こんにちは。エラマプロジェクトの和文化担当、橘茉里です。
私の本業は私立高校の国語教師ですが、「国語教師です」と自己紹介をすると、相手の方からこんな言葉をかけられることがよくあります。
「私、国語が苦手だったんです」
さらに、「登場人物の心情を答えなさい、という問題が苦手で」「模範解答を見ても、なぜそれが正解なのか分からなくて」という声をいただくことも多いです。
そう言われたとき、現役の国語教師として、どんな反応をするのがよいのでしょうか。
私は内心で、「うんうん、その気持ち分かる~」と共感してしまいます。というのも、私自身、模範解答に納得できないという思いを、生徒の頃に何度も抱いてきたからです。
だから私は、「国語が苦手だった」という人に対して、「もっとちゃんと勉強すればよかったのでは?」とは思わないんです。むしろ、その人を国語嫌いにしてしまった教え方や、問いの立て方のほうに、見直す余地があるのではないかと感じます。
個人的には、「国語が苦手だった」という言葉の裏には、「分からなかった」というよりも、「納得できなかった」という感覚が隠れていることが多いような気がしています。
そこで今回は、この「納得できなさ」について考えてみたいと思います。
なぜ「登場人物の感情」が腑に落ちなかったのか

「登場人物の心情を答えよ」という問題、あなたは得意でしたか?
物語文を読んで、登場人物の気持ちを問われる。けれど、本文をいくら読み返しても、心情がはっきり言葉で書かれているとは限りません。
そんなとき、「本文に書かれていないのに、どうして分かるのだろう」と疑問を抱いた人もいるのではないでしょうか。
登場人物の心情が明言されていない場合、彼らの言動や描写から心情を推測するしかないわけで、それはあくまで読み手の推測になります。その人物が本当にそう感じていたかどうかは、実は断定できません。そして本文で明言していないからこそ、模範解答と自分の解答にずれが起こりうるわけです。
教員となった今の立場から見れば、模範解答はあくまで「模範」であって、必ずしも唯一の答えではないと分かります。別解が成立する場合もあるのです。
けれど、生徒だった頃の私は、「模範解答=絶対的に正しいもの」だと受け取っていました。
そのため、自分の答えが模範解答と違ったとき、「なぜ私の感じたことは修正されなければならないのだろう」「なぜ私の感覚は間違いだとされなければならないのか」と、強い違和感を覚えていたのです。

今でも印象に残っている思い出があります。
ある物語文に、「ビー玉のような瞳」という表現が出てきました。私はそれを、「きらきらした美しい瞳」というイメージで読みました。子どもの頃の私にとって、ビー玉は光を集めるような美しい存在だったからです。
ところがその問題では、「ビー玉」は安っぽいものを表す表現として扱われていました。
本文に明示された内容を読み違えているのであれば、自分が間違っていると納得できます。けれどこの場合は、「ビー玉=価値のないもの」とは本文では明言されておらず、うろ覚えですが、恐らく文脈から「ビー玉=価値のないもの」と読むべきだったのです。
でも、私はそこで納得がいかなかった。
どうしてこの場面で「ビー玉=きらきらしたもの」と捉えたらダメなのか。そういう解釈も成り立つんじゃないかって、模範解答を受け入れがたかった。
子どもの頃の話なので、事実を歪曲している可能性はありますが、当時の私が感じた違和感や理不尽さは、紛れもなく本物でした。
こうしたエピソードをもとに振り返ってみると、子どもの私が国語の問題に違和感を抱いていたのは、文脈から感情を読み取ることそのものではなく、「この価値観だけが正しい」と、一つの正答に揃えられてしまうことだったのだと思います。
不正解になるということが、単なるミスではなく、「あなたの感じ方は間違っている」と告げられているように感じたからこそ、私は模範解答に強いもやもやを抱いていたのかもしれません。
国語の問題は「正解探し」ではなく「間違い探し」

教員として教材と向き合うようになってから、私は生徒時代とは違う視点で国語の問題を見るようになりました。
定期試験などの試験問題を作る際に重要なのは、「本文から読み取れるかどうか」という点です。
正答になるのは、本文中に書かれていること、あるいは本文の内容から無理なく導けるもの。一方、誤答は、本文には書かれていないことや、そこまで読み取る根拠が見当たらないものになります。
こうして整理してみると、国語の選択肢問題は、「正しい答えを当てるテスト」というよりも、「本文から外れているものを見抜くテスト」に近いのではないかと思います。
評論文の問題であれば、論理が明確なので、本文に書いてあることと、書いていないことの線引きもしやすいです。
けれど、物語文では事情が異なります。登場人物の心情は、必ずしも明言されていないからです。
授業中ならば、「あなたはそう読んだのですね」と受け止められる読みも、試験では○か×をつけなければなりません。
学校の試験では、多様な解釈を正解とするケースが昔より増えていると思います。それでも、模範解答に沿った解答を求める受験の仕組みが大きく変わらない限り、模範解答に違和感を覚える人は、きっとこれからも現れるのではないでしょうか。
国語の読解と「空気を読む」文化の関係
ここで、少し視点を広げてみます。
日本人のコミュニケーションには、「こういう場合、普通はこうするよね」といった暗黙の了解が数多くあります。
はっきりと言葉にされなくても、その場の状況や関係性から意味を読み取ることが求められる。こうした文化は、「ハイコンテクスト文化」と呼ばれています。
英語圏が言葉ではっきりと伝えるローコンテクスト文化であるのに対して、日本はハイコンテクスト文化が特徴です。
例えば、「もし都合がついたら参加します」と言われたら、この言葉はやんわりとした断り文句として読み取る必要があります(本当に参加するつもりのこともありますが)。
相手ははっきり言葉にしていないけれど、「この場面、この文脈ではこういう意味になる」ということを、私たちは自然と察しています。
また、「言わなくても通じる」といった感覚や、表情や間、これまでの関係性から相手の意図をくみ取ることも、ハイコンテクストなコミュニケーションの一つです。
そして、国語の物語文読解で行っていることも、実はこれとよく似ています。
本文に心情がはっきり描かれていなくても、しぐさや描写から人物の心情を推測していく作業は、まさにハイコンテクスト。
つまり、国語の読解とは、単に文章を正確に読む力だけでなく、「この場面では、普通どう感じるか」という暗黙の了解を読み取る練習でもあるのだと思うのです。
もしかしたら、子どもの頃からこうした形式の問題に触れてきたことも、我々の「空気を読む」能力が培われる要因の一つなのではないでしょうか。私はそんな気がしています。
「空気を読む文化」「ハイコンテクスト文化」自体は、私は日本人の誇るべき性質だと思っているので、国語の物語文読解が、もっと生徒に寄り添う形で進化していくことを願っています。
「分からなかった」自分を大切にしてほしい

「登場人物の気持ちが分からなかった」
もしそんな記憶を持っているなら、それはあなたが、いい加減に読んでいたからでも、能力が足りなかったからでもないと思います。
あなたが自分で感じたことを、自分の中でちゃんと大切にしていたからこそ、簡単に「正解」に乗れなかったのかもしれません。
あなたが国語の問題に感じた違和感や苦手意識は、あなたが自分の感性で、その物語を丁寧に読もうとしていた証なのではないでしょうか。
エラマプロジェクトでは、自分らしい豊かで幸せな生き方を探究しています。「自分らしさ」を大切にしているのは、正解の生き方を目指すのではなく、一人一人が自分の感性や価値観に沿って、幸せな生き方を見つけてほしいからです。
これまで、国語の読解問題が解けない自分を責めたことがあったとしたら、今日からはその感性にそっと丸をつけてみてください。
あなたはきっと、自分らしく物語と向き合ってきたのです。そのこと自体がすでに十分、豊かで価値があることなのだと、私は思っています。
Text by 橘茉里(和えらま共同代表/和の文化を五感で楽しむ講座主宰/国語教師/香司)


