像する物語の登場人物になるということかもしれません。

そして、このような見知らぬ誰かから受け継いだものだけでなく、もっと身近なところでは、例えば、祖父母や親の代から受け継いだ着物、時計やアクセサリー、時には食器や家具などを通して、家族の物語を次の世代にまで紡いでいく「循環」もあります。

そう考えると、「循環」とは、単にモノが移動していくことを指すのではなく、想像力を通して、人と人、過去と未来がつながっていくことなのだと思います。

実は、私にも手放すことのできない大切なお皿があります。
それは、幼い頃の私、そして私の幼かった子供たちも使っていた、ファミリア(老舗のベビー・子ども服や用品のブランド)の平皿です。母が大事にしまっておいてくれたそのお皿を、私もなんとなく使っていた記憶がおぼろげに残っています。
昔住んでいた家の食卓で、そのお皿で出してもらったパンを食べながら、台所に立つ母を見ていた記憶。何でもないけれど、思い出すと幸せな記憶です。
そして、いつかまたそのお皿を使ってくれる小さな家族を想像しながら、私も大切にしまっているのです。

「循環」が生み出す想像力やその中に宿る記憶は、物語を紡ぎ、私に豊かな感情をもたらしてくれることに気付かされました。

「つながっている」という感覚がわたしたちを豊かにする 

だからといって、容易に手に入る新品がいけないという訳ではありません。それを必要とする場面は、もちろんあります。

でも、その手軽さの中でも、モノの向こうにある人の手や時間、そして今、自分が循環のスタートラインに立っていることを、少しだけでも想像してみてはどうでしょう?

モノを迎え入れようとしている時、手放そうとしている時。あなたはどんな感情を抱いていたいですか?そのモノと、どんな物語を紡ぎたいですか?

そうやって少し立ち止まってみることで、自分にとって心地よく、納得のいく選び方や手放し方が見えてきます。「購入する」「処分する」という意識から、「循環させる」という意識へ。そのささやかな変化が、循環の中にいる人々と時間を超えてつながっている感覚を連れてきてくれるのです。

Re : Table で、お客様が選んだ器を大切に持ち帰る姿を見送りながら、そしてフィンランドで、店主さんに包んでもらったカップを受け取りながら、私はきっと同じものを感じていた気がします。

一つの器から、その向こうにいる誰かを想像する。過去にその器を使っていた人と、これからその器を使うかもしれない人と、想像力を通してゆるやかにつながる。そうしたつながりの一つひとつが積み重なって、モノは循環していくのだと思います。

あなたが次に何かを手に取るとき、あるいは何かを手放すとき。その先に、どんな人や時間があったのか、少しだけ想像してみませんか。

その小さな想像力や時を超えた誰かとのつながりの感覚が、暮らしを、そしてあなた自身の物語を、きっと少し豊かにしてくれるはずです。

そして、いつかあなたが手放したモノもまた、誰かの想像力によって、新しい物語とともに受け継がれていくのかもしれません。 

Text by Kangas(和田直子)(しなやかで強く優しい社会を織りなすライフコーチ)

こんにちは。エラマプロジェクトの和文化担当、橘茉里です。

突然ですが、「全力を尽くす」について、あなたはどう思いますか?

私はこれまで、「全力を尽くすこと」を自分の大切な信念にしてきました。

できる限りの力を尽くすこと。
自分を出し惜しみしないこと。

それは相手への礼儀であり、自分らしい生き方だと信じてきたのです。

けれど最近になって、私はこんな風に感じるようになりました。

全力を尽くすことは、本当に私にとって豊かな生き方なんだろうか。全力を尽くすことだけが、相手にとって誠実な対応なのだろうか、と。

今回は、ライフステージに合わせて自分の力の出し方を変えていくことについて考えながら、自分らしい豊かな人生に迫ってみたいと思います。

「全力を尽くすこと」が私の正義だった

私は私立高校で国語教師として、日々教壇に立ち、生徒の前で授業をしています。

私は、授業というものは、単に知識を伝える場だとは思っていません。言うなれば、「舞台」です。

1コマ50分という限られた時間の中で、生徒の心を動かし、新しい視点を届け、学ぶことの面白さを感じてもらう。そのために、私は教壇という舞台に立っていると思っています。

舞台役者がその一回の公演に力を注ぐように、私も、どのクラスにもその日の自分が出せる最高の授業を届ける。それが私の教師としてのプライドであり、生徒への誠実さだと考えてきました。

全力を尽くしたいという気持ちの中には、自分に妥協したくないという思いや、生徒から「この先生の授業は面白い」と思ってもらいたいという虚栄心も含まれてはいます。

でも一番の理由は、私にとって「全力を尽くすこと」は相手への礼儀だということ。

私は昔から、武士のような生き方に心惹かれるところがありました。

「信念のために自分の命をかける」「潔く生きる」、そんな烈しくも桜花のように美しい生き様に憧れの気持ちがあります。

自分の命を誰のために、何のために費やすのか。

そんなことをよく考えます。こういう私ですから、教師という務めにおいて全力を尽くすことは、「武士道」ならぬ、私なりの「教師道」と言えるかもしれません。

マイルール「全力を尽くす」の限界

このように、全力を尽くすことを正義としてきた私ですが、今年、そのマイルールが維持できなくなってきました。

教員は一日中授業をしていると思われるかもしれませんが、実は高校の教員の場合は、授業が入っていない空き時間があることが一般的です。

空き時間に教材の準備をしたり、事務作業をしたりしながら、前の授業の疲れを回復させつつ次のクラスに向かいます。

「空き時間=完全な休憩」ではありませんが、教壇を離れ、職員室の自分のデスクで一息つく時間は、授業のパフォーマンスを保つためにとても大切です。

ところが今年は週に1回、1限から6限まで一日中全ての授業が入っている曜日があります。

それは例えるならば、50分の舞台公演を休憩なく6回連続で行うようなものです。呼吸を整える時間も、心を整える時間もほとんどありません。

午前中の4コマが終わる頃にはだいぶヘトヘト。その状態で慌てて昼食を取り、午後の2コマの授業に向かうことは、想像以上に心身に負担がかかります。一日の終わりには、自分のエネルギーをすべて使い切ってしまったような感覚になります。

数年前までなら、それでもなんとか頑張れていたはずです。

でも、40代に突入し、1限から6限の授業すべてを全力で頑張ることが、体力的にどうしても難しくなってきました。

また、私は学校の仕事以外にも、和文化の活動や、アニマルレイキという動物のヒーリングの活動など、様々な生きがいを持っています。

どれも真剣に取り組みたいからこそ、それぞれに対して120%の力で全力投球することを心がけてきました。

けれど一日は24時間しかありませんし、その中で自分が活動できる時間には限りがあります。

今はその限界が、30代の頃よりも狭まってきたのを感じます。睡眠時間を削って無茶をすれば、反動で体調を崩すようになりました。

「全力で尽くすこと」を良しとする価値観は、今でも確かに私の中にあります。しかし最近は「『常に全力』というやり方を変えていこう」と思うようになりました。

「すべてに全力投球」はどう頑張っても、体力的にもう私には無理なのだと、しみじみ実感したのです。

漫画の「師匠」が教えてくれたこと

子どもの頃、バトル漫画を読んでいて不思議に思うことがありました。

主人公はいつも全力で戦います。傷ついても立ち上がり、限界を超えながら強敵に立ち向かう。その姿に胸を熱くしたものです。

一方で、主人公を導く老齢の師匠キャラは、圧倒的な実力を持っているにもかかわらず、最初から全力では戦いません。

ここぞという場面まで静かに見守り、本当に必要なときだけ力を発揮します。

そんなキャラクターを見るたびに、子どもの私は「そんなに強いのなら、最初から全力で戦えばいいのに」と思っていました。

けれど40代になった今、あの頃とは違う見方をするようになりました。

漫画のストーリーとして、主人公の成長を描くために、師匠キャラは出張らないようにするという制作上の都合はあるでしょう。

けれど、そういう制作者の事情を置いておいて、師匠キャラの人生に着目してみると、こんなことに気づくのです。

師匠もまた、若い頃は主人公と同じように、がむしゃらに全力で走ってきたのではないかと。

全力で挑み、全力で失敗し、成長してきた。

若い時はそのやり方で良かった。しかし、長い人生の中では、自身の体力的な衰えと向き合わざるを得なかったはずです。

師匠キャラは自身の老いと向き合いながら、全力で戦うというやり方から、ここぞという時に力を発揮するやり方に変えていったのではないでしょうか。

同じことは、私が好きな日本の伝統芸能やバレエなどの世界にも言えると思います。

例えばダンサーは、若い頃の方が身体能力に恵まれています。けれど、ベテランのダンサーに比べると、心を打つような表現力は未熟な面もあるでしょう。

一方、年齢を重ねるにつれて身体能力は衰えていきますが、その代わり、人生経験を積んだ分、表現者としての厚みは増していきます。

身体能力と表現力は、同じように伸び続けるわけではないのです。

多くの表現者は、自分の体の変化を受け入れ、限界を見極めながら、その時々の自分だからこそできる最善の表現を探し続けていることと思います。

外からは順風満帆な円熟した姿だけが見えていても、きっとその裏では、自分の限界と向き合う中で、たくさんの葛藤や自分自身との長い対話があったでしょう。

そしてこの葛藤は、特別な一部の人たちだけでなく、誰にでも訪れるものだと思います。まさに私も今、「全力を尽くす」から次のやり方へと移行を迫られています。

人は年齢を重ねる中で、少しずつ生き方を変えていく。

それは弱くなったからでも、妥協したからでもなく、その時々の自分と誠実に向き合った結果なのです。

「後悔しない人生」とは何か

私は「後悔」という言葉が好きではありません。もし明日、自分の人生が終わるとしても「後悔はない」と思える生き方をしたいと思っています。

だからこそ、私は後悔しないために、「全力を尽くす」ことにこだわってきたのかもしれません。

けれど近頃、その「後悔しない人生」の意味が、少しずつ変わり始めています。

全力を尽くすことだけが、後悔しない人生なのだろうか。そんな問いが、自分の中に生まれてきたのです。

私にとって、本当に豊かな時間とは何だろう。

そう考えたとき、真っ先に思い浮かぶのは、自宅で愛猫たちと静かに過ごす時間です。

特別なものは必要ない。何かに追われることもなく、自分の好きなことをして、猫たちと心穏やかに一日を過ごす。そんな何気ない時間が、今の私には何よりも豊かに感じられます。

だからこれからは、「全力を尽くしたから後悔はない」という人生ではなく、「豊かな時間を送れたから後悔はない」と思える人生を目指していきたいと思うのです。

今はまだ、気づけば120%の力を出そうとして、無理をしてしまうこともあります。でも私は自分の望む人生に向けて、今変わろうとしているところです。

あなたも、今の自分に合わせて「後悔しない人生」とは何かを、ぜひアップデートしてみてください。数年前とは違う、新しい自分が現れるかもしれませんよ。

Text by 橘茉里(和えらま共同代表/和の文化を五感で楽しむ講座主宰/国語教師/香司)

こんにちは!エラマライターのひらみんです。

ここ数年で、スマホがあれば仕事ができるようになり、最近特に「仕事」と「休み」の境界線が曖昧になってきていると思いませんか?

休日に友達と会っていても、ビジネスチャットの通知がきたら、ついつい見てしまう。友達に会うために移動しているのに、「梅田までの30分の電車移動でチャットを返せる(送信は月曜9時にセットしよう)」などと考えて、ビジネスチャットを開いているのは私です。

今回は、そんな超絶ワーカホリックな私たちの頭を、仕事モードから解放して、自分の時間として取り戻す「心理的ディタッチメント」についてお届けします。この動きは、日本だけでなく、世界的な潮流なんです。

休日が「働くための充電」になってない?

コロナ前ぐらいまでは、職場を出たら会社のパソコンを使えないので、強制的に仕事ができない環境に身を置いていました。金曜の定時を過ぎたら月曜日まで返信が返ってこないことが当たり前の社会でしたよね。

ところが、最近では、スマホやビジネスチャットの普及で、出社しなくても自宅で仕事ができる環境が整い、いつでもどこでも仕事ができるようになりました。それに伴って、かつて存在した「出社/退社」という物理的な境界線がなくなってしまいました。

土曜日の昼に友達とお茶をしていても、スマホの通知が届いたら、返してしまいませんか。(絶対に週明けでもいいのに!)

こうやって、仕事が自分のプライベートな時間に侵食してくるのを感じます。

たとえば、連休の最後など、「明日から仕事だから、今日はゆっくり過ごそう」と考えたことはありませんか?

休むことすら、働くための充電という過ごし方になっているのだとしたら、休日でも、私たちの心と頭が仕事に支配されていることにならないでしょうか。

この問い、働くために休むことが当たり前だと思っていた自分に気付かされ、とてもドキッとしました。

世界が注目する「心理的ディタッチメント」って?

ここで改めて、世界で注目されている「心理的ディタッチメント」を紹介します。仕事のために休むのではなくて、仕事から自分を完全に切り離して、自分の時間を守り抜くことを本質としています。

海外の記事では、燃え尽きを防いで自分を取り戻すには、ただの「休み」ではなく、仕事から頭を切り離すことが不可欠であり、完全にオフラインになる時間と空間を意図的に作ることの重要性を説明しています。

さらに、心理学の研究では、仕事熱心でまじめな人ほど、この頭の切り替えが苦手になりやすいというデータがあるそうです。おもしろい、、、けど少し切ない事実ですね。

私たちがついつい仕事のチャットを返さなきゃと考えてしまうのは、「まじめだからゆえ」と言えそうです。あなたは悪くない。日々まじめに誠実に仕事に向き合って生きている証拠です。

私たちは、チャットをいったん横に置いて、今、目の前のケーキを味わうことにフォーカスすることを自分に許していいんだと思います。

国がルールを作っている今、私たちができることはなにか

先日、「日本の厚生労働省で『つながらない権利』について議論されている」というニュースがありました。勤務時間外の連絡に対して、「今は返信しなくてもいい」という国の公式ルールやガイドライン作りが進められているようです。

国がわざわざルールを整備するほど、今の時代は、長い歴史の中でも過去最高に「心が休まらない環境に身を置いている」ということなのでしょう。

私の友達の会社では、会社のPCが動いたら、動いた時間が記録され、人事に届き、上長から、なぜ休日にPCを触ったのか聞かれるようになったそうです。「絶対に休日に仕事をさせない」という強い意志を感じる企業もありますが、国や会社のルールが完成するのを待つ必要はなくて、今から自分ひとりでもできることがありそうです。例えば

・業務時間外はチャットの通知をオフにする

・「つながらない時間」をスケジュールに入れる

それでも気になってしまう仕事中毒の人は、

・人に会っているときはスマホをかばんに押し込む!(でも電車移動中は許す)

など、自分なりのアメとムチでルールを作るのはどうでしょうか。

電車もスマホで乗れる時代に、スマホを家に置いてくるような完全なデジタルデトックスは難しいと思うので、どんな方法が自分に合うか検証するぐらいの遊び心で気軽にトライしたいものです。

自分のまじめさを愛して、コーヒーを飲もう

今回は、休みの日にまで仕事とつながるのをやめようよ、という話をしてきたんですが、いきなり完璧にやろうと思わなくてもいいと思います。

休日に、「あの件、どうなってたっけ…」と思うことがあると思います。そんな時に、「仕事のために休日を消費しようとしているかも」と一歩引いて考えられる隙間を作ってみませんか。同時に自分のまじめさを思い出して、愛でてください。

それから、「でも、私は今からコーヒー飲んじゃうもんね〜〜〜ふふふ〜♪」って、自分の意思で自分の時間を選ぶまでをセットで。

自分に優しく、心地よい生き方や働き方の実践方法って、こういう小さいことだと思いませんか。

Text by ひらみん(ふつうの会社員)

こんにちは。エラマプロジェクト代表、フィンランド生涯教育研究家の石原侑美です。

みなさんにとって夏至はどんなイメージでしょうか。

フィンランドの人々にとっては太陽の光が1日浴びられることを祝う日で、外でご飯を食べたりお酒を飲んだり徹夜する方も多いです。他には夜中に日の光を浴びながら湖を泳ぐ人もいます。

日本に住んでいると夏至を特別意識することはないかもしれませんが、今回わたしは夏至についてフィンランドの文化とは違った感覚で捉えているお話をできればと思います。

物事は移り変わる

みなさんご存じだとは思いますが、わたしたちが住んでいる北半球において夏至は1年のうちで日の出から日の入りまでの時間が最も長くなる日です。

太陽の光を長く見られるというのはうれしさやポジティブな感情の連想になることが多いかもしれませんが、わたしの感覚としては「陽」が極まっているときこそ次は「陰」になっていく、明るさがずっと続くわけではないと感じるのが夏至なんです。

わたしはピークのときにすごく危機感を持ちます。順調にいっているときこそ怖くなるというか。

要は何事も巡って移り変わっていく。ポジティブな状況がずっと続くことはないだろうという想定がとても重要だなと夏至がくるたびにいつも感じます。

陽が極まっているときこそ、物事は「ある」という前提ではなく基本的に変わるとかなくなるかもしれないといった前提に立っておかないと、本当に困難が降り掛かってきたときに心構えができていなくてものすごくストレスを受けることになると思うんですよね。

例えば、転職や職場の上司が変わったことで雰囲気も変わり、ストレスを感じるようになったといったことも身近に起こりうる大きな変化ですよね。

だから夏至という明るさのピークのときこそ転回点だと強く意識しようという気持ちになるんです。

物事が移り変わることについて、周りだけでなく自分自身も変わるという前提に立つことを、今年の2月から3月にかけて全5回で開催した「エラマ・ウェルビーイング『ゼロ』を学ぶコース」の第3回目を担当してくださったモニカ・ルーッコネンさん(フィンランド在住の作家)の回で学びました。

フィンランドの人から学ぶ仏教と未来科学の話

モニカさんは仏教(禅)の考え方をフィンランドのワークカルチャーに取り入れていきたい思いがあり、今はそういった研究をされています。

そして「『ゼロ』を学ぶコース」第3回目のテーマが「仏教とフィンランドの余白を持つ文化について」でした。

通訳はわたしが担当したのですが、海外の人の視点から英語で噛み砕いた解釈を聴くので、参加された方々にとっても分かりやすくなっていたと思います。

その講座で触れた言葉に、「色即是空・空即是色」があります。

形あるものは空(くう)であるからこそ形をなすという考え方です。やはり「ある」が前提ではなく「ない」が前提の気持ちでいると(良いものはあり続けて欲しいというのが人間の性なのでその感覚は見つめつつ)、何かが変化したときにストレス耐性も少し上がるのかもしれない、いわばレジリエンスが強くなるのかもと思ったんです。

こういった話をすごく意識するようになったのも、AIの台頭や社会情勢もものすごく変わって物価がかなり上がり続けていることなども大きいです。

立場によってそれらがメリットになる人、デメリットになる人それぞれいると思います。でも、立場の違い以外に、この社会の変化が自分にとって良いと解釈するか、すごく被害を受けると解釈するかによっても、かなり変わってくるのかなと思っています。

なぜなら、今あるものが永遠に続くわけではないからです。例えば、年功序列も当たり前ではなくなりましたし、なくなると言われている職業もあります。

人も物事も、絶えず移り変わっていく。 夏至の「転回」は、大きな循環のなかの、ひとつの呼吸のようなものだとわたしは捉えています。

そしてつい最近も、フィンランドで教育・保育委員会の委員長を務める教育分野のエキスパート、トゥオヴィ・ロンカイネンさんから「フィンランド教育実践ラボ」のなかで「未来科学」という学問のお話があり、移り変わりに対する視座などについて興味深く学ぶことができました。

そもそもフィンランドの国会には、予算委員会や安全保障委員会と並んで、「未来委員会」という常設の委員会があります。

この委員会ができたきっかけは、1990年代の経済不況でした。「未来を想像する力」は贅沢ではなく生き残るために必要だったのです。

「未来科学」の核心は、未来はひとつではなくいくつもあり、「予測する」のではなく「想像する力を社会で育てる」点です。

トゥオヴィさんは

・希望とは、物事は変わりうると想像できる力

・未来思考は「できること」の幅を広げてくれる

・小さな一歩が、進む方向をつくる

・未来は、みんなで一緒に想像していくもの

といった内容をお話してくださいました。

物の見方によって未来が変わっていくお話を聞いて、いかに心の持ちようが大事かを再認識できる時間でした。

現状維持は人間の機能として当たり前

人には現状維持バイアスがあります。それに年齢を重ねると変化に対して恐怖心が大きくなったり、人生経験からある程度の予測もできて行動に移せなかったりすることは誰にでもあると思います。

また、守るものがあると思うように動けなかったり、変化を望まないことも多いかもしれません。

わたし自身、2026年はフィンランドには行かないと決断したのですが、今までなかったことなのでそれに対する恐怖心がありました。また、この半年は体調の大きな変化を受け止めるのにしんどさから逃れることはできませんでした。

だからこそあらためて今に固執しすぎず、変化に対応できる心でいることを意識しようと思ったんです。

ひとりだと気づきにくいこともサードプレイスの活用で自分を認められる

わたしの場合は、エラマプロジェクトや会員制コミュニティ「エラマの森」があることで、自分を振り返るタイミングが定期的にあります。

その機会のおかげで自分の変化にも気づきやすい環境にいるかもしれません。

自分と向き合う方法はたくさんあると思いますが、「エラマの森」では月に1回ダイアローグサウナ(オンライン)というものがあります。

オンラインで住民さんと雑談したり、普段のモヤモヤした感情を話すイベントです。わたしがホストを務め、1ヶ月をゆったり振り返ったり、「エラマモードにする」時間を提供しています。

数ヶ月前からは、希望者に文字とインフォグラフィックでご自身が話された内容をまとめたものをお渡ししているんです。

可視化されたものをご覧になって、「この1ヶ月、自分はよくがんばったと思えた」と報告してくださった方もいらっしゃいました。その方はご褒美にシャンパンを召し上がったそうです!

他には、「意外と自分はこの変化を受け止めていたんだと気づけた」とおっしゃっていた方もおられました。

アウトプットすること、そしてそれを可視化することで、できたことやできなかったこと、自分の変化についてより気づきやすくなっているようです。

「エラマの森」についてはこちらをご覧ください。

「最近なんかモヤモヤしているな」と感じている方は何かしらの変化の兆しかもしれません。それを実際に書き出してみると俯瞰につながるはずです。

あるいは、職場・学校・家庭とは違う別の場所を持っている方は、そこで誰かと話すことで、自分自身を客観的に見つめられたり変化へのハードルが低くなったりするのではないかと思います。

日々生活していると立ち止まったり自分のための時間をとったりするのが難しいですよね。

この記事に出合ってくださったのをきっかけに、ぜひご自身の半年を振り返る時間をとってみてください!

そして、これから始まる半年についてぜひ「未来思考」で想像してみてくださいね。

By 石原侑美(エラマプロジェクト代表)
Interview & Text by nakagawa momo(フリーライター)

こんにちは、pieni(ピエニ)です。

突然ですが、最近「わたしによる、わたしのための、わたしをしなやかで美しくするプロジェクト」を始めました。

名前が長い…笑。

でも、このやたら長い名前が、今のわたしにはとてもしっくりきています。

このプロジェクトは、短期間で何かを達成するためのものではありません。
たぶん死ぬまで続くような、ゆっくりとした、自分との付き合い直しのプロジェクトなのです。

始めたきっかけは、少し不純(?)でした…。

好きなアニメのキャラクターを見ながら、「この推しは、どんな人間を愛してくれるだろう」と考え始めたのです。

そして、その理想像に、少しでも近づけたらいいな、なんて本気で思い始めました…。
わたしにとってアニメは、「考えすぎてオーバーヒートした脳を、適度に止めてくれるもの」であると同時に、「なにもかも嫌になった時の、心の再起動システム」でもあるのだと思います。

現実がしんどい時ほど、物語の中のキャラクターたちは、不思議とセリフや、動きで、次の一歩を見せてくれるのです。

さて、そんな動機から始まったこのプロジェクトですが、続けていくうちに、だんだん目的が変化してきました。

というのも、そもそも当時のわたしは、「何もやる気が起きない」という状態に、かなり近づいていたからです。

仕事も、やりたかったことも、好きなことも、なんだか全部ぼんやりしてしまって、未来への不安ばかりが大きくなる。

「わたし、このままで大丈夫なのかな…」

そんな気持ちが、ずっと続いていました。

「もっとできるはず」が苦しかった 

壊れそうなほどの不安な気持ちを抱えてしまったわたしは、まず、「今の自分はどうなっているのか」を観察してみることにしました。

カウンセラーさんに相談したり、友人やAIと会話してみたり、ノートに書き出してみたり。

すると、だんだん見えてきたことがありました。

今のわたしは、意識もパワーも、その90%くらいを「子育て」に使っている。

そして、残りの10%くらいで、仕事や人付き合いや、そのほかいろいろなことをやっている。

「……これでは、やれることが少なくなるわ…」と、思いました。
同時に「それぐらい注ぐ必要や価値があると思っている」事にも気が付きました。

なので、知らず知らずのうちに、わたしはものすごく厳選して生きていたようです。

仕事も。
人付き合いも。
使うエネルギーや方向も。

それなのに、ずっと、「もっとできるはず」「もっとやらなきゃ」と思っていました。

だって、世の中には、子育てをしながら海外へ行き、仕事をし、活動している人たちがいます。
そうでなくても、自分の周りにはフルタイムで勤めたり、フリーランスで仕事に取り組みながら、子育てを両立している人もたくさんいるから…。

また、私の中には、フィンランドへ行きたい気持ちもある。
学びたいこともある。
好きなものを手に入れたい気持ちもある。

でも現実は、今は家族との相談も必要で、今すぐに自由に動けるわけではない。
その結果「好き」に触れると、逆につらくなる瞬間もあります。

「でも、その生き方や、力を入れる配分って自分で決めてるんでしょ?」という心の声も聞こえてきます。

その通りだと思います。

この事実を認めた時、なぜか涙が止まりませんでした。

子育てをしながら働き、活動し、夢を叶えている人はたくさんいる。
いろんなやりくりをして、葛藤しつつも取り組んでいるのだと思う。

でも、どう考えても今のわたしには、それができそうにない。

頑張ろうとも思えない。

それでも生きていける環境があることは、本当にありがたい。

でもその一方で、「両立を選べない自分」「キャパが少ない自分」が、情けなくてたまりませんでした。

両立しながら生きる姿を、どこかで理想として見ていたのかもしれません。

けれど、できないわたしがいるのだと知り、久しぶりに、深夜にひとりで泣きました。
しかし今思うと、この出来事は、わたしにとってとても大切な気づきでした。

この日を境に、わたしの考え方は変容し始めたんです。

「もっと頑張る」ではなく、「もっと自分を知る」 ことから

変にまじめで、頑固で、不器用で、キャパが少ないわたしだからこそ「今、自分の矢印がどこを向いているのか」を知っておく必要がある。

そして、今後その「力を注ぐ向きや割合」が変化した時に備えておきたい。
そう思うようになりました。

わたしはたぶん、何かに振り切りやすい。

だからこそ、白黒思考や、極端になりやすい癖、自分を追い込みやすい思考の癖を、少しずつ紐解いたり、調えたりしておきたい。
自分の扱い方を知るための心のメンテナンスを実行中です。

また同時に、身体のメンテナンスも始めました。

きっかけは、イベント出店の翌日、腰が痛くて動けなくなったことでした。
これは、イベント出店を続けたいわたしにとって、かなりの死活問題。

昔から運動が苦手で、姿勢も悪く、身体もゆがんでいる。
改善しようとストレッチをしようとしても、続かなかった経験がざらにあります。

なので今は、理学療法士の友人に、マッサージやストレッチ、ゆるい筋トレを教えてもらいながら、身体を整えています。

でも、これが本当に疲れる。ゆるい筋トレなのに、ヘロヘロになる。
立ち姿を写真にとってもらうと、猫背で巻肩で、下腹が出ている…。
正直…かっこ悪いし、許しがたい。
「こんな状態だったのかー、自分の目には違うものが映っていたよ…。 現実を知ると恥ずかしいー」
そう思いつつも、これが今のわたしなのだと、受け入れました。

最近は、筋トレをしながら、「姿勢の良い美しい未来のわたし(50代後半)」を妄想しながら取り組んでいます。

こんなふうに書くと、

「前向きですね!」「頑張ってますね!」

と思われるかもしれません。

でも実際は、そんなキラキラしたものではありません。

何もしたくない。
働きたくない。
このままでは不安すぎる。

そんな、ぐるぐるした気持ちや、恐れに飲み込まれそうだったところからのスタート。

だからこれは、「理想の自分になるため」というより、「今の自分を理解して、なんとか生き延びていくため」のプロジェクトなのです。

変わっていくもの、変わらないもの


早速なのですが、この取り組みを始めて、自分でも驚いたことがありました。

今から7年前。娘が保育園の頃、わたしはフリーランスで仕事を始めたところだったので「いかに自分の時間を優先するか」を考えて生きていたんです。

しかしその後、不登園や付き添い登校を経験していく中で、「娘と向き合って生きたい」と思えるようになっていきました。

当然のことのようですが、自分を優先したい気持ちの強いわたしにとっては、大きな変化でした。

今は、この気持ちを最大限優先しているので、やらない、できないと決めていることもあります。
なので、断ることや、ストップすることも増えました。
正直、もう声をかけてもらえないのではないかと不安になることもあります…。

けれど、自分の気持ちの矢印の方向と、割合を大切に扱ってみています。

これから、世の中も、家族も、自分自身も、たくさん変化していくと思います。
今描いている未来も、きっと変わる。

やりたいと思っていたことを、結局やらないかもしれないし、全然違うことをしているかもしれません。

でも、
心と体を整えること。
自分の取り扱い方を知っておくこと。

それは、きっと無駄にはならないと思います。

そして「わたしは、しなやかに、凪ぎながら生きていきたい」
その未来だけは、今の時点で、描いておきたいと思っています。

「あなた」を「あなた」らしくさせる、“やさしい戦略”

この記事を読んでくださっている方の中には、
「自分の気持ちの“ざらつき”に敏感で、何かがスッキリしないと動き出しにくい」
そんな感覚を持っている方も、多いのではないでしょうか。

あるいは、
「自分の気持ちがよく分からないまま進んで、痛い目に遭ったことがある」
「だから、勢いだけで動くのが怖い」
そんな経験を抱えている方もいるかもしれません。

今の世の中は、立ち止まることや、余白を持つことが難しい空気があります。

どんどん動くこと。
すぐ決めること。

そんなふうに求められる場面が多いのかもしれません。

でも、ときには、

考えてみたり。
誰かに打ち明けてみたり。
書いてみたり。
発散してみたり。
ぼーっとしてみたり。

そういう時間を持つことは「自分を生きるための戦略」のひとつなのだと思います。

そしてその戦略は、誰かを真似するのではなく、自分なりにカスタマイズしていっていい。そんな「自分だけのプロジェクト」として、楽しんでみてもいいのではないでしょうか。

わたしも、自分メイドのやたら長い名前のプロジェクトをひっさげながら、葛藤したり、泣いたり、怒ったり。
そんな自分も許容しつつ、自分を理解し、納得して、調整する。

そして、ときには笑って、推し活のような“ときめく遊び心”も取り入れながら、 この人生を楽しんでみようと思います。

Text by  pieni(ピエニ)(丹波フィンランド大使) 

こんにちは、ライターのひらふくです。さて、突然ですが「SISU」という言葉をご存じでしょうか?

”シス”と正しく読めた方はさすがです。SISUとは、フィンランド語で忍耐や粘り強さ、困難に立ち向かう強い意志のことを意味します。大国ロシアから独立を勝ちとったフィンランドならではの精神性で、この不安定な時代に必要な力として海外でも注目を集めています。

ただ、正直に告白してしまうと私はSISUという言葉が好きではありませんでした。SISUが悪いわけではなく、情けないのですがSISUにコンプレックスを感じていたからです。

私はずっと何事も長続きしない性格で、そんな自分がきらいでした。
例えば英語学習です。英語は必要だとわかっているのに、だんだん学習アプリを開くのがおっくうになります。日記も1週間だけ書いてあとは白紙ばかり。フリーランスになるか迷ったときも、「会社員を続けられないのは自分の飽き性が悪いんだ」と自分を責めて眠れない時期がありました。

だからこそ、SISUが意味する「困難に耐え抜いて克服する力」なんてまぶしすぎて。私にはできないからこそSISUを避けていました。
この記事は、そんなSISUコンプレックスの私が初めてSISUと向き合ってみた体験談です。SISUに初めて出会う方、物事が長続きしない方、どんな方もどうぞご一緒に。

私のSISUを導いた一言

エラマプロジェクトではSISUに関するいろいろな記事を出しています。

フィンランド魂「SISU」を理解して取り入れようー「フィンランドの幸せメソッドSISU」を読んで
https://note.com/elamajp/n/n0be0c66659a5

ハードモードも悪くない? 3つのわらじを履く私が語る、SISUで乗り越える人生の壁
https://note.com/elamajp/n/n230edd6f1b28

ライターのみんながSISUを読み解いて、自分なりに実現されているのを読むたびに私のSISUコンプレックスは深まるばかり。そんな中、最近のエラマではさらにSISUの記事が増えてきました。
これは、今まで避けてきたSISUに向き合うタイミングなのかもしれない。自分を鼓舞してSISUについて調べはじめました。

SISUの定義はフィンランドの中でもさまざまです。最初は、寒い冬の間じっと家に閉じこもるような忍耐力をイメージしていました。ですが調べてみると、吹雪の中をあえて自転車で出勤するような、アクティブな動きを伴った前向きなイメージだと知りました。


SISUを身につける方法もいろいろです。極寒の湖で泳いで身体的にホルモンバランスをコントロールすること、苦手な人にちゃんとNOと断ること、人と支え合うこともSISUの体現だそうです。

そして、私に大きなヒントをくれたのはフィンランドのライフスタイル専門家のモニカさんでした。来日されたモニカさんと京都駅のスターバックスで話しながら「SISUって何ですか?」と尋ねたとき。彼女はじっと考えて、ハッと思い当たったように「…ガンバル!」と日本語で答えてくれたのです。